公開日記

その名の通りです

19/04/28 : 愛、孤独、死

愛とは一種の自己否定だ。人が他者に対して魅力を感じるのは、他者が自分一人では決して満たせないものを持っているかのように感じるからだ。自分にないものを相手が持っているからこそ、相手に惹かれる。恋の始まりとはいつだって自己否定なのである。

しかしその一方で、僕達は誰一人として完全無欠な人間に惹かれることをしない。人が感情移入できるものとは、いつだって自分と同じ弱さを共有している場合のみである。恋とは、いつだって自己否定的な他者への尊敬と、自己愛的な他者への共感が入れ混ざったものなのだから。

たとえば一人のいじめられて育った少女がいたとして、彼女が惹かれるのは、自分をいじめたような人間とも平気で接する、たくましい体つきをした陽気な男性よりかは、むしろ自分と同じ弱さを抱えている男性、線の細く、陰を抱えていそうな男性であろう。なぜなら、後者の方が少女は感情移入が圧倒的にしやすいからである。

僕達よりもただ完全に優れている相手に対して、僕達は畏敬か、または憎悪的な嫉妬や復讐心か、そのどちらかしか抱くことが出来ない。むしろほとんどの場合、僕達が抱くのは後者である。

魅力的な人が、その魅力を存分に活かして、ただただ幸福に生きる。それは多くの人にとって許し難い。そうでなくて、魅力的な人が彼らと同じ苦しみを味わい、また彼らと同じかそれ以上に大きな失敗を経験した時、つまり彼らと同じ弱さを抱えた時、初めて彼らは魅力的な人を愛することが出来るのである。

そう、僕達が恋する相手は、自分よりも何らかの形で優れたものを持っていると同時に、自分と同じかそれに近い苦しみを抱えている相手なのである。

"Love is blindness, I don't want to see / Won't you wrap the night around me?(愛は盲目、僕は盲目でありたい / 君よ、僕をこの夜の内に閉じ込めてくれないか)"

愛は美しくない。もし愛が美しければ、なんの事件も問題も起こらないだろう。しかし違う、愛は厳しく、また乏しい。人は愛のために眠れない夜を過ごし、愛のために不安におののき、愛のために悩み、愛のために苦しむ。愛とは相手のために苦しむことであり、また相手に理不尽な要求をすることだ。

愛とは差別することだ。愛を抱いたその人は、自分の愛するその人を他の人達から区別し、他からその人を差別する。そういう意味では、愛とはこれまで意味のないと思えていたことに対して、特別な意味を見出すという事だ。


これは断言してもいいが、現代人は他者との物理的な距離が縮まれば縮まるほど、他者との心の距離を深く感じるようになっている。

現代では連絡手段の発達が著しい。今ではSNSを開けば秒で誰かと会話をすることが出来るし、優れた交通手段を使えば遠く離れた誰かにも一日、二日で会いに行くことが出来る。

それにも関わらず、現代人は孤独を感じている。これは奇妙だ。

孤独の問題が生じたのは、まさに近現代からである。十九世紀末から二十世紀初頭のドイツ・フランスの詩人達は、必ず一度は自身の孤独を題材に詩を書いている。二十世紀中盤においては、孤独から愛に満たされることを求めた人妻の破滅を描いたオペラをロシアの作曲家ショスタコーヴィチが作曲している。そして二十世紀も世紀末となれば、孤独や疎外感を歌ったRadioheadNine Inch Nailsのようなイギリス・アメリカのロックバンドが大ヒットするようになる。

奇妙だ。科学文明が発達し、人と人との距離が縮まるほど、僕達は孤独に苦しめられている。奇妙だ。僕達は秒で他者と会話ができるのに、心はいつも他人から遠く離れている。奇妙だ。

しかし何故人が孤独に苦しみを感じるのかとなれば、それは人が孤独に不安や寂しさを見出しているからである。

してみると、こういう事が出来る。僕達は他人との物理的な距離が縮まれば縮まるほど、より一層不安や寂しさを感じているのではないだろうか。


モンテーニュは「エセー」の十六章の中で散々「死」についてを考えている。

(パスカルの言葉を借りるならば、『モンテーニュはその著書全体を通じて、だらしなくふんわりと死ぬことばかり考えている』のだが)

その中で、彼は『考え方によっては、死を苦痛と恐怖の対象でなくすことが出来るのではないか』と、これに近いような考えを書き記している。つまり、解釈の仕方次第で、僕達はもっと違う態度で死に取り組むことが出来るのではないか。これがモンテーニュの疑問である。

実際、彼の書いている通り『死は思考によってしか感じられない』のだ。僕達は死をはっきりと体験することが出来ない。死に近づけば近づくほど、僕達の意識は失われていく。そして、意識の奪われた状態の中、僕達は結局「死」が何であるのかを知る事が出来ないまま、死を迎えることとなる。僕達の「死」とは他人事なのだ。死とは、僕達自身が体験する出来事なのではなく、僕達の死を看取る他人が体験する事なのだ。

しかし、死は常に僕達のそばにある、それは避けようのない事実だ。

よく『人は死に向かって歩んでいる』という言葉を目に(または耳に)する。しかし、僕達は皆死に向かって歩んでいるのではない。そして、死が僕達の方に向かって歩んでいるのでもない。そう、僕が思うに、死とは元々僕達のすぐそばにいるのだ。恐らくは僕達の隣か、または背後に、今この瞬間にも「死」は存在している。そしてある日突然、すぐそばにいる「死」が僕達の肩を叩くのである。

そんな僕達の真隣にいる「死」を、しかし僕達は間接的に感じることしか出来ない。

真っ暗闇にただ独りでいる時、まるでこの世界には自分一人しか存在せず、もしくは自分だけが暗闇に閉じこめられており、自分だけがこの世界から取り残されたような感覚に陥る。そしてこの感覚は、僕達に死の恐怖を呼び起こす。

または痛み。鈍く、しかしはっきりと神経を刺激する痛みは、僕達により大きな苦痛、つまり死ぬ瞬間への恐怖を掻き立てる。

もしくは自分が歳を重ねたことを感じる時。美しかった白い肌が黄ばみ、黒檀のように深い黒髪に白髪が増え、口元にはっきりとした皺が刻まれ、自分の容姿が日に日に醜くなるのを感じる時、人はこれ以上の醜態を晒すことを、つまりよぼよぼに老いて死んでいくことを恐れる。

そして最後に、自分の現在と過去、そして将来を考えてみる時。自分がずっとこのままであり、何者にもなれずに死んでいくのを考え、また無意味にこの人生を浪費し続けていくのを想像すると、途端に死ぬのが怖くなる。

このように考えると、まさにラ・ロシュフコーの言う通り『太陽も死もじっと見つめることはできない』のかもしれない。大体の場合、人は死に近づくにつれて、つまり年老いて、死が実際的なものに思えるようになるにつれて、その現実から目を背け、「自分はまだ死なない」と言って自分を慰めるものだ。

ところで、彼ら(モンテーニュパスカルラ・ロシュフコーら)と同じフランス出身の哲学者ジル・ドゥルーズの死因は自殺である。彼は自身の著作へのインタビューの中で、場合によっては『自殺は生に満ち溢れた芸術になりおおせている』こともあるのだと話していた。しかし、彼が自己実現の一環として自殺したのかどうか、その真偽は不明である。

死。確かに死の恐怖は強すぎるが、しかし死は同時に僕達にとって一つの強みになることもありうる。それこそまさに捉え方次第なのだ。

人は皆生まれながらにして死ぬべき運命にある、それを避けることは出来ない。では、もし明日死ぬとすれば、果たしてどうだろう?たとえもし明日死ぬとしても、今から心残りのあることを散々しようと思ってもし尽くすことなど出来ないだろう。僕達にできることと言えば、ただ黙って間近に迫った死を受け入れることだけだ。

しかし、もし明日死ぬとしても、自分が最優先すべきことをなして死ぬならば、そう出ない時よりも満足感があり、「やるだけのことはやった」という気持ちに満たされ、後悔も少なく済むに違いない。

死を生に対立するものとして捉えるのではなく、生の一部として捉えるということ。死の恐怖は深いが、それ以上に生の喜びは深いということ。そして、死こそが僕達が生きる上での最大の友だということ。死を恐れるのではなくて、むしろ死を求愛するのだということ。

僕達は自分の人生をひとつの芸術作品としてとらえるべきだ。死を美しい終幕としてとらえるということ、そしてそのために、その日その日の最善を生きるということ。生存の美学に生きるということ。

この時、死はもはやかつての僕達に対する態度を変えるであろう。