公開日記

その名の通りです

18/12/12 : 過失と必然

感覚無しに論理は成立しえず、また論理無しに感覚は説明しえない。

僕達は感覚を抜きにしては何事も理解することが出来ない。ある人の知性とは、ある人の経験によって成り立ち、ある人の経験とは、ある人の感覚によって積み重ねがなされるからだ。


感覚はいつだって僕達を欺く。しかし、その感覚は、本当はそれ自体の意志によって僕達を欺いているのではなく、僕達の無意識が感覚に欺くよう指示しているのだ。

人間というのは面白いもので、あらゆる動物の中で、嘘をつくのは人間だけなのだ。中には、動物における「擬態」や「死んだふり」を、人間における「嘘」と同類なものとして捉えようとする人もいるかもしれないが、たとえそうだとしても、彼ら動物は皆、自分自身の安全を守るために「嘘」をつくではないか。

しかし人間は違う、人間だけが自分の身を危険に晒すような、むしろ自分を追い詰めるような嘘をつく。人は自尊心や虚栄心の欲求を満たすために嘘をつき、そして時に、それによって自分自身を追い詰める。また、自分の立場を追い詰めると分かっていながらも、彼らは嘘をつく。

人間だけが自分を追い詰めるために嘘をつく。よって、もし僕が人間を他の動物と区別しようとするならば、僕は人間が理性を持っていることにも、または知性が発達していることにも注目せず、ただ人間だけが自分の利益にならない嘘をつくのだという、その事実に目を向けるだろう。

嘘は人間のみが生み出しうる至高の芸術作品である。高度な嘘がつけるということは、その人の本能的な知性の高さを示すこととなるだろう。ある人が優れているかどうかとは、その人がどれだけ嘘をつくのが上手いかによって測ることが出来ると言っても過言ではない。嘘が人間にとっての本質であり、真理である。


ある人とある人がなんの思惑も抱かずに互いに交わるということは、非常に稀な事のように思える。大体の場合、人は意図していようとしていまいと、自分の利己心に照らし合わせながら、他者と関わるものだ。


真面目なものはいつだって厳しい、そして、全てのものは本来的に真面目である。真理とは重く苦しいものなのだ。

罪の赦しとは、他人に言い渡されるのでは決して得られないものだ。それはその人が「自分の罪は赦されたのだ」と感じない限り、たとえどれだけ他人から慰められたとしても、その人は罪の意識に苛まれ続けるだろう。自分が罪を犯した誰かから赦されたとしても、それは同じである。

罪の赦しとは、自分自身からしか与えられないのだ。


ある人が自分の現在に、または自分の現状に苛まれているとする。その人は何度も考え、自問自答する。『果たして僕の何が間違っていたのだろう?僕はいつだって自分の考える最善を選択してきたつもりだ。だからこそ、僕にはわからない。果たして僕の何が間違っていたのだろう  ?僕は何処で間違えたのだろう?』

しかし、それをいくら突き詰めたところで、その答えは出ない。『何故僕は、今日まで最善を尽くしてきたはずなのに、何も得られていないような、何も自分の手のひらの上に残っていないような、そのような感覚に苛まれるのだろう?』

果たしてこの時、罪は彼にあるのだろうか?彼が自分自身の現状に苛まれている時、その原因は彼にあるのだろうか?彼は自分では最善を尽くしたつもりでいる。しかし現在とは、過去の結果以外の何ものでもない。してみると、彼の現在の苦しみとは、過去の延長線上にあるがゆえらしい。

『これが果たして僕の求めていたものなのだろうか?』彼はそう考える。何故彼は虚しさに苛まれるのか?この苦しみを、果たして彼はどこに求めればいいのか?そしてそれを突き詰めて考えた時に、「誰も責めることが出来ない」という答えに行き着いた時、果たして彼はどうすればいいのか?彼の罪は彼にあるのか?彼は自分の考える最善を尽くしたはずなのに?そしてたとえ彼に罪があったとして、彼はどうすればこの罪の苦しみから抜け出せるのだろう?そこにある解決策はただ一つであり、「今はただこの苦しみを推し進めるしかない」それだけである。

この人間の非合理性、不条理、惨めさを、神頼みにしてまかせたり、または誤魔化したりすることも出来る。しかしその時、その人個人の人間性は堕落し、退廃するのだ。毎日後ろめたくて、下らない惰性に満ちた生活がそこには待っているだろう。それこそ罪ではないだろうか?赦された人間として生きるよりも、赦されない人間として生きた方が、ずっとましではないだろうか?

『僕はあの時どうすればよかったのだろう?』そのように彼は苛まれている。しかし、今彼が考えるべきことは、それではない。『これから僕はどうすればいいのだろうか』それである。

僕達は悲しい出来事や、思い出したくもないような失態を犯してしまった時に、初めてその反対のものを、喜びを、そして何度も思い出したくなるような成功を望むようになる。この苦しみこそが、もしかすると彼を良き方向へと導いてくれるかもしれないのだ。


自分ではどうしようもないと思えるような現実に突き当たった時、果たして人はどうすればいいのだろう?それを見ないふりにして逃げるか、他人任せにするか、またはそれを都合よく解釈するか、そのどれかを選ぶべきなのか?僕はそうとは思わない。

人間の力ではどうしようもないと思えるような現実に直面した時、僕達はただ、その事実をそのままこの身に受けるべきなのだ。そして、今はただ、惨めな敗残者として、その敗北を自分の身にしかと感じるべきなのである。

それから僕達が次にするべきこと、それは、この敗北を取り返すための勝利の時を、将来に見据えるということ、ただそれだけであり、そのために生きるという事だ。