公開日記

その名の通りです

小説『神様の話』 その六

 

 あの頃、私はまゆりと私自身を題材にした小説を書いていた。そこには、ただひたすらに私のまゆりに対する苦悩が描かれていた。

 当時、私は詩人リルケの書物を愛読していた。リルケは手紙の中で、創造行為とは無限に孤独なものであると書いていた。私は彼の意見に概ね同意であった。何かを生み出すということは、孤独になるということであり、苦しむということであった。


 ある晩、私は自室にこもり、まゆりとも先生とも接触を取らずに、自分の小説の執筆に勤しんだ。

 いつからか、私は夜の孤独を愛するようになっていた。夜、明かりの少ない部屋で孤独に過ごしていると、世界中が暗闇に包まれていき、自分以外の誰もそこには存在していないような心地がした。それは私に切り裂くような寂寥感を与えた。そして、私はこの苦しみの虜になっていた。

 そんな中で自分の小説に取り組んでいると、やがて私はひとつのことに気がついた。それは、私がまゆりとの幸福な思いに浸っている時には、決して小説が書けないということであった。


 幼い頃から、私は沢山の本に触れる機会に恵まれていた。そして私が一つ一つの不幸を積み重ねていくにつれて、私の読書への意欲は増していった。やがて私は作家になることを夢見るようになった。私は私の好きな作家たちのように、独自の思想を展開して、素晴らしい文章を書きたかった。

 歳を重ねるにつれて、私は本を読む量が増えていった。それに比例するかのように、まゆりと私の関係は複雑になっていった。そして、関係が複雑になるほど、私は読書の世界に熱中するようになった。

 私はまゆりのことで思い悩んだ。思い悩み、そして苦しんだ。苦悩に直面すればするほど、私は自分の内側にこもり、思索をした。まゆりに対する苦悩、そして孤独。それだけが私の創作根源だった。私が思索し、執筆するとするならば、そのための孤独と苦しみが必要不可欠であった。

 まゆりとの触れ合いは私に幸福な感情を与えてくれた。しかし、まゆりと関わるほど、私は小説が書けなくなり、哲学に思いを馳せることが出来なくなった。私は、自分の孤独が失われていき、自分の苦しみが緩和されていくほど、自分が憧れていた世界から遠ざかっていくことに気がついた。

 私は本を愛し、思索を愛した。私は作家になることを夢みた。しかし、それはまゆりと結ばれて、幸福な家庭を築く未来には決して存在しえない事実であった。


 私は誤解していた。まゆりが私を避けるようになったのは事実であった。しかし、それよりも先に、私がまゆりを避けていたのであった。私は初めから、まゆりを求めながら、同時にまゆりを拒んでいた。まゆりから距離をとり、近づきすぎないようにしていた。もし私がまゆりとの関係に完全な幸福を覚えてしまったら、もはや本を読むことも、小説を書くことも出来なくなると、無意識のうちにそう感じていたからであった。

 子供の頃から、私は、少しずつ自分のうちにあったもの、この広莫とした孤独の世界に気づいていた。そして、それが崩れていくのを恐れていた。だから私は、まゆりを愛しながら、まゆりを恐れた。まゆりが完全に私のものになってしまったら、私はもう作家になることを諦めなければならなかった。

 私は夜通しで小説を書いた。その時、私は孤独を感じた。苦しみを感じ、悲しみを感じ、絶望を感じた。そして、それらを感じるほど、私がペン先を動かすのははやくなった。私は取り憑かれたように書いた。そして書けば書くほど、私の内側にある暗闇があらわになった。私はさらに多くの暗闇を必要とした。執筆の中で、私はさらに孤独を求めた。苦しみを求め、悲しみを求め、絶望を求めた。執筆の速度は益々加速していった。

 私はまゆりと一緒になりたかった。まゆりと結婚し、まゆりと家庭を作ることに憧れていた。しかし、それは無理であった。まゆりがそれを受け入れてくれるかわからなかったが、しかしそれ以上に、私がそれを拒んでいたのであった。私はまゆりとずっと一緒にいたかった。しかし、それは、私の孤独の世界が壊れることを意味していた。そして、それが壊れるということは、私が作家になることを諦めなければならないということでもあった。


 私は、ふとリルケの残した別の言葉を思い出した。芸術作品は必然によって生まれる時にのみ良い、彼は手紙の別の箇所でそう書いていた。私にとって、この小説を書くことは必然であった。そこには、私がまゆりに対して語ることの出来なかった言葉の全てが注がれていた。そしてこの必然が生じるためには、孤独が、苦悩が、苦しみが、悲しみが、絶望が必要であった。

 私は自分の不幸にしがみつかなければ創作が出来なかった。私はその事に気がついた。そして、そのことに気がついて、泣いた。私は泣いた。泣きながら小説を書いた。書きながらその事を感じて、泣いた。私は彼女なしでは生きられなかった。しかし、このままでは、私は彼女と共に生きることも出来なかった。

 私には、この衝撃が耐えられないもののように思われた。私は益々大きな孤独を覚えた。私の苦悩はさらに猛烈なものとなった。苦しみが、悲しみが、絶望が、肥大化していった。そして、そうなるにつれて、私はさらに執筆に情熱を注いだ。

 私は狂ったように書いた。それまで、小説の執筆は不定期に行われていた。私は折々にそれを書いては、折々にそれを中断した。しかし、その晩、私は書いた。机にしがみついて、ただひたすらに、書いた。それは不気味な感覚であった。そうせざるを得ない、何か必然的なものに突き動かされているような感覚であった。私には書くことしか出来なかった。私にはそれ以外に他の選択肢が存在しなかった。ただ書くことだけが私の帰結であった。

 私は数時間、机を離れずに、ただひたすらに小説を書いた。やがて朝を迎えた。カーテンから日差しが差し込み、薄暗かった部屋が音もなく崩れ去っていった。

 私は呆然と椅子にもたれかかっていた。私は小説を書き終えた。


 書き終えると、様々な思いが私の頭に浮かんできた。

 私はまゆりを愛していた。幼い頃から、私は決してまゆりを傷つけることだけはしてはならないと思って生きてきた。しかし、もしまゆりと共に生きていくとを望むと同時に、作家になることを志すならば、私は必然的にまゆりを傷つけることになるように思われた。

 まゆりとの幸福な未来を空想することは、私にとって唯一の希望であった。もしまゆりとの幸福な未来を手に入れるならば、私は小説家になることを諦めなければならなかった。私の創作根源は孤独であり、また苦悩であった。そして、私が孤独を求め、また苦悩を求める限り、私は決してまゆりと幸せになることは出来なかった。

 一体こんな事をして一体何になるのだろうか?誰かを不幸にして、誰かを苦しめなければ生きていけないのだとすれば、何故そうしてでも、私は生きようとするのだろう。何もかもが馬鹿げているような気がした。それとも私が考えすぎているだけなのだろうか?

 私は自分のためにしか生きることが出来なかった。しかし本当は、私はまゆりのために生きたかった。わざわざ他人を不幸にしてまで何かにしがみつくことが間違っている、私はそう思われた。しかし私には、やはりまゆりが諦めることも出来なかった。

 私には死ぬことも出来なかった。私は生きることに未練と後悔しかなかった。このままでは決して死にきれなかった。私は他人に不幸をまき散らして生きていた。そして、一体何故そんなにまでもして生きる必要があるのかと思った。さっさと消えてしまいたかった。


 私はしばし呆然としていた。しかし、やがて私はその場から立ち上がると、りえ先生に電話をした。先生は起きていた。私は朝の挨拶もせず、向こうが電話に出るとすぐに、言った。

 「小説を書き終えました。今日、読んでくださいませんか」

 先生はただ一言、全てをわかっているかのように、答えた。

 「うん、いいよ」


 先生が目の前に現れてから、私とまゆりの関係性は変わった。または、私がこれまでに気づいていなかったことに気づいただけなのかもしれない。

 私は今日までに先生が私に語ったことを思い出した。先生は狂女であった。しかし、この狂女は真実を語っていた。私は彼女の語る真実によって追い詰められた。しかし、私の創作根源にあるのはまゆりであったが、私が小説を完成させるきっかけを与えてくれたのは誰かとなれば、それは他ならない、この先生であった。

 私は先生に私の書いた小説を最初に読んでもらいたかった。私を捨てた母に似たこの女、私にとって因縁である女、私達の日常を壊しながら、私が見たくなかった真実を教えてくれた女、私の創作根源が何であるかを教えてくれた女、私の師あり、また私が対峙しなければならないこの女に。


 その日は日曜日であった。私はシャワーを浴び、食事を取ると、着替えを済ませて外へ出た。電話の際、私は先生からある場所を指定され、彼女はそこを集合地とした。私はそこに向かっていた。

 家を出る際、私はまゆりに何も言わなかった。

 指定された場所につくと、そこには先生がいた。そして先生は言った。

 「行きましょうか」

 私は先生について行った。先生は自分の家で私の小説を読みたいとの事だった。