公開日記

その名の通りです

19/05/22 : 静かな革命

僕もそろそろ腹を割って話そうと思う。


二〇二〇年に、日本では東京オリンピックが開催されることが決定されている。そしてかねてから、至る所で「それが失敗するのではないか」という憶測が囁かれている。

それはその通りだ。僕は東京オリンピックは失敗すると思っている。いや、もっと言うなれば、僕は東京オリンピックが失敗して欲しい。それも壮大に失敗して欲しいのである。


現代の先進国社会はどこも大きな矛盾を体験している。そして、それは日本にも言えることだ。

かつてマイノリティ呼ばれていたものがマジョリティと成りつつある。しかし同時に、未だに社会には既存のマジョリティの「モデル」が、存在しない「普通」や「一般」が存在している。そして多くの人はそれに合わせようとするが、それが実際の自分と違うのを感じて、自己存在の不安定さ、そして生きることへの不安を感じ、また何者にもなれない自分自身を痛感する。

そう、現代の社会は過度期にあるのだ。

更にはこの社会の抱える矛盾、または混乱を、僕達は他の側面からも見ることが出来る。

たとえば僕が上京して以来、少なくとも十数人の麻薬経験者に出会っている。いや、恐らくは僕自身が知らないだけで、他にももっといるだろう。大抵は大麻マリファナだ。

他でもそうだ。性的な面でも、または道徳的な面でも、様々な矛盾と混乱が、現代の日本の社会には存在している。

既存の倫理観、秩序の崩壊。そしてそのために不安に戸惑い、また恐れおののく人々。

しかし、それは社会の表面には殆ど出ない。出ても直ぐに消されてしまう。そうしなければ、誰も社会で生きていくことが出来ないからだ。そうでもしないと社会が保たないのである。


しかし今度は話が違う。僕が思うに、この社会の矛盾と混乱は、二〇二〇年の東京オリンピックによって決定的に社会の表側に出現することとなる。「おもてなし」を合言葉にした、行儀よく、礼儀正しい日本人、優しく善良な日本人像は、この東京オリンピックの失敗によって尽く打ち壊される。海外のメディアからは度重なるバッシングを受け、日本人は現在の自分たちの文化レベルの低さ、低俗さに気がつくこととなる。

この混乱に乗ずるしかない。僕はかねてから「静かな革命」とでも呼ぶべきものに憧れていた。そして、この静かな革命を起こすなら、それはオリンピックの失敗に乗じるその時以外のいつであろうか。

恐らく僕と同じでこれを狙っている人間は他にもいる。芸術でも、宗教でも、政治でもいるに違いない。今、世界は過度期にある。近いうちに日本の社会は混乱のどん底へと突き落とされる。

既に日本の現代社会は限界に来ている。既存の価値観が崩れ、そして多くの若者は既存の価値観に復讐したいと願っている。社会の押しつける一般的な人間像に合わせることの出来ない人間が、または「合わせられない」と感じている人間は沢山いるのだ。

時に、人間の醜さを強調するのは、ただそういった人間性に傷つけられた人だけである。そして傷つけられた者は自らを傷つけたものに対して復讐を願う。

そして多くの現代人は復讐を願っている。「普通」や一般的なものへの、既存の正しさや善良さへの復讐を。

誰も完全な自由には耐えられない。特に自己存在の不安定さを感じている人は、むしろ自分の自由を捨てて、他者に服従したいと願っているものだ。そう、誰もが自分の聞き従うべき存在を求めているのである。

この現代人の抱える「不安」は、おそらく現時点で既にその限界を迎えているとすらいっていいかもしれない。そして他にも沢山の矛盾と混乱が社会には内在している。労働問題、いじめの問題、経済格差の問題、マイノリティの問題、倫理的な問題、など。

そしてここで東京オリンピックが起こる。社会がこれまで必死に隠してきた矛盾と混乱が、一気に表出することとなる。そしてそれが海外の目に留まり、もはや日本人だけの問題でなくなる。

だから僕は東京オリンピックの失敗に大きな期待をかけているのである。生ぬるい失敗ではいけない。より大きな、恐ろしい混沌を招きこんで欲しい。人々の意識に大きな気づきを起こして欲しいのだ。そして多くの人は避けられないまでに意識することとなる、「この社会は間違っている」と。


心身上の病弱さが原因で、僕は大学に通うことを諦めた。しかし冷静に考えてみれば、現代の日本で大学を出ずに社会を生きようとするのは、まさに「危ない橋を渡る」ことにほかならない。

そう、いくら僕でも、ただで危ない橋を渡るわけがない。僕には昔から、それこそ高校生の頃から「近いうちにこの社会は崩壊する」という確信があった。だから正道から外れることをそう躊躇わなかった。むしろ正道から外れた方が好都合なのだと気づいたのである。


多かれ少なかれ、文化の発展のためには既存の文化を否定する必要がある。

それはルネサンス期の芸術にも言えることである。ルネサンス期には聖書を題材にした絵画が多く書かれたが、しかしその絵画のタッチには官能的なものが多く、描かれた人物の来ている服装や、彼らが今いる場所も、ユダヤ=キリスト的というよりかは、むしろ古代ギリシア的である。

そう、ルネサンス期の美術作品の多くは異教的、反キリスト的な要素によってキリスト教を讃えたのである。彼らの宗教作品はどれも反宗教的なのだ。


東京オリンピックは失敗する。そして、それによって社会の表面に大きな混乱が巻き起こる。既存の価値観は完膚なきまでに崩れ去り、新しい価値観の必要性が騒がれるようになる。そう、パラダイム・シフト(価値観の転換)だ。


僕は近い将来に東京オリンピックがあることを知っていた。そして同時に、近い将来にこの社会が多かれ少なかれ危機的な状況を迎えるのではないかと考えた。だから僕の活動の全ては、この東京オリンピックの開催される年、二〇二〇年に焦点を当てようと考えた。だから今日までどんな事があろうと希望を捨てずに耐えてきた。貧困にも、苦難にも、そして他者に対する罪悪感にも、その全てに耐えられた。なぜなら、近い将来に必ずこの社会は何らかの混乱を体験すると信じていたからだ。


ここで少し話を変えて、いくつかの違う話題についてを話そうと思う。無論、どれも話の結びへの伏線である。しかし、面倒だったら途中まで読み飛ばしてもらっても構わない。


一九六八年に、フランスでは「五月革命」と呼ばれる運動が起きた。

革命、とは言っても、それはあまり政治的な意味合いは持たない。当時の若者たちがお互いにしそうや哲学を共有し、大規模な運動を起こした、それが五月革命の実情である。彼らが求めたのは政治的なものよりかは、むしろ自由とか、性とか、そういった人間存在の根本に纏わるものの変革であった。

このように五月革命は、言ってしまえば「地味」な革命だった。少なくとも日本の世界史の教科書では、どれを開いてもそれは小さく、一応くらいの気持ちで書かれているだけで、ほかの同時期の、二十世紀に起こった社会革命、政治革命に比べれば、その重要度は低く取り扱われている。

しかし同時に、五月革命の諸世界への影響力は絶大なものであった。それこそキューバ革命や中国の文化大革命にも引けを取らない、いやそれ以上かもしれないのである。なぜならそれは、今でもなお影響を与え続けているからだ。


どんなジャンルでも、それが活発であるときには、必ずそこに何らかの「偶像」(つまりアイドル)が働いている。そして時には、作品それ自体が「偶像」として作用することもある。

ビートルズは僕達にいい例を示してくれた。ビートルズの偉大さは、彼らの音楽的にあるのではなく、むしろ彼らの行為、または行動にある。

中学の頃からロック音楽を愛聴している僕は、言ってしまえば根っからのロック小僧だが、しかしロックという音楽ジャンルは、言ってしまえば他の分野の音楽のコラージュに過ぎない。実際音楽としてのロックは、まさにソウルやR&B、ブルース、ジャズ、またはアメリカのオールディーズなど、それらを「寄せ集め」したことで発生した。

そしてロックの発展もまた、やはりロック以外の音楽を吸収することによって生まれた。クラシック音楽、現代音楽、民族音楽電子音楽、など。そして他に吸収するものが無くなったから、ロックという音楽ジャンルは、今や瀕死の状態にあるのである。

では何故ロックがここまで人気を博するようになったかとなれば、それはロックが音楽家の持つ偶像(アイドル)性を最大限に発揮した音楽だからに他ならない。

人は皆偶像を求める。ある人が自己存在を確固としたものとして確立するために、時にある人は、他の人の存在に依存するのである。

ロックがあれほどまでに流行した理由は、まさにそこにある。ナイーヴで、将来に不安を抱いている先進諸国の裕福な若者たちが、「自己投影」できる対象として、常にロックミュージシャンは存在していた。

ビートルズのメンバーの作曲能力はたしかに高いが、それも言ってしまえば素人の域を出ない。彼らの音楽を作品として真に高めていたのは、やはり彼らのプロデューサーや外部のミュージシャンの存在である。

もっと言ってしまえば、ロックで主に使われている楽器、ギターやベース、ドラムは、どれも他の西洋の楽器に比べて簡単だ。

しかし、だからこそロックは人気を博した。簡単な、どんなに音楽的な素養のない人間でも練習すればできる楽器で、自分と同じような若者が自分で曲を作り、自分で演奏している。この「俺でも出来るかもしれない」または「この人は俺と同じだ」という憧れ、そして共感がロック文化を高める要因の一つであった。

更に大きな革命をビートルズは起こす。そう、ビートルズクラシック音楽や現代音楽、最先端の前衛音楽や電子音楽に接近したのである。

無論、実際に無調で作曲をしていたシュトックハウゼンメシアンの作品に比べれば、ビートルズのやっていた音楽は遥かに易しい。言ってしまえばビートルズは過大評価なのである。他人がやっていた音楽を部分的に切りとって、それを自分の作ったポップな音楽に混ぜる。この行為はヒップホップと大差のない行いである。

しかし、それでもやはりビートルズが凄いのは、元々は上に書いたような「俺でも出来るかもしれない」程度のアイドルであった彼らが、言わば「アイドル」であることを否定した点にある。

これがロックの、そしてポップ・ミュージックの歴史を変えた。それまではただの流行の商品でしかなかったポップ・ミュージックのミュージシャン達が、たちまち「芸術家」の仲間入りをしたのである。

そして、何故それが可能になったのか、それは他でもない、ビートルズが音楽家という「偶像」の力を最大限に発揮したからである。


劇場型の人間、とでも言うべき人達がいる。彼らは台風の目のような存在で、周囲の人々に(良くも悪くも)多大な影響を及ぼし、そしてその周囲の人達を自身の劇場の上へとあがらせる。

そして、劇場型の人間はいつだって、どんな分野であろうと、その分野で「偶像」であり続けるのである。

あらゆるジャンルは、この「劇場型」が消えた時に衰退していく。

二十世紀中盤前後のフランスの文壇、または知識人界がそのいい例である。

サルトル、ジッド、ヴァレリー、など。二十世紀フランスの文学界は実に多くの優れた作家を排出したが、上記の三人は、素晴らしい文学作品を書くと同時に、鋭い発言や行動、社会批評などでも有名だった。

ジッドがそのいい例である。彼の書いた小説の殆どの根底には「恋愛」という普遍的なテーマがある、だからこそ多くの読者が感情移入しやすい。そして何より、ジッドの小説には哲学的、また思索的な「深み」がある。

しかし同時に、彼はナチス政権に反抗、または反対し、その言動や態度によっても知られていた。そう、彼は一種のカリスマ的な存在であった。

これなら普段本を読まない人でも、ジッドが「凄い人物」であるということがわかる。そして、当時のフランス文学界にはそのような人物が沢山いた。そのジャンルに興味を持たない人でも、「凄い」とわかる人物がいたのである。それもあって、当時のフランス文学は、まさに実りの時期であったのだ。


ホモ・センチメンタリムス(感情的な人間)、ミラン・クンデラは自身の小説「不滅」の中で、西洋人達のことをそう呼んだ。しかしこれは人類の殆どについていえることではないだろうか。

人間は理性ではなくて感情によって生きるものだ。そして現代人の「感情」は、もはや爆発寸前なのである。


東京オリンピックによって起こった社会的な混乱の末に、人々は新しい偶像を求めるようになる。そしてその偶像の影響によって、社会に生きる人々の意識と無意識が変わり始める。そう、僕の求めている静かな革命、心理革命だ。

そしてこの影響はやがて社会の中枢部にまで及ぶ。それはウィルスのように伝染し、社会のシステム全体に浸透していく。こうして社会はもはや既存の価値観を保てなくなり、新しい価値観を打ち立てることとなる。

そして、既存の社会のシステムは解体することとなる。


ただ問題は、上に書いたような東京オリンピックの失敗が僕の思惑通りに行かなかった時のことだ。その時、僕はまさにいい恥さらしとして笑いものにされるだろう。

しかしもしそれが本当に失敗したならば、僕はついに自分の勝機を得たのを感じるだろう。これまでの苦労は、全てこの時のためであり、そしてこれまでのツケを、ついに清算する時が来たのを、僕は感じるのである。