公開日記

その名の通りです

小説『神様の話』 その七

 

 先生は街の中心からやや離れたところに暮らしていた。彼女の借りていたマンションの一室は、ワンルームではあるが、広く、内装の美しい部屋であった。

 部屋に上がると、私は辺りを見渡した。沢山の本が物置小屋のように積み上げられていた。部屋の隅には、骨組みの見える簡素なベッドと、同じく何の装飾もされていない小さな机が並んで置かれていた。それ以外には何もなかった。まるで監獄のような部屋であった。部屋のカーテンは閉ざされ、日差しは殆ど入り込まなかった。

 灯りは机の端以外には置かれていなかった。先生は私よりも先に部屋の奥までいって、電気をつけた。昼間にもかかわらず、部屋は薄暗かった。そんな部屋に静かな灯りが一つ、ともされた。椅子が一つ、机の前に置かれていた。先生はそれを部屋の中央にまで持ってきて、座った。

 私はベッドの上に座り、先生に向かい合いながら、持ってきた小説の原稿を渡した。


 先生が小説を読んでいる最中、私はただ黙って先生の読む様を見守っていた。そして見守りながら、私は考え事をしていた。

 私は先生の恋人のことを考えた。その人は顔が広く、さる有名な海外の書物の翻訳者とも交流があるらしかった。私はその書物を愛していたから、知った際には、内心の驚きを隠せなかった。

 やがて私は、再び淡い期待を抱き始めた。もしかすると、私は先生を通して、その世界の人達と知り合う事ができるかもしれなかった。そして、それが自分の成功のきっかけになるかもしれないと考えると、心が踊った。私はまゆりのことを考えた。もし早くから成功することが出来たなら、まゆりも私のことを認めてくれるかもしれなかった。


 私は幸福な未来を空想し始めた。もしかすると私は、若くして文壇に名が知られるかもしれない。交友関係が広がり、様々な世界を見聞することで、私の世界もまた深まっていくかもしれない。そうしてやがて、世紀の傑作とも言うべき小説が書けるかもしれない。しかし家に帰れば、私の愛する唯一の女性、まゆりが待っている。私達は幸福な家庭を築き、お互いに新しい家族として、かつて失ったものをやり直すのだ。

 私は死ぬまで彼女を愛するだろう。その頃には、きっと私達の抱えていた問題は良くなっているに違いない。私は孤独と不幸を必要としなくとも、もはや作家として上手くやっていくことが出来るのだ。

 私は不安と期待に胸を馳せながら、先生が私の小説を読み終えるのを待っていた。この小説が上手く行けば、きっと全てが上手くいくような気がした。


 やがて先生はそれを読み終えた。先生は、何も言わず、ゆっくりと顔を上げて、私を見た。私はただじっと彼女が何かを言うのを待っていた。十数秒の間、私に視線を注いだまま、先生は黙っていた。

 ついに先生は口を開いて、言った。

 「ねえ、君はもうまゆりさんとしたの?」

 思いもよらない言葉に私は戸惑った。私には言葉の意味が理解出来なかった。呆然と先生を眺めていると、先生は次いで言った。

 「したの?」

 「したのって、何をですか?」

 私はやっとの思いで口を開いた。

 「何って、わかるでしょう」

 先生はにやりと笑った。その時、私は初めてその意味を理解した。私は声を荒らげて言った。

 「一体何を馬鹿なこと言ってるんですか?」

 先生は不気味な笑みを崩さなかった。

 「君の小説はとても綺麗ね。でも、それじゃあ物足りない。君にはリアリティが足りないの。精神はあっても肉体がないのね。

 知っている?恋愛は苦しい死と同じなのよ。それは何の解決策も私達に与えてくれない。私達はただ、恋愛の与える不可解な、不条理な苦しみに、病むことしか出来ない。そして恋愛は、死と同様、肉体を通してしか起こらないのよ。 だからこそ愛と死は近しい存在として語りうることが出来るの。

 君には肉体が足りない。でも、肉体こそ恋愛のリアリティなの。君は故意に肉体を避けている。君がまゆりさんとしたかどうか、そんなもの、本当は聞かなくてもわかるわ。君はしていない。絶対にしていない。君には手を出すことも出来ていない。何故なら君はとても臆病な人間だから。君は小説の中で、散々まゆりさんへの想いを綴った。それでも君はまだその事から目を背けている。君はまだ自分の苦しみに対して臆病であり続けている」

 先生は椅子から立ち上がった。そして私の両手を取ると、それを先生の両手で包み込んだ。

 そして、言った。

 「ねえ、私とする?」

 やはり彼女は正気ではなかった。

 「あなたは狂っている。するわけがない」

 「君はお母さんについても書いていたね。まるで全ての原因が彼女であるかのように。なるほど、それは一理あるかもしれない。でも、そんな話は馬鹿げている。苦しんでいる人っていうのはね、自分の過去を内省して、何か暗黒なストーリーをでっち上げると、自分の現在の苦しみを全部その関係者のせいにするの。あいつのせいだ、お前が悪いんだってね。まさに君のようにね。

 頭で考えていては何もわからないわ。ねえ、私としましょうよ。そうして君が目を背けているものに光を当てるの。それから一緒に、あるがままに苦しみましょう。そうすれば、もっとリアルな小説が書けるようになるわ。もっと苦しみを求め、悲しみを求め、絶望を求めましょう。私達はそれに身を浸して、そこに喜びを見い出すの」

 私は息を上げながら、じっと先生の瞳の奥を覗いていた。瞳孔の開いたその眼は、恐ろしい深淵を映し出しているかのようだった。

 私はやっとの思いで口を開いた。そして、言った。

 「先生、あなたは間違っている。あなたは不幸に依存しているだけだ。確かに、芸術作品には苦悩が必要だ。でもそれだけでは芸術作品は出来ない。芸術には理想が必要なんだ。ただ不幸にしがみつき、苦悩をさらに一層悪くしようとして、現在の不幸をより一層酷いものにしようとすることは、ただ不幸に溺れて、その事に快楽を見いだしているだけなんだ。それに…」

 私が口ごもると、先生が言った。

 「それに?」

 私ははっきりとした口調で次の言葉を言った。

 「僕はまゆりを大切にしたい」

 先生は笑った。こんなに笑う所を見たことがないと言えるほどに、笑った。そして笑いながら、私を押し倒した。そしてそのまま私の唇を奪おうとした。私は先生をつきのけた。先生は床に倒れ込んだ。しかし起き上がっても、先生はまだ笑っていた。

 「下らない倫理観ね。そんなものは捨てなさい。欲望に屈して、情欲に身を任せればいい。どうせ私達は皆塵に変わって死んでしまうのよ」

 私は独り言のように何度も同じ言葉を呟き始めた。

 「違う…こんなはずじゃなかった…こんなはずじゃなかったんだ…」

 先生は声を荒らげて、言った。

 「こんなはずじゃなかった?何を馬鹿なことを!一人で女の家に来て、何もしないで帰る方がおかしいってことくらい分からないの?どうせ内心期待していたんでしょ。馬鹿ね、本当に君は馬鹿!」

 「違う!僕はそんなつもりじゃ…」

 「君が私を必要としたのよ。君は寂しい思いをしていた。だから私を利用した。君はずっとまゆりさんが好きだと言っていた。でも、まゆりさんと上手くいってなかったから、私を利用して、埋まらない寂しさを埋めようとした。それが今更こんなことになったからって言って、何を脅えているのよ!」

 私には先生が何を言っているのかがわからなかった。こんな事になるとは思っていなかった。本当に思っていなかった。だから、これは不可解であると同時に、辛く、苦しかった。私は今すぐこの場から逃れたかった。そしてやっとの思いで、言った。

 「嫌だ…嫌だ!僕は…僕は、まだ汚れたくない!」

 先生は怒鳴った。

 「汚れなさい!汚れて、私を犯せばいい!それが大人になるということよ!」

 「それなら…それなら僕は、大人になんかなりたくない!」

 「馬鹿な子供ね!大人にならなきゃ、自分が成功したいと思っている世界にだって出れないのよ。それがわかって言ってるの?」

 途端に私の目の前は真っ暗になった。私は何も言わずに、ただその場で、目の前にいる先生の存在に怯え、震えていた。

 私は駆けだした。私は玄関へと向かい、自分の靴に無理やり足を突っ込むと、それが履けていない状態のまま外に出た。

 私は走った。私は宛もなく走った。辺りは既に夕暮れ時であった。空は静かに暗闇へと落ちていき、世界は夜に染まりつつあった。私は自分がどこにいるかもよくわからなかった。息が乱れ、全身からは汗が吹きでた。

 気がつくと、私は泣いていた。私は立ち止まった。夕闇に飲まれる自分の影法師を眺めながら、自分がこれからどうすればいいのかを考えていた。もう何もわからなかった。私は何もわからず、ただ消えていく太陽と共に、途方に暮れていた。


 数時間後、私は自分の家の前にいた。しかし、私は家に入らなかった。まゆりに会いたかった。彼女の顔を一目見て、安心したかった。

 私は時間を確認した。既に夜の礼拝は終わり、まゆりは家に帰っているはずの時間であった。まゆりの父は、金曜からの出張で家をあけていた。

 まゆりの家の玄関の前に立つと、私は呼び鈴をならした。反応がなかった。加えて何度か鳴らしたが、誰の声も聞こえなかった。私はふと、玄関の取っ手を動かした。すると、それは動いた。

 私は不安にかられ始めた。私は玄関の戸を開けて、家の中に入り、階段を昇って、まゆりの部屋の前へと向かった。

 部屋の前の扉に戸に着くと、私はノックをして、言った。

 「まゆり?いるの?」

 返事はなかった。私は何度か聞き返した。しかし、やはり物音一つしなかった。

 やがて私は、ゆっくりと、恐る恐る、部屋の戸を開けた。するとまゆりは、ベッドの上で、身を起こしながら項垂れていた。顔は前髪によって隠れていた。だから、彼女がどんな顔をしているのか、それはわからなかった。

 私は静かに、何かを確かめるような口調で、言った。

 「まゆり?」

 まゆりは身動き一つ取らなかった。そして数秒後、沈黙の中から、彼女は重い口調で、言った。

 「こんな時間までどこにいたの?」

 私は戸惑った。やや間を置いたあと、私は言った。

 「ごめん、言えない」

 まゆりは怒鳴った。

 「言えないって何!私、知ってるよ。りえ先生の家に居たんでしょ。違う?」

 私は唖然とした。

 「どうしてそれを?」

 「今日、あなたが何も言わずに外に出たから、私、あとをつけたの。そしたら、そこに先生がいて…」

 私はその場に立ち尽くしていた。再び息が荒れ始めた。私がまゆりに近づこうとすると、まゆりは立ち上がって、私を睨みながら、言った。

 「これ以上私に近づかないで!不潔よ!」

 「違うんだ、まゆり…僕は先生に小説を読んでもらおうと思って…」

 「ならどうして私には読ませてくれないの?あなたはやっぱり先生のことが好きなのね!」

 「一体何を言っているんだ!まゆり、どうしてそんな馬鹿げたことを…」

 「だって、あなたはいつも私に心を開いてくれないじゃない。もうずっと前から、私には、あなたが本心から話しているのか、冗談なのかがわからないのよ。あなたはいつも、いつも私に本心を話してくれない。面白おかしい態度をとってばかりで、自分が本当に考えていることは何も言ってくれない。ずっと距離を感じている。ずっと距離を取られているように思いながら生きてきたの」

 私の守ってきた日常が音を立てて崩れていった。

 「違うんだ…まゆり…僕が…僕が愛しているのは…」

 「先生の前ではあんなに楽しそうなのに、私といる時にはちっとも楽しそうじゃない。私が面倒ならはっきりそう言ってよ!」

 彼女は両手で顔を覆った。そしてその場で泣き崩れた。私には、もう耐えられかった。私はまゆりの傍へ駆け寄った。そして、彼女を強く抱きしめた。

 「僕が愛しているのは君だけなんだ!まゆり!僕には君しかいないんだ!君じゃなきゃ駄目なんだ!なのに、なのにどうしていつも上手くいかないんだ!」

 私は彼女と顔を合わせた。まゆりは泣いていた。幼い頃と同じように泣いていた。しかし、そこにはかつてない感情が含まれていた。まゆりは怒り、憎み、そして悲しむことで、自分の表情を歪めていた。胸が、痛かった。

 私は再びまゆりを抱きしめた。私はまゆりを愛していた。私にはまゆりしかいない、そのはずだった。しかし、どういうわけか、私達はいつも上手くいかなった。

 まゆりは泣いていた。幼い頃と同じように泣いていた。しかし、今度の彼女を泣かしたのは、他でもない、私であった。全ては私が悪かった。私は誰よりもまゆりを傷つけていた。私は気がついた。まゆりが今日までに私に示した態度は、皆彼女から見た私の態度の真似事であった。

 知らぬ間に、私も泣いていた。私達は静かに泣いた。いつまでも、いつまでも泣いていた。

 やがて私は再び口を開いた。

 「そうだ…まゆり…一緒に何処か遠い所へ逃げよう…そこで二人でやり直すんだ…何もかも、始めから…そうして、楽しかったあの頃に戻ろう…ここにいても苦しい思いするだけだ…何処か遠い、誰も僕達のことを知らない街へ行こう…あの頃の、失われた幼少期の続きを、そこでするんだ…」

 私にはわかっていた。もうずっと前から、私達はやり直すことが出来なかった。私達の関係は既に修復不可能であった。しかし、そんな事はどうでもよかった。私にはまゆりを手放すことが出来なかった。私はまゆりを愛していた。誰よりも愛していた。このまま一緒にいては、私達は決して幸せにはなれないことも、前に進むことが出来ないこともわかっていた。しかしそれでも、私にはまゆりとの関係を諦めることが出来なかった。

 私の言葉に対して、まゆりは何も言わなかった。ただ黙って泣いていた。私達は抱き合いながら、互いに泣いていた。時間は静かに、しかし無情に、私達の傍らを過ぎていった。これからどうするべきか、私にはわからなかった。

 

(終わり)