公開日記

その名の通りです

18/11/27 : 生と尊厳

人間が唯一所有できるものが死と惨めさだけだとしたら、どうだろう?

僕達の手元にあるものは、たとえどれだけ僕達自身のものに見えようとも、僕達自身のものではない。なぜなら、僕達の所有物とされているものの中で、僕達自身の思い通りになるものとは、何一つとしてないからだ。

あらゆる生物にとって本質的なもの、それは闘争である。それは人間にしても同じであり、僕達は他者に、または社会に、または自然に、そしてまたは、自分自身に対して闘争を起こす事によって生き、また成長していくものだ。ヘラクレイトスは万物の根源が炎であると考えたが、それは、なぜならあらゆるものは闘争に伴い変化し続け、始まりと終わりの二つを迎えるように出来ている、と考えたからだ。それはまさに、燃え盛る炎が消えてはまた再び何処かで燃えるかのように。

僕達のあらゆる所有物もまた同じである。僕達はそれを思いもよらない形で手に入れたかと思えば、また思いもよらない形でそれを手放すかと思えば、やっとの思いで手に入れたと思ったものが、ふとした瞬間にこの手から離れてしまうものだ。それは丁度、炎が形を変えて消えたり点火したりするのと同様に。僕達の所有物の中で、僕達の思い通りになるものは一つとして存在しない。それならば、それは実際、僕達の所有物だとは言えないのだろうか?

ここに僕達は人間の本性を見ることが出来る。つまり、非合理的にして理不尽な、また不条理な存在であるということ。誰も自分の思い通りにあらゆる物事をおしすすめることなど出来ない。僕達は頭ではこうと思っていても、いざそれを実行に移そうとしては失敗し、いくら理屈で飲み込めても、肉体は理性に反した行いをする。また、計算上では正しいはずの行いが、全く身を結ばないものとして虚しく終わる。人によっては、そんな人間の非合理性を「惨め」だと感じるかもしれない。もとい、そもそもそんな人間の現実が不完全であり、欠陥に満ちていると考えなければ、誰もこの事を非合理的とか、理不尽などとは思わないだろう。

そして、いくら僕達の所有物が僕達の所有物として思い通りにいかず、また僕達のもとから思いがけない時に去ろうとも、僕達のこの「惨めさ」だけは、僕達のもとに残り続けるだろう。

しかし、そんな僕達にも唯一思い通りになるものがある。それは「死」である。僕達は自分の思い通りにならない人生を、自分の手で終わらせることが出来る。この思いどおりにならないもので満ちた存在を、思い通りに終わらせることが、唯一僕達に許されたものであり、またどれだけ僕達がもがこうとも、「死」は僕達の元からさらず、僕達が生き続ける限り、僕達のもとに「死」は残り続ける。

こうして、僕の最初に書いた言葉の説明が着いた。つまり、僕達にとって唯一所有できるものとは、死と惨めさだけであるということ。


しかし、それを悲観してはならない。何故なら、僕はそこにこそ人間の「強さ」が存在するのだと確信するからだ。

たとえばであるが、動物は死を見ない。多くの場合、動物は個としてではなく全体として生きているからだ。死に向き合った時、多くの人は精神の錯乱を味わうかニヒリズムに陥るか、そのどちらかであるが、動物は死に向き合っても、そのようにはならない。死を見るのは僕達人間だけだ。僕達は個々の人間として、それぞれに違う意識と価値観があり、それぞれに違う無意識が存在する。その時、全ての人の間には意識の壁が存在する。だから、僕達は個々の人間として生きることしか出来ない。全体になることが不可能な僕達は、だからこそ自分たちの死を見ることになるのだ。

そして、僕達が死を認識するために用いている器官は何か。それこそが個々の人間を全体から引き離している意識であり、理性である。だから、もし人間が意識の枠を失い、また理性を失えば、人間は現在のような苦悩を味わうこともなく、幸福に、動物のように満ち足りた存在として暮らすことが出来るだろう。

人間だけが自分の非合理性を惨めだと感じる。人間だけが死を見る。しかし、そこにこそ人間の尊厳があり、人間の強さがある。

動物は、自分の欠点や弱さを知っても、それを恥じることが出来ず、またそれを欠点だとも認識しない。ただそのままに生きるだけだ。しかし、人間は違う。人間は自分の欠点を恥じることが出来、また時に、自分の欠点を隠そうとする。ただ人間だけがこの世の不条理を嘆くことが出来る。それは人間にしか出来ないことであり、ここに僕達は、人間として生きることの意義を見ることが出来る。

人間だけが不条理を「不条理」として認識する。僕達が幸福になるのは簡単であり、それは僕達の全てが理性を失い、意識の枠を失えばいいのである。その時、もはや僕達は不条理の存在を認識することが無い。そこには確かに幸福は存在するが、しかし同時に、人間にのみ味わうことが許された幸福は存在しない。つまり、人間が理性によって築き上げて来た文明、文化による幸福のことを、今僕は言っているのだ。

僕たちにはそれぞれ個々の意識の枠があり、また理性がある。だからこそ、僕達はそれぞれ異なった認識の観点を持ち、それ故に全体として生きることが出来ない。また、だからこそ「不条理」をも認識してしまい、自分のものをも自分の思い通りに動かすことの出来ない現実も知ってしまう。しかし、その個々の意識と理性によって生まれた苦悩、不条理の認識、そしてそれによって発生した闘争こそが、人間の文化と文明を発展させて行った。

あらゆる生物は皆、困難なものに取り組み、成長をすることによって生きている。僕達人間も、これら人間にのみ与えられた困難があったからこそ、今日まで人間にのみ味わいうる幸福を発展させていったのだ。

死についても同様である。ただ人間だけが死について様々な思いを巡らせ、そして個の存在として、はっきりと死を認識することが出来る。自分の存在が消えてしまうということは恐ろしいことであり、僕達は死を恐れる。しかし、そこにこそ僕達の「力」がある。僕達は死という困難な現実をはっきりと認識した時にのみ、人間にのみ許された「生」のあり方を知ることが出来る。つまり、「死」と向き合うことを唯一許された人間としての「生」を。

人間にだけ知ることの出来る苦しみとは、それを突き詰めていけば、そこに人間にだけ味わうことの許された幸福を見出すことが出来る。僕達は自分の惨めさに悩み、自分をいとも容易くこの世から消し去る死に悩む。しかし、その二つがあるからこそ、人間はその人間としての最善を引き出すことが出来る、そう考えることは出来ないだろうか?


いかなる人も生への執着を抱いている。たとえどれだけ生に苦痛を覚え、死を想うことでそれを和らげている人であろうとも、そうして死を疑似体験する事によって、再び明日も生を生きようとするからこそ、そのように死を思うのである。もし本当に生への執着がないならば、誰もとっくに苦しみから死んでいるはずだ。

それなら何故、人は死を想ってまでもして、生を志し、生に憧れ、生に執着するのか。それは、誰もが心のどこかで、この世に生きることの素晴らしさを知っているからだ。努力というものは、その過程や、その先の未来などに何らかの喜びを見出さなければ、決して続くことがない。そうでないにしても、何らかの意義を見出さなければ、あらゆる継続は成立しえないのだ。僕達が今日まで生きてきたのは、恐らく僕達の誰もが、心のどこかで、ほんの少しだろうと生きる喜びを知っており、またもっとそれを知りたいと思っているからだ。