公開日記

その名の通りです

あとがきに代えて (小説『神様の話』について)

 もう冬である。私は今、去年の冬のことを思い出している。それは私にとって、とても苦しい時期であった。

 あの頃、私は一つの願望を抱いていた。しかし、その願いは叶わなかった。今年に入ると、私はその願望の実現を今年の目標とした。当時の私は、ちょうど今頃には目標が叶えられていて、私はきっと幸せな毎日を送っているだろうと空想していた。

 しかし、全ての夢は裏切られるために存在している。いつものように、私の夢は叶えられなかった。こうして今、私は今年の冬を迎えている。

 今年に入ってから、私の生活環境は大きな変化に直面した。振り返ってみると、そのために得られたものも大きいのかもしれない。傍から見れば、私は上手くいっている、毎日を楽しそうに生きている人間に見えることもありうるだろう。

 しかし、私自身には、決してそうは思われない。私は何も手に入れていない。ただ喪失感だけがつきまとう。今では全てが他人事のように通り過ぎていく。

 私は過去を懐かしむ事を好まない。ただ、今と比較すると、やはり私にも楽しかったと思える時期がある。特に去年の初夏から夏にかけてのこと、あの五月六月から八月かけてのこと。あの頃は良かった。私の人生の中で最も楽しい時期だったと言っていいかもしれない。無論、嫌な事も沢山あった。しかし、私の毎日は喜びに満ち溢れていた。私は沢山の出来事を経験し、素晴らしい出会いにも恵まれた。出来ることなら、あの頃に戻りたい。

 かつては近かったものが、今でははるか遠くにあるように思われる。かつては全てがすぐ側にあったのに、今では全てが隔たりだ。皆変わってゆき、遠くに行ってしまう。

 私を取り囲む環境は目まぐるしく変化していった。しかし、何よりも最も変わったのは、他ならぬ私自身なのかもしれない。私のかつてからの知人たちは、きっと私を、遠くに離れてしまったと感じているのだろう。私は変わってしまった。そして、私はかつてから、遠くに行ってしまったのである。その感覚がとても、とても寂しい。

 私は今年、様々なことに試行錯誤した。自分が手に入れたいものを手に入れるために、様々なことを努力した。しかし次第に、私はその全てが無駄であり、無意味であったのではないかと思い始めた。それは少しずつ、徐々にではあるが、私を蝕んでいった。とても苦しい感覚であった。

 そして、私にそのような考えを強め、私の悩みを明確にし、それを深めるきっかけをとなった事件がある。私はそれをあまり言いふらすべきことではないと考え、普段はあまり口にせず、日記の中でも書かなかった。しかし、それは私にとって大変ショッキングな出来事であった。

 実を言うと先日、私はストーカー被害にあった。相手は友人の女性である。詳細は書かないが、相手は私の家の前に何時間か立ち、玄関の扉を蹴ったり、ポストから手を突っ込んだりした。

 しかし、その事については、別に何とも思っていない。何故私がその事に悩んでいるのかとなれば、それは、私の些細な言動が、相手がそのような行動をとるまでに追い詰めてしまったのではないか、という疑惑のためである。

 経緯について、簡単に書いておこう。相手の女性は私に好意を寄せてくれた。しかし私にはその気がなく、相手の気持ちには、はじめから答えることが出来なかった。しかし、私は必要最低限の礼儀として、相手の女性に優しく接しようと努めた。その結果として、私は相手を誤解させて、このような事件が起きてしまった。

 他人に善くあろうとすることは良い事だと思っていた私にとって、この事件はとてもショックであった。最終的に、事件は私が警察を呼ぶことで収束を得た。しかし私は、警察を呼ぼうと思うまでの数時間、きっと全ては無事に収まり、平和な和解が得られると信じていた。しかし、それは不可能であった。私は警察を呼ばざるを得ないことを知り、自分の考えが甘いことを思い知らされた。

 今回の件に際して、私はもっと別の結末があったのではないかと思った。はじめからもっと違った態度をとっていれば、このような事件も引き起こされなかったのである。全ては私の性格の弱さと、私の気の弱さに由来するものであった。あれ以来、私は非常に大きな自責の念に駆られている。何故あんなことになってしまったのか。防ぐことや、避けることは出来なかったのか。本当に、本当に後悔している。

 そして何より、こういう言い方はあまりしたくないが、私は、自分が本当に欲しかったはずのものを手に入れることが出来ず、全く望まなかった結果を手に入れたのである。今年、手に入れたものがこれである。こんなものは欲しくなかった。この事実は、私に大きな無力感を与えた。

 上の事件について、私は幾人かの知人にそのことを話した。そして、その内の二、三人の者は、私がストーカー被害をあったことを羨んだ。確かに、女性から愛されることは、男性として名誉のある事である。もしかすると、私の悩みは贅沢なものなのかもしれない。しかし、私としては、こんなはずではなかった、という気持ちの方がずっと強く存在している。そうだ、こんなはずではなかった。最悪だ。他人に嫌な思いをさせるくらいなら、むしろ忘れられた方がましである。このようなことは、私にとって、あまりにも不本意な出来事であった。もう二度と経験したくない。悲しく、辛い出来事であった。

 今、私には根本的な疑問が生じている。私は男女間に友情が存在することを心から信じていた。人間は、同性が同姓に寄せるような友情を、異性に対しても寄せることが可能である。私は今でもそう信じている。しかし、それにもやはり限界があるのではないかと思うようになってきた。

 たとえばであるが、男女が仲良くしているからと言って、それを皆恋愛的なものに結びつけるのは愚劣である。私はそのような話を聞くと、内心少し不愉快になる。しかし、街中で男女が二人きりで歩いているところを見れば、誰もが恋愛的なものをはじめに想像する。私がそのような事実から目を背けてきたことも確かであった。

 (これは私の性別に纏わる問題も関わっているのかもしれない。私自身は自分のことを男性だと思っている。しかし、私は見た目も名前も、あまり男性的ではない。自分の性格に女性的な側面が強く存在しているのは事実である。私の恋愛対象は女性であるが、女性と関わる際に、はじめから恋愛的な目で見られ、求められることは、私にとってとても苦痛である。私は先に友人として仲良くすることを求める。相手の女性が同じ女性に接するように私に接してくれれば、私自身としては、相手に恋愛感情を抱きやすい。しかし、そんな事はどうでもいい。話す必要も無い事だ)

 ここまでの文章を要約すると、私には一つことが言える。つまり、私はここ最近を通して、非常に強い精神的な危機を迎えていた、ということだ。

 今回私が小説を書こうと思ったのはその為である。

 私は小説を書いた。そしてそれを自分のブログに投稿した。それをこのように語ることは、私にとって生き恥を晒すことに他ならない。私にはそれほどの成果もなければ実力もないからだ。私には、自分のした事を偉そうに語る資格がない。

 しかし、誰かに読まれたい、誰かの胸に届いて欲しい、そのように願う気持ちは強く存在している。何人の人が読んでくれたのか、それはわからない。ただ、胸に届いてくれる人がいてくれたらと思っている。そして、自分が読んで欲しいと思っているような人に読んでもらえれば、幸いである。

 では小説の内容について、少し触れようと思う。

 設定はライトノベルを意識した。舞台が高校であるのはそのためである。以前から、私はアニメや漫画を意識したような小説を書くことに憧れていた。だから私は、この小説のタイトルを、そもそも『ライトノベル』というものにしようと考えていたほどだ。

 しかし結局、タイトルはそれでなく『神様の話』というものになった。リルケに同名の短編集があるが、それとはあまり関係ない。そして、タイトルの意味についても、あまり深い意味を持たない。ただこれを書く前から、私はこの小説を『ライトノベル』か『神様の話』と呼ぶように決めていた。

 話の筋書きについては、作家ジッドと詩人リルケの生涯を下敷きにしている。ジッドには、幼い頃から死ぬまで、愛していながらも一度も肉体を交えたことのない妻マドレーヌがいた。マドレーヌは幼い頃、自分の母の不貞を目撃しており、その事に非常なショックを受けたらしい。そして、そのようなマドレーヌを前にして、幼き日のジッドは彼女のために生きようと決意した。これが小説のストーリーの題材になっている。

 リルケの件については、主人公「私」の幼少期の思い出に反映されている。リルケは幼い頃に女の子として育てられた経験を持つ。だからこそ、彼は作家としての活動初期に、手紙でよく母に対する殆ど憎しみとも言うべき愛情を書き表していた。ちなみに、リルケの母は彼が少年の頃に亡くなっている。その設定も小説に反映されている。

 小説の他の主要なキャラクター、まゆりとりえ先生についても、それぞれモデルとなった人物がいる。特にまゆりには、マドレーヌ以外にもモデルとなった人がいる。それは現時点でも生きている女性で、わかる人にはひと目でわかるよう、私自身、意識して書いた。小説の冒頭で気づいている人もいるかもしれない。りえ先生にもモデルがいるが、こちらは実物とはあまりにもかけ離れている。

 最後に、この小説に出てきたような出来事を、実際にそのまま私が経験したわけではない。私の高校生活はこんなものではなかった。ただ、この小説は、私がここ二、三ヶ月を通して経験した精神的な苦痛の産物である。それは間違いのないことだ。書いている最中、私はとても苦しかった。誰よりも先に、私自身がこれを書くことを求めた。もしこれが誰かの慰めになってくれれば、私は幸いである。

Radiohead - True Love Waits (和訳)

I'll drown my beliefs
自分の信仰を捨ててしまうかもしれない
To have your babies
君との子供が欲しいんだ

I'll dress like your niece
君の姪っ子のように着飾って
And wash your swollen feet
君の腫れた足を洗おう

Just
だからお願い
don't leave
僕を置いてかないで
Don't leave
僕を置いてかないで

I'm not living,
僕は生きていない
I'm just killing time
暇つぶしをしているだけだ

Your tiny hands,
君の小さな手と
your crazy-kitten smile
子猫のような君の笑顔

Just
お願いだ
don't leave
僕を置いてかないでくれ
Don't leave
僕を置いてかないでくれ

And true love waits
きっと真実の愛が待っている
In haunted attics
恐ろしい屋根裏部屋で
And true love lives
きっと真実の愛は生きている
On lollipops and crisps
お菓子の沢山詰まった場所で

Just
お願いだ
don't leave
僕を置いてかないで
Don't leave
僕を置いてかないでくれ

小説『神様の話』 その七

 

 先生は街の中心からやや離れたところに暮らしていた。彼女の借りていたマンションの一室は、ワンルームではあるが、広く、内装の美しい部屋であった。

 部屋に上がると、私は辺りを見渡した。沢山の本が物置小屋のように積み上げられていた。部屋の隅には、骨組みの見える簡素なベッドと、同じく何の装飾もされていない小さな机が並んで置かれていた。それ以外には何もなかった。まるで監獄のような部屋であった。部屋のカーテンは閉ざされ、日差しは殆ど入り込まなかった。

 灯りは机の端以外には置かれていなかった。先生は私よりも先に部屋の奥までいって、電気をつけた。昼間にもかかわらず、部屋は薄暗かった。そんな部屋に静かな灯りが一つ、ともされた。椅子が一つ、机の前に置かれていた。先生はそれを部屋の中央にまで持ってきて、座った。

 私はベッドの上に座り、先生に向かい合いながら、持ってきた小説の原稿を渡した。


 先生が小説を読んでいる最中、私はただ黙って先生の読む様を見守っていた。そして見守りながら、私は考え事をしていた。

 私は先生の恋人のことを考えた。その人は顔が広く、さる有名な海外の書物の翻訳者とも交流があるらしかった。私はその書物を愛していたから、知った際には、内心の驚きを隠せなかった。

 やがて私は、再び淡い期待を抱き始めた。もしかすると、私は先生を通して、その世界の人達と知り合う事ができるかもしれなかった。そして、それが自分の成功のきっかけになるかもしれないと考えると、心が踊った。私はまゆりのことを考えた。もし早くから成功することが出来たなら、まゆりも私のことを認めてくれるかもしれなかった。


 私は幸福な未来を空想し始めた。もしかすると私は、若くして文壇に名が知られるかもしれない。交友関係が広がり、様々な世界を見聞することで、私の世界もまた深まっていくかもしれない。そうしてやがて、世紀の傑作とも言うべき小説が書けるかもしれない。しかし家に帰れば、私の愛する唯一の女性、まゆりが待っている。私達は幸福な家庭を築き、お互いに新しい家族として、かつて失ったものをやり直すのだ。

 私は死ぬまで彼女を愛するだろう。その頃には、きっと私達の抱えていた問題は良くなっているに違いない。私は孤独と不幸を必要としなくとも、もはや作家として上手くやっていくことが出来るのだ。

 私は不安と期待に胸を馳せながら、先生が私の小説を読み終えるのを待っていた。この小説が上手く行けば、きっと全てが上手くいくような気がした。


 やがて先生はそれを読み終えた。先生は、何も言わず、ゆっくりと顔を上げて、私を見た。私はただじっと彼女が何かを言うのを待っていた。十数秒の間、私に視線を注いだまま、先生は黙っていた。

 ついに先生は口を開いて、言った。

 「ねえ、君はもうまゆりさんとしたの?」

 思いもよらない言葉に私は戸惑った。私には言葉の意味が理解出来なかった。呆然と先生を眺めていると、先生は次いで言った。

 「したの?」

 「したのって、何をですか?」

 私はやっとの思いで口を開いた。

 「何って、わかるでしょう」

 先生はにやりと笑った。その時、私は初めてその意味を理解した。私は声を荒らげて言った。

 「一体何を馬鹿なこと言ってるんですか?」

 先生は不気味な笑みを崩さなかった。

 「君の小説はとても綺麗ね。でも、それじゃあ物足りない。君にはリアリティが足りないの。精神はあっても肉体がないのね。

 知っている?恋愛は苦しい死と同じなのよ。それは何の解決策も私達に与えてくれない。私達はただ、恋愛の与える不可解な、不条理な苦しみに、病むことしか出来ない。そして恋愛は、死と同様、肉体を通してしか起こらないのよ。 だからこそ愛と死は近しい存在として語りうることが出来るの。

 君には肉体が足りない。でも、肉体こそ恋愛のリアリティなの。君は故意に肉体を避けている。君がまゆりさんとしたかどうか、そんなもの、本当は聞かなくてもわかるわ。君はしていない。絶対にしていない。君には手を出すことも出来ていない。何故なら君はとても臆病な人間だから。君は小説の中で、散々まゆりさんへの想いを綴った。それでも君はまだその事から目を背けている。君はまだ自分の苦しみに対して臆病であり続けている」

 先生は椅子から立ち上がった。そして私の両手を取ると、それを先生の両手で包み込んだ。

 そして、言った。

 「ねえ、私とする?」

 やはり彼女は正気ではなかった。

 「あなたは狂っている。するわけがない」

 「君はお母さんについても書いていたね。まるで全ての原因が彼女であるかのように。なるほど、それは一理あるかもしれない。でも、そんな話は馬鹿げている。苦しんでいる人っていうのはね、自分の過去を内省して、何か暗黒なストーリーをでっち上げると、自分の現在の苦しみを全部その関係者のせいにするの。あいつのせいだ、お前が悪いんだってね。まさに君のようにね。

 頭で考えていては何もわからないわ。ねえ、私としましょうよ。そうして君が目を背けているものに光を当てるの。それから一緒に、あるがままに苦しみましょう。そうすれば、もっとリアルな小説が書けるようになるわ。もっと苦しみを求め、悲しみを求め、絶望を求めましょう。私達はそれに身を浸して、そこに喜びを見い出すの」

 私は息を上げながら、じっと先生の瞳の奥を覗いていた。瞳孔の開いたその眼は、恐ろしい深淵を映し出しているかのようだった。

 私はやっとの思いで口を開いた。そして、言った。

 「先生、あなたは間違っている。あなたは不幸に依存しているだけだ。確かに、芸術作品には苦悩が必要だ。でもそれだけでは芸術作品は出来ない。芸術には理想が必要なんだ。ただ不幸にしがみつき、苦悩をさらに一層悪くしようとして、現在の不幸をより一層酷いものにしようとすることは、ただ不幸に溺れて、その事に快楽を見いだしているだけなんだ。それに…」

 私が口ごもると、先生が言った。

 「それに?」

 私ははっきりとした口調で次の言葉を言った。

 「僕はまゆりを大切にしたい」

 先生は笑った。こんなに笑う所を見たことがないと言えるほどに、笑った。そして笑いながら、私を押し倒した。そしてそのまま私の唇を奪おうとした。私は先生をつきのけた。先生は床に倒れ込んだ。しかし起き上がっても、先生はまだ笑っていた。

 「下らない倫理観ね。そんなものは捨てなさい。欲望に屈して、情欲に身を任せればいい。どうせ私達は皆塵に変わって死んでしまうのよ」

 私は独り言のように何度も同じ言葉を呟き始めた。

 「違う…こんなはずじゃなかった…こんなはずじゃなかったんだ…」

 先生は声を荒らげて、言った。

 「こんなはずじゃなかった?何を馬鹿なことを!一人で女の家に来て、何もしないで帰る方がおかしいってことくらい分からないの?どうせ内心期待していたんでしょ。馬鹿ね、本当に君は馬鹿!」

 「違う!僕はそんなつもりじゃ…」

 「君が私を必要としたのよ。君は寂しい思いをしていた。だから私を利用した。君はずっとまゆりさんが好きだと言っていた。でも、まゆりさんと上手くいってなかったから、私を利用して、埋まらない寂しさを埋めようとした。それが今更こんなことになったからって言って、何を脅えているのよ!」

 私には先生が何を言っているのかがわからなかった。こんな事になるとは思っていなかった。本当に思っていなかった。だから、これは不可解であると同時に、辛く、苦しかった。私は今すぐこの場から逃れたかった。そしてやっとの思いで、言った。

 「嫌だ…嫌だ!僕は…僕は、まだ汚れたくない!」

 先生は怒鳴った。

 「汚れなさい!汚れて、私を犯せばいい!それが大人になるということよ!」

 「それなら…それなら僕は、大人になんかなりたくない!」

 「馬鹿な子供ね!大人にならなきゃ、自分が成功したいと思っている世界にだって出れないのよ。それがわかって言ってるの?」

 途端に私の目の前は真っ暗になった。私は何も言わずに、ただその場で、目の前にいる先生の存在に怯え、震えていた。

 私は駆けだした。私は玄関へと向かい、自分の靴に無理やり足を突っ込むと、それが履けていない状態のまま外に出た。

 私は走った。私は宛もなく走った。辺りは既に夕暮れ時であった。空は静かに暗闇へと落ちていき、世界は夜に染まりつつあった。私は自分がどこにいるかもよくわからなかった。息が乱れ、全身からは汗が吹きでた。

 気がつくと、私は泣いていた。私は立ち止まった。夕闇に飲まれる自分の影法師を眺めながら、自分がこれからどうすればいいのかを考えていた。もう何もわからなかった。私は何もわからず、ただ消えていく太陽と共に、途方に暮れていた。


 数時間後、私は自分の家の前にいた。しかし、私は家に上がらなかった。まゆりに会いたかった。彼女の顔を一目見て、安心したかった。

 私は時間を確認した。既に夜の礼拝は終わり、まゆりは家に帰っているはずの時間であった。まゆりの父は、金曜からの出張でら家をあけていた。

 まゆりの家の玄関の前に立つと、私は呼び鈴をならした。反応がなかった。加えて何度か鳴らしたが、誰の声も聞こえなかった。私はふと、玄関の取っ手を動かした。すると、それは動いた。

 私は不安にかられ始めた。私は玄関の戸を開けて、家の中に入り、階段を昇って、まゆりの部屋の前へと向かった。

 部屋の前の扉に戸に着くと、私はノックをして、言った。

 「まゆり?いるの?」

 返事はなかった。私は何度か聞き返した。しかし、やはり物音一つしなかった。

 やがて私は、ゆっくりと、恐る恐る、部屋の戸を開けた。するとまゆりは、ベッドの上で、身を起こしながら項垂れていた。顔は前髪によって隠れていた。だから、彼女がどんな顔をしているのか、それはわからなかった。

 私は静かに、何かを確かめるような口調で、言った。

 「まゆり?」

 まゆりは身動き一つ取らなかった。そして数秒後、沈黙の中から、彼女は重い口調で、言った。

 「こんな時間までどこにいたの?」

 私は戸惑った。やや間を置いたあと、私は言った。

 「ごめん、言えない」

 まゆりは怒鳴った。

 「言えないって何!私、知ってるよ。りえ先生の家に居たんでしょ。違う?」

 私は唖然とした。

 「どうしてそれを?」

 「今日、あなたが何も言わずに外に出たから、私、あとをつけたの。そしたら、そこに先生がいて…」

 私はその場に立ち尽くしていた。再び息が荒れ始めた。私がまゆりに近づこうとすると、まゆりは立ち上がって、私を睨みながら、言った。

 「これ以上私に近づかないで!不潔よ!」

 「違うんだ、まゆり…僕は先生に小説を読んでもらおうと思って…」

 「ならどうして私には読ませてくれないの?あなたはやっぱり先生のことが好きなのね!」

 「一体何を言っているんだ!まゆり、どうしてそんな馬鹿げたことを…」

 「だって、あなたはいつも私に心を開いてくれないじゃない。もうずっと前から、私には、あなたが本心から話しているのか、冗談なのかがわからないのよ。あなたはいつも、いつも私に本心を話してくれない。面白おかしい態度をとってばかりで、自分が本当に考えていることは何も言ってくれない。ずっと距離を感じている。ずっと距離を取られているように思いながら生きてきたの」

 私の守ってきた日常が音を立てて崩れていった。

 「違うんだ…まゆり…僕が…僕が愛しているのは…」

 「先生の前ではあんなに楽しそうなのに、私といる時にはちっとも楽しそうじゃない。私が面倒ならはっきりそう言ってよ!」

 彼女は両手で顔を覆った。そしてその場で泣き崩れた。私にはもう耐えられかった。私はまゆりの傍へ駆け寄った。そして、彼女を強く抱きしめた。

 「僕が愛しているのは君だけなんだ!まゆり!僕には君しかいないんだ!君じゃなきゃ駄目なんだ!なのに、なのにどうしていつも上手くいかないんだ!」

 私は彼女と顔を合わせた。まゆりは泣いていた。幼い頃と同じように泣いていた。しかし、そこにはかつてない感情が含まれていた。まゆりは怒り、憎み、そして悲しむことで、自分の表情を歪めていた。胸が痛かった。私は再びまゆりを抱きしめた。私はまゆりを愛していた。私にはまゆりしかいない、そのはずだった。しかし、どういうわけか、私達はいつも上手くいかなった。

 まゆりは泣いていた。幼い頃と同じように泣いていた。しかし、今度の彼女を泣かしたのは、他でもない、私であった。全ては私が悪かった。私は誰よりもまゆりを傷つけていた。私は気がついた。まゆりが今日までに私に示した態度は、皆彼女から見た私の態度の真似事であった。

 知らぬ間に、私も泣いていた。私達は静かに泣いた。いつまでも、いつまでも泣いていた。

 やがて私は再び口を開いた。

 「そうだ…まゆり…一緒に何処か遠い所へ逃げよう。そこで二人でやり直すんだ…何もかも、始めから…そうして、楽しかったあの頃に戻ろう…ここにいても苦しい思いするだけだ…何処か遠い、誰も僕達のことを知らない街へ行こう…あの頃の、失われた幼少期の続きを、そこでするんだ…」

 私にはわかっていた。もうずっと前から、私達はやり直すことが出来なかった。私達の関係は既に修復不可能であった。しかし、そんな事はどうでもよかった。私にはまゆりを手放すことが出来なかった。私はまゆりを愛していた。誰よりも愛していた。このまま一緒にいては、私達は決して幸せにはなれないことも、前に進むことが出来ないこともわかっていた。しかしそれでも、私にはまゆりとの関係を諦めることが出来なかった。

 私の言葉に対して、まゆりは何も言わなかった。ただ黙って泣いていた。私達は抱き合いながら、互いに泣いていた。時間は静かに、しかし無情に、私達の傍らを過ぎていった。これからどうするべきか、私にはわからなかった。

 

(終わり)

小説『神様の話』 その六

 

 あの頃、私はまゆりと私自身を題材にした小説を書いていた。そこには、ただひたすらに私のまゆりに対する苦悩が描かれていた。

 当時、私は詩人リルケの書物を愛読していた。リルケは手紙の中で、創造行為とは無限に孤独なものであると書いていた。私は彼の意見に概ね同意であった。何かを生み出すということは、孤独になるということであり、苦しむということであった。


 ある晩、私は自室にこもり、まゆりとも先生とも接触を取らずに、自分の小説の執筆に勤しんだ。

 いつからか、私は夜の孤独を愛するようになっていた。夜、明かりの少ない部屋で孤独に過ごしていると、世界中が暗闇に包まれていき、自分以外の誰もそこには存在していないような心地がした。それは私に切り裂くような寂寥感を与えた。そして、私はこの苦しみの虜になっていた。

 そんな中で自分の小説に取り組んでいると、やがて私はひとつのことに気がついた。それは、私がまゆりとの幸福な思いに浸っている時には、決して小説が書けないということであった。


 幼い頃から、私は沢山の本に触れる機会に恵まれていた。そして私が一つ一つの不幸を積み重ねていくにつれて、私の読書への意欲は増していった。やがて私は作家になることを夢見るようになった。私は私の好きな作家たちのように、独自の思想を展開して、素晴らしい文章を書きたかった。

 歳を重ねるにつれて、私は本を読む量が増えていった。それに比例するかのように、まゆりと私の関係は複雑になっていった。そして、関係が複雑になるほど、私は読書の世界に熱中するようになった。

 私はまゆりのことで思い悩んだ。思い悩み、そして苦しんだ。苦悩に直面すればするほど、私は自分の内側にこもり、思索をした。まゆりに対する苦悩、そして孤独。それだけが私の創作根源だった。私が思索し、執筆するとするならば、そのための孤独と苦しみが必要不可欠であった。

 まゆりとの触れ合いは私に幸福な感情を与えてくれた。しかし、まゆりと関わるほど、私は小説が書けなくなり、哲学に思いを馳せることが出来なくなった。私は、自分の孤独が失われていき、自分の苦しみが緩和されていくほど、自分が憧れていた世界から遠ざかっていくことに気がついた。

 私は本を愛し、思索を愛した。私は作家になることを夢みた。しかし、それはまゆりと結ばれて、幸福な家庭を築く未来には決して存在しえない事実であった。


 私は誤解していた。まゆりが私を避けるようになったのは事実であった。しかし、それよりも先に、私がまゆりを避けていたのであった。私は初めから、まゆりを求めながら、同時にまゆりを拒んでいた。まゆりから距離をとり、近づきすぎないようにしていた。もし私がまゆりとの関係に完全な幸福を覚えてしまったら、もはや本を読むことも、小説を書くことも出来なくなると、無意識のうちにそう感じていたからであった。

 子供の頃から、私は、少しずつ自分のうちにあったもの、この広莫とした孤独の世界に気づいていた。そして、それが崩れていくのを恐れていた。だから私は、まゆりを愛しながら、まゆりを恐れた。まゆりが完全に私のものになってしまったら、私はもう作家になることを諦めなければならなかった。

 私は夜通しで小説を書いた。その時、私は孤独を感じた。苦しみを感じ、悲しみを感じ、絶望を感じた。そして、それらを感じるほど、私がペン先を動かすのははやくなった。私は取り憑かれたように書いた。そして書けば書くほど、私の内側にある暗闇があらわになった。私はさらに多くの暗闇を必要とした。執筆の中で、私はさらに孤独を求めた。苦しみを求め、悲しみを求め、絶望を求めた。執筆の速度は益々加速していった。

 私はまゆりと一緒になりたかった。まゆりと結婚し、まゆりと家庭を作ることに憧れていた。しかし、それは無理であった。まゆりがそれを受け入れてくれるかわからなかったが、しかしそれ以上に、私がそれを拒んでいたのであった。私はまゆりとずっと一緒にいたかった。しかし、それは、私の孤独の世界が壊れることを意味していた。そして、それが壊れるということは、私が作家になることを諦めなければならないということでもあった。


 私は、ふとリルケの残した別の言葉を思い出した。芸術作品は必然によって生まれる時にのみ良い、彼は手紙の別の箇所でそう書いていた。私にとって、この小説を書くことは必然であった。そこには、私がまゆりに対して語ることの出来なかった言葉の全てが注がれていた。そしてこの必然が生じるためには、孤独が、苦悩が、苦しみが、悲しみが、絶望が必要であった。

 私は自分の不幸にしがみつかなければ創作が出来なかった。私はその事に気がついた。そして、そのことに気がついて、泣いた。私は泣いた。泣きながら小説を書いた。書きながらその事を感じて、泣いた。私は彼女なしでは生きられなかった。しかし、このままでは、私は彼女と共に生きることも出来なかった。

 私には、この衝撃が耐えられないもののように思われた。私は益々大きな孤独を覚えた。私の苦悩はさらに猛烈なものとなった。苦しみが、悲しみが、絶望が、肥大化していった。そして、そうなるにつれて、私はさらに執筆に情熱を注いだ。

 私は狂ったように書いた。それまで、小説の執筆は不定期に行われていた。私は折々にそれを書いては、折々にそれを中断した。しかし、その晩、私は書いた。机にしがみついて、ただひたすらに、書いた。それは不気味な感覚であった。そうせざるを得ない、何か必然的なものに突き動かされているような感覚であった。私には書くことしか出来なかった。私にはそれ以外に他の選択肢が存在しなかった。ただ書くことだけが私の帰結であった。

 私は数時間、机を離れずに、ただひたすらに小説を書いた。やがて朝を迎えた。カーテンから日差しが差し込み、薄暗かった部屋が音もなく崩れ去っていった。

 私は呆然と椅子にもたれかかっていた。私は小説を書き終えた。


 書き終えると、様々な思いが私の頭に浮かんできた。

 私はまゆりを愛していた。幼い頃から、私は決してまゆりを傷つけることだけはしてはならないと思って生きてきた。しかし、もしまゆりと共に生きていくとを望むと同時に、作家になることを志すならば、私は必然的にまゆりを傷つけることになるように思われた。

 まゆりとの幸福な未来を空想することは、私にとって唯一の希望であった。もしまゆりとの幸福な未来を手に入れるならば、私は小説家になることを諦めなければならなかった。私の創作根源は孤独であり、また苦悩であった。そして、私が孤独を求め、また苦悩を求める限り、私は決してまゆりと幸せになることは出来なかった。

 一体こんな事をして一体何になるのだろうか?誰かを不幸にして、誰かを苦しめなければ生きていけないのだとすれば、何故そうしてでも、私は生きようとするのだろう。何もかもが馬鹿げているような気がした。それとも私が考えすぎているだけなのだろうか?

 私は自分のためにしか生きることが出来なかった。しかし本当は、私はまゆりのために生きたかった。わざわざ他人を不幸にしてまで何かにしがみつくことが間違っている、私はそう思われた。しかし私には、やはりまゆりが諦めることも出来なかった。

 私には死ぬことも出来なかった。私は生きることに未練と後悔しかなかった。このままでは決して死にきれなかった。私は他人に不幸をまき散らして生きていた。そして、一体何故そんなにまでもして生きる必要があるのかと思った。さっさと消えてしまいたかった。


 私はしばし呆然としていた。しかし、やがて私はその場から立ち上がると、りえ先生に電話をした。先生は起きていた。私は朝の挨拶もせず、向こうが電話に出るとすぐに、言った。

 「小説を書き終えました。今日、読んでくださいませんか」

 先生はただ一言、全てをわかっているかのように、答えた。

 「うん、いいよ」


 先生が目の前に現れてから、私とまゆりの関係性は変わった。または、私がこれまでに気づいていなかったことに気づいただけなのかもしれない。

 私は今日までに先生が私に語ったことを思い出した。先生は狂女であった。しかし、この狂女は真実を語っていた。私は彼女の語る真実によって追い詰められた。しかし、私の創作根源にあるのはまゆりであったが、私が小説を完成させるきっかけを与えてくれたのは誰かとなれば、それは他ならない、この先生であった。

 私は先生に私の書いた小説を最初に読んでもらいたかった。私を捨てた母に似たこの女、私にとって因縁である女、私達の日常を壊しながら、私が見たくなかった真実を教えてくれた女、私の創作根源が何であるかを教えてくれた女、私の師あり、また私が対峙なければならないこの女に。


 その日は日曜日であった。私はシャワーを浴び、食事を取ると、着替えを済ませて外へ出た。電話の際、私は先生からある場所を指定され、彼女はそこを集合地とした。私はそこに向かっていた。

 家を出る際、私はまゆりに何も言わなかった。

 指定された場所につくと、そこには先生がいた。そして先生は言った。

 「行きましょうか」

 私は先生について行った。先生は自分の家で私の小説を読みたいとの事だった。

小説『神様の話』 その五

 

 次の日、まゆりは普段通りに学校に登校していた。それと同日の夜から、私はりえ先生と連絡を取り合う事となった。毎晩、私は先生と数分間だけのやり取りを電話越しにした。

 私はそれをまゆりに告げなかった。決して疚しいことをしているという意識はなかった。ただ、まゆりを必要以上に悩ませたくなかった。そして何より、まゆりに余計な誤解を与えたくなかった。私はまゆりに何も言わないことを選択した。

 あの時のことを思い返すと、私は同時に私達の中学一年生の頃のことを思い出す。

 まゆりが保健室登校を始めると、私はそれまで関わりのあった友人達と縁を切った。彼らに話しかけられても、私は出来る限り何も話さなかった。私は彼らを避けた。すると、次第に彼らも私を避けるようになっていった。

 入学当初の友人の中には、同性だけでなく異性も何人かいた。私が周囲の人間と距離を取るようになってから一ヶ月と経つ頃には、既に殆どの人は私をいないものとして扱うようになった。しかし、それと同時期に、私は同じクラスの女子生徒から放課後に呼び出された。彼女は私のかつての友人だった。私は恋愛の告白をされた。そして、どこから嗅ぎつけたのか、まゆりはそれを影から見ていた。

 その日の帰り道に、まゆりは私に言った。

 「あなたみたいな人を好きになるなんて、物好きな人も居るんだね」

 恐らく、まゆりは怒っていた。そしてそれ以来、まゆりは私のことをあまり認めてくれなくなった。

 まゆりは美しかった。私はよくまゆりのことを「綺麗だ」と言って褒めた。それは私の本心からの言葉であった。私も比較的他者から容姿を褒められる方の人間であった。しかし、まゆりは一度も私の容姿を褒めたことがなかった。それだけでなく、まゆりは私が他から褒められるような点を、一度も褒めてくれなかった。それも恐らく、あの時以来のように思われる。

 唯一、彼女が私の中で認めてくれたのは、私の読書量についてだけであった。

 私はまゆりに認められたかった。私とまゆりの付き合いは長かった。しかし私には、まゆりが私を心から愛していると言い切れる自信がなかった。そしてまゆりは、きっと私と先生のことを知れば、また以前のように不機嫌になるに違いなかった。私はまゆりを無意味に苦しめたくなかった。そして私には、自分が愛しているのは彼女だけであるということを、何とかして示さねばならぬ義務があった。


 ある晩、私はその事をりえ先生に伝えた。

 私は先生のことを頭のおかしい女だと思っていた。そして、恐らくそれは事実であった。しかし同時に、彼女の語る言葉の節々に真理が含まれている事も、私にはまた事実のように思われた。

 私はやがて先生に心を開いていった。その結果として、私は上の時の出来事をりえ先生に話した。それ以外にも、私とまゆりのその他のことや、私自身の家庭のことなどを話した。私とまゆりの関係について詳しく聞くと、先生は次のように語り始めた。

 「君は本当にまゆりさんのことが好きなの?」

 「え?」

 「だって、まるで苦行のようにまゆりさんを愛しているじゃない。私には君が、義務とか責任とか、そういったものに縛られていて、本当はまゆりさんのことなんて見えていないように思えるの」

 「まさか。僕はまゆりが好きです。そして好きだからこそ、僕は彼女に負うべき義務と責任があるのです」

 「それよ、それが私には理解できないの。私には君が、まるで無理をして彼女を愛そうとしているみたいに見えるんだ。違う?」

 私はりえ先生の言っていることが上手く理解できなかった。先生は続けて言った。

 「まゆりさんと君、あまり相性が良くないんじゃないかな。このまま関係を続けても、お互いに苦しむだけだと思うよ」


 私とまゆりの性格が合わないのかもしれない。それは私自身、何度か考えたことがあった。そしてまゆりも、きっと何度かそう考えたに違いない。

 しかし、そんな事は皆どうでもよかった。私はまゆりにしがみついていた。もしかすると、私はまゆりを愛しているというよりも、まゆりに執着していたのかもしれなかった。しかし、それさえもどうでもよかった。私はただ、まゆりとこれから一緒にいることのできない将来のことを考えると、不安になった。そして、私にはその不安が耐えられなかった。だから私はまゆりにしがみついていた。私は壊れゆく絆をつなぎとめようとした。それ以外に私にはどうしようもなかった。


 連絡を取る上で、私のことだけでなく、先生のこともよく話題に上がった。私は先生にまつわるいくつかの事実を知った。まず一つが、先生には大学院で哲学の研究をしている恋人がいるということだった。次に知ったのが、先生と先生の恋人は、より自由な関係のもとに恋愛をしているということであり、そのために、お互いにお互い以外の人間とも肉体関係を持つことがあるということだった。

 私は内心軽蔑の念を抱きながら、言った。

 「まるでサルトルボーヴォワールですね」

 先生は笑いながら答えた。

 「私の恋人はサルトルみたいな醜男ではないわ」


 時折、私は、先生が私のことをどう思っているのか疑問に思った。しかし、その疑問は決して口にしてはならないもののように私には思われた。

 私は先生の恋愛遍歴をいくつか聞いた。そしてそれを聞くにつれて、私は不安になった。

 先生は性に対して奔放な人だった。彼女は自分の快楽のためなら何でもした。そしてだからこそ、私は不安になった。もしかしたら私が知らないだけで、まゆりもこんな風に男遊びをしているのかもしれないと思った。そしてそう思うほど、益々不安になった。彼女は私に隠しているだけであり、もしかすると、私の知らないところで逸楽に身を浸しているのかもしれない。

 冷静に考えれば、それはありえない話であった。それでも、私には、彼女が私以外の男と私以上に深い関係を持っているのかもしれない、または、私の知らないところで、彼女が自分の肉体を誰かと共有しているのかもしれない、そのような疑惑が離れなくなっていった。

 そしてこの疑惑は、先生と関わるにつれて益々深くなった。


 学校では、私は先生と何もなかったかのように過ごした。そして、先生もまたそのように振舞ってい。

 まゆりは先生のことを気に入っていた。私達はよく、先生と三人で放課後の校舎を過ごした。

 ある日、まゆりは今度の日曜日に先生を私達の教会に連れていこうと言い始めた。私は教会が私とまゆりだけの居場所だと思っていた。だから、心外だった。しかし、まゆりからのお願いだから、私はそれを許すことにした。

 ある日曜の夜、りえ先生は私達の教会の礼拝に出席した。礼拝堂には私とまゆりと牧師、そして先生しかいなかった。礼拝後、牧師は彼の書斎に私達を招待した。牧師は寡黙な性格をしていたが、とても心の寛容な人であった。彼はこのように、よく初めて礼拝に参加した人を自分の書斎に招いているらしかった。

 書斎に入ると、先生は部屋中を見渡した。そして、そこに収められている書物の多さに驚いた。彼女は私達の方を見て、言った。

 「こんなに沢山の本に囲まれて過ごしてきたの?まるでサルトルね」

 私は笑いながら先生の言葉に返した。

 「あんな軽い男にはなりたくないですね」

しかしあの頃、私は作家としてのサルトルには憧れを抱いていた。サルトルは哲学者であると同時に小説家でもあった。彼の代表作は、哲学書よりも先に小説であり、彼は哲学書にも、小説にも、そのどちらにも功績を残していた。私はサルトルのように、哲学的で、心理描写の細かい小説が書きたかった。サルトルの人となりは軽蔑していたが、作家としてのサルトルは、私にとって一つの目標であった。

 その事をまゆりと先生に話すと、先生は言った。

 「じゃあ何か小説を書いたりしてはいないの?」

 「実は書いているのですが、恥ずかしくて誰にも発表できなくて」

 私がそう言うと、まゆりが大きな声で口を挟んできた。

 「ええ!何それ!聞いていない!」

 話せるはずがなかった。私がその時に書いた小説の題材は、私とまゆりについてであった。私のまゆりに対する悩みが、そこにはそのまま吐露されていた。それを本人の前で発表するなど、私には出来なかった。

 私は小説についての話を濁した。それから少ししてから、その日は解散となった。


 それから後日のこと。学校の短い休み時間に、私は先生と廊下で偶然出会った。私達はその場で少し話し込んだ。私は先生に言った。

 「先生は僕の母に似てますね」

 「へえ、そうなんだ。どんな人なの?」

 「いえ、もう暫く会っていないからわかりません。ただ、あなたのように頭のおかしい女でした」

 「何それ、酷い」

 私達は笑った。そして笑いながら、私は続けて先生に言った。

 「僕は母に似ている先生のことが大嫌いです」

 「そう、ありがとう」


 私と先生が別れると、それを見計らったかのように、曲がり角からまゆりが現れた。まゆりは言った。

 「先生と何を話していたの?」

 私は答えた。

 「何も。ただの下らない話さ」

 「いつからあんなに仲良くなったの?」

 「仲がいい?まさか。僕は先生のことが嫌いだよ。それに、僕よりもまゆりの方が仲がいいだろ」

 「ふーん」

 不機嫌なまゆりを見るのは可愛かった。彼女がすねているのを見ると、私は自分達が子供のままなのを知って、嬉しくなった。私は彼女をあやす様に機嫌を取りたくなった。私は彼女の顔を見つめながら、言った。

 「さあ、行こう。授業に遅れちゃうよ」

 まゆりの顔を見ていると、先述のような不安は馬鹿げたもののように思えてきた。時折私は、まゆりとまた以前のように、いさかいを忘れて、幼い頃と同じように楽しく過ごすことが出来るような気がしていた。そして、それだけが私の唯一の希望であった。

 私は淡い期待を抱いていた。どれだけ関係が拗れようとも、私達はまだやり直せると、私は心のどこかで信じていた。

小説『神様の話』 その四

 

 先生が私の左頬に口づけした日、私は、先生が私の母に似ていることに気がついた。

 産まれて間もない頃から、私には父がいなかった。しかし、父は決して死んだ訳では無かった。彼は私の父になることと、母の夫になることを拒んだのである。私の父と母が知り合ったきっかけは、当時の私の母のしていた、水商売を経由してであった。

 幼い頃、私は母に可愛がられた。私は父に会ったことがないが、父は線の細い、美しい顔をしているらしかった。彼女は私が父にそっくりだとよく言っていた。そしてよく、私の左頬に口づけをしていた。私はそれを照れくさく思いながら受け取った。母が私の頬に唇を押し当てる度に、私は嬉しいような、恥ずかしいような気持ちになった。

 時折母は、私の顔を見て、私が女の子だったらいいのにと言った。私はよく母から女の子の服を与えられた。私はそれを着て、母の前で、よく女の子として振舞った。私は別の名前を名乗り、私達は楽しくおままごとをしていた。

 しかし、やがて母は私の前から消えた。五歳の時のことである。母は私を親戚に預けた。母には私を育てるだけの金銭がなかった。また、自分よりも若い恋人と逃避行をするためには、私の存在が邪魔であった。

 以来、私は母に一度も会っていない。


 初め、私にはこれらの記憶がどういう意味を持つのかがわからなかった。しかし、歳を重ねるにつれて、私は物事がわかるようになっていった。そして次第に、私と母との記憶は、私を苦しめるようになっていった。私は母が許せなった。私には母が不潔で、けがらわしいもののように思えた。私は母が私の左頬にした口づけの感触を覚えていた。だから時折、私は何もない自分の左頬を執拗に洗った。私には母との思い出が不愉快に思えてならなかった。鏡を見ると、そこに映る自分が汚れているように見えた。

 私が小学三年生だった頃、どこからか、私が捨てられた子供だという噂が流れ始めた。やかわて私もその噂に気がついた。そして、私は噂を通して、自分自身の真実を知った。私にはこの世の全てが耐えられなかった。生きることは苦痛であり、絶え間なく続く拷問の繰り返しであった。

 放課後になると、私は家に帰るのが怖かった。居候先である親戚の夫妻は、私を笑顔で家に迎えてくれた。しかし、心のどこかで、いつまで彼ら二人が、私のことを邪魔者扱いしているのではないかという不安が消えなかった。

 夜、浴室でシャワーを浴びた後、リビングからは二人の話し声が聞こえた。私は浴室を出て、リビングに向かうのが怖かった。私は彼らが自分の悪口を言っていたらどうしようと思った。私は勝手に、親戚の夫妻が、あいつはいらないとか、あんなものを押し付けやがってとか、そんなことを言っているのではないかと妄想した。そう考えていると、きっと彼らも私を捨てるのだと思った。私は彼ら二人に心を開くことが決して出来なかった。母が私から去っていったように、皆が私から去っていくような気がした。

 無論、夫妻は私に優しく接してくれた。しかし、優しく接せられるほど、私は彼らの優しさを恐れた。何故私に優しくするのか、その理由がわからなかった。そして、その優しさがいつか失われるのを恐れた。結局、私は夫妻が死ぬまで、彼らに心を許すことが出来なかった。

 学校が終わり、草原に行くと、いつもまゆりが私を待っていてくれた。彼女の前で、私は楽しく陽気な道化を演じた。今思えばそれは、まるで私の不安や恐れに満ちた現実を忘れ、逃避するかのような行いであった。彼女の前でなら、私は自分の幼少期をやり直せるような気がした。彼女は同じように自分の幼少期を失っていた。まゆりとの繋がりは、母を失って以来、私が唯一心の底から信じられるものであり、私が初めて手に入れた心の拠り所でもあった。

 私の母に対する感情も、次第に薄れ、やがて忘れていった。私にとって、私の母にまつわる記憶とは、私が忘れていたものであり、また私が忘れようとしていたものであった。


 そんな中、先生が私の前に現れた。私は母に似ている先生を無意識的に嫌悪していた。そして先生に左頬を口づけされたあの日、私は忘れていた母の記憶を思い出してしまった。先生は、身振りや手振り、動作に仕草、そして発言から言動まで、その全てが私の母にそっくりであった。

 先生に頬をキスされた後、私は非常に気恥ずかしい気持ちになると同時に、先生の行為が不愉快に思われた。それは忌々しく、不潔な、けがらわしいものであった。私は顔をしかめた。私は先生が憎くなった。家に帰ると、私は何度も左頬を洗った。


 次の日もまゆりは学校を休んだ。昨日は自分の問題で精一杯で、まゆりのお見舞いにいけなかった。クラスにつくとすぐ、私は窓の外を眺めた。まゆりに会いたかった。彼女は今何をしているのだろう。苦しそうに寝込んでいるのかもしれない。今日こそお見舞いに行こう。今日は早く帰らないと。私はそう思った。

 しかし放課後、私はりえ先生から呼び出しをくらった。断ることも出来ずに、私は彼女以外に誰もいない、小さな教室に向かった。それは私達のクラスから離れた場所にあった。

 私が戸を開けると、先生は既にそこにいた。先生は窓際に腰をかけながら、言った。

 「昨日はごめんね」

 「いえ、別に…」

 私は口ごもった。本当は強くものを言うつもりであったが、先に謝られると、大きな態度をとることが出来なかった。先生は話を続けた。

 「まゆりさんは今日もお休みなの?」

 「ええ、体調を崩していて」

 「そう」

 私達は沈黙した。以前から、私は先生との沈黙を気まずく思っていた。私は先生と目を合わせることが怖かった。

 先生が再び口を開いた。

 「ねえ、まゆりさんとはどんな関係?」
 
 「どんなって、友達ですよ」

 「でも、昨日はまゆりさんのことが好きだって言っていたじゃない」

 「誰よりも好きですよ。でもそれとこれとは関係がない」

 「嘘ね、君が関係させたくないと思っているだけよ」

 やはり私は先生が気に入らなかった。私はやや憤りながら、先生に言った。

 「先生に僕の何がわかるんですか」

 「わかるよ。君は臆病で、内気な性格をしているね。君は人間が嫌いで、生命を軽蔑している。君は非生命的なものに憧れている。だから誰かと真っ当な関係を持つことが出来ない。いつまでも自分の子供っぽい価値観にしがみついている。違う?」

 私は何も言わなかった。驚きと悔しさに襲われながら、私は、ただじっと相手を睨みながら、無言で突っ立っていた。

 先生は話を続けた。

 「知っている?人が最も恐れているのはね、退屈なの。そして、人が一番我慢できないこと、それは部屋で何もせずにじっとしている事なのよ。

 人は刺激を求める。人は感覚によって何かを感受し、そうして自分の感覚を成長させる。つまり、感覚に与えられた刺激がその人を形成する。逆に言えば、感覚に何の刺激も与えられなければ、その人は成長できない。刺激がなければ、人は生きた心地が味わえないの。

 だから、こうも言うことが出来る。人は幸福であるためには、ある程度不幸である必要がある、とね」

 私は驚きと戸惑いの思いに駆られながら、言った。

 「正気ですか?」

 先生は私の問いに答えずに、続けた。

 「プラトンの『パイドン』はもう読んだ?その中で、彼はソクラテスの口からこんな事を語らせているわ。『人が快楽と呼んでいるものは、正反対にあるはずの苦痛とひどく奇妙な関係にある。それは二つでありながら、頭は一つである』とか、そんな感じの事ね。人が快楽を味わうためには、ある程度の苦痛が必要なの。

 自分がこれまでに味わった不幸の度合いが、自分がこれから味わう幸福の度合いを決める。苦しみの先にこそ快楽がある。だから喜びを味わいたいと思うなら、苦しみを、悲しみを、絶望を肯定しないといけない。私には、君が苦しむことを恐れている、内気な青年に見えるの。でもね、君が幸福になるためには、君は一度不幸にならなければならない。不幸という刺激がなければ、君は幸福を知ることが出来ないからね。

 感覚による経験が人の人生を形成する。だから、感覚に与えられる刺激を恐れて、一つの所に停滞しようとすることは、誤りなの。刺激を求めなさい。苦痛を求め、悲しみを求め、不幸を求めるの」

 私は何も言わずに、ただ黙って先生の話を見ていた。私には彼女の頭がおかしいとしか思えなかった。

 数秒の間、先生は沈黙した後に、再び語り始めた。

 「まゆりさんだって、きっと日常に刺激を求めているはずだよ。今よりも素敵な現実を夢見るような人じゃないと、読書なんてしない。退屈な毎日に刺激が欲しいから読書をする。違う?」

 「僕をどうしたいんですか」

 私がそう言うと、先生はメモ帳を取り出して、その一ページを切り取った。そこにボールペンで何かを書いた後、彼女はそれを私に渡した。

 「私の連絡先よ。これから毎日連絡を取りましょう」

 「あなたは一体何を言っているんですか?」

 「君に興味があるの。きっと今、君はまゆりさんとの関係が上手くいっていないんでしょ。顔を見ればわかるよ。だから、私が相談に乗ってあげる。きっと上手くいくようになるわよ」

 「上に訴えますよ」

 「君は絶対にしない。私にはわかる。君は優しい人だから」

 「ただ臆病なだけです」

 ここで話が再び途切れた。先生は笑いながらじっと私を見ていた。そして最後に、こう言った。

 「連絡、待っているね」


 家に帰ると、私は真っ先にまゆりの家に向かった。まゆりは部屋のベッドの上でじっとしていた。私は買ってきた飲料水などを渡し、まゆりと少し話をした。私の守るべきものがここにはあった。そして私は、これを生涯愛し続けるつもりでいた。

 話の最中に、ふと私は、まゆりにこう言われた。

 「ねえ、今日は学校で何かあった?」

 私は少し押し黙った。しかしそれから、微笑みながら、彼女を見つめて、言った。

 「いや、特に何もなかったよ」

 私がするべきこと、それはまゆりを傷つけないことであり、彼女に余計な心配をさせないことであった。

小説『神様の話』 その三

 高校二年の頃から、まゆりはアルバイトを始めた。彼女は、私達の家から少し離れた所にある、自営業の喫茶店で働いていた。まゆりが体調を崩して学校を休んでいたのはそのためであった。慣れない、新しい生活様式に疲れているらしかった。

 働き始めてから一ヶ月が経つ頃、私は彼女の勤務先である喫茶店に顔を出した。まゆりは楽しそうに働いていた。店内にはそれなりの客がいて、テーブルもよく埋まっていた。その中を、まゆりは忙しそうに立ち回っていた。私はそれを眺めながら、突如、自分がどこか遠くに取り残されているような心地がした。


 私達とは一体何なのだろう。時折、ふとそのような疑問が浮かびあがった。

 いつからか、まゆりは心から笑うことが少なくなっていった。私はまゆりを喜ばせようと、よく彼女の前で道化のように振舞った。それは私が幼い頃に彼女の前で振舞ったものと同じであった。しかし、彼女は幼い頃と同じように笑ってはくれなかった。もうずっと前から、私達の関係は複雑なものになっていた。

 私にはわかっていた。私はまゆりを決して傷つけてはならないと考えていた。しかしそれは、本当にまゆりを傷つけたくないからではなく、私自身が傷つくことを恐れていたからであった。

 私は停滞することを求めた。私は、私達の幼少期から、一歩も外に出たくなかった。私は幼い頃のまゆりの幻影に取り憑かれていた。平和で、楽しくて、何の悩みも苦しみもないように思われたあの頃。あの頃の私達の世界に、私は取り憑かれていた。

 歳を重ねるにつれて、まゆりのために悩む時間が増えていった。私はまゆりの不機嫌に何度も苦しめられた。しかし同時に、私はそれを喜んでいた。まゆりが気難しく、容易に人を愛さない性格をしているということは、むしろ私を安心させた。それは、まゆりが決して私から遠くに行かないという感覚であった。

 私は幼い頃のまゆりの笑顔を取り戻したいと願っていた。しかし同時に、私は笑顔の失われたまゆりを、そのまま私の世界に閉じ込めたいとも思っていた。

 私はまゆりと唇を重ねたことがなかった。そして、肉体を重ねたこともなかった。しかし、それでもいいような気がした。私にとって、性は重く、暗く、苦しいもののように思われた。これから先に恐ろしいものが待っているかもしれないのに、何故わざわざその先に足を踏み入れる必要があるのだろう?

 私はまゆりを愛していた。しかし、私は一度もまゆりの裸に触れようとしなかった。私は性を恐れていた。私は肉体を恐れ、生身の彼女を恐れていた。私は彼女を愛すると同時に、彼女を恐れていた。

 時折、自分の同級生たちが恋愛話をしているところを、偶然にも耳にした。しかし、私には、誰と誰が関係を持ったとか、または持たないとか、どうでもいいように思われた。それらの話は、むしろ聞いていて不愉快な気持ちになった。軽率で、不潔な、俗物のすることであった。私はそのようなけがらわしい世界と関わりを持ちたくなかった。

 私は心のどこかで性を嫌悪し、軽蔑していた。かと言って、私に肉体的な欲求がないと言えば、それは嘘になった。白状するが、私は年頃に、偶然まゆりの身体に触れて、その肉体のやわらかさに欲情したことがある。その時、私は自分自身に失望した。自分の感情が不純であるように思われた。

 私にはわからなかった。皆、何故そう簡単に誰かの肉体を求めることが出来るのか。私には、性が、肉体を求めるという行為が、相手を傷つけることのように思われた。私はまゆりを傷つけたくなかった。そして何より、まゆりを傷つけることによって、私は自分自身を傷つけたくなかった。

 いつからか、私はまゆりに対してひとつの虚像を作り上げていた。私はその虚像を、私の考えたまゆりの虚像を愛していた。

 まゆりが厭世的になって、教会に通い始めたことは、私がまゆりの虚像を益々信仰することに繋がった。まゆりがクラスに出席しなくなったことは、私に大きなショックを与えた。しかし私達が歳を重ねてゆき、周囲から不潔な、けがらわしい話が聞こえてくるにつれて、私はまゆりが保健室登校をする生徒で本当によかったと思った。

 私のまゆり、私だけのまゆり。私が恐れるものや、私を苦しめるものから切り離されたまゆり。私の世界に閉じ込められたまゆり。まゆりがそのようなだと信じていたからこそ、私は心からまゆりを愛していた。

 幼い頃から、私はまゆりのために生きようと思って生きてきた。しかし、私はまゆりを守るふりをして、私は他ならない私自身を守っていた。彼女の言う通り、私は自分のことしか考えていなかった。

 まゆりの働く喫茶店に行った時、まゆりは私達と同年代くらいの若い男性客と話していた。その姿は楽しそうに見えた。まゆりがその時に見せていた笑顔が、心からのものかどうかはわからない。しかし、それでも私は不安になった。

 私はふと、これからまゆりの隣に居続けるのが私ではなく、あの男性客であったら、と考え始めた。何故私である必要があるのだろう?私は偶然、他よりまゆりと仲良くなる機会が与えられた人間に過ぎない。私と彼の間に何の違いがあるのだろう?何故私であり、彼ではないのだろう?私は彼や他の男と同じに過ぎないのではないか?私の代わりなどこの世に大勢いるのではないだろうか?

 この考えは私が家に帰ってからも頭から離れなかった。それからその日は、一日中、頭を抱えて過ごすこととなった。私は眠れない夜を迎え、目覚めなき朝を迎えた。それはとてもつらく、苦しい体験だった。

 時折、私はまゆりが私のことを恨んでいるのではないかと思った。時が経つにつれて、まゆりの私に対する態度は、次第次第に冷たくなっていった。それでも私は、まゆりを喜ばせようと思った。だから私は、彼女の前で道化のように振舞った。それは幼い日の私がしたのと同じようであった。しかしまゆりは、最早幼い頃と同じように笑ってくれなかった。彼女は私が本心を隠してまゆりに接していること、そして私が無理に道化らしくしていることに、恐らくまゆりは気づいてきた。

 私にはわかっていた。もう幼い頃に戻ることは不可能なのだ。私はもうずっと前から子供ではなくなっていた。しかし同時に、私はまだ大人にもなることも出来なかった。私はただ、私とまゆりがまだ子供だった頃の記憶にしがみついていた。しかしまゆりは、そんな私を憎んでいるのかもしれなかった。

 私には、まゆりが私に冷たい態度をとるのも、彼女がりえ先生の前であんなにも楽しそうに振る舞うのも、そしてまゆりが喫茶店でアルバイトを始めたことも、全て私への当てつけのように思われた。これが彼女なりの復讐の形であり、私への恨みを発散するやり方なのだと思った。

 無論、そんなはずがないのはわかっていた。しかし頭ではわかっていても、私にはそう思われて仕方なかった。

 私の望みは、あの幼い日と同じように、穏やかな、安らぎに満ちた世界の中で、平和に彼女と過ごすこと、ただそれだけであった。しかし、それはいくら足掻いても上手くいかなかった。まゆりの心はどんどん私から遠ざかっていった。もうどうしようもなかった。そして、私には彼女と争う勇気など微塵ももちあわせていなかった。


 まゆりが休んだ日の放課後、何となしに、私は帰る気が起きなかった。私は校内をぼんやりとさまようことにした。

 ある階の校舎の廊下を歩いていると、目の前からりえ先生が近づいてくるのが見えた。りえ先生は私に気がつくと、意外そうな顔をした。そして私の前で立ち止まると、言った。

 「どうしたの?」

 私は斜め右下の床を見つめながら、答えた。

 「別に、ただ何となく校内をぶらついていただけです」

 「そう」と、りえ先生は言った。

 会話が途切れた。私は早く彼女の前から去りたかった。しかし、何となく気まずくかった。そのまま数秒間、私は彼女の前で無言で床を眺めていた。

 すると、ふと先生が口を開いた。

 「ねえ、君はいつも寂しそうな顔をしているよね」

 その言葉は私の意表をついた。私は先生の方へと顔を上げると、思わず聞き返すような言葉を発した。

 「え?」

 「不安そうな顔をしている、と言ってもいいかな。よくそう言われない?」

 私は何と答えたらいいか分からなかった。私が言葉に窮していると、再びりえ先生が口を開いた。

 「知ってる?君はね、一部の女子生徒からそこそこ人気があるんだよ。前、立ち話をしているところを聞いたんだ」

 「まさか」

 私は自嘲的な薄ら笑いを浮かべながら言った。

 「本当だよ」

 そう言うと、先生は私をじっと見つめていた。

 私には何も言えなかった。こんな言葉をかけられるとは思ってもいなかったから、どうすればいいか分からなかった。たた驚きと不審の念を覚えながら、私は黙ってりえ先生を見ていた。
  
 ふいに先生が近づいてきた。そして彼女は、私の左頬に顔を寄せると、そのまま自分の唇を押し当てた。

 私はびっくりした。心が不安と戸惑いでいっぱいになった。そして、ただ目の前に広がる虚空を見つめていた。

 やがて彼女は私の耳元で次のように囁いて、去っていった。

 「じゃあ、また明日、ね」

 廊下には私と先生以外の誰もいなかった。そして私は、ふと、まゆりのことを思い出した。りえ先生の姿が消えると、私は独り言を言った。

 「早く、帰らないと」