公開日記

その名の通りです

19/08/22-23 : 現在と存在、小説と作曲、そして変奏曲としての哲学書について

 現在とはいつなのか。僕達はいつ存在しているのか。そのことについて考えてみようと思う。

 現在、それは過ぎ去っていく瞬間である。今、この瞬間にも、既に過去になっているものであり、捉えられないもの、過ぎ去るもの、それが現在なのだ。

 よって僕達には、「今ここに存在している」ということが出来ない。なぜなら、「今」は既に過ぎ去った瞬間なのだから。それと同様に、僕達には「今」を生きることが出来ない。なぜなら僕達は、現在、この瞬間に存在している、ということが不可能なのだから。そう、僕達は今、この瞬間にも「存在」していないのである。

 さて、そんな現在ではあるが、しかし同時に、それは今なお、この瞬間にも到来しつつある何かでもある。つまり現在とは、過ぎ去ると同時にやって来るものなのである。「現在」とは今、この瞬間に存在しているもののことではない。今、この瞬間に存在しているもの、そんなものは存在しないのだ。現在とは過去であると同時に未来であるものだ。つまり、それは過ぎ去ってはやって来る「何か」なのである。


 生きていく上で、全ての目的が達成され、何かが完成するということは決してありえない。現在は過ぎ去る。そして過ぎ去るということは、変化するということでもある。つまり、現在とは変化し、変化し続けるものだ。変化とは完全なるものの内では存在しない。不完全であるからこそ、あらゆるものは変化し続ける。

 人は常に「現在」を生きる。そして現在とは変化していくあるものである。よって、生きていく上で、人が何か絶対的な完成に到達することは不可能なのだ。

 未解決のまま前に進むことを促される、それが生きとし生けるものの宿命である。なぜなら、人は変わるのではなく、変えられるのだから。

 人間の内側にある欲望や理性が、均衡を保ち、平等と平和に至ることも不可能である。あらゆるものの間には微細な「違い」があり、差異が存在する。そして違いの存在するところには、すなわち力の大小が存在する。力の大小は、それらの間に優劣の概念を持ち込み、そして優劣の概念は、「差別」の概念を持ち込む。人間とは分裂し続け、苦悩し、葛藤し、闘争する何かである。

 また、人の内側とは、その人の外側と多かれ少なかれ何らかの関係を抱いている。よって、人の内側に言えたことは、同時にその人の外側にも言えることが多い。つまり、人間の関係しているあらゆるものも、同時に均衡を保つことが出来ず、不平等であり続ける何かなのである。


 ではここでもう一度問おう。現在とはいつなのか。僕達はいつ存在しているのか。

 もし現在が過去であり未来であるとすれば、「今を生きる」とはどういうことなのだろうか。そう、それはつまり、過去と同時に未来を生きるということである。そして、過去と未来を同時進行に生きるということは、つまり過去を肯定し、未来を意志するということである。

 人が生きていく上で、上に書いたような不条理は避けられない。そして同時に、多くの人にとって、このような不条理は耐えられないのである。だから人は言い訳をみつけ、自分を誤魔化すことの出来る口実を求める。責めるべき誰かを求め、または自分を極端に罪のある存在とすることで、現実の不条理から目を背ける理由を手に入れようとするのである。

 多くの人の行動は、理由があって何かをするのではない。むしろ何がをすることを肯定するために、人は理由を求めるのだ。

 未完成であり、未解決である「現在」を肯定するということ。僕達に必要なのはそれなのだ。

 僕達は存在していない。僕達は何者にもなれない。それは当たり前なのだ。現在とは絶えず過ぎ去り続けるものなのだから、今この瞬間に、永続するような確固とした存在を手に入れること、それはありえない話なのだ。

 それではいかにして僕達は「存在」することが出来るのか。それは今この瞬間にも過ぎ去りつつあるものを肯定するということだ。

 現在を生きるということは、過ぎ去りつつある過去を生きると同時に、今やってきている未来を生きるということだ。僕達は今、存在していない。だからこそ未来と過去に存在している。僕達は何者にもなれない。だからこそある時々に、様々な何かへと変化する。そして僕達は、それら二つを同時にひとつの体の中に押し込まれた存在なのだ。

 そういう意味では、僕たちは人間存在を一つの川に例えることができる。

 川の流れは絶えず変わり続けるが、川はそこに存在し続ける。しかし、川もまたやがては消えてなくなる。僕達はそれぞれが一つの川だ。そして僕達の生きている川の流れは絶えず変わり続けている。しかし僕達自身は変わらずに存在している。つまり未来と過去を同時に生きて、現在にしがみつくのをやめた時、僕達は一つの確固とした「存在」を手に入れることができるのだ。


 不条理を肯定するということ。人間存在の不平等、差異、力の大小、そこから生じる優劣、差別、これらは永遠に、人間が滅ぶまで消えないだろう。それが人間の醜さや罪深さの現れだということも出来るかもしれない。しかしその醜さと罪深さがあったからこそ、人間はここまで深い存在になることが出来た。

 人間存在の不条理、いわゆる「醜さ」と「罪深さ」と呼ばれているものを否定して、それを無かったことにしようとすることは出来る。しかしそれは不条理への反動であり、傷つけられたものの復讐心の現れであり、つまりルサンチマン(怨念の感情)である。それでは世界は正しく進まない。

 真に世界が正しく進むためには、人間が生きていく上で避けることの出来ない不条理を認め、そのうえでどうすれば人々がより幸福な生活を送ることができるかを考えるということにある。


 ここ数ヶ月の間に、僕自身は大きな変化を遂げたように思われる。正確に言うなれば、僕は変化させられたのであり、僕はただそれを受け入れただけである。


 僕は今日までにいくつか小説を書いた。その中でも、やはり僕が一番読み返すのは一つ目のものだ。正確に言うならば、一つ目の終盤部分をよく読む。自分でも、あれはよく書けていると思う。一文一文が迫真であり、読み手に訴えかけるものを持っている。

 これには幾つかの要因が作用している。先ず一つは当時の僕の置かれた状況である。当時、僕は心身ともに非常に追い詰められていた。後半の部分は、夜中に、何処とも知らぬ夜道を歩きながら書いたものだ。次に、初めてちゃんとした小説を書きたいと思ったから、非常に熱を入れていたというのもある。そして最後に、当時は自分を大いに刺激するような音楽との出会いがあった。つまりアンドラーシュ・シフノルウェーのGazpachoというバンドがそれであった。

 要するに、当時の僕は「小説以外」の存在から刺激を受けることが多かったのだ。

 これは何につけても言えることだ。文学以外に興味を持たない作家の書く本は大抵つまらない。面白い小説家や詩人の本は、大抵文学以外にも素養がある場合が多い。

 同様に、哲学書ばかりを読む哲学者の本もまた退屈であり、音楽以外に広がりを持たぬ音楽家の作品には耳を貸す必要も無いのだ。


 曲については、ここ最近でそれなりに書くことが出来た。とは言っても、それはピアノ独奏向けではなく、ギターで弾き語りをするようなのだが。歌詞をつけていないものも含めれば、全部で十三曲ある。そのうち、歌詞をつけることが出来たのは三曲だけだ。

 どの曲の歌詞も、僕の好きな詩人の詩を下敷きにしながら書いている。リルケヴァレリーボードレール、など。あと数曲ほど完成させられたら、それを録音して、何らかの形で発表したく思っている。


 僕はただ、自分の創作意欲の根源になってくれる存在が、もっと言うなれば、自分の行動の動機となってくれる存在が欲しいだけなのかもしれない。


 僕の物事に対する考え方はニーチェに負うところが非常に大きい。そんな僕にとって、ドゥルーズとの出会いは一つの軽やかな風であった。

 哲学者の書く書物は、読みづらく、時には同じ内容を繰り返し書いているようにしか見えないものが多い。それはその通りなのかもしれない。しかし、そこには確かな違いが存在し、そしてその違いにこそ、大きな示唆をもたらしてくれる。

 優れた哲学書には、どれも一つの変奏曲(ヴァリエーション)ともいうべき性格が備わっているのである。

 モーツァルトには「きらきら星変奏曲」という曲がある。それは言葉通り、「きらきら星」のメロディを主題として展開する楽曲である。主題だけでその曲を語るのは簡単だ。しかし、その曲の簡単に語ることの出来ない部分にこそ、モーツァルトの天才が秘められている。

 哲学書もこれと同じで、たとえそれが難解で複雑な、同じことを繰り返し書いているようにしか思われない内容でも、そこには確かな違いがあり、ページの一つ一つには異なった示唆が含まれている。ここに三百ページの優れた哲学書があるとするならば、そこには三百かそれ以上の可能性が眠っているのである。

 このような考えを僕に抱かせてくれたのは、他ならぬドゥルーズのおかげである。彼は次のように書いていた、「偉大な哲学者は優れた文体を持った文章家である」と。彼の書物は、それが一つの変奏曲(ヴァリエーション)であり、そしてその書物の一つ一つが彼の思想の変奏の一部であるという点に、その魅力が存在する。

 さて、僕はドゥルーズサルトルについて書いた文章が非常に好きだ。正確に言うなれば、それは対談の中でサルトルについて語ったものなのだが、彼は誰かと対話する際、まず一度文章を書いて、それから自分の意見を述べていたらしい。つまり、彼においては対談さえもが執筆なのである。

 せっかくなので、それをここに引用したいと思う。読み手を感傷的な気持ちにさせる、美しい文章だ。

 "サルトルは私にとってすべてでした。驚異的な現象でした。フランスがナチの占頷下にあった間、精神の領域における一つの存在の仕方だったのです。彼が自分の芝居を占頷下で上演させたことを非難する人々は、彼の作品を読んだことがない人たちです。『繩』の上演は、ヴェルディオーストリア人の前で自分の作品を演じさせたのに匹敵します。イタリア人ならば誰でもそれを理解し、ブラボーと叫びました。彼等はそれがレジスタンスの行為だったことを知っていたわけです。サルトルの置かれた立場は全く同じです。

 『存在と無』は爆弾のようでした。『繩』が直接的なレジスタンスの行為だったのと違い、『存在と無』は読むものの心を奪う作品でした。偉大な、新しい思想の著作だったのです。出版された時に読みましたが、何というショックだったでしょう。ミシェル・トゥルニエと一緒に買いにいったこと、一気に読み上げたことを覚えています。サルトルは私たちの世代の人間を捕えて離しませんでした。彼は小説も戯曲も書きましたから、皆が小説や戯曲を書きたがりました。誰もが真似をしたか、あるいは、嫉妬し、苛立っていました。私個人は彼に魅了されていました。私にとっては、決して失われることのないサルトルの新しさ、永遠の新しさが存在するのです。"