公開日記

その名の通りです

18/12/04 : 孤独と自我

孤独にどう向き合うべきかを考えることは、その人の人生を豊かにする上で重要な問題である。というのも、人は孤独であることが避けられないからだ。

「孤独」と言うと、多くの人は否定的な印象を受けがちである。例えば、もし僕が『孤独を愛している』などと言ったら、ひょっとすると僕を悲観主義者だと思う人もいるかもしれない。そして実際、孤独はとりわけ青年期の人間を苦しめる一つの問題として取り扱われることの多いように思える。

しかし、僕は次のことを断言出来るように思える。人は、誰かといる時間よりも、孤独である時間の方が、圧倒的に人生において長く与えられているのだ、と。

そうだ、少し待ってみて欲しい。何故「孤独」は「否定的」なのだろうか。僕が思うに、どうやら若者が孤独の苦しみに直面した時に与えられた選択肢は、凡そ二つのように思える。つまり、孤独の苦しみを受け入れるか、それともその苦しみを、どんなに安っぽい交わりでもいいから解決したいと考えるか。

そして、大体の人は、後者の選択をして、つまりとにかく誰かと一緒にいることを選び、この問題に「妥協」をするのである。僕は言葉を選ぶつもりはない、それは妥協だ。というのも、一人の人が成長し、自我を培い、自分自身のこれからを創造するためには、孤独であることが必要不可欠だからだ。


そもそも何故人は時に孤独を恐れ、孤独を拒むのだろうか?その事について、先ずは考えてみたいように思える。

というのも、考えてみればこれはとても不思議なことだからだ。僕達は皆、生まれた瞬間から母胎より切り離され、一つの異なった意識を持つ存在として生きていく事を強いられる。たとえ誰の間であろうとも、僕達は皆、少しずつ違う常識と、少しずつ違う無意識に基づいて生きている。僕達は皆、生まれ育った環境も違えば、今日までに見聞し、体験し、学んできたものの内容も違う。たとえ同じ国、同じ時代、同じ街で生きていたとしても、ある人と他の人の持つ無意識と常識が完全に一致することなど先ずありえず、たとえ家族の間であろうとも、僕達の間には意識の壁が存在し、完璧な相互理解などというものは凡そ成立しえない。

このことから、僕は一つの結論を見いだせるように思える。つまり、僕達は生まれた時から孤独である、という事だ。

僕達は誰かと一つになる事は出来るかもしれない、しかし一つになれたとしても、同じ存在であることは決してできない。もし僕達の誰かが、他の誰かと一つになって、その人と死ぬまで一緒に生きたいと願うならば、その誰かは、永遠に自分が一緒になりたいその人と同じ存在になることが出来ない、それぞれは個々であり、違う存在であるという現実を受け入れなければならない。そうしてそれぞれがそれぞれ、異なった人生を歩むことが、僕たちには強いられているからだ。

しかし、これは当たり前の事のように思える。僕にはこれを悲観する意味がわからない。何故こんな当たり前なことで、人は悲しんだり嘆いたりするのだろう?恐らくそこには、何か他の意味があるに違いない。よし、ではもう少しだけ、ここで掘り下げてみることにしよう。

何故僕達は、時に孤独に苦しむのだろうか?恐らくそれは、(抽象的な言い方になってしまうが)「元々そこに在る」と考えていたものが「実はそこにない(存在しない)」という事実に直面するからなのだろう。

これはとりわけ青年期の人ならよく経験するような事だろうと思う。つまり、自分の近くにあったと思っていたものが、今でははるか遠くにあるように感じたり、または、元々いた馴染み深い場所から、突然自分の全く知らない高い山の頂に立たされたような気持ちを味わうような、そんな経験である。その時、人は途方も無いまでの寂寥感に苦しめられ、何でもいいから自分の縋るべき存在が欲しいと思うものであると、僕は知っている。

元々人間とは、無条件に、または無意識的に肯定できるもの、信頼出来るものがなければ、なんの不安も覚えずに生きていくことが出来ないものだ。子供の頃、僕達は砂場や遊具、または両親いない部屋で、ひとり遊びによくよく耽っていた。薄暗くなっても僕達は、そんな孤独にじっと耐えることが出来た。これは、子供の頃の僕たちには、そんな「無条件に信頼出来るもの」や「無意識的に肯定できるもの」が存在していたからである。

しかし、歳を重ねるにつれて、僕達は、あらゆるものが自分の思っていたものと少しずつ異なっていることに気がつき始める。たとえば、自分の親しい誰かが(家族や友人、恋人など)、それまで自分の全てを理解してくれて、受け入れてくれているなどと思っていたのに、実は全くそんなこともなかったということや、これまで自分が絶対に正しいと思えていたものが、実は決してそうと言い切れるようなものではなかったということ。ふとした瞬間に、自分とあの人は違う存在であり、自分と他者の間には、決して乗り越えることの出来ない意識の壁が存在するのだということ。どれだけ足掻いても、これから自分は他人と希望や喜びを共有することが出来ないような、そんな不安や恐れ、悲しみ、絶望など…

してみると、孤独の苦しみとは、他人または自分自身に纏わるものへ抱いていた期待が、裏切られた瞬間に生じるものらしい。

人は皆、自分の縋るべき存在を、死ぬまで依存できるような存在を、無意識的に求めていると言っていいのかもしれない。というのも、僕達は他の動物達に比べて、非常に儚い存在だから。知性が発達し、自意識を持つことのできてしまう僕達は、他の動物達のように、大いなる全体に所属することも出来なければ、常に自分の信頼出来る何かに繋がっていることだってできない。僕達は自分の期待が裏切られたり、または自分の期待しているものを疑ったりする。そういう意味では、僕達は地上の生物たちの中で、最も虚しく、最も儚い存在だと言っていいかもしれない。

人間の生きる外部の世界においては、「変化」だけが本質的なものだと言っていいのかもしれない。あらゆるものは繰り返すことも無く過ぎ去っていき、生まれ、変わり、やがて終わりを迎え、朽ちていく。そんな外部の世界に生きる僕達は、外部にある何者かを見つけては、それに期待を抱き、そして裏切られ、孤独を感じ、そして苦しめられる。この時、初めて人は「自分が孤独である」という現実を知る。この時、初めて認識された孤独それ自体は、その人にとって担いがたいものとして、その人の前に立ちはだかる。その時、僕が最初の方で書いた二つの選択肢が、つまり『孤独の苦しみを受け入れるか、それともその苦しみを、どんなに安っぽい交わりでもいいから解決したいと考えるか』が、初めて僕達のもとに与えられる。

そしてこの時、僕達が最も注意すべきなのは、後者の選択肢を、つまり『どんなに安っぽい交わりでもいいから』で妥協してはならない、という事だ。

性急に答えを探し求めてはならない、人の感覚は常に恣意的に左右され、その時は正しいように思えたものが、実は全くそうではない、ということなど、僕達のうちではよくあることだろう。

人間の肉体と精神は、元々お互いに混じり合い、支え合うものだ。そのどちらかの比率が大きくなりすぎると、人は狂い始める。もし精神的な不安定に悩まされているならば、より単純なものへと近づくべきだ。つまり、僕達にとってより感覚的であり、僕達の血肉に直接響くようなものの方へ。しかし、この言い方では、少しの語弊があるかもしれない。僕がここで『単純なもの』として考えているのは、たとえば自然や、普遍的に美しいと思われるもの、単純で、それ自体として営んでいるものの事だ(というのも、人間は常に自然や普遍的な芸術作品とは違って、相互的な関係の中で自己を養っているからだ)。

人間はうつろいやすく、変わりやすい。だからこそ、そんなうつろいやすい人間の本性とは正反対の存在、つまり変わらない存在、普遍的なものに繋がった時、初めて人は、再び「無条件な信頼」を心のうちに呼び覚ますことが出来る。そして、この時人は、初めて孤独に耐えうるものとなるのだ。

無論、僕達はそれを人間のうちにも見出すことは出来るだろう。しかしそういった人は、きっとある人には初めから存在するが、また違うある人には、人生で様々な困難を終えた末にやっと出会えるような、そんな存在に違いない。ただ、もし僕達の誰かが、そのような人に出会うことが出来たなら、きっとその人は、もうその生涯において、二度とその相手から離れることが出来ないだろう。


しかし、少し話が逸れてしまったようだ。では次に、孤独に耐えることの出来るようになった時に、僕達のすべきこととは何なのだろうか?

かのブレーズ・パスカルはかく語りき。『人間の不幸というものは、皆ただ一つのこと、すなわち、部屋の中で静かに休んでいられないことから起こるのだ』(パンセ、一三九より)

人間とは非常に相互的であり、また相対的な存在だ。僕達は自分の見聞した外部の情報に基づいて内部を形づくり、そしてその内部で形作ったものを、外部へと発散していく。その一方で、自己の内面形成とは、意図的にしなければ、いつまで経っても自分自身というものを手に入れることが出来ないのである。僕達は孤独であればあるほど、力強い「我」を手に入れることが出来る。もとい、孤独を受け入れることが出来ればできるほど、僕達はより美しく、魅力的な存在になり、より独自な自分自身を手に入れることが出来るのだ。

耐え難い孤独に耐え、そこで内的な模索を始めること。それが、人が自分自身を初めるための第一歩なのだろう。


孤独、愛、死。これら三つのものは、本来一つのもののように思える。何故なら僕達はそれぞれの孤独からしか他人を愛することが出来ないからだ。そして、人は何か変わらざるものに根付いた時に初めて力強く誰かを愛することが出来、また死とは、人にとって常に変わらざる存在もしてあり続けるからだ。だからこそ、この三つのものは、それぞれをはっきり認識し、また受け入れることが出来た時に、初めて人生は、僕達にその豊かな側面を顕にしてくれるに違いない。