公開日記

その名の通りです

18/12/14 : 願いごと


ある一つの芸術作品が、その生みの親である彼の自己表現である、とは、凡そ誤解でしかない。僕達は芸術を通してその芸術家の人柄などは決して理解することが出来ず、僕達が理解できるのは、ただそれの示す事実だけだ。

少なくとも、僕は自分でピアノを弾いたり、またはこのように文章を書いている時などに、これが一種の自己表現である、とは、一度も感じたことがない。僕の音楽や僕の書いた文章を通して、そこに僕自身の性格とか、人格が現れているなどとは、決して考えることはないし、きっとこれからもないだろう。そもそも、それらの僕の演奏や文章は、「芸術」の名を語っていいほど優れたものでもないだろう。


僕は普段、「昨日」の分の日記を書いている。今だってそうだ。実際、今日は十二月十五日であるが、僕は今、昨日の十二月十四日の分の日記を書いている。それは、その時に感じたことをそのまま書かないためだ。人は、自分のうちに抱いている感情が強くなりすぎると、時に思ってもいないことや、本当は言うつもりもなかったことを言ってしまう。僕が恐れているのはそれなのだ。

沢山の感情や経験を持つようになったら、次に僕達がするべきことは、それを忘れることである。もしそれらが本当にその人にとって大切なものであったなら、一度手放したとしても必ずその人のもとに帰ってくる。

人間とは忘れる生き物だ。僕達は何かを忘れることによって何かを誤魔化し、そのようにして生きている。忘れる、という行為がなければ、誰も現実のつき出す真実に耐えることなどできない。僕達は何かを忘れなければ今日を生きることだって出来ないのだ。だから、忘れるということは、決して悪いことではない。

人は過去を消すことなどできない。「時が癒す」という言葉があるが、それは嘘である。時はその人を癒さない、その人が時の流れの中でただそれを忘れるだけなのだ。事実はいつまでも過去に存在しており、ある日突然、消えたと思っていた彼が蘇ってくる、という事も、大いにありえるだろう。

だから、その人はやがて蘇ってくる苦しみに耐えるために、一度それを忘れなければならない。忘却とは癒しだから。


最近、「疲れた」と感じることが多い。しかし、僕は自分が何に疲れているのかがよくわからないのだ。朝、目を覚ますと、僕は起き上がる瞬間に「なんだか疲れたな」と呟く。しかし、果たして僕は何に疲れているのだろう?たった今、休息の彼方から引き上げてきたばかりなのに?現実に向き合うことには苦痛が伴う。しかし、それは恐らく、いつまで経っても変わらない事実なのだろう。喜びの瞬間はいつだって短いが、悲しみの吐く息はいつだって長い。


僕はその日に感じたことを、一度忘れる。忘れることはいい事だ。そして、それを再び思い出す。感傷性を可能な限り排して、ただ事実だけを書くために。

しかし、忘れられないものが中にはある。それはきっと、その人にとって変え難いものなのだろう。


僕は自分の書く文章が自己表現の一種だとは思わない、と最初に書いた。今にしても同じで、僕は今自分の書いている文章の中に、自分自身が投影されているとはこれっぽっちも思わない。たとえ自分を表現しようとしても、かえって他人に誤解を招くだけだろう。

それを踏まえた上で、僕は次のことを書きたい。


人と人がそれぞれ孤独であり、完全な相互理解など成立しえない、という事実が、僕には悲観的だとも思えなければ、受け入れ難い悲しい事だとも思えない。しかし、誰かから理解されることを求めているかと言われれば、それを否定することは出来ない。

もし今この場で、何か自分のささやかな願いを書くことが許されるとするならば、僕は次のようなことを書きたい。と言っても、何かそれが大それたことだとは思わないが。しかし、僕にはそれが大きな、とても大きな願いなのだ。

僕は家族が欲しい。いつか家庭を持ちたいのだ。僕が求めているものとは、いつだってそんなだいそれたものでは無い。無論、僕の野望や野心がそれと別なのは言うまでもない話だ。それらは皆、僕自身が勝手に「汝なすべし」の使命だと考えているから。ただ、僕個人の幸福や、僕個人の夢を一つだけ、たった一つだけ持つことが許されるならば、僕はただ、家庭が欲しい。いつか家族を持ちたい、そのように考えている。