公開日記

その名の通りです

19/04/12 : 弁証法とLGBT

事実や真理は確かに存在する、ただ僕達がそれを正しく認識することができないだけなのだ。


弁証法デカダンスの示す兆候だ』と、確かニーチェは「この人を見よ」の中で近いことを書いていた。実際、それはその通りだと思う。

どんなものであろうと、物事とは常にその背景がなければ存在しえない。たとえそれが突然変異的に生じた物事にしても同じで、あらゆる物事は、常に周囲の環境と、それが発生するまでの過程というものがなければ存在しえないのである。

そういう意味では、あらゆる物事は皆弁証法的ということも出来るのかもしれない。その一方で、僕達は(こう言ってよければ)あらゆる弁証法を正しく理解することが出来ないのである。


物事になんらかの過程があり、それが発生するための背景があったとしても、僕達はその過程と、その背景を正しく理解することが出来ない。だからこそ、あらゆる物事が弁証法的に進むとしても、僕達はその弁証法の進み具合がどんなものであるのかを、決して正しく把握することが出来ない。

むしろ僕達の考える弁証法とは、いつだって独りよがりであり、空想の域を出ない産物、ただの妄想、過剰な理性の残した病的な産物でしかないのだ。

何故弁証法デカダンスなのか。それは、僕達が非合理的で、理性によって生きることの出来ない動物だからだ。

僕達は理性によって物事を考える。ところで、僕達が頭の中で計画したことの殆どは、いつだって完全にその通りに達成されることがない。何故か、そこには空想と現実の誤差が存在するからだ。

誰も正しく現実の将来を想定することなどはできない、そこには多かれ少なかれ、自分自身の恣意性や感情、偏見が反映されるから。よって、自分がたとえどんな未来を想定したとしても、必ずそれがその通りにやってくるのはありえない事なのである。必ずそこには想像と実際の間に誤差がある。

その一方で、僕が実生活であらゆる人々を眺めていて感じることは、皆その事実を忘れがちである、ということだ。最近では文学でも空想の域を出ない産物が増えた。まるで現実味のない嘘をつく人間も増えた。人の嘘が真実らしく聞こえるためには、ある程度実際に起きた出来事を混ぜる必要があることを、誰もが忘れているのだ。


僕は近年のLGBTの活動の多くに否定的である。何故か、それが空想の域を出ないからだ。

僕は同性愛やLGBTの存在を否定するつもりは無い。その一方で、僕達はどう足掻いても、与えられた性別以上の存在になることは出来ない。男として生まれたものは死ぬまで「男性的なもの」の影響から逃れることが出来ず、女として生まれたものもまた死ぬまで「女性的なもの」の影響から逃れることが出来ない。

理由は僕達の無意識に存在する。僕は男性と女性で脳の作りが違うなどとはてんで思わない。ただ、僕達は他者との比較の間で生きている。肉体的に「男性」として生まれた人間は、たとえ意識のあり方が女性的であろうとも、実際の「女性」と自分を比較して、自分が「女性」では無い「何か」だと認識せざるを得ない。

そしてこの認識は、恐らく幼少の頃から根付くに違いない。肉体的に「男性」に生まれたものは自ずと、自分と仲間である「男性」の肉体を見つけるがために、自身を「男性」という概念を抜きにして考えることが出来ない。よって、肉体的に「男性」な人間は、たとえ性転換をしても「かつて男性であった女性」以上の存在になることが出来ず、完全な「女性」それ自体になりきることが出来ない。

楽観的な進歩主義の思想を掲げた馬鹿どもは、いつだって次のことを忘れている。僕達の人生は不条理であり、僕達の存在は常にそれぞれが不平等に出来ているのだ。たとえ世界がどのように進歩しても、僕達の生きる世界は常に不条理であり、そして僕達は不平等であり続ける。問題はその被害をどれだけ最低限に抑えるかなのだ。

男性として生まれたものは、どう足掻いても男性的な意識の作り方から逃れることが出来ない。女性の場合も同様である。そして、僕達の無意識は常に僕達以外の人間の影響によって形成される。肉体的に男性に生まれた人間は、たとえその人がどれだけ女性的な性格をしていようとも、多かれ少なかれ男性的な意識を持たざるを得ない。なぜならその人の肉体が元々男性のそれだからである。


僕達の認識には常に恣意性がつきものである。僕達は自分の主観、自分の偏見、自分がこれまでに得た知識、自分がこれまでに積んだあらゆる経験、これらを通さなければ何も理解したりすることなど出来ない。これは言い換えれば『僕達は誰も物事をその通りに理解することが出来ない』ということである。

目の前に一つのものがあるとして、それを理解する時、それをその通りに理解するのではなく、僕達は自分の理解の及ぶ範囲にそれが収まるように、それを再び解釈し直し、自分色にそれを染めるのである。つまり、多かれ少なかれ、僕達は何かを歪曲しなければ、何も理解することが出来ない。僕達の理性はいつだって恣意的であり、利己的であり、感情的なのだ。

僕達は皆自分の意志で生まれたのではない。よって、僕達の人生のスタート地点というものは、皆僕達が望む望まないと関係の無いもの、必然的なもの、運命的なものから始めることとなる。脱構築することなど出来ないのである。

弁証法デカダンスに陥りやすい理由は、まさにこの点にある。頭で考えるならば可能に思えることも、実際の行動に移すとどうも上手くいかない、などは僕達の日常生活でもよく見られることではないか。どう足掻いても抜け出すことの出来ない必然性を受け入れた上で、僕達は自らの可能性を探す必要があるのだ。


近年の性問題の傾向には、現代人の多くが既存の男性像や、既存の女性像に自分を合わせることが出来なくなったということが影響している。

僕はよくよく、僕と同年代の男性で、既存の男性像に、つまり力強く、異性を引っ張るような「男性」に、自分を合わせることが出来ないような人達を見てきた。女性の場合も同様である。女性の社会進出が活発となり、男女平等を掲げる現代の先進国に置いては、おしとやかで大人しい、既存の「女性」に自分を合わせることが難しく、むしろそれを忌み嫌い、それを拒んでいる女性など、沢山いるに違いない。

その一方で、概念は常に僕達の中に存在し続けている。よってここで空想上の概念と実際の自分たちの間に起こる「違い」の苦しみが発生する。過去に存在していた理想的な人間像、理想的な「恋愛」を過去の歴史から押し付けられ、それに自分を合わせようとするが、それが出来ない。これを恐らく多くの若者が経験しているに違いない。


普通の恋愛が出来ない、普通 "に" 恋愛が出来ない。「男」と「女」を演じることが出来ない。ここに現代の若者の恋愛に対する悩みの全てが含まれていると言っていいのかもしれない。


というわけで、若者の反発、反動、既存のものへの復讐が始まる。僕が思うに、現代のLGBTの動きには、少なからずこれが影響しているように思われる。既存の概念としての男性像、女性像に合わせることが出来なくなった現代人は、それに復讐するために、性別という概念をなくそうとするのだ。

しかし、新しいものというものは、いつだって既存のものに基づかなければ発生しえない。それこそまさに弁証法だ。しかし、「性別」への復讐心に燃えることは、まさに現実問題を軽視する現代人に、空想へと走らせることを促しているように思われる。僕達に必要なのは、既存の「性別」という概念に復讐することでなく、新しい「性別」の概念をつくりあげ、新しい男性像、新しい女性像、そして新しい人間像、つまり新しい人間の在り方を、指し示すことなのだ。


存在しているようで、実際は殆ど存在していない。典型的なものとは、実はむしろマイノリティなのであり、希少なのである。

たとえば「クレヨンしんちゃん」や、「ちびまる子ちゃん」いや「サザエさん」でもいい。所謂これらのアニメ(または漫画)では常に一般的な、普通な家庭が取り扱われている。でも周りを見渡してみるがいい、どこにもそれらに当てはまる家庭など存在しない。

その一方で、それ、つまり「一般的」や「普通」は常に存在している。普通でない、一般的でないにも関わらず、むしろそれが希少であり、マイノリティであるにも関わらず、「一般的」な家庭、「普通」な「家庭」は常に僕達の心の内側に、マジョリティとして、大多数として、一般に普及したものとして存在している。

これは面白い、注目すべき現象だ。


自分を傷つける意見に耳を傾けなければならない。僕達はただでさえ自分を守ろうとする性質がある、自分を傷つけようとしなければ、誰も歪められた真実を正しく認識することなどできない。

僕達にとって自分を愛することは必然なのだ。だからこそ、その流れに逆らった時、つまり自己愛と自己批判を上手く調和させた時、人は初めて真理に近づくことが出来る。