公開日記

その名の通りです

小説『神様の話』 その五

 

 次の日、まゆりは普段通りに学校に登校していた。それと同日の夜から、私はりえ先生と連絡を取り合う事となった。毎晩、私は先生と数分間だけのやり取りを電話越しにした。

 私はそれをまゆりに告げなかった。決して疚しいことをしているという意識はなかった。ただ、まゆりを必要以上に悩ませたくなかった。そして何より、まゆりに余計な誤解を与えたくなかった。私はまゆりに何も言わないことを選択した。

 あの時のことを思い返すと、私は同時に私達の中学一年生の頃のことを思い出す。

 まゆりが保健室登校を始めると、私はそれまで関わりのあった友人達と縁を切った。彼らに話しかけられても、私は出来る限り何も話さなかった。私は彼らを避けた。すると、次第に彼らも私を避けるようになっていった。

 入学当初の友人の中には、同性だけでなく異性も何人かいた。私が周囲の人間と距離を取るようになってから一ヶ月と経つ頃には、既に殆どの人は私をいないものとして扱うようになった。しかし、それと同時期に、私は同じクラスの女子生徒から放課後に呼び出された。彼女は私のかつての友人だった。私は恋愛の告白をされた。そして、どこから嗅ぎつけたのか、まゆりはそれを影から見ていた。

 その日の帰り道に、まゆりは私に言った。

 「あなたみたいな人を好きになるなんて、物好きな人も居るんだね」

 恐らく、まゆりは怒っていた。そしてそれ以来、まゆりは私のことをあまり認めてくれなくなった。

 まゆりは美しかった。私はよくまゆりのことを「綺麗だ」と言って褒めた。それは私の本心からの言葉であった。私も比較的他者から容姿を褒められる方の人間であった。しかし、まゆりは一度も私の容姿を褒めたことがなかった。それだけでなく、まゆりは私が他から褒められるような点を、一度も褒めてくれなかった。それも恐らく、あの時以来のように思われる。

 唯一、彼女が私の中で認めてくれたのは、私の読書量についてだけであった。

 私はまゆりに認められたかった。私とまゆりの付き合いは長かった。しかし私には、まゆりが私を心から愛していると言い切れる自信がなかった。そしてまゆりは、きっと私と先生のことを知れば、また以前のように不機嫌になるに違いなかった。私はまゆりを無意味に苦しめたくなかった。そして私には、自分が愛しているのは彼女だけであるということを、何とかして示さねばならぬ義務があった。


 ある晩、私はその事をりえ先生に伝えた。

 私は先生のことを頭のおかしい女だと思っていた。そして、恐らくそれは事実であった。しかし同時に、彼女の語る言葉の節々に真理が含まれている事も、私にはまた事実のように思われた。

 私はやがて先生に心を開いていった。その結果として、私は上の時の出来事をりえ先生に話した。それ以外にも、私とまゆりのその他のことや、私自身の家庭のことなどを話した。私とまゆりの関係について詳しく聞くと、先生は次のように語り始めた。

 「君は本当にまゆりさんのことが好きなの?」

 「え?」

 「だって、まるで苦行のようにまゆりさんを愛しているじゃない。私には君が、義務とか責任とか、そういったものに縛られていて、本当はまゆりさんのことなんて見えていないように思えるの」

 「まさか。僕はまゆりが好きです。そして好きだからこそ、僕は彼女に負うべき義務と責任があるのです」

 「それよ、それが私には理解できないの。私には君が、まるで無理をして彼女を愛そうとしているみたいに見えるんだ。違う?」

 私はりえ先生の言っていることが上手く理解できなかった。先生は続けて言った。

 「まゆりさんと君、あまり相性が良くないんじゃないかな。このまま関係を続けても、お互いに苦しむだけだと思うよ」


 私とまゆりの性格が合わないのかもしれない。それは私自身、何度か考えたことがあった。そしてまゆりも、きっと何度かそう考えたに違いない。

 しかし、そんな事は皆どうでもよかった。私はまゆりにしがみついていた。もしかすると、私はまゆりを愛しているというよりも、まゆりに執着していたのかもしれなかった。しかし、それさえもどうでもよかった。私はただ、まゆりとこれから一緒にいることのできない将来のことを考えると、不安になった。そして、私にはその不安が耐えられなかった。だから私はまゆりにしがみついていた。私は壊れゆく絆をつなぎとめようとした。それ以外に私にはどうしようもなかった。


 連絡を取る上で、私のことだけでなく、先生のこともよく話題に上がった。私は先生にまつわるいくつかの事実を知った。まず一つが、先生には大学院で哲学の研究をしている恋人がいるということだった。次に知ったのが、先生と先生の恋人は、より自由な関係のもとに恋愛をしているということであり、そのために、お互いにお互い以外の人間とも肉体関係を持つことがあるということだった。

 私は内心軽蔑の念を抱きながら、言った。

 「まるでサルトルボーヴォワールですね」

 先生は笑いながら答えた。

 「私の恋人はサルトルみたいな醜男ではないわ」


 時折、私は、先生が私のことをどう思っているのか疑問に思った。しかし、その疑問は決して口にしてはならないもののように私には思われた。

 私は先生の恋愛遍歴をいくつか聞いた。そしてそれを聞くにつれて、私は不安になった。

 先生は性に対して奔放な人だった。彼女は自分の快楽のためなら何でもした。そしてだからこそ、私は不安になった。もしかしたら私が知らないだけで、まゆりもこんな風に男遊びをしているのかもしれないと思った。そしてそう思うほど、益々不安になった。彼女は私に隠しているだけであり、もしかすると、私の知らないところで逸楽に身を浸しているのかもしれない。

 冷静に考えれば、それはありえない話であった。それでも、私には、彼女が私以外の男と私以上に深い関係を持っているのかもしれない、または、私の知らないところで、彼女が自分の肉体を誰かと共有しているのかもしれない、そのような疑惑が離れなくなっていった。

 そしてこの疑惑は、先生と関わるにつれて益々深くなった。


 学校では、私は先生と何もなかったかのように過ごした。そして、先生もまたそのように振舞ってい。

 まゆりは先生のことを気に入っていた。私達はよく、先生と三人で放課後の校舎を過ごした。

 ある日、まゆりは今度の日曜日に先生を私達の教会に連れていこうと言い始めた。私は教会が私とまゆりだけの居場所だと思っていた。だから、心外だった。しかし、まゆりからのお願いだから、私はそれを許すことにした。

 ある日曜の夜、りえ先生は私達の教会の礼拝に出席した。礼拝堂には私とまゆりと牧師、そして先生しかいなかった。礼拝後、牧師は彼の書斎に私達を招待した。牧師は寡黙な性格をしていたが、とても心の寛容な人であった。彼はこのように、よく初めて礼拝に参加した人を自分の書斎に招いているらしかった。

 書斎に入ると、先生は部屋中を見渡した。そして、そこに収められている書物の多さに驚いた。彼女は私達の方を見て、言った。

 「こんなに沢山の本に囲まれて過ごしてきたの?まるでサルトルね」

 私は笑いながら先生の言葉に返した。

 「あんな軽い男にはなりたくないですね」

しかしあの頃、私は作家としてのサルトルには憧れを抱いていた。サルトルは哲学者であると同時に小説家でもあった。彼の代表作は、哲学書よりも先に小説であり、彼は哲学書にも、小説にも、そのどちらにも功績を残していた。私はサルトルのように、哲学的で、心理描写の細かい小説が書きたかった。サルトルの人となりは軽蔑していたが、作家としてのサルトルは、私にとって一つの目標であった。

 その事をまゆりと先生に話すと、先生は言った。

 「じゃあ何か小説を書いたりしてはいないの?」

 「実は書いているのですが、恥ずかしくて誰にも発表できなくて」

 私がそう言うと、まゆりが大きな声で口を挟んできた。

 「ええ!何それ!聞いていない!」

 話せるはずがなかった。私がその時に書いた小説の題材は、私とまゆりについてであった。私のまゆりに対する悩みが、そこにはそのまま吐露されていた。それを本人の前で発表するなど、私には出来なかった。

 私は小説についての話を濁した。それから少ししてから、その日は解散となった。


 それから後日のこと。学校の短い休み時間に、私は先生と廊下で偶然出会った。私達はその場で少し話し込んだ。私は先生に言った。

 「先生は僕の母に似てますね」

 「へえ、そうなんだ。どんな人なの?」

 「いえ、もう暫く会っていないからわかりません。ただ、あなたのように頭のおかしい女でした」

 「何それ、酷い」

 私達は笑った。そして笑いながら、私は続けて先生に言った。

 「僕は母に似ている先生のことが大嫌いです」

 「そう、ありがとう」


 私と先生が別れると、それを見計らったかのように、曲がり角からまゆりが現れた。まゆりは言った。

 「先生と何を話していたの?」

 私は答えた。

 「何も。ただの下らない話さ」

 「いつからあんなに仲良くなったの?」

 「仲がいい?まさか。僕は先生のことが嫌いだよ。それに、僕よりもまゆりの方が仲がいいだろ」

 「ふーん」

 不機嫌なまゆりを見るのは可愛かった。彼女がすねているのを見ると、私は自分達がまだ子供のままなのを知って、嬉しくなった。私は彼女をあやす様に機嫌を取りたくなった。私は彼女の顔を見つめながら、言った。

 「さあ、行こう。授業に遅れちゃうよ」

 まゆりの顔を見ていると、先述のような不安は馬鹿げたもののように思えてきた。時折私は、まゆりとまた以前のように、いさかいを忘れて、幼い頃と同じように楽しく過ごすことが出来るような気がしていた。そして、それだけが私の唯一の希望であった。

 私は淡い期待を抱いていた。どれだけ関係が拗れようとも、私達はまだやり直せると、私は心のどこかで信じていた。