公開日記

その名の通りです

18/09/12 : 断片集

何かを書きたいと思っても、なかなか上手く自分の書きたいものを書き表すことが出来ない状態が長く続いています。書きたいものはあるのです、それに内側から溢れそうなまでに強くざわめいている感情も。しかし、それらが上手く言い表される事は殆ど無いように思えます。むしろ、凡庸な言葉で無理に言い表そうとすると、自分が誤りを犯したような気持ちになって、ばつが悪くなる事すらあるものです。自分の言いたいことを言い表そうとすると、僕はどれだけ努めても何処かで言い間違いをしてしまいます。だから僕は、いっそ自分の言い表したい事を忘れてしまおうと思います。言葉が成熟されて、はっきりとした形を伴ってこの身から吐き出される日が来るまで、僕に求められるのは忍耐なのでしょう。そして、無理に取り繕う事の無い、自然な言葉が実る事を、今は切に願うまでです。

書けない理由は、ただ単に言葉が見つからないだけではありません。僕が人目を気にしているからです。普通以上の羞恥心を持つ人ならば、自分の心情の吐露を、今や大勢の人が見ている、ほとんど公の場所とも言っていい場所で行うことなどしないでしょう。今や沢山の人が読むようになってしまいました。少なくとも、今の僕にかつてのような行いはできません。

なので、今日は、恐らくこのまま「日記」に投稿されないだろう断片的な覚書の数々をここに纏めて残しておこうと思います。

 

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僕は思うのですが、利己的であるという事は、そんなに悪いことなのでしょうか。むしろ、人として最も利他的であるためには、同時に最も利己的である必要があるのではありませんか。利己的である事が僕達の目に醜く映るのは、多くの人の利己性が、その人の精神の貧しさと直結しているからです。精神の豊かな人の利己性は、そのまま利他性に繋がります。つまり、その人の心が喜ぶから、その人以外の誰かに献身するのです。逆に、その人の精神がまずしければ、むしろ自分が与えた分よりも大きな見返りと利益を求めるために、他者に対する献身を行います。大切なのは、利他的であること、利己的であることの区別ではなく、多くの人の精神が豊かであることだと思うのです。

 

僕の考え方は、時にあまりキリスト教徒的でない事がありますし、その事から僕は、同胞たちから『神を信じていないのか』と疑われた事も、そう少なくありません。しかし、断っておきたいのですが、僕は今でも、イエス・キリストの生涯を題材にした作品を読んでは、それに感涙するだけの信仰心は抱いています。それはちょうど昨日のことです。僕は古本屋で、偶然その類の本を見かけ、何となしにそれを開いたのです。そして、僕はその場でそれを読み進めながら、力強く、勇敢で、また物腰柔らかな、愛情深い我らが主の御姿を見て、その場で泣いてしまったのです。『おお、主よ!』僕はその場でそう思いました。キリストよりも偉大であり、心の美しい御方が、果たしていらっしゃるでしょうか。イエスは僕の主です。

かと言って、僕は教会側の伝統的な教義にそのまま『然り』と言うべきだとは思えませんし、これからもそうでしょう。論理的に見て非合理的なものであろうと、信じる事を強制する事が「神への信仰」の正しい姿であるするならば、僕は信仰を捨てますし、反キリストで構いません。そんなものが何になるのでしょうか?もとい、今日まで、既存のキリスト教観に納得がいかなかったからこそ、僕はこのようになったのですし、だからこそ今日まで西洋の文明と宗教心は発達してきた。近代文明は、そういう意味では皆反キリストです。だから僕が思うに、むしろ、伝統に固執して、生きた人間としての生活を失うことの方が、僕には保身であり、神への愛の欠如のように思えます(何故ならば、『生きた人間としての生活』を失うことは、そのまま愛の喪失へと繋がるからです。そして、誰かを愛する事の出来ない人間が、神をも愛せない事は明白です)。

 

 

自分の生活を創造すること、これが何よりも僕には大切なように思える。というのも、人の幸せとは外的な環境、つまり自分の周囲を取り巻くものや、自分が現在備えているものによっては決定されないからだ。その人の幸福とは、たとえ彼がどれだけ苦しい状況下に置かれたとしても、絶対的な存在を見出しているかどうか、そしてその絶対的な存在、変わらざるものを志しているかどうかによって決まるものだ。この絶対的なものが、ある人にとっては生きる希望であり、またある人にとっては夢や憧れであり、またある人にとっては自分の志それ自体であり、またはその全てであり、とにかくそれは様々な肢体を見せる。この絶対的な存在は、その人の価値観、言動の基盤となり、その人の生を豊かにするための源泉となる。幸せとは、他者との交わりの中ではなく、ただ自分自身の内にのみ見出されるものだからだ。

 

大斎期の終わりから復活祭の週一杯まで、彼[ラスコーリニコフ]は病院で寝ていた。もうよくなりかけた頃、彼は熱に浮かされていた頃に見た夢を思い出した。彼は病気の間にこんな夢を見たのである。夢の中では、全世界が、アジアの奥地からヨーロッパに広がっていった、ある恐ろしい、見た事も聞いた事もないような伝染病の犠牲になる運命を辿った。ごく少数の選ばれた人々を除いては、誰もが死ななければならなかった。その病原体は、人体に取り付く微生物で、新しい寄生虫のようなものだった。しかもこれらの微生物は、知恵と意志を持った魔性のもので、これに取り憑かれた人々は、たちまち凶暴な狂人になった。感染すると、その人はかつてに一度も抱いた事がない程の強烈な自信を持って、自分は聡明で、自分の信念は正しいと思い込むようになるのだ。自分の判決、自分の理論、自分の道徳上の信念、自分の信仰を、これほど絶対的に特別だと信じた人々は、かつては決していなかった。地球上の全村落、全都市、全民族が感染し、皆狂人になった。全ての人が不安におののき、互いに相手のことが理解出来ず、一人一人が自分だけが特別に真理を知っていると考えては、他人を見て苦しみ、自分の胸を叩いて、恐れや不安に震えて泣いた。誰をどう裁いていいのかわからなかったし、何を悪とし、何を善とするのかの意見も一致しなかった。誰を有罪とし、誰を無罪とすればいいのか、わからなかった。人々とはつまらない恨みで互いに殺し合った。それぞれが軍隊を集めたが、軍隊は進行の途中で突然内輪もめを起こすのだった。列は乱れ、兵士達は互いに躍りかかって、斬り合いや殴り合いを始め、互いに噛みつき、互いの肉を食いやった。あらゆる町で警鐘が鳴らされ、人々を招集したが、誰が何のために呼び集めたのかが誰にもわからず、皆が不安に震えていた。各人が勝手に考えや改良案を持ち出すが、意見が纏まらないので、ごく一般的な手工業まで放棄されてしまい、農業だけが残った。どこでも人が集結して分裂しない事を誓い合ったが...たちまち今決めた事と全く違う話が持ち上がり、罪のなすり付け合いを始めて、互いの胸ぐらを掴み、殺し合うのだった。火事が起こり、飢饉が始まった。人も物も残らず滅びた。

(ドストエフスキー罪と罰」のエピローグより抜粋)