20/07/11

 過去を振り返るには二つのやり方がある。一つは過去を過去形(過去そのもの)として振り返ることで、もう一つは過去を現在形で(現在の出来事として)考えることだ。

 私達の人生には、説明のつくことよりも、説明のつかないことの方が遥かに多い。しかし、それでは人は安心出来ない。素晴らしい人生とは、素晴らしい死に恵まれているということだ。過去を過去形で振り返るのは、これまでの人生が充実したもので、説明のつけられるものであると望んでいることを意味する。過去を望ましいものと思えないなら、死んでも死にきれないというものだ。

 しかし、過去を現在形で生きるとしたら、そうもいかない。現在とは常にまとまりのないもの、収集のつかないもの、説明できないものの集合体であるからだ。

 パスカルはまことに見事に物事の本質を見抜いていた。「習慣は第二の本性である、と言われる。では、なぜ本性もまた古き習慣ではないのだろうか?」とは、まさにその通りである。


 ヘッドホンで音楽を聴く習慣がついたのは、確か私が中学生の頃からである。以来、十年近く、私はヘッドホンと共に生活してきた。それにもやはり理由がある。両耳がヘッドホンで覆われていて、そこから音楽が流れ出す。すると、両耳から音に包まれていくかのような心地がして、安心する。この感覚はイヤホンでは決して味わえない。様々な音が、立体的な感覚を伴って、双方の違う箇所が溢れ出す。それが閉じた自分の両耳の中で行われる。精神の安らぎと静かな高揚、孤独とその喜び、または感動。自分しかいない水族館で、永遠に水槽を眺めているような気分。

 陶酔……私には表現の大袈裟なところがある。自己陶酔の表れだろう。そう、ヘッドホンのいい所は、自分の世界にこもれて、手軽に何かに包まれている安心感が得られることにある。だから自己陶酔も捗るというわけだ。

 先程、ラヴェル弦楽四重奏曲を聴いていた。それで改めて思ったのだが、それまでの夢見心地な微睡みを壊すかのような第四楽章の始まり方には、やはり素晴らしいものがある。不気味な、破裂するような音のぶつかり合いから始まり、性急な、しかし何処か第三楽章までの静謐さを残したような、混沌とした情熱に、思わず息を飲む。夜想的な第一楽章が始まった時に感じたものとは違う陶酔を感じる。そう、陶酔……私が音楽に第一に求めるもの。


 午前四時頃、夜が明けようとする時刻。私はベランダに立って、遠くの空が燃えているのを眺めていた。夜空が薄紫へと溶け始め、朝焼けが地平線の彼方で燃えていた。丁度その時、聴いていたブルックナー交響曲は緩徐楽章に突入した。瞑想的で、祈りを織り成すような楽想は、展開が高まるにつれて、何かが開けて、光出すような感覚を私に与えてくれた。それは向こうの夜空から朝焼けが訪れる感覚に似ていた。こうして二つの印象が重なり合うことで、私は不可思議な感動にとらわれていた。それは何かを悟るような感動であった。ブルックナーの音楽は不思議だ。改めてそう思った瞬間であった。


 孤独になると、独り言が増える。恐らく、私は人といる時と同じくらい(またはそれ以上に)、一人でいる時にも笑ったりしている。面白いことを思いついたり、夢想に耽ったりしていると、時々ついにやけてしまうことがある。街中でもそれは同様である。孤独に慣れると、ある程度人目を気にしなくなる。


 時に、人は悲しみを競争させる。不幸な人達の会話を見ると、よくよくどちらがより不幸かということで競い合っているのがわかる。しかし、自殺した人の悲しみと、戦死した人の悲しみは違う。同様に、たとえ同じ事柄であれ、人の悲しみはそれぞれ違うのであり、比べるのがそもそも間違っているのだ。悲しみとは現象であり、比較の出来る物質ではない。

 現代人はよく人との繋がりを強調する。しかし、私達に必要なのは、他者とのつながりよりもむしろ孤独であるように思われる。技術の進歩のおかげで、今や一秒あれば遠く離れた他者とも繋がることができる。この感覚は、実際の他者が遠くにいることを忘れさせ、まるでその人が今も尚すぐ近くにいるような錯覚を与える。しかし、それは間違いである。我々はそれぞれがそれぞれ、違う時間を生き、違う世界を生きている。孤独とは人間の本性であり、私達が他者に触れられるのは、お互いの孤独から手を伸ばしてのみである。

 が、テクノロジーの進歩のおかげで、呑気にも人はその事を忘れがちである。だからこそ一層強く孤独を感じる。寂しさとは、その場にあると思っていたものが実はその場になかったと気づくからこそ感じる。寂寥感は夢から覚めた後に訪れる。よって私達が認めるべきなのは、一つにはなれても、同じ存在には慣れないという、分裂的な人間の本性であり、その認識から出発することである。


 久しぶりに大きな本屋に出向いた。取り寄せた本を受け取るためだ。それで、その置いてある本の多さに驚いた。気になる本棚を眺めていると、こんな本もあるのか、あんな本もあるのか、という気づきを得て、また手を出したいものが増えてしまった。欲望は知識と共に生じる。欲望とは自分の知ったことの反映である。

 それで、沢山の本に囲まれながら、この中にどれほど多く自分の読んでいない本があるかを考えた。また、自分が一生かかってもこれらの本を読み切ることが出来ないということをも考えた。そして思わず、「人間ってすごい」という、あまりにも素朴で単純な、しかし決して否定出来ない感想を抱いた。


 二〇〇〇年にボノが死んでいれば、U2はきっと伝説のバンドになれた。U2の諸作品を聴いていると、時折そんな事を考える。

 レディオヘッドはその活動の中盤まで、U2からの影響を公言しているバンドの一つであった。恐らく彼らは、『Achtung Baby』から始まったU2電子音楽( = 非ロック)への接近を意識したことがあるに違いない。実際、ギターロックからその方へとアプローチするところを含め、共通点は多い。『Ok Computer』は『Achtung Baby』を、『Kid A』は『Pop』を意識していると考えられなくもない気がする。トム・ヨーク自身も同時期に、かつてボノがかけているような変なサングラスをつけていたことがあるし、ポップ・マート・ツアーの頃のボノのような、坊主よりもやや髪が伸びた(芋臭いとも言える)髪型にしていたこともある。

 違いといえば、レディオヘッドが徹底してスター性を排除しようとしたにも関わらず、U2(もといボノ)は結局どこまでいってもスターであり、俳優であった、ということにあるだろう。そして、それがこの二つのバンドの決定的な差異を成しているのである。『Achtung Baby』はナイーブで、『Zooropa』は不気味で、『Pop』は退廃的である。しかし、それらはどれも過剰さが付きまとい、歌詞の内容も大袈裟なまでに暗い (ロマンチックなものの大半は大袈裟である。ロマンチストは皆、常に何かを演じるように振る舞う)。

 だからボノは何処までいってもロック・スターであることしか出来ない。対してトム・ヨークは、どれだけ影響力を有する存在になろうとも、決してロック・スターになることが出来ない。もとい、きっと本人も意図的にスターであるのを拒んでいるに違いない。U2が好きでもレディオヘッドが好きになれない(またはレディオヘッドが好きでU2が好きになれない)人がいるのは、だから容易に理解出来る。不幸な人間は、自分の不幸を誇張して捉えるか、または自分の不幸(そして他人の不幸)に対して冷笑的になる。どちらがそうであるとは言わないが、私には、ボノが前者に見えて、トム・ヨークが後者に見える。

 しかし、ボノの書く歌詞にはやはり素晴らしいものがある。『Please』のような歌詞を、一体どうやって思いついたのだろう。So love is hard /And love is tough / But love is not /What you're thinking of (愛は困難で / 愛は厳しい /ただ、愛はお前が考えているようなものじゃない)とは、名文句としか言いようがない。

 

20/07/08-09

 歳の若い人間として当たり前なことではあるが、私には経験していないことが沢山ある。中には、敢えて避けてきた経験もある。それは私が真面目だからなのか、それとも単に臆病だからなのか。恐らく、後者が真実なのだろう。私は人一倍臆病な性格をしているから、いつも踏みとどまって、迫られた経験を避けてしまう。そういう意味では、私は敢えて経験していないというよりかは、経験できないというのが正しいのだろう。

 「来るべきものは、遅かれ早かれ必ず来る」とは、シェイクスピアが『ハムレット』の中で残した言葉だ。だからこそ、現実の生をふるいにかけ、現実を加速させることで、来るべきものをいち早く呼び出そうとする。加速主義だ。この考えは、今の私には正しいように見えている……

 しかし、時折考える。私は何かを経験しようとし、(若者らしい性急さで)未知なものを知ろうと必死になる。しかし、これは自分が投げやりになっているだけなのではないだろうか。自暴自棄になって、こだわりがなくなり、何にでも手を伸ばそうとしている。それを活動的だと勘違いしているだけなのではないか?

 そのような考えに囚われる度に、私はふと、自分を引き留めてもらいたいという気持ちを強く覚える。このような考えも、またこうした独白も、どちらも私の弱さの表れであるに違いない。


 顔のないものへの憧れが、私にはある。未知なもの、不可解なもの、知りえないもの、掴みどころのないものへの憧れが。決して誰かを信頼していないというわけではない。ただ、自分がそういった顔のないものとして見られた方が、安心するのである。私と関わっている友人達が、皆私に掴みどころのない、顔なしのような印象を受けてくれれば、幸いである。

 生とは一つの秘密に満ちたもの、語り得ないもの、プライベートなものである……私自身、そう考えているのもあって、何か大っぴらげに自分自身をさらけ出すことに、品の無さにも近いものを感じる(かといって、他者がそうすることに嫌悪を抱くことはない。ただ、自分はそうはしたくないというだけの話だ)。

 恐らく、自分にはその気がなくとも、私は心のどこかで自分を恥じているのだろう。もとい、冷笑的な人間は皆そうだ。自分を恥じているからこそ、他人にも恥じるべき所が沢山あるように見える。そして冷笑することで、そのような恥から自分を守ろうとするわけだ。冷笑的な人間とは、総じて皆臆病な人間のことである。

 人が仮面を被るのは、自分を守るためだ。しかし、リルケも『マルテの手記』の中で近い指摘をしていたが、仮面を被るにつれて、人は元々あった自分の顔を失っていくのである。そして失われた私達の顔は、未来において取り戻されるものとなるわけだ。

 ドゥルーズが書いていた、「ニーチェにおいては一切がマスクである」と。ニーチェは自分に纏わるもの全てを自らの仮面として生きた。そんなニーチェの孤独に対して、彼の書物を初めて読んだ十代の日から今日に至るまで、私は憧れの混じった共感を寄せてきた。自分の内にある顔のないものへの憧れは、単なるニーチェからの悪影響なのかもしれない。


 最近、久しぶりにビデオのレンタルショップに出向いた。先日登録したストリーミングサービスのおかげで、あるレンタルショップでのDVDの借り出しが無料になったからだ。それで映画の棚をぼんやり眺めていると、フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を、フランシス・コッポラが携わって映画化したものを見つけた。ディカプリオが主演を務めた方は知っていたが、コッポラが映画化していたとは、映画にはあまり明るくないため知らなかった。『グレート・ギャツビー』は私のお気に入りの小説であった。コッポラもまた『ゴッドファーザー』シリーズを見て以来、気になりつつある存在であった。つまり、私には借りる以外の選択肢が見つからないわけだ。

 それで今日、私は借りたその映画を観た。映画は私の期待を裏切らなかった。そして、映像化されたギャツビーの姿に感動すると同時に、あの物語に触れた当時のことも思い出した。禁酒法時代のアメリカ。語り手の近くにはギャツビーという謎の若者が暮らしていた。彼は若くして大豪邸を建てるほどの大金持ちで、人を殺したとか、オクスフォード大学を出ているとか、ドイツ皇帝の親族だとか、信じ難い様々な噂が飛び交っているような男であった。月に何度か自宅で大規模なバーティを開き、そこには著名人も多く集まった。しかし、何故彼が豪邸を建て、悪趣味なパーティを頻繁に開き、また何故多くの信じ難い噂が飛び交うのか。それは謎に包まれたままであった。しかし、物語が進むにつれて、その訳は明らかになっていく。彼の近くには、彼の昔の恋人が住んでいた。彼はその女性を振り向かせたかったのである。貧しい軍人時代 、彼は女性に婚約を申し込むが、彼女はそれを彼の貧しさのために断った。だから彼は戦後、酒の密売や麻薬の取引など、違法な手段に手を染めてまでして大金を儲け、謎の噂が飛び交うほどの、全く新しい人物に生まれ変わって、彼女を迎えに行こうとするのである。彼が語り手に近づき、親交を結んだ理由も、その語り手が女性の親戚であったからである。彼は言う、「全てを元通りにする」と。しかし、物語はそう上手く進行してくれないのである。

 恐らくは多くの文学青年と同じく、私はギャツビーにある種の誠実さを、いびつなまでに一徹な誠実さを、ほとんど執着心とも言える誠実さを見出した。そして、それに魅せられた。自分にはそんな要素が一つもないのに、何故か自分とギャツビーを重ねたりした(『グレート・ギャツビー』に夢中になる若者の大半は、「ギャツビーは自分だ」と思うようになる)。しかし、あらゆる物語に熱中した後と同様に、程なくして私は、自分がギャツビーではないということに、またギャツビーのようにはなることも出来ないということに気づいたのであった。

 映画を観ていると、その当時の思いが再び私の胸の内に蘇った。映画のワンシーンワンシーンさ、まるで絵画のように美しかった。映画が終わる頃には、夏の終わりの夕暮れを眺める時にギャツビーも感じたであろう、美しくも物悲しい余韻を感じながら、私はエンドロールを眺めていた。


 事件、それは自分と自分以外のものとの間で起きるものであり、現実を切り裂くナイフである。

 人が生きる空間には、常に今は生きられない余白があり、過剰がある。事件とは不意に訪れるもの、突き刺すもの、予想外なものだ。そこには常に不可解な、理解し得ない何かがある。そして人は、その悪い癖として、いつも自分の知らないものを、自分の知っているもので説明付けようとする。未知なもの、不可解なもの、理解し得ないもの、自分の価値感と経験から得られる言説によって埋め合わせしようとするわけだ。

 しかし、事件とはまさにそういったものを切り裂くもの、つまり不意に訪れるナイフである。知覚される現実は、いつだって感覚の錯誤と実際の現象の入り乱れたもの、不純で濁ったものであることしか出来ない。だからこそそこには私達の知識から逃れるものがあるわけだが、そんな主体から逃れる自分以外の自分、そこにこそ私達の舞台が存在する。私達のパーソナルな世界から逃れて、インパーソナルな世界に内在する、一つの異なった生が存在するのだ。

 事件に直面した時、私達はそういったインパーソナルなものの存在を知ることとなる。これまでに信じられていた現実が切り裂かれ、新しい現実が介入してくる。説明のつかないものが突きつけられる。映画を観る時、たとえその結末を知っていようとも、それを初めて観た後には、常に観る前には思いもしなかった、予想外の印象が私達を付き纏う。よって、映画を観るとは一つの事件だと言える。それは映画と私の間で起こる事件だ。読書するとは一つの事件である。誰かを愛するとは一つの事件である。何であれ、何かに出会い、何かに触れるということは、これまでの私達を切り裂き、別の自分を裂け目から溢れ出させる、ひとつの事件であり続ける。その時、私達は自分が今いる所から滑り落ち、信じられていた自己同一性から抜け出して、全く新しい、思いもよらなかった世界、別の可能性に満ちた世界を生きることになる。それが吉と出るか凶と出るかはわからない。ただ、それが生の必然なのである。だからこそ生とは一つの実験であり、賭け事であるわけだ。

 生とは一つの実験である……ヒュームも指摘している通り、私達とはこれまで自分が経験したものの集合体なわけだが、自分が何を経験したのか、それを私達は死ぬまで知ることが出来ない。何故なら経験とは何処までも感覚的なものであり、私達自身のものでありながら、絶えずこの手から滑り落ちるもの、不明瞭なもの、非人称な部分を含むものであり続けるからだ。

 そんな生を生きるとは、まさに一つの実験であらざるを得ない。自分を知ろうとすることは、自分自身をふるいにかける、一つの賭けであることしか出来ない。主体的に生きようということ、それは常に自分の主体から抜け出すもの、自分が感覚が把握し切れないものを把握しようとすることであり、信じられていた自分自身、そうであると思われていた自己同一性を進んで壊す、そんな賭けであらざるを得ないのだ。


 悲劇について考える時、人はよく次のことを見落としている。つまり、あらゆる英雄は陽気だということだ。悲劇的な思考の根本にあるのは、悲劇への肯定、その陽気さである。

 内省とはナルシズムの文化だ。ある程度の自己愛がなければ、人は自らを省みたりなどしない。

 新しいものは、いつだって既存のものの仮面を被ってしか現れない。自らが受け入れられ、生き残り、語り継がれるために、力は常に仮面を被るのである。というのも、自分を表すということは、たとえこちらにその気がなくとも、不特定の人間を傷つけることであるからだ。表現という行為は、それがどんなものであれ、加害としての側面を負わざるを得ない。加害されたものは、自らもまた加害することを願う(自分が、自分以外の存在のどちらかに)。新しい力は、自らを守るために、仮面を被らざるを得ないのだ。


 夏の夜にはラヴェルが似合う。夏が来ると、私はラヴェルが聴きたくなる……あの生あたたかい、官能的な湿り気、夏の夜のいじらしい匂い。それら私に、同じように艶めかしく、しかし何処かに陰鬱な悲しみが漂う、ラヴェルの音楽の切なさを思わせる。

 今私が聴いているのは、彼の遺作ヴァイオリンソナタだ。ラヴェル室内楽曲はどれも傑作揃いだが、その中でも弦楽四重奏曲ピアノ三重奏曲、そしてこの遺作ヴァイオリンソナタがとりわけ好きだ。静謐な響き、瞑想的で物憂げな音色。こちらを夏の夜の彼方に閉じ込めてしまうような、誘惑に満ちた音の戯れ……やがて水面に揺れる月光のような盛り上がりが訪れる。ああ、なんて美しい瞬間だろう。そのあまりに物悲しい響きに誘われて、私は何処でもない何処かを見つめる。まるでその先に終わらない夏の夜があるかのように。そして、そこに閉じ込めらる夢見心地に酔うのである。

 

20/07/05

 先日、友人達と集まって話している時のことである。その内の一人が、願い事がよく叶う神社が近くにある、との話をしてくれた。彼自身も時折そこに願掛けをしに行くらしかった。そして、普段は微塵も興味がないにも関わらず、思わずその場に向かいたい気持ちになっている自分の姿に気がついて、驚いた。私にはどうしても叶えたい願い事があった。無論、それも絵空事なのかもしれないが。

 私は、曲がりなりにもキリスト教の洗礼を受けた者である。聖書もよく読んだし、教会にだって熱心に通った。しかし、心の底を言えば、もう殆ど神の存在を信じることが出来ないでいる。ずっと前からそうだ。私はもう神を信じていない。今になって、リルケが書いていたことの意味を痛切している。人は好き勝手に信仰を捨てられるのではない。むしろ信仰を捨てざるを得ないよう強いられるのである。「神社に行ってまでしても願い事を叶えたい」という欲は、まさに自分のキリスト教への信仰が死んだことと、何でもいいから何かにすがりたいと願っていることの、二つの表れだと言っていい。ドストエフスキーは正しかった。理性に固執するほど、人はどことなく迷信深くなっていく。

 神社の話よりも少し前に、その友人が恋愛の話を僅かにした。彼は私に「今恋人はいるか」と聞いた。私は正直に「いない」と答えた。それからぼんやりと、その事について考えた。恋人が欲しいとは思わない。ただ、何かもっと深い関係にある存在というか、支えてくれる存在というか、パートナーが欲しいとは思っている。私にはアリアドネが必要であった。上手く言えないが、最近はそんな事ばかりを考えている。長い間、私は模索を続けてきた。それで出た答えがある。それは、自分は一人で生きていけないということであった。

 これからを諦めるなら、私もひとりで生きることが出来るかもしれない。何処かに隠居して、散々本や音楽に熱中し、時には映画を観たり、絵を描いたりする。それだけで結構幸せに暮らせるだろう。しかし、まだ死にたくないという気持ちがある(それに、ずっとそうではやがて飽きてしまうかもしれない)。年々、人との関わりが多くなるにつれて、自分の内にある、喪失感とも悲しみとも言えるようなものが強くなっていく事に気がついた。今朝だってそうだ。目が覚めた時に、私は漠然とした虚しさに襲われた。そして、この虚しさが、人の言う寂しさなのだということに気がついた。自分には誰かの支えが必要で、誰かの助けが必要なのだということをも知った。それはずっと自分が拒んでいるものでもあった。そして実際、私はそれをかつて拒んだのである。もう遅いのかもしれない。しかし、自分以外の存在が背中を押してくれなければ、私は自分の人生に積極的に取り組むことが出来ない。恥ずかしい話だが、それが正直な気持ちである。


 今、私はぼんやり夢想に耽りながら、それらのことを考えている。薄暗い部屋でひとり、外の雨音に耳をすませながら。作品を鑑賞した後の余韻が、まだ胸の内に残っている。先程観た映画と、先程聴いた音楽の余韻だ。音楽はいい。好きな音楽を聴いている時だけ、自分が人生の主人公であるような気がしてくる。

 美しい音楽は私を疲れさせる。そして、この疲労を私は感動と呼んでいる。

 

20/07/02

 昨日、友人の家で『トレインスポッティング』を観返した。果たして何度この映画を観たか、それはわからない。ただ、これを観返すのが数年ぶりであることは知っている。私が初めて『トレインスポッティング』を観たのは高校生の時であった。そして、あの頃の私は、作中とは全く違う(そして作中よりも遥かにマシな)環境で生きていたにも関わらず、主人公のマーク・レントンに深い共感を覚えていた。今観返すと、あの頃に感じていた閉塞感や、やり場のない情熱を思い出すと同時に、当時は気づかなかったことをも感じる。映画の長さは約一時間半で、比較的短いものである。当時は、この映画がこんなにも短く、展開の早いものだとは知らなかった。

 作品に触れることは、多かれ少なかれ、その作品によって鑑賞者が変化することを意味する。しかし、作品によって自らが変わる時、私達は、作品を自分の手で変えてもいるのである。『トレインスポッティング』を初めて観た十代のあの日、私はその日のうちにもう一度『トレインスポッティング』を観返した。それは、私がこの映画に感銘を受けたからであるが、それと同時に、私の中にあるこの映画の印象が変化したからでもある。観る前は、内容も知らない遠い外国の青春映画という認識であったが、観た後には自分の共感の対象に変化している。つまり、作品によって変わった私の中で、作品もまた変化していたのである。

 人の成長とは、常に自分と自分以外のものとの間で起こる。昨日、私は『ファイト・クラブ』をも観返した。映画の構成的にも、一度目よりも二度目以降の方が発見の多い内容なだけに、私は初めて観た時には感じなかったことや、考えなかったことをも感じ、また考えた。この時、私の内にある「あの映画はこういうものだ」という印象はすべり落ちる。「あれはこうだ」という考えからすべり落ちて、別の方向へと生成し、変化する。そして、作品への印象が変化する時、印象の持ち主である私自身もまた変化するのである。

 私はかつての自分からすべり落ちて、別の方向へと生成する。この時、私と作品は、元々いる場所、既存の「自分」、信じられていた自己同一性から抜け出して、全く新しい可能性のある、別の未来へと生成変化する。


 新しいものとは、常に失われた過去を再び見出すことによって生み出される。例えば会話をしている時、私達は絶えず口を動かしたり、表情を動かしたりする。言い換えるならば、会話の最中、私達は常に筋肉を動かして、一秒前の自分と変化している。何かを体験し、経験する度に、私達はそれを感覚する前の自分を喪失し、違う存在へと変化する。私達は常に、自分の内側で差異を産出し続ける存在なのである。

 しかし、そんな変化のただ中を貫く、唯一変わらない存在がある。それは持続する意識である。喪失された自己と現在の自己(そしてその先にある未来の自己)の中間を貫く意識の流れである。私達は自分が今日までに感覚したものの集合体だ。もし現在に新しい発見があるとするならば、それは常に過去の記憶を(無意識的にであろうと)参照された上でなければ成り立たない。その時、かつて見出された差異が、現在において再び見出される。それも、かつてとは違った印象を伴って。私達の変化、成長は、常に自分が今いる所から抜け出すことによって成立する。

 非人称なものへの問い……私達が生きる現在とは、ある面から見れば、常に既に生きられたもの、再び生きられているものである。今現在には、常に私達自身には属さない時間がある。つまり、現在の主体からすべり落ち、無名な世界へと沈んでいく、非人称な空間があるわけだ。

 それを生きるということ。私達の内には、常に私達自身に属さない、別の自分が存在すると言っていい。人は感覚を通して経験するが、常に自分が何を感覚しているのか、それを完全に理解することが出来ないからである。私達の経験には、常に今は生きられない過剰が存在する。それを再び見出すということ。かつて生きたが、全く生きられなかった過去の過剰、自分でありながら自分からすべり落ちる非人称的なもの。そこに私達の生きる舞台がある。


 人は作品によって変化し、また作品を自分の中で変化させている……このような現実に直面することで、ふとドゥルーズの書いた次の言葉が思い出される。「二人がどんな風に理解し合い、互いに補い合い、互いに相手の中に入り込んで脱人格化を遂げるのか、それを確かめ、さらに相手を刺激しながら特異化していくという体験があった。つまり愛だね」

 人が誰かを愛する時、相手の気にいられようと、自分と相手が近い性格をしているよう(間接的であれ)アピールすることがある。必ずしもそうでないとしても、よくよくそういう現象が見受けられる(私もそれが好きなんだ、僕にもそういう趣味があって、俺は元々こういう環境で育って……といったふうに)。しかし、もし相手が既にこちらを愛していたならば、上の態度は失敗だと考えねばならない。何故なら、人は自分と相手が違う存在だからこそ、対象を愛するのだから。

 無論、相手と自分が同じ人間だという、共感にも似た作用が必要であるのは間違いのないことだ。例えば『ファイト・クラブ』の中で、主人公が何やかんやでヒロインのマーラに好意を抱くのは、彼女が自分と同じ不幸な人間だったからである。全く違う人間に対して、人は親近感を覚えることもなければ、共感を覚えることも無い。人が愛情を覚えるのは、相手に自分に近いものを、特に自分に近い弱さがあるのを見い出したからである。

 しかし、それだけでは愛は生じない。もし自分と全く同じ人間が目の前にいたならば、むしろ自分の見たくない所を相手に見出して、相手のことが嫌いになるはずだ。逆に言えば、そこで自分にないものを相手に見いだせたならば、それを相手の魅力だと考えて、相手を愛し始めるのである。自分と同じ不幸な人間でありながら、自分にはないものがある。それを感じ取る。だから主人公はマーラのことが気になり出すわけだ。

 相手は自分の共感の対象( = 同じ人間)であるが、相手には自分にないもの( = 自分との差異)がある……だから相手を愛する。または、相手から愛されたいと願う。相手によって、自分に足りないものが補われることを願っているからだ。愛情とは一つの相互作用だ。相手を愛することで、自分が変わり、また相手をも変えていく。愛によって、かけ算されるように相互の存在が高まっていく。または高め合っていく。そして自分が今いる場所から、別の場所へとすべり落ちる。

 「誰かを愛するということは、一体何を意味するのだろう?それは、常にその人を一つの群衆の中で把握すること、その人の加わっているグループから、たとえ家族のような狭いグループからでも、その人を抽出することだ。── それから、その人だけの群れを、つまりその人が自分の内に閉じ込めている、恐らくは全く違う性質をした、様々な多様体[ = 非人称な個性、魅力]を探すこと。それを自分の多様体と合体させること。それを自己の多様体に入り込ませ、それらに入り込むこと。天上的な婚礼、多様体多様体

 しかし、もしかすると、私が愛に過剰な期待をしているだけなのかもしれない(しかも、大抵この期待は失意に終わるのだが)。ただ、次の事だけは確かに言える。人が愛されることを求めるのは、自分に足りないものが補われることへの憧れからである、と。


 高校の頃、私には同じ中学出身で、しかし別の高校に通う、一人の親友とも言うべき存在がいた(20/04/14-15の日記も書いた話だ)。当時、私はよく彼に『トレインスポッティング』を観るようにすすめたものである。

 私は地元が嫌いだった。とりわけ、中学時代の友人達は、皆笑顔で人をいじめるような、陰湿な連中ばかりであった。私にしても、少年の日の思慮の浅さと、その薄弱な精神から、人をいじめたことがある(もとい、人からいじめられた事の方が遥かに多いが)。高校に入ってからも、中学時代のそういった不愉快な付き合いが続いていた。私はそれが嫌でならなかった。しかし、その付き合いを拒むことも出来なかった。何故なら周囲の人間を振り払い、孤独になるだけの勇気もなかったから。

 『トレインスポッティング』を初めて観たのは、まさにそういったものに苛まれていた時期であった。友達付き合いをしてはいるが、腹の底ではお互いを見下し合っている。そんな腐れ縁の故郷の友人達を裏切って、主人公は自分の人生を生きようと決意する。そんな映画のラストシーンに痛く感動した。これこそ自分のあるべき姿だと本気で考えた。同時期、私は初めてニーチェの書物に触れた。本の中から、ニーチェは「孤独を恐れるな」というメッセージを送ってくれた……私の人生が変わり始めた瞬間であった。この腐った環境から抜け出して、新しい自己に至りたいという欲望が芽生え始めた。

 しかし映画には、スパッドという、自堕落な人間であるが心根の優しい青年が登場した。彼だけを主人公は裏切らなかった。そして、当時の私の目には、自分の唯一の親友が、まさにスパッドに当たる存在であるかのように思われた。だから散々彼に『トレインスポッティング』を観るようにすすめた。しかし結局、彼は一度もそれを観なかった。そして私は、やがて彼の前を去ったのである。


 私は読書を好む……しかし、難解な本を読んでいると、精神的な高揚と同じくらいに深いノイローゼを感じる。にも関わらず、また幾度も小難しい本を開く……あの喜びが忘れられなくて。

 人間は自己を破壊するのを好む生物である。どんなものであれ、刺激とは常に一つの毒であり続ける。刺激は元々あったこちらの構成関係を破壊し、それをかき乱す。それは毒素が侵入した時、既存の肉体の構成関係が破壊されるのと同様である。しかしそれによって、全く新しい別の構成関係が生成されるのも事実である。私を神経質にさせる本は、それだけ一層大きな刺激を与え、それだけ一層新しい私を形づくる。その感覚は喜びを与えてくれる。喜びは繰り返されることを求める。こうして私は再び本を開く……

20/06/30

 苦悩すると、人はその苦悩の責任と原因となるべき存在を求めようとする。そして、このように苦悩に満ちた人生はあやまちであり、間違ったものであり、救済され、償われるべきものであると考えるようになる。人によっては、苦悩を深め、益々苦しむことで、自分が償われ、救済されるとさえ考えようとする。何故なら、苦悩する人にとって、その苦しみは一つの罰のように見えるから。罰とは罪のあるものにしか与えられない。

 こうして、人は次の考えに至る。つまり、生は悪であり、罪深いものである、と。

 人が正しくあろうとするのは、悲しみの反動からしか有り得ない。しかし、断罪されるべき生の彼岸として見出された正しさとは、不正に対する、苦悩に対する復讐としてしか成り立たない。だから人は絶対に正しい人間になることが出来ない。何故なら、苦悩によって生まれた理想とは、常に一つの影であり、いくら追いかけても捕まえることの出来ないものであるからだ。

 よって、人が真の正しさに至ることがあり得るとするならば、それは悲しみから出発して、悲しみを超越することにある。加害と被害は常に表裏一体の関係にある。大体の加害者は、元々強い被害者意識の持ち主であり、だからこそ誰かに加害しようとするのである。


 死と性が近い関係にあるように、音楽と性もまた近い関係にある(故に死と音楽もまた深い仲にあるのだが)。そのような事を思ったのは、シェーンベルクの『浄夜』を奏でる弦楽合奏団の映像を眺めていた時のことだ。

 異なった声部がそれぞれ絡み合い、ぶつかり合うことによって、音のエクスタシーは次第に高まると同時に、より深くなっていく。弦楽合奏団は、その官能の響きと共に身を揺らし、弦楽の揺らぎは、異なった声部ごとに異なった動きを、しかし規則的で、歯車のようにそれぞれが噛み合った動きを見せている。その様が妙に性的で、さながらベッドの上で求め合う男女のように見えてきて、興奮する。

 そういえば、以前自分がピアノを弾いている動画を見ていた時、演奏しながら身体を揺らす自分の姿が、まるでピアノに向けて腰を降っている男のように見えて、実に愉快だったことがある。実際、音楽の流れに身を委ね、その浮き沈みに聴き入ることには、非常に肉体的というか、性的と言えるまでのエクスタシーがあると思う(私が孤独でいても大して寂しさをおぼえないのは、もしかすると音楽のおかげなのかもしれない)。

 次に思い浮かぶのは、オーケストラを指揮している時のカラヤンの顔だ。交響楽の盛り上がりと共に身振りが動き、その強弱によって表情が変わる。全てが解放され、罪の穢れが洗い落とされるような楽章の頂点を迎える時の彼の顔は、まさにエクスタシーそのものだ。グレン・グールドも、ピアノを弾いている時に、口を開き、ピアノの方にかがみ込みながら演奏する。その様は、まるでピアノを愛撫しているように見えなくもない。


 「本物」を求める時、人は常に偽として定められたものを裁くものとしてそれを考える。しかし、実際には違う。真実的なものとは、常に偽物を包み込む存在なのだ。なるほど、確かに偽は存在する。しかし、本物はそれに対立するものではない。偽が本物の副産物であり、それよりも重要でないのは確かかもしれない。しかしだからと言って、本物が偽を裁くことはない。もし偽が本物の副産物であるならば、本物はそれに対立すると言うよりかは、むしろ無限に産出される偽物を内包する存在である。

 偽を恥じ入らせ、それを断罪する本物とは、本質的に存在しない。本物とされたものが、意図せず偽とされたものを恥じ入らせることはあるかもしれない。しかし、断罪するために存在する本物など決してありえない。偽に復讐するために本物を求める動きは、それ自体自らが偽物であることの表れである。


 「……まさにその意味において、存在[現実の生]とは試練である。しかしそれは物理的・化学的な実地の試練であり、実験であって、[道徳的な善悪の価値観による]〈審判〉とはまるで違う。(…)そうした個々の状態の物理化学的な実地の試練こそが、道徳に基づく審判とは全く逆に、〈生態の倫理(エチカ)〉を形作っているのである」

 私達が生きる現在には、常に今は生きられない余白がある……人の知性が、これまでに経験した感覚の集合体であるのは間違いのない事だ。これは熱い、これは悲しい、これは痛い……そのように感覚的な経験が積み重なることによって、私達の意識は形成されていく。言い換えるならば、私達の知性とは何処までも感覚的なものであり、感覚を超越した絶対理性とは、理論上でしかありえないことのなのである(感覚を否定する理性とは、感覚に対する復讐心の表れである)。

 「砂糖水を飲みたければ、砂糖が水に溶けるのを待たなければならない」とは、ベルクソンの残した有名な定理だが、初めて見た時には、一体何を当たり前なことを言っているんだと思った。が、よく考えてみると、この短い文だけでベルクソンの言いたいことが端的に現れているので、確かに面白い。私達の生きる現在とは、常に砂糖を水に入れた瞬間なのである。水の中には砂糖が入っている、しかしまだ溶けていない。同様にして現在には、常に全く違うもの、理解できない( = 水に溶けない)ものが同時に存在している。しかし、私達はそれを間違いなく経験しているのである。そして、砂糖水を飲みたければ、砂糖が溶けていく持続を経験しなければならない。

 時に、知性がもし感覚的なものだとするならば、私達は一生かかっても、自分自身を完全に客観的に見ることが出来ないわけである。何故なら感覚は限りなく主観に属するものであるから。よって、こうとも言うことが出来る。私達は、自分を構成している経験が何なのかを知らない、と。生が一つの試練であるのはそのためだ。私達は自分がなんであるのかを知らない。ならば、それをふるいにかけて、自分を試し、実験しなければ、自分がいかに生きるべきかを見出すことが出来ないのである。

 私達が生きる現在には、常に今は生きることの出来ない余白がある……しかし、私達はその余白がなんであるかを知らない。ならば、余白を生きようとすること、自分を知ろうとすることは、常に一つの賭けとしてあり続ける。恐らく、その先にこそ、悲しみ=ルサンチマンにとらわれない、真の善い生き方が、私達の倫理的実存がある。

 「したがって生態の倫理における試練は、[来るべき最後]延期された審判とは全く反対に、道徳的秩序を[あとから]回復するのではなし、確固の本質やその状態個々の持つ内在的な秩序を、即座に確認していくのである。総合して賞罰の裁きを下すのではなしに、この倫理的試練は、どこまでも実地に私達自身の化学的組成を分析するに留まる(試金分析、あるいは[同じ粘土からつくられる]器の違いの分析) のである……」

20/06/27

 ここ数年間で最も印象に残っていることといえば、やはり二年前の日々の出来事である。今日、私は友人と共に互いの過去についての話をした。その際、私の口から真っ先に出たのは、あの過ぎた日々の記憶であった。

 20/04/26の日記でも既に触れたが、あの頃、私は二人の異性の友人に恵まれていた。それで、その内の一人とは、月に一、二回ほど共に出かけていた。そんな彼女にはある不幸な過去があった。相手のプライバシーのためにも、それを詳しく書こうとは思わないが、ただ昔、彼女が性犯罪の被害に遭ったことだけは記しておく。気の弱そうな見た目をして、今にも折れそうなくらい痩せていた。中高生の頃には教師から無闇に身体をベタベタ触られたり、または見知らぬ男から後をつけられたりなど、とにかく嫌な記憶を沢山持っているらしい。

 実際、彼女の容姿は人形のように愛らしく、美しかった。しかし、その見た目とは反対に、彼女自身の性格は、(悪い意味ではなく)非常に感情の強いものであった。私はといえば、彼女のそういった強情さに、自分に似たものを見出して、時には親近感を、また時には同族嫌悪さえをも覚えていた。


 あれは確か、あの年の、二年前の夏の事だったと思われる。私達は夜の渋谷の道玄坂を歩いていた。その時、彼女は人に話しづらい自分の過去を、少しだけ私に話してくれた。気まずい空気が私達の間に流れた。こういう時、私はどういう言葉をかければいいのか知らなかった。

 自分が何を言ったかは覚えていない。ただ一つ、上手い返事が出来なかったことだけはよく覚えている。私はありきたりな慰めの言葉をかけた。無論、それは失態であった。他に見られないような不幸を抱えている人は、よくよく自分の不幸に誇りを抱くものである。強い苦悩は、自分の苦しみが容易に誰かに理解されることを拒む。ありきたりな言葉でそれを片付けられる程、益々相手を不快に思うのである。

 私はそれがわかっていた。私も同様に、自分の不幸にしがみついている人間であったから。にも関わらず、私は上手い返事が出来なかった。私達は、お互い面倒で、陰気で、口下手な性格をしていた。


 私の記憶が確かであれば、彼女には一度、高校を中退した過去があった。何かの事件の影響か、それとも例の犯罪の被害のせいかはわからないが、ある日から不登校になって、暫くすると学校を辞めたらしい。元々決して頭の悪くない高校に通っていたが、再入学した先は、地域でも特に偏差値の低い場所であった。その後、ある音大に入学するものの、それも彼女が二十歳になる頃のことである。そして入学と同じ頃、私は彼女と知り合ったのであった。

 彼女がどうして私と仲良くしてくれたのか、それはわからない。もしかすると、同じレールに外れた人間として、シンパシーを感じてくれたのかもしれない。彼女は私に何かを期待していた。それが何なのかはわからない。一時期は、彼女が私に救いを求め、また彼女によって私が救われることを求めているように見えた。しかし、それも本当かどうかはわからない。ただ一つ、確実なこととして言えるのは、彼女がいつも停滞し、消滅することを求めていたということである。彼女はいつもそうだった。いつだってぼんやり死ぬことに憧れていた。

 彼女の姿を見ていると、私はドストエフスキーの『白痴』に出てくるナスターシャというキャラクターのことをよく思い出した。ある男の慰みものにされたために、十代の青春を失ったナスターシャは、幸福になることを求めず、むしろ益々不幸になることを求めながら生きていた。飛び切り上等な花婿よりも、どこかの学生の駆け落ちして、屋根裏で餓死するのを求める。作中で、ナスターシャの性格はそう形容されている。

 実際の彼女が死にたがっていたかどうかはさておき、私はまだ死にたくなかった。私は生に執着していた。そして、それが私達の間に、何かひずみのようなものを生み出していたような気がする。

 口論をしたことはないにせよ、私達の間にはよく、無言の牽制が起こった。本心を隠し合い、お互いのために苦しみ合う。私は時々、自分達は互いに互いの足を引っ張りあっていると考えた。それぞれがそれぞれ、お互いのためによくない存在となっていた。そるはよくないことに思われた。

 それで何度か、私は彼女に本心を打ち明けようとした。少なくとも、私自身はそのつもりである。しかし彼女の小説的で、役者めいた性格は、私の前でヒロインを演じることあれど、いつまでも心の壁を取り払うことをしてくれなかった。しかしもしかすると、向こうも私に同じようなことを感じていたのかもしれないが。


 ある日の夜に、私は歩きながら、彼女にニーチェの話を、とりわけ永劫回帰の話をしたことがある(恐らく彼女はもう覚えていないだろうが)。永劫回帰には色々な解釈があるが、その内の一つが、慰めとしての永劫回帰であふ。一切は再び繰り返される。そして、もし今の人生が再び繰り返されるならば、これまでの良い事と悪い事が、再び私たちを襲うこととなる。それでも再びそれを生きたいと願えるかどうか。もとい、再び同じ人生を生きるとしても、それでも生きたいと願えるように、深い喜びを勝ち得ること……それが永劫回帰の解釈の一つだ。と、そんな事を話したように記憶している。

 無論、彼女からの反応は微妙なものであった。寂しそうな顔で、「前向きだね」とか、そんな事を言われた。そして、私達の間には再び沈黙が訪れた。


 以前には、私達は案外お似合いなのかもしれないと考えたこともあった。お互いに嫌な思い出が多くて、レールから外れた人間である。お似合い以外の何ものでもない。しかし、彼女は不幸の倦怠の中に閉じ籠り、そのまま落ちることを求めているように思われた。そして、私はこのまま不幸から抜け出せずに死んでいくなんて、絶対に嫌だった。生きたかった。生きて前に進みかった。互いに傷を舐め合うのはいいかもしれない。だが、そのまま閉じた世界に向かうのは違う気がした。無論、彼女が本当にそこまでのものを求めていたのか、それはわからないが。

 しかし、私が彼女に深く踏み込むのが恐ろしかった、というのもあるのかもしれない。なんと言っても、二人で一つ屋根の下で一晩を共にしながら、彼女に手を出さなかったのだから。そのくらい、当時の私は臆病な人間であった。

 結局、私はもう一人の、別の女性を選んだ。もとい、選んだとも言えないかもしれない。そちらとも上手くいかなかったのだから。その女性は真面目で、内気な性格をしていた。そして、当時の私には、そんな真面目な女性に酷いことをしたという罪責感があった。その意識は、ナスターシャに対して感じていた責任よりも遥かに大きかった。私はムイシュキン公爵ではない。だからナスターシャを幸せにすることは出来ない。ならばせめて、自分が幸せにできる人を幸せにしたいと思った。が、それも彼女からすれば、余計なお世話なのだろう。

 どちらにより恋愛感情を抱いていたのかとなれば、正直、それはよく分からない。ただ、この信頼出来ないものの多い世の中において、私は自分が信じ、安らぐことの出来る存在を、心の拠り所を求めていた。今だってそうだ。私は自分を支えてくれる存在を、今もなお心の何処かで求めている……女性は気難しくて、容易に人を愛さない性格をしていた。そして、それだけに彼女は潔癖で、繊細で、心の美しい人だった。出来れば、私以外に友達がいて欲しくないと、何度願ったか知らない。彼女が世に出ることで、世の汚れに染まることも恐ろしかったから、就職もしてほしくなかった。

 無論、私は一度もナスターシャとの繋がりを彼女に話さなかった。理由は簡単だ。そんな事を知ったら、彼女は悲しむだろうし、それにその反動で、何か酷いことをしてしまうのでと不安であった(以前、私の取った態度のために、自分を傷つける行いに向かった人の例を見たことがあるが故の心配であった)。

 恐らく、彼女は私のそういうところが気に食わなかったのだろう。私もナスターシャと同じで、彼女に対して、心の壁を取り払わなかったのである。自分なりに頑張ったつもりであった。しかし結局、どちらも失ってしまったのである。


 あの頃のことを思い起こすと、未だに深い後悔にとらわれる。今付き合いのある友人の数と、これまでに縁の切れた友人の数ならば、後者の方が遥かに多い。しかしそれでも、思い入れがあって、今なお忘れることの出来ない友人といえば、二年前に仲が良かった、その二人くらいである。

 あの頃、私は若かった。今もまだ若いのは事実だが、しかしそれでも尚、今とは比べ物にならないくらい若く、青かった。私達は二度とやり直せない。過ぎた日々が戻ってくることも決してありえない。それはわかっている。しかし、今なら違う。今の私なら、何かもっと違った結果を出すことが出来たはずだ。最近はよく、そう思いながら日々を過ごしている。

 一人でいる時に、または誰かといる時に、私はよく、二人のことを思い出す。どちらをよく思い出すかとなれば、真面目で、気難しくて、容易に人を愛さなかった彼女の方である。未練もあるし、心残りもある。時折、私は彼女に無性に会いたくなることがある。今日までに何度そう感じたか知らない。しかしその度に、今の私には、かけるべき言葉も見つからなければ、会わせるべき顔もないことを痛切する。あと少しで、彼女のことが忘れられる気がする。しかし、それがどうにも上手くいかない。

  無論、ナスターシャのこともよく思い出す。あれは元気にやっているだろうか。私達は恋人にはなれなかったが、良い友にはなれたのではないか。お互いにかつてのことを忘れて、再び友情を結び直すなど、無理な話であろう。もう二度と会うこともないかもしれない。そして、実際にそうなのだろう。私達はもう会わない方がいい。

 ただ、幸せになって欲しいとは、いつも心の何処かで祈っている。無責任な人間で、本当にすまない。

20/06/23

 思弁的なレベルで言えば、あらゆる問題は提起すれば必ず答えを出るようになっている。というのも、答えを想定して問題は設定されるからだ。では、同じ問題を堂々巡りして、いつまでも解決が見えないという現象は、何故よく見られるのか。それは、そもそも問題の提起の仕方が悪いからである。

 肝心なのは、答えを出すことではなく、問題を設定することだ。というのも、物事への問い方によって、答えの内容は変化していくからだ。もし同じ問題から抜け出せず、問と答えの間を行ったり来たりしているならば、それはそもそも問題の設定の仕方が間違っていると考えるべきだ (解答が出てるのに解決が見いだせない、それは解答が出ていないのと同じだ)。大切なのは、無理に目の前にある問題を解こうとするのではなく、今いる場所から抜け出して、別の観点から再び問題を問い、そもそも問題とは何かを考えることである。


 多様性というものを、人はよく誤解している。真の多様性とは、ある意味では差別の肯定とも言えるからだ。

 生まれながらにして、人は本性上に差異を抱えている。たとえどれだけ社会的な平等が整えられても、その根源的な差異から、私達の間には実質的な不平等が、差別が生じざるを得ない。もとい、だからこそ私達の世界は発達してきた。不平等であり、人と人がそれぞれ違うということ。文化の発展の第一要因はそこにある。

 よって、真の多様性とは、分裂した人間存在の肯定である。現代は一つの反動の時代と言える。既存の価値観への反発から、またはかつての世界への復讐から、人々が大規模な運動を起こそうとしているのをよく見かける。しかしそれらは、マイトリティ= 多様性の肯定というよりから、むしろ既存のマジョリティを追いやって、自分たちがマジョリティになろうとしている征服運動であり、一種のファシズム的な運動なのだ。これは、言うなれば多様性の肯定とは正反対の行いをしているということである。ファシズムは差異を否定的なものだとして、一つのものへと回収することを求めるから。

 マイノリティは常に、マジョリティに自分を認められたいという欲望を内心に抱かざるを得ない。よって彼らが取る行動は二つであり、一つはマジョリティに自分を寄せていくことであり、もう一つは自分がマジョリティを征服することである。どちらにせよ言えることだが、マジョリティに自分を認められようとすることで、マイノリティは自分の良さを失っていくのだ。

 先程も書いたが、文化の本質は人がそれぞれ抱えている根源的な差異、孤独にある。よって差異=孤独を無にしようとする活動は、それ自体文化を無にしようとする欲求の表れに他ならない。つまり、悲しみの表出だ。悲しみは自分を悲しませるものを無にすることを求めるからだ。しかし、自分を悲しませるものを無にしようとする程、人は自分を喜ばせるものさえも失っていくこととなる。悲しみへの反動的活動は、それ自体自分を衰退させるための活動なのである。

 多様性とは、それぞれの抱える本性上の差異の肯定である。それはマジョリティ=虚構の解体をも意味する。物理法則というものは、常にある特定の環境下に置いてしか成立しえない。法則のように必ず当てはまる一般的なもの、普遍的なものとは、物理学と同じように、一定の条件下でしか成り立たないものなのである。言い換えるならば、一般性=普通とは常に虚構なのだ。それは人々が本性上に抱える差異を誤魔化した上でしか成り立たない。

 本性上の差異を肯定するならば、差異は一層深刻化する。差異は多数化する。一つの違いを認めれば、違いは益々産出されていくこととなるのである。よって、多様性とは、本性上の差異の肯定であると同時に、分裂することへの肯定でもある。つまり、私達が分裂し、八つ裂きになることへの肯定、全ての人間がマイノリティに生成変化することへの肯定なのだ。多様性の先にあるのは、一般社会の解体であり、既存の価値観の崩壊であり、また新しい価値観の発生でもある。


 私達はその場その場を生きるというよりかは、むしろ諸々の流れを、始まりと終わりの失われた流れの中間を生きている存在だ。

 有名なゼノンのパラドックス、アキレスの亀を思い起こしてみよう……亀より足の速いアキレスが亀に追いついた時、亀は幾分先に進んでいる。再びアキレスが亀に追いついた時も、それは同様である。ここでは、足の速いはずのアキレスが、何故か亀を追い越せないでいる。それはこのパラドックスが、そもそも空間( = 設定された場)のみにおいて起こることを前提とした理論であるからだ。確かに、アキレスが亀に追いついた瞬間だけを切り取るならば、亀はアキレスより先を歩いているかもしれない。しかし、実際のアキレスは亀を追い越す。何故なら、現実の空間 = 場は切り離されるのではなく、持続する一つの流れであるからだ。

 現象は空間の中で起こるのではなく、時間の流れの中で起こる。一般法則が理論上でしか成り立たない理由は、ひとつの場所に限定された現象というものが、理論の中でしか成立し得ないからだ。小学生の頃、算数の問題を解く時に、何故pさんはこんな事をするのか、何故qさんはあそこから動かないのか、という冗談を同級生と飛ばし合ったことがあるが(同様な経験はほかの人にもよく見られるだろう)、それはまさにそういうことなのである。

 流れとは常に多様なものの集合体である。リルケが書いていたが、運命というものは、無数の線が重なり合うことによって生じるものだ。かつては何とも思わなかったものが、ある日とても大きな意味を持つようになることがある。私達が生きる今には、常に今は理解し得ない余白がある。何故なら、今とは常に多様な線の集合体であるのだから。

 私達が生きる現在とは、かつて生きる事の出来なかった過去の続きである。最近はそんな事を考えながら生きている。人はいつも、かつて生きられなかった過去の可能性を、失われた過去の余白を生きているのではないか。