公開日記

その名の通りです

19/03/31 : 自分のことやベートーヴェンのこと

何をするにしても、僕達は皆自分を通さなければ、何もすることが出来ない。僕達は皆、自分の主観を通さなければ何も知ることが出来ないし、自分の身体を通さなければ何も感じることが出来ないし、そして何より、「自分の幸福」という前提がなければ、生きていくことだって出来ないのであるない。

この「自分自身であることしか出来ない」ということは、僕達の全てが背負わなければならない宿命だとも言えるだろう。それは僕達にとって一種の呪縛でもあり、また一種の祝福でもある。

たとえ他人のことを語っているときでさえ、僕達は自分のことを話さざるを得ない。なぜなら、僕達が「他人」のことを話す時、それは多かれ少なかれ「自分の考える他人像」でしかなくて、真に正確で客観的な他人を描くことなど出来やしないからだ。

たとえ何を話そうと、またたとえ何を書こうとも、とにかく何をするにしても、僕達はそこに自分自身というものを表すことが避けられない。

そして、それは他人のこと話す時だって同じなのだ。僕達が誰かの話をする時、聞き手は僕達がその誰かをどんな風に思っているのかを考察し、そしてその話しぶりから、そもそも話し手である僕達がどんな人間なのかを察しようとするだろう。それは、意識的であれ無意識的であれ、そして多かれ少なかれ、必ず誰もが行っていることだ。

さて今、僕はこのようにややこしい、何が言いたいのかわからないような文章を書いているが、この行為それ自体が、僕がどんな人間なのかを間接的に示す行いだと言っていい。果たして僕はどんな人間なのだろうか?たとえば僕が読者としてここまでの文章を読んだならば、きっと「こいつはなんて面倒臭い奴なのだろう」と考えるに違いない。


ベートーヴェンの音楽は基本好まない。しかし、好きなものもある。とは言ったものの、それも演奏者に起因するところが大きいらしい。別の演奏者の録音を聴いてみたらまるで好きになれなかった、という場合はよくあることだ。

初めてカルロス・クライバーの指揮した交響曲第五番と第七番を聴いた時、これまでにないほど音楽に対して深い感動を覚えた。あの時の感覚は今でもよく覚えている。体の奥底から、まるで何ものかが湧き上がるかのような錯覚に囚われた。躍動する音楽のうねりに操られて、体の節々が勝手に踊るように動き始めた。瞳を閉じて聴いていたから、辺り一面真っ暗であったが、しかしその真っ暗な世界がこれまでにないほど輝いて見えた。鋭く、硬質な高音の響きと、滑らかに流れる低音の動き。音の一つ一つは非常に繊細であり、多層的であるが、同時にどこまでも力強い。完璧な絵画のように美しい音楽。

クライバーの見せてくれた夢から、僕はどうしても覚めることが出来なかった。それでベートーヴェンのCDを色々と買い漁ってみたが、今ひとつどれも好んで聴くようにはなれなかった。第五番と第七番にしても、結局クライバーのそれ以外は全くと言っていいほど聴かない。それでもCDは沢山持っていた。だから、『自分が本当はベートーヴェンの音楽を大して好まない』という事に気がつくまで、結構な時間がかかった。

とは言ったものの、彼の書いたピアノソナタ三十番、三十一番、三十二番、あれは別格で好きだ。中でも三十二番はたまらない。ベートーヴェンピアノソナタ三十二番は音楽の最終形態だと、僕は今でも時折そう考える。中でもグレン・グールドの弾いた録音がとりわけ好きだ、もう何度聴いたかしれないくらいに聴いた。ポリーニの演奏も悪くない。

有名な三大ソナタ、悲愴と月光と熱上は、グールドの演奏以外は殆ど聴かない。もとい、グールドの演奏以外は好きになれない。彼以外の演奏は一度も耳に残らなかったが、グールドの弾いた三大ソナタならば、やはり数えきれないくらい聴いた。それとテンペストも好きだ、これもやはりグールドの演奏がお気に入りである。そして、テンペストもやはりグールド以外の演奏は殆ど聴かない。

僕が思うに、音楽の示す傾向とは、とても人間の本来的な性質を上手く表しているのではないだろうか。つまり、それは哲学的な意味を持とうとすればするほど音楽的でなくなり、逆に無意味なものであろうとすればするほどまともな音楽として取り扱われなくなる。意味と無意味、その両者を踏まえた上でなければ、優れた音楽作品は成立しえない。

僕がベートーヴェンの音楽をあまり好まないのは、「意味」が先行しすぎるあまり、音楽にしかない美しさがそこから逃げ去っているような気がするからである。

音楽とは、それが一種の夢であり、僕達を空中に引き上げると、そのまま先の見えない暗闇に突き放すような、そんな途方もない恐ろしさを含んでいるからこそ、美しく、また魅力的なのだ。音楽には、僕達を高め、また清める力がある。しかし同時に、音楽には僕達を堕落させ、腐敗させる力をも秘めている。音楽によって、僕達は力強くなることもできれば、逆に全くの弱虫になることだってありえるのだ。

音楽の美しさは死に近い。しかし、ベートーヴェンの音楽はあまりにも生に近いのである。すくなくとも僕にはそのように思われる。


夢見がちな人は皆憂鬱である。しかし憂鬱だからこそ彼らは夢見がちなのだ。

夢見がちな人達もいくつかの種類に分けることが出来るが、中でも自分の夢の実現を追い求めながら、その一方で自分の別の夢を恐れている人間がいる。彼らは夢を愛するからこそ、夢によって自分を失うのを恐れているのである。


僕は自分についてはあまり書きたくない。その一方で、人は皆自分自身にまつわることしか書き表すことが出来ない。もし自分にまつわらないことを無理にでも書こうとすれば、それは空想の域を出ない産物となり、非現実的で見るに堪えない嘘っぱちなものとなる。

多くのことを吸収したら、今度はそれを発散しなければならない。僕は毎日、何かを感じたり、考えたり、見聞したりする。そして、それを何らかの形で表さなければ、あまりにも多くのことが頭のうちに浮かびすぎて、頭がオーバーヒートしてしまうような感覚に陥るのだ。これが僕の毎日日記を書いている理由の一つである(無論、他にもあるが)。

そういう意味では、このように文章を書くことは、僕にとって一種の慰めとなる。しかしその一方で、僕はあまり個人的な話をしたくない。だから、あまりにも個人的すぎる話は、いつだってぼかそうと努めている。しかし、それは必ずしも上手くいかないようだ。

僕は自分についてあまり書きたくない。しかし、最近はそれを避けるあまりか、少々日記を書くのに苦痛を覚えている。このように、自分のことについてなら、今まで通りすらすらと書くことが出来るのだが。

哲学とは現在の自分から抜け出して新しい自分に至るための方法論だ。哲学する人は常に自分に対して怒りの矛先を向け、自己を否定し、どうすればこんな自分自身から脱皮することが出来るのかを考える。哲学とは一種の自己否定から始まるのだ。

僕も多少なりとも哲学趣味のある人間だが、そんな僕は、いつも自分を恥じている。だから、自分の恥ずかしい部分は出来るだけ人目に晒したくない。しかしその一方で、いつまでも理想の自分を演じられるほど、僕は器用な人間ではない。

どこまで自分の胸の内をさらけ出していいのか?それをいつも考えている。僕はどこまで自分について書いていいのだろうか?どこまで僕は、自分の胸の内側の奥底にある感情を書き記していいのだろうか。


読者よ、このように私自身が私の書物の題材なのだ。あなたが、こんなつまらぬ、むなしい主題のためにあなたの時間を費やすのは道理に合わぬことだ。ではご機嫌よう

(モンテーニュの「エセー」より抜粋)


今、僕はカルロス・クライバーの指揮したベートーヴェン交響曲第五番を聴いている。もう第四楽章まで来ている。ああ、神様。ここを聴く度に、僕は自分が十代の子供であった頃に戻るような感覚を覚える。

世界が燃えている。僕はその炎の中に身を投げたい。しかし、それは生から逃れるためではなく、生を志すためである。