公開日記

その名の通りです

19/08/14 : 関係と変化の哲学、ヴェルレーヌと詩的実存、など

 誰かを無条件に信頼するということは、誰かに無償で信頼を与えるということでもある。

 そして人が罪の意識を覚えるのは、相手に非がなく、こちらにのみ非があるように思われる時だ。つまり、相手から無償で与えられたものを裏切る時である。

 よって、次のように言うことが出来る。罪の意識に苛まれる人を最も苦しめる方法は、その人を無条件で信頼するということなのだ。


 去年の今頃、僕は今年の八月をこのように過ごすとは思ってもいなかった。しかし、それは一昨年の場合にも言えることなのだ。つまり、一昨年の今頃、僕は去年の八月をあのように過ごすとは、思ってもいなかったのである。

 来る日も来る日も、僕達は「思いもよらなかった」現在を体験する。言い換えるならば、現在の僕達とは、皆過去の自分の「思いもよらなかった」ものであり、それはつまり、過去の自分の予測の範囲から、自分自身が抜け出てた、ということでもある。

 僕達は絶えず変化し、流動し続ける。人間とは関係それ自体だ。つまり、その人が関わっているものが、その人自身を形成すると同時に、その人の存在を制約するのである。

 しかし他方で、僕達は絶えず関係から抜け出る存在でもある。何故なら、僕達は絶え間なく動き続ける存在、変化し、流動し続ける存在だからだ。しかも、僕達は変わるのではない、むしろ変えられるのだ。

 よって、現在僕達を制約し、また僕達を形成している「関係」からも、僕達はやがて抜け出る。それだけではない。その「関係」から抜け出た時、既に僕達はかつての自分とは違うため、再び以前と同じような「関係」を築けないのだ。よってこれから形成するのは、多かれ少なかれ、以前とは違う新しさを含む「関係」となる。


 だからこそ、今の「関係」をいつまでも保っていたいならば、その「関係」を諦めるのではなく、その「関係」の内にあるものと共に変化を意志する必要があるのだ。


 いつまでも自分は変わらないと言い張る人は、そんな変わらないでいて欲しい自分に固執し続けている時点で、既に変わってしまっているのである。


 詩人は嘘をつく。不幸な恋愛経験から幸福な恋愛への賛美を生み出し、不幸に対して幸福な愛着を見出す。キェルケゴール風に言うなれば、「詩的実存は全て罪」なのだ。

"存在することの代わりに詩作し、単に空想の中で善と真理に関わるだけで、実際にそうあろうとしないことは、つまり実存的にそうあろうとしないことは、すなわち罪なのだ。"


 僕が今思い浮かべているのはヴェルレーヌのことだ。

 ヴェルレーヌはその時期によって詩風がまるで違うことでよく知られている。日本ではとりわけ初期の詩が有名で、上田敏の訳した「秋の日の/ヴィオロンの…」で始まる詩『落葉』も、彼の活動初期に作られた詩である。

(時折、ヴェルレーヌの詩は初期の方が評価が高いという話を聞くが、それは誤りである。同業者からは、むしろ中期から後期にかけての詩が評価されている。実際、ヴェルレーヌが偉大な詩人になれたのは、彼が妻との愛を知り、またランボオとの波乱を体験した後に作られた、あの中期以降の詩のためであると、僕は断言してはばからない)

 さて、そのヴェルレーヌであるが、実は創作初期においては、一度も女性と恋愛をしたことがなかった。しかし、彼の詩集を読んだことのある人ならわかるだろうが、初期作品の殆どは恋愛詩である。

 これはどういうことか。そう、ヴェルレーヌは経験したことの無い恋愛を、経験したかのように詩の中で語っていたのである。

 さて、『サテュルニアン詩集』から『艶なる宴』までが、言わばヴェルレーヌ初期の作品群にあたるが、また『艶なる宴』の中には、ドビュッシーが音楽をつけたことでも有名な『月の光』も収録されている。そして、それらの中には肉体的な愛を思わせる描写も多い。

 無論、それも皆空想上の出来事なのだ。そして恐らく、そこにこそヴェルレーヌ初期の魅力がある。つまり、性的な内容が歌われていようとも、そこには美化されて、夢見心地のある理想が歌われているのだ。

 青年ヴェルレーヌの書いた詩の数々は、恋を知らない若者の思い描いた夢の表れだ。まさに若き日の彼の詩は、どれも美しい嘘なのである。

(ちなみに僕が好きなヴェルレーヌは、彼の初恋の相手であり、また初体験の相手であり、そして初めての恋人であり妻である女性、マチルドとの恋愛を知ったあとに作られた中期の詩集、『優しき歌』と『無言の恋歌』である)


 隠された真実の中には、僕達が認めたいものよりは、僕達が認めたくないものの方が多く含まれている。


 僕には分からない。僕は時折、人からあらぬ誤解や勘違いを受ける。それがどのようなものかは書かない。しかし、少なくとも僕自身は、自分が他の人々が思っているような人間ではないと、心から信じている。


 人は時に、必要以上に自分のことを低く見ようとする。そこには自己保存の法則が働いている。予め物事を悪く考えることで、実際に「悪い」ことに直面した時に、自分の内側に起こるであろう幻滅を最小限に抑えようとしているのである。

 次に、そのようにすることで、自分が恐ろしさを感じているものに、向き合う必要のない理由や口実を求めているのだ。だから時折、人は実際以上に物事や、または自分自身を悪く言うのだ。

19/08/13 : 食人と愛、モーツァルトとオーケストレーション、など

 肉体と精神、愛と性を分けようとする考え方がある。そしてこの考え方は、ある意味では男性的なのだ。何故なら、女性は男性よりも肉体と精神の両者を不可分なものとして捉え、また愛と性を同一視する傾向にあるからだ。

 さて、誰かを愛するとは、誰かと一体になることを求めることだ。そういう意味では、愛とは食人(カニバリズム)的だと言えるかもしれない。

 性交と食人の関連性は、よくよく哲学者の間で語られることである。たとえば恋人の性器を愛撫する行為などは、まさに恋人の性器を食することを僕達に連想させる。このことから、僕達は次の仮説をいうことができる。つまり、性行為とは、相手を自分の内側に取り込むことの、相手を食べることの疑似体験なのである。

 人は愛する相手と一体になることを求めるにつれて、相手を支配するか、または相手に支配されることを求める。つまり、相手を食べるか、相手に食べられるかを。


 僕がここで思い出すのは、画家サルバドール・ダリと、その妻の間で起きたひとつの出来事だ。

 彼らは一匹の兎を飼っていたが、長い旅に出るにあたって、この愛するもう一人の家族をどうするかという話になった。そして彼らが夜遅くまでそのことについて話し合った次の日、ダリの妻は、なんとその兎を、昼食用に調理してしまったのである。

 ダリはその事に気づかず、途中まで昼食を美味しそうに食べていた。しかし、彼が今食べている肉が、実は彼の愛していた兎の肉だと気づいた途端、彼は急いでトイレに行って、自分がかつて可愛がっていものの肉片を胃から吐き出し始めた。

 それに対してダリの妻は、愛おしそうに自分のペットの血肉を味わっていた。彼女は自分の愛するものが自分の一部になることを喜んでいたのだ。そして同時に、彼女は、兎もきっと私と一体になれて幸せに違いない、そう信じているらしかった。

 女性の愛情というものは、どことなく食人(カニバリズム)的な側面が強いように思われる。女性的であるということは、愛する相手を独占しようとすること、相手を内側に取り込むこと、つまり食人(カニバリズム)であることなのだ。


 人間にまつわる問題というものは、大抵の場合答えのでないものである。そして僕達は、行きていく上で、この答えのでない問いを生きるという行為をし続けることとなる。

 そして、答えなき問題に悩み続けるということは、同時に目に見えないものを信じるということでもあるのだ。


 モーツァルト管弦楽曲を聴いていると、オーケストレーションにおいて重要なのは、弦楽器ではなく管楽器であるということがよくわかる。

 オーケストラにおいては、弦楽器(ヴァイオリンやチェロなど)が主役として扱われることが多い。これには理由がある。オーケストラで用いられるそれら弦楽器は、他のオーケストラの楽器に比べて、官能的で繊細な、耳障りのいい音を鳴らしやすいのである。

 それに対して、管楽器、特に金管楽器は、高音を出すとやや耳障りな音色になりやすい。

 それもあってか、普段はピアノ曲をよく手懸ける作曲家が、管弦楽曲を書くと、自ずと弦楽の音色を強調するような代物が多くなる。恐らくはピアノという楽器は繊細であり、表情の豊かな音色を鳴らすため、多くのピアニストは管楽器よりも弦楽器を愛するのだろう。

 しかし、その一方で、そのように弦楽器を強調しすぎた作家(ショパンシューマンスクリャービンなど)のオーケストレーションの、そのほとんどが下手くそであるということも、やはり否定できない事実である。

 それを踏まえると、モーツァルト管弦楽曲はやはり偉大である。彼は優れたピアノ曲の作曲家であるが、同時に優れた管弦楽曲の作曲家でもあるからだ。彼のオーケストレーションにおいては、弦楽器が清涼な旋律を歌うと同時に、管楽器がそれを華やかに彩る。つまり、彼は弦楽器の繊細さを活かしながら、管楽器を効果的に用いることで、それをより際立たせ、弦楽器の奏でる主旋律をさらに美しいものに変化させるのである。

 モーツァルトの天才は、彼が多くの美旋律を生み出した点にあるのでない。むしろ、彼がそれを際立たせる装飾の技術に長けていた点にあるのだ。つまり、彼のその装飾の仕方にこそ、彼の天才がある。モーツァルトにおいては、弦楽器よりも管楽器をいかに鳴らすかが重要なのだ。軽やかな、そして純粋な音の戯れ。優雅なまでに孤独を踊る作曲家、モーツァルト


 実際、オーケストレーションの巧みさで名高い作曲家の多くは、同時に管楽の巧みさを褒められることが多い。ワーグナードビュッシーラヴェルストラヴィンスキーマーラー、など。彼らは皆、優れたオーケストレーションの人であると同時に、優れた管楽器の理解者なのである。


 何も上手くいかない。


 僕は自分にはお金を稼ぐ能力があるのを知っている。しかし同時に、僕は自分がそれらの能力を生かすことにまるで能がないということもよく知っている。

 ある一つの物事の純粋さは、「利益」という実際的な問題が絡んだ途端に失われることが多い。大切なことは、いつだって非実用的な世界に存在するのである。実際的にして実用的なことばかりを問題にしていたら、その人の心は枯れてしまうのだ。


 何かに熱中し、盲目になっている人は、傍から見れば滑稽に思われることが多い。そしてしばしば、その人の恥ずかしい行いは、他人から笑わられるものだ。しかし、滑稽な姿を晒して、恥ずかしいくらいに何かに熱中することが出来なければ、誰も生きることに真面目になれないのである。


 常識を覆すことができるのは、同時に新しい常識を形作れる者だけだ。


 時間を無駄にすればするほど、僕は自分の非合理的な本性に絶望する。そして、自身の絶望を深めれば深めるほど、僕は益々時間を無駄にしてしまうのだ。もうどうしようもない。

19/08/11 : 作曲、リルケ、小説、ゲーテ、など

 作詞の作業が難航している。

 以前、僕にはよく詩作を試みていた時期がある。しかし、既に作られた音楽の上に詩を載せるということは、音楽に合うよう言葉を紡ぐ必要があるから、中々思うように筆が進まない。

 そのため、次の案を考え始めた。つまり、自分の好きな作家の詩を自分の曲に合わせるということ。たとえば、西洋音楽でいえば、シューベルトドビュッシーなど、他人の詩に自らの曲をあてていた人は非常に多い。それを見習うのである。

 そこで僕は、自分のお気に入りの詩人の本をいくつか開いてみた。

 今はそれほどでもないが、昨年などは詩人にとても憧れていた。とにかく沢山の詩を読んでいた。リルケボードレールヴェルレーヌマラルメヴァレリーシェリー、ゲーテシェイクスピアプーシキン、ダンテ。それにペソアツェランにも興味を抱いていた。

 しかし、中でもリルケは僕にとって別格であった。

 詩をよく読む人なら、誰もが必ず、たった一人の、自分だけの特別な詩人を持つことになる。リルケは僕にとってまさしくそうであった。彼は僕の運命の詩人である。

 僕は彼の活動初期の詩集『形象詩集』を、久しぶりに開き、一遍の詩を朗読した。


"いまどこか世界の中で泣いている
理由もなく泣いている者は
私を泣いているのだ

いまどこか夜の中で笑っている
理由もなく夜の中で笑っている者は
私を笑っているのだ

いまどこか世界の中を歩いている
理由もなく歩いている者は
私に向かって歩いているのだ

いまどこか世界の中で死んでゆく
理由もなく世界の中で死んでゆく者は
私をじっとみつめている"


 リルケの詩を初めて読んだ時、まるで全身の感性に電撃が走ったかのような衝撃を覚えた。詩の一句一句、言葉の一文一文が、まるで他人事とは思えなかった。それらが、まるで自分がかつて、または今現在体験した出来事であるかのように、僕の心をゆさぶった。その強烈な印象から、僕は彼の本を、一日に数ページ、たった数篇の詩を読むので精一杯な思いを感じた。

 また、リルケを読み始めた当初は、リルケの詩の力の強さに打ちひしがれていたため、他の作家の本をまるで開くことが出来なかった。リルケの書物は、僕の読書観を変えるだけでなく、僕の私生活を狂わすまでに強烈な影響を僕に与えた。

 そのような読書体験があってから、僕はとにかくリルケの本を読み漁るようになった。

 それが落ち着いたのは去年の十月頃で、あの頃は『フィレンツェだより』を読んでいたよう記憶している。若き日のリルケが恋人への手紙を書くという形式をとって書かれた書物で、彼にしては珍しく、ある種のアフォリズム集とも言うべき形式をとっている。

 リルケ、僕の最愛の詩人。彼の詩集で一番よく読み、また僕自身の思想の面で最も影響を受けたのは、間違いなく『ドゥイノの悲歌』である。あれを読んだからこそ、僕は二十世紀以降の難解な哲学者の本にも比較的容易に近づけたのかもしれない。

 人間存在の儚さと虚しさを歌いながら、それをいかに肯定するかを問いたこの本は、彼の詩集の中でも特に哲学的な側面が強い。同時代を生きたハイデガーの思想は、彼リルケが『ドゥイノの悲歌』などで綴った思想とかなり似通っていることは、ハイデガー本人が認めていることである。

 無論、詩集以外も良い。短編集『神さまの話』の美しさは本当に変え難いものだし、『マルテの手記』は僕が人生で一番読んだ小説で、本当に擦り切れるまでに読んだ。

 『若き詩人への手紙』には何度慰められたか知らない。これはリルケが詩人を志す若者に宛てた手紙をまとめたものであり、彼の死後に出版された書物なのだが、僕はそれを彼の他の著作と同じくらいに読んだ。リルケ本人の誠実な人柄と、厳しくも暖かい思いやりを感ぜられるこの本を、僕は生涯読み続けるだろう。本当に読む度に心が励まされ、生きる勇気と希望を貰えるのだ。

 再び彼の詩の話に戻るならば、実存主義的な側面の強い『ドゥイノの悲歌』もいいが、生の不安や孤独、苦悩などをより直接的に描いた初期の詩集も大好きだ。上に挙げた『形象詩集』も素晴らしいが、『時祷詩集』もまた僕の思い出の詩集だ。

 とりわけ『形象詩集』は、他の詩集より感性に訴えかけるような描写が多い。まさに形象(イメージ)の世界をその瑞々しい感性で歌ったものが殆どである。

 その中でもうひとつ、お気に入りのものをここに書き記しておこうと思う。


"私を呼んで、恋人よ、私を大きな声で呼んでください。
あなたの花嫁をこんなに長く窓辺に立たせてはいけません。
老いたプラターナスの並木道で
夕暮れはもう見張りをしていないのです。

だからあなたがその声で
私を夜の家に閉じ込めに来てくれないならば、
私は自分自身をこの手から
藍色の深い庭の中に
逃がしてしまいますよ…"  


 僕には以前から書きたいと願っている小説のキャラクターが存在する。それは絶対的な「悪」つまり純粋無垢な悪人である。

 人から「あの人は変わっている」と囁かれる人は、他者に許容される程度に「変わっている」のである。本物の変質者は、そもそも他人に相手にされない。だから変わり者なのだ。

 よって、僕が思うに、真に「変わっている」人間は、常に沢山の仮面(マスク)を被る人間である。

 人間とは、その人が他者と結ぶ関係それ自体の中に、自分自身が現れているものだ。僕達は常に他人に制約された存在だと言っていい。人前に立つ限り、僕達は何らかの、知らぬ間に与えられた立ち位置を「演じる」のである。

 そして人は、ひとつの「演じる」ものを演じ続けてくうちに、次第にその演じているものそれ自体に、性格が変化していくのである。これが人間関係の最も恐ろしいところのひとつだ。

 よって、人によって被る仮面(マスク)を変えるということは、ある意味ではその人がひとつの「演じる」存在に影響されすぎず、自分の自我を、自分の孤独を守る方法として、非常に有効なのである。

 そして、もしこの世に本当に「変わっている」人間がいるとすれば、その人は存在それ自体が仮面(マスク)なのである。絶えず別の仮面を被り続け、絶えず違う存在を演じ続ける、絶対的な孤独を守る人間だ。

 そして、これは僕が描きたい「悪人」像に共通する話だ。

 簡単に言うならば、僕は陰湿でない悪人が描きたいのである。純粋に自分の満足を求め、快楽のために悪意を追求するような人。豊かで重みのあるエゴイズム。突き抜けた悪、神々しいまでに深い欲望の持ち主。

 絶え間なく自分の好奇心と欲望を満たしたいと願っているような、そんな強烈な意志と願望の持ち主。古典作品で言うならば、ゲーテの『ファウスト』におけるファウスト博士などは、まさにそのような人物だろう。

 飽くなき知識欲に突き動かされて、絶え間ない向上心を抱き続けるファウスト博士は、同時にいつになっても自分の心が満たされないのを感じている。いくら本を読んでも、いくらこの世の学びを深めても、彼は不満を覚える。そんな彼の前に、ある日悪魔メフィストフェレスが現れる。メフィストフェレスは老いたファウストを再び美しい若者に蘇らせ、博士の満たされない心を満たすよう、彼の要望を次々に叶えていく。

 そしてファウスト博士は、悪魔の導きに従って、自分の知的探究心が満たされるまで、この世のあらゆる欲望と快楽を味わい続けるのである。その過程で、彼は麗しき無垢のグレートヒェンを惑わすのだが、やがてはグレートヒェンを一方的に突き放し、彼女を悲恋の底へと突き放すのである。それは本編に触れたことのある人なら言わずもがな知っているだろう。

 このように絶対的な欲望と野望の持ち主を描きたい一方で、同時に僕は、欲望と罪の意識の間で引き裂かれた人間を描きたい。しかし、これも結局『ファウスト』のような物語を描きたいという言葉に要約されてしまう文章だろう。

 問題は物語の構図である。いくつかの原案はあるものの、どれも上手く手が付かない。

 ただ、どの原案にも共通した性格がある。それは、悪魔的な欲望の持ち主が、その満足を求めて様々な行動を起こし、やがてその過程で、なにか大きなものを、大事なものを失うのだ。そして深い喪失を味わった彼は、今度は失ったものを取り戻すために立ち上がり始めるのである。

 しかし、これも『ファウスト』なのではないかとなれば、やはりそうなのだが。


 RadioheadのTrue Love Waitsを聴いている。いつ聴いてもいい曲だ。いつかこういう曲が書いてみたい。

19/08/10 : 読書会で考えたこと、パスカル、その他

 真に優れた創作者は、その人の一連の作品の中に、一種の変奏曲(ヴァリエーション)ともいうべき性格がある。初期から晩年に至るまで、たとえその作品の性質が一変するような時期があろうとも、それらには皆どこかに共通点があり、変わらざる美学が、思想が、または特徴があるものだ。

 そして、これは芸術家だけでなく、恐らく哲学者にも言えることなのだ。


 たとえばドゥルーズの本を開いてみよう。彼が作家として初期に書いた『ニーチェと哲学』の中で、彼はあらゆる人間の内には諸力の関係が存在していると書いた。これはニーチェ自身も指摘していることで、たとえばニーチェは、『善悪の彼岸』の中で、「一人の人間は多くの魂の共同体だ」と書いている。

 ニーチェがこう言うのには、無論理由がある。人の欲望は、その人が見聞し、体験したことによって形成される。また、人はひとつの「正しい」知識を得れば、同時にその反対の「悪い」ものを知ることとなる。つまり、僕達の内部には、常に分裂し、反発し合う欲望( = 力、または意志)が存在する、というわけだ。僕達とは、常に違う性質の「力」が内側に複数存在し、それが争い合うように出来ているのだ。

 これがニーチェの言わんとしたことである。そして、ドゥルーズニーチェ論において展開した「諸力の関係」の理論には、恐らくこれが影響していると思われる。また、これはドゥルーズが後にフェリックス・ガタリと共に書いた代表作『アンチ・オイディプス』の欲望機械の理論にも繋がるものだ。つまり、人間の欲望は内側で分裂し、同時にそれぞれが密接に関係しあっているのである。

 この理論をそのままドゥルーズの他の著作に応用することも出来るように、僕には思われる。


 たとえば彼の書いた『襞』というライプニッツ哲学とバロック芸術を論じた本。この本の第二章の冒頭部分で、彼は「屈折」という言葉を多用しながら、パウル・クレーの絵画について言及している。

 クレーの絵といえば、非常に自由な画風で有名であるが、それはまさに多くの線が「屈折」しながら絡み合ったものが多い。つまり、内側で多くのものが複雑に絡み合い、また争い合いながら、それによって一つの調和を保っているということ。

 これは彼がニーチェ論の中で書いた「諸力の関係」に通ずるものがある。それと同時に、異なった複数のものが一つの世界に内在しているという、ライプニッツの多元論にも通ずる。そしてこの本は、まさにライプニッツの哲学を一つの主題として扱ったものなのだ。


 さて、本文では、他にもクレーと対比してカンディンスキーというロシア・アヴァンギャルドの画家を参照にしており、ドゥルーズは彼のことを「デカルト主義者」と呼んでいる。


 デカルトといえば、近代哲学の始まりを告げた人物である。彼はまた、ライプニッツと近い時代に生きた哲学者でもある。

 ただ、デカルトの影響を受けたライプニッツが多元論を取るのに対して、デカルト本人は二元論を取る。ここに彼らの大きな違いがあり、ドゥルーズはそこに着目しているのだ。

(デカルト哲学にその起源を持つ哲学者の多くは、皆デカルトを否定することで自らの哲学を発展させている。ライプニッツは多元論に、スピノザは一元論に、そしてパスカルはもっと独特で、彼独自の実存主義ともいうべき「悲劇の哲学」を展開している)

 また、二元論は西洋哲学の伝統に沿った善悪の考え方である。よって、ここで僕が思い出すのは、ドゥルーズが最も嫌った哲学者、つまりヘーゲルのことだ。というのも、ヘーゲルは二元論的な西洋哲学のある種の完成者だからだ。

 ドゥルーズは歴史について、歴史の良い側面が語られる時、人はその「善」がどれだけの「悪」を犠牲にしているかを見過ごしがちである、と指摘している。善悪の解決とは、どちらかがどちらかを押し付けることによってしか成立し得ない。

 そういう意味で、対立し合う二者の調和とは、常に表面をそう取り繕っている欺瞞に過ぎないのである。「歴史」の勝利とは、常に「善」の型に無理やり「悪」を抑え込むことによって成り立つのだ。


 次に僕が思い出すのは、彼の書いたカント論だ。

 僕達は目の前にある現象を体験し、また見聞することで一つの考え( = 欲望)を持つが、これでは僕達は、目の前にある現象に対して「受動的」であることしか出来ていない。その人の経験には、常に経験それ自体に含まれている「偏見」が存在する。人が経験の持つ偏見から抜け出して、より理性的にして正確な思考、つまりア・プリオリな思考を持つためには、僕達が経験に依存して物事を考えるのではなく、むしろ経験を超越した存在として物事を考える必要がある。

 これを踏まえて、カントは僕達に「立法者」になる資格を与えている、とドゥルーズは指摘する。つまり、僕達が何かについて考える時、それに対して受動的であるのではなく、むしろ能動的であること。経験の制約に基づいて物事を考えるのではなく、そこから抜け出して、理性に基づいて物事の意味を「立法」すること。カント(またはドゥルーズ)によれば、これこそが認識のあるべき姿なのだ。

(しかしそれを踏まえた上で、カントは僕達に「服従」することを命令する。ドゥルーズはここにカントの「欺瞞」を見出していた)


 この「受動から能動へ」の思想は、彼ドゥルーズが影響を受けた他の哲学者スピノザにも見られる傾向である。そして、スピノザニーチェにも影響を与えて、ニーチェもまた「受動から能動へ」の思想を展開した哲学者である。


 では、再び『襞』という本の内容に戻ろう。ドゥルーズは外部から押し付けられた「正義」への服従に、つまり二元論に、ある種の欺瞞を見いだしていた。だからこそ、彼は多元論を好み、ライプニッツを支持する。そして、それと同時に、誰かから押し付けられ、受動的であるのではなく、むしろ押し付けられた経験から抜け出した、より能動的な思考を、彼は肯定する。

 彼が同著の中で用いている「襞」という概念は非常に独特で、また難解であるが、恐らくそれを理解する手がかりはここにある。つまり、ヘーゲル哲学への反発、「諸力の関係」の理論、受動と能動について、など。


 今日、僕は生まれて初めて読書会に参加した。そこで僕は本文を読みながら、これらの考えを抱いたが、しかし同時に、僕は自分が浅学であることを知っている。

 恐らく、僕のこれらの考えには多くの誤りが存在する。卑小なものはここで口を閉ざして、語るべきものに場を譲るべきである。


 日記においては、できる限り誰かとのプライベートな内容を描きたくないという思いがある。思い出は、それを共に経験した相手との間だけで語られるべきだ。僕は常々そう考えている。


 僕はパスカルが好きだ。結局、僕の理想は、皆パスカル的なのかもしれない。

 彼自身が次のような指摘をしている。つまり、モンテーニュエピクテトス、サロモン・ド・テュルティらのように、生きることによって得られ、生きることに基づいて展開される哲学を、彼は愛していた。


 ドゥルーズ本人が『ポップ哲学を目指した』としている『アンチ・オイディプス』が、何故あれほど難解だと騒がれているのか。そして実際、僕も初読時に難解だと感じた。

 それに対してドゥルーズ自身は、『アンチ・オイディプス』について語った文章の中で、「道具」として、利用したいところを上手く利用すればいい、そう語っていた。だからか、当時の思春期の少年少女からはウケが良かったらしい。もしかすると、彼による一見すると難解な哲学用語も、もっと感覚的に理解することが正しい方法なのかもしれない。


 ある人が背徳的に思われる行為に耽る時、その人は、同時にその正反対にある「正しさ」を認めていることとなる。

 僕が道徳から好んで背こうとする人間が嫌いな理由がここにある。つまり、彼らは既存の「正しさ」を認めながら、それに馴染めないから、「正しさ」に復讐する形で背徳的な行為に走るのである。それも徹底した「悪」には走らず、ただちょっと「悪い」とされていることをするだけで満足して、最後には「正しさ」に服従することを良しとしている。

 なんて浅ましい人間なんだろう。俗物根性そのものだと思う。


 自分にはまだ力が足りないと感じることが多い。つまり知識が、能力が、経験が足りないのだ。

 もっと大きな力を内側に蓄えたい。最近、常々それを感じている。もっと大きな力が欲しい、もっと強くなりたいのだ。


 最近、上手くいかないことが多い。

19/08/09 : 個人的な話、音楽、自傷、など

 普段は他人のことがなんでもわかったつもりでいる。しかし、いざと言う時になると、僕の何が不満なのか、または何故相手が怒っているのか、何故悲しんでいるのか、何がいけなかったのか、それらのことがまるでわからなくなる。

 そんな時に、僕は自分があまりにも無知であることを痛感する。結局、今の僕にはわかるのは、自分が何も分かっていないということだけなのだ。


 恥ずかしい話だが、僕は十代のある時に自傷をしていた時期がある。そして、僕はその傷を他人に見られることを非常に恐れていた。

 時折、愛されたいから、誰かに見てもらいたいから自傷をする人がいる。しかし、僕にはそれがよくわからない。少なくとも、僕が自傷をしていたのは、何かしらの形で自殺の疑似体験がしたいからだった。

 とにかく、一時的でいいから自我を消すことが出来ればそれでよかった。痛みは僕達の感覚を麻痺させる。そして麻痺した感覚は、僕達に一時的に生の煩いを忘れさせる。

 だから僕がよくやっていたのは、音楽を聴きながら自傷するということだ。今考えれば、あの時の自分は本当に痛々しかった。よくマーラー交響曲を聴きながら腕を切っていた。マーラーの音楽は僕に生のことを忘れさせたから、忘我の作用が二つ同時に働けば、それは非常に良いことに違いない。そう考えたのだ。

 しかし、自傷をしていたのはもう今から数年前のことだ。腕の傷も随分わかりづらくなったように思われる。今でも時折したくなることがあるが、その点、僕は自分の理性の力を信頼している。つまり、また痕が残っては、他人に見られた時に面倒である。よってしない。僕の理性は確かにそう認識出来ているのだ。

 していた当時も、同級生や先生にばれないようにするので毎日必死だったように記憶している。厄介事は増やしたくない。それに、それをしたところで何にもならないことが、今なら分かっているのだ。


 マーラー交響曲第六番の第三楽章、この世の終わりを迎えたかのように美しい音楽だ。自分の目の前で何かが静かに崩れ落ちていくのだが、そこに非常な偉大さが込められている。そのような錯覚を、マーラーの音楽は与えてくれる。


 「所詮人生は暇潰しだ」という人の言葉を、正確に書き直すと次のようになる。「自分の人生は暇つぶし程度の存在でしかないが、本当はそんなのが嫌で仕方ない」


 ポリーニの弾いたドビュッシーの『喜びの島』を聴く。

 不安定な旋律と共に、音楽は不安げな舞踏と共に始まりを迎える。緩慢な、優雅な動きが続く中、音楽はやがて来る快楽の神秘を、既に楽曲の至る所で散りばめつつある。隠された喜びは、音楽が進行するにつれて、次第に明らかとなっていく。

 やがて音楽は絶頂を迎える。その時、その瞬間、僕達は最高潮を迎える音楽の最中に、この世のあらゆる喜びを追体験する。そして僕達は音楽の中で果てる。喜びが破裂し、分散し、僕達を打ちのめす。

 絶頂を迎えるすぐ、音楽は突然の終わりを迎える。まるで大地に虚しく注がれたオナンの精液のようだ。


 十代から二十代にかけて「病んだ」人達をみていて思うことは、彼らは自分よりも大きな自我を持った人達の行動を見て、それに影響されて「病んでいる」ような振る舞いをすることが多い、ということだ。

 不幸は伝染病である。とりわけ僕達は、自分に近い弱さを抱えている人の不幸に伝染されやすい。そして、自分よりも不幸に苦しんでいる人は、それだけ自分よりも大きな自我を持っているように見える。

 だから彼らは自分にとってカリスマである誰かの行動を真似る。彼らの行動を「病んだ」人間に特有の概念として受け取り、その物真似をするのである。

 逆に言えば、彼らと同じかそれ以上に病んだ人間が、むしろ立派な人間として生きようとすれば、彼らはそれを真似て、見るに堪えない酷い行いをしなくなるはずだ。僕はそう考えている。病んだ若者の多くに近い弱さを抱えながら、決して不幸に負けず、強く生きている人間。そのような人間が、正しさを求め、立派に生きようとすることを求めることで、多くの人がその人に影響されて、正しさと善良さを求めるようになるかもしれないのだ。

 だから、僕は現代にこそそのような人が必要であるように思われる。

 

19/08/08 : 炎としての生、ジッド、個人的な話、など

 人が過ちを犯すのは、悪意からよりもむしろ好奇心からである。


 「自分らしさ」に固執する人は、「本当であって欲しい自分自身」を無理にでも信じ込むことで、自分が目を逸らしたい惨めな事柄から、進んで目を背ける口実を得たいと願っている。

 本当の自分、それは確かに存在するのかもしれない。しかし問題は、僕達はそんな「本当の自分」がなんであるのか、それが一生かかっても理解できないことにあるのだ。

 僕達は絶えず自分自身を誤解する。ある時には「自分はこういう人間なんだ」と考えていたのに、五年後には自分をまるで違う存在だと考えている。「自分はこうだ」と信じ込んでは、明日にはそれが脆くも崩れ去る。そして再び、自分にとって都合の良い「自分自身」を信じ込もうとする。

 これの繰り返しでは、人生はあまりにも虚しい。僕には耐えられない。

 だからこそ、むしろ「私とは何か」の問いが出ないということ、それを肯定する必要がある。それを踏まえた上で、絶えず「私とは何か」の問いを繰り返すということ、答えの出ない問いを問い続けること、つまり「本当の自分」のための「実験」を繰り返すということ。それが大切なのだ。

 そう、僕達は存在は、丁度炎のようなものである。耐えず燃え続け、姿を変えて、大きくなったり小さくなったりしながら、同じところに留まることをせず、また同じ形に回帰することもない。しかし、同時に炎の内側には、絶えず炎を突き動かし続ける法則があり、そして炎を燃やし続ける不動の存在がある。ただ、炎はそれらを理解することが出来ないまま、やがて燃え尽きるのである。


 僕には一人でいる時に爪を噛むくせがある。しかし、いつも爪を噛んでいるので、噛みたい時にいつでも爪が生えているとは限らない。

 そのような時、僕は指先の皮を噛みちぎっている。無論、皮と言っても非常に表面な部分なので、血は出てこない。だから安心して欲しい。一番よく噛みちぎるのは人差し指の皮で、ピアノやギターをよく弾く分、他の人よりも指先が堅くなっているように思われる。


 アンドレ・ジッドはプルーストサルトルと並んで二十世紀フランス文学を代表する作家である。そして彼は、他の二人と同様、私生活が非常に個性的なものであったことでも知られている。

 とりわけ有名なのが妻マドレーヌとの関係だ。二人の出会いは幼い頃に遡る。その頃、マドレーヌの家庭は、彼女の母親のために大きな問題を抱えていた。そしてジッド少年は、泣ている未来の妻の姿を見て、彼女のために生きることを決心する。

 ここまでは大変ロマンチックな話だが、問題はその後の話である。やがて大人になって彼らは結婚するが、ジッド夫妻は、なんと一度も性交渉に及ばなかったのである。

 これには幾つかの理由がある。先ず第一に、ジッドはマドレーヌを純粋な人だと信じ込むあまり、彼女に性欲があると思わなかったのである。なんと愚かな男なのか、ジッド。

 次に、それによってマドレーヌは、自分に女性としての魅力がないと思い込み始める。そのために、元々内気だった彼女は、益々内気になり、彼の前から身を引くようになる。

 そうなると、ジッドはやはり妻には性欲がないのだという誤解をさらに深めていく。それもあってか、彼は不倫に走り、妻以外と人間と多く関係を結び、満たされない欲望に耐えず苛まれ続ける。

 結果として、ジッド夫妻は心から愛し合いながらも、一度として肉体を交えることが出来ず、妻マドレーヌは処女のままこの世を去ることとなった。そう、これだけ波乱に富んだ結婚生活を送りながら、彼らは離婚しなかったのである。

 しかし同時に、ジッドはマドレーヌを生涯愛し続けていたのも事実だ。彼の創作根源には、常にマドレーヌの存在がいた。彼の小説家人生は、マドレーヌのために始まり、マドレーヌのために終わった。実際、『背徳者』や『狭き門』など、マドレーヌがモデルとなったヒロインの登場する小説は多い。


 よく、人生を賭け事に例える人がいる。実際、「人生はサイコロを振るようなものだ」や「賽は投げられた」など、これらに近い言葉も耳にすることが多い。

 しかし、冷静に考えて見てほしい。サイコロを振って賭け事に身を投じるような人は、既にその時点で、「賭け事」それ自体を肯定しているのである。賭けに勝つか負けるか、それはその人にとって、既に二の次なのだ。

 よって、次のように考えることが出来る。「人生は賭けだ」と考えることができる人、そして実際、サイコロを振って「賭け」に身を投じる人は、その時点で人生それ自体を「肯定」しているのである。逆に考えるならば、生きることに「否定」を唱える人は、そもそもそもサイコロを振ることが出来ておらず、「賭け」に参加すらしていないのである。


 ひとつの存在を認めることは、それを支える多数の存在を認めることだ。


 ついにベッドとカーテンを買った。これでようやく人間らしい生活が送れるようになる、そう思うのと同時に、これでやっと誰かを部屋に呼ぶことができる、とも思っている。買う事が出来て良かった。

19/08/08 : Radiohead - The Trickster(和訳)

Rust in the mountains,
山々の中で眠れ
rust in the brain
脳の中で眠れ
The air is sacred here
ここの空気は新鮮だ
in spite of your claim
君の主張とは裏腹に
Up on the the rooftops,
上へと登りつめ
out of reach
誰の手も届かない場所で
Trickster is meaningless,
嘘つきは虚しさに苛まれ
trickster is weak
嘘つきは弱々しく呻いている

He's talking out the world,
彼は世界を解き明かそうとしている
talking out the world
世界を解き明かそうと…

Hey, hey, hey……

this is only halfway
まだ途中経過だ

Hey, hey, hey……

this is only halfway
まだ途中経過だ

I wanted you so bad,
僕は君を駄目にしたかった
that I couldn't say
それは言えなかったことだけれど
All things fall apart
結局全ては壊れてしまった
We wanted out so bad,
僕達は駄目になりたかった
that we couldn't say
でもそんなことは言えなかった
These things fall apart
結局全ては壊れてしまった

We're talking out the world
僕らは世界を解き明かそうとした
talking out the world
世界を解き明かそうと…

Hey, hey, hey……

this is only halfway
まだ途中経過だ

Hey, hey, hey……

this is only halfway
まだ途中経過だ

Truant kids,
怠惰な子供たちは
a can of brick dust worms
レンガの壁に蔓延る虫けらのように
Who do not want to climb down from their chestnut tree
自分の登った木の上から降りようとしない
Long white gloves, police check carefully
長く白い色の手袋をして、注意深く調べる警察の手から逃れて
Escaped from the zoo,
動物園から抜け出した
the perfect child facsimile is
本物になれなかった偽物の子供は

Talking out the world,
この世界を解き明かそうとしている
talking out the world
この世界を解き明かそうとしている

Hey, hey, hey……
Hey, hey, hey……