公開日記

その名の通りです

18/11/16

そろそろこの「日記」を書き始めてから一ヶ月が経とうとしている。僕は、今日までにも何度か、日記を書く習慣を自身の生活に取り入れたことがあるが、それはいつも一ヶ月程度で頓挫してしまう場合が殆どだった。去年の今頃も、僕は日記を書いていたが、ほとんど毎日書くことができていた訳では無い。これの理由は、決して僕が書くのを怠けていたからではなく、むしろ、あまりにも多くのことを書こうとしすぎたことが原因であった。

このように、自由気ままに文章を書いていると、書かねばならぬと感じる様々なことが沢山頭に思い浮かんで、僕はそれを全て書き留めたいと願ってしまう。その結果、一時間以上その場にしがみついてペンを走らせる、という事も珍しい話ではなかった。無論、そんな事を毎日のように続けていたら、神経は益々敏感になっていき、自分の手で自分の精神を追い詰める事となる。こうして僕は、日記を書き続ける度に、途中で精神の疲労困憊により、それを断念してしまうのであった。というのも、毎日それを書き続けるに従って、次第に内容が極端に、やりすぎなまでに堅苦しい内容になっていき、それに伴い僕自身の精神状態も凄まじいことになるからだ。

リルケの残した唯一の長編小説「マルテの手記」は、僕の愛読書の一つであるが、それが初めて英訳で出版された時、その英題が "Journal of My Other Self(もう一人の私が残した日記)" だったそうだ。それと同じだとは思わないが、僕も毎日のように日記を書いているに従って、僕とは違う僕、日記の中にのみ生息するMy Other Self(もう一人の私)、日記の中にいる僕に、何だか侵食されていってしまいそうな気がする、なんて考えは、少し馬鹿げているだろうか。しかし、もしそのような事が起きたら、つまり日記のせいで現実生活に支障が起きたら、元も子もない。だから、僕は今回の「日記」を書くにあたって、次のような制約を設けることにした。


先ず一つとして、一週間に一度、必ず「日記」を書かない日を設けるということ。これは、僕の他のタスクにしても同様だが、一つのことに熱中し、それに取り組むと、次第に周りが見えなくなって、結局は破滅的な状態に陥ってしまう、とは、僕自身にとってはよくある事なのだ。だから、他のタスクの場合と同様、週に一度、必ずそれに手をつけない日を、どこかに設ける必要がある。そうして、一日だけでも冷静になる必要がある。そうでなければ、再び僕は精神錯乱の絶頂に行き、長い間横たわったまま、暫く身体もまともに動かせないような日々に逆戻りしてしまうだろう。理性を信頼しないということが大切だ。人間は動物であり、ある程度肉体的な感覚を愛さなければ、理性を正常に保つことが出来ない。僕は狂人にはなりたくない、健全で快活な毎日を送りたいのだ。

二つ目として、あまり自分自身の事を書かないということ。しかし、全く書かないという訳ではなく、時には自身の心情を吐露するということ。僕達の意識に表れる感情というものは、常に表層的、または一時的なもので、その裏に潜む無意識的な感情こそが、僕達にとって変わらざる、本質的なものである。よって、一時の感情に身を任せて何かをしたとしても、後になってそれを思い返してみると、いてもたってもいられなくなるくらいに恥ずかしい気持ちになる、ということは、恐らく僕達の誰もが経験したことがあるだろう。このように、僕達の感覚とは、常に僕達自身を欺くのだ。人間の面白いところは、一人の人間の内側でさえ、互いに欺きあい、騙しあってる何ものかが、複数同時に存在している、という事だ。僕達は僕達自身すらをも騙している。だから、感情的になって毎日文を書き連ねる、という行いは、あまり良いことではない。

一方で、常に自分の感情を押し隠せるほど、僕は器用な人間ではない。だから、僕は次のような制約を設けることにした。つまり、週に一度の休暇をとるため、僕は一週間に六日分の「日記」を書く訳だが、直接自分に纏わらない話、たとえば観念論めいた話や、芸術に関する内容などは、『〇〇と××』といった題名をとって、週に四回書くということ。それに対して、自分に纏わる話、つまり僕の過去に纏わる話や、僕の現状、または僕の心情に纏わる話に関しては、もっと自由な題名をつけて、週に二回書こう、ということ。これが僕の設けた制約である。

無論、これはあくまでも目安に過ぎないため、いつだってそのようにしているというわけではない。時には前者の方が多くなるし、また時には後者の方が多くなったりもする。ただ、大体そのくらいの節度を守って書かないと、僕自身が壊れてしまうため、そういった制約を設けたのだ。


真に僕達の心に語りかけてくる書物とは、常にその人の血によって書かれた書物である。技巧的で装飾的な散文などは、取るに足らないものだ。その人が見聞し、経験し、深層心理の奥深くにまで根付いた思想が反映された書物、つまりその人の肉体に流れる血潮の一滴にまで偏在しているその人自身の思想が反映された書物のみ、真に読むに値する。何故なら、そのような書物こそが、真に読者を慰め得る書物だからだ。僕達は本を読む時に、文章を読んではならない、その作者の血を読まなければならないのだ。

僕はこの「日記」を書き始めるに当たって、一つの書物を書くようにこれを書いていきたい、と綴った。そして、もし僕がこれを一冊の本を完成させるように書いていくとするならば、 僕はこの「日記」を、僕自身の血を持って書かねばならぬ。僕は先程、『真に僕達の心に語りかけてくる書物とは、常にその人の血によって書かれた書物である』と書いた。その理由は、その人の血のうちには、その人の経験が存在しているからである。あらゆる芸術作品とは、その人の感情ではなく経験から生まれるものだ。そして、最も多くの悲しみを経験したものこそが、最も多くの人に語りかけるだけの力を持つことが出来る。もし僕が一冊の本を書くとするならば、僕はそれを、本などを読む気力もないほどに絶望の淵にいる人のために書きたいと思っている。そして、僕がそのような時に、つまり本を読む気力もないほどに精神的な苦痛に苛まれている時に救われた本は、いつだってその作家の血によって書かれたものだった。僕は、かつての僕と同じように、『人生はあらゆるものよりも重い』と嘆いている人に、この「日記」がささやかな慰めになればいい、と願うばかりである。

だから、僕はこの「日記」の冒頭で、これを『子供だった頃の僕達のために』、また『未だに子供であり続けているあなたのために、子供時代から抜け出せないあなたのために』書きたい、と綴ったのだ。人は、自分と共通する弱点や苦しみを、他人のうちに見出した時に、初めてその人に共感し、またその人の存在を近くに感じ、何よりも精神的な慰めを得ることが出来る。僕はただ、これを読んでいるあなたに、(たとえこの「日記」を通してでなくとも)そのような慰めが得られるようにと、そう祈願するばかりの者である。


今日の「日記」の記述を、僕はここまでにしようと思う。それから僕は、一日目の「日記」、つまり18/10/18の分の「日記」の最後の箇所に、いまここで、次のような追記をしたいと思う。孤独な人のために、打ちのめされた人のために、悲しみに暮れている人のために、何かに取り残されてしまった人のために、過去の自分自身から抜け出せない人のために、夜も眠れずに過ごしている人のために、僕は、この「日記」を捧げる。そして、もし今これを読んでいる方のうちで、それが私であると感じる人がいるならば、僕はただ、僕の残したこの「日記」が、そんなあなたにささやかな慰めを与えることが出来たらと、そう願っている。

18/11/15 : 勇気を持つということ

真に幸福な人間が至る境地とは、幸福を求めなくなることである。

『幸せになりたい』と言っている人間は、先ず自分の現在を「不幸」だと認識して、それと対照的な存在として「幸福」という存在を見出す。しかし、真に幸福な人間の精神状態には、そもそも「不幸」も「幸福」も、そのどちらの概念も存在しないのである。何故なら、彼は自分の幸福を認識せずに、ただ純粋にその場を楽しんでいるからだ。

一方で、不幸の内から幸福を望む人間とは、皆自分の苦しい現在への償いとして、もしくは過酷な現状を覆い隠し、それとは正反対なものとして、幸福を見いだそうとする。つまり、この「幸福」は「不幸」に依存しているのだ。恐らくこのような不幸依存の幸福志願者は、どれだけの幸福が目の前に提示されようとも、それを自分の過去の「不幸」と比較して、自分の望む「幸福」が完全に実現してないと言って、いつまでも「不幸」のうちに留まることであろう。

逆に言えば、本当の意味で僕達が幸福になるために必要なのは、先に「幸福」を見出して、次に「不幸」を見出すことである。つまり、不幸に依存しない幸福、不幸から独立した存在としての幸福、である。幸福を追い求める、という行為には、既に不幸への依存が見られる。そうではなくて、自分の今楽しんでいる現状に対して、ある日ふと幸福を見いだし、それと自分の苦しい過去を比較して、それを肯定する、このような幸福者こそが、恐らく最も「幸福」をよく味わえている者なのだろう。


これを読んでいるあなたは、僕を『不幸依存の幸福志願者』だと思われるだろうか。いや、まさか。少なくとも、自分ではそのようには思っていない。しかし、もしかすると、傍から見ると、僕はそうなのかもしれない。

ただ、これだけは断っておきたいが、僕は幸福を求めて自分の野心の実現を願っているのではないのだ(以前にも書いた通り、僕には野心があり、成し遂げたい野望があるのだ)。もし僕が自分の幸福を求めるのだとしたら、それは、恐らくここに書くに足らないようなつまらないものだろう。

僕がずっと追い求めていたものは、何も特別なドラマ性があるものではない。それはとても一般的(だと人からよく思われているもの)で、物語にも決して描かれないようなものだ。強いて言うならば、僕は自分をラスコーリニコフだとするならば、僕にとってのソーニャが欲しかったのかもしれない。僕は、ただ仲のいい人間や、家族や、飼い猫や、それらのものに囲まれて、ただ笑って過ごせれば、それにこした幸せはないと思っている。素晴らしいことではないか。生活があり、日常があり、幸福がある。これらは皆、僕にもかつてあったはずのものなのに、一体僕は、何処で道を踏み外したのだろうか?果たして僕は、一体どこで間違えたのか?最近は、よくそんな事を考える。

しかし、もしそんな一般的なもの、幸福なもの、僕が求めていた「皆で何気なく過ごす楽しい毎日」が、実は何処にも存在しないのだとしたら?僕が「何気なく過ごす楽しい毎日」だと認識しているその日々の中で、ある人は嫉妬をしており、ある人は愛憎に苦しめられ、ある人には腹心があり、ある人には下心があるのだとしたら?そして、それに僕が気づいていないだけだとしたら?または、僕がそれに気づかないふりをしていたのだとしたら?そう考え始めた時、僕は一つの答えにたどり着くのだった。それはつまり、「自分の追い求めていたものなど、この世の何処にも存在しない」ということである。


以前、僕は一組の男女の結婚式に参加したことがある。僕はその二人のことが特別に好きだったため、強い祝福の気持ちを胸に抱いていた。しかし、結婚式後の披露宴が始まる前、僕と僕の周囲の人間が二人の近くに集まった時に、僕は新婦の方が、ただ僕にだけ握手を差し伸べたのを知っている。そして、それを新郎がなんとも言えない目付きで見ていたことも。無論、それが思い違いであって欲しいと願うばかりである。しかし、結婚式から一ヶ月後に、僕は二人がまだ一緒の家に暮らしてもいなければ、夫の方が以前よりも僕によそよそしくなった事を考慮に入れると、あの時、あの僕の友人であった女性が、僕の瞳をのぞき込みながら僕に手を差し伸べたあの時に抱いた疑惑が、益々本当なのではないかという考えに苦しめられてしまうのだった。そして僕は思うのである、『もしかすると、自分があの二人を引き裂いてしまったのかもしれない』と。


このような話は、実は他にもある。これはもう何度目かの経験だった。しかし、僕は何も、幸せな人間を不幸せにするために生きているのではない。そんなつもりなど毛頭ないのだ。そうだ、もしかするとこんな話もあるかもしれない。

これはたとえ話だが、ある男が何気なく、気まぐれに仲良くしたある女がいたとして、ある男はその気まぐれのままに、そんな女のもとから去ったとしよう。それから女は酷く傷ついて、好きでもない男に抱かれ、自堕落な日々を送ることになる。この時、果たして悪人はどこにいるのだろうか?あの気まぐれな男なのか?しかし、彼にはなんの悪意もなければ、私利私欲のために何かをした訳でもない。ただ何となくでした行いが、誰かを傷つけたとして、それが彼の罪なのだろうか?

またはこのような話も聞いたことがある。ある人が、自分の望んだ境遇に至るために、他の人を裏切り、他の人を見捨てたとしよう。それからある人は、一度も他の人の姿を見かけたことがないのだが、他の人を見捨てた日から、ある人は他の人の存在が恐ろしくて仕方なかった。彼は今でも、自分の生活している部屋の扉を開けて、突然その人が入り込んでくるのではないかと怯えているらしい。そして彼を指さしては、「お前が全て悪いのだ」とか、そんな事をわめきたてるのではないかと考えているらしい。

上の話は人殺しの心理にも通ずるものだ。ある人が誰かを間接的に殺したとして、その人は自分の殺した相手がちゃんと死んだかどうかを、目の前で確認しなかったとしよう。それからある人は、ずっと自分が殺した相手がまだ生きているかもしれないという思いに怯え続けるに違いない。なぜなら、彼はちゃんとその相手が死んだかどうかを確認しなかったからだ。もしあれが生きていたとしたらどうしよう?生きていて、この俺に復讐をしに来たら?他人から「あいつは死んだ」という情報をいくら聞かされても、この目で確かめなかった彼には、それを信じることが出来ない。今この瞬間にも、「あいつ」が生きていて、俺の背後にいるのではないだろうか、などと思って、彼はふと後ろを振り返ってみる。無論、そこには誰もいないのだが。


そこまではいかないとしても、もしこれらのことが、自分の信じていた「皆が何気なく過ごす楽しい日々」の裏に潜んでいるのだとしたら、どうだろう。ある人が悩み、ある人が苦しみ、ある人が憎み、ある人が嘆くことによって、僕達の生活の表面上の生活が取り繕われているのだとしたら?そして僕が、または僕達の誰かが、それに見ないふりを、ただ気が付かなりふりをしてきただけなのだとしたら?目を背けて、耳を塞いでいるだけなのだとしたら?その時、それでも僕達は、「一般的なもの」を、生活を、日常におけるささやかな「幸福」を、信じることが出来るだろうか。


実をいえば、僕はずっとそういったものを信じたかったのだ。今考えると、あまりにも馬鹿らしい話である。結局僕は、弱さから逃げていたに過ぎないのだ。僕は子供っぽく、子供の世界に留まりたいと願っていた。しかし違う、子供の世界にも、大人の世界にも、僕の求めていたものはどこにも無いのだ。ただ僕自身が、臆病からこれらの事から逃げていただけだったのだ。

恐らく、今の僕に求められているものはただ一つのことに違いない。それは勇気だ。目をそらさずに、耳を塞がずに、前を向いて生きるということ。それほど偉大な行いは、この世に存在しないのだろう。今の僕は確信している、そこにこそ恐らく、僕自身の必然の生き方が存在するのだと。僕は今、運命に恋焦がれている。僕は信じる、自分の運命の行く末が正しいということを。そして恐らく、今の僕に必要なのは、この運命の課す重荷に耐えるということなのだろう。


もろもろの事物のうえに張られている
成長する輪のなかで私は私の生をいきている
たぶん私は最後の輪を完成することはないだろう
でも   私はそれを試みたいと思っている

私は神を  太古の塔をめぐり
もう千年もめぐっているが
まだ知らない   私が鷹なのか  嵐なのか
それとも大いなる歌なのかを

(ライナー・マリア・リルケ、時祷集に収められた詩の一句)

 

 

18/11/14 : 肉体からの反抗

眠りから目覚めると、僕は直ぐに起き上がって、今日を生きようとする。しかし、僕の理性はそのように意志していても、僕の肉体は…決してそれについて来てくれない、ということは、僕にはよくある事だ。僕は朝、目を覚ます。それから起き上がり、するべきことをし、その日の内になすべきことをなそうと願う。しかしどうだろう、身体が動かないではないか。これは一体どういうことだろう。僕は頭の中で身体に命令し始める。動け、動け、動け、動け、動け…十分間、一先ず僕の意識は自分の肉体に「動け」という命令をしてみた。しかしこの肉体は、十分間のうちに一度も、ぴくりとも動いてくれない。おかしい、何故だ。もう意識ははっきりしている、しかし動かない。十分間は長引いて三十分に、それから一時間、それから二時間、と…時にはそれほど動けない時もある。しかしその間に、意識は既にはっきりとしていて、僕はもう数千回も「動け」と命令している。この理性と肉体の内に潜む一つの病気との戦いの末、たとえば僕は朝六時に目を覚ましては、朝八時に身体を起こす…ということも、あまり珍しい話ではない。そしてこの話自体も、同様に珍しくないのだ。

上に書いたような朝の出来事が僕の身に起こるようになったのは、今から五年ほど前である。とはいったものの、五年間連続してこのような症状に悩まされている訳では無い。『これ』が来るのは断続的で、時には一年のうちの春に、時には夏に、時には秋に、時には冬に来て、それから一ヶ月から、長ければ三ヶ月ほどの間、内側に居座り続ける。この症状が始まり出した時は、『動け』と十回ほど頭の中で命令すれば、僕の身体は動いてくれる。しかしやがて、僕の肉体は僕に反抗することを学び始める。十回が二十回に、二十回が三十回に、三十回が四十回に増え、しまいには何千回と『動け』の命令を下しても、彼は動いてくれなくなる。

肉体と理性の分離。肉体の影響なしに理性は存在せず、理性の影響なしに肉体は存在しない。それは相互的な存在であり、互いに支え合うものなのだ。よって、今、僕の理性と肉体が互いに密接な関係にないという状態は、とても不味いことである。お願いだ、肉体よ。動いてくれ。しかし彼は答える、『いやだ』と。何故だ?そう問うても、肉体は何も理由を話してくれない。ただ彼は、僕に服従することを拒むのである、『いやだ』と。疲れているのか?と聞くと、彼は『つかれてない』と答える。ふと僕は、このまま彼が僕の言うことを聞いてくれなくなったらどうしようという気持ちになる。たとえば肉体が、僕の理性の支配に嫌気がさして、僕の思ってもいないような行動を取り始める日が来るかもしれない、と、そのようなことを考え始める。もし彼が、僕が何も言っていないのに、勝手に口を動かし始めたら?もし彼が、僕が何も言っていないのに、勝手に何かナイフのようなものを手に取って、それを誰かに振りかざしたら?もしいつの日か、僕の理性が抱く意識の代わりに、肉体の方がもう一つの意識を持つようになり始めたら?僕は動けない身体を横たえながら、そのような事を考え始める。

肉体的な感覚を愛せない人間は、生を愛することだって出来ない。僕は肉体的な感覚を愛している。そのはずなのに、今、何故か肉体からの反抗を食らっている。何故だ?何故僕の言うことを聞いてくれないのだ?五年間、僕は『これ』に苦しめられている、と書いた。そして五年の間に、僕は一度だって『これ』への対処法を見出すことが出来ていない。僕は今日も肉体からの抵抗を食らった。恐らく明日も食らうだろう。


人間は快楽によって生きる。僕が読書をする際に見出す喜びと、誰かが性的な体験によって得られる喜びとの間には、(どちらも感覚を通して得られる喜びであるから)何の違いも存在しない。

人が何らかの物事を継続して行うためには、そこに何らかの意義や喜びを見出さなければ、決して続かないものだ。

たとえば、ある人は自分の誇り高い心の要求を満たすために、何らかの習慣を毎日のように行う。しかし、たとえ彼がその行いに喜びを見いだしてなくても、彼はその習慣を続けることが出来る。何故なら、そうすることによって、自分の自尊心が慰められるのを感じるからだ。そして、この「誇り高くあること」に対する自意識こそが、彼に間接的な喜びを与える。それ故に彼は毎日のようにその習慣をなしとげることが出来る。

このように、人は何らかの喜びを見出さなければ、あらゆる物事に対して進んで取り組むことをしない。直接的であれ間接的であれ、人が何かの行いを好んでするのには、そこに喜びを見出しているからだ。そして、それが直接的であるほど、僕達はより好んでそれをしたいと思う。直接的なものとは、この場合は「感覚的」と表現したい。

読書、もといあらゆる芸術的な体験は、とても感覚的である。僕達は、自分の視覚や聴覚などを通して、一つの芸術作品に触れ、その中に一つの喜びを見出す。この時、僕達はこの芸術鑑賞という精神的な動作が、実は非常に肉体的な行いであり、むしろ人間の精神と肉体は、常に相互的な存在であり、互いに支え合い、必要とし合っているということに気がつくはずだ。だからこそ、僕は放蕩に耽る人間と、芸術を愛する人間が同じであると考える。何故ならば、彼らはどちらも、肉体的なものを通して精神的な慰めを得ようとしているからだ。だから『僕が読書をする際に見出す喜びと、誰かが性的な体験によって得られる喜び』の間には、『何の違いも存在しない』と、僕は書いたのだ。


人間が罪を犯すのは、人間が利己的だからではない。むしろ、多くの人が抱いている、「利己的である」という人間の本性を、悪と見なそうとする、人間性に対する嫉妬心と復讐心からである。

あらゆる善と悪の価値観は表裏一体な存在なのだ。もし人間のうちにある、「悪」と一般的に見なされる要素を否定したら、その時彼は、自分のうちにある「善」をも否定することになる。たとえば、時に人は欲求に忠実な人間を忌み嫌うが、その一方で、人間の欲望が人間の文明を作り上げたという事実は、もはや否めない事実のように思える。問題なのは、多くの人がそのようなあらゆる事象の悪い側面にだけ注目し、そしてそれを歪んだ方法で用いていることなのだ。そこに人間の罪がある。性欲は悪ではない、性欲がなければ人類は繁栄しないからだ。ただ、性欲が悪となってしまう要因は、多くの人がそれを頂点への集中、未来に待つ存在のための仕事のために用いず、退屈な日常の気慰めにしていることだ。

このように、僕達に必要なのは、善悪の価値観に新しい焦点を当て、新しい解釈を与えることなのだ。対立し合う二者の融和、それらが実はお互いに憎みあっているのではなく、お互いに必要とし合っているのだということに、僕達は気が付かなければならない。それは、理性と肉体の関係にしても同じなのだ。


しかし、何故、何故僕は、このような反抗を肉体から受けているのだろうか?いや、それは分かっている。その理由は、恐らく僕の肉体が、僕の理性の発する命令を、調和できないものとして反発しているからだ。僕は五年の間、自分の理性がいつまでも独りよがりで、肉体と交わってくれないのを感じている。何故だ、何が僕に足りないのだ?五年、五年だ。五年間、僕は理性の不完全性に苦しめられているのだ。何故だ、肉体よ、何故だ。何故お前は僕の言うことを聞いてくれないのだ?何故お前はいつも僕の邪魔をする?僕には野心が、何かを成し遂げたいという強い意志があるのだ。何故お前は、いつもそれの邪魔をするのだろう。何故お前はいつも、僕の理性がこれを為したいという時に、それに反抗するのだ。何故だ、何故だ、何故だ…何故お前は、僕を受けて入れてくれないのだ。何故僕の言うことを聞いてくれないのだ。何故お前はこの五年間、僕の命令を受け入れてくれないのだ。

18/11/13 : Depeche Mode - I Want You Now(和訳)

I want you now
君が今欲しい
Tomorrow won't do
明日ではもう遅い
There's a yearning inside
僕の抱く切望は
And it's showing through
君にも目に見えてわかるはずだろう
Reach out your hands
その手を伸ばして
And accept my love
僕の愛を受け取って欲しい
We've waited for too long
僕達は十分に待った
Enough is enough
もう沢山じゃないか
I want you now
君が今欲しいんだ

My heart is aching
心が痛い
My body is burning
肉体は君への愛で焦がれている
My hands are shaking
指先は震えていて
My head is turning
頭は君のことばかりだ
You understand
わかるだろう
It's so easy to choose
選ぶのは簡単なはずだ
We've got time to kill
僕達は時間を無駄にしている
We've got nothing to lose
失うものなんてないじゃないか
I want you now
君が今欲しいんだ

And I don't mean to sound
僕は別に
Like one of the boys
他の連中のような事を言いたいわけじゃない
That's not what I'm trying to do
そんなつもりは更々ないよ
I don't want to be
僕は決して
Like one of the boys
他の連中のようにはなりたくはない
I just want you now
ただ君が欲しいだけなんだ

Because I've got a love
何故なら僕は君を愛しているから
A love that won't wait
愛は忍耐強くない
A love that is growing
愛は日に日に大きくなり
And it's getting late
この愛はもう手遅れなんだ
Do you know what it means
僕の言いたいことがわかるだろう
To be left this way
僕には君以外の選択肢がない
When everyone's gone
みんなが消えてしまっても
And the feelings they stay
この気持ちだけは消えてくれないんだ
I want you now
「君が今欲しい」という気持ちだけは

18/11/13 : 服従と無理解

多くの若者が求めているのは支配ではなく服従である。もとい、全ての人間は、自分が精神的に帰るべきものを、(こういって良ければ)自分の心の故郷、人生の土台のようなものを求め、必要としている、と言っても過言ではない。いな、それを持たない人間は、人生に対して生き甲斐や、生きる喜びを感じることが出来ない。現代人の多くが病んでいるのはここに由来するように思える。つまり、自分の心の拠り所を、誰もが見出していないということ。


親が子を理解するということは有り得ない。また同時に、子が親を理解するということも有り得ない。子供の人権というものが主張されたのは最近のことであり、そしてその最近の世界に生きているが故に、僕達は一つの事実を忘れてしまいがちだ。つまり、子供は元々親の所有物として扱われており、無価値な道具としてしか見られていなかった、ということだ。

これは発展途上国の例を見ればよくわかる。発展途上国では、子供は親の仕事の生産性を高める道具として、一人の母親から多く出産される。僕達は元々部品として生まれるのであり、他人の所有物として生まれるのである。

しかし、僕達の新しい世代では、無論そんなことはない。先進国では、もはや子供は部品として役割を果たす必要が無いため、自由と権利を手に入れることが出来る。一方で、僕達新しい世代とは、常に古い世代を背景にしなければ生まれ得ない。つまり、たとえ僕達が新しい世代として、「子供が元々無価値である」という価値観を覆そうとしても、この社会は、僕達新しい世代だけでなく、旧世代によっても構成されており、僕達は自分の家族に、旧世代の人間を多く持つことになることだって有り得る、ということだ。

ここで僕が言いたいのは、この旧世代の人間を排除せよ、という事ではない。そうではなくて、彼らに敬意を払い、それ以外の何の感情も抱かずに、彼らのもとから去らなければならない、ということである。何故ならば、僕達からすると非合理的で、間違っているように見えたとしても、そこには何らかの価値が見出されたからこそ今日まで生き残ったものがあるのであり、それが今日までの僕達の世界を支えきたからだ。そして、これら旧世代の人達の功績がなければ、僕達の生きる現代は存在し得ない。だから、たとえ自分では理解できないと思えても、彼らには敬意を払わなければならない。そして、争いを起こす前に、彼らのもとを去る必要がある。

両親に理解を期待してはならない。僕達の中には、恐らく両親が自分のことをちゃんと理解してくれないが故に両親を憎む人もいるだろう。しかし、それは間違っている。僕達は他人なのだ、たとえそれが家族であろうとも。両親は神ではない、彼らが子供の気持ちを何もかも理解するということはありえない。だから、彼らを憎んではならない。子供に必要なのは、両親の無理解に耐え、彼らが報われない愛を子供のために蓄えているのだということを理解し、それに敬意を払うことである。


従順は美しい。僕は反抗よりも従順を好む。何故ならば、多くの場合、自分の権利を主張する反抗は、復讐心や憎悪に基づいて行われているからだ。反抗し、自分の権利を主張する者は、大抵の場合、正当な理由に基づいて反抗を行うのではなく、「気に食わない」という理由を正当化するために適当な理由を見つけて、それから反抗をする。よって、反抗ばかりをし、自分の権利ばかりを主張する人間の多くは、皆怠惰であり、傲慢である。

従順には尊敬があり、愛がある。従順は、自分の従うものを尊敬し、愛し、それ故に従う。または、自分の理解できないものを、頭ごなしに否定せず、ただ黙って受けいれ、徐々に理解できるように努め、それに対して跪く。僕は反抗よりも従順を愛する。

よって、自分が尊敬できず、愛することもできず、また受け入れることも出来ないものに服従することを強いられたならば、その時彼は、その人のもとを去らなければならない。ただ無言で、なんの諍いも起こさずに、去るということ。

18/11/12 : 名誉と愛

女性の多くは愛を求め、男性の多くは名誉を求める。これを最も端的に表している例の幾つかを、僕はこれから書こうと思う。


ジュリアン・ソレルは農家出身の、聖職者になることを志している若者であった。しかし、彼が司祭になる事を求めたのは、決して神への信仰からではなく、むしろより多くの財産の地位が欲しいという野心からであった。細身で、女性と見紛う程に中性的な容姿をした美青年だっった彼は、同時に読書家で、家族から暴力を振るわれずいる時は、いつも本を読んでいた。そんな彼のもとに、ある日好機が訪れた。さる裕福な貴族階級の家族の家庭教師を勤めることになったのだ。そこで彼はレーナル夫人と恋に落ちるのだが、一方で、この二人の恋心には大きな違いがあった。

レーナル夫人は恋を知らない十代の頃に、親の決めた結婚によって嫁入りをした、まだ三十歳前後の女性であった。そんな彼女にとって、まさにジュリアンは初恋の人であり、またジュリアンにしてもレーナル夫人は初恋の人であった。しかし、この二人の間には決して越える事の出来ない溝があったのだ。レーナル夫人が初恋に酔っている頃、ジュリアンはレーナル夫人への猜疑心や、より大きな名誉を求める野心に苦しめられていた。「あの女は俺をはめようとしているのか?」とか、「これで貴族階級の女を手に入れることが出来れば、男として箔が付く」とか、純粋にレーナル夫人へ惹かれる想いと同時に、彼はそんな疑惑や思いに駆られていた。また彼は、不幸で軽蔑され続けてきた人間の常として、自分よりも幸福で、尊敬されている人間達を、皆心のどこかで漠然と憎んでいた。だからこそ、そんな不幸な平民出身の彼が、幸福な貴族出身の女性を手に入れる事には、普通に恋が叶う以上の喜びがあったのだ。それは自分に力があるという確信から得られる喜びである。これはジュリアンによる間接的な復讐でもあった。つまり、軽蔑されるような自分が、尊敬されるような人間を、この手で汚し、自分のものにするということ、これはジュリアンが抱く貴族階級に対する復讐心を満たすことに繋がったのだ。このように、ジュリアンは恋心と同時に、常に野心を、名誉心を胸に抱き続けていた。

一方、レーナル夫人は違った。いくらジュリアンとの愛が彼女に深い喜びを与えようとも、彼女は人妻の身であった。経験なカトリックの教徒でもあった彼女にとって、離婚などは許されず、やがてはジュリアンとも別れる時が来たのだが、別れた後も、彼女はずっとジュリアンのことをおもっていた。しかし、その頃のジュリアンと言えば、侯爵令嬢のマチルドを口説き落とし、彼女と結婚することで正式に貴族の仲間入りを果たすところであった。自分の野望の実現が目の前に迫った矢先、それを聞きつけたレーナル夫人は、なんと一通の手紙を書いて、マチルドの父に二人の婚約を破棄させてしまう。その内容は、かつて彼女とジュリアンが不倫をしていたというものだった。ジュリアンはそれがレーナル夫人の仕業だと知った瞬間に、馬車に乗り、急いでレーナル夫人のいるもとへと向かう。そして、教会で祈祷を捧げている彼女に向けて、銃口を突きつけ、引き金を引いたのだった。

殺人は未遂に終わったが、レーナル夫人にとってはこれが、つまりジュリアンに殺されそうになったのが、全く幸せだった。彼女はジュリアンに殺されることを願ったのだ。これは、この愛は、ジュリアンのそれとは全く別である。ジュリアンにしても、いくら胸の内に野心を秘めていたとて、レーナル夫人をかつては心から愛し、その後も彼女との思い出を人生で最も最良な部分として、彼女の存在を慕い続けていた。ただ彼は、彼女よりも自分の名誉心を優先させただけだ。一方でレーナル夫人は、自分が将来により大きな存在になるかどうかなどは全く気にも止めず、ただ愛するジュリアンと二人で満たされた生活ができればそれでよかったのだ。だからこそ彼女はジュリアンに殺されることを願った。というのも、人が愛する人に対して最も恐れている態度は、憎まれることではなくて関心を寄せられないことだからだ。そして、自分の想い人がこのまま自分を除いて幸福になるくらいならば、彼女は自分と一緒に相手が不幸になってくれることを求め、そしてそのまま二人で一緒に死んでしまうことを求めたからだ(もしジュリアンが彼女を殺したならば、ジュリアンの死刑は免れないだろうし、何よりもそうすることによって、レーナル夫人はジュリアンの人生においても最も意味があり、関心を寄せられる人物に変貌することができるからだ。つまり、無関心とは正反対に位置する存在に、彼女は殺されることによってなることができるから)。


このように、名誉を求める男性と、愛による完結を求める女性との間では、おそらく多くの悲劇がうまれるのだろう。その事を、トルストイも自身の小説の中で伝えている。

青年貴族のヴロンスキーは、軍人であり、出世することを願う野心家であった。そんな彼が、自分のかつての同僚でありながら、彼よりも先により高い地位に昇った友人と、久しぶりに再開した時、その友人は彼に、おおよそ次のようなことを言った。「出世を望む男にとって最も邪魔なのは、恋愛である」だからこそ彼は、ヴロンスキーに結婚することを薦めた。自分の身を落ち着かせて、恋人にも適当な地位をあげれば、思う存分に自分の仕事に打ち込むことが出来る、というわけだ。

ヴロンスキーは、カレーニンの人妻アンナとの恋に夢中であった。そして、ヴロンスキーは彼女の故に、やがて軍を辞めた。まさに彼の友人の言う通りであったが、それから彼は他の仕事について、そこでも野心に燃え始める。仕事は日に日に大きくなる一方で、そこにも一つの問題が生じていた。それは恋人アンナとの関係によって生まれたものであった。ヴロンスキーは、アンナの事を愛しながら、常にアンナのことで悩み、アンナをおそれ、アンナを疑い、そして時には、アンナを疎ましく思った。この「疎ましく」という言葉が非常に大きな意味を持っていることに、僕はここで言及したい。それは嫉妬心から来る憎しみなどではなく、純粋な敵対心から来るものだからだ。男性が女性を恐れる場合、それは自分の人生を狂わせ、自分の人生計画を破綻させる存在、自分の自尊心をことごとく傷つける存在として恐れる。そして男性が(恋人である)女性を疎ましく思う場合、それは自分の人生計画を破綻させ、自分の邪魔をする敵として疎ましく思うのだ。だからヴロンスキーは、アンナを愛しながらも、心のどこかでアンナを敵対していた。野心に燃える彼にとって、常に野心の邪魔となる彼女の存在は、自分の最も愛しい存在であると同時に、自分の最も恐るべき敵でもあるのだった。かといって、彼はアンナがまだカレーニンと別れてくれてもいないので、彼女と結婚することも出来ないでいた。こうしてヴロンスキーは、常に愛と名誉心の間で悩み続けるのであった。

18/11/10 : 普遍的な美と気高い心持ち

普遍的なものは常に善悪の彼岸に存在する。半永久的な存在、普遍的な真理、不滅なるものは、常に人間の善悪の価値観では捉えられないものである。普遍的なものは善にも悪にも属さない。それはあらゆる人間的な価値観を超越した、非人間的な存在であり、僕達を滅ぼすことも容易いと知る存在、人間の期待を裏切り、人間の都合に合わない存在である。


リルケは、『ドゥイノの悲歌』の中で天使を絶対的な美の象徴として扱っているが、とりわけ第一の悲歌の中では、もし天使が彼を抱きしめることがあるならば『そのより烈しい存在に焼かれて滅びるであろう。何故なら美は/恐るべきものの始めに他ならぬのだから』と書いている。だからこそ『すべての天使は恐ろしい』と彼は続ける。

この普遍的な存在、永久的な美への彼の想いが端的に現されているのは、第七の悲歌の終盤部分である。『おお思いたもうな、私が求愛(もと)めているのだと。/天使よ、そしてたとえ、私が御身を求愛(もと)めたとて!御身は来はしない。なぜなら私の/声は、呼びかけながら、押し戻す拒絶(こばみ)に常に充ちているのだから』

これは、何らかの形で芸術的な体験をした人間なら誰もが共感してくれるものだと思うが、真の美とは、人間の常識の皮をひんむいた所に存在する、実に強烈な存在であり、もし僕達がそれに触れてしまったなら、僕達はその存在の強烈さのあまり、自分自身をやき滅ぼして、精神を狂い錯乱状態で死に至るような、そんな恐ろしいものなのである。自分がやがて死に至る存在として、不滅なるものに憧れ、永遠なる美に恋焦がれた人間ならば、きっと僕の言いたいことが分かるはずだ。僕達は美しいものに惹きつけられながらも、その僕達を容易に狂わせる存在、強烈でありながらも魅力的な存在を、どこまでも恐れるのである。何故なら、この普遍的な美とは、僕達の人生を狂わせて、全てを台無し、精神錯乱の状態に僕達を追い込むことを容易いこととしているからである。

そして、リルケは普遍的な美の象徴として「天使」というものを扱った。だからこそ、彼は詩の中で、天使に求愛しながらも、その愛しくも恐るべき存在によって我が身を滅ぼすことを恐れて、美しい天使が来ることを『拒絶』するのである。


僕達はあらゆる物事に対して、常に解釈者であることが強いられている。僕達は何らかの対象を、常に自分の主観を通さなければ理解できないからだ。そして、この主観には、多かれ少なかれ必ずその人の恣意性が存在している。この恣意性とは、言い換えればその人の個性でもある。その人の解釈が一般的な世間の偏見で溢れていれば溢れているほど、その人の個性もまた一般的である。

よって、僕達の見聞するあらゆる知識、体験は、僕達自身の内側が豊かになればなるほど、より多くの意味を持って語りかけてくる事となる。たとえ一つの些細な出来事であろうとも、その人の内側が豊かであるならば、それは大きな存在として働きかけるだろう。一方、その人の内側が貧しければ、それは一つの些細な出来事以上の、小さな存在以上のものとならないのだ。言い換えればこれは、その人の持つ観点が変われは、そこに一つの新しい解釈が生まれる、という事でもある。

僕達に必要なこと、それは常に物事に対して新しい解釈を与えようとすることであり、そのためにこれからの人生を創造していくことだ。僕達の人生は、常に変わらないひとつの存在として僕達の眼前に横たわっている。問題は、それをどう解釈するかだ。それを肯定するか、否定するか。それもどのように肯定するか、またはどのように否定するかによって、その人の人生に対する向き合い方は変わってくるだろう。そして、最も豊かな解釈、最も意味のある解釈にたどり着くために、僕達はこれからの自分の人生を、これまでのものを土台として、創造し直し、また創造していくのだ。


僕が思うに、これまでの歴史を動かしてきた要因の一つとして、常に全く新しい解釈者がいたということが挙げられるのではないだろうか。つまり、新しい道徳の、新しい人間のあり方の、新しい人間の無意識の提示者、新しい人間の生きる価値観の創造者がいたからこそ、僕達は今日まで生きながらえてきた。そして現代に必要なのは、この新しい解釈者、全く独自な道徳の価値観の提示者なのだ。

普遍的なものは、常に変わらずに存在する。ただ僕達人間が、それを時代毎に異なった解釈をしているだけなのだ。僕達が見出すべきなのは、新しい人間のあり方であり、新しい道徳の解釈の仕方だ。現代人の多くは、背徳的であることに価値を見いだしている。まるで、背徳的であることがより退屈でない、価値のある人間であることの証明であるかのように。

先述の通り、普遍的な美とは、常に人間の善悪の彼岸に立つものだ。そういう意味では、文化と倫理は一致しない。芸術は道徳的であることが出来ないのだと言っても、恐らく過言ではない。かといって、それは「芸術とは退廃的である」という意味の言葉ではないし、それに僕は「否」を唱える。問題なのは、現代人の多くが進んで退廃的になろうとしていることであり、それが文化的な、または芸術的な行いなのだと勘違いしていることだ。


ニーチェは言った、元々多くの言語においては「良い」という言葉の起源が「高貴な」という意味の言葉であると。僕達は善良であることに誇りを見出す必要がある。というのも、現代人の多くは、「一般的であること」を恥としており、また「一般的であること」と「普通に、健康的に生きること」を同一視しているからだ。そして、「特別であること」を求める彼らは、そのまま善良であっては決して「特別」にはなれないから、背徳的であろうとする。それなら僕達は、その反対のものに誇りを見出してみてはどうだろうか。つまり、善良であること、道徳的であること、清く正しくあろうとすることに、再び誇りを見出してみたいとは思わないだろうか。今こそ、「良い」という言葉の本来の意味に立ち返るときなのではないだろうか。つまり、善良であることと、高貴であることが、同義であったという事実に、今こそ立ち返るべき時なのではないだろうか…