公開日記

その名の通りです

18/11/25 : 死と存在

人は何故死を恐れ、または時に、死に惹かれるのだろうか?そんなことを、時々僕は考えてみる。これから、その事についてを書いていこうと思う。


生が苦痛な人間にとって、自分がどのように自殺するかを考えることは、少なからぬ慰めになる。というのも、僕達の人生とは、どれも自分の思い通りにならないからだ。

誰も自分の人生を生きることなどできない。僕達の中で、誰が果たして自分の思い通りに自分の人生を推し進めることが出来るだろう。そう、誰もそんなことなど出来ない。そういう意味では、僕達の人生とは僕達自身の所有物ではないのだ。というのも、僕達は誰も、自分の人生を思い通りに出来ないからである。そして、僕達は、そんな自分の思い通りにいかないものによって苦しめられている。

一方で、死は自分の思い通りになる。死は僕達人間にとって唯一の所有物だと言っていい。自分の思い通りにならないものによって苦しめられている自己存在を、僕達は唯一自分のものである「死」によって終わらせることが出来る。だからこそ、僕達は自分の死に方を考える時、非常に慰められることがあるのだ。


どのように死ぬか、とは、その人の「存在」に関わることだ。人は皆、自身の死によって、自分がどんな人間かを証明することが出来る。『その人らしい死に方』について考えることは、僕には大事な事のように思える。それは、その人の生き様に、その人の「存在」に関わることだからだ。


僕はひとつのことを考えてみたい。それは死の反対に立つものについてだ。死の反対は何か?と考えた時、おそらく多くの人は「生」と答えるだろう。その事について僕は言いたいのだが、それは果たして本当なのだろうか?つまり、生は死の反対なのだろうか?どうも僕にはそのようには思えない。生きとし生けるものは皆滅びる。肉体的な面では、それは「死」という形をもって現れる。つまり、死はむしろ生の反対に位置するものではなくて、ちょうど垂直に生と関わっているものなのだ。死は生を支配する絶対者である。死は滅びであって、生の一部にはそれが存在している。つまり、死は生を支配する絶対者であると同時に、死は生の一部として存在する関係者でもあるのだ。

それなら、死の反対に存在するものとは?それは、上の考えを推し進めていけば簡単のように思える。もし死が肉体的な面で生に滅びを与えるものだとするならば、僕達は「死」を「滅び」と定義することが出来るはずだ。もし「死」が「滅び」という意味であるならば、死に対立するものは不滅である、なぜなら滅びの反対は不滅であるから。そして、不滅なるものとは、永遠なものである、と言ってもいいだろう。してみると、死の反対に立つものは、どうやら永遠であるらしい。


多くの人は死を恐れる。それは、何も肉体的な意味だけではない。いや、むしろ、人は肉体的な意味の死よりも精神的な意味の死を恐れていると言っていい。

こう言ってよければ、人は死ぬことを恐れるのではなく、「存在しない」ということを恐れるのだ。


僕はかつての因習や伝統がそのまま全て今日にまでも引き継がれる必要があるとは思わない。しかし、人々が皆無条件に「一般的なもの」を、つまり今日までに残っている因習や伝統を、なんの疑いも持たずに信じることが出来た時代には、僕が上に書いたような『精神的な死』に、生きていながらも「存在しない」ということを味わう恐怖に、脅かされることもなかったように思える。

何故なら、かつての人々は、自由に生きる権利を与えられていなかったからだ。人はただ、目上のものから引き継ぎ、押し付けられたものを生きればよかった。その時、そこにはその人の権利や自由などは何も無いが、その人には確かな「存在」と、その意義が与えられている。多くの人は勘違いしているが、僕達は誰も自由に生きることを望んでなどいない。人が自由を求めるのは、自分を拘束する存在に対する反発や復讐心からだ。むしろ人は、多くの場合、進んで他者に服従することを求めるものだ。というのも、多くの人は、自分がそれに基づいて生きるべき土台を、自分が頼み、より縋るべき何かを、自分が聞き従うべき存在を、自分を拘束してくれるものを求めるからだ。

 

誰も完全なる自由に耐えることなどできない。もし僕達に、ある日突然、何の法律も、慣習も、規則も、または自分以外のあらゆる存在も、僕達を拘束しないということが起きたなら、僕達は、初めこそその完全なる自由を楽しもうとするだろうが、やがてそれが出来ないということを知り、進んで何らかの規律を作り、または自分以外の誰か優れた存在に、服従したいと願うだろう。

自己存在の不安定さ。誰も、ただ自分自身のみを頼りにして生きていくことなどできない。完全に確立した自己存在を手に入れるならば、人は自分以外の何かにより頼む必要がある。それが時には誰かの教えであったり、何らかの作品であったり、または慣習や伝統であったり、常識であったり、ただ一人の人間であったりする。してみると、人は無意識的に何かに依存し、それに縛られることによって生きることが出来る、と言っていい。僕達は宗教に、哲学に、芸術に、伝統に、常識に、または他人に、依存する。現代人の弱さは、然るに自分が無条件で信頼できるような価値観の基盤を、この世の内で見失ってしまったところにあると言っていいだろう。

 

人は、もし自身の存在に何らかの意義を見いだせたならば、もはや死を恐れなくなる。なぜなら、人が死を恐れるのは、その時に自分の命が消えてしまうからではなく、自分が死んでようが生きていようが、何の変わりなどないのではないか、ということだからだ。つまり、人が死を恐れるのは、自分の存在に明確な意識を持たないからである。もし人が、「自分は確かに生きている」という、存在の意識を、生きた心地を味わえていたならば、人は死など恐れはしない。そうでなくて、このまま存在の意識を持たずに消えてしまうからこそ、人は死を恐れるのだ。

逆に言うならば、人は、もし自分の存在の意識を手に入れることが出来たならば、つまり「何者かとして生きている」という心地を手に入れることが出来たならば、人は、もはや死を恐れなくなる。そして、それこそが現代人の失ったものであり、またそれこそが、僕達現代人の取り戻さなければならないことなのだ。