公開日記

その名の通りです

18/11/09 : 時間と解釈者

現在とはいつなのだろうか。

多くの人はよく、「現在」というものを、過去とも未来とも切り離した存在として考えがちだ。「あの頃はもっとこうだったのに、今では…」とか、「今はこうだけれど、いつかはああなる」といったように、現在と異なった存在として過去や未来を、そしてその瞬間にいる自分自身を考えようとするのが、恐らく一般的なのだろう。しかし、僕はそれに「否」を唱えたい。僕達の生きる時間とは、そもそもずっと全一的な存在なのではないだろうか。僕達の生きる「現在」とは、過去であり未来なのだ。何故ならば、僕達の過去の中に、既に現在と未来は存在しているからであり、そして過去とは、僕達の現在であり未来なのだから。

『現在とは過去の延長線上にある』とは、もう恐らく言い古された言葉であろう。だから僕はそんな凡庸な言葉は使いたくない。しかし、現在の僕達が、現在の僕達自身とは全く違った存在によって形成されているということ、それは否定し難いように思える。『現在とは過去の延長線上にある』なるほど、それはその通りだ。しかし、現在と過去とは、もはや違う存在なのであり、「過去」は「現在」の僕達の所有物でありながら、「過去」の僕達と「現在」の僕達は、決して同じ人間ではなく、僕達は決して「過去」の僕達の感情を理解することが出来ないのだ。


人はあらゆる物事に対して解釈者である事が求められている。僕達は、自分の主観を通さなければ何ものも理解することが出来ない。丁度、小説を読んでいる時に、登場人物の気持ちを自分の感情の尺度ではかり、それを読み解こうとするように、僕達はあらゆる物事に対して、自分の「現在」の尺度でそれを測ることになる。過ぎ去った出来事とは、もはや僕達にとって他人のようなものだ。そうでありながら、僕達自身の過去について、自分以上にその客観的な事実を知るものはいないのだ。そしてその客観的な事実を、過去に経験したその人は、現在の自分の感情に合わせて、かつての自分を解釈し直す。そこには現在の自分の主観と、現在の彼のご都合が混ざっており、彼から語られる言葉は決して真実をその通りに語ったものでは無い。


一方で、僕達の現在が過去の僕達自身によって成り立っているということは、どうにも否定出来ないことのように思える。その人のとる行動とは、その人の現在だけの思いつきで成り立っている、ということは決してない。その人が今日までに経験してきた過去が、その人がこれまでに影響を受けてきた外部のものが、その人の現在の無意識を、その人の内面世界を創りあげる。よって、その人が何の意図も持たずにするその行いには、その人が今日まで生きてきた過去の経験が反映されている、と言っても過言ではない。しかし、その過去とは、(先程にも書いた通り)もはやその人自身のものでもないのだが。

先程僕は、『人はあらゆる物事に対して解釈者である事が求められている』と書いた。それは、無論自分の過去以外についても言えることだ。僕達が外部から何らかの影響を被る時、僕達はそれを内部に変換するために、それを主観的に解釈する。この外部からの影響を内部に変換することによって、人は経験を積むという行為を完成させる。そして、その人の現在とは、その人が今日までにした経験によって成り立っているのだ。そして、この過去と現在の連続性の先にあるものが、僕たちの未来なのだろう。


僕達の現在とは過去によって成り立っており、そういう意味では、僕たちの未来とは、既にその片鱗が現在と過去の内に偏在しているとも言える。この時、僕達は解釈者である事が求められている。僕達はそれを肯定的にか、または否定的にか、そのどちらかで解釈する事が強いられているのだが、果たしてあなたは、そのどちらを選ぶだろうか。

いや、そのどちらか、ではない。僕達はそれを肯定的に捉えられるような未来を勝ち取らなければならないのだ。もし、現在に対して常に後ろめたい、惨めな思いを味わい続けているならば、その人は、過去の思い出したくないような出来事を、悲惨で悲劇的な過去の事実を思い出しては、それを否定的に捉え続けるだろうし、何なら自分の過去の悲劇的な要素によって、自分の現在の悲惨さを肯定しようとするだろう。

しかし、もしその人が、自分の現在において勝利を、全く満たされた瞬間を勝ち取ることが出来たならば、僕達はもはや過去に悩まされることをしないだろう。僕達は過去の悲惨さを嘲笑い、「なるほど、あれは嫌な出来事だったが…今の勝利にはあれも必要だったのだ」と、そう言い切ることが出来るのではないだろうか?否、僕達はそうあらねばならないはずだ。僕達は自分の現在から未来において、勝利を手に入れる必要がある。その時、僕達は過去に対して新しい解釈を与えることとなる。つまり、「あの経験も必要だったのだ」という意見だ。そして、その一言を勝ち得るために、僕達は生きねばならないのだ。


僕は時折、今日までに生きた人生のあらゆる瞬間が、全て必然だったように思える時がある。僕はいつだって可能な限りの全力を尽くして生きてきた。そしてこれからも、僕はそうであるつもりだ。僕は、自分の過去が、自分の現在が、自分の未来が、常に一本の糸を辿り、それに導かれているような心地に陥る時がある。僕は常に、「こうする以外に何も出来ない」を生きている。そして、それに後悔はない。僕の先に待つ未来の偉大さを、やがてくる勝利の存在を、信じることが出来るからだ。

僕は時折、運命や永遠というものについてを考える。普遍的なものとは、それ自体に善悪の価値観を持たないものだ。何故なら、あらゆる善悪の価値観とは、皆人間的な、恣意的なものだから。しかし、それを超える普遍的なものは、良いも悪いもなく、ただ真実的であるだけだ。僕の人生が、全て「そうせざるを得ない」によって構成されているとしたら、それは一種の運命的なものだと言えるだろう。そして、これら「そうせざるを得ない」によって構成された人生において、僕達に必要なのは、恐らく「永遠」を見出すことなのだ。つまり、普遍的なものを見出すこと、それが僕達の人生を「生きたい」と思わせるものに変えるに違いない。


おお、人間よ!しかと聞け!
深い真夜中は何を語るか?
「わたしは眠りに眠り──、
深い夢から、いま目がさめた、──
この世は深い、
『昼』が考えたよりもさらに深い。
この世の嘆きは深い──。
しかしよろこびは──断腸の悲しみよりも深い。
嘆きの声は言う、『終わってくれ!』と。
しかし、すべてのよろこびは永遠を欲してやまぬ──、
深い、深い永遠を欲してやまぬ!」
(フリードリヒ・ニーチェ、『ツァラトゥストラはかく語りき』の第四部より)