20/02/25

 早朝、世界が薄明に染る頃。全てのものが詩的に彩られてゆく時刻。漂う靄が、辺りを幻想的に色付けてゆく…… 空気は冷たく、冬の静けさが私を酔わす。息を吐く度に、物憂い感情が、言葉にならないまま、私の口から漏れ始める。

 ふいに空を見上げる。明け方の薄紫が、遠くの光の中に消えていくのが見える。まるで夢を見ているような気分だ。そして私は、この甘い夢から、あまりにも快い夢見心地から、二度と覚めたくないような気がした。


 様々な考えが頭に去来する。これまで読んだ本の一節たちが、私を訪れては去ってゆく。何ものも留まってくれない。何もない、私の傍には何も。

 ふと愛読していた本を開く、まるで何かにしがみつこうとするかのように。追い詰められた指先が、震えながらページをめくる。該当するページを見出し、それを貪るように読む。少し、心の安らぐのを覚える。しかし、こんな事をして何になるのだろう?そのような思いが思い浮かび、数ページ読んだ後、その本を閉じる。

 ドストエフスキーが『未成年』の中で描いていた一場面が頭に浮かぶ。主人公がある登場人物の家を訪ねる。彼らは取り留めもない話をする。しかし、主人公の訪れた彼は、まるで独り言を言うかのような口ぶりである。用を済ませ、気まずさを感じていた主人公は、彼の部屋を去ろうとする。はじめ、彼はそれを承諾する。しかし、主人公が帰ろうとしていると、ふと引き止めて、言う。「もう少しだけここに居てくれませんか」……確かこのようなセリフだったはずだ。それで主人公はもう少しそこに居ることにする。しかし、やはり何を話していいか分からず、少し話した後、改めて彼らは解散するのである。

 そして私は気づくのだった。自分は誰かを自分の傍に引き止めたいのだと。決して誰でもいい訳では無い。あらゆるものが変化し、変容し、訪れては去りゆく中で、変わることなく自分の傍に留まってくれるもの、信頼出来るものが欲しい、そう願っている自分の姿を発見した。そして私は悲しくなった。自分はなんと弱い人間なのだろう。そうか、これが寂しいという感情なのか……


 恐らく、私は読書に依存しているのだろう。その事にも気づいたが、これはあまりにも今更な話なのかもしれない。本を上手く読めない日は、気分が晴れず、憂鬱の囚われ人となる。何より、私は自分の語るべき言葉を知らない。読書とは、自分の語る言葉を知らない者が、自分の語るべき言葉を見つけるための作業である。

 時折、人が自分のことをどう思っているのかを想像する。自分が誰かにどう見られているのかを考える。そして、それが悪くないと思われた時には、思わず微笑みをもらす。自分に満足を覚え、もっとよく思われたいと考える。しかし、他者がどう思っているかよりも、自分がどう思っているかが大切なはずた。にも関わらず、こんなことを考える。そんな自分の姿に気づくと、私はすぐ自分に叱責を入れる。これは私の悪い所だ……

Nine Inch Nails - Where Is Everybody (和訳)

Did you happen to catch
偶然手に入れたのか
Or did it happen so fast
それともあまりにも早く起こったのか
What you thought would always last
訪れる感情も最後には
Has passed you by
自分のもとから去ってしまう
Is everything speeding up
何もかもが早く過ぎていくように思える
Or am I slowing down
それとも自分が鈍くなっただけなのか?
Just spinning around
ただ避けるように周囲を歩く
And I don't know why
どうしてかはわからないけれど
All the pieces don't fit
何にも上手く適合することが出来ない
Thought I really didn't give a shit
本当はそんなつもりはないのに
I never wanted to be like you
内心、絶対お前みたいにはなりたくないと思っている
But for all I aspire
自分の夢のため
I am really a liar
嘘つきながら生きている
And I'm running out of things I can do
自分の内側にあるものを浪費しながら

I'd like to stay
本当はここに留まりたい
But every day
でも毎日
Everything pushes me farther away
あらゆるものが僕に先を進むように強いる
If you could show
教えて欲しい
Help me to know
僕がわかるよう
How it's supposed to be
どうすればよかったんだろう
Where did it go?
一体どこに行ってしまったんだ?

Pleading and
熱望し
Needing and
必要とし
Bleeding and
血を流し
Breeding
傷を増やし
Feeding
さらに増やして
Exceeding
先に進もうとする
Where is everybody?
……皆、どこに行ってしまったんだ?
Trying and
努力をし
Lying
嘘をつき
Defying
見ないふりをして
Denying
否定をし
Crying and
泣き出し
Dying
死にたくなる
Where is everybody?
皆、何処へ行ってしまったんだ……

Well okay, enough
ああ、それでもいいさ
You've had your fun
自分の喜びを追求したんだ
But come on there has got to be someone
でも見ろよ、誰かいるべきなのに
That hasn't yet become
そばにはもう誰もいない
So numb
何も感じない
And succumb
諦念だけが残っている
And god damn
もううんざりだ
I am so tired of pretending
何者かの振りをするのにも疲れたんだ
Of wishing I was ending
さっさと死んでしまいたい
When all I'm really doing is trying to hide
自分の本心を隠すことしか出来ない
And keep it inside
そしてそれを内側にしまい続ける
And fill it with lies
心の中を嘘で満たしながら
Open my eyes
目を開く
Maybe I wish I could try
本当は努力したいさ

Pleading and
熱望し
Needing and
必要とし
Bleeding and
血を流し
Breeding
傷を増やし
Feeding
さらに増やして
Exceeding
先に進もうとする
Where is everybody?
……皆、どこに行ってしまったんだ?
Trying and
努力をし
Lying
嘘をつき
Defying
見ないふりをして
Denying
否定をし
Crying and
泣き出し
Dying
死にたくなる
Where is everybody?
皆、何処へ行ってしまったんだ……

Pleading and
熱望し
Needing and
必要とし
Bleeding and
血を流し
Breeding
傷を増やし
Feeding
さらに増やして
Exceeding
先に進もうとする
Where is everybody?
……皆、どこに行ってしまったんだ?
Trying and
努力をし
Lying
嘘をつき
Defying
見ないふりをして
Denying
否定をし
Crying and
泣き出し
Dying
死にたくなる
Where is everybody?
皆、何処へ行ってしまったんだ……

20/02/23

 私は人が嫌いなのではない。恐らく、人が怖いのである。

 そして恐らく、私が人を恐れるのは、人は私を傷つけ、苦しめ、悩ますものだという、何か強く根源的な認識(もとい偏見)があるからだ。その原因が何であるのかはわからない。しかし、人と関わっていない時、私は人と関わることを考えると、どういうわけか潜在的な恐怖を覚え、人を避けることを願う自分がいるということに気がつくのである。

 "本当の恐怖というのは、それを産み出す内部の力が強ければ、恐怖もまたかえって強くなる態のものに違いない。そして僕達は、恐怖より他に、人間内部の力を見ることが出来ぬのかもしれぬ。(…)僕達にとって、死の恐怖は強すぎるに違いないが、それでも本当は僕達の最後の力だと、僕はそんな風に考えている。無論、僕達はその力がなんであるかちっとも知らない。しかし、僕達が一番知らないのは僕達自身のものではなかったろうか。"


 容姿を人から褒められるようになったのは、恐らく私が十七か十八の頃からである。それまでは、あまり褒められることもなかった。昔から痩せ型で、髪が長く、暗い顔つきをしていたから、貶されることの方が多かったように思われる。それが嫌で、ひょうきんな振る舞いをすることもあった……

 このような事を書いている今も、私は不安を覚える。人は恐らく、私の過剰な自意識を嘲笑うだろう。

 他のことも同じだ。子供の頃は、人から褒められたよりかは、人から認められなかった記憶の方が強く残っている。そして子供の頃から、人前に出れば、褒められるよりかは貶されるような気がしていた……自分が恵まれなかった人間だとは思わない。にも関わらず、このような考えばかりが頭に浮かぶのは、我ながら不快である。

 東京に来てからもう五年が経過しようとしている。そのことに気がついて、私は驚いた。いつまで十八の頃までの記憶に囚われて生きているのだろう。現在とは過去の連続である。人生の中で、我々は幾度となく変化を経験する。しかし、過去を踏まえた上でなければ、我々は新しい人間として生まれ変わることが出来ないのである。


 流行を憎む者は、実際に流行っているもの自体を憎んでいるというよりか、それを楽しんでいる大多数が憎いから、流行に反発するのである。

 苦しんでいる人が求めているのは、自分が苦しんでいるということを、誰かに認めてもらうことである。

 今では科学が宗教の代わりをするようになった。安心が欲しいがために、人は科学的に正しいとされた情報を、疑いもせず鵜呑みにする。しかし、あらゆる科学は疑いから生じたのである。科学の発展は、大衆の知性を啓蒙するどころか、むしろ物事を安易に信じ込みやすくさせた。

 感傷的な態度は、ともすれば下品になり、醜い自己憐憫の表れになる。

 憎悪を恐れる人は情熱をも恐れる。というのも、どちらもその性質は似通っており、心優しい人の魂をかき乱すものであるから。

 快楽主義の先にあるのは無気力と諦念である。快楽だけを求めるやり方は、人をむしろ不能にする。

 敵に対して身を守る防衛本能として、突発的な憎悪が発生することがある。

 思想の自由を守るため、人は他人の思想の自由を排斥する。

 自由思想の根底には、既存の形式にとって代わり、新しい形式として君臨しようとする、野心的な排他主義が潜んでいる。マイノリティの活動の多くは、マジョリティに認められ、自分たちがマジョリティになることを目的としている。そして、彼らはかつてのマジョリティをマイノリティとして排斥したいのである。

 特に秀でた所もなければ、劣った所もない人は、ただ眠ることだけを求める。そして、自分と同じように眠らないでいる人達に対して、彼らは劣等感と怒りを覚える。

 行動するよりも感じることの方が多い人は、自分よりも強い性格を持つ人間に惹かれやすい。彼らが求めるのは自由ではなく、むしろ服従である。

 人がよく思われようとするのが不誠実であることと同様に、人から悪く思われようとするのもまた不誠実である。

 人は自分が信じていないものを土台に自分の生活を打ち立てる。そして誰しも、自分がそれを信じていないということを知りたがらない。誰もがそれから目を逸らしながら生きている。

 それが気に入ったからではなく、それが権威に認められているから受け入れる。そのような態度が大衆の間ではよく見かけられる。

 自然と理性は本質的に敵対する。

 理性に固執するあまり、むしろ非理性的な言動しかしなくなるような人がいる。理性の限界は、同じ理性によってしか描けない。

 愛する者に軽蔑できるところがあるがために、むしろ一層深く相手を愛するような人がいる。他者に対して馴れ馴れしい人間は、心のどこかで他者を冷笑し、見下しているものである。

 自分に出来ない事を、他人もまた出来ないように願う人がいる。思い入れが強ければ尚更そうである。かつて夢を追いながら、その実現が叶わなかった人の殆どは、現在の夢追い人を嘲笑うようになる。

 あまりにも受動的であることは、善良な人間の特徴なように見えるが、実際は悪徳である。

20/02/22

 私は孤独を求める。一日に一人で内省する時間が欲しい。そして、それが十分に得られないと、精神の追い詰められるのを覚える。私は苛立ち、頭を抱える。何とかして一人になる時間を作り、自分の頭の中にこもる必要がある……

 この習慣を、もう長いこと続けている。私には孤独が必要だ。そして、そのために、人によくあらぬ誤解を与えることがある。会いに行ける知人友人にも、自分で内省する時間の方を優先させた結果、予定を先延ばしにしてしまうこともある。私の悪い所だと思う。

 先日、知人との関わりの中で、私は他者との心の壁を感じることがあった。私は悲しかった。しかし恐らく、先に心の壁を築いているのは私の方なのだろう。私なりに気を遣い、良かれと思って隠した本心や、そんな距離をとった態度が、むしろ他者を不快にさせているらしい。

 いくつになっても、人との上手い距離の取り方がわからない。今の他者との接し方が、私なりに見いだした正解のつもりだったが、どうやらそうでもないらしい。私には、上手い人付き合いの仕方が分からないのである……


 夜、陰鬱な雨が降る。シマノフスキの芸術のように暗澹とした夜。不吉な調べが辺りに漂い、濡れた窓辺が、外の景色を虚ろに彩る。そして暗闇は際限なく続いている……私はシマノフスキピアノソナタ第一番を聴いているのである。湿った空気を肌に感じながら、街が夜の底に沈んでゆくのを感じる……

 そして私はふと、自分の内側に薄暗い、あまりにも薄暗い欲望があることに気がつく。それは普段は決して私のもとを訪れない。しかし何かの節に私を訪れ、そして私を脅かす。たとえばそう、何か美しいものを見た時に、それは私を捕える……白く美しい肌、滑らかな肉体、恐るべき誘惑に満ちたもの。そして私は、目の前にあるそれに、ふとぎくりとする。そして驚く、私の内側で渦巻いている欲望に……それは美への憧憬であり、美しいものを自分の内に閉じ込めたいという欲望であり、それを自分のそばに留め、貪り、そして停滞することを願う意志である。それを手に入れたい、それが欲しい……喉から手が出る程の渇望を覚える。そして自分の内側に、獣のような欲望が、目を背けたい不気味な怪物がいることに気がつく……私は一体何を考えているんだ?これは本当に私なのか?私の本性はこの程度のものなのか……

 我々が普段見せる顔は、いつだって我々の一側面でしかない。我々の顔面は一つしかないが、しかし我々は複数の顔を同時に所持している。思想は訪れ、そして立ち去る。我々はその瞬間ごとに変化する印象である。そうして変化し、変容する中で、積み重なった多層的な経験、それが我々人間である。ひとりの人間とは複数の魂の共同体なのだ。

 しかし人は、誰かと接する時、その人かの見せた一部分だけを拡大解釈して、それをその人の全てだと考え、きっとあの人はこうなんだと思い込もうとするものである。


 十代の終わりの頃から、私はシマノフスキの音楽を愛してきた。最近はあまり聴くことがなかったが、今日、久しぶりに聴いてみた。すると、以前は気づかなかったことに気づき、かつては見えてこなかったものが見えてくる……昔から今日に至るまで、私はシマノフスキの音楽を愛している。しかし、それはかつてと同じようではない。

 経験は反復する。我々はかつてと同じような感情を抱き、かつてと同じような体験をする。しかし、それは決してかつてと同じではない。そこには必ず差異があり、変化がある。我々の感情、我々の経験は、絶えず更新されてゆき、絶えず変奏されてゆくのである。そこに我々の前進が、進歩があるのではないだろうかと思う。そして、どうも私はそう信じたいのである……


 悩める者は皆、自らの悩みにひそかな愛と誇りを抱くものである。

 何かに慣れるということは、何かに慣れる前に抱いていたものを失うということである。何かを失った者は、いつだって自分が何を失ったのかに気づく事が出来ない。


 再び、夜。雨は上がり、頭上の夜空には、霧のように薄い雲が僅かに漂うばかり。空気は冷たく、まだ湿り気が残っている。しかし、決して寒くはない。二月が終わりに近づき、三月が始まろうとしている。冬が終わり、春が訪れる。私は夜空の下を歩く、吐息の白さが失われていくのを覚えながら。

 今日はまだあまり本が読めていない。私はこれから、長く文を読み、眠れない夜を過ごすだろう。

20/02/20-21

 精神の疲労はそのまま肉体の疲労に繋がる。精神的な安定を失えば失うほど、肉体の衰弱を感じる。心の平穏を求める理由はそこにある。些細なことに心の状態を左右されていては、取り組みたいことにも上手く取り組めない。

 あまり多くのものを求めようとは思わない。ただ、生活のささやかな幸福と、そして無事に取り組みたいことに取り組めるだけの環境が欲しい。しかし、それを備えてくれるものが、なかなか手に入らないのである。

 ここ数日、喜ばしい出来事もあったが、精神に苦しみを与えることも余程あった。それもあってか、昨日今日と頭が上手く働かず、肉体的にも気だるさを感じる日々を送っている。

 人は予定を組み立てる。しかし、大抵の予定は思い通りに遂行されずに終わるよう出来ている。何故なら、人間の内側と外部の世界には、必ず何らかの差異が存在するから。我々という存在は、いつも我々の思い通りにいかず、我々が思っていた以上か、思っていた以下になるように出来ている。

 人は見誤る。そして、見誤った上で、さらに多くのことを考えるから、更に多くのことを見誤ることとなる。そして、見誤ったものの真実は、大抵すぐには与えられない。答えを生きるためには、先ず問いを生きる必要がある。

 私は知っている。きっと今も尚、自分は何かを間違えながら生きているのだと。どんな時でも、私は何かを思い違いしながら生きている。きっと死ぬまでそうなのだろう。生きるということは、自らの誤解を正し、自らの暗闇に光を与えることの連続である。瞬間は過ぎ去る。そして、認識が過ぎ去るならば、誤解もまた過ぎ去るのである。答えを求め、焦りさまよう旅人よ、暫し待たれよ。人生とは、絶え間なく更新される誤解の解消である……


 結局、私は偽物であって、本物にはなれない。そう感じることがある。時折、人から容姿を褒められる。しかし、世の有名な俳優に比べれば、まるでへんてこな顔つきであって、決して誰もが認める美男子ではない。私はピアノが弾ける。即興で何かを演奏することもできる。しかし、それはあくまでも我流であり、音楽教育を受けた人間に比べれば、表現力も乏しい。読書を好んでするため、教養も人よりかはある。しかし、独学者の常として、知識には偏りがあり、正確さに欠ける。どんな場合であれ、正当な教育を受けた人の前に出ると、自分の教養の中途半端なことを思い知らされ、勉強不足を痛感する。独創的、個性的とすれば聞こえはいいが、結局、どれを見ても中途半端なだけである。私は小手先の技術で誰かをごまかしているに過ぎない。結局、偽物では本物にはなれない。

 真に優れた芸術作品には、実際には存在しないものを、あたかも本当に存在しているかのように信じ込ませる力がある。そういう意味では、私は稀代の芸術家だと言えるかもしれない。存在しない才能を存在しているかのように見せかける点においては、まさに一流だから。

 ドゥルーズは "私は秘密を信じている、つまり<偽なるものの力能>を信じている" と言っていた。彼の信じている「偽なるものの力能」が、果たして私の考える文脈通りなのかは分からない。しかし、私もドゥルーズと同様に、自分の「偽なるものの力能」を、偽物としての力を信じている。偽物の生み出した真実が、やがて本物となり、世を変え、世を動かす。それはこれまで、この世界において起きてきた出来事である。他人を惑わし、他人を魅せる芸術の力が、やがてこの世の掟を覆す。芸術にはそれだけの力がある。そう信じている。

 といっても、特に大それたことをするつもりはない。別に世を変えたいわけでもなければ、スターになりたいわけでもない。ただ、自分の成し得ることに専念する。それだけのことなのだ……


 言い訳は事実を認めたくない時に生まれる。そして、大抵の解釈というというものは、その事実を認めたくないがために生まれた言い訳に過ぎない。


 先日、ある駅から他の駅まで、二、三十分ほど友人と歩いた。その時、私は自分の思いの丈を話した。功利主義的で、損得ばかりで物事が考えられている今だからこそ、無骨な誠実さが、目先の利益のために生きない利他主義が必要であるということ。自分の能力を見せびらかすような、継ぎ接ぎになったグロテスクさではなく、ただあるがままの独白とも言うべき素朴さが音楽には必要だということ、など。もとい、その友人との会話の中で、お互いにそのような話で盛り上がったのである。

 私は人に恵まれている。素直にそう思える時がある。先日、別の機会に、他の友人といる時にも、私はそれを感じた。私には親友と呼ぶべき人間が何人かいる。そして、このような人々と巡り会えたことは、私の人生における、ささやかな幸福の一つである。

 そして私は、かつて失われた、私の愛する友人のことを思い出した。私はただ、静かに、平凡なまでに日常的な心の交流がしたかっただけなのに、どうしてそれが上手くいかなかったのだろう?私が決して本心を打ち明けなかったのもある。しかし、どうしていつも、心を通わせたい相手に、それが上手く出来ないでいるのだろう……


 憂鬱が頭を暗くする。様々な考えが頭に過り、去ってゆく。そして、再び違う考えが訪れる……そして、何一つとして留まってはくれない。私は何も書きとめることが出来ない。

 日が暮れゆき、夕暮れはもう私の見張りをしてくれない。再び夜が訪れる。しかし、まだ私の一日は終わらない。私が眠りにつくまで、それは決して終わりではない。

 我々は決して完全に正しくあることは出来ない。生きるということは、罪を犯すということである。しかし思うに、世に言われる偉人とは、正しくあることが出来ない中で、それでも正しくあろうとすることを諦めなかった人間のことではないのか。全ての罪人には未来が存在している。偉大なる未来が。

 あらゆる救いは争いの後にしか来ない。そして、争いの後に訪れた救済は、次の争いへの序曲である。人生とは終わらない苦しみの連続であり、我々が何を手に入れても、やがては死にゆき、全ては消え去る。そして、それを肯定し、それでも生を意志することこそ、人間のあるべき姿である。

 そんな事を考えてもどうしようもないと言う人もいるだろう。しかし、あらゆる価値観が崩れゆく現代だからこそ、いかにして生きるかを考え、人間の実存を問い、人間の倫理を問うということが、大切なように思われる。

 文章を書くと、憂鬱な私の心に微かな安らぎが訪れる。そして、音楽にしてもそうだが、一度何かが産まれると、それを誰かと分かち合いたいという気持ちが生まれるのである……これがニーチェの言う「贈り与える徳」なのだろうか。きっとそうなのだろう。創作するということ、何かを産出するということは、安らぎを築き、心を高く上げる作用である。

 生きていく上で、「そうせざるを得ない」ものとして生まれたものこそ、私には価値があるように思われる。そうして、自分の内から吐き出された、孤独な作品にこそ……

20/02/18-19

 昨日の事であった。私は辺りに畑のある通りを歩いていた。静かに、静かに……映る世界には人気もなく、空の青は溶けていくように広がり、染まっていた。太陽が輝いていた。そして、時刻は午後だった。昼下がりの太陽が、その下にある全てのものを穏やかにしていた。世界は微睡みの中に滑り落ち、まるで全てのものが静止したかのようであった。

 私の歩く道の隣には、農家の耕作地が広がっていた。肌の黒く焼けた老人が、厚手の服を着込みながら、畑に鋤を入れていた。豊かな土には、いくつかの緑が点在していた。しかし、その中でも特に私の目を引くものがあった。

 それは梅の木であった。梅の木が、その真ん中辺りに植えられていた。細く、しかし堅く、力強く天に伸びる枝達には、薄らと白桃に染まった花びらが咲いていた。寒い冬の終わりつつある今、春の訪れの近いのことを告げるかのような、淡い白さであった。

 私は暫しその場に立ちどまり、梅の木を眺めた。背景には無限の蒼穹が続き、太陽はそこにあるもの皆を懐かしい色彩のうちに照らし出していた。全てが緩やかに存在していた。その中で、梅の木は淡い桃色を枝につけ、静かに微笑んでいた素晴らしく、美しかった世界の在り方が、そこにはあった。

 そして私は空想を始めた。いつか、誰も私を知らない場所で、ここから遠く離れた、ただ静けさと穏やかさとだけがある場所で、私は全てをやり直したかった。緩やかな生活の中で、静けさに身を置き、穏やかに過ぎる時の流れを、慈しみたいような気がした。私は遠い何処かを眺め始めた。ここではない、何処か遠い、遠い所へ行きたかった。深い山の奥、人里を離れた所で、孤独に思索に耽るツァラトゥストラのよう、貧しさと敬虔さを共にしながら、さながら聖者のように生きたいような気がした……

 私は左手を目の前にかざし、手の甲が太陽に照らされるのを眺め始めた。光の差し込み方によって、それはその時々に表情を変えていた。そしてそのまま、空へと手を伸ばした。陽光が指先と戯れ、滑らかな日差しの肌触りに快さを覚えた。ふと、私の愛読する本の一節が頭に過った。

 "月日の広漠たる波は徐々に展開してゆく。限りなき海の潮の干満のように、昼と夜とは永遠に変わることなく去来する。週と月とは流れ去ってはまた始まる。そして日々の連続は同じ一日に似ている。"

 海原のような優しさと、エピクロスの如き平穏。それは満たされた午後のひとときであった。ああ、皆、どうしてこの喜びに気が付かないのだろう?どうして誰も、敢えてこの美しさを言おうとしないのだろう……どうして人は、それに気づかないのだろう……?


 それから私が思い出したのは、リルケが『神さまの話』の中で残していた言葉である。

 "常並の人達は、逃げてゆく日々をしきりに追いかけています。やっとそのうちの一日にでも追いついた時には、もうすっかり息切れがして、せっかく追いついた一日と、一言、言葉を交わすことも出来ません。それにひきかえ、あなたの方は、そうやって気軽に窓辺に腰を下ろし、じっと待ち受けています。待つ身には、決まって何かが訪れるものです。"

 来るべきものは、遅かれ早かれ必ず来る。もし我々に未来があるのだとしたら、それは過去から現在に至るまでの、我々の避けがたい性質によって生まれるものなのだ。未来とは、常に避けがたいものとして我々の前にある。人は常に、自分のうちに過去から未来に至るまでを自己を内包しているのだ。

 時に人は、何者かになることを求めるために、または何者かであろうと振る舞うために、何かを求め、また何らかの活動をしたりする。しかし、それは間違っている。ただ我々は、自分の成し得る限りのことをすればいいのではないだろうか。

 たとえばそう、注目されたいがために、成功したいがために、後世に名を残したいがために音楽に携わることは、私には間違っているように思われる。そうでなくて、音楽を創作し、芸術活動に携わるということは、皆ただ自分の内にあるものを外に提示するということに他ならないのではないだろうか。そして、その末に生まれた作品を、自分より高い存在に捧げるということこそ、芸術家の仕事ではないのか。合理的で、打算的なものではなく、非合理的で、素朴なまでの誠実さが、我々には必要なのではないだろうか。そのために、自分の内で生まれるべきものが生まれるのを待ち、また、自分の出番が呼ばれるまで舞台の袖で待つということが、必要なのではないだろうか……


 楽しみ、それは日々の中でよく見知ったものに対して抱く期待である。だから、それに飽きれば、人はすぐに別の楽しみを見出そうとする。

 いつの時代にも、天才と言うべき人間はごく僅かしかいない。しかし、今の時代には、至る所に天才と呼ばれる人物がいる。あまりにも馬鹿げた話だ。このような天才の過剰の中では、むしろ天才でない人間の方が珍しいくらいだろう。

 未熟な人間は、一人前を気取ろうとして、知らず知らずのうちに道化を演じている。

 恋をしていないから、せめて恋を作り出そうと必死になる人がいる。経験は乏しいくせに、語り口はやたら饒舌となる。

 二つの音楽がある。外の世界を美しく彩る音楽と、内に沈殿するよう作用する音楽と。

 特定の感情を持たない許容と肯定は、対象への無関心の表れである。


 最近は晴れた夜が続いている。夜空を見上げると、その度に星の点在しているのが見える。都会の光は、夜空を無闇に明るくし、星の輝きを蝕んでゆく。奪われてゆき、薄れていく星々は、しかしそれでも、まだ輝きを保ち、そしてその下で眠る人々を、そっと照らしだし、優しく我々のお守りをしてくれる……そのことを思う度に、私には次の詩句を思い浮かべる。まさに私の気持ちを代弁してくれたような詩を。

 "私は祈りたい。
 全ての星の中の内の一つは
 まだ本当に存在しているに違いない。
 私は思う、きっと私は知っているのだと
 どの星が孤独に
 生き続けてきたかを ――
 どの星が光の筋の果てに立つ白い都会のように
 大空の果てに立っているのかを……"


 他人がどう思うかよりも、自分がどう思っているかが大切であるということに、私は長らく気づけないでいた。

 私はただ、自分の成し得る限りのことを成す。それだけである。敬虔に、理想と信念のために、私は生きたい。

20/02/17

 憂鬱は永遠に昨日に留まろうとする。感傷は人の今日を過去の内へと逃す。

 いつからだろうか、健全な者が健全であることを恥じるようになったのは。

 衆愚的な民主主義は全てのものを商品化し、数値化する。

 演技をしていくにつれ、人は感じていないものまで感じるようになっていく。そして演技をしていくにつれ、人は感じているものをも感じていないもののように扱うようになる。 "詩人はふりをするものだ / そのふりが完璧すぎて / 本当に感じている / 苦痛のふりまでしてしまう "

 人を真に慰め得るものは、それだけ人を傷つける力を持つ。

 どこを見ても、飾りが多すぎる。装飾とは、行き過ぎれば滑稽になり、悩ましい騒音に変わる。

 肥大化した自尊心の持ち主は、先ず相手が下手に出るか、相手の中に自分と共通する欠点を見出さなければ、相手を認める気になれないよう出来ている。

 どんなに強い意志の持ち主であろうとも、困窮を強いられられれば、必ず妥協し、身を卑しくせずにはいられなくなる。

 人は退廃していくと、自分の生きる理由や意味を、皆自分に快楽を与えてくれるものに帰依させようとする。そして快楽を与えるものは、人の退廃を癒すどころか、むしろ益々酷くさせるのである。

 真に我々を癒すものは、時を超越して我々に語り掛け、我々を決して忘れることがない。たとえ、我々がそれを忘れたとしても。

 清められれば、苦しみは喜びに劣らず尊い

 我々は繰り返す。知らぬ間に、我々は我々自身の過去を、そして我々の生まれる前の人達の過去を、かつてとは違ったふうに繰り返して、これまでにない展開を更新していく。

 見えないものが多いほど、人は幸福に生きていくことが出来る。しかし、"盲人が盲人を導けば、二人とも穴に落ちてしまう。" いつか目が開かれた時、かつての幸福は自ずと壊れるであろう。"覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。" 然り、キリストは正しい。


 時折、私は失われた青春時代のことを、失われた子供の頃のことを考えてみる。もう二度と帰ってこない。どれだけ悔いても、決してやり直すことの出来ない日々。私がどれだけ願い、求め、そして愛しても、それは戻ってこない。

 そして、かつて子供だった自分を殺し、また壊したのは、他ならない、私なのだ。私自身なのだ。永遠に失われた私のまぼろし、彼方へと消えた諸々の夢。もう二度と、二度と帰ってこない。


 ここ数日、ニーチェの書き残した詩がよく頭に浮かぶ。

 "おお、人間よ! しかと聞け!
 深い真夜中は何を語るか?
 「私は眠りに眠り ―― 、
 深い夢から、いま目がさめた、――
 この世は深い、
 『昼』が考えたよりもさらに深い。
 この世の嘆きは深い ―
 しかしよろこびは ―― 断腸の悲しみよりも深い。
 嘆きの声は言う、『終わってくれ!』と。
 しかし、全てのよろこびは永遠を欲してやまぬ ―― 、
 深い、深い永遠を欲してやまぬ!」"

 私は感傷的な性格をしている。そして、自分のそういう所を、あまり好んでいない……しかし、それはどうでもいい話だ。私はニーチェのこの詩の正しさを、かつて読んだ当初から今日に至るまで、心から信じている。この世を生きる悲しみは深いが、しかし喜びはそれ以上に深い。この世の暗闇は深い。しかし光はそれ以上に深く、偉大である。

 そして、ああ、この詩を読むことで、今日までどれだけ、どれだけ慰められてきたことか、私は知らない……