公開日記

その名の通りです

19/08/18 : 読書と経験、目に見えないものの作用、個人的な話

 人間の意識とは、その人の感じている劣等感によって形成されていることが多い。


 短い間に沢山の本を読むよりかは、同じ本を何度も繰り返して読んだ方がいい。ショーペンハウアーはそう書いていたが、それは正しいことなのだ。

 読書というものは、読むのが遅すぎても、または早すぎてもいけない。何故なら、優れた読書体験というものは、それがただの本を読むという行為に収まらず、 一つの実体験として感ぜられる必要があるからだ。

 人間というものは、自分の経験に基づかなければ、なにも考えたり、理解することが出来ない。よって、自分の内側にある感覚的な知識がなければ、目の前にある対象をよく理解することが出来ない。

 その一方で、僕達は絶えず経験から飛び出て物事を考える存在だ。つまり、過去の経験と今目の前にあるものを対比することで、目の前にある未知なものを憶測し、実際以上か、または実際以下に物事を捉え、また考えるのである。

 これが読書においては重要となってくる。つまり、理解できない物事が、必ず本を読む際に、そのどこかに登場するわけだが、それは自分の経験に基づくと同時に、自分の経験を飛び出なければ理解しえないものなのである。自分の理解の域を越えている、ということは、それが自分の経験からは憶測できない、ということでもあるからだ。

 そう、この「経験の壁」を乗り越えるためには、目の前に書かれた文章に過集中して、それを「新しい体験」として、自分自身の中にインプットする必要があるのだ。

 僕達は一つの物事に直面した時、先ずはそれから受けた印象( = 感覚的な経験、知識)によってそれを捉え、次にその印象に基づいて、再びその対象についてを考え始める。つまり相手を自分の印象によって再構築するのである。

 絶えず経験に基づいて考えながら、同時に経験の制約を飛び越えて思考するために、絶えず思考の中で新しい「経験」を手に入れるということ。これは容易な業ではない。恐らく、一度行うのに非常な時間と労力を費やし、神経と精神の両方がものすごく摩耗されることとなる。

 だからこそ、「早すぎる読書」と「多読」は危険なのである。なるほど、それによって「沢山の本を読んだ」という経験はてに入るかもしれない。しかし、それによって知識が手に入るとは限らないのだ。


 時折、あの本を読んだ、この本を読んだ、という人に出会う。そして、そのような人に限って、実際に話してみると、「あの人はそれらの本を読んだのにも関わらず、どうしてこんなこともわからないのか」という感想を抱かざるを得ない場合が少なくない。


 男女の恋愛というものは、目に見えないものへの悩みが増えれば増えるほど、一層ロマンチックなものとなる。

 相手に関する悩みや思いとは、それに明確な答えが存在しない。そして明確な答えが存在しないという、そのような曖昧さに基づかなければ、人は恋愛をすることが出来ない。逆に言うなれば、人の恋愛を支えているものとは、皆「目に見えないもの」なのだ。そして、人の恋愛をより美しいものにするのも、この目に見えないものの働き、作用に他ならない。

 恐らく、文通などの言葉にロマンチックな印象を受ける人は多いと思われるが、その理由もこれに基づくものである。そう、文通とは目に見えないものに基づいて行われる、つまり人の心と心の駆け引きである。


 言葉には言い表せないものの集合体であり、無数の口にされなかった言葉によって、人の文章上のやり取りというものは交わされる。

 僕達に必要なのは、自分が信じられる「目に見えないもの」を獲得することなのだ。


 浴室に入ってシャワーを浴びる際、僕は時折、鏡に映る自分の姿を凝視する。正確に言うなれば、僕は鏡に映る自分の肉体を凝視する。

 あばら骨が浮き出た上半身を見て、自分が思った以上に痩せているということに気がつき、驚く。上半身を反ると、浮いたあばら骨は益々その輪郭をはっきりさせる。それをじっとみていると、いかにも奇妙な気持ちになる。

 これは本当に自分の体なのだろうか。悲観しているのではなく、単純な疑問としてそう思うのである。


 昨日、曲が完成したのはいいものの、まだその録音を行っていない。近いうちにそのデモを録るつもりでいる。

 一度曲が完成すると、それに続くように他の曲も完成させやすくなるようだ。つまり、今日も一曲、完成したのである。それもまた後日、同じようにデモを録音しなければならない。そして両者ともに、録音が終わり次第、他の人に聴いてもらおうと思う。