公開日記

その名の通りです

19/05/01 : 過剰のペシミズムと知の相克

過剰のペシミズム。優れた文明を生み出した古代ギリシア人達には、やはりそれだけの優れた感性と、高度な知性が備わっていた。しかし、それ故に彼らは、極めて強く悲しみや苦しみを感じやすかったのではないだろうか?

過剰な感受性は悲劇を求め始める。自身の感受したものに苦しむものは、それを癒すために、この苦しみを昇華することを求める。だからのそ、そのような人は悲しげなものに惹かれる。病んだもの、絶望的なもの、苦しげなもの、つまり悲観的なものの中で、自らの苦しみを癒そう、というわけだ。

さて、ニーチェは処女作「悲劇の誕生」の中で興味深いことを指摘している。それは次のような内容だ。

古代ギリシアでは後の西洋文明における全ての方が萌芽が既に存在していたと言える。哲学、自然科学、芸術。これら全てが古代ギリシアではその栄華を極め、だからこそ後のヨーロッパ社会では、度々古代ギリシアが彼らの文明の理想像として語られてきた。

しかし、このような優れた文明、高度な次元の豊かさをもった古代ギリシアの社会では、他ならぬ悲劇が好まれたことでも有名である。アイスキュロスエウリピデスソフォクレス。彼らのような優れた悲劇作家は現代人の心をも揺さぶる程の悲劇を残している。

ここでニーチェは疑問を浮かべる。何故、何故あれほどまでに優れた文化を持ち、明朗で、生気に満ち溢れていたはずの古代ギリシア社会が、他ならぬ悲劇を、悲観的な作品を、不幸の象徴を求めたのだろうか、と。

それに対して、ニーチェはやがて次のような結論にたどり着く。むしろ、彼らが豊かだったからこそ、力に満ち溢れていたからこそ、「過剰」だったからこそ、古代ギリシア人は悲劇を、悲観的なものを、不幸の象徴を求めたのではないだろうか。

文明の発展と繁栄は、まさにその文明の担い手の喜びと、快楽と、活気の現れだ。栄華を誇った古代ギリシアの文明は、それほどに生き生きとしていたからこそ、同時に恐ろしく悲観的で、繊細な、傷つきやすい心を持っていた。

だからこそ、彼は自らの傷跡を癒すために悲劇を求める。悲しげなもの、病んだもの、苦しそうなもののうちに、彼らは自分の悲しみ、不幸、苦しみを見出す。そしてそれに共鳴し、それを共に味わうことで、作品の中で自らの悲観的なものを昇華しようとする。

悲観的なものを、過剰な感受性が受けた傷を、そしてそれによって生まれた過剰のペシミズムを、悲劇の中で癒した古代ギリシア人達は、こうして再び自身の文明の発展に尽くすのである。

これこそがギリシア人が悲劇を求めた理由だと、そうニーチェは指摘する。ニーチェ古代ギリシアの豊かさの中に繊細な感受性と、それを癒すための悲劇を見いだしたのである。


理性というものは感覚の影響なしに成り立つことが出来ない。すなわち、優れた理性の持ち主というものは、優れた感覚の持ち主でもあるという事だ。

時に、次に書くのは、以前「レビ記」を通読していた際の出来事だ。

旧約聖書に収められた書物「レビ記」は、伝説ではモーセが書いたとされている所謂「モーセ五書」の中でも特異な立ち位置にある。そこには延々とユダヤ教の儀式の内容が書き綴られており、そしてその記述内容があまりにもややこしかったので、初めてそれを通読していた際に、僕は自分がどこまでそれを読んだのかを、途中で忘れてしまったのだ。

その時僕は、この前読んだ時に印象的だと思った二つの箇所をふと思い出した(最も「レビ記」は全体的にそのような記述で満ち溢れており、だからこそややこしいのだが)。

そこでアロンは祭壇に近づき、自分のために罪祭(ざいさい)の子牛をほふった。そしてアロンの子達は、その血を彼のもとに携えてきたので、彼は指をその血に浸し、それを祭壇の角につけ、残りの血を祭壇のもとに注ぎ、(…)

彼はまた燔祭(はんさい)の獣をほふり、アロンの子達がその血を彼に渡したので、これを祭壇の周囲に注ぎかけた

僕は該当する箇所を探し始めた。すると、それが同書の九章であることに気がついた。そして、該当する上の二つの文章を読んだ途端に、「レビ記」がどんな内容だったのか、そして自分が昨日どんな風に、どのくらいのペースで読んでいたのかを思い出した。それと同時に僕は、これから自分が同書の第十章を読み進めなければならないことを知ったのだった。

この「レビ記」の体験は、まるでプルーストが失われた時を求め始めた時のような出来事だった。つまり、感覚的なもの、直接的なものが、意識の裏側にあるものを、知性の宝庫にある記憶を呼び起こす、という事だ。

人間の感覚と理性はお互いに相反するものではなくて、むしろ密接に交わりあっている。高度な感覚、高度な感受性、より豊かな感情の持ち主は、同時により豊かな理性の持ち主でもあり、そのような人物にこそ、優れた知性は与えられるのであろう。


ニーチェを読むと心が安らぐ。同様のことはシェイクスピアやシラー、ドストエフスキーなどにも言える。僕は彼らの本を読んでいると一種の「安らぎ」を感じる。

感情過多な人の文章。彼らの文体からはそんな印象を受ける。僕が理想とする文体は、より静かで、鋭く、明晰な文体、パスカルトルストイのような文体、簡潔でありながらも詩的な深さを感じる文体だが、僕自身は元々間違いなくその正反対の存在であろう。つまり僕の感情はあまりにも過剰なのである。

トーマス・マンは「ゲーテトルストイ」の中でドストエフスキーとシラーを「自然」とし、ゲーテトルストイを「精神」としたが、彼自身は間違いなく「自然」の人、つまり感情の人であった。

その一方で、トーマス・マンの作家としての理想像は、恐らくゲーテトルストイ、つまり「精神」の、理性の人であったのだろう。だからこそ彼はその「中間」であることを求めたのである。僕は、そんなマンに対してやはり共感せざるを得ない。


ポール・ヴァレリーの言葉。『精神の経済学では、節約は破産を招き、浪費者は太る


人は他者に触発されて何かの行動を取る。社会に出れば至る所で「概念」の押し売りがされている。そして、人は常に何らかの「概念」の下に自身の行動を制約させるものだ。たとえば、一種の偏見をもった人がなんの疑いもなく差別的な行いをするのがそのいい例だ。

漫画やアニメ、ドラマ、映画、広告、テレビ、ラジオ、新聞、インターネット、など。それら手段によって手に入れた情報の中には必ず一種の「概念」が潜んでいる。そして、「概念」はその人の行動を制約し、その人に欲望を植え付ける。つまり、人が普段から見聞しているものによって、その人の欲望するものとは変わってくるのである。

そして、現代社会は常に同じ概念を大多数に押し付けている。だからこそ多くの人の欲望が虚栄的なものによって制約され、だからこそ多くの人が同じような不幸を抱えているのである。

欲望の方向転換。たとえば僕は、自分がとても欲深い人間だということを感じている。そう、僕は強欲な人間だ。だから、僕の「新しい本を読みたい」とか「素敵な音楽を聴きたい」という欲望は、他の人が「綺麗な女を抱きたい」とか「美味しいご飯を食べたい」と感じる場合の欲望と、何ら大差がない。ただ、欲望の方向性が違うだけである。

人間とは欲望によって動く機械のようなものだ。よって、人間の欲望を否定した時、そもそも人間社会それ自体が停滞し始める。人間の欲望を悪だとするのは誤りであり、もし人間の欲望を完全否定したならば、その時、社会は益々退廃していくだろう。

そうでなくて、人間の欲望の方向転換をはかるということ。人間の欲望のあり方を変えることが出来れば、人間の心のあり方を変え、そして人間の心のあり方を変えることが出来れば、人間社会の問題にも変革を与えることが出来る。そうは思えないだろうか。そして、そこにこそ可能性を感じることは出来ないだろうか。