公開日記

その名の通りです

19/09/13-14

 生きている限り、人は必ず人間の持つ軽薄な側面に失望する。子供によく見られる潔癖さとは、その子供が何らかの形で汚れた大人に失望した反動であると言っていい。

 反動、人間のうちに潜むこの罪深き性質。どんな人も自分自身のうちに潜む反動的な、俗物性から逃れることが出来ない。僕達は良いことを知れば知るほど、同時に悪いことを知るようになる。それと同様に、その人の可能性が開ければ開けるほど、その人の影は色濃くなり、また深くなるのである。

 僕がここで思い出すのはニーチェのことだ。彼はツァラトゥストラというキャラクターの口を通して次のように叫ぶ。「嘔吐!嘔吐!嘔吐!」

 人間の持つ軽薄さ、俗物さ、ルサンチマンへの幻滅。それが彼に人間への嫌悪感を催す。そして何より、自分自身のうちにもそれらの要素があるということ。自分もまた人間の持つ反動的な性質からの影響をこうむっているのだということ。ニーチェはそのことに絶望し、そのことを嘆く。

 人間が変化を恐れるのは、その人自身が変わってしまうことを恐れるためではなく、他人が変わることによって、自分が傷つけられるのを恐れるからである。

 人が変化を受け入れられるようになるためには、変化の持つ軽薄な側面だけでなく、変化の持つ偉大な側面にも目を向ける必要がある。

 僕は他人の期待を裏切るのが怖い。誰かから信頼されたり、期待されたりする度に、いつそれを裏切ることになるか、そんなことばかりを考えて、いつもビクビクしてしまう。

 反動( = ルサンチマン)から人は逃れることが出来ない。しかし、その一方で、反動があったからこそ、この世界はこんなにも深くなった。つまり、反動的なものを徹底した先には、反動を克服するほどの素晴らしいものが待っている。それこそが僕達が反動から救われるための唯一の方法だと言っていい。

 ニーチェの唱えた「超人」とは、なにも人が神にも等しい存在になることではない。そうではなくて、現在の人間存在の状態から抜け出して、新しい人間存在へと至ること。つまり、ルサンチマンを克服することの出来る人間への至ること。それこそがニーチェの超人思想の意味であり、また意義なのだ。

 自分は社会に馴染むことが出来ない、社会不適合者である。このような悩みは、元々社会の内側にいる人間でなければ、感じ得ることが出来ない。「自分は社会不適合者だ」と感じる人は、社会の内側にいるにも関わらず、まるで社会の外側にいるかのような疎外感を味わっているからこそ、そう言うのだ。そして、これこそが人間疎外の現実である。

 自分の話し声を聞くと、思った以上に自分が高い声をしているので、驚く。もう何度も聞いているはずなのに、やはり聞く度に、自分が思っている以上に自分の声は高いのである。

 人間は自分の内側と外側のはざまにおかれた存在である。言い換えるならば、人は自分自身の内と外との関係の間に存在している。人間とはその人が関係しているものそれ自体なのだ。

 人は外部からの影響によって内部を形成する。その一方で、外部からの影響が悪く働いて、やがてその人の内面がそのまま他人の言うことの焼き直しになることがある。もとい、これは社会全体で見られることでもあるのだ。

 よって、次のことが問題となってくる。つまり、いかにして自分自身を保ちながら、外部からの影響を取捨選択し、自分自身と駆け引きするかということ。入ってきて欲しくない外部の影響力が次第に増していき、僕達はそれが侵入してくるのを防ぐことが出来ない。だからこそ、僕達は自分自身をどうするべきなのか、という問題に悩むのである。生きるとは他者と争うことではなく、自分自身と争うということなのだ。外部からの影響を必然的に受ける己の本性と、いかにして戦っていくのか。それが僕達が生きる上での課題である。

 将来への楽観はそれが裏切られることを前提に存在している。

 人が最もよく見落とすのは、それを自分がそもそも理解出来ているかどうかすらわからないことだ。つまり、その人が最も理解出来ていないこととは、それが自分でも理解出来ていないことに、その人自身が先ず気づいていないような、そんなことなのである。