公開日記

その名の通りです

18/11/03 : 認識と嘘

人は読書をする時、その本の頁一杯を眺めると同時に、自分自身の頭の内をも覗いているのだと言っていい。かのブレーズ・パスカルはその主著「パンセ」の中で次のように書いている。

モンテーニュの中で私が読み取る全てのものは、彼の中ではなく私自身の中で見出しているものだ』

僕達は、僕達が元々理解できるものを前提にしなければ、何ものも理解することが出来ない。本を読むという行為は、読み手である僕達自身の内側を除く行為だと言っても過言ではない。何故なら、僕達はその本を、自分たちが知っていたり、自分たちが体験したりした事に基づかなければ、その内容を読み取ることが出来ないからだ。僕達は、本を読むことによって、僕達自身を理解するすべを知ることが出来る。

逆に言えば、僕達は、自分自身を理解する手段としてしか、本を読むことが出来ない。そして、自分自身を理解するということは、自分にまつわることを理解するということでもある。一見すると自分に無関係のあるものが、実は何処かで自分と関係している、などはよくあることだ。何故ならば、僕達の人生と、僕達の人格とは、皆僕達の望まなかったものによって構成されているからだ。だからこそ、僕達は僕達自身を完全に理解することが出来ない。「自分のことは一番自分がよくわかっている」と、いう人が時折いるが、その人は嘘をついている。僕達は誰も僕達自身のことを知らない。そして、決して知り尽くすことが出来ない。何故なら、あらゆる認識は恣意的であるからだ。


多くの人が嘘つきを嫌う理由は、人間がそもそも嘘つきとして出来ているという事実から来るのかもしれない。嘘つきを憎む人の根底に潜むのは、自分も同じ嘘つきであるがゆえの、同族嫌悪の感情だ。

僕達は皆、無意識的に嘘をつくことを強いられている。「自分は正直者である」と自認するものは、その時点で自分に嘘をついている、それも自分でも意図せず、全く無意識的に嘘をついているのだ。何故人間は嘘をつくのか。それは彼らが自らを守るが故だ。僕達は、僕達自身を欺かなければ、決して生きていくことが出来ない。そして、これは決して悪いことではないのだ。これは生命を維持するための、自己保存の法則に適った行いであり、僕達は誰も自分の嘘つきとしての本性を憎むべきではない。


僕達は常に物事を主観的に観ることが強いられている。僕達自身の性質や本能とは、皆僕達の望まない形で形成されていき、それら深層心理に潜むものを前提としなければ、僕達は何も感じたり、考えたりすることが出来ない。一方で、これらの深層心理に潜むものとは、常に人によってそれぞれ性格の異なるものだ。よって、そこにはある程度共通したものがあるとしても、それぞれが個別であり、個人的な性格のもの、つまり主観であることが強いられる。そして、僕達はそれに基づかなければ何も見聞できないため、僕達は客観的な立場から物事を捉え、判断することが出来ない。

ここから理性の非合理性を導き出すことが出来る。人間の理性とは主観的なものである。 そういう意味では、人間に理性など存在しないとも言える。僕達の深層心理には、自己保存の法則とも言うべきものが存在する。僕達は、自分の精神状態を安定したものとして守り、自分自身をより良く生活させるために、自分に都合の良い意見を取捨選択し、それを正当化する。


たとえばであるが、ある子供が自分と同学年のガキ大将からいじめられていたとしよう。無論、その時子供は、このガキ大将に対して敵意や憎しみを抱くに違いない。しかし、もし彼が「あいつは僕をいじめるから嫌いだ」と認識したら、彼はいじめられている自分、弱くて向こうの言いなりになっている自分を惨めに感じて仕方ないだろう。だから彼は、このいじめっ子の他の素行の悪い点を調べあげ、それに注目することで、他の嫌いになるべく理由を探し出すのである。「あいつは身だしなみがだらしないし、顔も不細工だ」とか「あいつは行儀が悪い」とか、それら、自分よりも向こうの劣っている点を見出し、その劣った点ゆえに相手を「悪」とするだろう。

他の例を眺めてみよう。クラスでも落ち着いた性格の生徒がいたとして、普段の彼は教室の隅で物静かに過ごしている。しかし、他のクラスの連中は皆和気あいあいと過ごしていた。彼らは自分抜きで楽しそうにやっているし、自分が彼らに馴染もうとしても、中々上手く馴染めなくて、歯がゆい思いをしていた。この時、彼は自分自身の立場を正当化するために、一つの「悪」を作り出す。「みんなで群れて、馬鹿みたいだ」とか「あいつらが間違っていて、僕が正しいのだ」とか、そんな風に思えるために、向こうの行いに一々心のどこかでいちゃもんをつけて、相手を「悪」に仕立て上げる。そうしなければ、自分の惨めさに耐えられないからだ。

これらの例に共通するのは、人間の生理的とまでいえる一つの作用である。つまり、深層心理の奥底で抱いている他者への憎悪、怒り、嫌悪感、復讐心など、これらの負の感情を正当化するために、彼らは他者の粗を探し、他者のあらゆる行動を否定的に捉え、そこに理性で理由を後付けする。そしてその理性によって後付けされた理由のために、表面的な感情、つまり『自分はこういった正当な理由があるからこそあいつらが嫌いなのだ』といった感情を抱くようになる。ここに潜むのは、理性と表面的な感情を支配する、深層心理における人間の本能的な感情である。この本能的なそれこそが、人間の理性と表面的な感情を左右する。 よって、人間に理性は存在しないのだ。

さて、話を少し前へと戻そうと思う。この上の話によって、恐らくこれを読んでいる人達の多くは、何故僕が『僕達は皆、無意識的に嘘をつくことを強いられている』と書いたかについて、その理由がわかってくれるものだろう。僕は、決して嘘をつく人をこの場で非難している訳では無い。むしろ、上のような例に陥った時、僕達は自分の感覚を欺き、自分自身を欺くことを必然として強いられるものでは無いだろうか。そうでなければ、彼らは生きていけないのだ。僕達は誰も『人間が元々嘘つきとして出来ている』からといって、人間を醜いとか、罪深いなどと思ってはならない。それは、僕達にとって生来の性質であり、避けがたいものなのだから。


ここまでが、僕が先程『あらゆる認識は恣意的である』と書いた理由だ。そして、それ故に僕は、『僕達は誰も僕達自身のことを知らない。そして、決して知り尽くすことが出来ない』と書いたのだ。何故ならば、僕達は僕達自身を恣意的に解釈することしか許されず、また誰も自分の主観から抜け出して物事を考えることが出来ないからだ。

知れば知るほど、確かな知識は減っていく。高く高く手を伸ばし、太陽へと近づくイカロスは、多くのものを学ぶほど、自分は何も知らないのだということを認識するだろう。

しかし、それでも僕達は自分自身を知ろうと努める必要がある。そうしなければ、元々見えないものが、もっと見えなくなってしまうからだ。そういう意味では、恐らく、最も優れた書物とは、僕達自身の知識と理解が深まれば深まるほど、より多くのものを語りかけるようになるような、そんな書物に違いない。

僕達は、僕達自身の心理状態や精神状態によって、自分の見聞し、体験する物事に、異なった理解や観点を与えることとなる。それは丁度、恋する者が、自分の恋しい人が自分を除いた場所で楽しんでいることを想像した場合を思い浮かべてくれれば理解しやすいだろう。この時、恋するその人にとって、自分を除いてその人が喜びを噛み締めているあの場所が、忌まわしい悪魔の巣窟のように思えてくるのだ。畜生、あの人は私を除いて、あんな所であんな忌まわしい事に耽っているのだ。なんて悔しいことだろう。たとえそれがとりわけ不健全でなかったとしても、そんな事を思って、向こうのことでやきもきし、この世のあらゆるものが忌まわしく思えてくるに違いない。

このように、僕達は常に生きる上で、この世のあらゆるものを自分の世界のものへと変換し、創造し直すことで生きているのだ。そして、それをより豊かに行うために必要なこと、それは自分自身を知ることだ。知っても知っても完全な認識にたどり着くことが出来ない、それがなんであろう。それはつまり、深めても深めても尽きることの無い味わいと喜びが、そこには存在するということでもあるのだから。