公開日記

その名の通りです

19/02/02 : 強弱と理性

恐怖と不安。それは現代における、あらゆる良いものと悪いものの発明者だ。人は恐怖と不安から逃れるために文化を創造し、また恐怖と不安に打ち勝つ為に文明を発展させた。

弱さを抱えた人々にとって、救いとは何らかの勝利を意味するのではない。彼らにとって、救いとは自分自身を苦しめるものからの逃避することであり、またその迫害者を忘れ去ってしまうことなのだ。

救いを求める人にとって、何らかの勝ち負けは非常にどうでもいいことなのである。彼らの心のうちにあるのはただ一つで、早く自分をこの苦痛に充ちた環境から連れ去って欲しい、そして自分の弱さをいたわって欲しい、それだけなのだから。

人は弱さのゆえに誰かを愛する。

強くあることは過酷であることと同義だ。人が弱さゆえに誰かを愛するのは、相手に対して自分の弱さを受け入れてくれることを願うがためである。弱き人は自分の弱さによる苦しみから逃れる場所を、苦しみを忘れられる場所を探す。

しかし強き人はそれを拒む。弱き人にとって、自分を拒んだ強き人は、その強さゆえに悪人とみなされるだろう。弱き人にとって、強き人は「強い」という事実それだけのために悪なのである。

なぜなら、強き人には弱き人の弱さを上手く理解できないからである。というのも、強き人は弱き人と同じ弱さを抱えていないから。そして、同じ弱さを抱えていないというそれだけのために、今や弱き人にとって、強き人は誰よりも敵対者なのである。


人の欲望は外部によって左右される。人間は何かを知らなければ、その何かに纏わることを欲することも無いのである。

人間が理性によって幸せになることは決してありえない。僕はこれを死ぬまではっきり言い続けるだろう、今ここで断言したっていい。僕達は、理性の限界を知り、また理性の力を疑い、そして理性に絶望した時、初めて理性を上手く用いることの出来るようになるのである。


知識というのは、身につけてもそれに伴う理解力が、つまり認識の力がなければ無意味である。それは教養にしても同じだ。たとえ何らかの教養を身につけても、その教養が中身のあるものでなければ、あってもなくても同じなのである。

教養とは一つの経験である、それは何かの知識を獲得したという経験だ。しかしあらゆる経験というものは、それを把握し、理解した上でなければ、僕達に何の役にもたたず、またなんの意味も持たないのである。そして僕達にとってなんの意味も持たない経験とは、あってもなくても同じなのである。


人が理性によっては幸福になることなどはできない。何故なら、理性によっては知を獲得することしか出来ないからだ。知識を深めた先にあるのは絶望と退廃である。理性的であろうと努め続けることは、その人を虚無のどん底へと突き落とすであろう。

人は何かを知ることがなければその何かに纏わることを欲しはしない。してみると、人は何らかの悲しみを覚えなければ、その悲しみの反対にあるものを喜びとせず、また何らかの喜びに飽きなければ、その反対の悲劇的な状態に憧れを抱いたりはしないのである。

この事から、僕は一つの結論を導き出すことができるように思われる。つまり、僕達は、喜びを知れば知るほど、一層悲しみを深めていくのである。

逆に、もし人が何かを知らなければその何かに纏わることを求めないのであれば、僕達が幸せになる方法は至って簡単なのである。つまり、僕達がみんなで一緒に理性を失い、これまでの文明と文化を白紙に戻してしまえばいいのだ。今こそジャン・ジャック・ルソーの有名なモットーである『自然に帰れ』へと立ち返り、四足歩行の生活を始めるときではないのだろうか(冗談である)。


そう、これは冗談だ。何故なら僕達は、この世の悲しみの深さと同時に、この世の喜びの深さも知っているから。素晴らしい文化的な発明をすればするだけ、僕達は卑劣な「悪」をも発明していくだろう。

しかし、もしそれが避けられないことなのだとしたら、僕達が考えるべきことはただ一つであり、それは、どうすれば「悪」の影響を最小限抑えることが出来るのかを、考えるということである。


この世における恐怖と不安はあまりにも大きい。しかし、もしその二つを否定したならば、僕達はこの世における喜びと安らぎも知ることが出来ないであろう。

同じ苦しみを知らないものだけが、他人の苦しむ様を見て笑う。弱くあることは決して悪いことではない。人間がどんなものであるかを知りたいなら、その人はまず率先して自分を弱くする必要があるのだ。

そしてこの世のあらゆる弱さを知ったその人は、おそらくこの世の誰よりも強い人なのだろう。恐怖や不安と喜びや安らぎがそうであるように、強さと弱さもまた密接に繋がりあった存在なのだ。