公開日記

その名の通りです

18/10/19 :「奪われた子供たち」

「奪われた子供たち」という言葉を思いついたのだは、今から数年前、僕が橋爪大三郎という日本の学者の著作『はじめての構造主義』を読んでいる時であった(その題名とは裏腹に、内容はレヴィ=ストロースの哲学に関する言及がほとんどだったが)。とはいったものの、その言葉の真意、つまり「奪われた子供たち」という言葉の示す意味合いは、もしかするとレヴィ=ストロース構造主義哲学とは、殆ど無関係かもしれない。なんと言っても、当時の僕はまだ十八だったのだ。突拍子もない思いつきを読書の際に走らせることなど、今でもよくあるが、その頃は一層酷かったように思われる。


当時の僕はこう考えた。『僕達は奪われた子供たちだ。しかし、果たして何を奪われたのだろう?それは道徳であり、意志であり、気力であり、真実である。では、誰が僕達からそれを奪ったのだろう?それは大人、旧世代の人間だろうか?いや違う、彼らには罪はない。僕達が自分の不幸について考える時、自分の受けた苦しみを全ての点での基準点として設定しようとする。しかし、人によって物事を感じる尺度は異なっており、よって、人によって不幸というものは異なっている。不幸は普遍的でない。もし僕達が、僕達をくるしめる人間達と同じような環境で生まれ、同じような価値観のもとで育てられたならば、僕達は自ずと、否応なしに、僕達を苦しめるような人間と同じような性格をして、同じような言動をするようになるだろう。よって、僕達は、僕達を苦しめたり、僕達と対立する人間を、安易に否定することは出来ない。僕達が彼らに向けるべきなのは、敬意と憐れみなのだ。僕達は、尊敬を込めて、自分と対立する人間を否定しなければならない。ここまで来れば、僕達が何者から「奪われた」かは、恐らくはっきりとしてくるはずだ。それは何者でもない、時代だ。僕達が敵対すべきなのは、人間ではないのだ。敵対してしまうような人間を作り出してしまった、道徳的な価値観の矛盾であり、生活様式における矛盾であり、その影響だ。もしそれを改善することが出来たならば、僕達は、奪われたものを奪い返すことが出来る。つまり、時代によって奪われたものを、新しい時代を造る事によって、奪い返すのだ』

 

それから僕はこう考えた(恐らく、ここから構造主義からの影響を感じる内容になってくると思われる)。

『僕達の無意識には、一つの価値観が存在している。たとえばであるが、僕達は一度も何らかの文面によってそれを目にしたことないのに、何らかの常識を共通させ、なにものかに対する認識を共有している。しかし、それを明確に確かめたことは、恐らく一度もない。これが無意識上に存在する、僕達の行動基準を支配する「価値観」だ。それは、その人の生きる国の風土や、その人の使用言語の性質、その人の宗教、更にはその人の生まれ育った個人的な環境などによって、自ずと、その人の意志とは無関係に形成されていく。とりわけ宗教は、その人の無意識上の価値観の中でも、道徳的な側面に強く影響を与えるに違いない。言語に関しては、その人は物事を考える時、自ずとその母国語で考える。しかし、この母国語とは、無論その人自身の発明品ではなく、古くから、歴史をもって存在するものだ。つまり、僕達は既存のもの、他の多くの人間の影響を被ったものを使用しなければ、何かを考えたり、言い表したりすることが出来ない。僕達は常に、過去の遺産に基づかなければ、もといそれに制約されなければ、生きていくことが出来ないのだ』

『しかし問題なのは、その無意識的な価値観を、現代は意識しがたい状態に陥っている、ということだ』と、僕は続けて考えた。『特に日本の場合を考えてみよう。日本は、明治以降の急速な文明発展に伴って、海外の先進的な技術等を導入し始めたが、一方で、これは非常に危険なことなのだ。何故ならば、その西洋文明とは、本来キリスト教古代ギリシアの文化的な影響、または文化的な土壌を元に発展したのであって、それを無視しては、民主主義や資本主義などの概念を正しく理解することが出来ず、まだ多くの日本人の無意識的な価値観の基盤とも相反するものだからだ。何よりも日本人には明確な無意識の価値観の基準点となるものが存在しない。西洋では聖書やホメロースが、中東ではコーランがそれの基軸となっているが、日本では神道も仏教も、どちらも完全に民衆に根付いているとは言い難いではないか。これが日本人の弱さなのだ。つまり、日本人には、立ち返るべき無意識的な価値観が、道徳的な基準点が存在しない。それにもかかわらず、全ての人に無意識の基盤は存在する。ここに一つの大きな矛盾が生じ、より文明が進歩し、外的な生活が豊かになる一方で、日本人の内側は、精神生活は、益々貧しくなっていくのだ。これは海外の、欧米諸国にも無論言えることだ。科学技術が進歩し、文明はより豊かな発展の道を進む一方で、それによって僕達は、既存の価値観、かつてあった宗教的な無意識の価値観を信じることが出来なくなってしまった。一方で、その宗教の価値観、何世代にも渡って人々の間に遺伝し続ける価値観とは、常に多くの人の無意識に存在し続ける。ここで現代人は矛盾を経験することになる。つまり、様々な情報、新しい価値観、新しい思想が、自分たちの目の前に提示されているのにも関わらず、自分自身は何者にもなることが出来ず、常にその場その場で他人の意見に翻弄され(そのくせ、その意見が本当は誰のものかもわからないのだが)、精神的に不安定になり、煩悶し、自分の内面の貧しさにもがき苦しむのだ!こうして現代人は「奪われる」のだ。常に移り変わり続ける常識によって、あらゆる世代の人間が対立し始め、お互いがお互いを尊敬する事をやめてしまうだろう。しかし、その人の内心はいつも不安定であり、目に見えないものを恐れ、意味もわからず眠れない夜を過ごすのだ。こうして精神の不安や内面の貧しさによって、極度の苦しみに追いやられた現代人の多くは、自分の不幸に捕われた挙句、他人の不幸を思いやれなくなる。そして、これらの人々は、自分の不幸に耐えきれないが故に無気力になり、退廃し、絶望し、背徳的になり、破滅していくのだ。現代人の多くが恐れていること、それは何者にも見られないことだ。彼らは極度の善人として尊敬でも受けない限り、むしろ悪人になって、背徳の限りを尽くすことを願うだろう。自分が何者にもなれないという苦しみ、それから来る倦怠、無気力、退屈が、それを抜け出す刺激欲しさに、彼らを安易な、そしてくだらない「悪人」に変身させる。ああ、これが現代では多く見られているのだ!』

『僕達は新しい価値観を、新しい無意識の拠り所を発明する必要がある。僕達は再び新しい宗教を「発明」し、新しい神への道を「創造」する必要があるのだ。その時僕達はもはや不安に苦しむことをしない。一時的にそれに苛まれても、もはやそれによって絶望することはないだろう。なぜならば、自分よりも大きな存在、自分を支える無意識的な基盤、自分以外に大切なものを見出したものは、そうでない人よりもずっと強いからだ。そう、強い。彼らは多くの現代人よりも力強く生きることが出来る。この力強さを失った、もとい「奪われた」僕達現代人よりも…』


僕が「奪われた子供たち」という言葉を思いついた理由は、恐らく他にも存在する。当時、僕は家庭内で大きな問題を抱えており、特に父と、僕達家族と同居している叔父に対して、大変複雑な思いを抱いていた。無論、今は微塵もそんな思いを抱いていないが、その対立は、僕がキリスト教の洗礼を受けて、新しい名前に改名したいと思い至らせた間接的な原因の一つだった。そんな当時の僕、まだ十代であり、生意気な子供であった僕にとって、自分は「奪われた」人間だと、そんな被害者意識をもっていたのかもしれない。しかし、なんて馬鹿らしい考えなんだろう。被害者意識の強い人間のうちに存在するのは、あらゆる人間に対する漠然とした復讐心である。彼らにとって、他人は自分と同等であったとしても、自分以上に不幸であることは決してありえない、または許せないことなのだ。彼らは、常に他人が自分よりも幸福であり、恵まれていて欲しいと望む。そして、そんな恵まれた他人が、自分よりも傲慢であって、自分よりもずっと性格の悪い人間であれば、彼らは益々好ましいと思うようになる。そして彼らは被害者であることを、虐げられる少数派(マイノリティ)であることを自称するのだ(というのも、マイノリティを自称する人間の多くに共通している性格として挙げられることは、マジョリティに対する憎しみと嫌悪感、排他的選民思想だからである。無論、全ての人がそうであるとは言わないが…)。しかし、そういった人間は、自分が被害者であるという意識が強いあまりに、自分が気が付かないところでどれほど多くの人間を傷つけているのかなど、思いもしないものだ。そして、当時の僕は、まさにそんな人間だった。

しかし、上の考え自体は、決して間違っているとは思わない。それは現在の僕にも通ずるものであり、現在の僕の理想は、この「奪われた子供たち」の概念から来ているといってもいい。実際、僕達は奪われた子供たちなのかもしれない。そして、もし奪われたのならば、奪われたものを取り返すまでなのだ。もしこの中に、自分も「奪われた子供たち」だと思っている方かいるのならば、僕と一緒に、失われたものを取り返しに行こうとしてはくれないだろうか。子供たちが大人になる時が来た、僕達は奪われたものではなく、取り戻したものにならなければならないのだ。