公開日記

その名の通りです

18/10/21 : 自己保存と恋愛小説

僕達が何かを理解しようとする時、実際にそれが理解できない、というような場合は、恐らくあまり多くないに違いない。僕達が何かを理解できないと感じる時、本当はそれを理解できないのではなく、理解したくないと感じている場合が殆どなのだから。

僕達が何らかの議論をする時、多くの場合、それは議論として成り立たず、ただお互いの意見の押しつけあいになるばかりである。何故ならば、それは一つの問題に対して、それぞれ全く異なった側面から眺めたものを基に、お互いが話し合っている場合が殆どだからである。それは丁度、半分のサイズに切られたりんごを、それぞれ反対方向から観察した人が、お互いの意見を述べ合うようなものである。つまり、一方の人には、それが丸みを帯びた赤いりんごに見えるが、もう一方の人から見れば、それは白い果肉をあらわにしたりんごの断面なのだ。それでは話が食い違うのは当たり前だ。議論というものは、大抵の場合、お互いに共通させた認識があるか、またはお互いに共通の立場にある人間同士でするか、そのどちらかでなければ成立しないのだ。だから、もしお互いに異なった側面に立つ二者が、何らかの議論するならば、その両者は、お互いが違う存在であるということを認識し、そして、お互いの側面を含んでいる全体の話をするべきである。それは丁度、先程のりんごが「半分にカットしたものである」と理解した上でなければ、お互いに違う側面に立つ人間が決して理解を共有させることが出来ないように。

恐らく僕達の内には、ここまでに書いた話の意味を痛切に感じたことのある人も多いと思われる。つまり、日常生活、現実生活において、人と人との間における理解の、または認識の誤差を感じるということ。理解しようと思えばそうできるのに、あえて理解しようとせず、自分にとって都合の良い認識に留まろうとする人。りんごが半分にカットされていることを知りながらも、それに目を向けず、あくまでも自分の意見を押し通そうとする人。しかし、これらの人の心の内側で働いているのは、実は自分の正しさに対する絶対的な信頼ではないのだ。というのも、多くの人はこのような人達のことを、非合理的で、慢心している、傲慢な人間だと考えようとするのだが、しかしこの傲慢さ、鈍感さ、理不尽さを、実は自分から好んで、わざとそのように振舞っているのだとしたら、どうだろう。むしろ、彼らは、自分を守るためにそのようにしてるのだとしたら?そう、彼らがそのように振る舞うのは、彼らが自分への信頼、自分の心のうちにある安心、自分に都合の良い認識によって成り立っている世界、これらのものを壊したくないがためなのだ。

自己保存の法則。多くの場合、人は理解できないのではなく、理解したくないがために理解を拒む。多くの場合、人は認識すれば自分の都合に合わないものを見ることになるから、わざと鈍感な振りをして、認識を拒む。自分の考えのどこかに誤りがあるかもしれないという思いを心のどこかに抱きながらも、それを無視し、むしろその正反対の態度に出る。これらは皆、自分の心の平穏や、自分の生活の確かさ、自分に対する信頼、自尊心などを、今ある状態から劣った状態に陥らないよう、それらを守るために行われる。

たとえばある青年が、一人の女性から夜通しで相談を受けた場合の話をしてみよう(これは僕の友人の話である)。ところで、相談というものは、常に何らかの目的がなければ行われないものだ。相談者は、常に相談する側に対して、何らかの目的を抱いている。たとえば、将来にまつわることであるならば、人が他人に相談をもちかける時、実はその人は、既に心の内側で将来になしたいことへの願望が、時には本人も気が付かないほどに無意識的な状態で存在している。よって、この時相談者に対する適切な対応は、『お前はこうした方がいい』と助言することではなく、相談者の話をよく聞いて、相手の言葉に相槌をうち、その人の心の内側をはっきりとさせるよう、内面の対話の補助係をすることだと言っていい。他の場合にしても、これは同じである。相談者は、常に相談される側の人間に対して、何らかの望みを抱いている。そして、その人にとっての目的とは、相談される側の人に対して、その望みを果たすことに他ならないのだ。よって、相談される側の人間とは、自分の意見と立場を話すために存在するのではない。彼らは常に、相談者にとってのカウンセラーまたは神父のような存在であり、その人が内的な模索をすることへの補助係、または懺悔を聞く神の使いなのだ。

この場合も、女性には目的があった。そして、彼は、つまり相談を受ける側の者は、それに気づいていた。しかし彼はそれに気が付かないふりをするのだ。何故か。それに気づきたくないからだ。だから、心のどこかでは本当に気づいていないとすら信じ込んでいる。何故ならば、他ならない相談者である女性の目的は、相談を受けた青年に近づくことであり、またそのまま恋愛関係に陥る事だったからだ。では青年は何故拒んだのか?それは、彼がこの女性の内心に察していながらも、彼自身にはその気がなかったから。かと言って、彼は女性のことが嫌いなわけでもなかった。話も面白いし、良き友だと考えている、と言ったところだろう。しかし、それこそがこの問題のきもとなる。つまり、もし彼がその女性の目的に『気づいてしまった』なら、またそれをその通りに推し進めてしまったなら、それはとても不味いことになるのだ。つまり、青年は決して女性のことが嫌いな訳では無いが、かといって恋愛的な感情は抱いていない。恐らくこれからもそうだろう。だから、そういったものはできる限り拒みたい。かといって、もしここで拒んでしまったなら、この友達付き合い、向こうの面白おかしい話を聞いて、思う存分に笑うような付き合いもなくなるだろう。これらの感情が、恐らく彼の意識と無意識の間でうごめいていたのだろう。そうして彼の無意識に潜む「自己保存の法則」は、彼に次のような選択を強いらせたのだった。つまり、これらの事を、みんな『思いもよらなかったもの』、気がつかなかったことにする、ということである。

人間の神経はもともと大変繊細で、感受性だってもともと豊かなものなのだ。それは全ての人において言えることだと思われる。なら何故、所謂『鈍感』な人たちがいるのか。それは、彼らが『鈍感』になろうとしたからだ。彼らは、皆無意識的に『鈍感』であろうとした。傲慢であり、無神経であり、理不尽であり、大胆である。これらの性質を具えている人は皆、そうしなければ自分の内面が壊れてしまうが故に、そうなった場合が多いように思われる。この場合の青年もそうである。そうしなければ、彼は自分を守れなかった。これはあらゆる人間関係に言えることのように思える。もし明確な形で否定の素振りを見せれば、相手方は傷つき、その二者の関係は、もはや同じでいられないだろう。かといって、肯定することだって出来ない。それなら、最も良いこと、それは『気が付かなかった』とすることである。一方で、女性の方からすれば、それは何とも理不尽であり、傲慢であり、無神経であり、許されざるような行いである。よって、結果として、彼らの友情は壊れる事となってしまった。『なら俺はどうするべきだったんだ?』と、青年は考える。『俺だって努力したんだ。気が付かないわけがない、でももし俺が気がついてしまったなら、そしてそれを認めてしまったなら、もう俺達はあんなふうに面白おかしく話を合わせることだって出来ないだろう。それなら、気が付かない振りをするしかないじゃないか』結局、青年はいつまで経っても自分の何が間違っていたのかがわからないままだったのだ。しかし、かつて青年のとった態度が誠実でなかったことは、彼自身も認めることであった。これは今から二年前に彼が体験した話である。


多くの女性が誤解していることであるが、僕達男性は、肉体的な欲求のために異性を口説こうとするものは殆ど居ない。一見するとそう見える者、または自分がそうであると自負している者も、それは同じである。そうでなくて、多くの女性と関係を持ちたい願う男性のうちに潜むのは、肉体的な欲求の解消ではなく、それ以上に自尊心の要求を満たしたいという願望があるからだ。もとい、これは女性のいくつかの場合にもいえるかもしれない。これらの人々が複数の人と関係を持ったり、またはそうであることを望む理由は、『自分は複数の人間と関係を持つことが出来る』と認識することによって、自分が他の人よりも優れた、魅力的な、力のある人間だと、信じ込みたいからそうするのだ。『自分は他の人が決して味わえない喜びを知っている』と、彼らはそう信じこもうとする。そうすることが、彼らの虚栄心に非常な満足をもたらすからだ。そして、さらに僕は話を推し進めたいが、これらの人は、元々、たとえば十代の中盤頃まで、決して異性との関わりが多かった訳ではなく、人としても周りから愛されるようなものでなかった場合が殆どなのだ。そして、その反動でそういったものを求める、ということも十分に考えられる。つまり、彼らが複数の異性から愛されるのを求めるのは、彼らの性的欲求が強いからではなく、彼らの自尊心、または彼らの虚栄心が、それによって慰められるのを求めているからなのだ。僕はこれらの者を好まない。彼らはあまりにも軽薄だし、俗物っぽく、下品極まりないからだ。

一方で、これとは正反対に、もっと純粋に異性と交わる人間の存在を、僕は知っている。無論、倫理的には良くないと思える節はあるが、それでも僕は彼らのことが大好きだ。彼らはトルストイの小説「アンナ・カレーニナ」の内に登場するセルゲイ・オブロンスキーに似ている。「アンナ・カレーニナ」は、女主人公のアンナの兄であるオブロンスキーの浮気が発覚するところから始まるのだが、その場面は何度見ても微笑みを浮かべずには読むことが出来ない。オブロンスキーは気持ちの良い眠りから目を覚ますと、自分がどうして寝室ではなくてソファの上で寝ているのかを疑問に思う。そして彼はハッとする。『そうだ!俺の浮気がバレたのだった。どうしよう、妻はあんなに怒っている…』しかし、そんなことを考えている間にも、ふと浮気相手の女のいたずらっぽい瞳を思い出すと、思わず頬を緩めてしまうのだった。一先ずオブロンスキーは身だしなみを整えて、召使いに導かれて朝食をとり、朝の新聞を読みながら警句を考え、『まあ、なんとかなるだろう!』と考える。が、その後、いざ妻のいる寝室に顔を出してみると、なんということだろう!彼の妻であるドリイは、やつれて、涙に濡れた、夜も眠れずに過ごした様子で立っているのだ。それを見て彼は叫ぶ、『ああ、ドリイ!』と。彼には一目で全てがわかってしまったのだ。妻が自分に対する嫉妬の苦しみで一晩中眠れずにすごし、それ故にこんなにも痩せた、疲れた面立ちでいることも、その全てが。その瞬間に、オブロンスキーは自分がどれほど酷いことをしたのかに気がついて、涙を流し始めた。『おお、許してくれ、ドリイ…ああ、俺はなんてことを…』しかし、このオブロンスキーとドリイの流す涙には、どれほどのちがいがあることだろう!オブロンスキーの涙、それは夜もぐっすり眠れて、朝食も美味しくいただき、新聞を読んでは警句を吐くような、そんな健康そのものの人間の流す悔恨の涙、憐れみの涙、贖罪を求める涙だが、ドリイの流す涙は、愛する者の不貞に嘆き、夜も眠れずに悩み苦しみ、食事も喉を通らない程に思い詰めた、そんな不幸に病んだ人間による嘆きの涙、嫉妬の涙、苦悩の涙、憎悪の涙なのだ。そしてドリイは、夫が夜もぐっすり眠れたことも、朝食も美味しくいただいたことも、そしてオブロンスキーの流す涙の意味も、全てよく理解していた。それはオブロンスキーの性格の単純さ、純粋さ、人の良さを表すものだった。それ故にドリイは、益々夫のことを愛おしく思う一方で、益々夫のことが許せなくなるのだった!何故なら、ドリイはそういった夫の人の良さを、性格の善良さ、素直さ、子供っぽい純粋さを愛していたが、その一方で、自分の想いを裏切られたドリイにとって、その裏切った相手が、自分のことでこれっぽっちも悩まなければ、むしろ非常に健康に過ごしているということは、何よりも許せないことであり、憎しみと嫉妬の気持ちを、益々起こさせるようなことだったからだ。

僕はこのオブロンスキーのような人間の例を他にも知っている。といっても、この者はオブロンスキーよりもずっと節操の確かな人で、精神の純潔を固く守っている者だが、やはり女性と友情を持つことを喜びとするものだった。彼は語る。『トーマス・マンが、確か彼の小説のどれかで、「女性がいなければ人生は明るいものにならない」と、確かそんなことを書いていたが、彼がそういうのは正しいよ。これは男性だけじゃなくて、同じ女性にしても言えることなんだ。女性は美の象徴だ。そして美しいもの、つまり女性的なものがなければ、人生にいろどりが与えられる事は決してない。キェルケゴールは「女性は夢以外のなんでしょう、しかも最高の現実なのです」と言ってたが、彼はその事をよくわかっていた。女性の存在は、僕達男の生きる人生を全く夢のある存在に、希望に満ちたものに作り替えてくれる。女性がいなければ、僕達男性は途端に生きる意味を失ってしまうんだ…だから僕は女性が好きだよ。これは純粋な意味でさ。女性は多くの男性と違ってガサツなところがないし、物分りも良くて、繊細で、話していて快い。なに、僕は疚しいこととかは決してしていないよ。それに元々、そんなに人と関わるのが得意なわけではない…これで学生の頃は、クラスの女子と話すだけで顔を真っ赤にしていた…だから決して疚しいことが、思い切った大胆な行いが出来ないんだ…まあでも、話すくらいならいいじゃないか。変なこともしていないんだし、これくらい許してもらいたいね』といったところである。しかし恐らく、もしこの男に愛する女性ができたとして、その人が彼以外の男といる所を見たとしたら、彼は嫉妬に狂って次のようなことを口走るに違いない。『なんということだ!あの人が僕以外の男と…ありえない、許せん。ああ、なんということだ、もしかすると僕は、同じような思いをあの人にさせていたのかもしれないなんて!お願いだ、許してくれ。もう金輪際人付き合いの数を減らすから、もう僕を苦しめないでくれ…お願いだ…』


人間とは多様なものであり、愛もまた多様である。虚栄心に基づく愛、自尊心によって生まれた愛、情熱的な愛、利己的な愛、何かほかの目的を伴う愛…優れた小説には、必ずこれらの輪郭が現れているものだ(白状してしまうが、僕はあらゆる小説のジャンルの中で、最も好きなのは恋愛小説だ。僕もいつか、スタンダールプルーストのような恋愛要素の強い教養小説が書いてみたい)。だからこそ僕は小説を読むことがやめられないのだ。ところで、プラトンの「饗宴」の中では、ソクラテス以外の登場人物もまた、非常に興味深いことを語っている。たとえばパゥサニヤスという人物は、当時の古代ギリシアの一般的な恋愛観を語っているのだが、これが大変面白い。愛する者は、その恋人を口説くために、誓いの言葉を立てたり、夜は恋人の家の戸口で寝て過ごしたり、奴隷さえも嫌がるような仕事を、恋人のために奴隷のようにしたりする、これが古代ギリシアの恋愛観である。これに近いことは、スタンダールが彼の小説の中でも示している。彼の残した素晴らしい傑作「赤と黒」の中で、主人公ジュリアンは、恋愛関係にあるレナール夫人に対して様々な事をするのだが、それは尽く失敗する。たとえばジュリアンは、自分の親友がジュリアンに話してくれた、親友が女遊びをした時の内容とか、彼の愛読書であるナポレオンの自叙伝に書かれていた、ナポレオンの男性的な口説き文句を真に受けて、自分もこうあらなければならぬ、と考え始める。それでジュリアンは、早速レナール夫人に対して、親友やナポレオンが語っていたような行いをそのまま真似して、同じように振舞おうとするのだが、それはどれもレナール夫人の不評を買い、むしろ彼女から疎まれ始めるのだった。それに対してジュリアンは疑問を深めていく。『おかしいぞ、友人のあいつやナポレオンが話していたことと全く正反対な結果になっているじゃないか!』

かつての偉大な作品に触れていると、僕は思わず自分のことを書かれているのではないか?と思うような節にいくつか行きあたる。そして、それこそが過去の遺産の偉大な、素晴らしいところなのだろう。つまり、あらゆる歴史的な芸術作品は、全ての時代の人間にとって普遍的なものを含んでいるからこそ、歴史的な存在となる。恐らくそのような出会いは、これからもあるに違いない。