公開日記

その名の通りです

19/05/17 : 病への意志、精神の可能性、生のペシミズム、など

僕達の内側には「病への意志」とでも呼ぶべきものが存在している。

人は皆弱さを抱えている、そして自分の弱さと共鳴するもの、自分の弱さから共感を覚えるものに、人はとりわけ愛着を抱く。そう、人には皆弱さへの趣味があるのである。

そして、それを突き詰めていけば、人がなぜ時に病的なもの、グロテスクなもの、非生命的なもの、退廃的な、儚げな、悲しげな、そのような影のあるものに惹かれるのかがわかるはずだ。これこそが「病への意志」の表れである。


人間にとって本質的なものはみな非生命的だ。

人間の本性は利己的であるが、それにも関わらず、人は皆利他的である生き方に惹かれる。自分のためではなく、誰かのために生きた時に、人は自分の人生に満足を感じる。

性欲、睡眠欲、食欲。どれも決して悪ではないが、それらを欲しいがままに貪る人間を、人は「怠惰な人」だと形容する。

そして最後に、人は完全に健康体で、全く楽しそうに生きている人よりも、何らかの不幸を患いながらも、必死で毎日を生きている人に惹かれる。


病気が人を特別にすることはない、それは決してありえない。そうでなくて、病気を克服しようとする意志が、その人を特別にするのである。

つまり、病気をただの「病気」として扱うのではなく、自身の正気をより豊かにするための「道具」として扱い、それと争おうとすること。病気と相克すること。それが大切なのだ。


人間のうちには「病への意志」と同時に「生への意志」とでも呼ぶべきものがある。それはまさに言葉通りの意味で、より生きたい、そう願うような、生への楽観的な意志だ。

人間は生きていく上で悲劇を必要とする。自分の内側にある弱さの苦しみ、悲しみ、嘆きを解消するために、その嘆きを病的なもの、悲しげなもの、グロテスクなものへと自己投影する。そうすることで、自分の内にある弱さを外部にあるものと共鳴させ、それを昇華しようとするのである。

よって、こう言う事もできるはずだ。人はより強い「生への意志」を手に入れるために、むしろ病的なものへと接近することもあるのではないか。そして、この非生命的なものの追求こそが、より豊かな生命的な喜びへと繋がるのではないだろうか。


肉体と精神、これらは本来相反するものではなく、相互的な関係の下にあるもの、互いに必要とし合い、また繋がりあっているものだ。肉体と精神の調和の先にこそ、より豊かな知の閃きが存在する。

その一方で、人間の文明や文化を今日まで発展させてきたものは何かとなれば、それは生命的な肉体ではなく、むしろ非生命的な精神である。

だからこそ、精神の可能性を追求するべきだ。


人間は多かれ少なかれ悲観的(ペシミスティック)な生き物だ。

時には、ある人の人生が嘆きによって始まるということもある。

その人の個性とはその人の経験した苦しみに由来するものであることが多い。苦しみは最も自分自身を意識させるものだ。そして、その人が今日までに経験した苦しみの全てが、今後のその人の人生の進路に大いなる影響を与える。

だからこそ、時には「嘆き」が誰かの本当の人生の始まりになるのである。

苦しみによって自らを形成し、苦しみによって自らの傷を癒す。この「生のペシミズム」とでも呼ぶべき現象が、僕達の人生の根底には存在している。

そして、これらのことを踏まえた上で、どう「生への意志」をより豊かなものにすることが出来るか、それが問題となってくる。


人生の意味を問い始めた時、人は人生に対して病む。しかしその一方で、人生の意味を問わない人間は、そのまま虚しさに苦しめられることになる。

人は自分が無意味な、または無価値な存在であるという認識に耐えられない。そのような人達の多くは、価値を見いだけない自分自身のために、怠惰に、あるいは怠惰に、生きた心地のないまま毎日を生きることになる。

その一方で、生まれた時から僕達の人生に意味がある訳では無い。そうでなくて、僕達はこれから人生の意味を見出すのである。そして無意味なものを意味のあるものに変える過程こそが、まさに人生というものに他ならない。


間違いを犯さないよう慎重になれば、それだけ成功を為すことも少なくなる。

間違いを少なくして成功を増やすことは、無論可能である。しかしそのためには、間違いによって傷つくことに耐えるだけの覚悟がなければならない。


自分の内面を発展させるというのは、ある意味では残酷な行為だ。

それは哲学者たちの例を見ればわかる。哲学者たちが自らの哲学を発展させるとき、彼らは先ず他人の思想を土台にして自らの思想を発展させる。次に、その土台となった思想と自身のものを区別するために、それを批判し、自らの色に染めあげる。

言うなればこれは、他の哲学者を母胎として孕ませて、そこから生まれた子供をその母親に似ないよう徹底的に教育し、母親の存在すら時にはなかったことにする、それと同じだ。だからこそ、内面の発展というものにはある種の残酷さがある。

そう、僕達には元々自分がない。そうでなくて、僕達とはむしろ「他者」の集合体なのだ。内面を見つめるという行為は「自分が何によって、誰によって構成されているか」を知ろうと探索することに他ならない。

そして、自分を構成している多くの「他者」を踏み台にして、僕達は自分の「自我」を形成していくのである。

それを踏まえた上で言うなれば、僕には自分というものがない。僕は大いなる虚無だ。他者の集合体であり、何者にもなれない。そしてそれを知っているからこそ、僕は何者かに、「自分自身」に変身することが出来る。


何者かであるということは、確固とした「存在」を手に入れることだ。