公開日記

その名の通りです

19/08/16 : 生活と変化

 僕の部屋には食料がない。食事は毎日、その場で買って済ませている。

 部屋には元々備え付けられていた小さな冷蔵庫がひとつある。そこにはめんつゆと醤油、マヨネーズ、そして卵が数個が入っている。それ以外には何も無い。そして、この三つの調味料と卵だけが、僕の部屋にある数少ない「食べられるもの」である。

 食事の度に、僕は近場へと外出をする。僕は一日に二度の食事を行う。一つはコンビニによって、ホットコーヒーのレギュラーサイズを買う。そして別のコンビニで1000mlのトマトミックスジュースと、レトルトの白米の300gパックを買う。家に電子レンジがないため、白米はそのコンビニの電子レンジで温める。帰路に着く。ここまで、合計二十分と少しである。

 よって、一度目の食事は、レトルトの白米と、1000mlのトマトミックスジュース(これを一度に全て飲む)、そしてレギュラーサイズのコーヒーのみである。正確に言えば、レトルトの白米には、小さな冷蔵庫の中で保管してあった卵と、めんつゆ、そして醤油をかけて食べる。

 二度目の食事も、1000mlのトマトミックスジュース(今回もやはり全てを一気飲みする)と、レギュラーサイズのコーヒーは必ず飲む。しかし主食は、この場合、その時の気分によって変える。

 僕の普段の食事は、おそらく固形のものよりも液状のものの方が多い。それにこだわりがあるわけではない。ただ、トマトミックスジュース(以前はオレンジジュースだったが)、これは必ず毎日2000mlは飲む。コーヒーもレギュラーサイズを必ず二杯は飲む。強いて言うならば、それが僕の食事における決まり事である。


 今、僕が思い浮かべているのはヘラクレイトスの事だ。

 彼の残したとされる川のたとえ、「同じ川に二度入ることはできない」という言葉は、中々見事なものだと思う。なるほど、川は変わらずにそこにあり続ける。しかし、川に流れる水は絶えず前方へと押しやられ、それは流動し続けているのだ。


 自室を見渡す。楽器と本、それにベッド、衣類が数着。それ以外には何も無い。

 ワンルームであるが、リビングの電灯は(引っ越してから数ヶ月経つが)面倒なので設備していない。元々台所と玄関先に電灯が設置されており、その二つの明かりだけで、案外不自由なく生活ができる。


 先日、僕は自分の部屋の写真を撮った。すると、それを見た知人が「まるで独房のようだ」という言った。僕はその言葉が気に入っていた。

 なるほど。そう思い、再び僕は部屋を見渡してみる。すると、確かに独房のように見える。部屋には本棚がないから、僕の所有する大量の本は、そのまま床に積み重ねてある。それがまた監獄のような無機質さを醸し出している。

 そして僕は、この心地よい冷たさに、どういうわけか少なからぬ愛着を抱いている。これで良い、これが良い。この方が生活がしやすい。


 人間は絶えず変化を強いられる存在だ。

 僕にとって、今年の八月は、これまでにないような八月であった。それは良い意味でもなければ、悪い意味でもない。言葉通りの意味である。

 よって、これは他の場合にも言える。つまり、去年も、一昨年も、そしてその前の年も、一度として僕は、同じような八月を過ごしたことがない。おそらく、来年も今年とは違う、これまでにない八月を過ごすのだろう。


 先程の話に戻ろう。そう、部屋に食料がないから、僕は否応なしに、一日に一度以上は部屋を出なければならない。そして、その際に僕が歩く道のりは、おおよそいつも同じである。

 途中で、僕は公園を通る。今は夏だから、公園では、蝉の声が人々を包み込んでいる。それは合唱というよりかはむしろ音の集合体であり、豪雨のような凄まじさである。

 僕は自分の身を降り注ぐ蝉の声の内へと投げ出す。僕という存在が無数の蝉の出す騒音によって埋もれていく。さながら夜の闇に自分の意識が消えていくかのように、今度は自分の存在が音の集合体の中でかき消されていく。上手く理解してもらえるかはわからないが、これがとても心地よい。


 変化というものを、多くの人は誤解している。人がなにか突然大きな変化を遂げるといえ事は決してないのだ。何故なら、人は自分のなにかが変わっても、それに気づかないまま生活している場合が多いからだ。

 そうして気づかないうちに蓄積されていった変化が、ある日突然目に見える形で僕達の目の前に現れる。それがあまりにも唐突なので、僕達は戸惑い、こんな大きな変化が自分のみに降り掛かってきたことを嘆く。

 しかし違う、その人は誤解している。その人は既に変わっていたのである。ただそのことに、本人が気づいていないだけなのだ。


 今年になってこの住まいに引っ越してきたが、来年の春頃には、恐らくまた引っ越すであろうと思われる。


 「運命愛」という概念は、自分を支配している絶対的な存在、「運命」という観念を信じる、という意味ではない。そうでなくて、自分がこれまでに体験し、そして自分を苦しめもした、無意味で偶然の産物たち、これらを「それでもいい」と肯定するということである。

 つまり、たとえ悲劇的なものが運命の本質なのだとしても、それを良しとして肯定するということ。自分の人生の不条理を、すなわち「運命」の残酷さを、受け入れるということ。そのうえで、生きることを意志するということ。

 これがニーチェの唱えた「運命愛」の内容である。

 悲劇、それは不条理を肯定することであり、また不条理の残酷さを乗り越えるということだ。運命愛は、そしてそんな悲劇を愛し、またその先にあるものを意志するということなのだ。


 来年にはまた引っ越すのだから、家具はこれ以上、必要ないだろう。だから、おそらくこのまま洗濯機も、冷蔵庫も、テレビも、それに食器やその他生活用品も、僕は買わない。それでいいのだ。必要ないのだから。食料も、その日その日の必要に応じて買えばいい。

 しかし、やはり本棚は買うかもしれない。

(ちなみに洗濯は、週に何度か、近場のコインランドリーで済ませている)


 ドゥルーズの書いたニーチェ論が何故あれほど革新的だったのか。それは、彼が他の哲学者たちと違って、ニーチェ自身ではなく、ニーチェの思想に注目したからである。

 大抵の場合、ニーチェを論ずるとき、人は彼を狂人として扱う。その上で人は、いわば距離を置いた状態で、腫れ物のようにニーチェの思想に触れるのである。

 それがよく現れているのがハイデガーである。彼はニーチェを『最後の形而上学者』と呼んだのだ。

 ハイデガーニーチェ論の面白さは、既存の価値観に歯向かおうとしたニーチェを、むしろプラトン以降の西洋哲学の伝統の一部として語ったことだ。これにはニーチェ自身の生涯が背景として考えられているように思われる。つまり、理想(イデア)主義者であり、敬虔なキリスト教家庭で育ったニーチェ本人の性格を考慮されているのである。

(そしてハイデガーの面白いところは、彼が「存在している」ということに注目し、人間の不安や孤独の分析に力を注いだニヒリストであるにも関わらず、その堅苦しい思想にはある種の敬虔さが感じられるということだ)

 対してドゥルーズの面白いところは、彼がニーチェの試みそれ自体に注目しているということである。つまりドゥルーズは、ニーチェ自身ではなく、ニーチェが書物の中で語ったことに重点を置く。そこに彼のニーチェ論の面白さがあるのだ。

 よく、ドゥルーズの思想がプラトン主義の転倒だとして語られることが多い。しかし、それは正確ではないように思われる。プラトン主義の転倒の試みは、既にニーチェがその著作の中で(言葉上では)行っているのである。そして、それを踏まえたドゥルーズの思想は、プラトン主義の転倒というよりかは、むしろプラトン以降の西洋哲学の再構築である。実際、彼はニーチェと同様、ソクラテス以前の哲学者であるヘラクレイトスに注目している。

 なるほど、確かにドゥルーズプラトンヘーゲルに抗うが、しかし彼の思想や彼の態度、そして彼が「フィロゾフィー(哲学)」の「フィロ(友愛)」についてを語る様子には、ある種の高潔と潔癖さが感じられる。その点に関して、彼ドゥルーズプラトニックであってイデア的だ。

 よって、プラトンを覆すというよりかは、プラトンと同じ立場で哲学を構築する、といった方が、ドゥルーズの場合は正しいように思われる。


 僕が初めて大きな変化を経験した時、それがあまりにも唐突なことのように思われため、非常に戸惑ったことをよく覚えている。突然ひとりぼっちの暗い部屋の中に閉じ込められたような気がした。今まで近くにあったと信じていたものが、突如僕の遠くへと離れてしまったのを感じた。当時の僕は、それをとても悲しんでいた。

 しかし僕は間違っていた。なるほど、今まで近くにあったはずのものが遠くに感じるということは、確かに悲しいことでもあるが、それは同時にいいことでもあるのだ。

 近くにあったものが今や遠くに離れている。それはつまり、それだけ自分の周囲が広がったということである。すなわち、それだけ自分の目が開けて、様々な可能性へと目をやることができるようになった、ということだ。

 いま思えば、この悲しむべきように思えた、大きな変化が、僕の人生の新たな始まりとなったのだった。そして僕は知ったのだ。人は変わるのではなく、変わることを強いられるのだ、と。

 それならいっそ、変身を意志すればいいのだ。僕は今この瞬間も、絶えず変わり続けている。もとい、変わることを強いられ続けている、と言った方がいいのかもしれない。そして、僕はそれを拒まない。このまま先に進みたい、今はそう願っている。


 他人に話すと驚かれるが、これで僕は、自分が不憫な生活をしているとは思っていない。少なくとも自分では、悪くない生活だ、そう思っているのだ。