公開日記

その名の通りです

19/05/19 : アレグロ

子供っぽくて、いつまでも大人になることが出来ない。僕は、または僕達は、お互いの幼年時代に取り残された孤児だ。いつまでもお互いの幼年時代の影から逃れることが出来ず、幼年時代から抜け出すことが出来ない。これから死ぬまで、僕達はそれぞれの幼年時代に苦しめられることになる。

それならいっそ、子供であることを受け入れるしかない。子供としてどう戦うか、それが僕達の生き方となり、生き様となる。


マリア・カラスが舞台に立つと、どんなオペラも途端に深刻さを備え始める。彼女のあの、張りつめたように美しい声音の悲壮さは、一体どこからやって来ているのだろうか。


無条件で誰かに自分の気持ちを理解してもらいたいと願うのは、言ってしまえばひとつの暴力だ。

時に人は、相手に当然のようにこちらの痛みを理解してもらいたいと願う。それならこちらは相手に何をしてきたのか?何もしないでただ相手に自分の感情を押し付けるのだろうか?

それはあまりにも傲慢ではないだろうか。むしろその行為こそが相手の気持ちを思いやれていなくて、相手のことを蔑ろにしていることの表れだ。自分の不幸にばかり目が向かう人は、他人の悲しみに目を向けることが出来ない。

そして、このような人達、自分の不幸ばかりを嘆いている人達は、自分の苦しみや痛みばかりを大事に扱うあまり、見えないところでさんざん他人を苦しめているということを、いつだって見落としているのである。


ドビュッシー、半永久的に革新的な音色と、それと共に普遍的な感動を呼び起こす音楽を作曲した数少ない人。聴くたびに新しい発見と新しい可能性の提示をするにもかかわらず、それでいて麗しさに充ちた音楽を書き残した人。ドビュッシー

単純な旋律ほど、複雑な、または独創的な和声をつけやすい。無調的な音の響きを背景にしながら、民謡のように美しい旋律を鳴らしても、それは決して難解には響かないのである。さらに旋律の作りも独自の方法論に基づけば、そこにはこれまでになく斬新で、独創的であると、そして同時に、どこまでも美しい響きに充ちた音楽が存在することとなる。まさにドビュッシーの示した例とおなじ結果が出せるのだ。

とは言ったものの、僕にはそのための技量がまだ存在しないのだが。


ファシズムは集団の無思慮や錯乱から来るのではない、むしろ集団の抱く明確な欲望から来るのである。

対外的な弱さに晒された時、人は自分の強さを外部に対して誇示したいという自尊心の発作に襲われる。しかし、もし他人に自分の強さを誇示できたなら、そもそも弱さに苦しむことをしない。弱いからこそ、外部に対して強く振る舞うことが出来ない。

そして自分の弱さに苦しむ人達は、そんな自分の弱さを代弁し、外部に対して自分の代わりに強さを誇示してくれる人物、そして自分を引っ張ってくれる人物、自分が絶対服従し、また聞き従うべき支配者を求めるのである。

あらゆる独裁は支配される側の自発的な服従によって成り立つ。

この例を、僕達は歴史上の至る所から見ることが出来る。

古くからでいうなれば、旧約聖書の神だってそうなのだ。対外的に弱さを晒し、他の民に対して隷属的であったユダヤ人は、そんな自分たちを特別扱いして(強者として扱って)くれる神、そして自分たちをこの苦しみの中から救い出してくれる絶対的な支配者である神を「妄想」した。

ヒトラーの場合も同様である。ヒトラーが民衆の指示を集めたのは例外的な出来事ではなく、むしろ必然だったのだ。そして、現代における安倍政権やドナルド・トランプの場合も同じである。

そもそも、何らかの形で生活に苦しめられている人間は、自分自身の苦しみで精一杯で、自分と無関係な存在の苦しみに気を使えるような状態に置かれていない場合が多い。むしろ彼らは、進んで自分よりも「下」にいる人間を見て、「自分はマシだ」と考えようとする。

そんな中で、自分たちの苦しみをいたわり、特別扱いしてくれて、自分たちを引っ張ってくれる存在、自分よりも「下」な存在を見出して安心出来るようにしてくれる存在に好意を抱くのは、彼らにとって必然なのである。

僕達がしなければならないのは、先ず苦しんでいる人の弱さを労る事であり、彼らの行動を非難することではない。むしろそうしたら、彼らは益々自分の苦しみのやり場を見失い、不特定多数の他者に対して攻撃的な態度をとるようになるからだ。

(こんな事は高校レベルの世界史を勉強すれば誰でもわかるはずだ。そして、この事が分かっていたならば、安倍晋三ドナルド・トランプ等の、政治界における「ダークホース」が必然的に現代において人気が出ることくらい、容易に想像がつくはずである。つまり僕が言いたいのは、日本のリベラル気取り能無し共は一体何をしていたのか、ということだ)


ラフェエル・クーベリックの指揮したマーラーの第二番と第三番を聴くたびに、自分が今地上で最も美しい音楽を聴いているような幸福感に包まれる。この喜びは他の音楽では中々味わえない。


パスカル、またはニーチェ流の考え方。真理を女性だと考えるということ。

もし真理が女性であるならば、僕達は彼女を頭から押し付けるような真似をしてはならない。そんな事をしたら、真理は益々心を閉ざして、僕たちにその顔を向けてくれないだろう。

そうでなくて、僕達は真理に跪いて求愛しなければならない。僕達が演じるべきなのは優男風の紳士であって、書斎にこもりきりな哲学者ではない。真理を愛する人間は、皆彼女のために命も捧げられるほど、彼女にぞっこんでなければならない。常に彼女の下に出て、彼女の心のささいな動きに気を使わなければ、彼女を理解することも出来なければ、また彼女から愛されることもない。

(ところで、パスカルにしてもニーチェにしても、真理を女性だと捉えたのにも関わらず、双方ともに生涯特定の女性と恋愛関係を結べたことがないと噂されているのは、なんとも皮肉な話である)


あまり自分が優しい人間だとは思いたくない。自分を善良な人間だと信じ込んだ瞬間に、僕は自分の内にある何かを殺してしまうような気がしてならない。

最も、その「何か」がなんであるのか、それはよくわからないのだが。