公開日記

その名の通りです

18/11/22 : 恐怖と不安を克服するために

僕が元々求めていたものは、そんなに大きなものではなかった。少なくとも、僕自身はそう思っている。

時々、生きている時に次のような事を感じる時がある。『いつまで、いつまで僕は、こんな苦しみに耐えなければならず、いつまでこのように、意味もわからないまま恐怖や不安に震える時を過ごすのだろう』

無論、その時に感じる恐ろしいものへの漠然とした予感は、結局ただの妄想でしかなく、今日まで実現したことなど一度もなかった。しかし人はおかしなもので、どれだけ理屈では承知することの出来る問題だろうとも、いざそれに直面すると、理屈通りに生きることなど出来ないのである。

僕の求めていたものとは、そもそもなんだろうか?それは、些細な、単純な、ささやかな、そんなものではなかったろうか?しかしどうにも、それを理解してくれる人が何処にもいないように感じる時がある。無論、考えすぎなのだろう。

人が選んだり捨てたりすることの出来るものは、実はその人にとってあまり重要でないということが、もし有り得るのだとしたら、どうだろう。その人にとって最も大事なことが、その人の最も望むことではなくて、その人が最もよく出来ることであるとしたら?そこに、その人がより大きな存在として成長する鍵があるのだとしたら?その人にとって望んだり望まなかったりで済ますことの出来るものは、恐らくあまり重要ではないのだ。

最も重要なのは、その人にとって必然なもの、絶対的なもの、宿命的なもの、避けられないものであり、その人の願望とは無関係に「そうせざるを得ない」ものであり、そこにこそ最もその人にあった人生があるのたとしたら、どうだろうか。

人が永遠や不滅なるものを求めるのは、何故だろう。それは人が消えるのを恐れるからではないのだろうか?僕達がより大きな、強い、存在感のある何者かになろうとするのは、そうすることが、精神的な死から離れる行いだと考えているからではないのだろうか?

人が背徳的な行為をすることには二つの理由がある。一つは退屈から抜け出すためであり、もう一つは普通から抜け出すためである。そして、その二つの理由はとても密接で、相互的な交わりを持っている。

自分の望みが叶わないことでは嘆くのは、果たしていけない事だろうか?僕が元々求めていたのは、そもそもあまり大したものではなかったはずだ。では何故それが手に入らないのか?

なぜなら、それが僕の望むものだとしても、僕に最もよく出来る事には適わないことだからだ。もし僕が自分の宿命的なものを生きようとするならば、恐らく僕は、二度と僕の望むものが手に入らないのだろう。

人が背徳的な行いをするのは、退屈からか、または普通でありたくないからか、またはそのどちらかであるが、そもそも何故その二つを人は避けようとするのだろう?何故ならそこには精神的な死が待っているからだ。

人は肉体的な死よりも精神的な死を恐れる。

たとえばであるが、もしその人の生命が絶えたとしても、その人の存在は生き残り続ける、という場合がある。それはつまり、その人の生前の存在が大きく、影響力のあるものであったために、その人の死後も、その人の生命が消えたとしても、その人を目にした人達の内側に、その人の存在は生き残り続けるだろう。このような場合、恐らく人は、肉体的な死を恐れなくなる。

また時には、何か永遠に存在し続けるように思われるものに人が結ばれている時(つまり人間にとって普遍的な何かに基づいて生きている時)、人は同様に肉体的な死を恐れなくなる。何故なら、その人は死の存在しない(とその人自身が考えている)ものに繋がっているからだ。

一方で、現代人の多くはそのどちらでもない。つまり、まだ生命があるにしても存在が大きいわけでもなければ、何か普遍的なものに根付いている訳でもない。だからこそ、現代人は背徳的な行いをする。つまり、自分の存在が特別でないまま消える事を恐れて。人は死を恐れる。しかし、人が死を恐れるのは、肉体的な場合よりもずっと精神的な場合なのだ。

退屈な毎日は、その人に生きた心地を与えずに、存在しているのかしていないのかもわからない心地を味合わせるだろう。周りから普通だと思われるような人間として育ち、普通だと思われるような生活を営んでいれば、周りの人間の中で自分が消えてしまうような気がして、焦りと恐れを感じるだろう。

この二つから抜け出す手っ取り早い方法は、何か真面目で偉大な善行を行うよりも、卑劣で背徳的な罪を犯すことである。この時、現代人は、たとえどれだけ酷いことをしても、罪の意識を感じなくなる。それよりも、このまま何者にもなれずに自分が消えてしまうことの方が恐ろしいからだ。

しかし、何故そんなにも大それたことをしようとするのだろう?そんな事をしなくても、人は退屈から抜け出して、平凡な毎日を快く生きることが出来るはずなのに?いや、少なくとも僕は、それが可能だと信じている。もとい、それは簡単なはずなのだ。

僕はよく思うのだ、人間に必要なのは特別異常な何かなどではなく、ただ心の底から、無条件に信じることの出来る何かなのだ、と。そして、その無条件に信じることの出来る何かとは、大体の場合、人にとって普遍的なものだ。たとえば、自分の愛する誰かとか、神とか、美しいものとか、自然とか、それらなどの事を、今僕は言っている。それは人間にとって普遍的なものだし、永遠的なものでもあるからだ(美しいものは人間にとって常に普遍的である)。

だから、僕は時折こんなことを考える。何のドラマも無い、平凡で、動きの少ない毎日、その上嬉しいことよりも、辛く苦しいことの方が多い毎日だろうと、もし上に書いたようなもの、つまり、その人が無条件に信じられる何かを見出すことが出来たならば、その人は、死も、退屈も、平凡も、何も恐れることなく、幸せな毎日を生きることが出来るのではないのだろうか、と。

僕はよく思うのだが、決して自由のきく生活でもなければ、経済的にも社会的にも恵まれない境遇だとしても、信頼出来る何かとの生活を送ることが出来れば、それで人は、様々な苦しみにも耐えて、幸福に生きることが出来るのではないだろうか?何も自由で特別なことだけに生きる意味があるとは思わない。苦しい毎日のうちに潜むささやかな喜びのうちに、永遠に匹敵するような幸福や自由を、決して終わることのない特別な何かを見出してもいいのではないだろうか?僕はよく思うのだが、そのような生活が、かつてはこの地上のどこかで存在していたはずなのだ。

しかし現代は違う。現代はあらゆる価値観が流転し、かつてあったものが崩れさり、人々の縋るべき精神的な土台を見失った時代なのだ。僕達はもはや、かつてのものにすがって生きることが出来ない。僕達はこの混乱に充ちた時代を生きることを強いられている。信頼出来る何かを、無条件に信頼出来る存在を、生まれた時から失ってしまった僕達は、今再び、それを見出すために戦わなければならない。

僕が元々求めていたものは、そんなに大きなものではなかった。しかし、それが実は、現代には存在しないもの、したとしても現代では非常に大きなものだとしたら?それを得るために、または崩れかかっているそれを取り繕うために、多くの人が苦労し、涙を流しているのだとしたら?

僕は再び、生きているうちで、次のような事を感じるだろう。『いつまで、いつまで僕は、こんな風に苦しみに耐えなければならず、いつまでこんな、意味もわからない恐怖や不安に怯えて、震える時を過ごすのだろう』

しかし、もし現代に生きる上で、苦しみに真摯に向き合って、物事を誤魔化さず、真面目に見るのならば、このような苦しみが避けて通れないのだとしたら?このように不安に苦しみ、恐怖に怯える時に何度も襲われることが、僕が自分の課題に取り組んで生きる上では必然なのだとしたら?僕に最も出来ることを生きるとするならば、このような苦しみを背負わされるのが避けられないことならば?果たしてどうだろうか。

そして、もし僕がこのような苦しみを生きるとするならば、僕に求められているものがたった一つなのだとしたら?そしてその求められているものが、勇気なのだとしたら、どうだろう。僕に必要なのは、この意味もない不安や恐怖に立ち向かうだけの勇気であり、それに勝つための意志なのだとしたら、どうだろう。ただそれだけが、僕がこの人生を生き抜く上で必要なのだとしたら、果たしてどうだろう。

それなら僕は、勇気を持つしかないのではないか?そうだ、勇気を出せ。何も恐れるな。そして不安に負けることをせず、立ち向かうのだ。そう自分を鼓舞する必要がある、少なくとも僕には。

これを読んでいるあなたへ。僕は知る、人の苦しみが慰められるのは、自分の苦しみと共通した性質を持つ何かを、自分以外の存在のうちに見出した時なのだと。もしあなたが、僕と同じような苦しみに囚われているのであるならば、僕の書くことが、何らかの慰めに繋がるように願っている。どうか勇気を持って欲しい、必ずこの苦しみを報う未来が訪れることを、僕は知っているのだ。