公開日記

その名の通りです

19/08/19-20 : ライブの感想、仮面、バンド、その他音楽のこと

 たいていの場合、お互いに許しあって生きていくということは、お互いに折り合いをつけて、つまりお互いに妥協し合って生きていくということだ。

 しかし、誰かに対する真の許容、理解とは、「仕方ない」といって相手を受け入れることではなく、「それでもいい」といって相手を求めることではないのだろうか。僕はそう思う。


 知人の参加する企画ライブを見に行った。

 その企画のトリをつとめるバンドのボーカルとは、お互いに面識はあれど確かに知り合うことの出来ていない方であった。しかし今回、ついに彼と友情を結ぶことが出来た。僕はそれを嬉しく思っている。気さくで、物腰の柔らかな好青年であった。

 彼のバンドの音楽性は、いわゆる「激情系ハードコア」と呼ばれるもので、はっきり言えば僕の普段聴かない音楽である。ライブ前日に彼らの音源も聴いたが、正直はところ、良さがわからなかった。しかし、ライブを観てからその印象は一変した。

 とても驚いた。まさかあんなに良いとは思わなかった。インディーズのバンドのライブには何度か足を運んだことがあるが、あのような感動を覚えたのは初めてである。ボーカルの彼は本物だ。心から、素直に、僕は興奮と賞賛の念に駆られた。本当に素晴らしかった。


 作品とは作者の被る一つの仮面だ。創作するものは常に仮面を被る。しかし、人は自分の知っているものでなければ上手く語ることが出来ない。それと同様に、自分のうちに似た感情の経験がなければ、仮面を被ってなにかを演じることが出来ないのである。

 よって、作品という仮面には、必ずどこかに作者の面影が漂っている。そして、それがその作品の鑑賞者にある種の「錯覚」を与える。

 芸術に目を向ける人の多くは、何かしらの形で生きることを悲観したことのある人々である。生を否定し、生を憎んだことのある人、人生にウンザリしたことのある人でなければ、芸術に惹かれなどしない。それゆえ、人は芸術に苦しみを求める。自分の苦しみを癒すために、同じ苦しみの影を、作品のどこかに見出そうとするのだ。芸術とは、生に対する一つの復讐の形なのだ。

 歴史的にいえば、この傾向が顕著になったのはベートーヴェン以来である。つまり、作品の中に作者の苦悩を見出そうとすること。ベートーヴェンと言えばロマン派音楽の先駆者としても有名だが、ロマン派の芸術家といえば、皆ぼんやりと死ぬことについて考えていたことは言うまでもない。ロマン派においては、苦悩が一つの作品であり、悲哀に満ちた響きが一つの仮面であったのだ。

 この点について、ポール・ヴァレリーが見事な言葉を残している。

 "ロマンチズム以来、人々はそれまでのように練達を模倣する代わりに、珍奇を模倣するようになった。"


 ここで時代を現代まで巻き戻してみよう。二十世紀後半からロックが流行したが、何故ロックはあれほどまでの人気を博し、そして今も尚、(多くのロックファンの主張とは裏腹に)ロックは根強い人気を誇っているのか。それは他ならない、ロックにおいては、バンド側が既に一つの作品であるからだ。

 ボブ・ディランビートルズの登場は、それまでのポピュラー音楽の流れを変えた。つまり、彼らは自分で作った曲を演奏し、また、そんな自作曲のみでアルバムを構成するようになったのである。無論、それまでにも自作自演をするポピュラー・ミュージシャンはいたが、その殆どはジャズで、歌うたいが自作自演を多くするようになったのは彼らが初めてである。

 自分で作った曲を自分で演奏する、これは客により深いバンドへの感情移入を可能にさせた。さらに彼らロックバンドは、自分なりの言葉で、自分の感情を、つまり自分の弱さを歌おうとする。つまり、ロックバンドは自分の弱さを一つの作品にするのである。こうして、益々客はバンドに食いつく。

 バンドを演奏する側の見た目や年齢にも注目しよう。ロックの客層の多くはやはり若者だが、大抵のバンドは、そんな若者が感情移入をしやすい同年代の人間で構成されている。そんな彼らがステージ上で自分の歌を歌い、そして殆ど奇行とも言えるパフォーマンスを行う。客の若者が平凡であればあるほど、このようなバンドに憧れを持つ。なぜなら、ステージ上での彼らは、まさに非凡そのものだからだ。

 そういう意味では、バンドとはある種のアイドルであり、彼らがステージ上でライブをするのは、演劇が演じられるのと同様である。そして客は、そのような「バンド」という仮面に惹かれる。そしてバンドの面白いところは、それが他のアイドルや演劇と違って、より実際の人物が前に現れているということにある。つまり客側は、バンドが真実めいたものである分、それだけ強くバンドに熱中できるのである。

 この人がステージ上で歌っていることは本当であり、きっとこの人はこういう人物なんだ。バンドというものは、客がそのように勘違いしやすいように出来ているのだ。


 ショパンの音楽の面白い点は、彼の音楽が一つの仮面であるということだ。

 彼の書く音楽は、和声や曲の展開も、どことをとってもロマン派的である。しかし、ショパン自身はロマン派の存在に否定的であった。実際、彼はロマン派特有の表題曲を一つも残していない。

 文学的な題材を取ることもなく、また自分の感情表現として音楽を書くこともなかったショパンの音楽は、だからこそ一つの仮面として作用する。何故なら、音楽の物語性を否定し、自分の感情を表現することを憎んだはずショパンが、多くの場合、むしろ感傷的で、ロマンチックなものとして捉えられることが多いからだ。

 人はショパンに惚れれば惚れるほど、ショパンを誤解することとなる。そしてショパンを知れば知るほど、人はショパンに惚れていくのだ。


 精神的に不安定な日々が続くと、僕はLeprousというノルウェーのバンドをよく好んで聴くようになる。そんな傾向が以前からある。とても好きなバンドだ。1stには余計な要素が多いが、それでも良い作品であるのには間違いない。それから2ndではトリップホップアヴァンギャルド・ジャズの要素が増え、3rdでは全く別の段階へと変化する。4thと5thは全く素晴らしい、近年ロックバンドが発表したアルバムの中でも指折りで優れた作品だと言っても過言ではない。

 苦しみが深くなればなるほど、僕は彼らの無機質な、洗練された、美学的な音楽を欲するようになる。最近は彼らの1stをよく聴いている。無駄は多いが、それでも僕を惹き付けてやまない。強いていうなれば、(後年のように)デスボイスディストーションの効いたギターがなければ、このアルバムももっと愛聴していただろうに。


 人は何かに執着すれば執着するほど、その何かのことを誤解しやすくなる。冷静に考えればありえない話なのに、物事に熱を入れすぎているあまり、そのようなことを考えてしまう。そして、あることないことに散々気を揉んでは、結局答えの出ない問いに悩み苦しむのである。


 他人に与えたくない誤解を与えてしまうことで、僕はよく悩んでいる。

 難しい話だ。