公開日記

その名の通りです

19/08/20 : 多様性と平等、そして個人的な話

 多様性を肯定するということは、不平等が解決されない現実を認めるということだ。この点について、多くの人は誤解をしている。多様性とは、人間が不平等であることの肯定なのだ。

 人と人は違う。そしてその人の他者との「違い」とは、他者との比較の間によらなければ存在しない。つまり、人間は他者との関係の中で存在する。そして他者との関係とは、他者と自分を比較し、その「違い」を認識するということである。ある人とある人の「違い」、それは両者の間に存在する何らかの力の大小を意味する。

 つまり、「多様である」ということは「差別が存在し、差異が存在する」ということと同義なのだ。

 よって、多様性の肯定のために、全ての人を平等な立場に置く、ということは本来無理があり、不可能なのである。全ての人を平等にすることは、むしろ全ての人を一つのものの下に統制するということである。平等とは多様性の否定なのだ。

 人間とは諸力の関係だ。人の内側では常に複数の力( = 欲望)が存在し、他の力と何らかの形で関係し続けている。そして、それは人間の外部においても、つまり社会や、あらゆる人間関係においても同じなのだ。

 あらゆる力は、占有し、略奪し、征服し、支配することを求める。そして、人間はこのような「力」に絶えず動かされ続けている。

 現代において、「多様性」の名の下に、これまで少数派(マイノリティ)であったものを上位に位置づけようとする運動がよく見受けられるが、あれは少数派(マイノリティ)の平等を求めているのではない。むしろ、これまで自分を除け者にしてきた「平等」を抑えてつけて、自分たちの正義の名の下に新しい「平等」をつくり、そして既存の常識を打ち壊そうとする排斥運動なのだ。それは彼らの劣等感の現れに他ならない。

 「多様性」と「平等」を求める運動、それはこれまでに「正しい」と言われてきたものを排除し、自分たちの「正しさ」を他人に押し付ける、一種の暴力であり、征服活動なのである。だから彼らは多様性がなんであるのかを誤解しているのだ。彼らが求めているのは多様性の実現ではなく、自分を苛む怨念の感情( = ルサンチマン)と復讐心が満たされるということである。

 よって、真の多様性の実現、それは不平等の肯定であり、平等の実現を求めないということである。人間が分裂し続ける様々な「力」の関係であるということを認め、そのうえで新しい社会( = 真の平等)の形成を求める必要がある。

 生きていく上で、僕達は絶えず優劣の「比較」の中に置かれ、そして大小の力の「差別」が発生し続ける。ここに多様性の起源が存在する。つまり、多様性とは、分裂し続け、引き裂かれ続ける人間存在の本性のことを指す。

 よって、多様性の肯定とは、そのような人間存在の不条理の肯定である。そして、多様であるということ、つまり分裂し続けているということ、これが人間が存在する上で、決して避けることの出来ない宿命なのである。


 真の少数派(マイノリティ)、それは分裂し、引き裂かれていることを肯定する者のことだ。


 人間の意識とはその人の無意識の反映である。故に人の意識とは、たとえそれがいかなるものであれ、内側にあるものによって歪められた後に、表面に映し出されたものなのだ。


 夏が終わろうとしている。僕は過ぎ去りつつある今年の夏の日々を思い起こしてみる。今年は良い刺激を与えてくれることが多かった。

 しかし、去年よりもずっと、虚しさというか、喪失感のようなものに苛まれていた。胸の内に上手く言い表せない寂しさの漂う日々が続く。示唆に富んだ出来事は去年よりも多かったかもしれない。しかし、去年はこのような虚しさに苛まれることもなかった。

 つまり、僕は信仰を失ったのだ。

 胸にぽっかり穴が空いたような気持ちで毎日を生きている。僕は変わってしまった。このままでは、何か大切なものを失ってしまいそうな気がする。いつまでも、絶え間なく、精神的な苦しみの影が消えてくれない。


 時折、意味もなく、自分がしていることがとても間違ったことであり、僕は今途方もない過ちを犯しているのではないかという不安に襲われることがある。


 よく誤解を受けるが、人に嫌われるのと好かれるのならば、僕は好かれる方が嬉しい。誰も好きではないのではないか、という誤解もうけるが、それも違う。僕は自分を愛してくれる人を心から愛することが出来る。

 ただ、僕は愛情表現が下手くそなのである。

 誤解を受けることは別に嫌ではない。むしろ普段から好きこのんで他人に誤解されるようなことをしている。他人に好んで煙をまいている、と言ってもいい。ただ、自分の思った通りに誤解してくれないこと、自分に不都合な誤解をしているということが、嫌なだけなのかもしれない。

 そう考えると、自分がとても利己的で、自分勝手な人間なのだと気が付き、自分自身に失望する。

 どの誤解も、普段の行いのせいだと言われれば、それもまた否めない。結局、僕を今苛む虚しさも自業自得なのかもしれない。

 悲しい。