公開日記

その名の通りです

18/10/30 - 読書と不条理

「読書とは、自分の頭で考える代わりに他人に考えてもらうことだ」とは、確かショーペンハウアーの残した言葉だったように記憶している。僕は彼のこの箴言に反論したい。

僕達が何らかの物事を見聞する時、僕達はそれを自分の内側で再構築する。たとえばであるが、石の沢山転がっている広場にいる時に、僕達はそこに自分の知っているものに似ている石を見つけては、「あれに似ている」と思ったことはないだろうか。僕達は、ある一つの未知な、またはよく知らないものが目の前に現れた時に、それを自分のよく知っているもので理解しようとするのだ。つまり、目の前に広がる新しい知識を、自分の知っている知識を前提にして理解する。これが僕達の内側で行われる作用である。大体の人は、恐らくこれを無意識的に行っているであろう。

逆に言えば、僕達は自分の元々知っているものを前提にしなければ、何ものも理解することが出来ない。たとえばであるが、数学の授業の際に、何の前置きもなく全く聞いた事のない公式を黒板の上に書かれたとして、誰もその教室の生徒は理解できないだろう。一方で、もしもその未知なる公式を、生徒達が元々知っている数学の知識で解き明かすことをしたならば、その教室を担当している教師は、恐らく大体の生徒に納得のいく理解を与えることが出来るに違いない。これと同様のことが、僕の話している内容にも言えるのだ。

これは、何も数学の公式に限った話ではない。ここでいう『自分の元々知っているもの』とは、数学の知識だけではなく、無論、感情やその人のより個人的な経験のことも含んでいる。感情移入という行為も、この前提として存在する知識を基にして行われる『理解』の作用だ。ある人が何かとても不幸な出来事に会い、悲しんでいるとしよう。その時、その出来事に近い苦しみを負った人ならば、よりその悲しみに対して共感を示し、またそれが理解出来るに違いない。だからこそ、より多くの悲しみを知る人こそが、より多くの不幸な人を慰めることが出来るのだ。


さて、ここで僕達は、再びショーペンハウアー箴言へと歩みを戻すことにしよう。彼はなんと言ったのだったろうか。そう、「読書とは、自分の頭で考える代わりに他人に考えてもらうことだ」と言ったのであった。僕達は読書をする際に、開いているその頁いっぱいに広がっているのは、他ならない本の作者の考えである。そして僕達はそれを読むが、僕達はその本の内容を、完全に作者の意図に沿って理解することが出来ない。作者の内側に前提として存在している知識と、その読み手が内側に前提として存在させている知識が、完全に一致することがないからだ。その前提が完全に一致しなければ、あるひとつの物事を完全におなじように理解することは不可能である。これは、一つの本においても同じであり、おまけにその本の作者とその読み手では、それは尚更である。僕達は、作者と同じ目線で本を読むことが決して出来ない。僕達は、多かれ少なかれ、作者の意図を誤解することが強いられており、理解できないことが必然とされている。

僕達はそもそも作者と同じ知識を共有しているわけでもなければ、作者自身すら理解できない。人の意識の間には、それぞれあがらいがたく、また越えがたい壁が存在している。僕達は、それぞれが生まれ育った環境も違えば、それによって形成された無意識的な常識も、今日まで学んできたことも、どれも異なっている。よって、ある人の無意識的な常識と、他の人の常識が完全に一致することは殆どありえない。僕達は、僕達の前提(として存在する無意識的なもの)を背景としなければ、何ものも理解することが出来ない。だからこそ、『他人に考えてもらう』ことなど、不可能なのである。かと言って、僕達はそれを、自分の頭で考えている訳でもない。僕達はそれを、僕達の自我ではない何か、僕達の意識の底に潜む『何か』を通して考えているのだ。


では、この『何か』とはなにか。それは、こういって良ければ『無意識的な感情』である。

僕は、人の精神には三つの種類のものが存在しているように思える。そこには、理性と表層的な感情があり、その奥底、その背景、その裏に潜むものとして、無意識的な感情、本能的なそれが存在しているのだ。そして、この無意識的な感情を基にして、僕達の理性や表層的な感情は作用を起こす。たとえばであるが、ある人が何者かを、生理的に軽蔑し、嫌悪したとしよう。この時、彼はこの嫌悪感を正当化するために、最もな理由をつけようとして、理性を働かせる。または、ある人が他の人に嫉妬したとして、しかもその嫉妬の理由がなんとも不合理な、『自分は恵まれないのにあの人は恵まれているから』といったような理由だとしよう。一方で、このような不合理な理由を、そのまま受け入れてしまえば、その人は自分が惨めで、耐え難い存在のように思えて仕方なくなるだろう。だからこそ、人はこの不合理を正当化させるために理性を働かせ、また表層的な感情は、その理性によって見つけた他の人の欠点に対して怒りを抱き、こうして『私はあの人のこういった醜い点を知っているから嫌いだ』と言えるようになるのだ。


僕達は皆、こういった無意識的なものを背景としなければ、何事も理解することが出来ず、また無意識的な感情を背景としなければ、もとい自分の内側に潜む偏見を通さなければ、誰とも関わることが出来ないのだ。ここで再び、僕はショーペンハウアー箴言の方へと話の方向を変えたいように思える。つまり、読書の話へと戻ろうではないか。


もはや僕達は彼の箴言に共感することが出来なくなってしまった。何故ならば、僕達は他人の言葉を、自分の内側で変換しなければ理解できないからだ。しかし、少し待ってみよう。僕達はこれに違う観点を与えることが出来るのではないのだろうか。  つまり、その本を完全に理解することが出来ない、その作者の意図を完全に把握することが出来ないという不条理な事実こそが、むしろ僕達の理解を深めるということだ。

それは丁度、僕達が決して誰かの悲しみや思惑を理解することが出来ない場合と同様だ。僕達はその人の想いを完全に理解することが出来ない。だからこそ僕達は、より一層その人の思いに配慮しなければ、その人の悲しみを癒す事など出来ないのだ。もし、『私はあの人の気持ちを分かってやれる』という傲慢な思い込みを前提にしてその人に触れたとしたら、僕達はその人の悲しみを慰めるどころか、むしろその人を苦しめるだろう。この不条理な事実に気づいた時こそ、初めて僕達は誰かに優しくすることが出来る、そうは思えないだろうか。

だから、僕達は作者の意図を完全に理解することが出来ず、僕達が新しい知識を目の前にした時、それを自分の内側にある前提に受け入れられるように変換する必要がある、それでもいいのではないのだろうか。その事を意識した時、僕達はより一層その本に対して謙虚になり、またその本の内容をより深く理解し、そしてより自分だけの見解や、自分だけの知識を獲得することが出来るようになるに違いないのだから。僕達は他人を理解することが出来ない。それはあらゆる場合に言えることだ。そして、その事を前提とした時、僕達は初めて深い理解を手に入れることが出来るのだ。