21/07/24

 年に幾度か、不眠に悩まされる夜々を過ごす。早ければ一週間で終わるが、長ければ一ヶ月以上それが続く。そして今、まさにその時期である。今日も眠れず夜を明かしてしまった。しかし、決してそれを悲観する必要はない。「打ち勝ちえぬ病に冒された時、重要なのは病を "経営すること geret" であり、病に人間的関係を投射していくことである」と、かつてドゥルーズは書いていた。まさにその通りである。大切なのは病と折衝することであり、それを嘆くことではない。そして、やがて病を「経営」できなくなった時、私の生命は終わりを迎えるであろう。しかしこれは、少し大袈裟に書きすぎたことかもしれない。

 正直に言うと、最近人と会うのも少し苦しくなっている。特にどうでもいい他人から、不愉快な手つきでベタベタと触られるかもしれないと考えると、耐え難い気持ちになる (実際にそういうことが起きるかどうかはさておき) 。何故世には孤独を恐れるひとがいるのか、私にはわからない。不潔な連中と関わるよりも、独りでいる方がよほど気が楽ではないか。

 苦しみを題材にした作品というのは世に多くある。しかし、何故人はわざわざ苦痛を描こうとするのか。それは恐らく、そもそも何故その人がそれに苦しんでいるかに由来する。人が苦痛を強調する理由、それはその苦しみが特異なものだからだ。そして、それが特異だからこそ人は苦痛に襲われるのである。慣れない、今日までの自分の生命を覆すような、あまりにも大きな経験がこちらを襲う。その時、この人生は「自分が担うには重すぎるもの」のように思えて仕方なくなる。こうして人はヒステリーに襲われる。身体がこわばり、顔がひきつり、震えが止まらなくなる。そして自分の苦しみを強調して語りたくて仕方なくなる。世の中で自分だけがこんな風に苦しむのはおかしいと思うようになり、他の人々にもこの苦しみを伝染させたいと考えるようになる。

「ヒステリー患者とは、自己の現存を強要する人であり、またこの人にとっては事物や存在が現前し、あまりにも現前するのである。この人は過剰な現前を、あらゆるものに与え、あらゆる存在に伝染させる。」

 しかし、それが何故創造行為に(作品を創造することに)繋がるのか。それは、苦しみに覆われて見えなくなったもの達を見えるようにするためであり、こちらを取り巻く苦痛を追い払うことで、喜びを獲得するためである。かつてフランシス・ベーコンは次のように語ったという。つまり、自分は頭脳的には悲観的であると。「描くべきものとして、彼には恐怖しか、世界のもろもろの恐怖しか見当たらない。」しかしベーコンは次のようにも語る。つまり、自分は神経的には楽天的であると。

 ヒステリーを引き起こす出来事が私達の前に現れる。その時、苦痛が私達を襲う。しかし、私達は決して苦しみによって何も見えなくなるのではなく、むしろ何かが見えすぎてしまうからこそ苦しんでいるのである。だから私達は再びそれが見えなくなるよう、盲目になるよう、目を閉じようとする。しかし、それではせっかくの苦しみが無駄に終わるのと同じではないか。よって、こちらを苦しめるものを、自分にはあまりにも大きすぎるように見える生の暴力を描き出し、それを白日のもとに晒さなければならない。それによって苦しみを克服し、苦しみが覆い隠そうとした〈力〉の大きさを描き出そうとするのである。

 しかし、そもそも何故それを描き出す必要があるのか。それは、その力を見出すことによって、初めて生きることが可能になる世界が存在するからだ。かつてシェストフは次のように語った。「発見されたばかりの真実は産まれたての赤ん坊のように醜い」と。しかし、それを踏まえた上で初めて獲得することの出来る喜びがあるのではないか。発見されたばかりの真実は、見えすぎた〈力〉は、私達の頭脳に恐怖を与え、この世界には不気味なものしか存在しないかのような錯覚を与える。しかし、それは妄想である。私達にはそれを明晰にすることによって初めて知ることの出来るものがあり、得ることの出来る力があり、生きることが可能になる世界が存在する。そしてその時、悲しみは喜びに変わる。過去の苦しみが償われ、贖われ、未来への快楽が解放される。悲劇は終わり、喜劇が始まるのである。

「実際、芸術の根底にあるのは、ある種の喜びであり、芸術の目標とはまさにこれなのです。必然的に創造の喜びというものがある以上、悲劇的な作品などというものはないのです。つまり芸術とは、是が非でもすべてを炸裂させる解放であって、それは先ず悲劇的なものを炸裂させるのです。悲愴な創造などなくて、いつも喜劇的な生があるのみです。」

 ドゥルーズフーコー論の後半で、「性との関係はそのままその人の自己との関係を表している」と、ざっくり言えばそんな感じのことを書いていた。実際、その人がいかに性に関係しているかによって、その人の実存様式は決定されるように思われる。

 私は今日まで、性から逃げてきた。そして、それを間違った判断だとは思っていない。異論はあるかもしれないが、自分は同世代の人間の中でも比較的禁欲的な方の人間だと思っている。しかし、それは決して倫理的な判断からそう選択したのではない。ただ面倒だからそうしたまでだ。世の中には色んな人がいる。中には何もしていないのにこちらにいやらしいくらい馴れ馴れしい態度をとる人間もいる。そういう連中が嫌なら、初めから何もしないでいるべきであり、また身を引くべき時に身を引くべきである。

 では、関係を持ちたいと思うような相手と出会ったことはないのかとなれば、そんなこともない。私にだって心惹かれる相手に出会うことはある。ただ、普段から一線を引いているせいで、よくわからないのである。何処までが自分の錯覚で、また何処までが信じるに足るものなのか、自分で自分がわからない。こんな悩みは、もしかすると思春期の頃に大半の人が終わらせているものなのかもしれない。してみると、私は未だに思春期から抜け出せていないことになる。我ながら、情けない話だ。

 

 昨日からオリンピックが始まった。これから幾ばくの間、私達はとんでもない茶番に付き合わされることとなる。日本には優秀な人材が多い。昨日の開催式でゲーム音楽を流したのは見事な英断だと言わざるを得ない。しかし、それで簡単に手のひらを返すのはいかがなものかと思う。今日まで、私達は開催側から(国家そして委員会から)あんなにも多くの屈辱を負わされてきた。あんなにもたくさんの恥をかかされてきた。それを全てなかったことにするのか。おひとよしもいい所だ。私達は怒らなければならない。これ以上あの馬鹿どもの不正を見逃すべきなのか。違うはずだ。

 とまあ、こんな所で怒りを露わにしても何にもならない。私程度の人間が騒いだところで、結局何も変わりはしないのである。今はただ、日々自分の出来る限りの最善を尽くすのみである。

 

21/07/18

 関係性の内で消費される社会。恐らく私達が生きる世界とは、その一言で表現することが可能であろう。力、それは別の力に対する関係によって成り立つ。これはかつてニーチェが打ち立てた哲学的なテーマの一つでもある。一つの力の大きさは、別の力との関係の中でしか測られない。また、一つの力は、別の力に作用し、またその力から作用されることによって成り立つ。社会とは力の、力に対する関係である。こちらが望むと望まないに関係なく、私達は別の力に対して作用し、またその力から反作用 = 反動を受けざるを得ないものとして存在している。

 この世界に絶望する理由があるとすれば、その一つがここにある。私達は社会という関係性のシステムの中でしか生きられない。そして関係性の社会で生きる以上、時にはこちらが望まない作用を他者に与え、またその反作用を他者から被ることになる。一つの喜びの芽生えがそこにあったとしても、それが開花する先にあるシステムに回収されざるを得ない。せっかく関係性の外に逃れられたと思っても、気がつけば再び関係性の内に回収されている。だからその度に、私達はシステムの汚れを被りながら、システムに対し抵抗することを求められる。

 少し壮大すぎる話に聞こえるかもしれないが、私は大真面目にこれを書いている。これは今日までの生活の経験の中で実感してきたことでもあるからだ。かつてニーチェは、反動的諸力(ルサンチマンあるいは罪悪感)から自由になった存在としての「超人」が未来において到来することを予告した。しかし、そもそも何故超人は未来にならなければ訪れないのか。何故現在では無理なのか。それは、関係性の中で生きる以上、人間とはどうあがいていもルサンチマンや疚しい良心(あるいは罪の意識)から逃れることが出来ないからだ。

 他者との世界で生きる以上、私達は他者に作用し、また他者からその反作用を受ける。誰かと共に生きるということは、常に自分の行為を善いものか罪あるものかと問われることである。よって、そこには裁きがある。そして裁きがある以上、私達はこちらを苦しめる他者を憎むか、あるいはその他者に対し罪の意識を感じるかしか出来ない。人はルサンチマンあるいは疚しい良心から逃れられない。ルサンチマンなき人間とは、もはや人間ではない。それは「超人」である。 恐らくニーチェはその事を知っていた。だからこそ、彼はよくよく未来の話をする。やがて私の時代が来る。私の予言が実現される日が来る。きたるべき未来において、「超人」の時代がやってくる。超人が到来する……。

 二十世紀フランスには、ニーチェの弟子と呼ぶべき思想家が二人いる。ドゥルーズフーコーがその人だ。そして、フーコーが「外部」の存在を問う作家だとすれば、ドゥルーズは絶えず「内部」を問題にした作家だと言えよう。かつてフーコーは「人間の死」を唱えた。それは、決して「人類滅亡」あるいは人権の無視といったふざけた話ではなく、形態としての「人間」、概念としての人間が既に死につつあるということだ。近い将来、「人間」という価値観は砂浜に書かれた文字のように消え去るだろう。しかし、私は決してフーコーの思索に明るい人間ではないから、あまり多くのことは語れないかもしれない。だからこの辺りで口を閉じるべきなのだろう。

 ただ、これは勝手な憶測だが、ドゥルーズは次のことを知っていたのではないだろうか。つまり、「超人」の実現は、少なくとも自分の生きる時代には訪れないということを。そして彼の盟友フーコーが唱えた「人間の死」も、やがて実現されることはあれど、決して今ではないということを。何故なら、社会という舞台が与えられている以上、そして不特定多数の他者と共に生きざるを得ない以上、私達はルサンチマンと疚しい良心から逃れられないからだ。そしてもしそれを拒みたいと願うなら、絶えず社会の外に身を置こうとするテロリストめいた人物になるか、それとも仮面を被って社会の汚れの中に潜伏する人間になるかを選ばなければならない。しかしそれでも私達は自分を取り囲む関係性から逃れられない。前者を選ぶならば、私達は「社会不適合者」あるいは「犯罪者」として絶えず裁かれる存在になるだろう。後者を選べば、絶えずシステムの内で恥ずべき妥協をして、したくない悪行に手を染めるよう強いられるだろう。どちらにせよ言えることだが、どんな選択に手を伸ばそうとも、何かより善いものを求めて生きる以上、私達は絶望を感じたり、自己矛盾に苛まれたり、罪悪感や他者に対する漠然とした憎悪から逃れることが出来ない。

 では「より善いものを求める」をやめればいいのではないかとなる。否、それは出来ない。人は今日までのものを踏まえた上でなければ今日以降を生きることが出来ない。だから「求めること」を辞めることは、倫理的にと言うよりかは欲望的に不可能なのである。人は自分が繰り返したいものしか繰り返されるのを求めない。既にかつての行いや知識の「馬鹿らしさ」に気づいているのに、どうしてそれが繰り返されるのを求めよう?

 これらの事を踏まえてか、ドゥルーズはよく思考の内に潜む「思考できないもの」の力を強調して語る。その一方で、人は何処に自分の思考の限界があるかを知らない。よって、確かに思考の内には「思考できないもの」が潜んでいるが、しかしその限界は問いを発する度に拡張することが可能である。そして、もしほんとうにそうだとすれば、恐らくここからドゥルーズフーコーの思想はリンクし始める。

 もし思考の内に「思考できないもの」が存在するとすれば、人はいかにしてそれに気づくのか。そう、それは外部との出会いを通してではないか。今日までの自分の常識を覆すような、困惑を覚えさせるようなものとの出会いを通して、私達は自分の内に思考できない何かが潜んでいることに気がつくのではないか。そして、もしこの思考不可能なものが思考可能になる瞬間が訪れるとすれば、それは、自分の内に思考不可能な何かがあることに気づいた時からではないか。丁度偏見を正すためには、自分の内に偏見があったことを一度認める必要があるのと同じように。

 こうして思考のうちにある思考できないものを認知した時に初めて、人は思考可能なものを掴み取る事が出来る。そして、もし外によって与えられた傷跡があるのだとすれば、それが癒されるのは同じ外との出会いによってのみなのである。自分が陥った袋小路が抜け出すために、どこに手がかりがあるのか、外に目を向ける必要がある。そして、それは決して人との出会いだけではない。むしろ過去の世界の記憶、忘却された書物、あるいは誤解され誤読されつつある芸術作品へと目を向けることによって、初めて得られるものがある。そこには過去の先人たちが未来へと向けて投げた矢がある。その矢は、先人たちが彼らよりも更に昔の人々から受け取ったものでもある。また、その矢は呼び掛けでもある。遠く離れた時代、隔たった国々を生きる人々を繋げるのは、コミュニケーションでもなければ情報技術の発達でもない。それは先人たちが放った矢が、既に現在に到来していることに気づくための趣味である。一つの作品の内には、常に自分と同じような苦悶に悩まされる人へと向けられた呼び掛けがある。読書とは自分の語るべき言葉を知るための作業である。よって本を書くという行為は、常に遠く離れたところに位置する友達を救い出すために発された呼び掛けなのである。

 既に矢は私達の手元に、あるいは足元に残されている。しかし私達はそれに気づいていないのだ。もしかすると、それは土深くに埋められていて、穴を掘らなければ気が付かないのかもしれない。だからこそ注意深く過去の文献や資料、あるいは出来事、あるいは生、あるいは芸術作品に目を向けなければならない。やがて私達は、自分の先人がいることに、自分よりはるか昔に生まれ、自分から遠く離れた地で育ち、しかし自分と同じような苦しみに直面した者がそこにいることに気がつく。そして彼または彼女が残してくれた矢が、既に自分の手の中にあることに気がつく。それに気づいたならば、今度は私達が、目の前の空間に向かって、思い切ってその矢を投げなければならない。物を切り裂き、空間を引き裂いて、私達を苛む現状から抜け出さなければならない。もし再び何らかの苦悶に苛まれたなら、私達の近くにまだ他の矢が落ちていないかどうか、確かめればいいのだ。もしくは以前使った矢がまだ使えるかを確かめればいい。なんと言っても人類の歴史は長い。たとえ私達を苛む現在の問題があまりに大きくとも、かつての世界を振り返れば、そこには自分と同じように苦しみながら、しかしそれを難なく切り抜けてきた先人が沢山いる。彼らは私達に微笑みかける。「なに、このくらいの事、なんてことないさ。きっと君なら乗り越えられるだろう……」

  私達を苦しめる現実は大きい。どんな人も時代、環境、政治、社会から逃れて生きることなど出来ない。だからこそ、どんな人も関係性の中で、恥ずべき妥協を強いられながら生きることとなる。個人の狂気は稀であるが、集団や社会はいつも狂っている。それはニーチェが語っていたことだ。恐らく、現行の社会がどう変わろうとも、この世界がマシになることなどありえないだろう。否、もしかしたらいつか「より善い世界の実現」が到来するかもしれない。しかし決してそれは私の生きている時代には訪れないだろう。あまりにも大きなシステムに対して、個々の人間はあまりにも無力である。そういう意味では、私は無力な動物である。うなり、痙攣し、にやにやし、胸を叩き、そして穴を掘る動物だ。しかし、このように動物になることによってしか乗り切れないものがあるのではないだろうか。もしくは、このような動物への生成変化には、何か今日までの私達が見逃してきた偉大な可能性があるのではないか。

 関係性の苦悩から逃れるため、時に人は孤独にこもろうとする。そうして自己を折り畳み、孤独の城に逃れることで、みずからの自由を守ろうとするのだ。しかし、このような自己決定も結局は虚しいものに終わる。私達は関係性の社会から逃れられない。だから、その度に外へと目を向けなければならない。まだ関係性の内に回収され得てない力を、または既に回収されているように見えるが、実はその巧みに被った仮面のために関係性の外へ逃れうるものを持った力を、見出さなければならない。システムの内に潜む亀裂の先を見ようとしなければならない。もしかするとそこにあるのは、かつてメルヴィルが見出したような、私達を破滅させ、あるいは発狂させるような、恐るべき力かもしれない。しかし、それすらも求めなければならないような時が来るのではないか。誰がそれを否定出来ようか。そこにこそ自分が唯一喜びを味わえるような瞬間があるのだとしたら?自由に生きれる場所など、この世の何処にも存在しない。それはただプロセスの内だけに、生成の内にだけ存在するのである。

 動物とは不思議なもので、それは暴力的なもののシンボルであり、また暴力を行使される対象でもある。「獣」は理性を持たない人間以下の存在であり、よって人間が八つ当たりをするとき最も暴力を振るわれやすい対象でもある。奇妙なことに、人は理性を持たないとされる動物に対してこそ、最も非理性的な行いをする。よって動物的なものとは、今日までの私達の世界の一般性から、最も排除され、疎外され、誤解され、忌み嫌われてきた存在である。だからこそ、大多数の中で苦しむ人間は、皆何らかの形で動物なのだと言える。私は動物だ。何故なら、私は大多数の中で生きざるを得ず、それでいながら大多数に対し絶えず疎外感を覚えているからだ。私は孤独な一匹の、無力な動物だ。今日も、明日も、明後日も、不愉快な人間どもに揉まれながら、同じような愚劣をするよう強いられ、今後の生活のために、幾度も恥ずべき妥協をするよう強いられる(これまでも、そしてこれからも、同じように)。これ以上この恥に耐えられないと思うならば、動物をやるしかない。うなり、痙攣し、にやにやし、胸を叩き、穴を掘るしかないのである。しかし、それは私が発する信号でもある。つまり、私と同じ孤独な動物に向けた呼び掛けであり、また危機に瀕した同胞達に対する応答でもある。友よ、私は無力だ。私達はあまりにも無力だ。しかし、無駄に生きているわけではない。この苦労が報われる日は必ずやって来る。そう信じなければならない。今はただ、与えられた矢を未来に向けて投げるだけである。物を切り裂き、空間を引き裂き、今在る所から抜け出すためには、そうするしかない。

 

 最近、少し疲れている。徐々に回復しつつあると信じたいが、完全に快癒するまでは今少し時間を必要とするかもしれない。心痛を伴う日々の中、音楽(特にバッハとマーラー)を聴いている時にはそれも和らぐ。そして音楽を聴いていない時には、よく耳栓をつけて生活をしている。耳栓はいい。耳栓をしていると、世界が遠くに感じてくる。不愉快な周囲の騒音が遮断されて、深海のような静けさに取り残される。すると神経が和らいで、緊張がほどけ、気分が楽になるのである。

 しかし、このまま現実逃避をして日々を過ごすわけにはいかない。私は現実に向き合わなければならない。近いうちに、なにか小説でも書こうかと思っている。二、三百ページの長編は(今の自分の力量的にも)無理だとしても、三十ページ程度のものなら一日で書ける気がする。孤独にこもりがちな一方で、上手く言えないが、まえよりかは少し活動的になることに前向きになれている(気がする)。まあ、そうなったところでどうするんだと言う話かもしれないが。とにかく書いて、どこか専用のサイトに載せるなり、または出版関係の知人に持ち込んでみたりしてもいいと思っている。恐らく、私は今年中に何かをするだろう。

 それ以外にも書きたいものがある。以前どこかで書いた気がするが、私はいつかドゥルーズについて一冊の本を書きたい。恐らく今年中に(というか今年の秋までに)彼の本を全て読み終えるだろうから、誰かご意見とご指導をいただけそうな人を探しつつ、ドゥルーズについてまとまった論考を仕上げたい。ドゥルーズ自身の言葉を借りれば、彼が本を書く理由は三つあるという。一つは、一つのものが誤解されていると思われるから。二つは、それについて何かが忘却されていると思われるから。そして三つは、それによって新しいものが生み出せると思うから。(アルノー・ヴィラニ宛て一九八六年の手紙を参照。)

 これを踏まえて言うなれば、私にはドゥルーズについて一冊の本を書く理由があると言える。日本では異様なまでにドゥルーズの人気が高い。しかし、いやだからこそ、私には彼が未だ大きな誤解を受けたままでいるように思えてならない。彼はかっこいい言葉を羅列するだけの哲学者でも、ポストモダンの胡散臭い哲学者でもない。そもそもデビューは構造主義が流行る前なのだから、時代とは関係なく語ることが出来るはずだ。それに、ドゥルーズ自身みずからを「古典的な哲学者だ」と名乗っている。恐らく彼の本質は、よく人に語られているのとは全く異なる点にある。つまり、ドゥルーズは誤解を受けており、また彼の本質は忘れられている。だからこそ、それを指摘し、そして掲げることは、それ自体新しい思考の仕方を発明することに他ならない。

21/07/08

 ゲームには規則がある。そして規則がある以上、ゲームには正解がある。一般的な人間関係というものは、およそこのゲームの理論を把握することである。こう言った時にはああ言って、ああ言った時にはそう言う。そのようなやり取りの規則性を把握すること。あるいは相手の発した記号もしくは暗号を正確に読み取り、それに相応しい態度を取ること。この絶え間ない記号 = 暗号のやり取り。それが所謂「コミュニケーション」だと思われる。

 かつて、私はそれに気がついた。そしてそれに気づいた理由は、まさにこのゲームの規則に馴染めなかったからである。

だからこそ考えた。その結果、こういう時にはこう言えば、ああいう時にはああ事を言えば、「少なくとも気まずい思いをしなくて済む」という結論にたどり着いた。会話の中には相手から発せられている記号 = 暗号があって、こちらは上手くそれを読み解くよう求められている。よってそれに相応しい態度を与えることが、会話の中で(自分も、または他人も)嫌な思いをしなくて済むことに繋がる。

 恐らく、この憶測は正解だったと思われる。ただ、だからこそ、次のような考えがないと言ったら嘘になる。つまり、他者との交流の中で、求められているのは自分ではなくシチュエーションなのだということ。とりわけこれは異性関係において言えることだ。世の中の恋愛の大半は、相手を求めて生じたと言うよりも、相手がこちらの欲望を満たすシチュエーションを与えてくれるように思われるからこそ生じる。恋愛において、求められるのは私ではなく、私を通して得たいと願っているシチュエーションである。そしてこれは、大抵の恋愛関係が置き換え可能な関係によって成り立っていることを、そのまま証明していると思われる。

 しかし、それでは本当に人を愛すると言えるのだろうか。普段気取って文章を書いているくせにこんな事を言うのもおかしいかもしれない。しかし本心をいえば、私にはそれが耐えられないのである。なるほど相手の発する記号 = 暗号を正確に読み取り、それに基づいて相手の求めるのに相応しい(しかも安易な)シチュエーションを提供すれば、相手から友情なり愛情なりを獲得することが出来る。それで居心地のいい人間関係も手に入るかもしれない。しかし、そんなものが一体に何になるのだろう。何故わざわざ私が相手の求める役割を演じる必要があるのか。何故ゲームの規則を満たす必要があるのか。そう、そんな事をする必要はどこにもない。何故なら、もし相手が置き換え可能であるならば、わざわざ相手を愛する理由がないからだ。

 この事に気づいてから、他人の言うことに敏感になる必要が無いということに気がついた。ありきたりな言い方になるが、この世にはむしろ気が付かないでいる方が幸せなことの方が多い。同世代の人間の中でも、私は間違いなく鈍感な方だと思われる。そして、それでいいと思っている。ゲームの規則を満たしたところで嫌なものしか見えてこない。ならばゲームの舞台から降りるべきだ。

 しかし、かつて、このゲームの理論から外れているように見える人に出会ったことがある。「これこれこうすれば大抵こうなる」という確率論から見事に外れてくれる人がいた。つまりそこには、ゲームの規則の外側にいる人がいた。それは私と同じで、ゲームに馴染めない人かもしれなかった。欺瞞だらけの、空虚な、置き換え可能な大多数の繰り広げる「お決まりのセリフ」と態度が支配する、嘘つきどもの恋愛のゲームから、たった一人の、真実の、置き換え不可能な少数の存在が、希望として、あるいは可能性として、そこにいるような気がした。

 それは私と同じで、このゲームを冷めた目で眺めている人かもしれなかった。馴染もうと必死になって演技をしたが、そんな自分が馬鹿らしくて仕方ない、そんな私と似た人間が、そこにいるかもしれなかった。それは群衆の中から、行き交う人混みの中から、たったひとりの人間がスローモーションで現れてくるかのような感覚であった。他の人の輪郭は皆ぼやけて見えるが、ただひとりだけがはっきりと見分けられるような気がした。 もしあらゆる関係が置き換え可能なものであるとしたら、何故わざわざ人と関わる必要があるのだろう。もしあらゆる異性関係が置き換え可能なものであったなら、何故わざわざ関係を持つ必要があるのだろう。もしそれが置き換え不可能でないならば、何故それを愛する必要があるのか。よって、もし置き換え不可能な存在を逃したならば、私は一生誰も愛せないのではないか。

 この世に置き換え可能な人間しかいないならば、わざわざ誰かを愛する必要がない。愛する相手が置き換え可能であるならば、愛することに意味はない。そして、もし愛することに意味がないならば、わざわざこの世界と、外部と、あるいは他者との関わりを持つ理由がない。よって、私達が愛する相手とは、置き換え不可能なものでなければならないはずではないか。

21/07/04

 雨が降る。さながら感情の嵐のように、大地を鞭打つ豪雨が降る。かつて黒澤明は、雨を激情の表現として用いた。恐らくベルイマンはそれから影響を受けて、『野いちご』におけるある美しい場面を考案した。土砂降りの雨の中、二人の男女が佇んでいる。女は男と共に生きることを望むが、しかし男はそれを拒む。男は語る。自分は人生にうんざりしている。だから死にたい時に死ねるよう身軽でいたい。カメラが俳優の顔をクロースアップする。それは激情の雨によって濡れていた。やがて二人は車に戻る。そして男は話を続ける。君は僕と僕の子供と生きることを望んでいる。しかし僕は違う。僕の望みは死ぬことだけだ。

 終電で着いた駅のプラットフォームから、私はぼんやり外の世界を眺めていた。電車の中では気づかなかったが、外では雨が激しく降っていた。豪雨を眺めていると、私は黒澤明ベルイマンのことを思い出す。とりわけ彼らが映画の中で描いていたあの激情のイメージを。豪雨の美しい騒音は、私に感情のざわめきを想起させる。

 やがて私は駅を出た。そして激しい雨に打たれながら、ひとり物思いにふけっていた。
 
 人は何故創作するのか。または、何のために創作に携わるのか。しかし、なんの創作も手掛けてないこの私が、上のような壮大な問いを発するのは間違いかもしれない。しかし、だからこそ私は問わねばならぬ気がする。何故なら、もう長い間、何もする気が起きていないからだ。

 実は今、私には書きたい本が二つある。一つは映画についての本で、もう一つは絵画についての本である。どちらも映画監督、あるいは画家になりたい青年を主役にした小説だが、ただこの話は、もう以前日記の何処かで書いた気がする。だから詳しくは書かないでおく。

 ただ、書きたいと思っている一方で、いつそれを書き始めるべきかがわからない。または、何故それを書く必要があるのかがわからない。つまり、何のために書けばいいのかがわからない。東京で一人暮らしを始めてからもう随分が経つ。しかしまだ何もしていない。そして恐らく、その理由は単純である。そう、何故しなければならないのか、または何故するべきなのかがわからないからだ。

 何故創作するのか。それも人によって違うだろうが、推測できる理由は幾つかある。ある人にとって、それは自己存在の証明である。つまり、一般的な言い方をするならば「承認欲求」の問題に関わってくる。自分という存在に価値があることを証明したい。そのためには、他者からの承認が最大限に得られる場所へと向かおうとする必要がある。こうして何者かになろうとして何かに取り組む人が、なんと多いことか。または、生活のためでもあるかもしれない。つまりそれ以外で生計を立てたくない(あるいは立てられない)から、いち早くその分野で成功を収めることを求めるというわけだ。

 なるほど、どちらも私に当てはまらないこともないかもしれない。ただ一方で、他の人よりそれらの欲求が弱いのも事実だと思われる。私だって、できれば自分の好きな分野で生計が立てられるようになりたい。一方で、無理にそうしなくとも何とか生活できるほどお金が稼げてしまう。それも否定しがたい事だ。無論、いつまでも今と同じように生活し続ければ、私は一生低所得労働者だろう。だから何処かで創作によって生活が賄えるようにしなければならない。ただ、恐らくまだそれは先の話だろう。

 正直に言えば、私は、金銭を稼ぐとは何であれ自分を汚すことだと思っている。好きなことを仕事にすれば、そこには必ず妥協が生まれる。だから好きで仕事にしているのに、今や仕事(またはお金)のために自分の好きなものを汚している。そんな現実がよく見受けられる。では好きなものを汚さないために、やりたくないことを仕事にする場合はどうなのか。やはりその場合でも、私達は「汚れ」から逃れられない。

 生活を営むために、やりたくない仕事をしなければならないとする。そして、その仕事の先には、必ずそれによって搾取される誰かがいる。それが嫌なら労働するなとなる。しかし労働をしなければ、私は生活ができない。だから労働をしなければならず、搾取に加担しなければならない。金銭を稼ぐ以上、どんな仕事であれ、私達は自分を汚すことを強いられるのである。

(勿論世の中には搾取に加担しない職業もあるだろう。しかしそれはごく僅かだと思われる。)

 人によっては、私の意見を「考えすぎだ」 と反論するかもしれない。なるほど、きっとその通りなのだろう。「そんな余計なことを考えていては、きっと生活などやっていけない。」そう、その通りだ。実際私は、今日までこんな余計なことばかりを考えてきたから、生活を上手く営めないまま生きてきた。言い訳がましく聞こえるかもしれないし、後付けの理由かもしれないが、もし今日まで何らかの活動を避けてきた理由があるとすれば、その一つがここにある。

 しかし世の中には、金銭に余裕があって、自己存在の証明をも求めずに創作する人だっているだろう。プルーストヴィスコンティがその人だ。しかし、彼らは何故創造行為に取り組んだのか。それは「遅すぎた時間」を償うためだと言える。つまり過去に対する嘆きを償い、未来へと躍進するための創造行為があるということだ。現在は過ぎ去る。今この瞬間にも時間は絶えず流動している。しかし過去は記憶の内へと保存されていく。現働的な時間の流れと、潜在的な過去の時間。それら二つが交わるとき、記憶の結晶が生まれる。それは私達がどういう人間かを示すイメージであって、人は皆そこに囚われていると言える。

 しかし、過去と現在がこうであるからといって、未来もまたそうであるとは限らない。むしろ決定的な気づきとは、いつも私達の現在と過去を裏切るかのようにして現れるものだ。こうして人は真実に気づく。そして真実に気づくには、自分があまりにも「遅すぎた」ということにも気づくのである。既にあまりにも多くのものを失ってしまった。しかし記憶の結晶に入ったひびは深く、そこではかつて信じていた世界が崩壊していく。その時、嘆きが生じる。それは失われた時への嘆きであり、この嘆きを償う未来への叫びである。こうしてあたかも行為であるかのように創作が始まる瞬間がある。それは「遅すぎた時間」を償うために、ひび割れた記憶の結晶を描き出し、新しい時間の流れに合流するため未来を呼び求める。

 と、かっこいい感じのことを書いてしまったが、今の自分が嘆く力もないほど疲労しきっているのも事実かもしれない。こうしてブログを定期的に書いているのも、私が活動しない要因かもしれない。なるほど、私は文章を書くのが好きだ。そこには「書くこと」によってしか得られない喜びがある。そういう意味では、「書くこと」は自分の天分だと言える。その一方で、こうして安易に自分の書いたものを晒せる場所があるせいで、「ちゃんとしたもの」を発表する気が起きないのもあるかもしれない。ありがたいことに、少なからずこのブログを読んでくれる人がいる。だからやる気が出ないのもあるのかもしれない。

 消尽した生。無気力な、疲れ切った生。ボードレールも書いていたように、私達の一番の敵は、私達を苛む倦怠である。「あまり身動きもせず、ひどく叫びもしないが、そいつはいそいそと地球を廃墟にして、あくびをしながら、世界を飲み込む。それこそ倦怠……」

 あと少しで私はそこから抜け出せる気がする。にも関わらず、その一線があまりにも遠いようにも思われる。

 創作における、もっと別の場合を考えよう。人が何かをしようと思うのはいつか。それは、自分ひとりの限界を感じた時ではないか。ではその限界を感じる時とは一体いつなのか。それは、外の世界で何かを見ることによってではないか。知識人でもない自分がこういうのもなんだが、結局、知識とはむなしいものである。私は今日まで、出来る限り沢山の本を読もうとしてきた。しかし、読めば読むほど自分の無力さを痛感するばかりである。そう、私は無力だ。無力だし、疲れきっている。勿論、私より本を読んでいる人などこの世に大勢いるだろうから、こう結論づけるのも愚かなことかもしれない。しかし私には、今日まで何らかの学習を重ねた上で、強く感じていることがひとつある。それは、知識とは行為に結びつかなければなんの価値も持たないということだ。

 だからこそ、自分の限界を感じることは、一つの行為 - 行動に繋がる。外部の世界を通して、私達は自分の無力さを痛切する。だからこそ、外部への表現を通して、外部に抵抗するのである。自分の無力さから出発して、この世界を支配している悪しき価値観に、別の価値観を提出する。「人間なんてこんなものだ」という悪しき価値観に対し、「いや、もっとこういったものがあるはずだ」と抵抗する。それが恐らく、私達が創造行為に携わる理由となる。

 しかし、それはあまりにも壮大すぎる理由だ。ただそれだけを頼りに何かの活動に打ち込むなんて、あまりにも難しい話だ。否、だからこそ私達は、外部を、あるいは他者を必要とするのではないか。それも、かつて自分が無力さを痛切したのとは別の意味で。

 書くというのはとても孤独な行為だ。私の書いた文章に共感してくれる人がいたとしても、または私が誰かの文章に共感を覚えたとしても、その事実は変わらない。誰が読もうと、何を読もうと、書き手としても、読み手としても、人は孤独なままである。一方で、次のような事実がある。私はかつて何度か小説を書いて、それをこのブログに載せたことがある(どれも出来が酷いため、金輪際人目に晒すつもりはない)。そして、それらを書くきっかけとなったのは、他者との出来事を通してであった。私はその人の気を引くために書いたし、また、変な言い方をすれば、その人に言い訳するためにも書いた。理由はなんであれ、私が唯一何らかの活動をしようと思ったきっかけは、やはり他者であった。

21/06/29

「病気が私をゆっくりと解放してくれた。病気のおかげで私は、仲違いをしなくても済むようになったし、波風の立つ、厄介な奔走に苦しまなくてもよくなった……。病気は私に、自分の習慣を根本的に変える権利を授けてくれた。」

 上の言葉は、ドゥルーズの小論『ニーチェ』の冒頭で引用された言葉である。病むことがなければ、人は「生命とは何か」を、「健康とは何か」を問うことはしない。また、病から健康に至らなければ、人は「病気とは何か」を、「死とは何か」を知ることもない。ニーチェにとって病気とは、彼が「大いなる健康」を知るための手段だったと言える。

 友情とは何か?私は哲学者ではないが、ただ「哲学(philosophy)」という言葉には、本来「知恵を愛する」という意味が含まれているらしい。だから哲学者とは、その本来の意味に従えば「知恵を愛する者」もしくは「知恵の友」であると言えよう。これを踏まえてか、ドゥルーズ=ガタリはかつてこう定義付けたことがある。つまり、哲学者とは「知恵を求めても、明確にそれを所有することのない者」であると。

 よって友情についても次のような定義を与えることが出来る。つまり友情とは、友人を求めはしても、決してその友を所有することのない感情である、と。


 コロナの影響でめっきり人との関わりが減ってしまった。元々、私はダイニングバーの店員をしていた。去年の今頃は、よく店に出勤していたものである。それ経由で知り合った人も多い。ただ、深夜営業が停止されてから、店への出勤も数ヶ月途絶えている。かつてはよく友人が遊びに来てくれた。おかげで予定を立てなくとも、自ずと人と遊ぶ機会が多かった。ただ、今やそれも遠い昔のことのように思われる。

 幸か不幸か、最近では静かな、落ち着いた暮らしを送ることが出来ている。かつて病気がニーチェを解放したように、コロナが私をゆっくりと解放してくれたようだ。去年仲良くしていた友人と会えなくなるのは、確かに寂しい。しかし実をいえば、ずっとこのような、静かな暮らしに憧れを抱いていた気がする。

 無論、決して生活は豊かではない。少ない稼ぎで、何とか日々の生活を賄っているのが実情である。そしてその分孤独な生活を強いられている。ただ、図らずとも、「これがいい機会だ」とも思っている。あと少しで自分の学習に整理をつけることが出来る。自分の青春に決着をつけることが出来る。そのためには、ある程度孤独に過ごす時間が必要である。

 コロナが明けたら、また以前と同じような生活に戻るかもしれない。何やかんや言いつつ、私は元々働いていたダイニングバーが好きだ。それ経由で知り合った人間も多いし、またその中には仲のいい知人 - 友人もそれなりにいる。ただ、彼らとも最近では全然会わなくなってしまった……。しかしこうして、かつての友と距離が出来つつあるのはいい機会なのかもしれない。私には今、専念したいことが一つある。そしてそれに上手く専念出来る環境が与えられている。ついに今日までの自分に蹴りがつけられそうな気がする。少々ドラマチックな言い方になってしまうが、本心である。私はやっと自分の内にあるものに決着をつけることが出来る。ドゥルーズの本を読みながら、最近はそんなことを考えている。

 最近はドゥルーズの『シネマ』を読んでいる。文字通り、映画への分析を通してドゥルーズ自身の哲学を語る本である。彼の著述スタイルには幾つかの特徴があるが、その内の一つとして「仮面を被る」ということが挙げられる。彼自身、「哲学者は仮面を被らなければならない」ということを何度か語ったことがある。それは冒頭で述べたニーチェ論の中でも語られた内容である。「哲学的な力は、それがギリシアで誕生した時、生き延びるために変装しなければならなかった……」

 ドゥルーズは自分以外のものの仮面を通さなければ、自らについて語ることをしない。その初期には他の哲学者 - 文学者の仮面を通して、また『差異と反復』『意味の論理学』の時期には当時流行していた構造主義 - ポスト構造主義の仮面を通して、更にフェリックス・ガタリとの共著においては「ガタリ」という人間それ自体の仮面を通して。よって、二巻に及ぶ大著『シネマ』においては、自ずと「映画」という仮面を通して自らの哲学を語ったことになる。

 ドゥルーズはよく分かりづらく、ややこしい言い方をする作家だと見なされる。しかし、実際はそんなこともないと思う。まさに彼の主著と見なされているもの達(『差異と反復』『意味の論理学』あるいはガタリとの共著による『資本主義と分裂症』シリーズ)が、ややこしい書き方をしているからそう思われているに過ぎない。そして、私の考えが間違ってなければ、ドゥルーズは前者二冊においては当時流行のポストモダンの仮面(「知の欺瞞」として叩かれたフランス現代思想の仮面)を被り、またガタリとの共著ではフェリックス・ガタリの仮面を被っている。そして、もしその主著の中で被った仮面のために彼の哲学が「ややこしい」あるいは「胡散臭い」として断罪されているならば、それはまさに誤解である。

 よって私には、より「胡散臭くない仮面」、つまり古典的な哲学者 - 文学者、あるいは映画について言及した本にこそ、よりストレートに彼の本質が現れているのではないかと思われる (勿論、個人的にそちらの方が読みやすく感じるから好きだと言うのもあるのだが)。それは彼の書いた絵画論についても言えることだ。『感覚の論理学』の中には、彼の「古典的な哲学者」としての態度が示されている。つまり、人は死 - 暗闇にあるものを生 - 光の方へと掲げることによって、その内に秘められた力を可視化するということだ。そして、それこそが創作することの本質であると、ドゥルーズは語る。

 生活は苦しい。しかし困窮の日々の中で彼の本を紐解くことは、私の日々のささやかな幸福である。仕事の合間合間に本を開き、日差しの方へそれをかかげながら読むことは、この心を静穏な喜びで満たしてくれる。 実を言うと、最近は心身ともに安定しない日が続いている。だから仕事も休みがちである。しかしそれでも、本を読むことは私に生きる糧を与えてくれる。ニーチェリルケは、よく貧しくあることの大切さを強調している。しかし、それは彼らが元々恵まれていたからだと言える。元々何かしら形で恵まれていた人間は、何らかの苦労や貧しさを経験することで、慎ましくあることを、謙虚であることを学ぶことが出来る。リルケには次のような美しい詩がある。「何故なら貧困は内部からの大きな輝きなのだから。」

(逆に、最初から何も恵まれていない人間は、貧しい生活の中で、自ずと狡猾で、他者への復讐心の強い人間に成長する。それは黒澤明が『七人の侍』の中で描いていたことだ。)

 とにかく最近は、ドゥルーズの本を読むことで忙しい。なんと言っても今年中に(というよりかは今年の秋までに)彼の著作をすべて読み終えなければならないのだから。そうすれば、自分の中にある何かに決着が付けられる気がする。幸いなことに、日本では優れた訳者 - 研究者の方々が、美しい日本語でドゥルーズの本を翻訳してくれている。そして今、日本では彼の全ての著作を日本語で読むことが出来る。大抵の場合、訳者解説も非常に懇切丁寧でわかりやすい。おかげで私のような独学者でもドゥルーズを読むことが出来ている (言い換えるならば、私のようなちゃらんぽらんでもドゥルーズが読めるのだから、私と同じようにちゃらんぽらんな奴でも本来ドゥルーズが読めるはずなのである。それくらい彼の本質は普遍的なものである)。

 そういう意味では、コロナには多少感謝していると言える。何故なら、コロナの影響で、こうしてゆっくり腰を据えて本を読む時間を得ることが出来たのだから。その結果、疎遠になってしまった友人も少なくない。去年の今頃は毎週のように会っていたのに、今では数ヶ月に一度会えればいい方な友人もいる。皆大好きなのに、私は皆を遠ざけている、とも言えるだろう。しかし、それでいい気がする。先程も述べた通り、友情とは、相手を求めても決して相手を所有することのない感情を指す。私が友人たちを愛しているからと言って、私は友人たちを所有することは出来ない。その反対も同様であって、たとえある友人が私を愛してくれるからと言って、その友人は私を所有できないのである。

 友情。それは私の人生において、一つの大きなテーマだと言える。もし友情が相手に対する信頼と尊敬に基づいて成り立つなら、私達は自ずと友人に対して距離を取らざるを得ない。何故ならそれは、相手の嫌なところが見えて信頼と尊敬が失われるのを恐れるからではなく、むしろ信頼し尊敬するからこそ、相手と自分の独立を守りたいがためである。私は今日まで、家族に対しても、かつての恋人に対しても、勿論友人に対しても、距離を取って生活してきた。それは、どんな人間に対しても友情を失いたくないからであり、言い換えるならば、尊敬し信頼しているからこそ、距離を置いても大丈夫だと考えているからだ(もちろん時には、信頼と尊敬を保つために距離を取りたいと願ったこともあるのだが)。

 よく「男女の間に友情は成立するのか」という問題が取り上げれる。それに対して、私はこう応えたい。つまり「男女の間に友情が成立しないなら、男同士(または女同士)の間にも友情は成立しないはずだ」と。前述の通り、友情というものは両者の間にある程度の距離を導入するものだと思われる。男同士の付き合いで、「野郎ふたりでこんな事をするのも気持ち悪い」といってしない事が沢山あるに違いない。私がそうだ。特に男同士でベタベタするのはあまり好きではない。否、だからこそ同性間では友情が生じやすいのだと思われる。恋愛において、私達は自ずとその「距離」を放棄するように強いられる。よって友情が成立するのは距離の問題であって、性別ではない。

 大切なものは、失われたとしてもいつか必ずよみがえる。今は疎遠になっている友人も、もしそれが本当に大切なものならば、いつか必ずよみがえるであろう。私が今日までブログを書いてきた理由はいくつかあるが、その内の一つとして、「言い訳」が挙げられる。一時期、このブログはある特定の誰かに対する際限のない弁明であった。つまり、「そんなことないよ、僕はこう思っているよ」ということを絶えず書いてきたわけだ。そして今書いているこれらの文章は、私のある不特定な友人たちに対する言い訳であり、また弁明である。

21/06/25

 「反復とはかけがえのないものへの行動である」とは、確かドゥルーズが『差異と反復』の序論で書いていたことだ。しかし、何故反復すること(繰り返すこと)が「かけがえのないものへの行動」に繋がるのか。それは、人が置き換え不可能なものしか繰り返されるのを求めないからだ。私達が手を伸ばし、「もう一度」と何かを求めるのは、それによってしか得られないものがそこにあるからだと言える。しかし、何故それによってしか得られないものがそこにあるのか。それ自身が常に置き換え不可能なもの、すなわち「異質なもの」であるからではないか。

 これが『差異と反復』の原理となる。人は異質なものしか、異なったものしか繰り返されるのを求めない。私達が一つの音楽を繰り返し聴くのは、それが私達にとって異質だからだ。ある一つの音楽を聴く度に、いつも同じ感動を覚える。それは、同じ音楽でありながらも、聴く度にこちらに新鮮な気持ちを覚えさせてくれるものが、一度聴くだけでは汲み取りきれないものがそこにあるからだ。このように、永遠に異なったものだけが繰り返される現象を、ドゥルーズは「永劫回帰」と呼んだ。

 置き換え不可能なものとは常に稀なもののことでもある。もし「繰り返し」を求めるのが異質なものだけならば、「異質なもの」と区別される「その他一般」が存在しなければならないからだ。つまり「置き換え可能」な大多数が存在している必要があるということだ。そして、この置き換え可能な大多数から、置き換え不可能な唯一の存在を抽出するということ。それが私達にとって愛するという行為に繋がってくる。ただ、これは私が話したい内容とあまり関わってこないから、この辺りでやめようと思う。

 変な言い方になるが、自分は今日まで置き換え可能なものであることを好んできた。私には友人が沢山いる。そして、私が彼らを愛しているように、彼らも私を愛してくれているだろう。私が死ねば、私のために悲しんでくれる人もいるかもしれない。しかし、当たり前な話だが、数日経てば皆それを忘れていく。私が居なくなったとしても、やがて皆その代わりを見つけてくれるに違いない。そして、それは決して悪い意味ではないのである。私は何も悲観してこんな話をしているのではない。誰かにとって大事な存在になることは、それ自体その誰かに対して責任が生じることを意味する。そうなれば、私はその誰かを絶えず意識して、絶えず自分の行動を制約しなければならなくなる。

 ああ、なんて息が詰まることだろう。ある程度自由な身分であるためには、誰かにとって置き換え可能な存在であるしかない。もとい、望まなくとも自ずとそうなっていくものだと思う。替えのきかないものが稀なものなら、自ずと私はその選別のテストで落選していくだろう。

 少し個人的な話をしよう。幼少の頃から親元を離れるまで、私にはある飼っている猫がいた。彼女(その猫は雌であった)の名前はララという。ララは私にとってかけがえのない、替えのきかない存在であった。ララと私との間には、多くの美しい思い出が存在する。高校生の頃、私が机に向かって勉強していると、ララが机の上に飛び乗って、参考書の上に寝っ転がってきたのである。どうやら彼女は私が勉強している姿に嫉妬しているらしかった。はじめは驚いたが、次の瞬間には笑いだし、最後には喜びが生じた。私はララと戯れ始めた。

 ララは私にとってかけがえのない存在だった。私が高校に在学している間に、ララは寿命を迎えた。それはこの世のものとは思えない苦しみを感じた瞬間でもあった。それから一、二年後に私は家を出た。今やそれから更に五年の歳月が経過しようとしている。ララは未だに私の夢に出てくる(それも大体、私が忘れた頃に、不意に出てくる)。経済的な理由から、今日までペットを飼っていないが、今でも野良猫なり、友人の飼い猫なりを見ると、真っ先に思い出すのはララの顔である。

 ドゥルーズがかつて引用したプルーストの言葉に、次のようなものがある。「私は彼女を愛していたのではなく、彼女の内包している風景をも愛していた。」私達が誰かを愛するのは、その誰かが自分のいるのとは別の世界を想起させてくれるからだ。私達は絶えず、相手の顔から、相手が語っていないことまでもを引き出す。相手の一挙一動が、自分が恋い焦がれるシチュエーションを、自分がかつて望んだ世界を想起させる。だから私達は対象に惹かれる。

 なるほど私はララを愛していた。そして今でも愛している。しかし、私は彼女を愛していると言うよりも、彼女と過ごした記憶を愛している。ララを思い出すことは、私にとって幼少期のイメージを掘り起こすことと切り離せない。言葉を持たない二匹の動物が、言語以前の状態でコミュニケーションを取る。そこには自意識に囚われた人間と言葉で交わすコミュニケーションよりも遥かに美しいものがあった。よってララとの思い出を呼び起こすことは、私にとって言語以前の状態への憧れをも想起させる。まさに「私は彼女を愛していたのではなく、彼女の内包している風景をも愛していた」というわけだ。

 私達が誰かを愛するのは、その誰かが別の世界をこちらに想起させてくれるからである。しかしこのドゥルーズ - プルーストの定式は、言い換えるならば、相手の内に自分が求めるものがないと気づいた時、こちらが相手に飽きることをも意味している。例えば今、誰かが私を慕ってくれたとしよう。その人は恐らく、私のうちに「自分とは違う何か」があるのだと期待している。よって、その人はこちらに期待していたものがないことに気づいた時、私のもとを去っていくだろう。つまり、遅かれ早かれその人はこちらに飽きるということだ。もとい、大体の話はそんなものである。だから悲観する必要もないということだ。

 対象を愛する時、対象が想起させる風景をも愛すること。そして(対象との思い出によって形成される場合もあるが)その大半の場合は求められる「風景」が先行しているということ。繰り返すこと、それは置き換え不可能なものに対する行動である。しかし、その反復を対象が必ずしも人や物であるわけではない。むしろ大抵は理想化されたシチュエーションであり、自分が演じたい役を演じさせてくれる舞台である。しかし現実がドラマのように進行するならば、私達は決して好んでドラマに触れようと思わないだろう (私達がドラマを求めるのは、ドラマが私達の日常と異なっているからだ)。

 このような重苦しい現実から抜け出す方法、それは大多数にとって置き換え可能なものであるのを肯定することだ(もとい、そう望まなくとも大抵の場合置き換え可能なものになっていくものだが)。しかし、このように、好んで置き換え可能なものであろうとすることは、やがて置き換え不可能なものに出会った時、自分がどう振る舞えばいいかわからなくなるという難点があるかもしれない。それにもう一つの問題がある。つまり、「置き換え可能なものと置き換え不可能なものの区別とは何か」ということだ。

 それに関しては、きっと時が経たなければわからないだろう。何故なら、本当に大切なものは、忘れられたとしても必ずよみがえってくるものだから。こちらにその気がなくとも、何故かわからぬがそれが頭から離れない。まるで白昼夢の内にいるかのように、不可思議な感覚に囚われる。または悪夢を見ているかのように、忘れたと思ってもいつか再びよみがえる。リルケはかつて次のように書いていた。つまり「思い出を抱くのは重要ではない、大切なのは思い出を忘れるということだ」と。「思い出を生かすためには、人はまず年をとらねばならぬのかもしれぬ。」「そして、再び思い出が帰るのを待つ大きな忍耐がいるのだ。」


 人はよく科学と宗教を相反するものとして考えようとするが、それは誤りだ。むしろ科学は唯一無二の真理を求めようとする点で宗教に似ている。そして実際、キリスト教の影響なしには近代以降の西洋文明(産業と科学)の発展は有り得なかった。進歩、有用性、「より快適な生活」の価値観は、まさに進歩の先に正解があり、その発展のプロセスが今の私達を苦しめるものを取り除いてくれる、ということへの信頼の表れである。言い換えるならば、進歩的な価値観はそれ自体宗教的な偏見の現れだということである。

 あらゆる革命は必ず失敗する運命にある。それは今日までの社会革命がどれも失敗に終わったことからもわかる話だ。そもそも、私達は一つの大きな誤解をしている。人は喜びを最大限に味わって、悲しみを最小限に抑えることを求める。しかし、人間の快と不快は相対的なものである。ある人の感じる喜びの大きさは、そのままある人が今日までに感じてきた悲しみの大きさに比例する。子供は些細なことに一喜一憂するが、大人になれば悲しみに慣れる分、喜びにも慣れてゆく。いくら不快を取り除いても、快を求める限り、そこには別の不快が生じてくる。

 だから「より善い世界の実現」なんて馬鹿げた話である。この世界がどう変わろうとも、そこには一定数の快があり、また同程度の不快がある。今後どれだけ快適な生活が用意されようとも、人々は今と同じように「私は不幸だ!」と嘆いているに違いない。私達は問題の本質を見落としている。いくら社会が変化しようとも、その社会を支える根本の価値観が変わらなければ無意味である。そして根本の価値観の変化とは、社会革命ではなく、革命への生成変化(革命的になること)によって発生するのではないだろうか。

 加速主義を例にとってみよう。近年「加速主義」という考え方が政治的な流行を見せている。その概要をざっくり説明するならば、「資本主義を加速させることで、自ずと資本主義は解体されていく」という内容だ。それを提唱したのは、私の愛するドゥルーズ(そしてガタリ)である。この考え方には色々な解釈が施されているが、今回は私なりに勝手な解釈を試みようと思っている(だからそれが合っているのかどうかは、正直な話わからないのだが)。

 先ず私達の社会には中心的な価値観が、マジョリティ - 資本主義が存在する (ドゥルーズはこれを「官僚機械」と呼んでいる)。そしてこの中心から離れたところで、マイノリティ - ノマドが存在している (ドゥルーズはこれを「戦争機械」と呼んでいる)。マジョリティは初め自分の価値観を揺らがすマイノリティを排除しようと努める。その一方で、やがてマイノリティに資本的な価値が見出されると、資本主義社会はその勢力を無視できなくなる。マジョリティはマイノリティを脱領土化して、資本主義の枠組みに引き入れようとする。近年で言うならば、アニメ - ネット文化がそのいい例だ。昔は「オタク」と言えばキモい奴だとして疎まれていたが、やがてオタクの接するアニメ - ネット文化には、マジョリティが無視できないほどの資本価値が見出されるようになった。だから資本主義はそれらオタク的なものを脱領土化し、より一般的な世界に適合できるように再領土化した。だから今ではアニメ - ネット文化は以前に比べて遥かに一般的なものとなった。このように、官僚機械(マジョリティ)を揺るがす戦争機械(マイノリティ)は、時に官僚機械に介入することでそれを変革するが、しかし同時にそれは脱領土化されて、中心的な価値観に回収されてゆくのである。

 ある意味では、それはマイノリティの敗北を意味するとも言えるだろう。何故ならマイノリティは自分の嫌ったマジョリティに適合できるよう変異させられるからだ。その一方で、あらゆるマイノリティはマジョリティに認められることを求めるのも事実である。だから自分を歓迎してくれる体制を見出した途端、彼らは簡単に自らの領土を放棄してしまう。音楽のストリーミングサービスを例にとってみよう。かつては海賊盤や違法アップロードを行っていた人が沢山いて、資本主義社会はそれを良く思っていなかったが、やがてそれを利用したビジネスを思いついたら、こうして資本主義はそれを脱領土化する。そして「ストリーミングサービス」という名目でそれを再領土化するのである。

 しかし、もし資本主義社会がこのようにして進展するのだとしたら、一体何故加速主義が資本主義社会の解体に繋がるのか。それは、マジョリティがマイノリティを自らの領土に引き入れ続ければ、自ずとマジョリティが飽和していくからだ。

 なるほどマイノリティがマジョリティの領土に回収されることは、それ自体マイノリティの敗北を意味する。しかし、個人的な話になるが、ストリーミングサービスのおかげで知ることの出来た音楽は沢山ある。そして、恐らくこれと同じことは他の人にも起きているのではないか。ネット文化のコンテンツは、今や資本主義的価値観の下に回収されたと言える。しかしその一方で、ネットが普及したおかげで知ることのできたものは沢山ある。

 こうして一つの現象が見えてくる。つまりマイノリティへの生成変化である。マジョリティがマイノリティを資本主義の枠組みで回収しようとすればするほど、資本主義の領土にいた人間は、その枠組みの外へと出ようとする。それはまさに人が革命的になる瞬間である。つまり革命への生成変化を体験する瞬間である。やがて資本主義社会は水漏れを起こし、社会の内に逃走線が引かれてゆく。だから資本主義社会を加速させれば、自ずと資本主義は崩壊する。これが私の個人的な加速主義への解釈である。

 と、こんなことを書いてみたが、実を言うと私自身、政治にまるで興味がない。昔は違ったかもしれないが、今は「この社会がどうなろうが死ぬほどどうでもいい」というのが本心である。そう、知ったことではないのだ。革命なんて馬鹿げた話だ。自分が何をしても、この世界の間抜けさが改善されるわけがない。

 ただ、自分の信条に反することが目の前で行われていた場合、恐らく私は声を挙げるだろう。それはかつてキェルケゴールが自らの信仰ゆえに当時の教会に反発したのと同じである。


 夏が来た。夜になれば窓を開けた状態で過ごしている。だから夜が来る度に、私は眉をしかめざるを得ない。何故なら最近、近隣から毎晩のように女性の叫び声が聞こえるからだ。

 声音からして、それは恐らく四十代以上の女性だろう。その近隣からして、彼女は主婦を営んでいるに違いない。実際、彼女の怒りの矛先だと思われる、大体中高生くらいの男子の声が時折聞こえてくる。彼は大抵弱々しく、何か謝るような口調で母親に話しかけている。

 私は悩んでいる。警察に通報するべきか。それとも他人の家の事情にそう軽々しく顔を突っ込むべきではないのか。しかし、あの女性のイライラとした、物を切り裂くような高い声。あれを聞く度に、何か自分まで怒られているような気がしてくる。とても不愉快で、不安になる声だ。私の夜の静寂が失われつつある。子供が心配なのもあるが、それ以上にこちらが耐えられそうにない。これは最近の生活の一番の悩みである。彼らの声を聞くたびに頭が痛くなる。そのせいか、最近はうまく眠れない。してみればやはり警察に通報するべきだろう。しかし生活に疲れていて、中々行動に移る気力が起こらない。要するに八方塞がりである。

 

21/06/19

 顔というのは不思議なもので、それは言葉が語る以上のものをこちらに想起させる作用を持つ。今目の前にスクリーンがあって、そこに一つの映画が流れていたとしよう。カメラは突如登場人物の顔をクローズアップし、キャラクターはそこで僅かに口を開く。そして少しの言葉を口にする。しかし私達は、この登場人物に今語った以上のものがあるのを知っている。何故ならキャラクターの表情は、その口元からこぼれた言葉よりも遥かに多くのことを語っているからだ。

 感情。絶えずその輪郭から溢れ出て、言葉以上のものをこちらに想起させるもの。顔とはまさに感情の舞台である。そして彼または彼女の顔は、その人自身の感情の舞台だけではなく、まさに私達自身の舞台ですらある。何故なら相手の感情を読み取る時、それは相手の顔色に言葉以上のものがあると信じ込むことでもあるからだ。他者の顔色に対し、私達は相手の感情だけでなく自分の感情までもを展開する。よって顔とは感情の舞台であると同時に常に発散する不定形な暗号である。それは相手の感情を察する手がかりであると同時に、自分自身に内在した情念を知るための手がかりでもあるわけだ。


「毛糸の端から飛び出ている小さな糸くずが、ひょっとしたら鉄針のように堅くて危ないのではないかという不安な気持ち。パジャマのボタンが、 ひょっとしたら僕の頭よりも大きくて重たいのじゃないかと思ったりする恐怖。そして僕は、今ベッドから落ちたパンの欠片がガラスのように下で砕けるのではないかと考えたりする。するともう、何もかもがそんなふうに壊れてしまって、取り返しがつかなくなるように、何もわからぬ苦しさが胸を押し付けてくるのだ。」

 上に掲げた言葉は、リルケの『マルテの手記』の冒頭に出てくるものだ。しかし、上記の文章の中で、果たして語り手マルテは何を語っているか。それは「実際にはありえないことがありえるのではないか」という不安である。では何故彼はそんな不安に駆られるのか。それは、彼自身がかつてありえないような出来事をありえるものとして経験してしまったからだ。生活への不安、それは常に日常の異常さに気づいてしまった時に生じる。

 よって『マルテの手記』の前半部分には、語り手マルテの過去のトラウマが多く登場する。パリで孤独な都市生活を営む彼は、自分の見るもの聞くもの一切が「僕の心の底に沈んでいく」ような奇妙な体験をする。彼が目にする一切、彼が耳にする一切が、あたかも彼を不安にするための呼び掛けのように生起し始める。

 次第に彼は過去への追憶に逃れ始める。あたかも自意識にこもる事で、外部の触発から逃れるかのようである。否、もしかするとその外部の触発が、彼に不安の原因となる過去ばかりを思い起こさせたのかもしれない。彼は自分の幼い頃の記憶について語り始める。祖父の死、幽霊の出る屋敷、父との微妙な関係、不気味な幻覚、または幻影、自分を女の子として育てる母、絶えずこちらを苛む病気の発作、そしてその苦しみ、など。

 マルテが不安に苛まれるのは、まさに彼がかつて日常だと思っていたものが異常であること気づいてしまったからだ。私達が幼い頃の記憶を責め始めるのは、いつも私達がある程度大人になってからだと言える。何故なら大人になり始める瞬間とは、かつての頃の記憶に後悔や憎悪を覚え始める時でもあるからだ。『マルテの手記』の中で、語り手は過去の思い出に異様なまでの執着を示す。それは彼が成長してからかつての日常のおかしさに気づいたからであり、それ故に彼が信頼出来る「正常な世界」を失ったからである。

 物語の中盤に至るまで、この小説には暗い記述が目立つ。とりわけ嘆かれるのは、前述のようなトラウマであり、次に嘆かれるのは現在の生活の孤独、貧困、または病気である。しかし物語の中盤から、突如その記述は明るさを帯び始める。恐らく、鍵を握るのはアベローネという女性である。

「僕がアベローネを初めて見たのは、ママンが死んだ翌年だった。」

 彼女が『手記』に登場し始めてから、マルテは次第にこの世界への信頼を取り戻すこととなる。しかしこの時にも、やはり奇妙な現象が再び生じている。彼の父や母については、マルテははっきりとした記述を残している(二人がいつ死んだのか、どのような人間だったのか、など)。しかしこのアベローネについては、マルテとの間に何があったのか、または今どうしているかなど、まるで記述されていないのである。彼自身、次の言葉を残している。

「アベローネ、僕はお前のことを書きたくない。それは僕達がお互いを偽っていたから書かぬというのではない。お前は一生忘れ得ないただ一人のひとを、その時から愛していた。お前は愛せられる女ではなく、『愛する女』だ。なのに、僕は女という女の全てをお前の中で愛していたのだった。そこには大きな埋められぬ距離があった。しかし、僕はそれは怖くない。ただ書けば何かしら事実を下手に歪めるだけなのを恐れるのだ。」

 一体ふたりに何があったのか?それは読者にとって最後まで謎であり続ける。そして『マルテの手記』の読後にも、やはりマルテとアベローネの関係は謎のままだ。しかしここで強調しておくべきことは、恐らくマルテはアベローネと思い出から何らかのヒントを得たということだ。

 この小説のヒロインとも言うべき彼女の登場から、『手記』の描写は再び彼の内部から外部へと向かい始める。しかし、彼が外部へと眼差しを向けるにつれて、同時に多くなる描写がひとつある。それは彼を襲う死の恐怖である。しかしそこにあるのはただ「死」の存在に苛まれるマルテの姿だけではない。彼は死に怯えながら、死に対してある一つの考えを持っているように思われる。

「子供の頃、僕はよく頬を打たれて臆病者と罵られた。僕はつまらぬことを恐れていた。しかし、それから少しずつ本当の恐怖を知ってきた。本当の恐怖というのは、それを生み出す内部の力が強ければ、恐怖もまたかえって強くなる態のものに違いない。そして僕達は恐怖より他に人間内部の力を見ることができぬのかもしれぬ。(……)僕達にとって、死の恐怖は強すぎるに違いないが、それでも本当は僕達の最後の力だと、僕はそんな風に考えている。」

  恐怖とは何か。人が不安を覚えるのは一体何故か。それは、今の自分には理解できないような、あまりにも不可解な出来事を体験してしまったからである。かつてマルテは過去の自分の記憶に苛まれていた。そしてひとり不安に苦しんでいた。それは、「何故自分にこんなことが起きたのか」という理解不能な出来事への恐怖に苛まれていたからだ。言い換えるならば、私達が恐怖や不安に苛まれるのは、私達を苛むそれらのものが得体の知れないものであり、またそれを覆う暗闇があまりにも大きいからである。

 ならば、この苦しみを解消する方法はただ一つである。それは、こちらを不安にさせるもの、恐怖させるものを覆う暗闇を追い払うことであり、「得体の知れないもの」の得体を知ることである。死の恐怖は大きすぎるに違いない。しかしそれでも死には一つの大きな力が含まれている。私達を苛む暗闇は大きい。しかしその中にあるものを光の方へと掲げた時、私達の生に内在された力能は輝き出す。生とは死の力を借りながら死と戦うことでなのある。

 この世には、恐怖や不安、または苦しみなどに強制されなければ成長しないものが存在する。私達の思考がそのいい例だ。人が意志によって思考できるものなど限られている。思考の発達は、常に思考に暴力が振るわれた時にのみ生じる。何故ならその時、思考は不眠症に陥って、これまで考えなかったことを考え始め、全く新しい力能を獲得するからだ。私達を苛む迷信は大きい。しかし人が迷信を克服するためには、いつだって迷信の内にあるものが何であるかを探りに行かなければならない。暗闇への恐怖を解決するためには、一度暗闇に手と足を突っ込まなければならない。そしてその中で獲得したものを光の方へ掲げるからこそ、人に秘められた力能は発揮される。

「花や果実は自然に咲き、自然に熟して落ちてしまう。禽獣は互いに求めあい、近づき、仲良く群れをなしてのどかな日を暮らしている。しかし人間のみは(神を帰結として選んだ僕達人間だけは)そのような充足がどこにもないのだ。僕達は与えられた自然の限界をどこまでも無限に延ばさなければならぬ。僕達には無限の時間がいるのだ。一年がなんであろう。百年千年がなんであろう。ろくろくまだ神に取り掛かりもせぬうちから、僕達は神に向かって祈るのだ。夜に耐えさせたまえ。病気に耐えさせたまえ。愛に耐えさせたまえと。」

 人間は自然を持たない。私達が「本能」と呼ぶものは全て、今日までの歴史を眺めた上で、ある種の憶測として発明される。だから科学の議論は常にそれまで正しかったものがひっくり返ることによって発達する。よって私達人間は「本能」を持たない。人間的自然は常にでっち上げられるものである。そして人は、「神とは何か」と問う前から神に対して祈り始める。自分の信じている存在がなんなのか、それがどんな起源を持つのかわからない。にも関わらず、既にそれを知っているかのように一切を語り始める。

 リルケについて語る時、人は時に感傷的な、またはロマンチックな印象をもって語ることがある。しかしそれはなんと的外れな感想だろうか。私にとって、リルケの文学には、硬質かつ力強い響きと共に、小川のせせらぎのような繊細さと、秋の夕暮れのような甘美さが備わっている。それはベートーヴェンの書く緩徐楽章に似ている。あたかもハンマークラヴィーアの第三楽章のようにリルケの一切は生起する。暗く重い描写と思索的な雰囲気。かと思うと階調は明るくなり、溢れ出る水のように軽やかになる。そして日は暮れてゆき、黄金に輝く夕焼けのように甘く麗しい音色がこぼれていく。

 日常生活の含む異常さに苛まれたマルテは、一体いかにしてそれを克服したのか。それは、「異常な日常」としての現実を受け入れることによって克服したと言える。では、いかにして彼はそれを受け入れることが出来たのか。それはまだ、はっきりと断言することが出来ないかもしれない。もしかすると、生にはこちらを苦しめる多くのものが存在するが、しかし生とは決して苦しいだけのものではないと気づいたからからではないか。


 人生は観客を求める。人は皆、何らかの形で誰かしらに見られるのを求めるものだ。たとえばSNSTwitterを開けば、誰もがあたかもそこに観客がいるかのように何者かである振る舞いをしている。Instagramを開けば、いつも他人の注目を引くストーリーが投稿されている(このように、SNSの恐ろしさとは、安易に観客ができてしまうことにある)。


 現在にはある種のパラドックスが存在する。今この瞬間も現在は過ぎ去るが、しかしこの過ぎ去る一瞬は、まさに今日までの過去を土台として成り立っている。よってこの過ぎ去る一瞬は、常に今日までに過ぎ去った一瞬の総体の上に成り立っている。しかし、このように過ぎ去りつつある現在は、常にこの一瞬の次にくる一瞬(つまりは未来)を内に含んでいなければならない(でないと時の流れは成り立たないだろう)。よってその次に来る一瞬も、やはりその次の次に来る瞬間を内在させている必要がある。

 こうして考えると、理屈上、時間には動かない一つの総体があると言ってもよさそうである。時にそれを、ベルクソンは「純粋過去」という名で呼んだ。しかし何故彼はそれを「過去」と名付けたのか。それは、私達が存在しているものについて考えをめぐらす時、自ずと存在していたものへと目を向けるからではないか。

 何かとても不安になるような出来事に直面した時、少年は「一体何故こんな事が起きるんだ」と自問する。または「自分は一体どういう人間なんだ」と疑問に思う。この「私とは何か」の答えを得るために、人は自ずと自分の過去へと目を向けるだろう。そしてかつての過去 = 存在していたものへと目を向けることで、今存在しているもの = 私への答えを見出そうとするだろう。よって、存在しているものとは常に存在していたものだと言うこともできる。現在が常に過ぎ去り、それが今日までの過去をその内に含み、また次に来る瞬間とその次に来る瞬間をも内在させる以上、ベルクソンが次のように断言しても言い過ぎにはならないだろう。つまり、「現在は存在せず、一切は過去である」。

 この純水過去のパラドックスを理解するために、いい例が一つある。それはあるクローン羊の話だ。一九九〇年代、この世界で史上初のクローン動物が発明された。その名はドリーである。雌羊のクローンで、通常の年齢の半分くらいで死んでしまった。しかし奇妙なことに、彼女が命を落とした年齢は、彼女の「原型」となった雌羊の当時の年齢と一緒だったのである。ドリーは六歳で亡くなったが、しかしドリーが生まれるきっかけとなった乳腺細胞が「原型」の雌羊から摂取されたのもまた彼女が六歳の頃であった。ドリーの一生は、あたかも初めから生きる時間が決まっていたかのように(または生きるべき過去が決まっていたかのように)生起したのである。

 さて、私達は生きて自ずと「そうせざるを得ない」ように思われる選択を強いられる時がある。自分にはこうするしかない、またはそうする以外の選択肢がないように思えた。こうして何かの行動を取る人がなんと多いことか。しかし「そうするしかない」と思われたはずなのに、大体の人は後になってそのことを後悔し始める。「あの時ああすればよかった」「何故ああしなかったのか」など。当時は一つの選択肢しかないように思われたのに、今では無限にあったかもしれない別の世界線のことを考えてしまう。

 しかしこの現象は、一体何故生じるのか。それは、「そうせざるを得ない」「それ以外に選択肢がない」と思い込んでいる時、人は自ずと「そうする以外の選択肢」を排除しているからだ。言い換えるならば、「そうせざるを得ない」選択肢を選ぶ時、私達は知らず知らずの内に「そうせざるを得ない」以外の選択を排除するという「選択」を行っている。実際はそうする以外にも選択肢はあったのに、保身からか、または追い詰められた心の弱さからか、他の選択肢を「存在しないもの」として扱い、「それ以外の選択はない」と思い込んでしまうのである。

 だから「そうせざるを得ない」選択には、常に何らかの欺瞞がつきまとう。「自分にはそれ以外考えられない」そう言いながらも、やはり何処かで「それ以外」の世界線のを考えてしまう。そして後悔する。しかし、もしその選択(「そうせざるを得ない」以外の選択を排除してしまうという「選択」)を知らず知らずの内に行っていたのだとしたら、それはその人の罪ではない。そう言ってもいいのではないか。過ぎ去る一瞬が常に次に来る瞬間を含んでおり、また次に来る瞬間もやはりその次に来る瞬間を内在させているならば、またそれらの瞬間が常にそれまでの時間の総体の上に成り立っているとするならば、この世界には動かない時間の総体があって、それによって私達の生きるべき時間は予め決定されていると言っていい(ちょうどクローン羊のドリーがそうであったようき)。もしそうなのだとしたら、私達の自由とは一体何処にあるのか。

 ここで私が思い出すのは、有名なオイディプス王の神話である。オイディプスはある日、自分の国に災害が起きている原因が、ある罪人がこの国に逃れているせいだと知る(そう神託から告げられる)。オイディプスは国のため、罪人の正体を暴き出そうと真実を求める。その結果、彼はまさに自分こそがこの国のわざわいの原因であると知る。王になる前、オイディプスは路上である男を殺したことがあった。そして、その男は彼の生き別れの父親だったのである。そして彼がこの国に着いた時、女王イスカリオテは未亡人であった。その頃、この国には別のわざわいが生じていた。やがてオイディプスはそれを解決し、そして王となって未亡人イスカリオテを娶るのだが、しかしこの国の前王は、彼が殺したかつて殺した父親だったのだ。だから彼が今妻としている女性は、彼の生き別れの母親なのだ。まさにオイディプスは自分が知らぬ間に罪を犯し、その罪のために罰を受けたのである。私達はいつも罰された後でしか罰するものの存在を知ることが出来ず、また罪を犯すことによってしか「罪」の存在を知ることが出来ないのである。

 先ほどのドリーの話に戻ろう。ドリーは六歳で亡くなり、それは彼女の「原型」が乳腺細胞を取られた時の年齢と同じであった。よってドリーの生きる時間はドリーのクローン細胞が生まれた時に既に決定づけられていたと言える。一方で、ドリーがこのように死ぬとは誰も想像していなかった。だからこのクローン羊は事件となったのである。だいぶうろ覚えだが、リチャード・ドーキンスは「私達の身体は入れ物であり、遺伝子がそれを通してレースをしている」という内容の本を出版したことがある(『利己的な遺伝子』)。なるほど、私達の遺伝子によってある程度私達がどのような人間になるかは決まっているのかもしれない。しかし肝心なのは、誰も遺伝子の形からは自分がどのような人間になるかを知ることは出来ないということだ。

 自分の過去がこうだからといって、未来の自分がどうなるかは誰も知らない。だから未来の時間を生きようとすることには、常に一種の賭けがつきまとうこととなる。その時私達に必要とされるのは、他でもない幸運への意志である。なるほどベルクソンの言う通り、この世には純粋過去なるものがあって、それによってある程度私達の生きる時間は決まっているのかもしれない。一方で、自分がどんな時間を生きるのか、それを知っていたら人は自分について考えることもないだろう。まさに自分を不安にさせるような時間に出会うからこそ、人の自我は発生する。そして私達を不安にさせるようなものとは、どれも私達が思いもしなかったものなのである。だからそれは不安を呼び起こすのだ。よって不安が予期せぬ時間の流れの中で生まれ得るなら、私達を喜ばせるものもまたそこから生まれてきてもおかしくないはずだ。

 未来を生きること、それはかつての選択を再開することに繋がる。過去が繰り返されることと、過去を繰り返すことは違う。前者は知らず知らずのうちに繰り返されていたあやまちであり、後者はかつてのものをもう一度現在に甦らせることを願った行動である。そして人が好んでかつてを繰り返す時(つまり過去を再び始める時)、それは決して個人の過去に限らないのである。私達の現在とは、かつての自らの行いの繰り返しであると同時に、かつて見聞きした他者の行いの繰り返しであるのだ(マルクス『ルイ・ボナパルトブリュメール十八日』)。そして私達が何かを繰り返す時、そこには繰り返したいものがあるだけでなく、繰り返したくないものを知らず知らずの内に排除する傾向にある。だから過去を繰り返す時、自ずと私達はかつてを再び始めると同時に新しい現在を生きると言えるのではないか。