公開日記

その名の通りです

19/04/08 : 時折自分を襲う悩みについて

僕には時々、自分のしていることが本当に正しいのか、または自分の信じている理想が本当に正しいのか、わからなくなる時がある。


以前、次のような女性と知り合ったことがある。女性はまだ十代で、既に家を出ていたが、女性は恋人と同棲していた。同棲相手は彼女より十歳年上で、もうほとんど三十と言っていい年齢だった。知り合った場所は出会い系のアプリらしい。

僕はこの話を聴いた時、言うに言われぬ感覚に陥った。僕は「これは間違っている」と思ったが、果たして何が間違っているのかがうまく説明できなかった。それに、果たして何故間違っていると言いきれよう?もしかしたら女性はあれで幸せなのかもしれない。しかし、それから僕と女性は、ほぼ毎日のように連絡を取り合っていた。もし向こうが「そういう事」を望んでいたとしたら?しかし、当時の僕には他に好きな女性がいたのだ。

こういった問題に直面した時、多くの人は、この僕の感情、「間違っている」を「正しい」に変えるために、恋愛的なものが必要とされると考えがちである。しかし僕はそれにどうしても同意することが出来ない。そうしてしまったら、僕の理想は完膚なきまでにうち崩されてしまうからだ。

果たして何か出来ないものか?こういう時の哲学、こういう時の心理学ではないのか?人間の考えが人間を救う、そのはずではなかったのか?今まで僕は一体何を学んできたのだ?こういった出来事に直面した時、自分が無力に思えて仕方ない。何故同性同士ではなんの探り合いもなく行われる助け合いが、異性間だと歪められるのか?人間として互いに関わり合う、そんな事は結局馬鹿げた綺麗事でしかないのか?

時に、この女性との友情はある日一方的に連絡が絶えることによって終わった。


さて、これとは対照的な場合を書いてみよう。

最近僕は一人の男性と知り合ったのだが、彼の年齢は三十手前で、出身は沖縄、今は東京に住んでいるとのことだった。

彼の出身地は決して治安が良くなかったらしく、彼は小学三年生の頃から酒や煙草を嗜み始めたらしい(本人曰く、「それ以外にすることがなかった」とのこと)。彼は高校卒業と同時に働き始め、職を二つ転々とした挙句、今の職業に就いた、僕はそう彼自身の口から聞いた。

彼はもう既に妻子持ちの身らしいが、つい半年前まではキャバクラや風俗、ガールズバーなどをほぼ毎週のように通っていたらしい。僕が「まだその何処にも行ったことがない」と言うと、彼は驚いて、言った。「えっ!俺ならそれで半年は頑張れるのにな、一ヶ月目はキャバクラ、二ヶ月目はおっパブ、三ヶ月目はピンサロ、四ヶ月目はソープ…」

一見するとこの俗物そのものといった性格をした彼も、実際は決して悪い人間ではない。いや、むしろ人との接し方を見るだけで言うならば、彼は善良な人間だとすら言えるだろう。何故か、それは彼が自分に甘いからだ。

ある程度何らかの形で快楽を味わっている人間の方が、禁欲的な生活を送る人よりも寛容であり、嫉妬深くない。だからこそ、こういった放蕩生活に身を浸している人の方が、他人に対して甘い態度をとることが多いのだ。


しかしこの時、一体僕は誰を憎めばいいのだろう?誰にこの怒りをぶつければいい?誰に敵対すればいい?そうだ、このやるせない気持ちを、僕は一体どこに向ければいいのだろう?

個々の人間が現在のような環境に追い込まれたのは、多かれ少なかれ必然が伴っている。ほとんどの人間はなりたくて今の自分になったのではない。

例えば僕達が今日の朝、目を覚ました時に、「今日はこんなふうに生きよう」と考えてみたとする。しかし一日が終わってみると、今日という日がまるで朝考えたのとは似ても似つかないものであった、全く自分の計画外に一日が進んだ、ということは、よくあるに違いない。そしてこれは、どんなに意志の強く、理性の強い人間にも、避けられないことなのだ。

してみると、悪いのは個々の人間ではなく、その人間を作ったこの世界の根底に潜む既存の道徳的な価値観なのだ。誰をも憎んではならない、間違っているのはこの世界なのだから。

しかしそれは本当なのだろうか?本当にこの世界は間違っているのだろうか?僕が考えすぎているだけなのではないか?そう、その意見を、僕は否定することが出来ない。間違っているのは僕の方なのかもしれないからだ。

全ての人が何らかの苦しみを負い、全ての人がそれぞれの十字架を背負っている。もし全ての人が何らかの形で悲しみを味わっているならば、同じように全ての人が喜びを味わってもいいはずだ。つまり、全ての人が何らかの形で救われるべきなのである。しかし救いとは何か?突き詰めていけば何もわからなくなることがある。僕の考えは結局綺麗事なのだろうか?

時々、僕はまだ自分がとても子供っぽい人であり、また世間知らずの坊ちゃんであるということを知る。やはり僕が間違っているのだろうか?僕が潔癖すぎるだけなのか?僕は融通の効かない人間なのだろうか?

結局僕は昔と同じで、誰も、何も救うことが出来ない。口だけはいっちょ前のくせに、何もすることが出来ない。そして僕は、一体何が正しいのかわからない、何をすればいいのかがわからない。こんなふうに感じる時がある。


あらゆる政治的なイデオロギーは空想の域をでない。もし人がただ外面的に、表面上だけを見て物事を判断するのだとすれば、その人は判断を誤り、より正確な知識の把握ができなくなる。何故なら、真実は常に隠されているからだ。例えば僕達の外面的な特徴、例えば表情や言動に、いつだって僕達の本心が現れているとは限らない。僕達はその裏にある真実を、表面上に現れる手がかりを元に、考察し、観察するのである。

時代にとらわれずに物事を考えるべきだ。十年前には正しいとされていたことが、十年後の今では間違っているとされていることなど、よくある事なのだから。百年前の法律と今の法律と比べてみれば、他人が口にしている「正しさ」など皆表面的なことであり、実際にそれが正しいのではないことくらい、よくわかるだろう。

そして政治思想とは、ただ外面的な誰かの政治活動、誰が現実に行使しようとする正義を援用するために編み出される。しかもそれは、その時代の制約を強く受けることを免れない。だからこそ政治的なイデオロギーとは皆空想であり、何も真実めいていないのだ。

この世のものは何も政治によっては進まない。大体、現実に積極的に働きかけようとする人間は、現実に対して復讐することを願っている。過去に現実によって傷つけられた人が、同じ現実の中でその時の恨みを果たそうとするのだ。あらゆる政治的な人間は皆ルサンチマンの塊だ。そして、ルサンチマンによっては物事は正しく進まない。

今日までの僕の日記を読んで、もしかすると僕が何か政治家にでもなったり、革命家にでもなろうとしているのではないかと、そんな風には考える方もいるかもしれないが、それは誤解だ。イエス・キリストの言動を真似て言うならば、『僕の国はこの世に属していない』のだから。『私は真理を証するために生まれ、そのためにこの世に来た。真理の側につくものは、皆私の声を聞く』(ヨハネによる福音書の第十八章、三十七節より抜粋)