公開日記

その名の通りです

19/05/20 : メヌエット

例外を除けば、小説にはおおよそ三つの種類の物語の進み方がある。

一つは語り手がそのまま主人公である場合でこの時、物語は主人公の主観と彼の(「僕は…した」といったような)「主語」の働きによって進行する。語り手であると同時に主役である彼の動作が、そのまま物語に影響し、物語の筋書きに介入していくのである。

二つは(「私は…という人物について書こうと思う」といったふうに)語り手が第三者として物語に登場する主役や、その他の人物たちを「説明」する場合である。この時、語り手には(「私」という)「主語」が存在していながら、同時に物語の「主役」であることは決してない。彼は第三者として物語に介入し、それを進行させていく。

三つは語り手の「主語」がそもそも存在していない場合である。そこに出てくるのは(「彼は…した」や「彼女は…した」というような)「三人称」か、または(「読者よ、あなたはどう思うか」といったような)「二人称」だけである。この場合、語り手は一見すると存在していないように見えるが、しかし語り手は恐らく物語の中でもっとも読み手が接した人物となる。作品は語り手の主観によってのみ語られているのであり、僕達は彼の主観を通して、彼と同じ目線で物語の進行へと介入していくのである。

さて、この三つの例の中で、どの場合についても必ず言えることが一つある。それは、どの場合にしても必ず語り手がなんらかの形で作品に「介入」しているということだ。

これは僕達の人生においても同じことが言える。僕達の人生は、常に何らかの形で「事件」に「介入」しているのである。そう、僕達はみな、言ってしまえば介入者なのだ。

たとえば僕達は、「事件」の介入者であっても、決して事件それ自体ではない。

何らかの出来事とは、常に一人の人間が外部との接触をすることによって起こる。よって、「事件」とは常に複数の人間が集合し、それぞれが組み合わさることによって発生する。つまり、「事件」とは「誰か」の主観では決して語り得るものではなく、それぞれの主観がぶつかり合うことによって生まれる、一種の現象なのだ。僕達が理解できるのは、その場で起きた現象の事実だけであり、その事件それ自体の真相というものは、誰にも理解することが出来ない。

僕達は「事件」、もとい出来事への介入者であって、決して出来事それ自体ではない。逆に言うならば、僕達は皆、何らかの出来事へと介入することで生きていく。

僕達は皆「介入者」だ。人の内部は外部からの影響によって形成される。そして、もし外部からの影響に受動的であり続けているならば、その人は決して「自分自身」を、言ってしまえば自我を手に入れることが出来ない。現実のなんらかの「出来事」に「介入」していくことによって、人は自分自身を手に入れる。

もし外部によって人の内部が形成されるのならば、今度は自分の内部を知って、それに基づき、人は自分の内部から外部へと働きかける必要がある。つまり介入するということだ。


人は皆、なにか大きな不条理に直面した時、「なんでこんなことが起こるのか」と思い、自分のこれまでの人生を内省し始める。もし人生が無意味な苦しみでしかないならば、誰も生きるということに耐えることが出来ない。それが嫌ならば、人は人生に対して新しい解釈を与え、自分の人生と、そして人生の中で出会った苦しみ、または不条理に「意味」を与えなければならない。

これは小説の場合と同じだ。つまり、一つの出来事を描き、それを分析して、意味を与えるということ。出来事の中に介入し、出来事に解釈を与えるということ。人は皆、自分の主観を抜きにしては何事も語ることが出来ない。多かれ少なかれ、作家は皆上記のようなことをしているのである。

出来事に介入しなければ、介入者でなけねばならない。


フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」の何が好きかとなれば、他ならないその話の筋書きであろう。これ程単純な理由で好きになった小説は他にないかもしれない。

主人公のギャツビーは、自分の失われた恋人の愛情を取り戻すために、違法な手段に手を染めて大金を得る。豪華絢爛な豪邸を建て、そこで幾夜もパーティを開く。自分の経歴を詐称し、自分の出生まで詐称する。全ては好きな人に振り向いて欲しいから、なんで一途な理由だろう。

しかし、あのような悲劇的な結末は迎えたくはない。どうせ死ぬなら、僕はハッピーエンドを迎えて死にたいものだ。

キェルケゴールにしてもフィッツジェラルドにしても、その創作の裏には常に特定の女性の影があった。彼らの創作は一人の女性によって始まり、一人の女性のために終わった。傍から見れば、それは大変ロマンチックな話であるが、本人たちからすれば、相当に苦しい思いをしたに違いない。そう考えると、彼らが少し可哀想になってくる。


物事はいつだって僕達の思った通りには進まないし、そしてかつてあった物事も、決して僕達が思っている通りだとは限らない。何故なら、僕達はその物事への介入者でしかなく、その物事それ自体ではないからだ。

しかし僕達は、皆物事が自分の思い通りに進むことを一度は想像する。そうして僕達は失敗するのである、物事は本質的に僕達の思いどおりに進まないから。


僕はパスカルを読むのではなく、愛している。


人と人の相互理解の難しさを、僕は散々考えてきた。そして実際、僕の考え来たことの一部はその通りだと、僕は今でも考えている。

人と人は決して、完全に理解し合えることが出来ない。人と人の間にはそれぞれ固有の意識の壁があり、それぞれの無意識と主観の造りは違うため、誰かと誰かの理解が完全に一致することは決してない。

僕はそれを悲観するつもりはない。むしろそれを意識し合うことで、人はより深い誰かへの理解を手に入れることが出来る。そう考えてきた。これも、やはり正しいように思える。

問題は次の点だ。僕はそれを踏まえた上で、他人から理解されることをあえて拒んできた節がある。どうせ話しても理解されないから、とでも言えばいいのだろうか。こういってよければ、僕は深い相互理解の獲得についてを考えながら、それをいつだって諦めていたのである。

生きていく上で、人は誰しも必ず決して理解し合えない誰かと出会うことになる。それは仕方の無いことだ。しかし、もし決して理解し合えない人間に出会うのならば、全く理解し合える誰かと出会うことも出来る、そうは考えられないだろうか。

僕は議論を好まない。議論というものは、二人の人間が同じ土台を共有させた上でなければ決して成り立たない。そうでなければ、それは「私の知っているりんごは赤色だ」と「しかし私の知っているりんごは青色だ」が口論し合うように、全く無意味なものとなる。

お互いに違う無意識と、違う信条、そして違う人生の問題を抱えているからこそ、完全に違ったもの同士が議論をしても、それは意見のぶつけ合いに過ぎず、更にはお互いに自分の意見に愛着を抱いているから、結果としてただの喧嘩となる。それでは殴り合いと何の変わりもない。

だからといって、全ての人との議論が無意味な訳では無い。逆に、人との関わりの中で気付かされることだって沢山ある。それは議論にしても同じだ。議論中の人間同士が、互いの立場を尊重し、そして互いの意見を理解しようと努めた場合に行われる議論は、時に一冊の書物を読むことよりも遥かに示唆に富んだものである場合がある。

僕は往々にして神経質な所がある(とはいったものの、自身の性格の全体像を見るならば、むしろ僕はかなり傲慢な方の人間だと思う)。だから、人と口論をすると、疲れる。時には二、三日ほど、いや一週間以上、その時のことを引きずることがある。一度怒ると、怒りに我を忘れて、普段の生活の作業に手がつかなくなることも度々ある。

怒るということは決して悪ではない、ただ、無意味なことに怒っていては時間を無駄に費やすだけである。怒る場合を選ばなければならない。

しかし同時に、人と人との交わりとは、それによって傷つくということでもある。他者との交わりはこちらの心に傷を残すということに他ならない。しかし、それを上回るほどに、他者との交わりで得られる喜びは多い。もしこれから人と接していくならば、僕はある程度傷つく覚悟を持たなければならない。

最近、自分の中で変わり始めているのは、まさにこの点である。僕は結局、人の不条理な点を大きく見すぎて、それを避けるように生きてきた。それはたしかに利口な行いかもしれない。しかし、狡猾さは人から純粋さを奪い、そして失われた純粋さは、やがてその人の情熱を根絶やしにする。

僕は元々感情的な人間だった。いや、直情的、と言った方がいいかもしれない。僕は自分の感情が強すぎることを知っていた、だから、僕は自分の感情を避けてきた。

しかし、人間は本来、理性によって生きるのではなく感情によって生きるものだ。論理的には正しくとも、感情の上では納得のいかないものと生きていくなら、自ずとその人は虚しさと寂しさを、生きていく上で覚えることとなる。

僕が取り戻すべきなのは、他ならない感情の純粋な動きなのではないだろうか。自分のうちで押し殺されていた直情的なものを復活させること、理性を失うほどに何かに狂うこと、それを思い出さなければならないのかもしれない。

そして、他者に対して自身の感情を閉ざすのではなく、むしろ自分の本当の気持ちを向けることが必要である。わざと誤解を招くのではなく、誰かと心から向き合わなければならない。これもまた、今後の課題である。


結局僕は、誰か自分を認めて欲しい、理解してもらいたいと思いながら、誰にも認められなかったから、それを拗ねていただけなのかもしれない。無論、それは考えすぎなのだろうが。


フランツ・リストのピアノ独奏曲「オーベルマンの谷」は、僕の人生の一つのテーマソングだ。無論、僕自身が勝手にそう考えているだけなのだが。憂鬱と内省、孤独と死への欲望に苛まれた末にみえる清浄な美しき喜び。至福の天に昇るような響き。あまりにも感涙的な絶頂のひと時を与えてくれる音楽。

「三つのペトラルカのソネット」も良い。淡く感傷的な調べの内に、何か青々とした若さが内在している。瑞々しい音色が可憐に踊り、青と白の境目を漂うように旋律は歌い続ける。失われたものの面影が目の前に浮かび始めるような、そんな錯覚に聴いている際には襲われる。

「心を高めよ」の中には、まるでこれまでの全ての苦しみが報われるような美しさが内在している。音楽が進行する最中、僕は思わず顔を上の方へと向けることとなる。自分は今、宗教画における天上の救いを受ける場面に立たされている。雨を降らす暗雲が次第にしりぞけられ、やがて大いなる光が天から差し込んでくる。そしてそこには一つの救いが、罪からの救いが、紙による救いが存在する。


真実はいつだって道化か狂人の口からしか語られない。


ポーランドのバンドRiversideのConceiving Youという曲が大好きだ。聞く度に初々しい気持ちになる。少し恥ずかしいような気さえ起きてくる。ああいった、聴き手を美しい内省と感傷へと引き込む曲を、いつかは書いてみたい。


今の自分に何が足りないのかを、絶えず考えている。確かに、足りないものはいくつか見つかった。しかし、それでもまだ充分ではないらしい。より深い探求が必要のようだ。