公開日記

その名の通りです

18/10/23 : 宗教と人間

宗教という存在が何故今日という日まで生き残ったのか、それは、宗教の教えの内には、人間の潜在的な欲求が反映されているからである。宗教を知るということは、すなわち人間を知るということなのだ。宗教のうちに潜むのは神ではなくて人間である。僕達は神を創作するのだ。

旧約聖書によれば、神は自分の似姿として人間を創造された、と記されている。そして、もしその通りならば、僕達は神に似ている存在として、何らかのものを創造し続けることによっていきていく存在だ、とは言えないだろうか。神に似た者として、僕達は神を創作し、神を創造する。僕達は常に、一つの神の先祖なのだ。僕達は神を開始する。そして同時に、神は僕達の故郷であり、始まりであり、終わりなのだ。

もし神が全知全能であり、神が一つの完成であるならば、神が初めからおられる、という事は誤りである。もし神が完全であるならば、完全への過程にある僕達は、むしろ神と共にいない、と考えるのが妥当だろう。何故ならば、神は終わりにおいて存在するからだ。僕達は、最後の完成の時まで、神を見ることが出来ない。そして僕達は、終わりの時にたどり着くように、自分の内側を、蜜を集める蜜蜂のように豊かに蓄え、そしてその蓄えから、僕達は神への道を生成し、神の肖像を描き始めるのである。


宗教とは芸術の一種だ。そして、祈りとは芸術に明るくないものにとっての、一つの芸術作品だ。僕達は祈る時に、自分よりも大きなものを、自分がこの全身全霊を持って捧げるべき対象を見いだし、ただその一つのために我が身を削る。それはちょうど、美に仕える芸術家が、美のために我が身を滅ぼし、美のために命を削ってまでも創作活動に打ち込むのと同様である。

僕達は神を創作する。そして僕達は、自分の深層心理を反映した産物を、『宗教』という名前で呼ぶ。宗教が今日まで生き残ってきた理由、それは宗教の教えが、常に人間の根源的な欲求、特に人間の弱さに纏わる根源的な欲求を、満たすだけの力を有していたからである。そして、これは非常に芸術に近い存在だと言っていい。何故なら、芸術も多くの場合、人間の弱さと苦悩、そして苦しみを前提として存在するからだ。そして、今日まで芸術と宗教が生き残ることが出来た理由は、ただ一つの理由に要約することが出来る。つまり、そこに人間の根源的な欲求が反映されているから。宗教がなぜ生き残ることが出来たのか、その仕組みを詳しく調べ尽くすことが出来れば、その時僕達は、紀元前から今日に至るまで、人間が何を求めているのかを、間違いなく知ることが出来るだろう。


僕達が祈る時、僕達は神という前提を必要とする。この時、僕達は神を創造する。僕達は神という絶対的な第三者の存在を仮定し、それが現在も共におり、過去も、そして未来をも、その者によって成り立っているのだと考える。その時、僕達は、僕達の創造した神によって、僕達自身を創造し直す。

僕達は、誰も僕達自身を知っていない。僕達は、僕達が何者であるのか、ということを、そもそも知らないからだ。そうでなければ、自分探しの旅、などというものをする人もいないだろう。しかし、僕達が何者であるかという事の答えは、外部には存在しない。その鍵は内部に潜んでいる。だから、僕達は自分の内部の深淵へと向かうことによって、僕達自身を知る必要がある。しかしこの時、僕達の身には不可思議なことが起こり始める。つまり、僕達自身を知るということのためには、それを深く掘り下げるための手段や道具が必要となっていくのだが、その手段や道具は、ほかならないその人自身の知識であり、また知性である。これらには、自分が経験することによって知っている感覚的な知識と、それに客観的な照明を当てるための理知的な知識と、その二つが必要とされる。そして、ここにこそ矛盾が生じるのだ。つまり、自分を深く知るためには、それらの知識を積み重ねていかなければならない。僕達は、深淵に下るために、高い山の頂きにまで登らなければならないのだ。

僕達は、自分の内面を深めることによって、自分の精神を高めていく。これが『僕達自身を創造し直す』ということである。そして、神に祈る人は、皆このような行いを、無意識的に行っていると言っていい。何故ならば、人が祈りを捧げる時、その人は先ず神に対して差し出す自分の言葉を模索するが、この言葉は、同時に自分の最も深くにある願望と密接なつながりを持っているからだ。つまり、神に対して祈るための言葉を探す時、人は、自分自身を模索していることになる。これこそが『祈りとは一つの芸術作品だ』という言葉の意味である。そして、人は、自分のそのような祈りを受け入れてくれる存在を仮定する。この存在こそが神である。ところで、神とは隠れている存在であり、離れている存在である。もし、神が公な存在であるならば、僕達は誰も神に対する意見の食い違いで争いを起こしたりしない。しかし、違う。神は自らを隠されて、人間からその身を離された。だから僕達は、自分たちの想像で神を、再び創りなおす。そして、僕達はそれぞれ、神への接し方として、一つの宗教を創りあげる。これが、僕が先程書いた『僕達は神を創作する』という言葉の意味であり、『僕達は一つの神の先祖である』という言葉の意味でもある。


ところで、人間は、常に自分の都合に合わせなければ、物事を理解することが出来ない。僕達は、常に自分の主観に基づかなければ何らかの物事を考えることが出来ないのだ。僕達の無意識に基づいた価値観や偏見は、常に僕達以外のものによって形作られる。僕達は、偶然生まれ育った環境などによって、他者や当時の出来事から影響をこうむり、外部の要因によって内部の精神世界を形成していく。しかし、これら全ての外部のものは、皆自分の望んだものでもなければ、意志したものでもない。だからこそ、僕達の無意識は、僕達以外によって形成されるのだ。そして、この僕達以外によって形成された無意識に基づかなければ、僕達の主観は存在せず、そしてこの主観を通さなければ、僕達は何事も理解したり、考えたりすることが出来ない。これは神の場合も同じである。僕達は、神を主観的に理解することしか出来ない。だからこそ、どれだけ足掻いても、僕達は、自分の都合に合わせなければ宗教は発生し得ないのだ。だからこそ、宗教は常に、人間の弱さを受け入れるものとして存在してきた。それは、多くの人が、自分の弱さを受け入れてくれるだけの大きな存在を、いつの時代も求めてきたからだ。

人は、もし豊かな生活が送れて、常に刺激を求める必要が無いほどに幸福な生活を送ることが出来るならば、進んで誰かの支配下にはいりたいと思うし、刺激を求めずとも満足を得られるだけの境遇に到達できたならば、誰も自由などというものを求めないだろう。つまり、人は自分が服従するべき存在を求めたために、神を創造したのだ。

このようにして、人間の歴史は進んで行った。僕達が新しい時代を始める時、それは新しい神への道が提示された時であり、新しい人間の在り方が提示された時、つまり新しい宗教の在り方が提示された時である。僕達は皆、宗教的な存在だ。無神論者には、「無神論」という宗教が、彼の無意識のうちに存在している。人間の無意識には、先述の通り、常に自分では思いもよらないような偏見や主観が支配している。これを明確に文章に表わしているのが、一般的な宗教なのだ。なぜなら、あらゆる宗教には聖典が存在し、教えが存在するから。何よりも、多くの宗教には、「神」という長い歴史のある概念が存在する。長い歴史を伴って人間と共に存在してきたものは、人間にとって普遍的な存在となる。だからこそ、神は人間にとって普遍的なのだ。そして、普遍的なものに根付かず、明確な無意識の基盤を表すものも存在しない無神論は、より確固とした価値観に基づいて生きないがために、精神的な不安定に苦しめられ、結果として有神論者よりも弱いものとなってしまうのだ。


しかし、究極の意味での無神論とは、或る意味では有神論者よりも強い存在だ。それは旧約聖書にも書かれている。ヨブ記の主人公であるヨブは、なんの意味もなく、神に唐突な不幸の苦しみを押し付けられる。最後までそれに耐え忍んだからこそ、ヨブにはその報いが与えられたが、一方で、なぜ神がそんな酷いことを、不当な行いを、苦難の連続を彼に与えたかは、最後まで明かされない。神の真意が理解されないという事、そうであろうとも目の前の不条理に果敢に立ち向かって生きること、これはある意味では大変無神論的である。

創世記に登場するヤコブの名前の意味、それは『人を出し抜く者』だ。彼は自分の兄を出し抜いて祝福を受け、自分の惚れた女を口説き落とすために十四年間彼女のために働き、最後には神と地上で格闘し、神を負かす。その時、彼が神から与えられた名前は「イスラエル」だが、その意味は『神に打ち勝った者』だ。これもまた、大変無神論的である。何故なら、最も狡猾であり、最も情熱的である人間が、神からの祝福を受け、地上の勝者となったのだから。