公開日記

その名の通りです

18/11/19 : アウトサイダーと革命

もしこの世にアウトサイダー(部外者)と呼ぶべき存在がいるとすれば、恐らく彼は、自分自身をはっきりアウトサイダーだとは認識していないだろう。何故なら、彼は自分の外部(つまり社会)における常識を生きているのではなく、自分の内部における、彼だけの常識を生きているからだ。

外在者と内在者。アウトサイダーの定義を、社会の常識から逸れた生活をする人(外在者)だとするならば、彼は自分の内部に彼だけの社会を持ち、彼だけの秩序、彼だけの常識を持つ必要がある。つまり、内在者である必要が。

人間疎外という問題は、現代社会を語るうえで避けては通れない問題のように思える。時に、最近はよく「社会不適合者」という言葉をよく耳にする、または目にするが、現代には大変奇妙な現象が起きているようだ。つまり、「社会不適合者」という存在は、元々少数派の存在であったはずなのに、今では多くの人間が「社会不適合者」を名乗っているのである。しかし、一方で、僕が思うに、本物の社会不適合者、つまりアウトサイダーの人間は、おそらく自分が「社会に疎外されている」と感じないはずだ。何故ならば、彼はそもそも社会の内にいないからだ。この場合、「社会の内にいる」とは、社会常識の内に生きている、ということである。そして、それをしていないその人、つまりアウトサイダーは、社会の外にいるにも関わらず、つまり「社会不適合者」であるにも関わらず、「社会不適合者」であると嘆く多くの現代人に共通する病に、人間疎外という病に苦しんでいない。

ここで一つのことがわかってくる。つまり、人間疎外に苦しめられるのは、社会の外にいる人間ではなく、社会の内にいる人間、つまり社会に適合にしている人間だけだということ。彼らは、社会に内在することによって、苦しんでいる。彼らが自身を「社会不適合者」だというのは、本当に社会に不適合しているからではなく、この社会から抜け出したいが故に、「社会不適合者」になろうと願っているからだ。

社会に生きる事に何の不平不満を抱かない人間を「外在者」、社会の外において自分の常識を生きる人間(アウトサイダー)を「内在者」とするならば、社会に苦しむ社会適合者は恐らく「中間者」と呼ばれるべきだろう。この中間者、「社会不適合者」であろうと欲する社会適合者にとっての最大の悩みとは、自己存在の惨めさ、弱さ、不確定さについてである。彼らが苦しんでいるのは、社会の外にもいたくないし、社会の内にもいたくない、という感情に尽きる。彼ら中間者は、「中間」であることを憎む。そして彼らは、元々生きている世界(社会)への復讐心から、「内在者」であることを、つまりアウトサイダーであることを欲するのだ。


彼ら中間者の人間が苦しんでいる理由は、自分の内側にある無意識的な性質と、自分の外側にある社会の性質の間に生じるズレが存在することだ。個々の人間の内側に存在している、その人固有の経験(実際に体験したものや、その人が見聞したもの)は、その人自身の性格をやがて形作り、そしてその性格は、どれだけ一般的な生活を営んでいる人達の間でも、それぞれに微妙なズレが、つまり違いが存在している。そして、それを突き詰めていけば、それぞれの人が無意識的に所有している常識とは、それぞれ異なった性質をしたものだ、と言えるだろう。

一方で、社会とは常にただ一つの常識だけを押し付けてくる。つまり、人間疎外の苦しみとは、社会側が押し付けてくる常識と、それぞれの人間が固有している常識との間に生じた誤差から来るものなのだ。

ではこの社会とは、何故そんな常識を、一般的であると考えられているにも関わらず、その実誰にも当てはまらないような常識を、社会で生活を営む人達全体に当てはめようとするのか。それは、社会秩序のためでもなければなんでもない、現代の社会を形成している側の人達の抱くルサンチマンである。

苦しんでいる人間とは、自分自身が充分に報われていると感じなければ、他人にも自分と同じかそれ以上の苦しみを負ってもらいたいと願うものだ。現代の社会を形成してきた人間の多くは、そのような症状を患っていると言っても過言ではない。もとい、これはそれまでの社会の形成の仕様において、常に働いてきた作用だと言ってもいい。つまり、今日までの社会を形成してきた人間(社会の支配者層に立つ父性的な存在)が、自分の苦労の報われなさを感じるために、他人にも同じ苦労を負わせたいと願うこと。このルサンチマンこそが、僕は現代社会の「常識への固執」を促しているように思える。

中間者(「社会不適合者」を名乗る大多数の適合者)の場合、彼らは社会の押し付ける常識に服従しながら、それへのひそかな復讐心と反逆を求めている。一方で、アウトサイダーの場合、彼らは社会への復讐心と反逆を求めないが、同時に社会への服従を拒否している。アウトサイダーはアウトサイド(社会の外)にいるために、そもそも社会に復讐を願う必要が存在しない。復讐を願うのは社会の内にいる者だけなのだ。

しかし、もし人がこれからの人生を生きていこうとするならば、彼は何らかの形で社会と接触することを免れない。何故ならば、人は内部(自分自身)と外部(自分以外の存在)の接触によって生きていくからだ。そして、その外部には、社会に生きる人間が大勢いる存在することなど、もはや言うまでもないことだ。よって、もしこの世にアウトサイダーがいるのだとすれば、彼は一見して社会の内に居るような身振りで生活をしているに違いない。アウトサイダーは社会の内側にいる。しかし、彼は社会と常識を教諭していない、それだけだ。実際に、もし僕達が彼アウトサイダーに対して、自分が常識外れな人間だと思うかと尋ねたならば、彼はそれに「否」と答えるだろう。何故ならば、彼は自分の内側にある常識をはっきりと認識し、それに生きているからだ。アウトサイダーは新しい常識に生きる者である。


そして、新しいものを創造し、歴史を動かしてきた人間とは、総じて皆非常識な人間である。何故なら、彼らは新しい常識に生きているからだ。そして新しい常識に生きる彼らが、新しい時代を創ることになるだろう。


しかし、忘れてはならないのが、新しいものとは常に古いものを継承することによって生まれるのだ、という事である。もし僕達のうちの誰かが、新しいものを創り出す存在、新しい時代を築く革命家、現代のナポレオンになりたいと願うならば、その人は古いものを全て知り尽くした存在でなければならない。古典を知らない人間に、新しい文化を築くことは出来ないからだ。

フリードリヒ・ニーチェの哲学は斬新であり、それは二十世紀以降の新しい哲学の流れを作ったが、彼にそれが出来たのは、彼の生きてきた時代まで残っていたあらゆる古典を、彼が知り尽くしていたからである。彼はキリスト教を批判し、神の死を宣言したが、彼がキリスト教を批判できたのは(またはそうすることが許されたのは)、彼が牧師の息子であり、大学でも神学を学び、原文で聖書を読むほどにキリスト教に精通していたからである。また、彼はそれまでの哲学の在り方をも非難したが、それもまた、彼があらゆる古典文献に精通しており、彼の非難した哲学者の本までをも、彼がしっかりと読んでいたからこそ、それが許されるのである。

しかし、多くの場合、既存のものを非難し、新しい者を提唱しようするとする者は、その既存のものへの憎しみと無理解からそれをする。これは大きな誤りである。そこにあるのは既存のものへの復讐心であり、これは歪んだ、恣意的な行いに他ならない。このような革命は(ちょうどあらゆる共産主義がそうであったように)失敗する。もし僕達の誰かが、古いものを打ち倒して新しいものを掲げたいのならば、その人は古いものに敬意を払わなければならない。

何よりも、今日まで存続してきたものとは、たとえそれが間違っていたとしても、その存在に何らかの価値が見出されたからこそ生き延びることが出来たのである。新しいものとは古いものを批判的に継承した末にしか生まれない。古いものを全否定した新しいものなど、古いものへの復讐心に依存した醜い出来損ないでしかないのだ。

もし僕達の誰かが新しいものへの架け橋となりたいのならば、その人は先ず古いものを土台としなければならない。そして、それに敬意を払いながら敵対することによって、初めて新しいものは存在するのだ。