公開日記

その名の通りです

18/12/18 : 音楽と忘却

かつて、僕は音楽によって名声を得ることに憧れていた。しかし、僕には自信がなかった。僕は自分と同じような人間を見つけることに非常な労力を割いたことを、白状しなければならない。たとえば僕は、自分の好きなクラシックの作曲家の生涯の中でも、とりわけ青年期の彼らについての文献を読み漁ってみた。しかし、皆音大(または何処か立派な音楽の学校や、優れた教師)の下で勉強をしているのだ。

この発見は僕を非常に不安にした。僕達は皆、これまでの歴史の延長線上に存在しているものであり、新しいものは古いものを土台とすることによって発生する。つまり、自分と似通った偉人が、(少し大袈裟な言い方であるが)今日までのクラシック音楽史のどこにもいないという発見は、「自分は決して音楽によって成功することができない」という宣告を受けたも同然のような気がしたからだ。

(僕は自分の出生を覆い隠し、出来ることなら消し去りたいと願った。他は皆恥じることの無い半生を送っているのに、自分だけ醜く、そして何の誇るべきものもないのだということを認めたくなく、また信じたくもなかったからだ)


それでは自分の好きなロックミュージシャンや、ジャズマンたちはどうだろう?彼らなどもってのほかであった。僕の最も敬愛するピアニストであるキース・ジャレットは、その青年期までの人生だけならば、特に荒波を立てずに過ごしているし、何なら彼はバークリー音楽院にも進学している。しかし僕は、ピアノも独学だし、一度として正式な音楽教育を受けていない!僕と憧れの彼の間には、決して超えることの出来ない壁があることに気がついた。僕はより一層自信をなくした。しかしこれは、今考えると迷信だったのかもしれない(結局、僕はまだ無名なのだが)。

一方、自分に近い例が存在するのを発見出来たのは、他ならぬ文学においてであった。あなたは知っているだろうか?シェイクスピアにはまともな学歴がないのだということ!それにも関わらず、彼は英文学史において栄光のその名を刻んでいるではないか!そうだ、正攻法でなくとも成功を収めることのできた人間は沢山いるのだ。何も不安になる必要は無い…こうして僕は自分の不安を収めることが出来たのである。


あらゆる芸術とは、常に一つの存在を、違う観点、または違う角度から描いているだけなのではないのだろうか?そして、その一つの存在とは、つまり「美」である。普遍的にして永遠的なもの、絶対に変わることの無いもの、それが多くの芸術家が描きそうとする「美」の正体である。詩も、小説も、音楽も、劇も、絵画も、または彫刻も、皆この一つのものをそれぞれ違う方法論を用いて描いているだけなのだ、そう感じることが僕にはある。逆に言うならば、あらゆる芸術は常に美しくなければならない、または美しくあることを志さねばならない。


しかし、音楽は、あらゆる芸術の分野においてもとりわけ特別な存在のように思えるのだ。あらゆる芸術は音楽に憧れる。

かねてから、芸術的な体験の多くは、僕にとって非常に感覚的なもの、肉体的なもののように思えていた。しかしとりわけ音楽は、他の芸術よりもずっと肉体的なものであり、また感覚的なもの、(こういって良ければ)性的なものであるとすら言えるものだと思える。

僕達は何らかの体験をする時、それがたとえどれだけ知的なものであろうとも、自分の感覚を通してそれを認知することを避けられない。よって、たとえどれだけ複雑であり、また精密な論理性によって成り立っている音楽であろうとも、僕達はそれを感覚によって捉えることしか許されない。

また何よりも、音楽とは他のどんな分野の芸術よりも、ずっと感覚に直接訴えるものだ。頭を用いながら活字を読むことを強いる小説や、目を見開いてその細部に着目しなければならない絵画と違って、音楽はずっと直接的に、殆ど無抵抗な僕達を、何の努力に強いることも無く包み込み、抱きしめてくれる。これが音楽の素晴らしいところであり、また同時に、音楽の恐ろしいところでもある。

リルケの長編小説「マルテの手記」の中で、主人公のマルテは『子供の頃から音楽に対してひどく不安であった』と回想している。『それは音楽が、僕を何よりも力強く宇宙の中へ高く引きあげてゆくかというからではない。音楽が僕を再び元の場所へ連れ帰さないで、さらにもっと深い、どこか分からぬ混沌とした地底へ突き落としてしまう事に気づいたからだ』(「マルテの手記」、第一部より)

音楽の優しさ。僕は音楽を聴いている時、自分の感覚の全てが音楽によって奪われていくのを感じる。そして僕は音楽を通さなければ、何を感じることをも許されなくなる。僕の五感は音楽に染まり、それによって僕の視界は彩られ、僕の聴覚は踊り、僕の嗅覚は眠りに落ち、僕の触覚は消えていき、僕の味覚は盲る。僕の五感は音楽への捧げものとなる。

僕は音楽に抱かれ、また音楽に溺れる。音楽は僕を包み込み、僕を骨抜きにする。そして、僕から喜びと悲しみの全てをぬぐい去る。音楽は僕に忘却をもたらす。忘却とは死の間接的な体験である。この心地良い自己喪失をもたらしてくれることが、音楽の最も恐ろしい点である。

僕は音楽によって全てを忘れる。それが僕の癒しとなる。『感覚によって感覚を癒す』とは、「ドリアン・グレイの肖像」の中に残された有名な箴言であるが、僕にはその意味がよくわかるような気がする。

あらゆる物事を、僕達は自分の感覚を通して体験する事となる。というのも、僕達は感覚を通さなければ何事も感じることが出来ず、また知覚することも、理解することも出来ないからだ。たとえそれがどれだけ喜ばしい事であろうとも、またはそれがどれだけ悲しげなことであろうとも、その両者は共に感覚的な体験であって、それ以上のものでは無い。よって、その喜び、またはその悲しみと同じくらいの感覚的な刺激を、その人に与えたとするならば、その人は、それまで感じていた喜びを、または悲しみを、忘れるのである。

そして、音楽はあらゆる芸術の中で、最も強く感覚に訴える代物だ。感覚によって感覚を癒す。音楽という強い感覚的体験は、同時に強い忘却を僕達にもたらすものなのだ。

忘れることはいい事だ。僕は忘却を愛する。これまでどれだけ、僕は「忘れる」という行為に、または「自分はもう誰かから忘れられている」という認識に、助けられてきたことだろう。人は忘れなければ生きていくことが出来ない。忘れることによって僕達は僕達自身が苦しまないように保つのである。何故人は忘却を恐れるのであろう?そしてこの優しい忘却の海に引きずり込んでくれる音楽を、記憶の眠りの底へと引きずり込んでくれる音楽を、僕がどれほど愛していることだろう!


こんな事ばかりを書いていると、人は僕を悲観主義者だとか、ニヒリストだとか、病んだ人だとか考えるかもしれない。しかしそれはとんでもない話だ。僕は自分のことを一度だって悲観的だと思ったことはない。それに、自分が病んでいるとも思えない。上に書いた話も、何の皮肉でもなければ、何かを悲観しているわけでもない。僕は心の底から、純粋にそう思っているのである。

僕は今日も音楽を摂取する、優しい忘却の内に浸ることを求めて。しかし、音楽が終われば、再び今日までの自分の人生の、忘れたくて仕方ない部分が蘇ってくる。それを思い出し、それと共に生きる力を得るために、否定したくて仕方ないものを背負うだけの力を養うために、僕はこの甘美な孤独の内に、またはこの愛すべき消失の中で、僕は自分を見失うのである。