公開日記

その名の通りです

18/08/08 : 音楽に寄せて(休息のために)

今日からPain of Salvationというバンドの発表したBEという作品を訳そうと思う。Pain of Salvation(以下PoS)は、僕が高校の頃に大変熱を上げていたバンドの一つだ。ロックミュージシャン=ロックバンドならば、他にもNeil YoungDavid BowieGenesis(それとこのバンドの元ボーカルであるPeter Gabriel)、Jethre Tull、Japan(それに元ボーカルのDavid Sylvian)、The SmithsU2Nine Inch NailsRadioheadJeff Buckley、Leprousなどが好きだったが、PoSのBEとGenesisのThe Lamb Lies Down on Broadway(邦題は確か『魅惑のブロードウェイ』だった)は、特に僕を夢中にした二作品だった。高校時代も僕は、もし自分がロックバンドを組むならば、BEか『ブロードウェイ』のどちらかのような音楽がやりたい、と思っていたくらいなのだ。実際、この二作品は完璧だ。 BEを全曲訳し終えたら、今度はブロードウェイを全曲訳してみたいと思っている。

高校の頃好きだった音楽といえば、僕はジャズがとても好きだった。有名なMiles DavisJohn Coltraneも聴いたが、僕はBud PowellKeith Jarrettにとりわけ夢中だった。特にKeith Jarrett(以下キース)には深い感銘を受けた。キースに『人生をかえられた』と言っても、恐らくあまり言い過ぎではないだろう。彼はピアノによる長尺の即興演奏を得意としていて、その演奏時間は時に四十分を優に超えた。当時の僕は、そんなキースに憧れていたし、世紀の天才Keith Jarrettの信奉者だった。個人的に、特に好きな彼の作品はStaircaseとLa Scalaである。この二作品をどれだけ聴き込んだ事か、僕は知らない。ジャズミュージシャンなら他にも色々聴いていたが、今ではあまり聴かなくなったものが多い。Duke EllingtonCharles MingusThelonious MonkBill EvansOrnette ColemanEric DolphyJoe HendersonWayne ShorterFreddie Hubbard、Oliver Nelson、Albert Ayler、現代ジャズならe.s.tやRobert Glasperが好きだった。特にかつてはThelonious MonkEric DolphyOrnette Coleman、Robert Glasperの四人に熱を入れていて、その夢中になりようは、上に書いたキースとBud Powellの二人に匹敵するほどだったかもしれない(しかし、最近ではどれもあまり聴かなくなってしまった...)。

 

しかし、もし僕が最も夢中になったその人の名を口にしろと言われたなら、恐らく僕はクロード・ドビュッシーの名前を挙げると思われる。僕はドビュッシーが大好きだった。クリスティアン・ツィマーマンの弾いたドビュッシー前奏曲集は、今日まで通して千回以上聴いているといっても決して嘘にはならないかもしれない。彼の音楽は、どれだけ溢れる感銘を僕達に与えても、決してその魅力が尽きる事はない、まさに噴水のように優れた音楽だ。常に自己の内から溢れ続け、常に自己によって完成し続けるもの。僕達はその湧き出る噴水の泉の側に腰をおろし、彼の溢れる豊かさを口に含もうとするが、いくら掬っても彼の麗しい流出が止まる事はなく、静謐な水の流れは、常に己が内から溢れ出て、再び己が内へと回帰する。放出し、我々の手では味わいきれんばかりの恩恵をもたらし続ける彼の噴水は、たとえ僕達がその沢山の美を掴み損ねたとしても、彼はその偉大な輝きを、再びその音楽の始まりの瞬間にまで立ち昇らせ、そして音楽は再び有り余る程の豊かさをもって僕達を襲うのだ。まさに飲んでも飲んでも飲み切れない美の噴水。僕はそんなドビュッシーの音楽を、あの頃も、そして今も、心から愛している。

無論、熱中した西洋音楽の作曲家はそれだけでなかった。今ではあまり聴かなくなったが、僕はリストやシェーンベルクヒンデミットなども聴いていた(ウェーベルンは今でも変わらずに好きだ)。逆に、十代の頃には深く熱中していたけれど、ここ最近になるまで、一、二年近く距離を置いていた作曲家もいる。シューマンマーラー、それにワーグナーがそうだ。ワーグナーに関しては、確か去年のある日に、突然自分はワーグナーの音楽が好きでないような気がして、距離を取り始めたのだ。しかし、先月からまたワーグナーを聴くようになり始めた。そもそも『読書の趣味ではニーチェトーマス・マンを愛読し、かつてはショーペンハウアーの考えに共感していた』と自ら語っている男が、一度はリヒャルト・ワーグナーの音楽を通るのは容易に想像のつく事かもしれない。モーツァルトプッチーニのオペラにおいて惹かれる点が、その旋律の豊穣な美しさと、巧みに描き出される心理描写だとすれば、ワーグナーの音楽の偉大さは、極限なまでに官能的なオーケストラの響きと、その厳格とも言える古代ギリシア的な力強い表現方法である。あらゆる優れた音楽には、何処かに繊細で女性的な側面が含まれているように思われる。ワーグナーの全き男性的な楽劇(そのストーリーの誇大妄想的な所から、すでにワーグナーの音楽は独り善がりで男性的だ。女性的なもの、または女性の真の偉大さ(または恐ろしさ)は、常にその本質から相互的である事を求めるところと、夢物語を現実に求めるところ、つまり夢見がちでありながらも鋭い現実への目線を失わない、夢想的な現実主義者、繊細な行動主義者であるところだと思われる)、雄大で、一見すると繊細な旋律のない粗野な響きの世界のように思われる楽劇の中にも、その倒錯的なまでに官能的で、油絵のように緻密に、様々な音色が全く無駄がなく重なりあり、ある種の優美さを感じさせるまでに繊細な美しさ、その艶かしい響きが存在するのだ。そういう意味では、もしワーグナーの音楽を優れた形で楽しみたいならば、それは独り善がりで野蛮で下劣な男性性を強調したものよりか、ワーグナー楽劇の持つ優美で儚げな、そして柔らかい乙女の肉体にようにしなやかな女性性を強調したものを聴くべきなのだ。

しかし、話が逸れてしまった...かつての僕が熱中し、今もまだ愛聴している作曲家といえば、恐らくそこには近現代の作曲家の名前が多く連なると思われる。ドビュッシーマーラーは勿論のこと、近現代ならばバルトークショスタコーヴィチラヴェルスクリャービンヤナーチェクウェーベルンメシアンシマノフスキルトスワフスキプッチーニシベリウス、ニールセン...近現代以前ならばフォーレショパン(ツィマーマンの弾いたバラード集を、僕はもう何度聴いたかわからない)、ワーグナーシューマンシューベルトメンデルスゾーンヴェルディチャイコフスキーモーツァルトJ.S.バッハラフマニノフメトネル、ラウタヴァーラ、ルーセルブーレーズミャスコフスキーアルベニスなども好きだが、実はこれらの作曲家を聴くようになったのは、ここ一、二年の話なのだ。恐らく、まだ聴いていない作曲家で、僕にとって好ましい音楽を書いている人は沢山いるのだ。きっと彼らとは、これから出会うことになるだろう。そう信じたい。

 

ここ数日に渡り、僕はある種のノイローゼのようなものに苦しめられていた。だから2018/08/08の日記は、少し休息を取るために書いたつもりだ。こんな風に頭を整理したりする事はいいに違いない。少なくとも、連日のあの精神的な凄まじい激痛の事を思うと、今は少し気が楽になっている。どうか僕がこうして休みたいと願う事を許してもらいたい。こうでもしないと、僕は息をすることも苦しいのだ。僕に友達と、あなたとの心を通わせた会話も、今日は少しお休みにしよう。というのも、僕はこれを一方的な交換日記のようなものだと思っているから。実際、そうではないだろうか?僕は自分の日記を、誰かに読まれるための日記を書いているのだから。これは僕と、見えない友達であるあなたとの交換日記ではないか。