公開日記

その名の通りです

19/01/21 : 中庸と両立

自分の意見に誇りを持ち、それを絶対に正しいと思うこと、この思い込みこそ、多くの人々が真理を誤解する原因である。

真に誇り高い人間は、自分の守るべきもののために、時には誇りを捨てることが出来なければならない。


アリストテレスの言う「中庸」とは、あるひとつの物事において、その両極端のどちらかをとらずに、その間をとる、ということではない。少なくとも僕はそう考えている。

そうでなくて、相反する両者を踏まえた上で、そのどちらかを取るのではなく、そのどちらをも踏まえて、そこから新しい道を見出そうとする、ということ。これが大事なのだ。

(現代では、あまりにも多くの誤解や偏見がこの「中庸」という言葉に付きまとうようになってしまった。というのも、現代人の多くが最も恐れているのは、普通であること、一般的であること、何者かであれないことだからだ。全くの善人にもなれなければ、卑劣な人間になることも出来ない。彼らにとって、これほど恐ろしいことはないのである)


人々の生活を眺めていると、恋愛の不幸とは、たとえ誰かと一つの関係に結ばれたとしても、相手が自分と同じことを考えてくれず、また同じ気持ちを抱いていないということに由来するように思われる。つまり、たとえ愛の名の下に結ばれても、恋人たちは孤独であることしか出来ないということ、そこに恋愛の不幸が引き起こされる原因があるらしい。

しかし、これはなんと言ってもおかしな話である。何故なら、大体の恋愛とは、人が自分と違う誰かに恋焦がれることから始まるのだから。というのも人は、相手が自分に共通する何かを持っているけれど、同時に決定的に違う存在(それも自分にはない魅力を持った、自分よりも上の存在)であるからこそ、その相手に恋をするのである。

つまり人は、自分のうちに潜む「悪」を圧倒する「善」を、相手のうちに見出すからこそ、その相手に恋をするのだ。


思慮のない大胆さは無謀であるが、思慮深くありすぎることは、人から大胆さを奪い、代わりに臆病さを与えてしまう。

では僕達は、その真ん中を撮るべきなのだろうか?いや、そんなことが簡単に出来るなら、人は自分の無謀さや臆病さに悩んだりはしないのである。

思慮がなければ将来の成功を見据えることは出来ず、大胆さがなければ将来の成功を勝ち取ることは出来ない。

そして、人が将来の成功を見据え、またそれを勝ち取りに行く時、その人を突き動かすものを、僕達は勇気と呼ぶ。

僕達が勇気を手に入れるためには、思慮深くあると同時に大胆であることが求められる。

つまり、僕達は自分のうちに、臆病と無謀さの、その両極端を知っておく必要があるのだ。そして、そのどちらかを取るでもなく、またその中道を行くのでもない。そのどちらをも踏まえた上で、僕達は新しい道筋を、勇気への道筋を、三つ目の選択肢を見出そうとするのだ。

これこそがアリストテレスの言いたかったことなのではないだろうか。

真に勇気ある者でありたいならば、僕達は無謀さも、臆病さも、そのどちらをも知らなければならない。

思慮深さのない大胆さが無謀であり、大胆さのない思慮深さが臆病であるならば、僕達は、思慮深くあることと大胆であることの、または臆病と無謀の、そのどちらも否定してはならないのである。というのも、その両極端の丁度いい中間を取るなど、そんなことは大体の人には出来ないからだ。

恐らく僕達は、その両方を同時に生きるしかないのである。何故なら、思慮深さとは臆病を言い換えた言葉に過ぎず、また大胆さとは、無謀な人間にしか備えられない性質だからだ。


知識は人を高ぶらせるが、愛は人を造りあげる。

何かを知るということ、そして自分の考えを正しいと考えること、その二つが人を偏見と迷信の内へと導く。

もし真理が女性だとしたら、果たしてどうだろうか。

もし真理が女性ならば、僕達が傲慢で、無神経で、それでいて無思慮な決めつけで真理に近づこうとしても、彼女は僕達に心を開いてはくれないだろう。もし真理が女性ならば、僕達は自分の正しさへの確信を捨てて、卑小なものとして真理の前にひざまずく必要があるのではないだろうか。

人が何かを理解できるということは殆どない。僕達は、多かれ少なかれ、何かを誤解せざるを得ない。だからこそ僕達は、何かを理解しようとして腰を低くし、そして時には自分を殺してまでしてその声に耳を傾けなければ、決してその何かをより深く理解することなどできないのである。

人は、自分に欠点があることを知った時に、初めて「より善い存在になりたい」と願うものだ。同じように、人は自分に過ちがあるということを知った時、初めて正しくありたいと願えるのである。


人が善良であるためには、ある程度誇り高くある必要がある。しかし一方で、高慢に物事を決めつけることは、人から善良であることを奪い取ることにも繋がりうる。


それなら僕達はどうすればいいのだろうか?そう、僕達は、誇り高くあろうとすると同時に、謙虚であることを、自分より大きな存在を前にして卑小なものであることを学ばなければならないのだ。

そして僕達は、果たして何に誇りを持つべきなのだろうか?それはおそらく、自分が何かを愛し求めているということに対してである。