21/01/21

"我々は身体を信じなければならないが、生の胚芽を信じるように、聖骸布やミイラの包帯の中に保存され、死滅せずに、舗石を突き破って出てくる種子を信じるように、それを信じなければならない。"

 ある日暮れ頃、電車に揺られながら、私は突如永劫回帰の意味を理解した。何を見たわけでもなく、何を聞いたわけでもなかった。ただ、それが明らかな形をもって目の前に現れた。こう書くと、少しスピリチュアルな印象を与えるかもしれない。しかし驚くべきことに、これは極めて論理的は理解を伴う出来事であった。

 きっかけは先日の読書会であった。友人と主催する読書会で、私はドゥルーズニーチェ論を扱った。その際、もっぱら話題の中心になったのは、ドゥルーズによる永劫回帰解釈であった。彼のニーチェ読解はいささか特徴的である。ニーチェの遺稿集に基づいて論述を進めるからだ (「ニーチェの諸作品は、それらと同時代に書かれた『遺稿』と一緒でなければ読解することが難しい」と彼は書いている)。なるほど永劫回帰の思想は、『ツァラトゥストラ』をはじめとして、ニーチェの様々な著作に現れる。しかし、それが断定的に書かれたことは一度もない。『ツァラトゥストラ』の中でさえ、それは間接的に語られるに過ぎない。ある箇所で、永劫回帰は動物たちの口から語られるが、しかしツァラトゥストラはそれを否定する。永劫回帰の真の意味を理解したいならば、我々はニーチェの遺稿集を参照にしなければならない。

 やがてドゥルーズは一つの結論にたどり着いた。永劫回帰とは、ただ異なったものだけが回帰する現象であると。美しい音楽に感動した時、人はそれを繰り返し聞くことを求める。その美しさが特異的であるからだ。「類似物も等価物もない」、置き換え不可能なものがそこにある。それを通さなければ得られない感動がある。私は再びそれを聴くことを求める。「たった一度だけ」は繰り返されない。一度きりのものは、私を感動させない。ただ「もう一度」と求められるものだけ繰り返される。否、繰り返されるのを求めるものだけが回帰する。つまり、永劫回帰

 永劫回帰をこのように理解するならば、それはヘーゲル弁証法に真っ向から対立することとなる。弁証法においては、否定的なものの回収が原動力になる。疎外されたもの、廃棄されたもの、矛盾を引き起こすものを、自己に結びつけて解消すること。それが前進を引き起こし、より善い方向に向かうよう仕向けるわけだ。しかし、永劫回帰においては、その反対ともいうべきことが起こる。そこでは絶えず同じものが、「異なったもの」として求められる。丁度ひとつの詩を読む度に別の意味が見出されるように、ひとつの「同じもの」が絶えず異なった意味を伴って私の前に現れる。読書会の中で、「永劫回帰は依存性に近い」という意見が出たが、それは正しい。永劫回帰とは依存症である。「たった一度だけ」ではなく、絶えず「もう一度」を求めること。一回が二回になり、二回が三回になり、三回が数え切れないものになること。生成し、多数化すること。その時、人は前進するわけでもなければ、後退を求めるわけでもない。ただ歯車が回るように変化が生じる。同じ「異なるもの」が現前する度に、地震が起こるかのように運動が生じるのだ。

 「パスカルの賭け」という思想がある。要約すれば「神がいようといまいと、神がいる方に賭ければ人間は確実に幸せになれる」という考え方だ。しかし弁証法と同様、永劫回帰はそれの反対に向かう。私は再び回帰して欲しいものに賭ける。その時、こちらが幸福になるか不幸になるか、正しいのか間違っているのか、それは大した問題にはならない。ただ繰り返されて欲しいからこそ、その方に賭けるのである。

 モネの睡蓮への感動が、彼のあまたの睡蓮の絵画を生み出した。「モネの最初の睡蓮こそが、他のすべての睡蓮を反復する」とは、まさにその通りである。異なったものが回帰するとき、時計の針は動き始める。夕焼けを見たときに覚える感動は、これからも絶えず私を訪れるだろう。それを見なければ得られない感動があるからだ。その時、私は前進もなければ後退もない。ただ変化は生じる。変化を求めて異なったものに至るのではなく、ただ同じ「特異なもの」に触れる度に変化が生じるのだ。私が何処かへ向かうのではなく、ただ永劫回帰が私を何処か別のところへ連れ去ってくれるのである。

"帰還する死者たちだけが、弔いもせずあまりにも早く、あまりにも深く埋められた者であるということ、そして後悔は、記憶過剰よりもむしろ追憶の徹底操作における無力あるいは不調を示しているということ、これが真実ではないだろうか。"

 よって永劫回帰とは、再び生きるということ、再来するということ、遅れと共に生きるということである。知性は遅れてやってくる。過去のことを思い出して、やっと当時の真意に気づくことがある。私は愚かだから、誰かの語る言葉の意味とか、複数人のたち振る舞いのぎこちなさとか、自分が思い込みで済ませていることなどに、気づかないでいることが結構多い。私が直面する出来事のうちには、常に現在では理解し得ない余白がある。ある側面から見れば既に生きたはずのものが、別の側面から見れば、未だかつて生きられたことのないものとして現前する。 かつて生きられなかったものを、再び、新たに生き直すということ。それこそが永劫回帰の真意である。

"反復によって私達が病むとすれば、私達の病を癒すのも反復である。反復によって私達が束縛され破壊されるとすれば、私達を解放するのも反復であって、それら二つのケースにおいて、反復は己の「悪魔的」な力を証示している。治療の全体は、結局のところ、反復というひとつの旅である。"

 

21/01/16

 着飾るということには不思議な作用がある。ステージ上のメイクをしたバンドマンは、普段とはまるで違う、「別人」がそこにいるのを覚える。人が衣装を着るのではい、衣装が人を着るのだ。その人の精神状態が容姿に出るのではなく、むしろある容姿のために、人は一定の精神状態を持つよう強いられる。そしてこの衣装の作用、表面の作用を通すことで、自分がどういった人間であるかを理解することさえ可能になるのである。

"僕はその頃、ある種の服装から直接流れるらしい影響力のようなものを知ることができた。そんな古い衣装の一つを着ると、容赦なくその奇怪な力に支配されるのを覚えるのだ。僕の体のこなしや顔の表情、偶然な思いつきのようなものまで、もう自分だけの自由にならなかった。(……)しかし、こんな風な仮装がすっかり僕自身を失わしてしまうということはできなかった。むしろ反対に、僕が色んな姿に変化すればするほど、かえって自分というものがはっきり意識されてくる態のものだった。"

 優しすぎるということは、美徳なように見えて実は悪徳である。かつてモーパッサンは次のように書いた。「この人の大きな力であり、大きな弱点でもあるのは、その善良さであった。愛撫したり、恵み与えたり、抱擁したりするのに腕が足りないという善良さであり、創造主的な善良さであった。散漫で、抵抗力のない、意志の神経が一本麻痺しているようなもの、精力のどこかがぽっかり穴をあけているようなもので、言わば殆ど悪徳であった。」

 好意の終わりは、相手に拒絶された時よりも、むしろ相手に幻滅した時にこそ生じる。拒絶したいならば、情けをかけるのではなく、幻滅させなければならない。言い換えるならば、誰かへの好意とは、拒絶されても幻滅しない限り終わらないということだ。


 自分が知らないものほど、人はよく語りたがるものだ。その人が強調すること、あえて語ろうとすることは、それだけその人に不慣れなことである。

 最近になって初めて鬼の『獄窓』を聴いた。実に美しいアルバムだ。特に『糸』という曲が好きだ。せっかくだから、お気に入りの歌詞を引用しようと思う。「とめどない情念の涙/隣には泣きつかれ 眠るモナリザ/大人には 見えない世界/大人がいないと生きていけない/ちぎれない 糸なのに/聞こえない いつかのハーモニー/度重なる転校/甘い玉子焼きのいつもの弁当」。

 この箇所だけ読むと、一連の歌詞に続く「甘い玉子焼き」が浮いているように見える。しかし違う、この「玉子焼き」は主人公の成長を表しているのだ。該当する歌詞は二番のバースの最後に来るが、一方で、最初のバースでは日曜の朝に玉子焼きを作る主人公の姿が描かれている。彼は「度重なる転校」と共に少年時代を過ごす中で、次第に玉子焼きを上達していく。それは彼が親に頼れない子供であることをも意味している。

「糸」という言葉の使い方も印象的である。「運命の赤い糸」という言葉が示すように、本来、他者との関係において「糸」という言葉は、何かロマンチックな、肯定的な意味合いで使われることが多い。しかし、この曲の場合は違う。主人公は、まさに「ちぎれない糸」のために苦しんでいる。歌詞の中では、彼が家族との関係に悩まされている姿がよく描かれる。自分を苛むものから自由になりたい、家族のしがらみから抜け出したい。しかし、家族ほど近い他者はいない。文字通り、そこには「ちぎれない糸」がある。無力な子供は、大人には見えない世界で生きているが、しかし大人がいなければ生きていけない。

 曲を聴いてる時には感動するが、改めて歌詞を読むと、それが実に平凡でびっくりすることがある。歌詞というものは、おおよそ文字に起こしてみると大したことのないものばかりだ。どんなに陳腐な表現でも、音楽が感動的なら、それが途方もなく意味のあるものに聞こえてくる。特別な文章表現に聞こえてくる。しかし、稀に歌詞すら美しい音楽というものが存在する。鬼というラッパーの楽曲の幾つかは、そのいい例である。

 一体、人は何を持って文章を「文学的」とするのか。少なくとも言えることがひとつある。それは、文学とは決して感情表現ではないということだ。文学とはむしろ、感情の描写、あるいは感覚の描写を目的とする。「あれが好きだ」と語る時、その人を突き動かしているものは一体何か。一つの感覚にとらわれる時、一体いかなるものがその裏で作用しているのか。感情を解体し、感覚を解剖する過程に辿りついた時、文学が誕生する。「言葉が光/ラッパーが影/だが言葉がラッパーに光をあて成り立つ」と鬼が歌う時、彼は真実を述べているのだ。作者が主体になるのではなく、言葉が、描写が主体になる時、それこそ文章が文学的になる瞬間である。


 どんな時代であろうとも、人が最も幸福にしやすい相手とは、それだけ自分から離れている相手である。時代や地域に関係なく、ゴッホの絵はあまたの人々を感動させた。しかし彼の身内は、むしろ彼が絵に固執するために苦しんだのではないか。ゴッホから遠く離れた人ほど彼の絵に感動し、彼に近い人ほど彼の絵のために苦しんだのだ。無償で何かを与えたいならば、距離が必要である。自分に近いものほど、人は傷つける傾向にあるのだから。

 友情の美しさは距離にある。かつてドゥルーズは、哲学者を次のように定義した。「哲学者、知恵の友、すなわち知恵を求めど知恵を所有することのない者」。それに倣って、私は友情を次のように定義したい。「友情、つまり相手を求めても決して相手を所有することのない感情」。

 恋愛の特徴が距離の放棄にあるならば、友情の特徴は距離への固執にある。自分が相手のものではない (相手が自分のものではない) 以上、友情は距離をとる事を強いられる。気になることがあっても、「一線」を越えてはならない。自分の (あるいは相手の) 触れてほしくないところを避けるために、無関心を装わねばならない。私は友人に恥をかかせないし、友人もまた私に恥をかかせることがない。

 これは距離の為せるわざである。距離をわきまえること。尊敬のために無関心を装うこと。恥をかかせず、苦しみを与えないこと。相手を傷つけず、自分を傷つけない距離を保つこと。身体の接近と共に心の距離を埋めようとするのとは反対に、友情はまさに身体が決して交わらないからこそ距離を保つことが可能になる。私は今日までに出会ったすべての友人に感謝している。

 

21/01/11

 行為の危機、それは説明不可能な世界の現前から生じる。元来、人は行動に対して二つのイメージを抱くものだと思われる。一つはシチュエーション(状況) → アクション(行動の発生) → シチュエーション(別の状況の出現)で、もう一つはアクション(行動) → シチュエーション(状況の発生) →アクション(別の行動の出現)だ。あれがあるからこれがあり、あれのせいでこうなった。因果性の世界である。それは原因と結果が判明であり、一切が有機的に組み合わさり、解き明かすことの可能な世界だ。

 しかし、本当にその捉え方は正しいのか。シチュエーション→アクション→シチュエーション、あるいはアクション→シチュエーション→アクションでこの世界を説明づけることは、本当に可能か。そんな単純に片付けられることの方が少ないのではないか。私が見るもの、それは常に理解可能なものよりも理解不可能なものの方が多いはずだ。

 直面するのは、説明不可能な世界の現前である。因果性が断絶され、原因と結果が繋がりを持たず、一切の意味と理由が曖昧になった世界が、私の前に現れる。その時、行為の危機が訪れる。今や人は、蝶番の外れた時間の傍ら、あちらこちらをさまよい歩き、見えざるものを幻視する。理由なき行動、意味のない発言を繰り返し、「何故そうなったのか」が延々と不明瞭であり続けるのだ。『タクシードライバー』や『キングオブコメディ』の主人公がそうであった。妄想に取りつかれ、彷徨し、現実と空想の区別がつかない。言ってることとやってることがバラバラになり、「何故こうなったのか」「何が間違っていたのか」もわからないまま、物語は進行する。説明不可能な現実を前にして、彼が望むは奇跡が起こることだけだ。さもなくば、世界を自分と共に破壊するしかない(だからどちらもテロルに走る)。


 後期ドゥルーズのテーマの一つとして、信仰あるいは信頼の問題が挙げられる。ただし、それは決して宗教的信仰の話ではない。むしろ彼方にある世界(天国と地獄)ではなく、改善された世界(革命後の世界)でもない、この世界そのものを信じるということをドゥルーズは説いている。そして彼によれば、それは「身体を信じること」と同義なのである。

 何故この世界を信じることが、身体を信じることとイコールなのか。彼が度々取り上げるスピノザのテーゼを思い出そう。「我々は身体が何をなすのかを知らない」のである。言い換えるならば、それは「身体の持つ可能性/潜在性を知らない」ということでもある。我々は身体が何をなすのかを知らない。自分の能力がいかなるものであり、また自分の脳がどのように機能しているのかも知らないはずだ。身体にはまだ見ぬ可能性、今日までのこちらの知見を覆す潜在性が含まれている。ならば身体に目を向けるということは、今ある世界とは別の世界を求めることではなく、現時点で、既にこの世界の内に特異なものが潜んでいるのだと信じることと同義である。もし我々が何らかの問題に直面するならば、その際我々に求められるのは、今とは別の環境を求めることでは決してない。むしろ既に現時点で、何処かに現状の問題から抜け出す糸口が残されているのだと知ることだ。

 これはドゥルーズが初期から掲げている超越論的経験論の問題にも関わってくる。一つの出来事の実現のうちには、今はまだ実現され尽くしていないことが含まれている。一つの経験のうちには、今はまだ理解不能な領域が含まれている。それは子供の頃の体験が、大人になってやっと理解できるのと同じである。目を向けるべきは、この経験不可能な経験、経験を乗り越える経験それ自体の領野である。元来、人間の思考能力は、理解不可能なものを前にした時にしか発達しない。思考の無能力から出発しなければ、人は理性的になることが出来ないのである。理性的な人間とは、問題に直面する度に理性化のプロセスを組み立てる者のことなのだ。

 ドゥルーズはその点に着目する。もし経験が絶えず経験それ自体によって乗り越えられるならば、丁度いまの幸福を未来の不幸が打ち砕くように、現在の困難が未来の出来事によって打ち負かされることは可能である。時がかつてと異なった真実を私に見せるならば、そこにこそ私の現在を改善する余地があるのかもしれない。一見すると悲観すべきものに思えることにこそ、我々にとって最大の力が含まれているのではないか。

"別の世界を信じることではなく、人間と世界の絆、愛あるいは生を信じること、不可能なことを信じ、それでも思考されることしかできない思考不可能なものを信じるようにして、それらを信じることだ。"

「世界が悪質な映画のように我々の前に出現する」と、ドゥルーズは書く。私が直面するのは、自分の無力さを、自分の馬鹿らしさを、みずからの耐え難い凡庸さを示す現実である。その時、この世界に対する信頼が喪失される。ならば取り戻さなければならないのはこの信頼である。自分が無力ではない、この馬鹿らしさから抜け出せる、この耐え難い凡庸さを終わらせることが出来る、この恥を償うことが出来る。そう信じなければならない。この世界の内に、既にそこから抜けだす出口が備わっているのだと知らなければならない。信仰あるいは信頼とは、決して宗教のごとく与えられた言葉を鵜呑みにするのではなく、むしろ思考の限界に直面することによって、思考の臨界点に向き合うことで、みずからを乗り越える経験が存在するのだと知ることなのだ。

 かつて『ディアローグ』の中で、ドゥルーズは次のように書いた。「抜け出すこと、それは既になされているのであって、もしそうでなければ決してなされることはないだろう」。出口は既にこの世界のどこかに存在する。経験の内にある経験不可能な領野に、出来事に内在するまだ実現されていない領域に、思考に潜む思考不可能なテリトリーに、問題を解決する糸口が存在する。目を向けるべきはこの永遠に尽きることのないフロンティアである。そして信じなければならない、この世界は「悪質な映画」のようなものではないと。「人間はみな愚かで卑しいものだ」と語り、私に低劣であるよう強いるものどもから、または既に低劣であり愚劣なものと化している自分自身から、時には自らを傷つけてでもいいから、自らを守らなければならない。そのためには、もはや一つの方法しか残されていない。つまり、信仰を持つこと、この世界そのものを信頼すること……。

"現代的な事態とは、我々がもはやこの世界を信じていないということだ。我々は自分に起きる出来事さえ、愛や死も、まるでそれらが我々に半分しか関わりがないかのように、信じていない。(……)引き裂かれるのは、人間と世界の絆である。ならば、この絆こそが信頼の対象とならなくてはならない。それは信仰においてしか取り戻すことのできない不可能なものである。"

"我々は一つの倫理あるいは信仰を必要とする。こんなことを言えば、馬鹿者たちは笑い出すだろう。それは他の何かではなく、この世界そのものを信じる必要であって、馬鹿者たちもやはりその世界の一部をなしているのだ。"


 この事から、後年彼が何故ライプニッツ論を書こうと思ったのかを憶測することが出来る。ドゥルーズはその最初期から、ライプニッツに対して度々言及をおこなってきた。しかし彼がライプニッツのために一冊の本を書くことは、晩年になるまで一度もなかった。信仰あるいは信頼の問題が大々的に取り上げられる『シネマ2』の中でさえ、ライプニッツはあくまでニーチェによって乗り越えられる形で言及される。そんな彼が、何故ついにライプニッツ論を書こうと思ったのか。その理由は、ライプニッツもまた彼と同様に、世界の悲惨さを前にして信仰を持つ意味を痛切していたからではないか。

"神学的な理想が袋叩きにあっていた時、世界が神学に逆らって、あらゆる「証拠」を、暴力や悲惨を絶え間なく積み重ね、大地がおお揺れし掛けている時、それを救出する手段があるかどうか。"

 ライプニッツ楽天主義について、ドゥルーズは次のように述べている。「ライプニッツ楽天主義は、無数の呪われたものに根拠を持っているが、彼らは様々な世界のうち、最良のものの基盤である。彼らは可能な進歩の無限量を解き放つ」。最良なものは一つの結果に過ぎない。もとい、最良のものは、常に結果としてしか獲得できない。世界の悲惨さを前にして、そこから救いうるものがあるかどうか。「<善>から救いうるものを救うということ」。不条理に直面した時にこそ、私の理解は最良に達する。善は廃墟に咲く花である。それはこの世界の悲惨さを土台にしなければ芽を出すことがない。

ベルゼブルの憎しみの叫びは、下の階を震撼させるのだが、この叫びを聞くことなしに、我々は最良の世界を考えることなどできない。"

 この時、ドゥルーズの哲学はある奇妙な二元論を提示することとなる。それは思考可能なものと思考不可能なものの二元論、デカルトとは全く異なる心身二元論だ。そこにおいては、理性は自らの思考する能力を拡大するために、絶えず思考不可能な「身体」の可能性/潜在性を必要とするのである。

"哲学において肝心なことは、もはや古典的哲学が体現しようとしたような絶対的思考ではなく、不可能な思考であり、つまりそれは素材を洗練することであり、それ自体としては思考不可能な諸力を思考可能にするのである。"

22/01/06

 不思議だ。寝たい時に眠れず、寝てならぬ時に眠りが訪れる。いつからか、そんな毎日が繰り返されるようになった。自律神経が狂っているというやつなのだろう。

 不眠に悩まされることは、これまでにも何度かあった。しかし、かつての私にとって、不眠は一つのサイクルであった。少なくとも以前は、ある一定期間不眠に耐えれば、また元のように眠れる日が続くのであった。しかし、今は違う。否、もしかするとここ一年間、自分の睡眠のサイクルを管理できないでいるかもしれない。浅い眠りで外を彷徨い、家に帰れど瞳が閉じれず、やっと眠れると思った時には、既にまた外に出なければならない。何もない日が訪れれば、たまにはゆっくり休もうと思うが、すると今度は一日のほとんどを眠りに費やしてしまい、結局眠るべき時にまた眠れなくなる。昼に眠り、夜に覚める。そして暗がりのなかでひとり、本を開くか、液晶画面に目を泳がす。

 夢の不気味さは、目覚めれば夢を忘れてしまう点にある。けれども夢の印象は、目覚めた後にも残り続ける。夢の中で見た断片が、日中頭から離れないことがある。夢の残した幸福な印象、あるいは悲しげな印象、あるいはその記憶。

 時折、生活のさなかでかつて夢みたことを思い出す。そして数秒の間、これが夢で起きたことなのか、それとも現実で起きたことなのか、どっちだったかを確認しようとする。そう言えばあんなことがあったな。いや、これは本当にあったことなのか?そう、違うはずだ。思い違いでなければ、これはかつて見た夢の記憶だ……。

 美しい空想にこもって生きる事が出来たなら、一体どれほど幸せだろう。現実に傷つくことなく生きられるなら、一体どれほど楽だろう。どうすれば後悔を忘れ、過去に諦めつけることが出来るだろう。それが行為の果てに得られた後悔ならば、諦めもつく。「結局、こうなるしかなかったのだから」で説明がつくから。最も恐ろしいのは、中断された過去への後悔だ。過程の途中で中断されているからこそ、諦めることが出来ないのである。可能性が尽くされていないからこそ、「続き」を求めてしまうのだ。

 人生で初めて不眠に悩まされたのは、受験期であった。私はそんなに器用ではなかったから、遊びと勉強を両立させることなど出来なかった。だから、大学受験のために距離を置いた友人が何人かいた。加えてその頃から、私は以前に増して読書に熱中するようになった。当時の私には、自分の気分を乱す他の友人たちが目障りで、邪魔に思えて仕方なかった。学習を重ねる上で最も邪魔な存在は、友人である。あの頃の私は、本気でそう考えていた。

 結果的に体調を崩し、受験もまともに出来なかったので、そんな風に考えること自体間違ってたのかもしれないが。

 ニーチェが『喜ばしき知恵』の第五章で書いた、専門家についての文章を思い出す。「自分の狭い領域にしがみつき、見分けがつかないほど押しつぶされ、ぎこちなく、均衡を失い、やせ細り、(……)ついに魂は奇形で歪んだ姿と化してしまう」。しかし人には、そこまで突き詰めなければ、たどり着けない何かがあるのだ。「専門家は、自分の専門の犠牲になるといった代価を払うことで専門家となる」。まさにその通りだ。だからこそ、ニーチェは次のように書き加える。「いやはや、専門家の学識を備えた我が友人たちよ!私は諸君を祝福したい──その猫背ゆえに!」

 私は今、二つの世界のあいだで揺れている。学術の世界と享楽の世界のあいだで。事実自分は、遊び人と言うにはあまりにも真面目すぎるし、学者というにはあまりにもちゃらんぽらんだ。ふとした時にこのことを思い出して、ため息をつく。そして考えるのである、「どうしたものか」と。

 そういえば、今日は雪が降っていた。久しぶりに見る雪は美しかった。この様子なら、明日もまだ雪景色を見れるかもしれない。

22/01/01

 初日の出を見た。思えば生まれて初めてかもしれない。日の出自体、偶然見かけることはあれど、ほとんど拝むこともなく生きてきた。綺麗だった。徐々に、ゆっくりと、黄金の輝きがあたりを焼き尽くしていく。しかし、気がつけばそれも終わっていた。地平線と繋がっていた太陽は、今や地から離れ、淡色の空を照らしている。それが少し寂しかった。あんなにも美しい時の訪れがあるのかと思いきや、次の瞬間にはそれが終わっているなんて。ああ、なんでもっとちゃんと見ていなかったのだろう。

 そう後悔する反面、初日の出を見に行く人々の気持ちがわかった気がする。感動は「私」と言わない。「感動した」と語る時、人は文字通り我を忘れるのである。だからこそ、感動は私に属さない。感動はこちらを感動させる出来事に属する。

 この感動をもう一度味わいたいから、多分来年も初日の出をみると思う。もしくは、今度ひとりで海辺に日の出を見に行こうかと思っている。私を感動させるものだけが回帰する。つまり永劫回帰だ。


「青春」という言葉を耳にする時、人はよく詩的で、ロマンチックなものを思い浮かべる。あたかもそこに自分の最高の思い出があるかのように。しかし、私はそうは思わない。青春というものは本来、醜く、痛々しく、いたましいものだと思われる。少なくとも自分の場合、自分の青春時代に戻りたいとは決して思わない。なるほど、青春をやり直したいとは思う。例えば三年前の一月三十一日をやり直したいとか、そういう気持ちなら大いにあるかもしれない。しかし過去の自分を振り返ると、今なら決してしないことや、思い返せば恥ずかしくて仕方ないことを沢山している。それに、思い出したくもない嫌な仕打ちも多くあった。自分を取り囲む不愉快な環境、不条理な現実もある。だからやり直したいとは思うが、戻りたいとは思えない。

 それでも思い出は美しいまま残り続ける。過去を回想すれば、感傷的な気持ちに駆られ、涙を流すこともあるだろう。しかしそれは、追憶と記憶が別物だからである。追憶に感傷がつきまとうならば、それは追憶が絶えず喪失したものへと向かうからだ。

 ドゥルーズが「結晶」という言葉を用いる時、そこにはある特殊な意味合いが含まれている。記憶と結晶。この二つの言葉が結び付けられる時、誰もが美しく、ロマンチックなイメージを思い浮かべる。その代表格が、スタンダールの語る「結晶作用(cristallisation)」だろう。対象から、対象との記憶から、美点だけを引き抜き、結晶化する。それは非常に詩的な意味が含まれた言葉である。

 ドゥルーズの語る「結晶」は、まさにそれと対照的である。彼によれば、時間の結晶の特徴は、その構造が「不透明で濁っている」点にあるからだ。一見すると水晶玉は美しいが、それを通してみると、あらゆるものが歪んで見える。結晶の本質は、その内容が曖昧で、混濁していることにある。だからこそ、ドゥルーズは「結晶」を決して美しくないものとして描き出す。そして、曖昧で濁った結晶から抜け出すために、結晶を割ってその外に出なければならないと語るのである。

 先日、『表現と結晶』というタイトルの小説をブログに載せた。それがどう受け取られてるかはわからないが、私は青春の痛々しさ、いたましさと、不透明で濁った時間の結晶を描きたいと思った。語りたいことは色々あるが、可能な限り抑えていこうと思う。作品を説明することは、それ自体作品の失敗を意味する。作品によって伝えたかったことが伝わってないことの現れだから。それを踏まえるならば、今私がしていることは、それ自体みずからの失敗を語ることに等しい。

 そう、青春とは痛々しく、いたましいものだ。私もまだ二十中盤だから、人から見ればまだギリギリ青春が許された歳なのかもしれない。そして実際、過去を思い返して苦虫を潰したような顔をする自分自身、今なお結構痛々しい奴なのだろう。しかしとにかく、それでも自分が考える「醜い青春」、読んでいて顔をしかめるような、いたましい青春を描きたいと思った。そういう意味では、この小説は成功だと思われる。主人公は結構キモい奴だし、ヒロインもまあまあ嫌な性格をしている。そしてその二人が、決して美しいとは言えない時間を共に過ごす。私の考える青春、いたましい若き日々そのものだ。どうにもならないことに頭を抱え、悩む必要のないことに悩み、視界が暗く、前が見えず、ただ壁に頭をぶつけることしかできない。私を含め、悩みは多いが知恵の足りない若者の日々においては、そんな光景がよく見られる。

 しかし、それを描くという点以外では、あまり成功していないように思われる。この小説には笑い所が沢山あるが、それも伝わっていないようだ。主人公は「自分が書くのは自伝でもなければ、恋愛小説でもない」と語っているが、一見すればその内容は自伝だし、恋愛小説である。この矛盾、馬鹿らしさは、結構笑えるというか、滑稽だと思うのだが、しかしどうやらそれに笑っているのは自分だけらしい (というか、そういう意見が寄せられた) 。しかし実際、これは自伝でもなければ、恋愛小説でもない。少なくとも、私は小説に書いたような経験を一度もしたことがない。ヒロインのモデルになった女性もまたいない。強いて言うなら、このヒロインのモデルは私である。私が女体化したら多分こんな感じだと思う。書いていてそんなことを思っていた。

 小説の内には沢山のパロディが含まれている。たとえばヒロインの死に方は、小説の冒頭で言及された『アンナ・カレーニナ』のモロパクリである。アンナは「あなたはいつかきっと後悔する」と言い残して自殺する。そして彼女の死後、恋人のヴロンスキーは、いくら昔の彼女の面影を思い出そうとしても、死の直前の憎しみに満ちた、威嚇するような眼差しをしたアンナしか思い出せないのである。あと、小説全体は『マルテの手記』を下敷きにしている。その他にも、パロディしたものは沢山ある。語ればキリがないほどだ。中にはトーマス・マンドゥルーズの文章をほとんどそのままパクった箇所もある。そういう意味では、これはやはり「笑える小説」である。

 しかしそれも、伝わっていないのならばほとんど意味の無いことだ。今回の小説について、反省点がいくつかあるが、一つは「あまりにも個人的すぎた」ということだ。それは決してあまりにもパーソナルな経験に基づいて書いたということではなく、ただ私自身の趣味を反映させすぎたということだ。公開して気づいたのは、この小説を読んで笑うのは私くらいだということだ。「あまりにも暗くすぎる」というのが読んでくれた方のひとりからもらった感想だった。私自身は、ほとんどずっと笑いながら書いていたのだが、書き手の気持ちというのは案外伝わらないものである。

 二つ目の問題は、一つ目のものと密接な繋がりを持っている。それは「あまりにもスノブすぎた」ということだ。自分に特有の貴族趣味というか、気品あるものへのこだわりみたいなものが前に出過ぎた気がする。しかし、品性へのこだわりは行き過ぎれば下品になる。人間、高潔であることを望むなら、ある程度俗っぽくあるべきである。

 本来、実生活をテーマにした小説というものは、当時の社会の風俗なり習慣なりが大きく反映されているものである。トルストイにしてもプルーストにしても、彼らの小説を読むことの面白さは、当時のロシア/フランス社会に生きる人々の生活を覗き見できることだ。そういう意味では、所謂「リアリズム文学」のいい所は、当時の人間がどんな風に生きていたかを知ることが出来る点、今とは別の時代の特定の地域の価値観にどっぷり浸れる点にある。私が書いた小説には、インターネットとか同人誌の存在を登場させることは出来たが、しかし現代人の風俗・習慣がちゃんと反映されてるかとなれば、決してそんなことはないと思う。音楽についても、クラシックの話しか出来なかったが、本当はロックやヒップホップ、アンビエントの話もしたかった。要するに、もっと俗っぽい小説を書きたかったのに、それが出来なかったのである。

(一方で、この問題は別の問題をも提起することになる。それは「昨今における文学の意義とは何か」ということだ。昔は小説が当時の社会文化を伝える - 代弁する役割を果たしていたが、今はそれが漫画や映画にとって代わっている。事実、今どきの若者は、最近出版された小説よりも、ネット上で見れる漫画や映画の方に多くの共感を寄せるだろう。ならば、現代において、文学の役割とは何か。書くという行為[エクリチュール]にしか出来ないこととは何か。小説、それは詩と論文の中間に位置するものである。絵や映像のような具体性を伴わないからこそ、より直接的にイメージに訴えかけることが、文学においては可能なのではないか。)

 そして三つ目の問題は、上記二つの問題を総括することとなる。つまり、「自分のために書きすぎた」ということだ。人に読ませるものならば、どうせなら他人が読んでも楽しめるものにすればよかった。あまりにも個人的な趣味を反映させすぎた。もっとひとのために書けばよかった。そんなことを思っている。だから次回以降は、私の周囲の人間や、私から遠く離れた人、あるいは私が忘れずに覚え続けている人など、とにかく他人が読んで楽しめるものを書きたい。どうせ読まれるなら、悲しむ姿よりも喜ぶ姿の方が見たい。

 自分のために何かをするなら、ずっとひとり遊びをしていればいい。正直、私はそっちの方が幸せに生きられると思う。永遠に終わらないひとり遊びができる砂場があれば、一生そこに閉じこもっている自信がある。しかし、そうはいかない。生きていく上で、人は他者と、社会と向き合うことを迫られる。しかし、もしそこに同胞がいるならば、その同胞のために何かをした方がずっといい。どうせ生きるなら、私は誰かのために生きたい。これからの目的は、自分以外の者のために何かをするということだ。どうせなら自分だけでなく、他人をも喜ばせたい。

 以前ある方がブログの中で「文学とは、劣等感を抱え、まともに生きれない人間が社会と繋がれる唯一の行為である」と書いていた。確か、その方の読まれた小説についての書評でそのような表現が出てきたと記憶している。私もそうだと思う。文学だけではなく、芸術それ自体は、それによってしか社会との繋がりを保てない人間のための、唯一の拠り所である。それは科学者が科学研究をしなければ生きていけないのと同じだ。

 確かに、芸術にせよ科学にせよ、それに何か大きな意味が与えられることがある。事実、芸術は人間の思考に革命を与え、科学は人間の生活に革命を与える。そういう意味では、芸術と科学の力は政治よりも強い。しかし、権力を保持し続けるのは常に政治である。そして芸術家や科学者たちは、権力に対して無力であり続ける。もし政治よりも芸術、科学の方が強いと語る人間がいれば、それは世の中が見えてない馬鹿者である。いつの時代も、芸術と科学は、当時の権力から庇護されるか、あるいは迫害されるかをして生き長らえてきた。だからそこにはある種の折衝が起こることとなる。

 さて、話が逸れてしまった。とにかく、私は上記の意見に賛同である。文学もとい芸術は、社会をまともに生きれない人間が唯一他者と繋がる方法として残されている。おそらく私には、書くことによってしか繋がれない人間がいる。私は芸術家だ。たとえいつかドゥルーズについて本を書くにしても、ドゥルーズは哲学と芸術を同一視していたため、彼について書くことは芸術について書くことと同じである。そして、自分を芸術家だとみなすことは、決して大それた話ではない。多分それは、自分が出来損ないの人間であると認めることとほとんど同義である。しかし多分、そういう出来損ないの人間にしかできないことがこの世にはある。私は心のうちでそう信じている。

《表現と結晶》エピローグ

 警察はXの死を事故によるものだと断定した。Xの両親とも、彼女の死によって初めて会うこととなった。しかし、その辺りのことは、もうあまり思い出せない。

 彼女の葬式にも参列した。会場からはひそひそと話し声が聞こえた。参列中、私はできる限り彼女との幸福な日々を思い出そうと努めた。初めて出会った日、初めて互いに本心を打ち明けた日、初めて二人が結ばれた日……。しかし、どれを思い起こそうと努めても、すぐ死に際の彼女とのシーンがフラッシュバックするのであった。あの「後悔するよ」という声と、焦燥し切った顔立ちと、威嚇するような眼差しが、絶えず私の前に現れるのだ。脳裏に焼き付いて離れないのだ。そして、それらを思い出す度に、悲しみというよりもむしろ後悔の涙が頬を伝った。

 日々は非情に過ぎていった、時間の痕跡を拭いさらないまま。最早、抜け殻同然だった。生きながら死んでいると言ってもよかった。死因は他ならない、自らの半身に殺されたためであった。

 荒れた日々が続いた。結局、同期との連絡は絶ってしまった。同人誌の話も、少なくとも私には関係のないものになった。身勝手だとは思うが、Xのことを思い出したくなかった。

 代わりに、とにかく色んなことを試してみようと思った。少年の日に断念したランニングを、およそ十年越しに再開してみた。思った以上に走れることに気がついた。思春期の頃のようにむしゃらに、沢山の本を開いてみた。以前に比べ、読書量が遥かに増えた。初めて、身体だけの関係ができた。都合がいいと思う反面、案外こんなもんかという感想を抱いた。職場の人間関係にも気を遣い、仕事にも精を出した。すべてが円滑に向かいそうだった。そして私は少しずつ、自分が彼女の嫌ったタイプの人間に近づいていることを感じた。

 日を追う事に、自分が嫌になった。しかし、どうすればいいかわからなかった。ただ威嚇するような彼女の顔だけが度々頭に浮かんだ。結局、それを忘れるためにはがむしゃらに、闇雲に、あるいは自暴自棄に何かをするしかなかった。今から思えば、こんな努力はどれも無駄骨であったと言ってよかった。

 ある晩、私は持ち物を整理した。すると、押し入れの中から彼女との写真を集めたフォルダが出てきた。まだ死んでから三ヶ月と経っていない頃だった。しかし、写真を眺めていると、それがどれも遠い昔のことのように懐かしく思えた。それは恐らく、これらの記憶が私にとって唯一愛おしむべきものであるからだった。

 その時である。彼女が死んで以来、私は初めて「あの表現」以外のXを思い出した。あの絶望した、復讐心に燃える女性ではなく、繊細で美しい、私の愛したXの姿が、かつての写真を通して蘇ったのだ。

 以後、毎日彼女の写真を持ち歩くことにした。何処に行くのも、何をするのも一緒だった。休憩時間がくれば、本と交互に写真を眺めた。家に帰れば、フォルダ全体を眺めた。そして時には涙を流した。私の失われた青春の記憶。崩れ去った初恋の思い出。泣きながら写真を抱きしめることも少なくなかった。

 そのような日々の中で、不意に「彼女は本当に事故死だったのではないか」という天啓が訪れた。この考えは次第に膨らんでいき、やがて拭い去りがたいものとなった。そうだ、考えてみれば当然のことじゃないか。こんなにも愛した人間が、こんなにも愛してくれた人間が、私を苦しめるために●●するわけがない。私を後悔させるために、●●するわけがない。ああ、自分はなんて馬鹿な思い違いをしていたんだろう。彼女が●●するなんてありえない話だ。きっと雨夜の中で周りが見えなかったに違いない。ああ、そうだ。そうだとも。彼女は●●じゃない。きっと本当に事故死だったんだ。

 私は生活を一変させることにした。彼女の写真をフォルダから出して、すべて生の状態で机の引き出しに入れることにした。書き物をしている時、本を読んでいる時、挫けそうになったら、いつもこの引き出しを開けばよかった。ランニングと読書の週間は続けていくことにしよう。しかし、あのよくない関係の女友達とは縁を切ろう。勿論、その尻拭いもする。今働いている職場も辞めよう。あの仕事はあまり自分には向いていない気がするし、丁度いいと思う。

 比較的に、前向きに生きる日々が続いた。私はがむしゃらに働いては辞めてを繰り返した。前を向いたからといって、物事が全部上手くいくわけではなかった。しかし、それでも立ち直ることが出来た。心の中に「あの頃のX」がいたから。しかし、時にはある映像がフラッシュバックすることがあった。そこには「後悔するよ」という声があり、絶望し焦燥し切った顔つきがあり、威嚇するような眼差しがあった。途端に、全身から脂汗が出てきた。私は両手で顔を覆った。息が苦しかった。「やはり」という言葉が頭に浮かんだ。しかし、そこから先を突き詰めることはどうしても出来なかった。

 彼女が死んでから一年が経とうとしていた。その頃、私はやっと自分でも働けそうな仕事に出会った。職場の人間関係も良好だった。最初、私は人を避けるように過ごしていた。休み時間も一人で本を読んで過ごしていた。しかし、次第に周囲の心優しい人達のおかげで、人と話すことの喜びを思い出すようになった。就職してから二、三ヶ月が経つ頃には、やっとではあるが、仕事にもその場の人達にも馴染むことが出来た。

 入社から半年後、私より二、三ほど歳の若い女性が新しく入った。小柄で、痩せ型の、あどけない顔つきをしたひとだった。しかし、その表情は何処となく張りつめたものあって、そのせいで私より年上にも見える気がした。私は何となしに、Xのことを思い出した。

 歳も近く、入社した時期も近かったからだろうか。私がこの女性の教育係に任命された。そのおかげもあって、他の社員より仲良くなるが早かった。生まれて初めて持つ後輩の存在に、ちょっと浮かれていた。後輩は私を慕ってくれていたと思う。時には他の社員から茶化されることもあった。「ああ、面倒臭いな」とも思ったが、正直に言うと、満更でもなかった。

 後輩の入社から三ヶ月くらいが経った。私達はそれなりに仲が良かったと思われる。ある晩、もう何度目かの仕事帰りの酒呑みに出かけることにした。次の日は休みだったからか、向こうは普段よりも酔っていた。やはり私はチョロかった。酔った相手の姿は、普段の数倍可愛く見えた。二人で飲み屋街を歩いている時、よたよたと歩くその体は、私にぶつかったり離れたりした。私も多少なりとも酔っていた。だからだろうか、自分に甘えてくる右隣の相手のことが、とても魅力的に見えた。

 もしかしたら、このままこいつと付き合うのも悪くないのかもしれない。無論、向こうがそれを承認してくれればの話だが……。そう思うと、走馬灯のように将来のことが頭をよぎった。多分、私達は楽しく暮らせるだろう。同じ職場で精を出し、休日には何処かへ出かけ、互いに笑い合い、夜になれば映画を観て、二人一緒に眠りにつく。きった夢も見ないほど深い眠りを共有できるだろう。もしかすると、それが私のずっと求めていた「幸福な生活」なのかもしれない。

 しかし、何かが欠けている。そして足りない何かのために、私は心からこの人を愛せないのである。

 その時である。ハッとして後ろを振り向いた。何処かで、あのギラギラとした眼差しが私を見ているような気がした。いや、後ろだけじゃない。二人を取り囲むこの人混みの何処かで、Xがこちらを見ているような気がした。不気味に光る大きな黒目で、絶望と憤怒に焼き尽くされた顔をして、威嚇するように「後悔するよ」の一言を口にしていた。

 私はその場で立ちつくした。そして、一人静かに笑っていた。

 こちらを心配する声が聞こえる。

「いや、大丈夫だよ」

 そう返すと、私は声の持ち主を駅まで送っていくことにした。仕事を辞めたのは、その一ヶ月後である。


 こんな事は初めてだった。仕事を辞めて一ヶ月、何もせずただボーっとしているなんて。ベッドの上にうずくまり、来る日も来る日も目覚めては寝てを繰り返した。私は不思議でならなかった。何故私達は幸福になれなかったのだろう。何処で私達は間違えたのだろう。

 「 もう少しのところで、僕はすべてを理解し承認することができるのかもしれぬ」。ふと、『マルテの手記』の数節を思い出した。「もう一歩踏み出すことができれば、僕の深い苦しみは幸福に変わるだろう。しかし、その最後の一歩を、僕はどうしても踏み出せないのだ」。

 ああ、そうだったのか。やっとXが正しいことに気がついた。『マルテの手記』は没落の物語なのだ。最初、マルテは敗残者としての運命に抗おうとする。しかし、彼の抵抗は失敗に終わる。そうでなければ、小説の後半のあの開放的な雰囲気を、どう説明できよう。個人の幸福を諦めたことによって、彼は初めて前を向くことができたのである。自分の人生が崩壊の過程であることを、悲劇であることを肯定したのだ。それこそが、小説の終結に至る過程で獲得した、彼のたった一つの勇気であり、どうしても踏み出せないはずだった「最後の一歩」なのだ。

 突然、心が明るくなって、力が湧いてくるのを感じた。何かをしたい気持ちで一杯になった。私はずっと無理をしていた。必然のことを悲観して、どうにもならないことを変えようと悩んでいた。しかし今、やっとわかった。自分が何をするべきなのか、自分がどう生きるべきなのか。

 私はベッドから身を起こした。本棚に向かい、『マルテの手記』を開いた。そしてカーテンをあけて、埃の積もった机に向き合い、何も書かれていないノートを開いた。突然、書く欲求に満ち溢れたのである。確かに、あまりにも沢山の時間が無駄に過ぎてしまった。振り返れば色々なことがあったかもしれない。しかし、両手を開いてみても、そこには何も残っていない。私は抜け殻だ。空っぽな人間だ。しかし、それでいいではないか。やっと、ずっと自分の躊躇っていた「最後の一歩」を踏み出す気になれたのである。

 時計を眺める。もう五時だ。朝焼けが地平線から昇り、燃えるような金色がこの世界を照らし出そうとしている。気がつけば、あんなに激しく降った雨も止んでいた。空には雲ひとつない薄明が広がっている。私はこの小説を書き終えなければならない。もうその時間だ。しかし、その前にやらなければならないことがある。もうわかってるはずだ。

 スピーカーに手を伸ばし、電源を入れた。毒薬のごとき音楽の告白に溺れたくなった。ベルクのヴァイオリン協奏曲が、《ある天使の思い出に》寄せられた音楽が流れ始めた。しかし、間もなくそれを止めた。ここで感傷に酔っては、きっと前と同じ間違いを繰り返して終わりだったから。

 机の引き出しを開いた。そして、そこにあった沢山の彼女の写真をビリビリに破り裂いた。目を逸らしていた。彼女は事故なんかじゃない。自殺したのだ。私を後悔させるために死んだのだ。本当は、出来ることならずっとそれから逃れて生きたかった。そう、これからもずっと。

 しかし手遅れだ。結晶はもう割れてしまった。
 

《表現と結晶》二・4

 朝が近づいている。もう四時だ。雨は先よりかは小降りになったかも知れない。ふとペンを置き、両手で顔を覆う。不思議だ。この場面を書くために筆を取ったのに、いざその箇所に至ると、書く気が起きない。自分でも、それが何故なのかわからないのである。

 スピーカーの電池を入れ替えるために、引き出しを開く。すると、沢山のXの写真が目に入る。ああ、どれも口元を緩めずにはいられないものだ。しかし、私にはわかっている。自分は彼女を愛しているのではなく、彼女と過ごした思い出を愛しているのだと。

 それは生前も同じだった。どれだけ理不尽な目にあおうとも、どれだけ辛く当られようとも、すべてを許すことが出来た。それは目の前にいる彼女を愛しているからではなく、かつて彼女と過ごした思い出を愛していたからだ。事実、それは感動の連続であった。私の「初めて」が沢山詰まっていた。そして、それらを前にすると、今現在の苦しみも霞んでしまうのであった。もしかすると、彼女は前と同じように笑ってくれるかもしれない。私達は、再び以前と同じように楽しく過ごせるのかもしれない。そう考えると、彼女を捨てる気になど到底なれなかった。

 今ならわかる。自分は幻影を追いかけていたのだと。ずっと「あの時」の続きを求めていたのだと。しかし、私達の中断された青春は、もう二度と再開されることがなかった。真実は、日に日に、否定できないくらい大きくなった。何かある度に、それは私に現前した。

 しかし、今考えると一番不思議だったことは、子供の頃はあんなにも自由を渇望したのに、今や服従を求めて生きているということであった。あたかも服従によってしか自分の幸福が手に入らないかのように。

 電池を見つけた。これでまた音楽を流せる。しかし、今はまだその時ではない。きっと今は雨音に耳を傾け、実際に何が起きたのかを知るべき時だ。


 Xと出会ってから二年が経過しようとしていた。同棲生活も既に一年以上続いていた。ただ、日に日に、私達の愛は冷めていった。あるいは、私が以前よりもクリアな眼差しで現実を眺めることができるようになっただけかもしれない。

 一方で、Xは以前に増して呆れた態度を取ることが増えた。そしてその度に、「何でそんなこともわからないんだ」と口にするのであった。

 それでも、私達は離れられなかった。私と彼女の間には不思議な波長があった。知らぬ間に、私と彼女にしか分からないルールが出来ていた。そして、そのルールが私達の世界の全てであった。ルールを破ると、たとえ客観的に見れば悪くないにしても、悪者扱いされることとなった。時々、彼女はまた出ていこうとするポーズを取った。そして、それが見せかけであることは目に見えてわかっていた。しかし出ていこうとする度に、私が取るべきポーズは「引き止めること」だった。

 それが私達のルールだった。初めは彼女が本当に去るのではないかと不安がっていたが、しかし回を重ねる毎に、それも薄れていった。

 もう何もわからなかった。最早何処までが自分であり、何処まで彼女であるのかすら、不明瞭になっていた。しかし、お互いが違う人間であることは、日を追う事に痛切させられた。私は生きることを望んでいた。たとえ今がどれだけ盲目で、どれだけ苦しくとも、いつかはこの泥沼から抜け出せるのだと信じていた。しかし、彼女の望みは死ぬことだけであった。彼女は最初から、私と共に生きることなど望んでいなかったのだ。Xの望みは停滞であり、そのまま泥濘の中で破滅することだった。しかし、私は生きて前に進み、幸せになりたかった。自分の夢を叶えたかった。死ぬにはまだあまりにも若すぎるし、知らないことが沢山あった。確かに、この世は私の期待しているものではなかった。仕事上の付き合いで、それまで顔を突っ込まなかった世界を知ることが増えた。その結果として、自分が羨ましがっていた「ふつう」の人達の幸せが、実は大したことないのだと知った。それでもまだ、幸福への願望を捨て去ることなど出来なかった。しかも、どうしようもない困窮を前にすればするほど、期待や願望は深まるばかりであった。

 そうだ、この世の中は下らないもの、馬鹿げたものばかりじゃない。もっと善いものだって存在する。なのに、彼女は何故それを理解してくれないのか。あるいは理解していたとして、何故それを受け入れてくれないのか。私達はもっと幸福になることが出来た。もっと楽しく暮らすことが出来た。もっと別の生き方が出来た。そのはずなのに、何故それを拒んだのか。私はこんなにも君と生きたいのに、何故君は死ぬことばかりを考えていたのか。それが理解できない。あるいはただ、理解したくないだけなのかもしれない。

 私は何度も彼女にこの想いをぶつけようとした。しかし返ってくるのは、いつも同じ態度だけであった。冷たく、嘲笑うかのように受け流すか、あるいはあのギラギラとした、威嚇するような眼差しでじっと見つめるばかりであった。返ってくる言葉があるとすれば、それは「どうしてわからないの?」のただひとことであった。私は彼女と共に生きたかった。彼女と向き合いたかって生きたかった。しかし、その一切は拒まれているかのように見えた。まるで『ラストタンゴ・イン・パリ』の二人であった。名前も、素性も、現在の生活も、そのすべてを口にすることが禁じられていた。求められているのはただ、今日までの苦痛を忘れさせる快楽だけであった。

 次第に、少しずつ、自分が求めているものが存在しないことに気が付き始めた。彼女は私の初恋の相手であった。その人との関係がこのまま終わりを迎えるなんて、あまりにも残酷であった。しかし、再びあの時と同じ輝きを得ようとするほど、それが遠ざかっていくのがわかった。今や私達がやり直せないことは明白であった。否定できない事実であった。しかし、私はそれに向き合いたくなかった。ほんの僅かに残された「もしかしたら」の可能性にしがみつきたかった。そして、それが出会って二年目を迎えた真実であった。


 その間も、私は同期との連絡を取りあっていた。そして今度の春、彼、私、そして彼の誘った友人達による同人誌を発表することが、ついに決定した。既にネット上でもそれなりに話題になっていた。参加者はそれぞれ、特設されたサイトに何らかの文章を発表することが決まっていた。無論、私もそれを行った。そして、そこに載せたのは、私とXが知り合うきっかけとなった詩人による、唯一の長編小説についての批評であった。彼女と知り合ってからの二年間、何度この小説を開いたかわからない。しかし、今になってやっとこの詩人の気持ちがわかるような気がした。そして、思いの丈のすべてを自らの文章に吐き出した。勿論、個人的な感情については一切言及しなかった。ただ、作品への言及を通して、その分析を通して、あたかも主人公と自らが同一であるかのように語った。決して上手い出来とは言えないかもしれなかった。しかし、気を使われたのか、それなりの好評で迎えられた。私は嬉しかった。初めて他人に認められたような気がした。そしてここから、自分の文学者としての人生がスタートするのだと思った。

 しかし、Xがそれを見逃すわけがなかった。ある晩、彼女はそれを詰問した。ペンネームで発表したが、それが私のものであることに勘づいたのだ。文体が私のものであったし、取り上げた本も私達にとって思い出のものだったから。しかし、それでよかった。この批評は、私なりに彼女に向けたメッセージでもあったから。私達はまだやり直せる。この小説の語り手のように、過去の苦しみを受けいれ、前を向くことが出来るはずだ。彼女にそう伝えたかった。

 しかし、彼女はそれを嘲笑った。

「君はまるでこの小説について理解してないね。これは主人公が自分が敗残者であることを認める過程なの。貴族の末裔として生まれた若いスウェーデン人がひとり、パリで孤独な生活を送りながら、少しずつ、けれど明白に、人生に打ち負かされた人達に共感を抱いていく。そのことが隠せなくなっていく。自らの出生とは正反対の人間への共鳴が、切実なものになっていく。小説の後半の明るさは、決して彼が過去のトラウマを乗り越えたからじゃない。むしろ彼が開き直ったから得られたものなの。愛されることを、救われることを諦めて、敗残者として、没落していくことを受け入れたから得られたものなの。だからあんなにも朗らかな雰囲気が出ているの」

 今ならわかる。彼女は正しかった。この小説について、『マルテの手記』について、私は誤解していた。しかし、あの頃はまだそれが理解できなかった。反論めいたことをいくつか述べたが、あまりよく覚えていない。恐らく、大したことは言わなかったと思う。何より、私が話したいのは『マルテの手記』のことではなかった。今後の私達のことであった。

「何故僕に向き合ってくれないんだ」

 私がそう言うと、彼女は返した。

「君が私に向き合いたくないからだよ」

「どういうこと?」

「その言葉どおりの意味だよ」

 そう言うと彼女は、またあの皮肉っぽい笑みを浮かべた。

「ねえ、どうしていつもわからないの?私はね、最初から、君と幸福になることなんて求めてないの。出会った頃はよかった。君はもっと不幸そうだったから。でも今は違う。前なんか向いちゃって、馬鹿みたい」

「じゃあ君は、僕がずっと不幸でいて、自分もそうあるべきだと思ってるの?」

「そうよ、悪い?」

 彼女の憎悪に燃える眼差しが私を突き刺す。

「私達みたいな人間はね、ずっと苦しまなきゃいけないの。苦しんで死ななきゃいけないの。世間の馬鹿共とは違って、苦しみに向き合って生きなきゃいけないの。苦しみだけが真実なの。過去のトラウマとか、嫌な思い出とか、そういったものを、死ぬまで引きずって生きなきゃいけないの。そうしてずっと自分達の影に怯えて暮らすべきなの。天井の隅に巣を作る蜘蛛に震えて、苦しんで死ぬべきなの。それが私達みたいな人間の宿命なのよ」

「そんな、そんなはずない!一緒にしないでくれ!」

「一緒よ。言ったよね、君なしじゃ生きていけないとか、僕には君しかいないとか。まさかあの言葉は嘘じゃないよね」

「嘘なわけ無い、ただ……」

 私はそれから先の言葉が言えなかった。ただ嗚咽だけが漏れた。口には涙の味が広がるのを感じた。

「X、僕は君と幸せになりたい……君と生きたいんだ……君とだったら、全てがやり直せる気がするんだ……」

「全てがやり直せる?そんなの無理に決まってる。私達は苦しまなければならないの。これから先もずっとそう。きっと今日までの生活と同じ苦しみが繰り返されるの。いや、繰り返される度に、苦しみはもっと酷くなっていくの。そうしてお互いにお互いを傷つけあって、二人仲良く死んで行くの」

「そんな……いやだ、いやだいやだいやだ!それなら、それなら僕は……」

 私は涙を拭きながら、キッと彼女を睨んだ。

「……それなら僕は、君と別れる」

「……は?」

 一瞬、場が沈黙した。彼女が私から離れる素振りを見せることはあった。しかし、私から別れを告げたことは今日まで一度もなかった。

「馬鹿なことを、どうせ脅しでしょ」

「いや、本気だよ。僕達、もう終わりにしよう」

 沈黙、再び。静けさの中で、次第に荒れる彼女の息遣いだけが明瞭に響いた。

 間もなくそれは破れた。しかしその破裂音は、あまりにも強烈だった。耳をつんざくような、彼女の叫び声が聞こえた。その顔色は、これまでに見た事のないような憤怒に染っていた。

「嘘よ、嘘嘘嘘嘘!君が私から離れられるわけがない!私がいなきゃ、君は何もできないじゃない!」

 私は彼女をじっと見つめた。不思議と、心の中は平静で満たされていた。

「ああ、その通りだ。僕は君がいなきゃ何もなかった。空っぽな人間だった。でも、それももう辞めようと思う」

 流れる涙を拭いて、彼女の威嚇するような眼差しを見据えた。

「なあX、僕達の関係はずっと前からおかしかったんだ。不健全だったんだよ。やっとその事に気づけた。もうやめよう。一緒に前を向いて歩こうよ」

「へえ!そんなこと言っちゃうんだ!私がこんなんなのに!」

 彼女の顔は笑っていた。ただ、それはあまりにも不気味な歪み方をした笑いだった。

「君が私を捨てたら、私はどうなると思う?大学も休学してるし、友達だって一人もいないし!離婚で揉めてる親のところに突っ返されて、お父さんとお母さんの揉め事に巻き込まれて、全部お前のせいだって言われて、毎日責められて、また来る日も来る日も辛い思いをして!それが全部、君のせいで起ころうとしているんだよ?わかってる?」

「ああ、わかってるよ。無責任なことを言ってるのも分かってる。でも……もう耐えられないんだ。僕は自由になりたいんだ。幸福を求めて生きたいんだ。君となら幸せになれると思っていた……けど違ったんだ」

「ああそうやって!いつも!いつも!自分のことばかり!そう!そっか!そうなんだ!へえ!本当に私を捨てるんだ!へええ!別れるんだ!そのつもりなんだ!そっかそっか!へええええ!」

 私は何も言わなかった。ただ黙って下を向いた。

 はあ、はあ。叫び尽くした彼女の、苦しそうな息遣いが聞こえた。彼女はしばらくじっとこちらを見ていた。しかし、やがて私と同じように下を向いて、それから顔をゆっくりと上に向けた。ふうー。深呼吸をする音。そして再び下へと向ける。次に、低く、小さな、しかしよく通る彼女の声が、部屋全体を支配した。

「いいんだ、それで」

 顔を上げる彼女。私も顔を上げた。そして、ギクリとした。彼女の口元はわずかに開いて、笑っていた。しかし、目はすわっていた。ただその黒目の底には、ギラつく、不気味な光があった。それは威嚇をするような、憎悪に燃える暗い眼差しであった。

 突然、私は裁きを前にする囚人の気持ちになった。そして思わず唾を飲んだ。

「うん」

「後悔するよ」

 再びギクリとした。しかし、ここで折れては、また同じ過ちの繰り返しであった。

「いいよ、後悔しても」

「ふーん。そっか、そっか……」

 彼女はその場をぐるぐると歩き始めた。ふと、何かを思い出したように立ち止まった。そして首をぐっと玄関の方へ向けた。

「ちょっと散歩してくる。頭冷やしたいから」

「……そう、いってらっしゃい」

 とぽ、とぽ。痩せて枝のようになった脚を動かしながら、彼女は玄関に向かった。ざあー。扉を開けた途端、外から土砂降りの音が聞こえてきた。勢いよく落ちる雨粒が、痛いほど強くコンクリートを打ち付けているのがわかった。

 彼女は傘を持たずに出ていった。そのことを知ったのは、既に彼女が外に出た後であった。閉まった玄関をぼんやり眺めていると、部屋に一本しかない傘がそこに置きっぱなしになっていることに気がついた。

「おい!X、傘!傘もささないでどうすんだ!おい!」

 私は玄関の方へと駆け出し、扉を開け、傘を持って叫んだ。しかし、彼女からの返事はなかった。見渡せど、辺りにはただ暗がりだけが広がっていた。夜は既に深く落ちていたのだ。

 一時間、二時間。緊張の残り香が部屋を静かにしたまま、ただ時間だけが過ぎていった。中々帰ってこない。流石に不安になった私は、彼女に電話を入れることにした。プルルルルル、プルルルルル。出てくれない。もう一度かけた。プルルルルル、プルルルルル。また出てくれない。もう一度かけた。プルルルルル、プルルルル。がちゃ。よかった。やっと出てくれた。

 しかし、電話口から聞こえるのは、いつもの聞き慣れた声ではなかった。切羽詰まったような、息の荒れた、真面目そうな男性の声が敬語で何かを話していた。

「もしもし、あの、聞こえていますか!」

 何だか向こうは騒がしいらしかった。しばらく呆然としたあと、やっと私はその声に応えた。

 その声は言った。

「このスマートフォンの持ち主の方のお知り合いですか?」

「はい、そうですが……」

「先程、この方が大型トラックが走っているところに突っ込んで、跳ねられた所を発見されました。只今救急車で病院に向かっているのですが、よろしければお名前を……」

 そこから先は覚えていない。

 頭が真っ白になっていた。再び電話からは色々な、叫ぶような声が聞こえてきたが、正直、何を言ってるのかよくわかなかった。何度か同じやり取りを繰り返した。そして、やっと電話越しに話している内容が理解できた。

 声に導かれるまま、私はタクシーで病院に向かった。

 病院に着いた時、彼女の死体はまだぐっしょりと濡れていた。

 彼女が去り際にいった言葉を思い出した。

「後悔するよ」

 今、やっとその言葉の意味を理解した。