公開日記

その名の通りです

18/11/21 : 絶望と孤独者への言葉

ニヒリズムの問題は、僕が長く考え続けている事柄の一つである。人は何故虚無的な心理状態に陥るのか、そしてどうすればそれを克服できるのか。しかし、長く考え続けているのにも関わらず、僕はそれに対する答えを見出すことが出来ていない、という事を、僕は白状してしまおうと思う(いや、だからこそ、僕は長くニヒリズムの問題についてを考えているのかもしれない)。

そもそもニヒリズムとは何なのだろうか。僕は、それを絶望した者全てに対して与えるべく名称として用いようと思う。そして、ニヒリズムに陥った人間には、激しく絶望している人間もいれば、静かに絶望している人間もいる。それについての詳細を、これから書いていくことにしよう。


人が絶望を味わう時はどんな時なのだろうか。それは、自分自身に対して強い精神的な苦痛を感じている時である。それには、悲しみや失望、嘆きだけでなく、憎しみや怒りも当てはまる。つまり、人が自分自身に対して強い負の感情を抱いた時、その人は絶望するのである。そして、多くの場合、それから人は他人を、または自分の周囲にある何らかの対象に、同様の負の感情を抱くようになる。たとえばある人が、他人の手によって何らかの屈辱を味わったとしよう。その時その人は、まず自分の現状と、自分自身を惨めに思い、それを憎む。それから、そんな自分に惨めな思いを味合わせた他人を憎むのだ。

負の感情は絶望を生む。何故なら、負の感情は、それがたとえ他人に向けられたものだとしても、その前に先ずその人自身を苦しめるからだ。僕は別に、負の感情それ自体を否定するつもりは無い。負の感情が人間の文化と文明を豊かにしたのは、疑いようのない事実だろう。

ただ、僕が言いたいのは、次のようなことだ。例えばある人が、誰かに復讐心を抱いていたとしよう。その時、その人は、自分の復讐したい相手に対して、無論強い憎しみを抱いているだろう。してみるとその人は、(僕の先程書いた理論に従えば)復讐したい誰かと同時に自分自身をも憎んでいるのだ。その人が強い憎しみを他人に抱けば抱くほど、その人は自分自身に対しても強い憎しみを寄せるようになる。これが、その人の心を苦しめないはずがない、それにはきっと誰もが同意してくれるだろう。


つまり、絶望とは、負の感情を抱いているその人が、自分の負の感情に耐えられなくなった時に起こる症状なのである。この絶望に苦しめられた人間には、様々な種類が存在する。

ある人は静かに絶望している。ニーチェ風に言うなれば、これは消極的ニヒリズムである。あらゆる物事に対して受動的になり、倦怠と退屈に苦しめられているが故に、様々な背徳的な行いに思いを馳せる人間がそれである。人は退屈に耐えることが出来ない。人が耐えられない唯一の不幸とは、退屈である。人が道徳を守ることが出来るのは退屈を覚えていない時だけであり、退屈な時は、どんな禁忌を犯してでもいいからそこから抜け出したいと思っている。

またある人は、絶望ゆえに性急になる。ニーチェ風に言うならば、彼らの心のうちを支配しているのは権力への意志である(力への意志ではない)。彼らは漠然として自分以外のあらゆる人間を憎んでいる。何故なら、彼らにとって、この世界で一番不幸なのは自分なのであり、自分以外の存在は、たとえその人がどんな境遇に生きる存在であれ、自分にはない幸福を味わっているかのように思えるからだ。そして、不幸のうちにいる人間にとって、自分以外の人間が、自分にはない幸福を味わっていることは、どうにも許すことの出来ない事であり、彼らにとって唯一他人の幸福が許せる場合とは、自分と同等かそれ以上の不幸を、その人が負っている場合のみだからである。彼らはあらゆる人間に復讐したいと願っている。そして、彼らはそれ故に行動的になる。つまり、他人を自分と同じ場所にまで引きずり下ろすために、彼らは性急になるのだ。このような人達の例を、恐らく現代においては多く見ることが出来るのではないだろうか。たとえばであるが、何らかの権利運動をしている人達などのうちに、この性急な絶望者の例を見れる場合は多いように思われる。

 

これら二つとは全く違う種類の絶望も、無論そこには存在する。それは孤独者の絶望である。青年期において、これを読んでいるあなたは、自分の近くにある周囲のものが全て遠くにあるような感覚に陥ったことはないだろうか。 僕が言いたいのはそれなのだ。

しかし、人は何故孤独に苦しむのだろうか?僕にはそれがどうしてもわからない。たとえばであるが、元々孤独である人間は、むしろ孤独に苦しまないはずなのだ。孤独であることに意義や喜びを見いだせた人間ならば、孤独に絶望することはありえないのである。してみると、孤独とは、他人に対して感じた失望や、親しい他人の存在を損失した時に感じるもののように思える。人間の欲望は他の存在と自身を比較することによって生じる。過去の自分もまた、現在の自分にとっては他の存在である。どうやら僕達が孤独を苦しいものとして認識するのは、他者の間にいることが原因のようだ。

上の異なった二つの例(つまり受動的な絶望者や性急な絶望者)に関しては、残念ながら僕は、何かの解決策を見出すことが出来ていない。ただ、もしあなたが孤独ゆえに絶望を感じているのであれば、僕はそれに対して、何らかの助言を(おこがましいながらに)与える事が出来るかもしれない。もとい、これは僕が求めている、ニヒリズムの解決策の一つでもあるのだ。

もしあなたが孤独を感じなさったのならば、あなたはそれを喜ばなければならない、僕が言いたいのはそれである。もしあなたの周囲にいる近しい人間が、皆遠くにいるように感じられるならば、その時、あなたの心のうちは、きっと広く開けはなされた状態にあると言えるだろう。何故ならば、それまでそこには、心理的に近いと思われていた人たちがいたから。しかし、今は彼らが離れてしまった。それなら、あなたはそこを、他人ではなくて自分の手によって埋めなければならない。あなたの心はそれだけ広い空間を持つようになり、その空間は他人に束縛されず、より自由に用いることが出来る。そして、このより自由に用いることの出来る心の空間を上手く用いることによって、その人の精神は成長する。だから、あなたが孤独に苦しむ時、それはあなたが成長し、今よりもずっと幸福な存在、唯一無二であり、魅力的な人間になるためのまたとない好機なのだということを、是非知って欲しい。

この時、僕達に必要とされるのは何か。それは忍耐である。僕達は、初め苦しく思われるその孤独を、自分の親しいものに変換できるまで、忍耐しなければならない。その間に、未来への希望とか、現状におけるささやかな喜びを見出すことが出来たならば、なお良い。一番いけないのは、孤独に耐えられなくなって、どんな気休めな、下らない関係でもいいから、誰かと一緒にいたいと願うことだ。都合よくあなたの孤独を埋めようとする他人を、あなたは最も恐れなければならない。それはあなたの敵である。真に信頼出来る人は、あなたの現在だけでなく、あなたの未来をも愛し、またあなたの過去を愛する人である。そのような人は、その場しのぎの、無価値で下らない関係を、あなたと結びたいとは願わない。そして、僕はあなたがきっとそのような人と出会えるということを知っている。どうか僕を信じて欲しい。幸福な未来は必ず僕達のもとに来るのだ。


僕は知る、人生は苦しいものだと。しかし、苦しいものを担い、それに生きることの出来る人間は、偉大であるということをもまた、僕は知っている。何故なら、あらゆる成長には苦しみが伴うものだからだ。しかし成長し、力強くなったその時、あなたはかつての自身の苦しみを思い返して、なんと現在の喜びの方が大きいのだろうと気が付かれるに違いない。少なくとも、僕は日々それを信じながら生きている。そして感じているのだ、『耐え忍ぶことこそが全てなのだ』と。どうか僕を信じて欲しい。恐らくこれが、僕の考える『孤独者の絶望』への解決策の一つなのだ。