公開日記

その名の通りです

19/09/12

 その人の現状とは、その人が守りたいと思っているものによって成り立っている。その人が選んだ選択とは、その人が求めたものというよりかは、その人が固持したいものに基づく場合が多い。

 これからを生きていく上で、僕は何らかの犠牲を払わなければならない。そして、僕がなにを犠牲にするかが、僕のこれからを決定することとなる。

 上京してから今日に至るまで、僕は様々な環境に身を晒してきた。中にはここでは言えないようなこともある。そして、ここでは言えないようなこともしてきた。

 それでも、そのような生活の中で、僕は絶えずひとつの事実に突き当たった。それは、結局自分は世間知らずの、考えの甘いお坊ちゃんだということである。

 そしてできることなら、僕は自分の「甘さ」を犠牲にしたくない。お坊ちゃん的でない、「甘く」ない人達の考え方が、僕には不潔な、間違ったもののように思えるからだ。

 僕の今日までの生活の苦しさと、これからの生活の苦しさを一言にまとめれば、自分の抱く誇りが弊害となっている、それだけで済むとさえ言えるかもしれない。

 今日までに、僕は様々な危機に晒されてきた。今、僕は再び自分が危機的な状況に晒されていることを感じている。僕は再び、何かを犠牲にしなければならない。

 汚れたものになることへの第一歩は、無垢な子供のふりをすることだ。

 人間の表情には、彼の普段の生活や、彼がこれまで生きてきた生活の反映が、多かれ少なかれ現れている。人の顔がその輪郭のために誰かを不快にさせることは滅多にない、その表情が誰かに不快な印象を与えるのである。元々の顔の作りが悪くなくとも、その表情が与える印象から、その人を決して美しいと言えないものにすることだって少なくない。

 悲劇を生きるということは、自分の身に降りかかる悲劇それ自体を肯定することである。自分の不幸を笑いの種にする人は、たいていの場合、自分の不幸に諦めをつけている。よって、その人の不幸は、既に冷笑的(シニカル)な喜劇なのだ。

 生活を営む中で、僕はこのまま自分が生活の荒波の中に消えてなくなってしまうのではないかという不安に襲われる。もとい、そう感じることは少なくない。

 僕は自分の潔癖さを保ちたい。しかし、生きるということは、僕に何らかの形で汚れることを強いるのである。僕は影から逃げ惑うが、逃げた先には別の光に照らされた影が存在している。

 何かを選択し、何かを犠牲にすることを強いられている。