公開日記

その名の通りです

19/06/24 : 二話


 私はかねてから仮面の力というものについてをよく考えている。つまり、人は何かを演じるとき、その演技が長くなるにつれて、自分の演じているものそれ自体に、その人の性格が変化していくのである。


 ライナー・マリア・リルケの『マルテの手記』は、私が若い頃から今日に至るまで愛読書であり続けているが、その中にある印象的な小話が挿話されている。

 古い貴族の末裔であるマルテは、ある日屋敷の中でかつての仮面舞踏会等で用いられていた衣装棚を発見する。それからマルテは、やがてそれらの衣装で遊び始める。

 しかし他日、彼がある一つの仮面を被った途端に、それが彼の顔に張り付いて中々取れなくなるのである。それをなんとか取り除けようとして苦戦するさなか、彼はふと鏡に写る自分の姿を見る。

 すると、鏡に映った自分、「仮面」を被った自分が、突如自分だけの人格を持ち始めるのである。やがて鏡に映った「彼」は、マルテの主人格となり、マルテ本体を操り始める。マルテは自分の身体が自分の意志とは無関係に動き始めるのを感じる。

 マルテは屋敷の使用人たちに、この仮面を取ってくれと泣きながら頼もうとする。が、上手く声が出ない。使用人たちには仮面の裏のマルテの顔が見えないから、それを見てただひたすらに笑っている。マルテがふざけていると思ったからだ。

 この象徴的な話の真意が何か。それはわからないが、しかしこの話を踏まえた上で、私は次のことを書くことができるように思われる。

 つまり、人の内部と外部は繋がっているのだということ。


 pは自分の外的な容貌が女性的になるにつれて、自分の本心までもが女性に変化していくような心地を何度か味わった。そして、それは絶えず彼の悩みの一つであった。彼は何度も自分自身を見失うような感覚に襲われた。

 そしてその度に、彼は自身に対してこう呟いた。「私とは何か」

 しかし、内と外の分裂は、それ以外の面でも彼の悩みとして現れていた。


 人の内面は、多かれ少なかれ外面に現れている。西洋の優れた心理小説の作家たちの本を読めば、彼らが登場人物の表情の動きや普段の容貌などから、それら登場人物の心理状態を浮き彫りにしようとしていることに気がつくはずだ。

 そしてそれと同じように、その人の外面は、多かれ少なかれその人の内面を形成していくのである。

 もし人が何らかの「仮面」を被って、自分の本心とは違うものを演じ続けていれば、やがてその人は、自分の演じている「仮面」それ自体の方に、自分の本心が蝕まれていくのを感じるだろう。それこそ仮面を被ったマルテのように、いくら心が泣いているのを感じても、自分の体は笑い続けることになるのである。

 その一方で、その人の本心それ自体は常に変わらずにそこにあり続ける。この矛盾がその人を苦しめるのである。


 pは孤児院出身の人間だった。しかし、何もはじめからそこにいたのではない。彼は孤児院に入れられたのである。

 この話は、はなすと少々長くなる。だから後で述べることにしよう。今はただ、孤児院に入って以来の彼の生い立ちを、簡易的に述べることとする。

pが育った孤児院はキリスト教系の施設であり、その近くにはプロテスタント系の教会が建てられていた。毎週日曜になると、彼は礼拝に出席し、教会で祈祷を捧げた。

 そして多くのカトリック教会には見られないが、プロテスタントには多く見受けられるものがそこには存在した。その教会にはピアノが常備されていたのである。これが彼と音楽との出会いであった。

 しかし、やがて彼は教会を去ることとなった。彼を養子に取りたいと願う夫妻が見つかったのである。

 彼は恐ろしく勉強ができた。そして引き取り先は裕福な、しかし跡取りのない家であった。つまり、彼は将来を見込まれて引き取られたのである。

 これは喜ばしいことであると同時に、彼には厳しく、また悲しいことでもあった。以来、音楽に触れる機会はめっきり減って、日中の殆どを勉学のために用いられたからである。

 退屈で、苦痛な日々が始まった。

 夜中、彼を引き取った両者が眠りにつく頃、彼は部屋の窓辺に立って、ただぼんやりと外の景色を眺め続けていた。そうすると、僅かながらに自分が保たれていることが感じられた。そう、その時彼は、自分が確かに「存在」しているのを感じたのである。

 人間の自我の芽生え、または精神の獲得とは、その人が孤独を覚え始めた時から起こるものだ。この頃から、彼は孤独を愛するようになった。

 そしてこの頃から、おそらく彼の内と外の分裂が始まったのである。

 しかし、やがてそれにも耐えられなくなる時が来た。もはや何もかもにうんざりしていた。彼には、彼にのしかかる全ての「意味」が、重荷のように感じられた。当時の彼には、周囲にある全てのものが、鋭くとがった刃物のように、彼を襲って突き刺しにくるかのように思われた。

 当時の彼には、全ての存在が憎くて、また自分以外の全てが敵であったのだが、そんな敵の誰かと、一度でいいから愛し合いたいと願っていた。しかし、それはかなわなかったのである。彼は誰にも心を開かなかったからである。

 やがて彼は学校を辞めた。これが十六から十七になる頃の出来事である。それと同時に、彼は里親の家をも去った。この時から彼は、月に数万円を支給される以外は、自力で稼いで生きていくこととなる。

 以後、仕送りは受けるが、彼は二度と自分の里親と顔を合わせることが無くなる。やがて自分からお金をもう送らないようにと手紙を出したことで、彼らの関係は終わった。

 それから五年後。彼は今二十二歳になる。相変わらず、彼は十七歳の頃と同じような、あらゆるものが不安定である生活を送っていた。


 少年時代の頃の事だった。自尊心の発作から、彼は湧き上がる怒りを笑って誤魔化す手段を覚えた。他人の前で怒りをぶちまけるのがはしたないと感じたのである。

 しかしそれは逆効果であった。やがて彼は怒りや憎しみに駆られると、ある一つの、特徴的な表情をするようになった。

 右側の口角を上につり上げ、笑顔になろうと努めるが、胸に湧き上がる不愉快な気持ちが抑えきれないあまり、左側の口元はへの字になろうとしているように見えるほど、驚くべき不快感を表している。その様子はモナ・リザに近かった。目には憎悪に濁った、鋭く、燃えるような眼差しを浮かべており、あまりにも不愉快だから、眉間には恐ろしく険しいシワが生まれていた。

 怒れば怒るほど、彼は右の口角をいびつに引き上げた。憎しみに燃えるのが楽しくて仕方ない、まるでそう言いたいような顔をするのである。その顔には、この世界にある全てのものに対する猛烈な復讐心と、そして何より、自分自身に対する耐えることのない憎悪がよく現れていた。

 要するに、彼の内と外は長く分裂し続けていたのである。


 しばらく教会に通う生活を続けていたが、彼自身は決して熱心なキリスト教徒ではなかった。やがて里親のもとで教会に通わなくなることも、ピアノが弾けなくなることを除いては、苦ではなかった。

 彼はパスカルを愛読したが、しかし『パンセ』の中で彼が惹かれたのは、キリス教にまつわる言及ではなく、むしろパスカル本人の鋭い心理観察眼がよく現れた箴言たちである。

 その一方で、やはり神の存在は信じていた。そしてだからこそ、彼は聖書をよく読み、またそれにまつわる作家をよく読んだ。上のように書いたものの、結局は彼がパスカルに触れたのだって、その一環に他ならない。


 学校を中途退学して以来、二年に一度ほどの頻度で、彼は孤児院に顔を出していた。

 そしてこの後、その孤児院で、彼はqという人物に出会う。ここから私の書こうとしている彼の物語が始まるのである。

19/06/23 : 一話

 

 「私とは何か」

 鏡に映る自らの姿を眺めながら、pはふとそう呟いた。


 我々が街中を歩いている時、通りがかりのガラスの上に、ふと自らの反映が浮かび上がることがある。

 そのような時、いつもではないが、彼は何か突然の驚きに襲われることがあった。そこに見出された自分自身の姿が、あまりにも女性的だからである。

 彼の髪は長く伸びていた。やや茶色がかった黒髪は艶をおび、美しかった。そして、彼はそれを幼少の頃から誇りに思っていた。頬はやせこけていて、貧相であるが、男性的な油っぽさがなく、弾力のある肌をしていた。目を覆い隠せるくらいには伸びた前髪の後ろには、臆病そうな、しかし感情の強い人間に特有の、燃えるような瞳の輝きが潜んでいた。

 彼のまつ毛は長く、髭はほとんど生えていなかった。


 歳を重ねるにつれて、彼は女性的になっていった。もとい、歳を重ねるにつれて、彼は自分のうちにある女性的なものを意識せざるを得なくなった。そして歳を重ねるにつれて、彼は自分というものがなんであるのかがわからなくなっていった。

 しかし同時に、彼は自分が異性愛者であるということをはっきりと認識していた。


 私とは何か。これはブレーズ・パスカルの遺稿であり、また彼の主著でもある『パンセ』の中で取り上げられていた主題の一つである。


 時に、人間とは概念によって突き動かされる存在だ。

 例えばひとりの人が何らかの物語に感銘を受けたとしよう。この時、その人は自分自身の行動を、その物語の提示した「概念」に無意識的に自らを合わせながら取ることとなる。つまり、その人はこれから、その人の好きな物語における登場人物の発言や行動、くせ、更には心理状態までをも「真似」し始めるのである。

 別の例えをしよう。

 人が何かに好意を寄せた時、その人は自らの性質を、その好きな対象に寄せようとする。誰かを好きになると、人は自分の好きな相手の趣味を真似たり、相手の言動を真似たり、相手と自分を同じような人間だと考えようとする。この時、恋する人々の身には上の物語の例に近い現象が起きている。

 そして、これらの推論から、私には一つの帰結が導き出せるように思われる。

 我々は常に他者から概念を植え付けられている、または他者の概念を盗んでいるのである。


 「私とは何か」

 彼は自室に備えられた鏡の前に立って、そこに映る自分の姿を眺めながら、再びそう呟いた。


 実際、我々とは一体何なのだろうか。

たとえばそう、もし我々の個性の全てが、外部から与えられた概念によって決められてしまうのだとしたら、どうだろう。そのとき一体、我々は何をもって自分を「自分」と定義すればいいのだろうか。

 人には元々個性が備わっているのではなくて、生きているうちに、人は自らの個性を見出していく。それは丁度、我々に元々生きる意味などないが、生きていく内に、やがて生きる意味を見出すことと同様である。

 時に、我々は絶えず外部から概念を提示されることによって生きている。

 よって、もし我々が外部に対して受動的であったなら、我々は確固とした「存在」を得ることが出来ず、生きる喜びをみいだせないままこれからを生きていくことになるだろう。何故なら、我々は外部の情報をそのままにいきることになるからである。そうなれば、誰も「自分が生きている」という心地を感じることが出来ないであろう。

 一方で、もし我々が自ら概念の獲得に乗り出したならば、つまり外部に対して能動的になったならば、我々は恐らく「存在」を手に入れることが出来るのだが、これには一つの問題がある。

 意味の無い人生は虚しいが、意味のある人生は重く、苦しいものである。時に人は、「意味」の重荷に耐えられないと感じることがある。

 「概念」の獲得に向かう時、我々の身には奇妙な出来事が起きる。つまり、我々の本性には生来的な、ほとんど変わらざると言っていいような性質があり、またそれに合わせて生きていくことしか出来ないのである。

 よって、我々はそれに合うような「概念」を選び採らなければならない。そうでなければ、人はそうありたいと願っている理想の自分と、実際の自分自身とのあいだの誤差に、絶えず苦しめられることとなるだろう。

 しかし、人は努力というものに意味や喜びを見出さなければ、普通好んで努力をしないものである。

 それと同じように、人は自分の人生に、自分の好む「意味」を見いだせないならば、もはや生きていくことが出来ないのである。

 ここで我々に求められているのは、受動と能動の調和である。

 自分の人生の不条理、受け入れざるを得ない事実を認めながら、その上で生きたいと思える自己存在のあり方を見出すということ。それが今の我々に求められている。

 そしてそのためにも、我々には新しい「概念」の獲得が必要だ。また我々は、他人に新しい「概念」を提示する必要がある。実に新しい知識の獲得は、新しい人生の可能性を獲得することに他ならないからだ。


 ここでまた少し話を変えてみようと思う。

 「恋愛」という題材は、よくよく優れ小説の中で用いられるテーマの一つである。しかし、何故恋愛が小説のテーマとして扱われることが多いのか。

 次に私はこのことについてを書きたいと思う。

 アンドレ・ジッドが、かつてスタンダールの『赤と黒』のことを「心理小説の先駆的な存在」として評価していた、という話を聞いたことがある。実際、『赤と黒』の心理描写は驚く程に緻密なものである。

 そしてそんな『赤と黒』は、テーマのひとつとして全編で「恋愛」を取り扱っていることでも有名である。

 また、前述のジッドや、またマルセル・プルーストは、二十世紀前半のフランスを代表する心理小説の偉大な作家として有名である。そしてまた、彼らの作品の中でも、「恋愛」は絶えず一貫して語られ続けるテーマの一つだ。

 これらのことから次のことが言える。

 愛にまつわる問題とは、人間の複雑な心理状態が端的に現れやすいのである。


 人は皆、他人を通して自分の知らない自分自身に出会うことが出来る。そしてまた、他人の言動を見ることで、人は今日までの自分の人生を内省することも出来る。他人がどう見えるかには、自己の内面が多かれ少なかれ反映されているのである。


 さて、生きていく上で、我々は遅かれ早かれ、誰かとの愛の問題に直面することとなる。もし愛の問題に直面したことのない人がいたとすれば、その人の人生はまだ始まっていないのである。

 「愛」と一言にいっても、それは種々さまざまである。恋愛、友愛、敬愛、情愛、性愛、家族愛、宗教的な愛、盲目な愛、肉体的な愛、など。

 しかし、それがたとえどんな愛であろうと、一つのことははっきりと、また確かに言える。つまり、人は皆、誰かとの愛の問題を通して、新しい自分に出会うのである。


 「私とは何か」

 そうpが口にした時、彼は自らの存在について悩みを抱えていた。彼は愛の、そして人生の問題についてを悩んでいたのである。

 しかし、彼はそのような問題に直面した時に、必ず一つの、ある避けがたい症状に襲われるのであった。

 それは恐れである。

 彼は愛の問題について思い悩む時、何か非常な恐れに取りつかれて、臆病な気持ちになった。胸の奥がそわそわして、居てもたってもいられないのである。そして、今回も以前と同じように、彼はそれらの問題について、努めて考えないように、別のことを考えようとした。

 彼は鏡の前を去った。それから、彼は音楽についてのことを考え始めた。

 彼は音楽家志望の青年であった。自分で曲を作って、そして自分でそれを演奏したかった。担当楽器はピアノとヴァイオリンである。

 自室に置かれた電子ピアノの前に向かうと、椅子に座り、彼はおもむろにそれを弾き始めた。主題は特にない、即興である。そうして彼は、自らの奏でる楽の音に身を委ねながら、考えると恐ろしい気持ちになる問題、不安になる問題についてを忘れようとするのである。

 自らの仕事や目標に没頭しがちな人は、時に自らの感情を乱す事柄を極端に疎ましく思うことがある。

 誰かへの愛情に身をこがすことは、彼にとって一つの障害であった。元来感情の強かった彼は、誰かへの愛情によって、また誰かから寄せられる愛情によって、音楽という自らの人生の「仕事」に没頭できなくなることを恐れたのである。


 私はpに話しかけてみようと思う。

 君は孤独だ。友達も少ない。いつも憂鬱そうな顔をしている。自分勝手で、他者との関係を上手く築くことが出来ない。毎日を生きることに精一杯で、君はいつになっても不安定な生活をやめることが出来ないのである。

 君はどうしようもない人間だ。君は自らの居場所のなさを感じながらも、誰かが好んで君に逃げ場所を与えようとすると、むしろ進んでそれを拒むのである。そして、君はそれが正しいと思っている。

 しかし今、君はあまりにも遠い。私は今、君から遠く離れた場所で生きている。この世界は、君からはあまりにも遠いのだ。


 そしてこれから私は、君の、もといpのための回想録を書こうと思っている。

 さて、ここまでの文章を、私はこの物語の序文としよう。そして、そのことを踏まえて、私は次の文句を書き残してから、これらの物語を書き始めたいと思う。

 

 かつて青年だった頃のpへ。

 

(続く)

19/06/22 : Gazpacho - Chequered Light Buildings(和訳)

Chequered light buildings
シマウマ模様に光る建物が
Fallen from the sky
空から落ちてきて
Sway as they climb into your eye
君の目の中に写って揺れる
They're taller now
建物はあんなにも高くなっている…
Everything has changed
今や何もかもが変わってしまった
From an empty frame
虚しく窓の外を眺めると
Stares a distant face
誰かが遠くから僕を見ている

Can he see me?
ねえ、僕が見えるの?
At night and all alone
僕は夜の中で全くひとりぼっちなんだ
When I raise my hand to wave
僕が彼に手を振ると
The face is gone
今度は彼の顔が消えてしまった
Gone
どこへ行ってしまったんだ?

In a flash I see the face is mine
光の中で、僕はあれが自分の顔だとわかった
And swinging from the mantelpiece is why
どういう訳かそれが暖炉の上が揺れている
I said I could go back to the house where all we keep is keeping on
きっと家に帰ればまたいつも通りに過ごせるはずなんだ
Where everyone pretends that they belong and long and long
きっとそこに皆がいて、ずっと僕と一緒にいてくれるはずなんだ

If I tell you what I'm seeing
もし僕が何を見ているかを君に伝えたら
Can you tell me what is true?
君は僕に真実を教えてくれるの?
In the space between our feelings
ここは僕達の感情の狭間
There's a place for me and you
この場所は君と僕のためにあるんだよ
You
ねえ

There's a place for me and you
この場所は君と僕のためにあるんだよ

19/06/20 : 罪、幸福、音楽、笑い、など

罪人の生涯。やがて来る終わりを恐れて、怯えるように生きる毎日。不安に戸惑い、頭を抱えながら、何かから逃げるように生きることの惨めさ。

それが嫌ならば、僕達は偉大なる罪人にならなければならない。

そして偉大なる罪人になるということは、それを乗り越えようとすること。つまり、自分のみじめさを克服しようとすること。高潔であろうとし、勇敢であろうとすること。


幸福とはある種の連鎖反応である。現状に絶えず不満ばかりを述べている人は、これからどんな幸福が目の前にきても、それに満足を覚えることが出来ない。

人が自分の不幸を嘆く時、たいていの場合、その人は自分の不幸を誇りに思っている。


なにかに夢中になれずにいる時、人は好んで何かに夢中になっているふりをするものだ。

そしてそのような人達は、そんな「何かに夢中になっている自分」それ自体に夢中になっていることが多い。彼らはそんな自分を進んで愛そうとし、「夢中になっている自分」を誇張して表現しようとする。

故に彼らは、その実何にも夢中になっていないのである。ただ夢中になっている「ふり」に夢中になっているだけだ。


人はよく、行為に没頭するあまり、目的の方を忘れてしまう。


何かを得る方法は知っていても、それを上手く用いる方法を知っている人は少ない。


実用的でないもののために時間を割くということ、それこそが人の心の豊かさを形成する。

ニーチェが芸術をアポロン的なものとデュオニュソス的なものに分けたのは有名だが、現代人の多くが音楽に求めているもの、それは間違いなくデュオニュソス的なものであろう。つまり、音楽の力強い響きにわが身を任せて、その中で陶酔し、自らの心を奪われるということ。

その点を踏まえると、バッハやドビュッシーの音楽は幾分アポロン的だろう。静謐で、夜の孤独のように美しい音楽、死に近く、沈黙に近い音楽。聴くと清涼な思いで心が満たされる音楽。夢であり、祈りである音楽。

しかしどちらにせよ、音楽が幾分厭世的であり、この世の煩いを癒そうとするものであるということは、疑いようのない事実であるように思われる。


パルムグレン程の優れた作曲家が、何故今日に至るまで有名にならないのか、僕は不思議に思う。

北欧の清純な可憐さと、ショパンの物悲しさ、そしてドビュッシー神秘主義。彼の音楽家ははその三つからの影響を感じ取ることができるが、しかしそこには、同時にそれらから自らを決定的に区別する、独創的な和声感覚が確かに存在している。つまり、彼は一人の天才的な作曲家なのである。


悪とは善の欠如である、アウグスティヌスはそう考えた。

人間は何らかの極限な状態まで追い詰められると、あらゆる道徳を捨てるようになる。


笑いとは、元々確かにあると思っていたものが欠けていることを認識したことによって生じるものである。つまり、笑いとは差別的な行いなのだ。だからこそ、人は他人を馬鹿にするような悪魔的なものに、最もよく笑うのである。

これらのことから、次のことが言える。つまり、他人の笑わせることが上手な人は、多かれ少なかれ、他人を笑いものにしているか、または自分を笑いものにしている。とりわけ、自分を馬鹿にすることで他人の笑顔を引き出そうとしている人が、世にはなんと多いことか。

そして自分を笑いものにしているその人は、次第に真剣に自分自身というものに向き合えなくなっていく。なぜならその人にとって、自分自身とは笑うべきものであり、真面目に取り組むものではなくなっているからだ。


暗闇の心地良さ、憂鬱の快さ、憎しみに燃えることの喜び。


周りに良くしようと思って、かえって周りに迷惑をかけてばかりな人間がよくいる。

19/06/19 : Gazpacho - Upside Down(和訳)

You may believe that your house is bleak and you're leaving
きっとあなたは今、自分が家にいないだけなのだと考えているのでしょう
But there's a gulf between what it is that you see and what you should be seeing
でもあなたが今見ている世界と、あなたが本当に見なきゃいけない世界のあいだには、一つの隔たりがある

You may believe that your house is bleak and you're leaving
きっとあなたは今、自分が家にいないだけなのだと考えているのでしょう
But there's a gulf between what it is that you see and what you should be seeing
でもあなたが今見ている世界と、あなたが本当に見なきゃいけない世界のあいだには、一つの隔たりがある

And you open like a flower
やがてあなたは花開き
And I open too
私もそれに合わせるよう花となる
I have found that what you seek
私にはあなたが何を求めるべきかを知っているの
Is the perfect flower and it is in you
私が花開くためにはあなたが必要なの
And I only wish you knew
でもあなたはそれを知らないままで…

The way I see it (What do you see?)
私に今見えるのは - 君が今見ているのは?
The world is upside down (Upside down?)
世界が逆さまに崩れ落ちている様子 - 逆さまに崩れ落ちてるだって?
Is it me? (Can it be?)
あれが私なの? - あれが君なのか?
Or is it in your hands?
私がどうなるかはあなた次第なのよ

So go on now, sweet prince
だから行きましょう、私の可愛い王子様
and let me lead you on
私があなたを導いて上げる
Close your eyes to blindly look at the sun
盲目に太陽の光を追うことがないよう、瞳を閉じるの
You fall below the silver screen
あなたは今、銀幕の世界から転げ落ちた
Of knowledge it's a perfect dream
もう美しい夢なんて見ることが出来ない

Rubicon's old bridges burn
小河に架かる古い橋が焼け始め
You turn, they are ablaze
あなたは振り返ってその様を見ている
The great divine getting bigger
太陽の光が強くなり始めると
Tears sting your face
あなたは悲しそうに涙を流す

Home to no one, you're nowhere
あなたはどこにも自分の帰る場所がないのを感じている
The sandman takes you there
そして睡魔があなたに居場所を与えようとする
You'll be sleeping on the pillow where night becomes her hair
あなたは枕に埋もれ、女の黒い髪が夜の闇の代わりをする中で眠る
Climbing through the button hole and falling up the stairs
夢の中で、あなたはボタンの穴をくぐり抜け、階段の上をころげおちていく
Go on go on go on
行くの、行かなきゃ行けないのよ

So go on now, sweet prince
だから行きましょう、私の可愛い王子様
and let me lead you on
私があなたを導いて上げる
Close your eyes to blindly look at the sun
盲目に太陽の光を追うことがないよう、瞳を閉じるの…

19/06/19 : 個人的な不安、知性、愛、など

このまま自分が何もなせないまま死んでいくかもしれない。そんな不安に駆られることがある。

不安になると、自分にはあまりにも力が足りない、知識が足りない、という結論にたどり着く。実際、僕には知らないことが沢山ある。自分はなんと未熟な人間なのだろうか。いけない、もっと努力を重ねる必要がある。

そうして焦って読書に励むが、焦るあまり、思うように知識が得られない。どうやら忍耐が要求されているようだ。

より多くの知識を得るために、僕は忍耐しなければならないのである。


恋する人達には、自分の愛する相手の一挙一動が、自分への暗黙のメッセージのように思えるものだ。


さて、人は他人の知らないことを知っている人間のことを、よく博識な人として尊敬する。

これは何故かとなれば、その人が他人には得られなかった知識を持っているからだ。そして何故その知識が他人には得られない様に感じたのか、それはその知識が、得るのに困難するもの、つまり難しくて中々手に入らないものだからだ。

これらの事から次のことが言える。

僕達が優れていると認識する知識は、どれも本来困難なもの、希少なもの、得るのが難しいものなのである。

ここで例え話をしてみよう。

人はよく一途に誰かを愛する人を見ては、その人を他の気の多い人よりも優れているとみなすことが多い。

しかし、よく考えてみればこれは奇妙な現象だ。少なくとも僕は、幼少期に、あの子も好きだがこの子も好き、といったような子供をよく見かけたものだ。

このことからもわかるように、愛とは本来的に連鎖的なものであり、人は複数の人を同時に愛しやすく出来ているのだ。

それなら何故一途な人は尊ばれるのか。その理由は簡単である。それはつまり、こうである。

本来、人は気が多くなりやすい。だから平凡な愛情は、いつだって好奇心以上のものであることがない。そしてそのような愛情ならば、きっと誰だって持つことが出来るだろう。

しかしもし生涯でただ一人の愛し続けることとなれば、これは中々できたものでは無い。何故なら、それは僕達がそうなりやすい傾向から逸れているからである。

だから一途であることは尊ばれる。何故なら一途な愛、誰かに向けられた変わらざる愛とは、困難であり、稀有な、得がたいものであるからである。それが非生命的であり、動物的でないからこそ、一途な愛とは尊いのである。

そう、人間にとって本質的なものとは、皆非生命的なものなのだ。


博識な人間、それは困難な問題に取り組むことの出来ることの人間を指す。僕達にとって必要な知識とは、手を伸ばせばすぐに手に入るものではない。他人では手に入れがたいが、自分の手には確かにあるもの、それこそが僕達の大切にすべき知識なのだ。

もし今それを持っていないのならば、これからそれを手に入れなければならない。つまり僕達は、生きるために、「存在」を手に入れて生き延びるために、困難な問題に取り組まなければならないのである。


聖書を最も誤解しているのがキリスト教徒であるように、マルクスの書物を最も誤解しているのは、他ならぬマルクス主義者である。


多くの人は芸術というものを誤解している。芸術とは戦争なのだ。芸術家にとって制作に取り組むことは、戦場に赴くことに他ならない。世に作品を残すということは、世の中に争いをふっかけることに他ならないのである。

僕達芸術家は、やがて来る世代の人々に大きな贈り物を与えるために、また現在不幸に苦しむ人を幸福にしようとするために、血を流してでも作品を作り上げようとしなければならない。

芸術において、大切なのは血だ。教養などは何の役に立たない。血で理解しなければならない。血で作られたものは、同じ血によらなければ理解できないのである。


知性とは流動的なものであり、一つの場所に留まることをしない。もし一つの場所に留まり続けようとすれば、その人は自ずと知性の純粋さ、そのひらめきの鋭さを失うこととなる。

精神の自由とは自らに厳しい制約を与えることのできる人にのみ許される。


哲学的な探求とは、自分が知恵あるものではなく、むしろ自分が何も知らないのだと絶望することから始まる。

19/06/18 : 後書きのようなもの(小説「肖像画」について)

 これから僕は、また長々と文章を書いてしまいます。しかし、本当はこんなものを書くつもりは更々ないのです。

 僕はまだ未熟な人間です。だからあとがきを書くなんて、なんだかおこがましい気がします。でも語らざるを得ない、そういった感情に強く突き動かされている。だから書くのです。

 なので、どうかご寛容な心で、以下の文章を読んで頂けたらと思います。


 元々、僕はこれをメタ小説として書くつもりでいました。

 作中で何度か名前が出てくるジル・ドゥルーズは、実際に僕のお気に入りの哲学者でもあります。彼はメタ哲学の人(哲学について考える哲学家)としても有名でした。

 それで僕も、彼に倣ってメタ小説(小説を書く人を描く小説)を書いてみようと思ったのです。

 小説の冒頭部分で、語り手である「私」ことBは、この小説の主人公は自分ではなく、自分の出会った若き「彼」、つまりAであると書いていますね。

 これは皮肉です。というのも、僕は「Aを主人公にして小説を書こうとするB」を主人公にした小説を書きたかったのですから。大変ややこしい話ですね。

 この小説はAという人物を通して話が展開されていきますが、その実、主人公はAではなく、Aを通して自分自身を見直していくBなのです。

 それを踏まえて言うなれば、人物設定について、僕はAよりも先にBの方を思いついた。そして物語(ストーリー)の進行も、長年小説を書けずにいたBが、ある一つの大きな事件を通して、再び小説を書くようになる、というものにしようと思った。

 これを起点に僕は小説を書き始めたのです。

 Aについては、始め作者である僕自身の分身として描こうと思いました。そして実際に、僕自身の経験がそのままAに反映されている部分も多いです。

 しかし、僕とAは完全に同一人物ではない。小説を書いていくうちに、結局僕は洗いざらいに僕自身のことを書くことが出来ないと悟ったのです。あまりに恥ずかしくて、そんなことは出来ません。実際、僕の父も母もまだ生きているし、そもそも僕は大学生でもなければ、画家志望の青年でもないのです。

 ところで、僕がAとBのどちらに愛着を持っているのかとなれば、それは間違いなくBです。

 僕はこれをBのための小説だと思っています。この小説の終盤部分、つまり「その六」と「その七」は、作中でも特に好きな箇所です。この点に関しては、本当に書けてよかったと思っている。大変満足しています。その一方で、もっとBという人物を深く掘り下げることが出来なかったのかという点が、僕には残念に思えてなりません。

 無論、Aも嫌いではないのですが、ただ彼の独白の場面は、読み返していると少し恥ずかしい気持ちになってしまいます。あまりにも僕自身の個人的な感情が強く反映されすぎているからです。反省しています。


 さて、では内容に触れていきましょう。

 先ずは冒頭のBの語りの部分では、まだBは情熱のない、精神的におちぶれた壮年者です。しかし彼は小説の進行に従って、次第に過去の情熱と、潔癖さを取り戻していく。そして最後には、再び生きる意志を取り戻して、小説家になることを志す。

 これがこの小説のテーマの一つでもあります。

 つまり、Bはかつての精神の潔癖さを失った代わりに、その後の生活を自堕落に続けることとなる。その一方で、Aは自分の精神の潔癖さを保とうとしたあまりに、自らを死に追いやってしまう。

 Bは、昔の自分に似ているA、まだ純粋さと潔癖さを失っていないAに出会うことで、自分が歩んだかもしれない別の人生の可能性を見出そうとする。しかし、彼は死んでしまう。その影響で、Bは小説を書き始める。

 潔癖さを失えば、人は卑屈に生きることになる。しかし潔癖さが行き過ぎれば、人はまともに生きていくことが出来ない。大切なのはその調和であり、互いに相反する二者の和解である。

 つまりこの小説のテーマは、BがAの死を通して、失われた自己と和解をするという事です。


 小説を読み返してみると、反省すべき点が多々見受けられます。謙遜ではなく、本当にひどい。どうしようもない部分は、本当にどうしようもないくらいにひどい。反省しています。

 もっと構成を変えるべきだった、ここでこう展開すべきだった、この設定(特にBの設定)をもっと掘り下げるべきだった、など。目を向ければ向けるほど粗が出てくる。恥ずかしくて仕方ない。今すぐ始めから書き直したいくらいです。

 しかし、終わり方には満足しています。この点については、僕も誇りに思っている。つまり、書きたいものが書けたのです。

今回のテーマの一つである「メタ小説」は、恐らく成功したと見て良いでしょう。小説を書けずにいた小説家志望の中年男性が、小説を書き終えるまでの過程を描く。これが僕の書きたかった内容なのですから。

 他にも色々と実験を試みた小説ではありますが、それは成功もしましたし、失敗もしました。その全ては書きません。多くを語りすぎるのはいけないことだからです。ただ、そのいくつかをこれから書いていこうと思います。

 さて、これはモノローグ小説でもあります。この点については、丁度書いている時に読んでいたアウグスティヌスの「告白」や、僕が普段から愛読しているリルケプルーストが影響を与えています。

 全てはBの回想を通して語られる。そして、作中で語られる事件は全て起きたあとの事として描かれる。それも断片的に、しかし確かな繋がりを持って。

 ある程度これは成功しているが、しかし僕の愛する作家たち、つまり上記の三人に比べれば、やはりまだ腕が甘い。自分の未熟さを痛感しました。反省しています。

 人物造形についても同様のことが言えます。僕はどうにも同じような人物しか書くことが出来ていない。

 この作品の主要な登場人物は五人(A,B,C,D,E)ですが、その内の三人(C,D,E)はAとBの主観を通して語られている。そして、AもBもどちらも面倒くさい性格をしている。この点が失敗だった。

 CとD、そしてEが上手く描かれていない、とは言いません。しかし、それら三人をAとBの代わりに主点として、果たして物語を書くことが出来るのかとなれば、それは難しい。はっきり言って出来ません。

 この点に、僕は自分の人生経験のなさを見出しました。僕はまだあまりにも知識が足りない。僕はあまりにも、あまりにも未熟な、知恵の足りない、経験のない人間です。もっと多くの本を読み、もっと多くのことを経験しなければなりません。


 小説を書く上で意識していた作家が何人かいます。

 先ず文章の書き方については、モーパッサントルストイを意識しました。彼らに比べると、改行の仕方や、小説の展開の読ませた方がまだ下手くそですが、それに追いつけるようにしたいです。

 次に、小説の冒頭でも触れたプルーストクンデラも意識している。特に彼らの物語の組み立て方を意識しています。パラレルに様々な内容を進行させ、それをパズルのように組み合わせていく小説を書きたかったのですが、それもやはり失敗してしまいました。

 その他にも、ゲーテリルケニーチェドゥルーズキェルケゴールドストエフスキーヴァレリー、など。作中で引用された作家の大抵は意識しています。

 それから「相反する二者の和解」という意味では、やはりトーマス・マンを意識しています。AとBの屈折した恋愛観は、スタンダールミシェル・ウエルベックに負うところが大きいかもしれません。

 また、僕はこれを一種の思弁小説にしたかった。小説という形態をとって思索的な内容を描きたかったのです。それに関しては、やはり僕の憧れる作家たちに比べると、どうしても粗が目立つ。もっと鋭い内容は書けなかったのか。そういった反省の念が浮かんできます。

 それから僕はロシアの作家も非常に強く意識していました。つまり先述のドストエフスキートルストイなどですね。彼らはそれぞれ、文体や小説の表現方法が異なりますが、両者ともに作中の中で様々な題材を採り上げていることでも有名です。倫理、哲学、恋愛、宗教、人間心理、など。

 僕は今回の小説で、もっと倫理や宗教の話を取り上げたかったのですが、それも上手く出来ませんでした。反省しています。

 小説を書いていく上で、小説を書くことの難しさを知ったのもよかった点です。どうやったら読み手を飽きさせずに五十ページ越えの小説を読ませることが出来るかという問題は、やはり非常に難しい。

 ドゥルーズが「哲学は普段哲学に触れない人のために語られるべきものだ」と考えたように、僕も今回の小説を「普段小説を読まない人のための小説」として書きました。それが上手くいったかどうかは、果たしてわかりません。上手くいっていたら幸いです。


 小説以外からの影響も大きいです。作中で取り上げた画家は、皆僕の趣味に基づくものです。デューラー、アンリ・ファンタン=ラトゥール、レオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロフランシス・ベーコン。ベーコンについては同姓同名の哲学者の方も好きですよ。


 それから最近、僕は毎週「さらざんまい」というアニメを楽しみにしてみているのですが、それにも影響を受けています。

 「さらざんまい」は大変謎めいた内容のアニメです。あれを見る度に、僕は果たしてこの短い期間で、あの伏線を全て回収できるのかと疑問に思います。しかし物語の進行と共に、毎話見事に、冗長な表現を取らず、簡潔に、しかも的確にそれらを回収し、たえずこちらを惹き付けるような演出を、「さらざんまい」はしているのです。

 これは盗めると思いました。それで、早速僕もそれを小説で試そうと思ったのです。つまり、本当ならもっと書きすぎてもいい内容をさらっと書くことで、読み手を惹き付け、作品にスピード感を与えようと考えました。僕は絵が描けないから、文章でそれを真似ようと思ったのです。

 そろそろ「さらざんまい」も最終話ですね。どうなるのでしょうか、僕は不安でなりません。


 音楽についても触れておきましょう。最近、僕はGazpachoというノルウェーのバンドの音楽を再発見しました。二年前くらいから存在は知っており、時折聴いていたのですが、その最も良い部分を、僕は聴き逃していた。つまり僕は、彼らの"Night"というアルバムを初めて聴いて、それに衝撃を受けたのです。

 以来、この一週間の内に、一枚目から最新アルバムまで、彼らの音楽を全て通して聴きました。合計で三十時間は間違いなく聴いています。特に先述の"Night"、それに"Black Lily"という曲は、絶えず繰り返して聴きました。この小説の中には、彼らの音楽を聴きながら書いた部分が沢山あります。だから、彼らなしにこの小説は語れません。


 無論、他にも影響を受けている音楽はありますよ。作中で登場させたフォーレは僕の大のお気に入りの作曲家です。シシリエンヌの旋律の美しさは得難いものですが、舟歌前奏曲などの連作の作品も大好きです。

 それから最近になって、アンドラーシュ・シフECMに残したシューベルトの録音が本当に良いことに気が付きました。これも毎日のように聴いています。

 これまではブレンデルの演奏をよく聴いていましたが、もしかするとこのシフによる録音は、数あるシューベルトの演奏の中でも一番のお気に入りかもしれない。シューベルトを再発見する機会が得られたと言っていいかもしれません。これを機にシューベルトを聴き直します。彼の弾いたシューマンも素晴らしかったです。是非聴いてみてください。


 それ他にも、小説以外から影響を受けたものは多くありますが、それは書きません。理由は恥ずかしいからです。ご察しください。


 最後に、この小説は、先述の通り「メタ小説」を書こうという意図に基づいて書かれました。その意図はおおよそ成功でしたが、それ以外には失敗した点も多かったです。

 ただ、次の点には全く満足がいっています。それはつまり、こうです。

 小説の冒頭で、Bは「小説とは作者が体験するかもしれなかった人生の可能性なのである」と書いています。これが僕の書きたかったことの一つなのです。

 実際の作者である僕とBの間には、大きな年齢の隔たりがあります。僕はBより十五も歳が若いのです。しかし、僕はBになったつもりでこの小説を書きました。

 これが一番面白かった。つまりBという存在しない男の半生を、どれだけ本当らしく書くことが出来るかということ。無論、Bにも多少なりとも僕自身の体験したことが反映されています。しかし、僕とBはやはり別人である。まさに実際には体験してはいないが、体験したかもしれなかった人生の可能性を、僕はBを通して書くことが出来たのです。

 この点において、僕は非常な満足をこの小説に対して覚えています。これぞメタ小説です。そしこのメタ小説の中で、小説家になることに挫折した男が、再び小説を書き始め、そしてそれを完成させることで、物語は終わる。この過程こそ、まさに僕が描きたかったものなのです。

 無論、他にもテーマはあります。僕自身の個人的な問題も強く反映されています。恋愛や家庭の問題、性にまつわる問題、対人関係の問題、精神や心の問題、生と死の問題、病気にまつわる問題などがそれです。

 これらの点について言うなれば、その殆どが失敗でした。この小説は失敗作です。僕は自分の問題に、小説を通して解決を与えることが出来なかった。未だに僕はそれらのことについて悩んでいます。だからこれは失敗作なのです。

 そして、これらは今後の僕自身の課題となってくるでしょう。
 
 ただ今は、書きたい終わり方が書けたからよかったとだけ思っています。ただここにも問題があります。昨日から、小説を書き終えたあとの虚脱感、抑うつ状態ともいえるものに襲われて、何も出来ずにいるのです。

 とはいったものの、十月までに、必ずあと二つは小説を書くつもりでいます。どうかまた暖かな目で見守っていただけたらと思います。よろしくお願いします。