公開日記

その名の通りです

19/01/18

自分はずっと間違っていたのかもしれない、最近はそう思う時がよくある。しかし、どうかこれを読んでいるあなたには、僕のこういった考えが自己批判的な感傷や、悲観的な内省だと思わないでほしい。僕はこれを、静かに、しかもはっきりとした意識を伴って感じているのである。僕はずっと間違っていたのかもしれない、と。

果たして僕の何が間違っていたのだろう?街中をとおりすぎる人々を眺め、彼らの生活模様を観察するにつれて、僕はそのような考えに襲われ始めた。果たして僕の何が間違っていたのだろう。彼らにあって、僕に足りないものとは何か。何故僕は、彼らの持つものに手が届かないのだろう。僕に欠けているものとは、一体なんなのだろう。

しかし、正直に言ってしまえば、僕は自分に何が欠けているのかがわからないのである。何故彼らにできて、僕には出来ないのだろう。僕にはそれがわからない。僕達は同じ人間ではないか。僕と彼らの間に、果たして一体何の違いがあるのだろう。もう何年もそれに手を伸ばしてきた。しかし一度も、僕はそれを手に取ることが出来なかったように思える。

一体僕の何がいけないのだろうか。僕は生活をこの上なく愛している。多くの偉大な芸術家ですらなし得なかった偉業は、この世に常に変わらずただ一つだけ存在し、それは生活を生き抜くということである。生活を生きるということは、立派な、偉大な人間のみが成し得る業ではないだろうか。

僕は生活に馴染もうとした、しかし、生活は僕を拒んだのである。

僕の何が間違っていたのだろう。何故僕には生活が手に入らなかったのだろう。何度もそう問うてみるが、僕には未だにその答えが出ないのである。

そうだ、僕にはずっと、自分の何が間違っていたのかがわからないのである。何故僕には、生活を生きることが許されないのだろう?僕にはどうしてもそれが分からない。

受け入れるということ。一つの道を辿っても、決してその先にたどり着くことが出来ないのならば、他の道から、遠回りをしてでも、その先に向かおうとしなければならない。今、僕には自分が選びたかった道を蹴る決心がある。そして、僕は再び危険な賭けに出なければならないのだろう。

僕は、自分の弱さを受け入れなければならない。そして、その弱さを踏まえた上で、どう生きるべきかを考える必要があるのだ。

(僕がそれを拒み続けたのには、一つの理由がある。それは、人が自分の弱さを正当化すると、そんな自分とは反対の立場にいる人間を悪として責めることが、よくあるからだ。彼らのしている行いは、自分と同じ弱さを持たない人間に対する嫉妬と復讐心であり、また彼らに対する憎悪である。無論、それを否定するつもりはないが、僕にはそれが誠実な態度だとは決して思えなかったし、今でも思えないのである)

ずっと前から、僕は既に自分の変わる時が来たことを感じている。しかし、僕はそれを未だに拒み続けているのかもしれない。


僕は、夏に恋焦がれていた。今も瞳を閉じれば、僕はこの頬に愛撫のように湿った夏風を感じることが出来るように思える。燃え盛る蒼穹と、その蒼さに共鳴するかのように揺れる山々。それらは皆、太陽の日差しを身に纏っている。まるでこちらを威嚇するかのような強さで僕達を突き刺す陽の光。しかしその時に覚えるのは痛みではなく喜びである。僕達はあの空や自然と同じ様にその炎に焼かれ、身をねじらして喜びの叫び声を上げる。情熱がこの心臓を焦がし、この全身の血管は炎を巡らせ始める。荒々しく、野蛮な大地に促された今、感覚の全ては夏を讃え、夏を歌い始める。


時に人は生きる上で、悲しみか喜びかのどちらかにしがみつき、その反対のものを否定し、それを忘れることで、それから逃れようとし、そうして自分の人生を生きやすいものにしようとする。

しかし、人は皆、喜びか悲しみのどちらかしか選べない、ということが不可能なのである。

なぜなら、喜びに固執し、その反対の悲しみから目を背け続ける人は、崩れかかった幸福にしがみつき続けることで、再び悲しみを味わうことになるだろう。また一方で、いつまでも悲しみの中に留まり、悲しみに依存し、また悲しみを常に求め続ける人は、不幸な自分自身に対して、密かな喜びを感じることを禁じ得ないだろう。

しかし、僕達に必要なのはそのどちらもではないのだろうか。僕達は皆、泣くことを知らなければ笑うことも知らない。そして真実を知った時、僕達は初めて嘘の存在をも知るのである。そのどちらかに生きることは出来ず、そのどちらかを強調しすぎることも正しくないのである。僕達はその二つを同時に生きる必要があるのだ。

怒りに心を燃やし、悲しみに胸を引き裂かれ、喜びに口ずさみ、情熱に手を震わせる。静謐な知恵の豊かな楽の音と、けたたましい感情の張り詰めた轟音。信頼と猜疑、大胆さと繊細さ。無謀さと臆病さ、笑い声と泣き声。愛と憎しみ、生と死。

これら全てが揃ってこそ人間なのではないのだろうから。そして、これら全てが揃った時にこそ、僕達は真に幸福を味わえるのではないのだろうか。


僕はずっと、生きることに恋焦がれている。しかし未だに、僕は自分の生を生きることが出来ないのを感じている。そして、今のままでは、僕はこれ以上、生きていくことが出来ないように思われる。

このままならば、僕はもう生きられない。僕は再び生き方を変えなければならない。

19/01/17 : 苦しみと救済

僕達は皆、誰も僕達自身のことを知らない。もとい、僕達は生涯『自分とは何者か』のといに対する答えが出せないのかもしれない。そこには二つの弊害があるからだ。

まず一つは、僕達人間が、自分自身に対してすら嘘をついてしまうということ。そして二つは、僕達は自分の無意識に潜む主観の偏見を通さなければ、何も理解し、また把握することは出来ないということ。

 

誰をも憎んではならない。そして、誰をも憎まずに、自分自身の運命を受け入れるということ。それは、恐らく非常に困難なことなのだろう。


人が何らかの「罪」と呼ばれる行いをした時、その人を苦しめるのは、その行いそれ自体ではなくて、「罪」と呼ばれる行いの、その名称である。

一つの単語、一つの物事を表す名称には、必ずその意味が伴う。言い換えるならば、一つの物事には、必ずその内容としての意味、または概念が伴うのである。そしてその概念は、その物事を表すために、様々な意味合いを含んでいる。

多くの場合、人は「そうせざるを得ない」が故に、その行いに移る。よって、客観的に見れば、その行いそれ自体にはなんの罪もないように思えるものも多い。しかし、それにもかかわらず、その人は罪の意識に苛まれる。何故か?それは、その人のなした行為は、一般な人々が常に「罪」という名称を伴って呼ぶような行いだからだ。

名称には、それを表すための意味や概念が常に付きまとう。そしてそこには、今日までのその意味や概念にまつわる偏見が、多分に含まれているのだ。多くの人が用いるその名称には、それを表す意味や概念が含まれている。そして、その意味や概念は、常に多くの人と共有している考え、意見、偏見が、多分に含まれている。

たとえ、それがいくら「仕方のないこと」で済まされそうな行いでも、その行いが「罪」という名称で呼ばれるならば、その人は罪の意識に苦しむことになる。なぜならば、その人の行いには何らかの名称が伴い、そしてその名称が「罪」ならば、それが悪であり、いけないことだという偏見、一般的な意見、大多数と共有している考えが、その「罪」という名称のうちに存在しているからだ。


誰をも憎んではならない。なぜなら、多くの場合、人は「そうせざるを得ない」が故に、その行いに移るからだ。

そう考えてみると、全てが必然なのかもしれない。しかし、全てが必然なのだしても、またはそれが事実なのだしても、僕達はその「必然」という事実に、果たして耐えることが出来るだろうか?あの苦しみも、あの悲しみも、あの絶望も、あの恐怖も、そして今の苦しみも、今の悲しみも、今の絶望も、今の恐怖も、皆、全て必然だというのか?そんなの、耐えられるわけがない。そう考える人の方が、圧倒的に多いだろう。


人が善と悪について考える時、先に善を見出す場合は稀であり、ほとんどの場合、人は先に悪を見出すのである。なぜなら、人は自分を苦しめる存在、自分に敵対する存在、自分を嘆き悲しませる存在を見いだした時にこそ、善と悪についてを考え、そして自分を苦しめる存在をこそ、「悪」と見なし、それを忌み嫌うようになるからだ。

しかし、この善と悪の価値観はどこまでも恣意的なものであり、その根底には、常に悪に対する復讐心が満ち溢れている。善は悪に復讐する存在として発明され、この道徳的な価値観は、悪への復讐を常に目的としているからだ。

ところで、人の欲望とは、その欲望が望むとおりに実現したとしても、その人を満たさないものなのだ。なぜなら、その人がその欲望を抱く時、そこにはそれの実現する様を思い描く理想があり、想定された「復讐」があるからだ。そして、現実にそれが起きた時、その人は頭の中で自分の思い描いていた「復讐」と、実際に起こった復讐が、多かれ少なかれ違うということに気がつく。そしてこの差異が、たとえどれほど僅かなものであろうとも、それへの執着が強ければ強いほど、その人は、この理想と現実の違いに耐えることが出来ないのである。

よって、実現した「復讐」は、それを望んだいたのにも関わらず、その人の心を満たさないために、その人はより多くの復讐を願い、より大きな欲望を抱くようになるのである。

それを踏まえても、人が最も満足を覚えるものとは、常にその人の思いもよらないものなのだと考えるのは、恐らくそう的外れな意見でもないはずだ。

ここまで来れば、悪への復讐心に基づく善悪の価値観が、たとえどれだけ悪を苦しめようとも、それへの罰をやめることが出来ず、むしろ益々憎悪の過激化を招くということが、誰の目にも明らかであろう。よって、この悪に基づく善悪の価値観、悪を復讐するための恣意的な価値観は、あまりいいものとは呼べないのである。


人が自己存在を安定させるためには、何らかの価値観の基盤を、自分の行動や考え方の基盤となるものを見出す必要がある。よって、生きていく上で、誰かを恨み、その悪を責めることによって生きていくということは、決して罪なことではないのだろう。そうするのも仕方の無いような悲惨さが、この世には蔓延っているからだ。

しかし、その価値観が、誰かを恨み、自分の憎む対象を責めることによって成り立っている価値観が、何処までもその憎まれ、恨まれている悪への復讐心に依存していることは、もはや疑うまでもないことである。

そして、その満ち足りることの無い復讐心を基盤とした価値観と、それに基づいて人が生きる時、その人が正しい選択を見誤り、またどんどん得られたはずの幸福への可能性を殺していき、抜け出せない生の悲劇の舞台へとその人を上げてしまうということは、どうにも否定のできないように思われる。

(しかし、やはりこれもまた「そうせざるを得ない」場合がほとんどなのである。この悲劇もまた、「必然」なのかもしれない)

だからこそ、僕達は誰をも憎んではならないのだ。


しかし、だれがそれに耐えることが出来よう?苦しくて苦しくて仕方の無い現実を誰かのせいにしないで、どうやって生きていくことが出来るだろう?全てが必然?馬鹿げている。もしそうだとしたら、こんな苦しみに満ちた人生を、何故そうまでして生きていく必要があるのだろう。仕方の無いこと?あんなふうに自分を苦しめた人間がいるのに、それを「仕方の無いこと」として諦めるなんて、なんて馬鹿げた話だ。僕は、私は、俺は、自分を苦しめたものが憎くて仕方ない。自分の今が苦しいのはその存在のせいだ。許せない、絶対に許せない。

そうだ、誰が「必然」に、「そうせざるを得ない」の現実に、それら全てを含んだ運命の重さに、その運命の課す苦しみに耐えられるのだろう?または、どうすれば僕達は、それに耐えられるのだろう?どうすれば、どうすれば僕達は、それに耐えられることができるようになるのだろう?

つまり、これら「必然」の、「そうせざるを得ない」の、運命の与える苦しみに、どうすれば僕達は、耐えられるようになるのだろう。

その答えは簡単なのかもしれない。

それは、誰も恨まなくなり、また誰も憎まなくなるだけの幸福を、喜び、またはその二つに満たされた現在を、獲得することである。そして、そのような瞬間、過去の苦しみや悲しみの全てを肯定出来るだけの瞬間を、現在でなくとも、やがてくる未来のいつの日かに手に入れることが出来ると、信じることである。また、それだけの喜びと楽しみが、いつか必ず自分の元にやってくると、信じ、また考えることである。それが全てなのだ。


黄金や宝石の価値とは、それに実用性が全くない所にある。芸術には生活的な実用性が皆無である。しかし、人は実用的なものではなくて、無用なものによってこそ、心の満たされるのを感じるのである。

その人が生きていく上で、一見すると無用に見えるものこそ、その人の精神世界を形作るものだ。無用であり、実際的でないものに価値を見いだし、それによって慰めを得る。それこそが人間なのである。

ある人の個性とは、その人が常に愛し、また求めているが、一見すると生活に全く必要のないように思われるものにこそ、秘められているものなのだ。

だからこそ、意味の無いように思えるもの、実用的でないも、生活に必要のないように思えるものに、価値を見いだせた時、その人の心は、何らかの潤いを見出し始めるのかもしれない。


ある人が魅力的であるためには、ある人が常に与えられるものではなく、常に贈り与えるものである必要がある。そして、贈り与えるものこそ、能動的であるものこそ、真に心の豊かな、幸福な人なのだ。

与えられることを求める人は、たとえその望んでいたものが与えられたとしても、それに満足することが出来ない。なぜなら、与えられることを求めている人は、実際にそれが与えられたとしても、自分の頭の中で望んでいた場合と、実際に起こったそれとの間に微細な違いがあり、またそれに気づいてしまうがため、欲しいものが与えられたとして、完全にそれに満足することが出来ないのである。

だからこそ僕達は、与えるものである必要がある。僕達を照らす光が見えないならば、僕達自身が光となればいいのだ。光となって、誰かを照らせるような存在になること。宝石や黄金、または太陽のように、誰かを照らし、輝きを与えるものになるのだ。それが実用的であるとか、無用であるとかは関係ない人間の幸福について考える時、それは全く意味の無い問いだからだ。

ここで僕達は、一つのあり方が求められる。つまり、受け入れる事と志す事、この二つを両立させるという事だ。

自分の運命の苦しさを担い、それを必然として受け入れるということ。そしてさらに、これからを生きるということを志す事。与えられた人生をそのまま受け取り、今度は自分自身が与えるものに、何よりも喜びを与えるものになることを、意思するということ。生に対して受動的であると同時に、生き抜くということに能動的であること。

少なくとも、今の僕には、僕たちの苦しみが報われる方法は、これしかないように思われる。


誰をも憎んではならない。そして、もし本当に誰をも憎んではならないのならば、僕達は誰も憎まなくていいだけの現在を勝ち得るしかないのだろう。過去の苦しみを担いつつ、この先を歩むしかない。それしか残された道はないのだ。

そして僕達は、これまでの人生と同じどおり、このたった一つである選択肢を選ぶか、または選ばすに同じ場所に留まろうとして、現状にしがみつくか、それしか出来ないのだろう。

大体の場合、僕達の現在とは、いつだって僕達の望まないものによって形成されているものだ。そして、僕達の生きる今は、多くの場合、かつての自分では思いもよらなかった「今」なのである。

おそらくこれからも、僕たちの未来はいつだって思いもよらないものなのだろう。そして、いつだって人生が用意している選択肢は一つなのであり、それは、そんな思いもよらない「今」を受け入れて生きろ、ということである。

そして、そんな苦しくて仕方の無い「今」を生きる方法、それは、誰かから救われることを求めるのではなくて、むしろ自分が誰かを救えるだけの存在になることを、求めることなのだろう。

19/01/16 : Pain of Salvation - Winning a War(和訳)

Once there was a world out on these fields, that was untouched
かつてそこには無傷な汚れなき大地が広がっていた
Grateful for its love we thanked the earth that gave so much
大地の恵みに感謝して、僕達は心からこの地上を褒めたたえていた
And oh, I loved it so!
そして僕も、どれほどそれを愛していたことか…

Once there was a pair of eyes, unbroken just like my heart
かつてそこには、この心のように病むことを知らない二つの目があった
Belonging to a father and his son, now torn apart
父なる神とその御子を信じていた彼の心は、今引き裂かれた!
And oh, I loved him so!
ああ、僕がどれほど神を愛していたことか…

"Why, mommy? Tell me
『どうして?お母さん、教えて
why daddy is walking away
どうしてお父さんは行ってしまったの…
- leaving me!"
僕を置き去りにして!』

I remember birds of pray,
僕は覚えている、祈りの鳥達が飛ぶそばで
dark shadows piercing the ground!
暗闇がこの地を突き刺し始めた時のことを!
Faceless men came shouting about a pride
顔なしの男がプライドについてを叫び始めて
to which we were bound
僕たちの生き方を縛り付け始めた
And oh, I searched for him so!
そして僕は、神の面影を見失い始めた…
"Faith darling, have faith my son!
『信じて欲しい、可愛い我が子よ
Your daddy is winning a war..."
『君のパパは戦争へ勝ちにいったんだ…』
"...for you!"
『君のためにね!』

Daddy need me,
お父さん、僕を必要として
love
僕を愛して
and lead me
僕を導いて
Your superseding war
あなたの代わりとなった戦争は
won't feed me!
僕を満たしてくれない

Watch fathers and sons pale cling to their guns
父と子たちが蒼白になりながら拳銃にしがみつく様を見よ
Marching line by line leaving reason behind
理性を置き去りにしながら、彼らは列をなして行進をしている…
Their eyes now tensed with fear ;
その瞳は恐怖から涙ぐむ
enemies are near
敵が近づいてきたようだ
But all armies are
でも戦場にいるのは
only fathers and sons...
どうやら父親とその息子だけらしい…

Ahhhhh!!!!!

Earth bleeding through their proceeding
父と子の争いに大地は血を流し続けている
All greedy vultures are needing war
全ての強欲なハゲタカどもが必要としているのは戦争だ

War!!!!!

Dad
お父さん…
- who is winning a war?
だれがこの争いに勝ったの…?
And dad
お父さん…
- who is it for?
僕達はなんのために争っているの…?
I won't shed a tear
僕はもう涙なんて流したくないよ
- I won't show no fear!
もう怖がっている様子なんて見せたくない
Won't disappoint you dad
どうか失望しないで、お父さん
(all greedy vultures need war)
(全ての強欲なハゲタカどもが必要としているのは戦争だ)
I won't miss you dad!
僕は寂しくなんてないよ…!


...I'll shut down...
もうここで終わりにしよう…


...but daddy, I miss you so
…でもお父さん、やっぱり僕は寂しいよ…!
And I need you here
僕にはあなたが必要です…
- dad I'm alone here and
お父さん、僕は独りぼっちなんだ!
Daddy,
お父さん…
I'm losing your war out here!
僕はもうあなたと争うこともできないんだ!

Daddy need me,
お父さん、僕を必要として
love
僕を愛して
and lead me
僕を導いて
Your superseding war
あなたの代わりとなった戦争は
won't feed me!
僕を満たしてくれない

19/01/15 : Pain of Salvation - Oblivion Ocean(和訳)

Sleep is too quiet
眠りはあまりにも静かで
Dreams are too painful
夢はあまりにも痛々しく
Truth is the bed of this ocean of lies
真実は嘘の海辺のベッドの上に
Sinking through layers of untouched oblivion
死の忘却の淵へと沈みながら
Soaking from spirits
亡き魂達の涙に濡れる
But still far too dry
まだ乾くことも無いまま…

Losing all barbed fences
有刺鉄線を取り払いながら
Lucid - no defenses
澄んだ世界へと向かう

"Where is my mother?"
『お母さんはどこ?』
The child asked the soldier
子供は兵士にそう尋ねた
The soldier was watching them
兵士は母子(おやこ)を見つめながら
both fade away
二人が消えていくのを見送った…
Nine words create an oblivion ocean:
九つの言葉が忘却の海を生み出した
"Dad tell me, will I be dead very long?"
『お父さん、僕はずっと死んだままなの?』

Losing
失いつつある
all I lived for
僕の人生の全てだったものを
Losing
失いいつある
all I fought for
僕が今日まで戦い守ってきたものを…

Oh god
神よ
if you save them
もしあなたが救ってくださるなら
I swear I'll always hold them in my hand
僕はいつだって二人を抱きしめて離さないのに
Oh god
神よ
if you save them
もしあなたが救ってくださるなら
I'd take them west
僕は妻と息子を西へと連れていき
We'd start again
またみんなでやり直すのに…
in the promised land
…約束の地で

When life is wearing thin
生きることが苦しい時
we pray
僕達は神に祈る
The gods are close at hand when man is astray
人生に思い悩む時、神は僕達に手を伸ばす
But when it all is said and done
しかしもし既に神の御業の全てが働かれたあとならば
Is he to thank
彼は感謝するべきなのだろうか
the gods for just taking his son?
神が自分の息子を奪ったことを

Sleep
眠りは
is too quiet
あまりにも静かで
Dreams are too painful
夢はあまりにも痛々しく
Truth is the bed of this ocean of lies
真実は嘘の海辺のベッドの上に
Words can create an oblivion ocean
語られた言葉は忘却の海を生み出した
"Dad tell me, will I be dead very long?"
『お父さん、僕はずっと死んだままなの?』

Losing
失いつつある
all I lived for
僕の人生の全てだったものを
Losing
失いいつある
all I fought for
僕が今日まで戦い守ってきたものを…

Oh god
神よ
if you save them
もしあなたが救ってくださるなら
I swear I'll always hold them in my hand
僕はいつだって二人を抱きしめて離さないのに
Oh god
神よ
if you save them
もしあなたが救ってくださるなら
I'd take them west
僕は妻と息子を西へ連れていき
We'd start again then
またみんなでやり直すのに…

Oh god
神よ
if you save them
もしあなたが救ってくださるなら
I swear I'll always hold them in my hand
僕はいつだって二人を抱きしめて離さないのに
Oh god
神よ
if you save them
もしあなたが救ってくださるなら
I'd take them west
僕は妻と息子を西へと連れていき
We'd start again
またみんなでやり直すのに…
in the promised land
…約束の地で

19/01/15 : 新しいものへの戸惑いと不安について

僕は今日まで穏やかな生活を、平穏であることを強く求めてきた。ささやかな生活を築くということは、僕の今日までの人生における変わらぬ願いの一つだ、そう僕が言えば、きっとそれを笑う人もいるだろう。しかし、生活があり、幸福があり、命があるということ、これは素晴らしいことではないだろうか?

しかし、それと同時に、僕は自分のこの願いが、どこまでも絵空事であるということをも知っているのである。


人の善悪の価値観、物事への善し悪しの価値観は、大体の場合、悪の対象を見出すことによって成り立つものだ、とは、今日までに何度か書いてきた。つまり、自分が疎ましく思っているものをまず初めに見つけて、それに対立するもの、間違ったものの誤りを指摘するものを、人は「よきもの」として認識しがちなのである。

僕の願い事が、これと同様なのは、はっきり言ってしまえば、僕はずっと前からわかっている。僕が平穏な生活や、穏やかな、平和な幸福を願い求めている理由は簡単であり、僕自身の生活が、常に目まぐるしい変化と運動の中に置かれているからだ。

そして、それに苛まれ、そしてそれによって精神を病んだ者は、自分を苦しめるそれを「悪」と見なし、その正反対に存在するもの、つまり変わらない、何の闘争も苦悩も伴わないもの、平穏に満たされた静かな幸福を、彼方に存在する「善」として、追い求めるのである。

この程度のことは、ずっと前から分かっていた。ただ、僕自身がそれを認めたくなかっただけだ。だから、くだらない自己分析はこの辺りで終わりにしよう。


人の欲望の対象は、他人からの影響によって左右される。人は、自分自身と外部(他人)を比較することにより、自分の望むもの、追い求めるもの、欲望の対象を見出すものだ。

一般的な幸福に対して憎しみを抱く人の多くは、元々それを楽しんでいる人たちを憎んでいる傾向にある。そして時に、人は嫉妬から誰かを憎むことがある。それは、その人が自分の楽しめない喜びを楽しんでいるからであり、また自分が決してその喜びを楽しめないからだ。

または、人は自分を退屈にさせるが故に、それらのものを憎む。

人の欲望は、常に外部によって左右される。そして、自己と他者を比較して、比較した他者の味わう幸福、当たり前であり、誰にでもあるようなものを、憎み、退屈であるとして忌み嫌うようになることが多い。

一方で、僕は彼らのそのような態度を、完全に否定することは出来ない。人の不幸がそれぞれ違うように、本来、人の幸福もそれぞれ違うものであるはずだからだ。だから、一般的な幸福や、当たり前の幸福のようなものが存在するという考えが、そもそもの誤りなのかもしれない。

しかし人は、時に他人が羨んでくれないものを、幸福として認めたがらないものなのである。疑いようのない幸福が現れるのは、自分の生きる外部ではなく、自分の内部だけであるのにもかかわらず。


何故多くの人々は、次のような生活に耐えられるだろう?僕は今、自分の生活が一種の過渡期を迎えていることを感じている。僕は今、再び自分の生き方を変えなければならない。

あらゆるものは変化し、動き続ける。そんな中で、僕は常に変わらずにあり続けるものを、動かずにじっとしているものを、自分の心の確かな拠り所を求め続けていた。しかし、もし僕がそのようなものを手に入れてしまえば、僕は現状に満足してしまい、再び内側にこもり続け、もう二度と何の活動もしなくなるだろうということも、僕は内心でずっとわかっていた。

今日までの短い人生の中で、僕は幾度とない生活の変化を経験してきた。そして時には、自らそうすることを意志した。もとい、意志せざるを得なかった。なぜなら、そうしなければならないほどに、僕自身の生活が追い詰められていたからだ。

今、僕は再び変わることを求められている。僕は変わらなければならない。そうしなければ、もう僕は耐えられないからだ。


虚偽と嫉妬。多くの人が恐れるのは、憎悪よりも無関心である。そして、人は時に、他人の関心を引くために、普段なら思ってもいないようなことも言うし、事実ではないことを事実のように振る舞うのだ。

人は多かれ少なかれ、生きていく上で嘘をつくことが強いられる。だから、僕は嘘をつくことが悪であるとは思わない。なぜなら、僕も嘘つきだからだ。しかし、嘘をつくならば、少しはばれにくいような嘘をつくべきであるように思われる。というのも、ひとは時に、わざと他人にばれるような嘘をつくからだ。

そして、そのような嘘をつく理由は簡単であり、それは他人の気を引くためであり、または自分の虚栄心を満たすためであるからだ。そこに潜んでいるのは、自分に関心を寄せない誰かへの嫉妬の感情であり、または自分が他者に対して感じた嫉妬から自分の虚栄心を守るための防衛本能のようなものである。

虚しい。あまりにも虚しい。このようなくだらない、おままごとのように安っぽい誰かの演技を、ずっと眺めて生きていかなければならないのだろうか?容易に見抜けるような他人の嘘と、それを生じさせた虚しい嫉妬と、馬鹿げた虚栄心の争いに、僕はずっと囲まれていなければならないのだろうか?

もううんざりだ。僕には、もう、耐えられない。そんな三流の役者たちによるメロドラマに、僕も参加しなければならないのだろうか?

誰かが誰かに好意を寄せる。しかし相手から思うような関心が寄せられないから、あえて相手の自尊心を傷つけるような振る舞いや言動をする。または相手に冷たい態度をとる。これが何度も、何度も目の前で繰り返される。

ああ、なんて馬鹿げた話だろう。見ているだけで、僕は胸の内が虚しさと寂しさでいっぱいになる。僕はずっとこの繰り返しに耐えなければならないのだろうか。僕はとても悲しいし、寂しい。

しかし、恐らく僕は、これから生きていく上で、これにも耐えなければならないのである。


今の僕に求められていることは一つである。それは、自分のこれまでの夢を、犠牲にするということ。


どうしていつも幸福な時間は一瞬なのだろう?僕はよく、次のような場面を見かけてきた。そして、それを見かける度に、とても虚しい気持ちになった。

たとえば、一人の人間と一人の人間が知り合い、仲良くなり、楽しく談笑する。この時、そこにはささやかな友情があり、それがその場にいる二人の人間の心を満たすのである。

僕が思うに、他人に対する憎しみや嫉妬の感情は、その人と一緒にいる時よりも、むしろその人から離れている時に生じるものであり、しかも離れている時間が長ければ長いほど、それは大きくなるものらしい。

二人の人間がその日の会合を終えたあと、次第に一方ではその時の喜びが冷えていき、相手への嫉妬や憎悪、そうでなくとも何らかの複雑な感情が、芽生えてくる。せっかく得られた友情は、こうして少しずつ冷えていき、彼らの友情はよりよそよそしいものに、互いに相手の腹をさぐり合うようなものに落ち着いていく。

こうして、せっかくの単純な喜びは、人々の生活から失われていくのである。ああ、どれほど僕がこのような人々のやり取りを見て、虚しく、また悲しい気持ちになったことか。どうして兄弟姉妹が互いにかかわり合うことは、こんなにも難しく、複雑な問題なのだろう?


僕は自分の穏やかなものへの願望や、ささやかな生活への夢を、特におそらく、「家庭を持つ」ということへの夢を、捨てなければならないらしい。

そもそも、もし僕が自分の野心のために、自分の理想のために生きるのだとしたら、自ずと一般的な生活が手に入らなくなるということくらい、最初から分かっていたのである。しかし、それもずっと認めたくなかったのだ。

僕には帰るべき場所が、故郷が、家族がない。しかし、もし一度それを見出してしまったら、僕がもう二度と理想を追いかけなくなるということも、ずっと前から気づいていたことである。僕は恐らく、やっと手に入れることのできた自分の幸福にしがみついて、その場から離れずに、その幸福な生活の内側に、ずっとこもり続け、そこに依存するだろう。

僕は前に進まなければならない。僕は信じなければならない、自分の本当の幸福が将来に待っているのだということ。もうずっと前から、僕は自分の人生が取り返しのつかないものだと思っている。もう後戻りなど、初めから全てをやり直すことなどできない。僕は飛ばなければならない。


そして、もし僕が飛ばなければ、他の誰かが僕の代わりに飛ぶのである。誰が飛ぶのかは、神にとっては重要ではない。神はただ、「飛ぶ」という行為が行われることだけを求めている。それが僕であろうか他の誰かであろうかは、あまり神の興味をそそらないのである。


おそらく僕は、自分にあまり自信が無いのだろう。そして僕は、前に進むのが怖いのである。

僕はこれから、長い、長い旅をすることになるだろう。僕はまた、何かを失ってしまうということが、とても怖い。僕は家族も、友人も、財産も、将来も、一度失っている。これ以上、僕は何も失いたくない。もう寂しい思いをしたくないからだ。静かに、そして優しく、また永遠に、僕は誰かと愛し合いたい。

しかし、これが自分の一時的な感傷に過ぎないということも、僕はよくわかっているのだ。


自分を大切にするよりも、自分を傷つけた方がずっと道徳的だ。僕はよく、そのようなことを考えている。そして、今の僕に必要なのは、傷つくことを覚悟できるだけの勇気なのだろう。

19/01/14 : Pain of Salvation - Leaving Entropia

Walk with me
僕と共に行こう
And see the world I see
そして僕の目指す世界を見て欲しい
It is our home
そこに僕達の築く家庭がある
It's where we all belong
そこに僕達の居場所があるんだ

Life is flair
人生はまるで
A brittle dress we wear
脆く、すぐに破れそうなドレスのようで
A fleeting sigh
消え入りそうな命の光は
But though pointless it may seem...
まるで無価値なように思えてしまう
Live as death were but a dream
死んだように生きるなんて、思い違いでしかなかったんだ

You don't have to walk their way
もうこんな道を歩まなくていいんだよ
You don't have to watch the show
もうこんな場面を眺めなくていい
You don't have to play their game
もう戦わなくてもいいんだ
And you don't have to die to leave entropia
君はもう、死ぬ事でこの現代社会から逃れる必要もない…

All remains...
何も変わってなどいない…
Forgotten smiles in frames
けれど額縁に飾られた二人の笑顔は忘れ去られ
Two fleeting lives
二人のさまよう魂は
cut down to pocket-size
ばらばらに切り離されてしまった…

Walk with me
僕と共に行こう
And change the world we see
そして僕達の生きる世界を変えよう
We'll cease to be
もう僕達は
Just people passing by
赤の他人のように振る舞う必要もないんだ
Home is where we all get by
二人の行く先に、二人の家庭があるのだから

You don't have to cry for more
もうこれ以上泣かなくていいんだよ
You don't have to have it all
もう何も抱え込まなくてもいい
You don't have to win a war
もう争いに勝つ必要も無いんだ
If death is but a dream
もし死が悪い夢でしかないなら
Then don't let me...
どうか僕を…

...fall asleep
…眠りに落とさないで

19/01/13 : 悲しんでいる人へ(受動と能動)

受け入れることと意志すること。その二つが生きる上で非常に大きな課題であるように、僕には思われる。つまり、受動的であると同時に能動的であることを、両立させる必要があるのだ。


悲しみがその人の身を襲った時、その人は悲しみに対して無防備であり、そして悲しみに対してされるがままであることしか出来ない。そして、そんな悲しみに襲われた後、たとえその人が意図せまいと、その人は何らかの形で変わることが強いられる。

これが運命というものである。僕達の生き方は、自分以外の存在からの影響によって成り立つ『そうせざるを得ない』により構築される場合がほとんどである。

どんな人間であろうと、人の感性は常に相対的であることが強いられる。その人の幸福の感じ方は、その人の不幸に対する認識の在り方によって変化する。

多くの人が最も恐れている不幸、それは退屈であり、倦怠である。小説的な性格をした女性の多くは、将来有望で全く健康体な若者と結婚するよりも、貧乏で先の見えない大学生と屋根裏部屋で餓死することを求めるだろう。何故なら、彼女たちは、自分の普段の生活に対して退屈を覚えているからだ。

単純なものを信じるということ。人間は、普遍的なものを信じることによって、つまり初めて確固とした自己を確立することが出来る。

より大きな自己存在を手に入れるということに、人は最も幸福を覚える。


一つの悲しみを経験した時、その人の感性は、多かれ少なかれそれに基づいたものに変化する。

悲しみが僕達を襲った時にするべきこと、それは感傷に浸ることでも、他者からの慰めを求めることでもない。その悲しみを、じっとその身に受け止めて、悲しみと独り、向き合うことだ。


悲しみがあなたの身に襲いかかった。今、それは、悲しみは、あなたの生活の一部となった。あなたはそれから逃れることが出来ない。あなたは変わることを強いられる。それから逃れれば、やがてくるより大きな未来の不幸のために、あなたは燃える炭火を自分の頭の上に置くこととなるだろう。今、あなたがより幸福に生きたいと願うならば、あなたに残された道と、あなたに残された選択肢はただ一つなのであり、それは、独りで注意深くあることである。


悲しんでいるあなたを、容易に慰めようと近づいてくる輩を警戒しなさい。彼や彼女は、あなたの敵である。彼らの正体は、あなたに馴れ馴れしく触れ合ってきて、あなたの堕落を求める、そんな薄汚い連中なのだ。

孤独な人は、普段人と関わらないから、何か偶然誰かと話し込む機会に恵まれれば、途端に話し相手に心を開いてしまい、その人に自分の親友になることを求めるものだ。

悲しみの中にいる今、あなたは自分の悲しみを、誰も理解してくれないと嘆くことだろう。だからこそ、あなたは誰でもいいから自分を理解して欲しいと願い、どんなに安っぽい関係でもいいから、誰かと居たいと願ってしまう。

僕の兄弟姉妹よ。もしあなたが誰も信じられないことに苦しんでいるならば、より単純なものに、より素朴なものに近くあることを心がけてみて欲しい。貧しい人達が、その貧しさ故に日常のささいな出来事に耳を傾け、そしてささやかな生活のうちに人生の喜びを見出すように、あなたも悲しみのうちにある今こそ、そうすることを学ばなければならない。

あなたの心とあなたの孤独は、あなたの身に引き受けた悲しみによって、極度の貧しさのうちにいる。あなたの感性は今、どんなに安っぽい慰めでも求めてしまうほど、追い詰められたものとなっている。

そんな今だからこそ、あなたは、ちょうど子供の頃にそうであったように、ちょっとしたことや単純なこと、素朴な出来事、普遍的な何かに、簡単に喜びを見出すことかできるだろう。


僕の愛する人よ、僕の言うことを、どうか信じてほしい。あなたの悲しみは、今あなたの運命の一部となった。あなたは今、多かれ少なかれ、自分の将来をその悲しみ抜きに語ることが出来なくなった。そして今、その悲しみから抜け出して、あなたが再び将来に幸福を覚える方法、それも以前よりも一層豊かに覚える方法が提示されたのである。それは、あなたの悲しみを、じっとその身に引き受けるということである。

僕にはあなたの悲しみは理解できない。なぜなら、人がそれぞれ体験する出来事は、たとえどれだけ似通った事例どうしの場合でも、それぞれ少しずつ違いが存在するからだ。だから、人には人の、異なった不幸が存在する。

人の不幸は、人の数だけそれぞれ違う。しかし人の求める幸福は、だいたいの場合、共通しているのである。

何より、僕達の意識の間には、それぞれ壁が存在する。だから、たとえどれだけ理解しようと努めても、僕はあなたの不幸を、その通りに理解することなどできない。しかしそれでも、僕はあなたの悲しみにそっと触れることは出来る。理解が出来ないからこそ敬意を払い、黙ってあなたの悲しみに耳を傾けることは出来る。そして恐らく、僕達に出来る慰めは、それくらいしかないのだろう。

僕にはあなたを救うことはできない。あなたを救うのは、恐らくあなた自身なのだ。しかし、僕はあなたが自分を救うに至るまで、共にいることは出来る。あなたの悲しみは、あなた以外の誰も理解することは出来ない。しかし、僕には、あなたが自分の悲しみを担えるようになるまで、励ますことは出来る。

僕達は、悲しむ誰かを救うことなど決してできない。しかし僕たちは、悲しむ誰かが悲しみを克服する手助けを、またその案内をすることが出来るのだ。

あなたは孤独である。そして僕もまた孤独である。僕達は孤独であることしか出来ない。しかしそれでも、お互いの孤独からそっと手を伸ばし、そして誰かに優しく触れること、それなら孤独な僕達にもできる。そして、その触れ合いには、いたわりがあり、敬意があり、優しさがあり、そして愛情がある。これだけでも充分ではないだろうか。僕達は孤独である。しかし僕達は、お互いの孤独からそっと、しかし力強く、誰かを愛し求めることが出来るのである。

そして、このような希望を、孤独であることしか出来ない僕達に残された希望を奪う存在は、この世のどこにも居ないのである。そして今、僕達は孤独の中にいながら、そのような希望を持つ幸福が与えられているのだ。これは素晴らしいことではないだろうか。この世から、あなたの希望を奪う存在は、どこにも居ないのだ。


だから、悲しみを受け入れて、その先にある将来を意志するということ、それをどうか恐れないで欲しい。過酷な冬がすぎれば、やがて春が来るだろう。そして始まりの春が終われば、そこには美しい太陽の輝く、青い喜びに充ちた夏が、薔薇の咲く、愛と情熱に充ちた夏が待っているのである。

今、悲しんでいるあなたの将来は約束された。あなたの苦しい冬の先に、僕は美しい夏の日差しが待っていることを知っている。そして、あの夏の日々の喜びを、あなたから奪う存在はどこにもいない。ただ今は、辛抱強く悲しみにもちこたえるだけだ。