公開日記

その名の通りです

19/08/15 : 不安と孤独の分析、そしてその解決策、またはアベローネのこと

 不安。それは一種の疑惑であり、また恐怖でもある。つまり、人は、そこに存在しているはずのものが、実は存在していないのではないか、そう考えるために不安を覚えるのだ。

 例えば人は、夜、孤独になることを恐れる。暗闇の中で一人、誰とも連絡を取らず、また誰の声も聞こえず、誰とも関わりを持てない中でいると、人は自分がこの世界の中でどこまでもちっぽけな存在で、いてもいなくても同じ存在だ、そのように感じる。

 このように、「存在していないこと」への恐怖とは、孤独と密接な関わりを持つのである。

 だからこそ人は孤独を恐れる。自分が「何か」であって、確かに存在している、そのような安心感を得るために、人は他人を求めるのだ。不安というものは、このような自己存在の不確かさのために生じる。

 時折、次のような人間を見かける。つまりよくよく不安にかられて、とにかく他人に必要とされることを求めるような、情緒の不安定な若者。彼または彼女が、他人に必要とされたいと願うのには理由がある。つまり、他人に必要とされることを通して、その人は他人から「こうして欲しい」という「制約」を得て、自己存在を安定させようとしているのだ。

 多くの人が求めているものは、自由よりも制約であり、また服従である。人は自由に何かができるようになればなるほど、自分自身の可能性を獲得することになる。そして、可能性を獲得すればするほど、かつての自分の生きていた世界とは違った世界で生きることとなる。

 つまり、これまで自分が「そこにある」と信じていたものが、次第に失われていくのである。

 そして、このように「信仰」が失われていくにつれて、人は不安を覚える。そう、「これまでは存在していると思っていたものが、実は存在していないのではないか」という、恐怖と疑惑に苛まれるからだ。

 このことをドストエフスキーはよく理解していた。つまり、能力の高い人間ほど、または力強い自己を持つ人間ほど、自分の服従するべき存在を求めるのだと、彼は小説の中で書いているのだ。

 優れた才能を得るほど、人は自分の可能性を広げることとなる。そして、可能性が広がれば広がるほど、人は自己存在の不確かさを痛感し、不安を覚える。この不安を解消するためには、自分を制約し、束縛し、必要とし、そして何より、自分が服従すべき存在を必要とする。

 それでは他者から求められることによって、この不安の世界から逃れることができるかとなれば、それはそうでもない。何故なら、人と人との間には、必ず乗り越えがたい意識の断絶が存在するからだ。

 僕達はそれぞれ、無意識の構造が一人一人異なっている。たとえどれだけ近い境遇で生まれ育った場合であろうと、それは言えるのだ。何故なら、僕達が今日まで経験したこと、見聞したことが全て一致する誰か、そんな存在はどこにもいないからだ。よって、僕達は一人一人、それぞれが、違う人間であらざるを得ないのである。

 その一方で、誰かを愛し求めるということは、その誰かと一体になりたいという願いの表れである。しかし、愛し合う両者の意識の間には必ず壁がある。ここには乗り越えがたい不条理が存在する。

 だからこそ、人は誰かを愛する時、幸せな思いよりもずっと不幸な思いを経験することとなる。何故なら、人が誰かを愛するということは、相手に理不尽な要求をするということであり、報われない思いやりに心を尽くすことであり、相手のために苦しむことであるからだ。

 つまり、人間というものは、それぞれがそれぞれ、避けがたく孤独なのである。家族であろうと、友人であろうと、または恋人であろうと、完全に意識を共有することが出来ないという意味では、僕達は死ぬまで孤独なのだ。

 ではこの不安と孤独の現実に対して、僕達はどうするべきか。そのような疑問が湧いてくる。それは簡単である。その現実を肯定してしまえばいいのだ。

 古来より、キリスト教では、このような人間存在の不条理を「罪」と呼んできた。創世の始めに、アダムの犯した「原罪」のため、人間は神の楽園から追放された。人間の不安や孤独、苦悩、対立の問題は、皆、アダムとイブが罪を犯して神に背き、楽園を追い出されたからだ。だから人間は神の完全から離れ、今のような不完全な存在になったのだ。これが聖書の教えである。

 それはその通りなのかもしれない。しかし、ここでニーチェサルトルの指摘に耳を傾けてみよう。僕達が不安や孤独、苦悩、対立の問題に苦しめられるのは、それだけその正反対の可能性を知っているからなのだ。つまり、安心や喜び、愛、そして誰かと一体であると感じられる繋がり。僕達はこれらを知っているのだ。

 さらには、人間存在の不完全さが、今日までの人間の文化と文明を発展させてきたことは明白である。文明の進歩とは、人の不満が満たされなかったから生じる。人間の持つ否定的な側面が、同時に肯定的な側面を生み出しているのである。

 ではどうするべきか。つまり、否定的な側面を厳しく取り締まり、肯定的な側面を強化すればいいのだ。

 僕達は不安を覚える。しかしその時、僕達は安心を覚えることの喜びを知っている。僕達は孤独に苛まれる。しかし同時に、誰かと愛し合うことの喜びを知っている。僕達に苦しめ、苛む「否定的なもの」は消えない。しかし、それだからこそ、僕達は「肯定的なもの」の可能性を絶えず感じることが出来る。

 そうだ、不安や孤独の問題は解決されない。それは死ぬまで付きまとう。人間の不安は、孤独は、いつまでも消えずに、僕達を苦しめるのである。しかし、それでも僕達は、それらの苦しみを「それでもいい」と言って肯定することができるはずだ。何故なら、それらに苛まれる時、僕達はその反対の可能性をも知っているのだから。

 世界は深い。それは昼が考えたよりも深い。嘆きは深い。しかしよろこびは断腸の悲しみよりも深い。

 だからこそ、能動的に意志するということ。これが大切なのだ。


 "僕がアベローネを見たのは、ママンが死んだ翌年だった。"

 『マルテの手記』のアベローネの登場箇所だけを、時折開いて読んだりする。この小説で最も好きな場面だ。何度読んでも美しくて、胸の奥から震えがちな感情が湧き上がってくるのを感じる。それが本当に素晴らしくて、僕は何度も、何度も、貪るように読んだ。初読時は見開きのページいっぱいに張り付くかのようにして読んだ。描かれている内容の全てが僕を魅了した。その一文一文が、僕には皆真実であるように思われた、

 "「結婚する人がいなかったんだもの」と、彼女は造作なく言って、急に顔が美しく輝いた。アベローネは綺麗な女だろうか、と僕はびっくりして考えてみた。やがて僕は家を離れて、貴族の子弟のための学校へ入学した。不愉快な、嫌な時代が始まった。ソレエの学校では、他の生徒たちから一人離れて窓際に立っていると、僕はやっとうるさい喧騒から逃れることが出来た。僕は窓の外から樹木を眺めた。そんな折や、夜にじっと寝床にいる時、アベローネは美しい女だという確信が僕の胸に生まれてきた。僕は彼女に手紙を書き始めた。長い手紙、短い手紙、秘密な手紙を書いた。僕はウルスゴオルのことを書き、僕は不幸だと書いた。今から考えてみると、これらは恐らく恋文だった。やがて待ち遠しかった休暇が来た。僕達はひそかな約束でも交したかのように、人目のないところでそっと会いたいと思った。

 無論、二人の間に約束などあるはずはなかった。しかしふと、馬車が庭に入った時、僕はそこで降りてみたくなった。多分、僕はどこかの旅行者のように馬車を走らせることが嫌だったのだろう。既に真夏であった。僕は一つの横道に走り込んで、えにしだの木の側へ行った。そこにアベローネが立っていた。美しい、可愛いアベローネ。

 お前が目を上げて僕を見た瞬間のことを僕は忘れることが出来ない。顔を心持ち後ろにのけぞらせて、二つのひとみを不安定な宝石か何かのようにじっと受けとめかねていたお前のいじらしさ。

 僕は気候が一変してしまったのではないかと思った。ウルスゴオル一帯は僕達の息吹で、急に温和な避暑地になったのではないかと思った。庭の薔薇の花が十二月までも美しく咲き続ける温暖な国ではないかと空想した。

 アベローネ、僕はお前のことを書きたくない。それは僕達が、お互いに偽っていたから書かぬというのではない。お前は一生忘れえないただ一人のひとを、その時から愛していた。お前は愛せられる女ではなく、「愛する女」だ。なのに、僕は女という女の全てをお前の中で愛していたのだ。そこには大きな埋められぬ距離があった。しかし、僕はそれは怖くない。僕はただ書けば何かしら事実を下手に歪めるだけなのを恐れるのだ。"

 『マルテの手記』におけるアベローネは、『失われた時を求めて』におけるアルベチーヌのような存在で、アベローネの登場から、この小説の内容は静かな変化を遂げることとなる。そういう意味でも、アベローネのこの登場箇所が、この小説を読む上での鍵と言っていいかもしれない。

 "アベローネ、僕はお前と今一緒に立っているような気持ちがする。アベローネ、お前はこの気持ちが分かってくれるだろうか。僕は是非これが分かってくれなければならぬと思うのだ。"


 以前、僕にはやりたい音楽の形式がひとつあった。それは、若い女性を一人、前に立たせて、彼女に歌を歌ってもらう。その代わりに、僕は覆面なりを被って素性を隠し、歌以外のものを全て、作詞作曲から編曲、それに楽器の演奏まで、その全てを担当する。このようなものだ。

 僕は人前に立つのが苦手だから、それを見栄えする若い女性に担当してもらう。マーケティングがそれで良しとして、僕は思う存分に音楽の方に専念できる。

 中々いい案だと思っていた。しかし、この考えを抱いてから数年が経過した今、未だにこれが実現する気配はない。よって諦めの表れとして、この際ここに書いておこうと思ったのだ。