公開日記

その名の通りです

18/12/05 : 哲学と人

人は、自分の無力さを知った時に、初めて自分に何が出来るかを考えることが出来、また初めて、自分のなすべき事が何であるかを考えることが出来る。


これを読んでいるあなたは、ひょっとすると僕が哲学を好む人間のように誤解なさっているのかもしれないが、それはとんでもない話だ。

僕は哲学を好まない。僕には世界がどのように成り立っているか、世界を構成する諸原理、またそれらを解き明かすことなどには、いささかの興味も抱いていないし、これからも抱かないだろう。僕に興味があることはただ一つであり、それは「どう生きるべきか」だ。

実存と道徳。僕はただ人間にまつわることにだけ興味がある。僕は人間だ、そして人間にまつわるものは、どんなものでも僕と無縁ではない。「どう生きるべきか」を知るためには、自分の生きるべく道徳を見出す必要がある。つまり、自分の物事に対する価値判断の基準点となるべき存在が必要なのだ。


ニーチェは物理学に否定的であり(「善悪の彼岸」より)、トルストイは「自然科学では人間の真理にはたどり着けない」と考えた(「懺悔」より)。その二人の意見が必ずしも正しいとは思わないが、二人の言わんとしている事はわからないでもない。

先ずニーチェの場合についてを説明しよう。人間とは、(もう何度か書いているが)あらゆる物事に対して、常に自分の主観に基づかなければそれを理解することが出来ないような存在だ。その人の個人的な趣味や嗜好、偏見、信条、または信仰など。僕達が何か一つの物事を眺める時、僕達は自ずと、それを今日まで僕達自身の見聞してきたものを背景として理解しようとする。逆に言えば、それに基づかなければ、僕達は何事も感受することが出来ないのだ。あらゆる物事を、僕達は自分自身の恣意性、自己保存の法則、利己心、自己愛を抜きにして語ることが出来ない。

人が何かを理解しようとする時に、それが理解できない、ということはほとんど無くて、ただそれを理解したくないだけである。信じられないのではなく、信じたくない。見えないのではなくて、見たくない。聞こえないのではなくて、聞こえたくない。知らないのではなく、知りたくない。そういった個人の主観的な意見、無意識的な感情によって、僕達の理性とは左右される。そして、僕達の無意識的な感情を、僕達は自分の理性によって擁護し、それを正当化するために理由を探し、後付けするのだ。

このように、たとえ目の前に普遍的にして恒久な事実、変わらざる永遠の法則があったとしても、僕達はそれを僕達自身の内側において再解釈し、自分の都合に合うように再構築する事になるのだ。ニーチェが物理学に否定的であったのはこのためである。僕達は、たとえどれだけの努力を払おうとも、客観的に物事を眺めることが出来ない。僕達に許されるのは、ただ自分の無意識的な背景に基づいて何かを眺め、それに合わせて何かを理解する(再びそれを創りあげる)ことだけなのだ。

トルストイの場合は、上のニーチェの場合に与えた説明を前提にすれば容易に理解できるように思える。

ブレーズ・パスカルは天才的な自然科学の申し子であると同時に、どこまでも感受性が豊かな哲学者でもあった。そんな彼は、人間の精神を「幾何学の精神」と「繊細の精神」に分けたが、トルストイの場合について、僕はこの二つの精神の在り方を参考にすれば説明がつけやすいと思われる。

自然科学的に物事を見る人の多くが陥りがちな事であるが、それはあらゆるものを(人間に纏わることさえ)白と黒ではっきりと考えてしまおうとするところだ。しかし違う、人間には白も黒も存在しない。人間は非合理的な動物なのだ。僕達はあれかこれかで物事を考えることが出来ない。僕達は常にあれとこれの総合であることしか出来ないのだ。何故人間が非合理的な動物なのかは、ここまで読んでくださった方なら、きっと分かってくれるだろう。

そして、恐らく「幾何学の精神」に生きる人には、これがあまり理解できないだろう。というのも、彼らは大体、自分が理解出来て、明晰に捉えることのできるものにばかり目を向けているからだ。彼らの多くは科学者であるが、合理的に物事を済ませる事の出来る学問の中では、非合理的な人間を解き明かすことは出来ないのだ。


古代ギリシア語において、真理とは自然科学的な意味合いが強かった。それ故に、その古代ギリシアの伝統を引く西洋哲学の多くでは、その記述がどうしても科学的な、論理性の高い調子を持っているが、僕達はそれに惑わされてはならない。ソクラテスプラトンが提示したのは、この世界を解き明かすものとしての哲学ではなく、「人間がどう生きるべきか」を考えるための哲学だったからだ。

読書家を自称する人間に出会う時に、その人と話していると「果たして彼(または彼女)は、本当に今話題にしている本を読んだのだろうか?」と思うような時が多い。その者は自分の読んだ哲学書の内容を大いに話す。しかし実際は、その本に書かれていた言葉をそのまま暗唱し、理解したつもりになっているだけなのだが。哲学書を読む人間や、哲学者のような振る舞いを好んでする人間の大体は、難解な哲学用語を何度も口にする自分に酔っているだけである。だから僕は哲学が嫌いだ。

人間は自分の主観を通さなければ、何事も理解することが出来ない。逆に言えば、自分の主観に照らし合わせても理解することの出来ない内容は、それをそのまま理解せずに(自分の言葉で再解釈せず)鵜呑みにすることしか出来ないのだ。

そして、次のことが哲学用語を多く用いる人間のよく陥っている過ちなのだが、そうして理解できないがままに暗記し、暗誦するようになった哲学用語に基づいて、さらに他の哲学書を読み、その哲学書を、よくわかっていないそれっぽい哲学用語を用いて紐解き始めるのである。これではまるで、ただの言葉遊びに過ぎないではないか。ゲーテに『およそ哲学というものは、常識をわかりにくいことばで表現したものにすぎない』と言われるのも、仕方の無いことのように思える。彼はこうも言っている、『学術においても実際は人は何も知ることが出来ない。常に実践が必要である』と(双方ともに「格言と反省」より)。

前提となるものを内側に持たなければ(または探さなければ)ならない。それがなければ、僕達は数学の公式をただ暗記して用いている学生と同様だ。彼はその公式が何故そのように成立するのか、またはその公式の持つ意味や内容などはてんで理解していないが、その公式が同じ数学の問題を考える時に使えることだけは理解している。まさに哲学者の言わんとしている事はまるで理解していないが、他の人とその人の考案にした哲学用語を用いてその内容を整理することは出来る人と同じではないか。彼は内容を用語によって整理することは知っているが、それを通して筆者の示そうとした思想は理解出来ていない。これこそ、まさに「幾何学の精神」の人が陥りがちな過ちである。


しかし実際、この世界には一種の規則性があり、法則があるのは事実だろう。僕達は常にそれらのものに突き動かされているに違いない。しかしそれは、一概にあれかこれかで区別し、合理化することの出来ないほどに複雑で、入り組んだ、簡単に言葉にすることの出来ないものなのだ。あらゆる偉大なものは、いつだって口に出して説明することの出来ないものなのだ。偉大なものは常に僕達にとって不可解であり、未知であり、(一見すると)非合理的で、理不尽な存在である。

そして恐らく、それを解き明かした先に、僕達は実存の真理を見ることが出来るのだろう。