公開日記

その名の通りです

18/12/10 : 決別

今日は一人の人物に纏わる話をしたいと思う。僕はその人から多大な影響を受けており、この二年間において、その人の名を抜きにしては、僕は現在の自分を語り得ることが出来ないと言っていいほどだ。


僕は「天才」という概念に対して否定的である。生まれながらにして特別な才能を持っている人間など、この世には存在しない。天才と呼ばれる人間の多くは、皆元々そうなのでなく、遅かれ早かれ、何らかの精神的な突然変異に突き当たった人間の事だと、僕は考えている。

しかしもし、何かとりわけ他人よりも秀でたものを、それも抜群に秀でたものを備えた人物のことを、「天才」と形容することが許されるならば、僕は今日までの人生の中で、唯一そう呼ぶにふさわしい人間に出会ったことがある。

彼がその人である。彼は紛うことなき天才だ。比類なき精密さを備えた頭脳と、巧みな話術から僕が感じるのは、音楽や絵画などにまつわる芸術的な才能でもなければ、数学や物理の世界において発揮される理知的な才能でもない、彼の人間としての、または宗教家としての才能である。もし彼がその気になったならば、恐らく彼はカルト教団の教祖として、それなりの成功を収めることができたに違いない。

僕はあれほど非凡なカリスマ性を備えた人物を見たことがない。彼こそは、僕が今日までの人生の中で唯一出会うことのできた、「天才」という名がふさわしいただ独りの人物である。

(実を言うと、今年はこの者以外にその名に相応しい人物に、一人出会うことが出来たのだが、その人に関してはまだ詳しい断定ができないため、何も言わないでおく)

僕がこの地上で最も尊敬するこの者のことを、僕は内心で勝手に自分の「師」として私淑している(向こうがどう思ってくださっているか、その内心は知れないが)。この我が恩師のことを、ここで僕はK牧師と呼ばせてもらう。


K牧師はさる街の教会で牧師を務めている御方である。僕が彼と初めて会った時に抱いた印象は、こう言ってよければ独特なものだった。というのも、K牧師はいつも愛想がよく、誰に対しても人当たりがいいのだが、その表情には何か独特の冷たさがあり、その笑顔は、まさに仮面のような笑顔だったからだ。聖書の話をしている時などは、その仮面が外れる瞬間を見ることが出来たが、彼のその柔和な、優しそうな表情には、いつもどこか思慮深い、男性的な、厳しい面影が残っていた。

何より、彼は非常に洞察力が深かった。それを僕は初めて会った時に感じた。彼と出会った当初の頃、僕は同時にまだ上京して間もない頃であった。

しかし、当時の僕は、今よりもずっと感情的であり、怒りっぽい性格をしていた。怒りっぽい人の常であるが、そのような人は、凡そいつも自分の感情が、自分の思いもよらぬうちに、その表情のうちに現れてしまうものである。

要するに、僕もそうであったに違いない。というのも、(恐らく向こうは覚えていないだろうが)初めてあった当初、僕は自分の考えていることが一々相手に見抜かれていたので、とても腹立たしい気持ちを覚えていたからだ。

顔とは、その人の他者への態度や欲望が極端に、それも無意識的に最も現れやすい部分である。余程自分を隠すことの得意な人でなければ、突発的に自分の感情が自分の表情に現れてしまうのを避けられない。よって、もし僕達がより確かな心理観察眼を得たいと願うならば、僕達は他人の表情を読む習慣を身につける必要がある。

しかし、ここまで来ればわかるだろうが、僕が初めにこのK牧師に抱いていた感情は、好意的なそれよりかはむしろ嫌悪感であった。当時の僕は、怒りっぽいと同時に嫉妬深かったが、嫉妬深い人間とは、自分と共通する弱さや好みを他人のうちに見出さなければ、その人が自分の上に立つことを何がなんでも許せないものである。とりわけ、自分の気の許せない人間から、自分の欠点を暴かれることほど、人の自尊心を苦しめることは無い。嫉妬深い人の場合、これは尚更だ。


さて、ここまで僕が赤裸々に書けるのも、言ってしまえば僕のK牧師への信頼の証である。僕は彼を非常に尊敬し、また信頼している。それは、やがて僕が、彼には非常に豊かな、そして深淵なる思想があるということに気がついたからだ。その一つ一つを挙げることは、この際やめておこう。しかし、僕が彼を信頼する切っ掛けとなった一つの小話を、ここに書き収めておく。

それは彼が聖書にまつわる話をしている時のことであった。K牧師はその時、バベルの塔についての話をしたのだ。余談であるが、僕とK牧師は、言わずもがな現政権に否定的である。そして、K牧師は、その事について、バベルの塔の話を持ち出しながら、凡そ次のように語ったのだ(無論、ここには僕の考えも含まれているから、これは結局僕の話なのかもしれない)。

人間が自分自身をより大きな存在に見せようとするのは、対外的に自分の弱さをさらけ出した時のみだ。バベルの塔を建設する時、人々は自分の名を有名にするために、それを建設しようとした。同時に、旧約聖書を生み出したユダヤ民族とは、常に対外的な危機に晒され続けていた。つまり、これはユダヤ民族が外部に対して弱さを晒していたからこそ、自分を強く見せようとした時の寓話である。人はバベルの塔を建設することによって、外部に対して弱い立場にいた自分自身を取り繕おうとしたのだ。

これは政治においてもよくある話である。一つの国が強硬な態度をとり、またそのような行いをするのは、国民が外部に対して弱さをさらけ出し、弱体化を顕にしている自身の国家に怒りを抱いた時のみである。そのような時、人々はより強い指導者を、それが民主的であるとか、良識のあるなどはどうでもよく、ただ自分たちを強く導いてくれて、自尊心を満たしてくれるような存在だけを求めるようになる。無論、これは個人においても言えることだ。ある人がそれまで弱い立場に置かれていたならば、そのある人は、これまでの反動で、暴力的な態度をこれからの人生で表すことがある。「バベルの塔」の話はその暗喩である。

そしてそれに対して神はどうしたか。バベルの塔をくじいて、人々を分裂させたのだ。これはまた、歴史の常でもある。自分の弱さ故にこれまで苦しめられた者は、これからの自分を強く見せようとすることによって、それまで自分を苦しめてきた世界全体に復讐をしようと試みる。その復讐は部分的な成功を収めることはあるが、全体としてみると、それは凡そ失敗に終わるものだ。


このような話(僕自身の考えによる脚色がとても強いが)を聞いてから、僕はK牧師と自分の考えに非常な共通点があり、またK牧師の考えには自分よりもずっと秀でた面があることに気が付き始めた。それから僕は二年間、K牧師のいる教会に足繁く通い、彼から学びを得ようと努めた。そして実際に、僕はこの偉大なる師から多くのことを学んだ。聖書に再び向き合う時間を得て、旧約聖書パウロ書簡を熱心に読むようになったり、強い関心を抱くようになったきっかけは、この我が師のおかげである。また、生活面でも、彼には多大な恩恵を受け、また多大な迷惑と御心配をおかけした。恐らく今も、心配をおかけになってしまっているのだろう。僕には未熟で不甲斐ない自分を責める事しか出来ない、本当に彼には頭が上がらないのである。


それを踏まえた上で、僕は次のような事を書く。つまり、僕はこれからも、おそらくこの偉大な師を尊敬し、また敬愛し続けるだろう。しかし、同時に僕が、どうしても彼の思想に馴染むことが出来ない点を見ており、それ故に彼を避けているという事も、認めなければならない。

K牧師と僕の思想には共通点が多い。恐らくそれが最も顕著に現れているのは、人間性に対する理解である。僕とK牧師が人間心理に対して抱いている考えは、恐らく非常に似通っており、また共通している。それは、先程の「バベルの塔」の話でもわかるだろう。

一方で、僕は決して、どうしてもK牧師と相入れることのできない点がある。それは信仰の問題であり、神に対する態度の問題である。

これは僕がかねてからプロテスタンティズムに対して抱いている疑問だったのだが、それは聖書と神に対する態度である。

キリスト教には、聖霊という概念が存在するが、教会によれば、それの導きと働きによって、神の御計画は進むのである、ということだそうだ。そして、聖書は信徒達が聖霊に満たされることによって書かれた書物である、と。

一方で、人間はあらゆる物事を主観的に見ることしか出来ない。よって、たとえ神の啓示がこの世に存在していたとしても、僕達はそれを誤解することしか出来ないのだ。だからこそ、たとえ聖書が『聖霊に満たされ』て書かれたものだとしても、そこには筆者の主観があり、誤解が存在する。

また、これは個々の人間に対しても言える話だ。人間は物事を恣意的に、自分の都合に合わせてしか捉えることが出来ない。よって、たとえ目の前にどんな現実があろうとも、それを自分の都合に合わせて解釈し、「事なかれ」とすることを肯定することが出来る。そして、プロテスタンティズムでは、これを「信仰」と呼ぶのだ。

僕はこの疑問をK牧師に間接的に提示したことがある。そして、その時僕は、彼から満足する答えが聞けなかったのだ。師はただ怒るばかりであり、プロテスタンティズムの主観性に対して何も返答は出来なかった。

確かに、僕たちの生きる人生、また現実世界とは、常に不条理であり、僕達の思いもよらないものによって構成されている。僕達にとって期待を裏切るようなものが、やがて僕達の今後の人生で役に立つという事も、よくある話だろう。だからといって、それを理解しようとすることをやめてしまったら、人は尚更過ちを犯すのではないだろうか。それは神の意図についても同じである。神は常に僕達の予想の裏をかく存在である。しかし、もし僕達が、かと言ってそれを理解するのをやめようとしたならば、僕達は益々神を誤解し、神のご計画から外れるのである。

しかし、K牧師から聞こえる答えはただ一つであり、いつだって「神様のなさることは我々には理解できない」と「無力な者として神からの救いを祈り求めろ」の二つである。どれだけ話を聞いても、彼の思想の根底にある神理解はその二つだけなのだ。彼の信仰は、皆「信じる者は救われる」というカルトめいた言葉を理論武装したものに過ぎない。


本当は、僕だってこんな事は書きたくはない。ああ、僕がどれほどあの師を慕い、また(語弊を恐れずにいえば)愛していることか!そうだ、僕はあれほど素晴らしい人物のもとでキリスト教の学びを深めることが出来たことを、本当に、本当に神に感謝している。しかし、僕はあの我が師と決別せざるを得ないのだ。

最初の部分で、僕がこの恩師を讃える時に用いた言葉として、『比類なき精密さを備えた頭脳と、巧みな話術』と記し、また『もし彼がその気になったならば、恐らく彼はカルト教団の教祖として、それなりの成功を収めることができたに違いない』とも記した。それは、彼の話し方、その物腰、そしてその思想に由来する。

彼の発声と口調は非常に気品があり、そこには誇りある人間に特有の気高さが含まれていた。また、彼の声音は非常に美しかった。女性を除いて、あれほど美しい声で物事を語り、また文章を朗読できる人間を、僕は知らない。そして、彼の説教は、その詩的な語り口によって紡がれる。そして、彼の思想は、その『比類なき精密さを備えた頭脳』によって援護される。

K牧師は都内の有名な大学院の出身である。それも彼は理系の大学院に進学していた。元々自然科学の研究者であった彼の語る言葉は、たとえどれだけカルトめいたものであろうとも、非常に理にかなったものとして説明することが出来る。これが師の恐ろしいところであり、だからこそ僕は、『もし彼がその気になったならば、恐らく彼はカルト教団の教祖として、それなりの成功を収めることができたに違いない』と書いたのだ。彼の天才は、その頭脳にも思想にもなく、そのカリスマ性に存在する。

僕は人生で初めて出会った天才に憧れ、その人から強烈な影響を受けた。僕は彼のようになりたいと願い、一度は本当に牧師になることを考えた。だから、先程書いたような疑問に直面した時、僕は自分を疑った。それも何度も疑った、「自分が間違っているのだろうか」と。しかし、どれだけ考えても、僕は自分の考えに誤りがあるとは思えなかったのだ。


新しいものとは、常に既存のものを批判した上でなければ成立しえない。しかし一方で、反抗や反逆という行いが、多くの場合それへの復讐心故に行われるのも事実である。新しいものが既存のものを批判する時、新しいものは、批判しながらも既存のものから部分的に影響を受けているものだ。そして、復讐心に基づいて行われる行為は、(上記の「バベルの塔」の話からもわかる通り)だいたい失敗する。

よって、もし新しいものが既存のものに違和感を覚え、批判せざるを得ないようになった場合、僕達は、既存のもののもとから去らなければならない。復讐心に基づかずに、あるものを非難し、またあるものから新しいものがうみでる時、それは必然なのだ。

これからも、僕はK牧師のいる教会に顔を出すつもりでいる。しかし、僕はあの人と決して同じ道をあゆむことが出来ないのだと、今では痛切しているのだ。僕は、今後、何らかの神に纏わる仕事をすることはあるだろう。しかし、僕は決してあの人と同じにはなれない。

僕は今でも彼を誰よりも、誰よりも尊敬している。K牧師は僕の人生における、変わらぬ、また最大の恩師だからだ。また、だからこそ、僕はあの人と決別しなければならない。これは必然である。そうしなければ、僕は前に進めないからだ。僕は自分の使命に、自分の十字架に、自分の生に生きなければならない。それは、決してあの人とは相容れないものなのである。