公開日記

その名の通りです

18/12/11 : 神と宗教

僕達は皆無意識のうちに神を内側に所有している。しかし、この神は僕達によって創造された神であり、僕達が自己存在を安定させるために必要としている偶像なのだ。

僕達は皆、心のうちで宗教を信仰している。しかし、それは実際に「宗教」の名を借りて現れている場合もあるが(キリスト教や仏教など)、現代においては殆どの場合、それは自分に対して支配的な影響力を持つ存在のことである。


人間とは本質的に宗教的な性格をした存在である。つまり、迷信深く、偏見に充ちて、自分よりも大きな存在を、自分が聞き従い、自分を導いてくれるような存在、心の拠り所となる存在を、自分の居場所を求めている。これらの性質は、皆宗教が大衆に受けるために備えるべく必要条件である。だから「宗教的」という形容を使ったのだ。

宗教が真理に近づくために必要なのは、その宗教の祀る神が僕達を救わなくなった時のみである。

僕達は皆、神を必要としている。そして、それが本当に神であるかどうかなどは、その人にとってはあまり問題ではない。人は自己存在の安定のために神を求めるのだ。神を発見すること、それは人間性の回復だからだ。


神が僕達を救わないということ。この世界において、神は決して僕達を救わない。そして、神が僕達を救ってくれないということを教える宗教のみが、真に信頼に値する宗教である。というのも、人が真に生きることに幸福を覚えるのは、外部に対して受動的な時ではなく、外部に対して能動的に、主体的に働きかける時のみだからである。


しかし、人が宗教に縋る時に求める「救い」とは、果たしてなんだろうか?それは自分を貧しいものを貧しさから引き上げることでもなければ、自分を苦しめる敵を打ち倒すことでもない。人の惨めな精神状態を和らげてくれることである。

ある人は劣等感、ある人は疎外感、ある人は屈辱、ある人は絶望、ある人は孤独に苛まれる。そして、そのような状態に陥っている時、人は、その物事の真偽性などどうでもいいから、自分をこの精神的な苦しみから救い出してくれるものを求める。そしてその救いの実態とは、自分が惨めでなくて、寂しい存在じゃないという認識を与えてくれる、そんな気安い慰めである。


してみると、人が求めている「救い」とは、何も自分の現在の生活状態を向上させることや、自分が直面している問題に現実的な解決を与えるような事ではなく、自分の心の拠り所となってくれる存在を見つけることであり、自分の孤独を和らげてくれる存在を手に入れることらしい。


かつてはそれが宗教であった。つまり、キリスト教や仏教、イスラームなど、文字通りの「宗教」である。しかし、宗教を失い、神を失った今、現代人は自分の心の拠り所するべきものを失い、不安におののき、人間疎外に苛まれている。存在していることへの苦しみとは、人間が自分のうちに抱いていた偶像を失った時に初めて生じるのだ。

では現代の僕達がするべきこととはなんだろうか?かつての宗教的な価値観に立ち返ることだろうか?決してそうではない。僕達はそれが、既に迷信深く、誤りに充ちているということを知っている。しかし同時に、僕達は自分の価値観の基準点を見出さなければ、僕達は確かな自己存在を確立することが出来ないと、今は既にはっきりと認識している。

それならば、それを踏まえた上で、新しい価値観の基準点を築けばいいのだ。


次のように考えるのは恐ろしいことである。自分がこれまで正しいと考えてきた全てが、実は間違っているのかもしれないと考えるのは。そして実際に、自分のこれまで信じていた全てが、実は誤りに満ちていて、妄想と嘘で取り繕われたものだったのだと、はっきりと悟ってしまうのは。

しかし、だからといって、果たしてその人は「正しさ」を、もっと言うなれば、自分の信ずるべき存在を、神を失ったと言えるのだろうか?

もしこの世に絶対的に正しい存在、普遍的であり永遠的なものがあるのだとすれば、それは僕達よりもずっと偉大であり、僕達よりもはるかに価値のある存在だとは言えないだろうか?

そして、もしもこの世に絶対的に正しい存在があるのだとすれば、それが間違っているということは決してなく、もしそのように思えることがあるのだとしたら、それは僕達自身が真理を見誤っていたのだ、とは言えないだろうか?


偉大なものは不可解であり、理解できない。僕達が何かを偉大だと認める時、僕達は自ずとそれを自分よりも上の存在であり、自分の理解を超えた存在として設定しているからだ。

魅力的なものとは、常に未知なるものを、その人には理解出来ないなにかを、つまり、こういって良ければ「神秘的な」ものを含んでいる。そして人は、理解できないが故に、その対象に惹かれるのである。人が何かに惹かれる時、その人は対象を誤解し、その対象に対して様々な幸福な妄想を巡らせているからこそ、その何かに惹かれるのである。僕達が最も幸福でいられるのは、盲目に何かを信じ切っている時だけなのだ。


真に救われた人間とは、他者に救いを求めなくなるものだ。それは、無論神にしても同じである。僕達は、神に救いを求めなくなったときに、初めて神に近づくことが出来る。なぜなら、人が救いを求めている時、その人には自分を救うことが第一の目的であるため、あらゆる物事を(無論神をも)恣意的に解釈することが避けられないからである。

救いは自分の苦しみを受け入れる覚悟を持つもののもとにのみやってくる。救いに対して受動的でなく、能動的になるということ。現代人に必要なのはそれなのだ。

僕達は、失われた情熱を、意志を、心の拠り所を、取り戻さなければならない。僕が願うのは、そんなに大それた事ではない。それは、二人の人間が、なんの疑いも恐れも抱かずに、ただ無条件に信頼し合い、愛し合うということ。かつてはあんなにも簡単に出来ることのように思えていたが、今ではこんなにも難しくなってしまったこと。僕達は僕たちの誇りのために、失われた人間性を取り戻すために、戦わなければならないのだ。


僕達に必要なのは成功ではない。僕達に必要なのは、自分よりも圧倒的に大きな存在のまえで、卑小なものとして打ち負かされることである。そしてこの僕達を打ち負かす者こそが、僕達を高め、成長させるのだ。

僕達は皆、この者によって欺かれることにより、一人前の人間になる。そして、この者の名は「神」である。

 

私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いではなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。 ― 狼は羊を奪い、また追い散らす。 ― 彼は雇い人で、羊のことを気にかけていないからである。私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは、父[神]が私を知っておられ、私が父を知っているの同じである。私は羊のために命を捨てる。私には、この囲いに入っていない他の羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、ひとつの群れになる。私は命を、再び受けるために、[命を]捨てる。それ故、父は私を愛してくださる。誰も私から命を奪い取ることは出来ない。私は自分でそれを捨てる

(ヨハネによる福音書、第十章の十一節から十八節より)