公開日記

その名の通りです

19/10/18 : アリアドネ


 "愛しのアリアドネへ、ディオニュソスより"


 音楽は人を救わない。むしろ、音楽は人を孤独の中に置き去りにする。「君は一人じゃない」と慰めを歌う音楽はまやかしでしかない。真に美しい音楽は、僕達に孤独の現実を突きつけ、そして、僕達にそれを担うことを強いるものだ。

 高校の頃に、僕はキース・ジャレットの『ケルン・コンサート』というアルバムに出会った。ケルンで行われた彼のピアノの即興演奏を録音したこのアルバムを、当時の僕は、何度も何度も繰り返し聴いた。

 そしておよそ三十度目の再生の際に、僕は突然、深い絶望に陥った。「この人はこんなにも優れている。これは彼が三十歳の頃に行ったコンサートの録音だが、それよりも前に、それこそ幼い頃から、彼は神童として、たくさんの人の前でコンサートを行ってきた。僕は彼の足元にも及ばない。きっと僕が三十歳になっても、僕には決してこんなすごい演奏をすることは出来ない。彼に比べれば、僕には何もない。僕はどれだけ努力しても彼に追いつくことが出来ない」

 それでも僕はキースの『ケルン・コンサート』を繰り返し聴いた。彼の他のアルバムも何度も、何度も、数え切れないほど聴いた。そして聴くたびに、この世のものとは思えないような感動を覚えた。そして聴くたびに、自分はどう足掻いてもこの人に敵わないという気持ちに陥った。高校の頃、僕は音楽で成功することを夢みていた。だからこそ、自分には決して越えられない壁を感じたあの経験は、どうしようもなく深刻なものだった。

 美しい音楽は残酷なのだ。音楽は一種の暴力であり、聴き手のこれまでの人生を全否定するようなものでなければならない。なぜなら、真に美しいものとは、自分がこれまで知っていた世界を容易く壊すほどに強く、残酷で、暴力的なもの、恐るべきものだからだ。

 音楽は人を慰めてくれない。むしろ音楽は人を孤独にする。そして、だからこそ人は音楽を愛する。なぜなら、音楽は僕達を突き放すと同時に、僕達に孤独を担うだけの力を与えてくれるからだ。

 だからこそ僕は音楽が好きなのだ。音楽は僕を孤独にするが、同時に音楽は、僕に孤独を耐え抜くための意志を与えてくれる。音楽は僕を苦しめる。僕の理性を高め、僕の夢に残酷な現実を焼き付けてくる。僕の意識は音楽によって明晰になり、そして明晰になった意識は、僕自身のどうしようもない救いがたさを徹底して認識する。しかし僕はそれを担い、それを耐えることが出来る。なぜなら、そこには同時に、音楽の与えてくれる力が、つまり美しい音楽の感動があるからだ。


 創造行為とは人と人の心の交わりの中にあるのではない。むしろ創造行為とは、孤独な、なん人たりとも近づくことの出来ない、全く孤独な、荒廃した世界でなければ存在し得ない。


 僕は生身の女性が怖い、特に裸の女性が怖い。昔からそうだった。白状するが、どういうわけか、僕は幼い頃から女性が怖くて仕方なかった。女性と普通に話せるようになったのだって、だからこそ、とても時間をかけたあとでだった。

 僕は生身の女性に向き合うのが本当に怖い。そして、女性と肉体関係を持つのが怖い。裸で女性と向き合うことが怖いのだ。

 裸と裸で人が向き合うということは、普段自分が隠している部分をもさらけ出すということだ。そしてその状態で合体の行為に移ることは、隠している部分を互いにまぜ合うことに他ならない。僕にはそれが恐ろしい。要するに、僕は他人に受け入れられることが怖いのであり、本当の自分を愛されるのが怖いのだ。そして僕は、真実を知られて、誰かを失うのがとても怖い。

 束縛されることと自由を失うことが怖い。何かに溺れて、自分がひとつの場所に停滞することが恐ろしい。僕は元々、自閉的な性格をしている。だからこそ、誰かと一緒に楽しい時間を過ごしたら、それと同じくらいに一人でいる時間が欲しい。誰かを愛しすぎて、または相手から愛されすぎて、一人でいる時間が失われ、自由を失い、束縛の中に溺れることが怖い。

 肉体的な欲求が怖い。相手がを精神のために求めているのか、または肉体のために求めているのかがわからなくなることが怖い。肉体的な欲求は、僕にとってひとつの暗闇である。そこにあるものは何も見えない。そして、何も見えないからこそ、何もわからない。だからこそ怖い。僕はわからないものが怖い。肉体は僕の理性を不明瞭にする。僕は肉体的なものが分からないからこそ怖いのである。だからこそ肉体的な欲求から目をそらしたいと願う。

 僕は女性が怖い。しかし同時に、僕は恐れながら女性を愛している。僕は女性に手を伸ばす。それは女性を追い求める意味であると同時に、相手を拒絶する意味でもある。


 『ナクソス島のアリアドネ』というオペラがある。作曲者はリヒャルト・シュトラウスで、台本はホフマンスタールである。オペラは二部構成になっているが、僕は今回、その後半部分にだけ言及したい。

 一人孤島に取り残されている女神アリアドネ。そんな彼女の元に、ある日バッカスが訪れる。アリアドネは自分の不幸を嘆き、幻滅の日々を送っていたが、だからこそバッカスが自分のもとを訪れた時、彼を死の国の使者だと思い込む。アリアドネ死の欲動に駆られ、バッカスの方に身を投げ出す。しかし、バッカスは自らの口づけにより、アリアドネに愛の喜びを与え、アリアドネを苦しみから解放する。なぜなら、バッカスは死の神ではなく、愛の神だからである。

 バッカスギリシア神話におけるディオニュソスに相当する人物であり、オペラの筋書きはアリアドネディオニュソスの神話から取られている。

 アリアドネディオニュソスの関係性といえば、僕は真っ先にニーチェのことを思い浮かべる。ドゥルーズも指摘している通り、ニーチェはこのアリアドネディオニュソスの神話に憧れを抱き続けていた。だからこそ発狂後には、彼は自分の認める唯一の女性コジマ・ワーグナーに対して、「愛しのアリアドネへ、ディオニュソスより」と書いた手紙を送る。そしてオペラ作曲者のリヒャルト・シュトラウスは、そんなニーチェの熱心な読者であった。
 
 僕もこのアリアドネディオニュソスの神話がとても好きだ。アリアドネ、僕は君をさらいに来た。僕は君の誘惑者だ。君をこの無人島から連れ出したい。ディオニュソスの力強さに僕は憧れを抱く。僕もディオニュソスのようになり、アリアドネを迎えに行きたい。


 ついに十月十八日がやってきた。僕は一年間、できる限り毎日この日記を書いてきた。当初は、一年書いたら、一年分の日記の記事をブログから消して、再び最初から書き直そう、そう思っていた。もとい、去年はそのようにしていたのだ。去年もまた日記を書いていたが、僕は一年分それを書いたら、その分を皆消してしまった。

 しかし、気が変わった。ここには自分の知られたくないことが沢山書かれている。思い出したくないことも多く書かれている。しかし、それでも今はいい気がする。つまり、そのような内容があるからと言って、決して消す必要があるとは思わないのである。

何より、日記を書き始めた去年の今頃、僕は自分の目標が今頃には達成されていると思っていた。しかし、実際は違った。僕が手に入れたかったものはまだ手に入っていない。だからこそまだ書かねばならない。だからこそ、まだ消すことも出来ないのだ。今日までの日記を消すのは、その時が来るまでお預けだ。