公開日記

その名の通りです

18/09/15 : Leprous - Bonneville(和訳)

Raindrops falling
雨粒の滴る
A half closed curtain dims the light
半開きのカーテンは差す陽射しをおぼろげにして
Paralyzed and dazed
麻痺した感覚は昏睡の中へ
Cramps and numbness blinds the sight
痙攣し、落ちる意識は視界を暗くし…
Am I dreaming?
…私は夢の中にいるのだろうか?

The awareness is fading
薄れていく意識の中
Cold and blank
冷たく、空っぽなまま
Everything is vague
全てが漠然として見える
The awareness is fading
薄れていく意識の中
Hollow and drained
虚しく、枯れていきながら
Everything is vague
全てが曖昧になっていく…

Closing the eyes slowly
静かに瞼を下ろす
Searching for a glimpse of ambition
野望の先にあるもの
A last attempt of resistance
最後の抵抗を試みながらも
The transition...
変化は訪れ…
I'm drifting
私は流され
I'm drifting
さ迷っている

The sound of distant voices
遠方から聞こえる声が
Trying to reach out
こちらに手を伸ばしてくる…
The sound of distant voices
遠方から聞こえる声は…
But the words are withering
もはや言葉も朽ちてしまった

The awareness is fading
薄れていく意識の中
Cold and blank
冷たく、空っぽなまま
Everything is vague
全てが漠然として見える
The awareness is fading
薄れていく意識の中
Hollow and drained
虚しく、枯れていきながら
Everything is vague
全てが曖昧になっていく…

18/09/14 : 利己的な愛

僕は以前、さる女性に「君を愛している」と告白しようと試みた事がある。しかし、どういう訳か、いつまで経っても肝心の言葉を発する事が出来なかったのだ。僕は困惑していた。そしてその事を、僕は突き詰めて考えてみたのだが、どうやらそれは、僕の胸の奥底にある「恐れ」という強い感情が原因らしかった。

「恐れ」…しかし、何を恐れているのだろうか?僕がその時気づいたのは、自分の胸の内にある愛の感情が強ければ強いほど、相手に対して「例の言葉」を口に出来ないと言う事だった。対象への愛が強ければ強いほど、自分の言葉は重くなり、喉元から吐き出されがたくなるという現象。それに加えて、僕は漠然とした「恐れ」を感じていた。恐ろしい、しかし何が?それは…わからない、もしくはわかりたくないのかもしれない。


そんな時に、僕はトルストイの書いた小説を読みながら、その中に非常に共感できる人物像を見出した事がある。かくして自分の愛する女性と結ばれたその人物は、自身の共通の知り合いであり、また相手の女性の姉でもある人物から祝福の言葉を受ける。が、彼はその事を快く思わないのだ。彼にとって、自分と恋人の結ばれた時の感覚は、実に厳粛な、部外者には到底理解できない神秘的な現象のように思えてたから、軽々しく口にして欲しくなかったのだ。彼にとって、「愛」という言葉はあまりにも重く、そう簡単に口に出してはならぬような畏れ多い言葉に思えていた。


利己的な愛。いかなる愛も利己的である。どれだけ利他的で、献身的で、純粋に見える愛も、やはりそこには利己性が潜んでいるものだ。しかし、これは何も皮肉ではない。利己的であることは、果たしてそんなに悪いことだろうか?

例えば無償の愛。一人の困っている子供がいたとして、僕達の誰かがその子を助けるとする。その結果、子供の困惑に充ちた表情は明るい色調を帯び始め、やがては全く喜びに溢れた顔つきに変わる。子供は助けてくれたその人に対して「ありがとう」と言う。さて、問題が無事に解決したことを見てとると、子供の胸に充ちた暗雲が追い払われた事を感じたその人は、満足してその場から去る。一見すると、この時、その子供を助けた彼は何の報酬も受けていないように見える。しかし、彼はその実、確かな報酬を受けているのだ。彼には子供の笑顔を見ることが報酬なのであり、子供の困惑が喜びに変わるさまを見ることが利益だったのだ。愛は利己的であり、自分に利益がなければ、人は誰かに愛を注がない。他人に優しく接して、他人の喜ぶ様を見る事、これもまた「利己的」な行いだ。何故なら、彼は他人が幸福になる姿を見ることが最も自分の強い幸福に繋がるのだと知っていたから。こうして無償の愛は、その実有償であるという事がわかるだろう。さて、では僕はもう一度問いたい。利己的であるとは、果たしてそんなにもいけないことなのだろうか?むしろ僕達は、どんな問題に対しても利己的であることしか出来ない…しかし、上の例のように、人間の利己性が、決して必ずしも悪のようには思えないのだ。利己的であるということは、時に人を高潔にさせる、そう考えることは出来ないだろうか?


もう一つ、違う例を書こう。一人の青年が、彼の愛する女性に対して抱いている感情に対して分析を試みて、それを本人の前で語ったとする。『僕が君を求める理由は種々ある。それぞれの場合を考えてみよう』こうして彼は論考に入る。しかし理由を一つ一つ述べていくにつれて、彼はその理由がどれも利己的なものであるという事に気がつくのだった。そこに働いているのは強烈な支配欲、独占欲、征服欲、所有欲、またそれに近いその他様々な欲望。恐らく彼はその人の前で絶望するだろう。愛は、その度合いが強くなればなるほど、益々不合理で、利己的で、自分勝手で、おしつけがましいもの、好戦的なものになる。愛と平和は一致しないのだ。むしろ、人が愛する上で誰かと平和に暮らしたいならば、その人は生活上の他の側面で常に何かと格闘している必要がある。葛藤と対立、そして争いは、常に人間にとって本質である。人が強い愛を抱けば抱くほど、(愛もまた人間にとって本質的なものだから)同時に強く何ものかに対して葛藤し、対立し、そして争いを求めるようになる。


恐らく僕に必要なもの、それは勇気なのだ。僕は沢山の本を読み、沢山の音楽を聴いた。楽器も複数、それなりに弾くことが出来る。時々、初対面の人から「教養深い」と好印象を受ける事もある。しかし、そんなものを身につけた所で何になるのだろう。僕は時々、実年齢よりも大人びた印象を他人に与える事がある。しかし、僕は同年代の人間の誰よりも自分が子供っぽいように思われる。実際、僕はあまりにも子供だ。しかし、成人した今、僕は大人になることを強いられている。そして、大人になるために必要とされているもの、それは、これまで自分が恐ろしいと思っていたものに触れようとする勇気なのだ。

 

18/09/13 : 芸術について(断片集)

僕達が最も恐るべきなのは、孤独ではなく大多数の人から愛される事だ。多くの人は気づいていないが、誰からも好かれる事とは、一人の人間の成長をくい止め、堕落させ、その人の将来を破壊し破滅する事への第一歩なのだ。芸術を志すものは、常に名声を恐れなければならない。もし僕達が何らかの形で多くの人の口から語られるような存在になってしまったならば、僕達はきっと自分自身を軽蔑することを避けられないだろう。きっとその人は、容易に愛される自分自身に対して深く煩悶するに違いない。その時、僕達は自分の名前と自分の顔をこっそり捨てて、捨てた名前を仮名に、捨てた顔を仮面にする必要がある。そうして真夜中に、全く人目を気にしないでいられるときに、そっと神の御前で仮面を取り、神に向かって自分の新しい名前を口にするのだ。その者以外にお前の本当の名前と、本当の姿を知っているものは一人もいない。しかし、それでいいのだ。あまり沢山の人に理解してもらう必要があるとは思わない。本当に理解してくれる人が、たった一人でもいればいいのではないだろうか。

 

芸術の恐ろしいところは、その作品がそれ以上のものにならず、それ以上の意味をも含まないのにも関わらず、作品それ自体は、作者の深い精神的な営み、または心理的な作用の末に生まれる場合が殆どであるという事だ。芸術作品にはなんの意味も、感情も、価値も含まれていないが、同時に芸術作品が生まれるためには、作者は制作過程において、ありのままの自分の心情を吐露する必要がある。ここには決定的な矛盾が存在し、またこの欺瞞こそが、今日まで多くの人が芸術に惹き付けられる理由なのだ。

 

恐らく僕達の中には、自分から敢えて悪印象を与えたいと願う人間がいる。そうする事が自分自身を守る何よりの手段だからだ。こうした行いは、何よりもその人にとって自分自身の性格にけむをまく事に繋がるからた。他人のあかのついた手が自分の心の内側に突然入り込んでくることが、彼らにはどうしても耐えられないのだ。この手の人達はよく芸術を愛する人たちの中に見られる。また、優れた芸術家はいつだって何らかの形で他人を誤解させたいと願う。だからこそ、芸術作品とは常に作者を覆い隠す盾でなければならない。しかし、そこが大変難しいところとなる。つまり、盾であり擬態であるはずの芸術作品は、多くの場合作者の考えや、価値観、感情などが組み合わされる事によって発生する。この時、僕が恐れるのは、次のことだ。もし鑑賞者側が、その時製作者側の抱いていた感情や考え、製作者がこれまでに経験した過去を知ってしまったら、自ずと鑑賞者は、その知識を考慮した上で作品を眺めてしまう。しかし、彼にとってはそれが一番避けたくて恐ろしい事なのだ。なぜなら、彼にとって一番苦しくて嫌なことは、けむをまいているはずの自分の素性を、大多数の人間のあかにまみれた手でべたべたと触られる事だからだ。そのために他人を当惑させるような事を好んでしているのに、その点がバレてしまったら最後、彼には最早活動を辞めるという唯一の手段以外に、この苦しみから逃れる方法はないだろう。結局、芸術家が芸術を制作する上で気をつける事は次の点なのだ。つまり、自分を鑑賞者の注目から避けさせること。

 

多くの人は、現実逃避の一環として芸術に恋慕を寄せる。そして恐らく、それは製作者側にしても同じなのだ。我を忘れて熱中出来る「仕事」を見つけること、これ程人生において悦ばしい偶然はないだろう。しかし、もし自分自身に注目が当たったら、彼はどうなるだろう?自分自身とは、無論「現実」の住人だ。これまで我を忘れて打ち込めるはずのものだった芸術が、その時、我に注目を集めるための「敵」に変わってしまうのだ。僕達はこの微妙な点に中々注意を払う必要があるに違いない。

 

僕は芸術を愛している。それは、芸術が僕の盾になってくれると同時に、隠れみのになってくれるからだ。

 

愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える。
(コリントの信徒への手紙・第一・十三章の四節から七節まで)

18/09/13 : U2 - I Still Haven't Found What I'm Looking For(和訳)

I have climbed the highest mountains
僕はどんなに高い山だって登り
I have run through the fields
どんな場所をも切り抜けてきた

Only to be with you
君の隣にいたいから
Only to be with you.
君の隣にいたいから…

I have run,
僕は逃げ出し
I have crawled
僕は這いつくばった
I have scaled these city walls
あの街の城壁をも飛び越えたのだ
These city walls
あの街の城壁だって…

Only to be with you.
ただ、君の隣にいたいから

But I still haven't found what I'm looking for.
それでも僕は、未だに自分が何を求めているのかわからない
But I still haven't found what I'm looking for.
それでも僕は、未だに自分が何を求めているのかわからない

I have kissed honey lips
甘い蜜のような唇を奪い
Felt the healing in her finger tips
彼女の指使いでこの苦しみが癒えるのを感じた
It burned like fire
焔のように燃えながら…
(I was) burning inside her.
僕は彼女の内で燃えていたのだ

I have spoke with the tongue of angels
僕は天使の言葉を操って
I have held the hand of a devil
悪魔と手を結びさえした
It was warm in the night
…温もりに満ちた夜の中で
I was cold as a stone.
僕は石のような冷たさを覚えた

But I still haven't found what I'm looking for.
それでも僕は、未だに自分が何を求めているのかわからない
But I still haven't found what I'm looking for.
それでも僕は、未だに自分が何を求めているのかわからない…

I believe in the Kingdom Come
僕は信じている、神の国がやがて来ると
Then all the colours will bleed into one
その時、全ての肌の色が一つに混ざりあって
Bleed into one.
僕達は一つになるのだ…
But yes, I'm still running.
ああ、そのために僕は今でも走り続けているのに…

You broke the bonds
君は僕の縄を解き
And you loosed the chains
僕の鎖を打ち砕いた
Carried the cross of my shame
そうしてこの恥辱に充ちた十字架を背負ってくれた
Oh my shame,
ああ、僕の恥辱に充ちた...
you know I believe it.
知っているだろう、僕が信じているのだと…

But I still haven't found what I'm looking for.
それでも僕は、未だに自分が何を求めているのかわからない
But I still haven't found what I'm looking for.
それでも僕は、未だに自分が何を求めているのかわからない…

But I still haven't found what I'm looking for.
それでも僕は、未だに自分が何を求めているのかわからない…
But I still haven't found what I'm looking for.
それでも僕は、未だに自分が何を求めているのかわからない…

 

18/09/12 : 断片集

何かを書きたいと思っても、なかなか上手く自分の書きたいものを書き表すことが出来ない状態が長く続いています。書きたいものはあるのです、それに内側から溢れそうなまでに強くざわめいている感情も。しかし、それらが上手く言い表される事は殆ど無いように思えます。むしろ、凡庸な言葉で無理に言い表そうとすると、自分が誤りを犯したような気持ちになって、ばつが悪くなる事すらあるものです。自分の言いたいことを言い表そうとすると、僕はどれだけ努めても何処かで言い間違いをしてしまいます。だから僕は、いっそ自分の言い表したい事を忘れてしまおうと思います。言葉が成熟されて、はっきりとした形を伴ってこの身から吐き出される日が来るまで、僕に求められるのは忍耐なのでしょう。そして、無理に取り繕う事の無い、自然な言葉が実る事を、今は切に願うまでです。

書けない理由は、ただ単に言葉が見つからないだけではありません。僕が人目を気にしているからです。普通以上の羞恥心を持つ人ならば、自分の心情の吐露を、今や大勢の人が見ている、ほとんど公の場所とも言っていい場所で行うことなどしないでしょう。今や沢山の人が読むようになってしまいました。少なくとも、今の僕にかつてのような行いはできません。

なので、今日は、恐らくこのまま「日記」に投稿されないだろう断片的な覚書の数々をここに纏めて残しておこうと思います。

 

.........

 

僕は思うのですが、利己的であるという事は、そんなに悪いことなのでしょうか。むしろ、人として最も利他的であるためには、同時に最も利己的である必要があるのではありませんか。利己的である事が僕達の目に醜く映るのは、多くの人の利己性が、その人の精神の貧しさと直結しているからです。精神の豊かな人の利己性は、そのまま利他性に繋がります。つまり、その人の心が喜ぶから、その人以外の誰かに献身するのです。逆に、その人の精神がまずしければ、むしろ自分が与えた分よりも大きな見返りと利益を求めるために、他者に対する献身を行います。大切なのは、利他的であること、利己的であることの区別ではなく、多くの人の精神が豊かであることだと思うのです。

 

僕の考え方は、時にあまりキリスト教徒的でない事がありますし、その事から僕は、同胞たちから『神を信じていないのか』と疑われた事も、そう少なくありません。しかし、断っておきたいのですが、僕は今でも、イエス・キリストの生涯を題材にした作品を読んでは、それに感涙するだけの信仰心は抱いています。それはちょうど昨日のことです。僕は古本屋で、偶然その類の本を見かけ、何となしにそれを開いたのです。そして、僕はその場でそれを読み進めながら、力強く、勇敢で、また物腰柔らかな、愛情深い我らが主の御姿を見て、その場で泣いてしまったのです。『おお、主よ!』僕はその場でそう思いました。キリストよりも偉大であり、心の美しい御方が、果たしていらっしゃるでしょうか。イエスは僕の主です。

かと言って、僕は教会側の伝統的な教義にそのまま『然り』と言うべきだとは思えませんし、これからもそうでしょう。論理的に見て非合理的なものであろうと、信じる事を強制する事が「神への信仰」の正しい姿であるするならば、僕は信仰を捨てますし、反キリストで構いません。そんなものが何になるのでしょうか?もとい、今日まで、既存のキリスト教観に納得がいかなかったからこそ、僕はこのようになったのですし、だからこそ今日まで西洋の文明と宗教心は発達してきた。近代文明は、そういう意味では皆反キリストです。だから僕が思うに、むしろ、伝統に固執して、生きた人間としての生活を失うことの方が、僕には保身であり、神への愛の欠如のように思えます(何故ならば、『生きた人間としての生活』を失うことは、そのまま愛の喪失へと繋がるからです。そして、誰かを愛する事の出来ない人間が、神をも愛せない事は明白です)。

 

 

自分の生活を創造すること、これが何よりも僕には大切なように思える。というのも、人の幸せとは外的な環境、つまり自分の周囲を取り巻くものや、自分が現在備えているものによっては決定されないからだ。その人の幸福とは、たとえ彼がどれだけ苦しい状況下に置かれたとしても、絶対的な存在を見出しているかどうか、そしてその絶対的な存在、変わらざるものを志しているかどうかによって決まるものだ。この絶対的なものが、ある人にとっては生きる希望であり、またある人にとっては夢や憧れであり、またある人にとっては自分の志それ自体であり、またはその全てであり、とにかくそれは様々な肢体を見せる。この絶対的な存在は、その人の価値観、言動の基盤となり、その人の生を豊かにするための源泉となる。幸せとは、他者との交わりの中ではなく、ただ自分自身の内にのみ見出されるものだからだ。

 

大斎期の終わりから復活祭の週一杯まで、彼[ラスコーリニコフ]は病院で寝ていた。もうよくなりかけた頃、彼は熱に浮かされていた頃に見た夢を思い出した。彼は病気の間にこんな夢を見たのである。夢の中では、全世界が、アジアの奥地からヨーロッパに広がっていった、ある恐ろしい、見た事も聞いた事もないような伝染病の犠牲になる運命を辿った。ごく少数の選ばれた人々を除いては、誰もが死ななければならなかった。その病原体は、人体に取り付く微生物で、新しい寄生虫のようなものだった。しかもこれらの微生物は、知恵と意志を持った魔性のもので、これに取り憑かれた人々は、たちまち凶暴な狂人になった。感染すると、その人はかつてに一度も抱いた事がない程の強烈な自信を持って、自分は聡明で、自分の信念は正しいと思い込むようになるのだ。自分の判決、自分の理論、自分の道徳上の信念、自分の信仰を、これほど絶対的に特別だと信じた人々は、かつては決していなかった。地球上の全村落、全都市、全民族が感染し、皆狂人になった。全ての人が不安におののき、互いに相手のことが理解出来ず、一人一人が自分だけが特別に真理を知っていると考えては、他人を見て苦しみ、自分の胸を叩いて、恐れや不安に震えて泣いた。誰をどう裁いていいのかわからなかったし、何を悪とし、何を善とするのかの意見も一致しなかった。誰を有罪とし、誰を無罪とすればいいのか、わからなかった。人々とはつまらない恨みで互いに殺し合った。それぞれが軍隊を集めたが、軍隊は進行の途中で突然内輪もめを起こすのだった。列は乱れ、兵士達は互いに躍りかかって、斬り合いや殴り合いを始め、互いに噛みつき、互いの肉を食いやった。あらゆる町で警鐘が鳴らされ、人々を招集したが、誰が何のために呼び集めたのかが誰にもわからず、皆が不安に震えていた。各人が勝手に考えや改良案を持ち出すが、意見が纏まらないので、ごく一般的な手工業まで放棄されてしまい、農業だけが残った。どこでも人が集結して分裂しない事を誓い合ったが...たちまち今決めた事と全く違う話が持ち上がり、罪のなすり付け合いを始めて、互いの胸ぐらを掴み、殺し合うのだった。火事が起こり、飢饉が始まった。人も物も残らず滅びた。

(ドストエフスキー罪と罰」のエピローグより抜粋)

 

 

18/09/11 : U2 - Where The Streests Have No Name(和訳)

I wanna run,
僕は走りたい
I want to hide
そのまま逃げてしまいたいんだ
I wanna tear down the walls that hold me inside
この内側に築かれた心の壁を壊してしまいたい
I wanna reach out
僕は手を伸ばし
and touch the flame
あの燃える焔に触りたい

Where the streets have no name
名前を持たぬあの場所で…

I wanna feel sunlight on my face
この顔に降り注ぐ太陽の日差しを感じ
I see the dust-cloud
僕はあの暗雲が
Disappear without a trace
跡形もなく消え行く様を見てみたいんだ
I wanna take shelter from the poison rain
僕はあの蝕む毒の雨から逃れてしまいたい

Where the streets have no name
名前を持たぬあの場所で…

Where the streets have no name
名前を持たぬあの場所で
Where the streets have no name
名前を持たぬあの場所で
We're still building and burning down love
僕達は築き上げた愛を焼き尽くしてしまうんだ
Burning down love
愛を焼き尽くしてしまうんだ…
And when I go there
…もし僕があの場所へ
I go there with you
君とあの場所へ行けるならば…
It's all I can do
僕の出来ることの全ては…

The city's a flood
街は洪水に飲み込まれ
And our love turns to rust
僕達の愛がただの情欲に変わってしまう…
We're beaten and blown by the wind
二人は風に打たれては吹き飛ばされ
Trampled in dust
そのまま塵に飲み込まれてしまうんだ…!
I'll show you a place
君に見せてあげたい
High on a desert plain
砂漠にそびえる頂上を…

Where the streets have no name
名前を持たぬあの場所で…

Where the streets have no name
名前を持たぬあの場所で
Where the streets have no name
名前を持たぬあの場所で
We're still building and burning down love
僕達は築き上げた愛を焼き尽くしてしまうんだ
Burning down love
愛を焼き尽くしてしまうんだ…
And when I go there
…だから僕があの場所へ
I go there with you
君とあの場所へ行けるなら…
It's all I can do
僕が出来ることの全ては…

Our love turns to rust
僕達の愛がたたの情欲に変わってしまう…
We're beaten and blown by the wind
二人は風に打たれては吹き飛ばされてしまうんだ…!
Blown by the wind
僕達は吹き飛ばされてしまう…
Oh and I see love
ああ、僕には見えるんだ!
See our love turn to rust
僕達の愛が情欲に変わる様が!
We're beaten and blown by the wind
二人は風に打たれては吹き飛ばされてしまうんだ…!
Blown by the wind
僕達は吹き飛ばされてしまう…
Oh when I go there
だから僕があの場所へ…
I go there with you
君とあの場所へ行けるならば…
It's all I can do
僕のできる事の全ては…!

18/09/10 : 精神的な危機と失われたもの、そして愛にまつわる小話

ここ一週間、僕は非常に強い精神の危機を迎えていました。頭の中には、絶えず『僕はこんな人間になりたかったのではない』という思いが浮かび上がり、一日の内に何度も頭を抱えては、しばらくの間何もせず、ただただ唸り苦しむのです。そして僕はこう呟きます、「違う、こんなはずじゃなかった。僕はこんな人間になりたかったんじゃない、これは僕の求めていたものでは無い」と。空虚な気持ち、物静かにこの身を蝕んでいく絶望。何をする気も起きず、仄かに死への願望を体内に蓄え、お産を待つ妊婦のように「死」の胎児を肥えらせる共に、それを大きく膨らませていく日々。しかし、今朝、日光の決して入る事の無い部屋でうずくまっている時に、僕は一つの内的な目覚めを得たのです。そしてそれから、昼になる頃には何とかこの苦しみを克服することが出来たのでした。

しかしそれでも、平常の気分が続く時に置いてでさえ、僕は突然の戸惑いや煩悶に襲われる事があります。それに関しては、恐らく最近になって始まった話ではありません(もし僕が何らかの苦悩を抱かない生活を送り続けているのだとしたら、恐らくはこのような「日記」も書かなかったことでしょう!)。僕はずっとこのような日常を送っているのです。戸惑いや煩悶に内側が侵され続けるような日常を。僕にはずっと失われたものがあると、この胸の内で感じています。それが何なのかはわかりません。ただ、その失われたものを、今日までひたすらに追いかけてきました。しかし、追い求めれば追い求めるだけ、そして先に進めば進むだけ、僕の追い求めていたものが遠くに行ってしまうような感覚に陥るのです。これは一体なんなのでしょうか?何故、どうして?そもそも僕はなにをおいもとめているのでしょうか?僕には何もわかりません…もしくは、わかりたくないのかもしれない。見えているものを『見えない』と言っているだけなのかもしれません。

いえ、恐らく僕は非常に臆病な人間なのでしょう。だから僕は、追い求めているものに触れるのが怖いのかもしれません。その瞬間、僕自身は強烈に変わることを強いられるだろうから。それなら最早、失われたもの、心の欠けている部分を追い求めるのをやめるべきなのでしょうか?しかし、きっとそれも違うのでしょう。僕は臆病で、求めているものに触れるのが怖い。でも、その強烈な変化の瞬間がある事を思ってでも、僕はそれが欲しいのです。だから、これからも手を伸ばし続けなければならない。僕自身、何が書きたいのかよくわかりません。ただ、そのような事をいつも漠然と胸の内に感じているのです…

 

いえ、もうこの話はたくさんです。ここで終わりにしましょう、そして何か他の話でもしようではありませんか。そう、たとえば、最近僕は改めて思ったことがあります。それは他者の言動によってではなく、自分の内的な物思いに耽っていた時に思ったことです。そして、その内容とは『愛は利己的であり、美しくない』という事です。

もし愛が利他的であり、また美しいものであるならば、紀元前の最古の時から、現代の今日に至るまで、これほど多くのドラマを僕達人間に提供しては来なかったでしょう。その時、僕達は愛に悩むこともなければ、愛に苦しむこともしないはずです。しかし違う、愛は美しくない。そして何よりも愛は利己的であり、利他的な側面はその反映でしかないのです。しかし、それでも僕達は愛を求める、これは不思議なことです。そして恐らく、その理由は、僕達自身も本来的に美しくない、利己的な存在だからです。そしてだからこそ美しい。人間は醜いからこそ美しく、愛もまたそのようであるとは思えませんか。人間は利己的であればあるほど利他的になり、愛もまたそのようです。愛を意志する人は、その人の愛が豊かになるほど、相手への献身も豊かになります。人間もまた、自分の内側を満たすものが強ければ強いほど、他人の内側を満たすことができるのです。この不合理な、不都合な、不器用な、不慣れな法則こそ、恐らく僕達にとって真実なのです。だから、『愛は利己的であり、美しくない』それでいいのではないのでしょうか。だからこそ僕達は愛に惹かれるし、だからこそ僕達にとっては愛は美しく、素晴らしい、ドラマを提供するような存在になのであり、また僕個人は、そんな謎に満ちているからこそこの迷路を解き明かしたいと願う者です。むしろ、愛を美化して、神聖なものとする事は、より多くの人に愛の幻滅を誘うはずです。そして、人が時に、愛を崇高なもの、神々しいものとして取り扱った結果、より多くの人が愛に救済を求めて縋り、そしてたいていの場合はそれが実ることなく終わるのです。それならばいっそ、『愛は厳しく、苦しいものである』という事を認めてしまった方がいいと思うのです。

僕の好きな小説の一節に、次のようなものがあるのです(誤解を呼びやすい部分なので、決して僕の知っている誰かに宛てた内容ではないということを断っておきたく思います!どうか気分を悪くしないでください)。

『しかし、誰かがもし彼女らを本当に愛しようとするならば、僕はきっと歩き疲れてもう一歩も足が進まぬ人間のように、向こうの体が重くのしかかってくるに違いないと思うのだ。僕はただイエス[・キリスト]だけが彼女らに耐えることが出来るだろうと思っている。イエスの体には復活がある故に。しかし、彼女らの事などイエスにはどうでもよいのだ。イエスを呼ぶのは、人を愛する、けなげな女だろう。ただ愛する女のみがイエスを誘い寄せる。愛せられるための、いささかの技巧や才能があったとて、所詮それは灯の消えた冷たいランプにすぎぬ。愛を待つことでは、決して救われはしないのだ』

然り、僕達は愛を意志し、愛する人間でなければならないと思うのです。愛される人間は、愛されやすい自己を克服して、愛する人間に変身しなければなりません。これは僕自身に宛てた言葉でもあります。無論、僕は自分が『他人から愛される人間』などとは決して思いませんが…上の小説の引用箇所について、興味がある方は是非探して見てください。僕はその名前を書きませんが、きっと今日まで書いた僕の日記の中に、何度かその名前は出ているはずです。