20/04/12

「理論的にも実践的にも嫌気がさすのは、生に対するあらゆる類の不平不満であり、悲劇的な文化全体であり……すなわち神経症なのです。」


 実は今、書きたいと思っている小説が二つある。どうせ他に書くこともないので、とりあえずそれについて書いてみようと思う。

 一つは画家志望の青年を主人公にしたものだ。面白い作品というものは、話の筋書きというよりかはむしろ作者による話の描き方が面白いものだ。まあ、そうなるとこちらの手腕が問題となるわけだが、個人的に書きたい小説は、いつだって物語が面白いというよりかはむしろ物語の描かれ方が面白いものである。ストーリーは至ってシンプルなものにしたい。ただ一人の青年が異性に出会い、その過程で何らかの変化を体験し、その変化の過程と結果を綴りたいのだ。周知の通り、変化というものはかつての自分と自分の出会った対象(体験、または出来事)との間で生じる。だから変化にはよくドラマがつきまとう。私が興味を惹かれるのは、この対象 - 体験 - 出来事とそれを突きつけられた人物との間で生じる「揺らぎ」である。何故なら、この揺らぎ - 変化の中にこそ私達の生を更新する発見が含まれるからだ。何か一つの体験が私達の内を通過する。それによって、かつての常識では説明のつかない「何か」がうごめくようになる。それが何であるかを突き止めようとすること。こうして人は思慮深くなっていくものだ。よって、変化の過程を描くということは、それ自体劇の舞台が稼働することを意味する。

 小説の中で異性との出会いを描くのは、それが装置として機能することを期待しているからだ。恋愛小説には主に二つの種類があると思われる。一つは読者を舞台の上に引き上げる小説である。作品の中に見られるロマンチックな描写(またはセリフ)が、読者の心を酔わせ、作中の二人が溺れる官能のうちへと読者を引きずり込むのである。そしてこの時、作者もまた作品の中で描かれる官能の世界に溺れている場合が多い。私は高校の頃に夏目漱石の『三四郎』が大好きだったが、その内に次のような描写がある。「その時 透明な空気の画布(キャンバス)の中に暗く描かれた女の影は一足前へ動いた。三四郎も誘われたように前へ動いた。二人は一筋道の廊下のどこかですれ違わねばならぬ運命をもって 互いに近づいて来た。すると女が振り返った。明るい表の空気の中には、初秋の緑が浮いているばかりである……」はじめて読んだ時はどれほど胸をときめかせたか知らない。まさに読者を酔わせる描写である。

 もう一つのタイプは、読者を舞台の外に立たせる小説である。「フランス文学」と聞くと、気品があってロマンチックな印象を思い浮かべる人が多いだろうが、案外古典的なフランス小説には冷めた(傲慢とも言うべき)態度で描写が綴られる場合が多い(スタンダールやラディケがそのいい例だ)。そのような作品において重要となるのは、「舞台」の外にいる者の苦悩である。恋愛中の人間は、皆どことなく自分を物語風に見せようとする。しかし、中にはそんな自分(または他人)を冷めた目で見る人もいるだろう。そして、そのような人物を主人公とした時、恋愛小説の主題は「ふたりの人間がいかにして結ばれるか」というよりかは「いかにしてこちらを苦しめる自意識と向き合うか」になる。私が描きたいのはこれである。一つの出来事 - 体験を通して、私達の内側で何か大きなざわめきが生じることとなる。問題はこのざわめきをいかにして克服し、自分の生を新しい方向へと更新するかということだ。

(とは言ったものの、絶えず冷たい描写を続ける恋愛小説というのも少ない。よって上の二つの要素のどちらもを含んだ恋愛小説というもの多いと思う。)

 話を元に戻そう。そう、書きたい小説の話だ。「画家志望の青年を主人公とした小説を書きたい」と書いたが、この際、私にはどうしても描きたいことがある。それは、この主人公にずっとイライラしていて欲しいということだ。前述の通り、変化とはかつての自分と自分の出会った対象との間で生じる。しかし、変化はいつも必ずよいものをもたらすわけではない。むしろあらゆる変化には喪失がつきまとう。だから人は変わること(変わってしまうこと)を悲しむべきこととして捉えることが多い。主人公が何らかの出会いを通して変化するならば、それはこれまで通りの生活が何らかの形で失われることを意味する。だから人によっては、変化のさなかで落ち着きを失い、不安にさまよう場合もあるだろう。よって私の主人公にはイライラしていて欲しい。前述の通り、変化には喪失がつきまとい、喪失には苦悩がつきまとう。もし変化の過程を描く小説があるとするならば、そこで描かれる主人公はずっとイライラしているべきではないか。

 これは個人的な趣味の表れでもある。深刻な面をした人間というのは、一歩引いてみると結構滑稽に見えるものだ。誰かに真剣に向き合おうとしてイライラしている主人公は、冷静に見れば自意識過剰なキモい奴である。ここにユーモアが発動する。モリエールは喜劇作家として知られているが、しかし冷静になって彼の作品で起こることを眺めてみると、それが大分悲惨なことがわかる。要するに、笑いと不条理は切っても切れない関係にあるのだ。私は笑える小説が書きたいのである。


 もう一つ、書きたい小説の話をしよう。これについてはもう数年前から書きたいと思っていて、内容としてはフィッツジェラルド風のものだ (禁酒法時代に密売で成り上がる『グレート・ギャツビー』)。舞台は現代。主人公はクラブで働いていて、周りには薬物の話が飛び交っている。そんな場に身を浸す彼自身もやはりちゃらんぽらんな生活をしている。しかしある日、彼は偶然、自分とは正反対の女性に出会う。繊細で、生真面目で、潔癖とも神経質ともいえる性格をしている女性だ。遊び人のような日々に身を浸す彼だが、実は作家になることへの憧れがある。そして何処かでこんな生活から抜け出したいと思っている(またはいつかこの生活と足が切れると信じている)。小説の内容は、そんなちゃらんぽらんな主人公がある女性と知り合う過程で、自分の内にある忘れていた潔癖さを思い出していくことにある。

 個人的に、この小説を書く上で取り上げたい要素が二つある。一つはインターネット (またはSNS) である。

 問題というものは、いつもそれが提起された場所や環境と密接な関係を持つ。どんな問題にもその時代固有の性質が含まれている。先程、私は「変化の過程を描きたい」と書いたが、それはあらゆる問題が変化のさなかでなければ見出されないからだというのものある。そして、私の好きな作家達は皆、作品を通してこちらに一つの問題提起をしてくれていた。現代において、インターネットは第二の現実である。もしこの時代特有の問題を描くとしたら、私達は自ずとインターネット/SNSに向き合わなければならなくなる。

 二つ目の書きたい要素は、薬物だ。ブロンにハイプロンのような合法的なものでも、または大麻LSDのように違法なものでもいい。少なくとも私の周囲では、薬物経験者の方が多数派で、薬物経験のない人は間違いなく少数派だ。自分は別に薬物がいいとも悪いとも思っていないし、また薬物中毒者でもない。ただ、現代に生きる若者を描くのならば、ひとは自ずと薬物に言及しなければならなくなる。

 小説の話に戻ろう。先程も書いた通り、私はフィッツジェラルド風の小説を書きたいと (数年前から) 思っている。理由は単純だが、しかし少々個人的なものである。当時、私にはとても仲の良い友達がいた。この小説は彼女との思い出のために書きたい。

 私の愛した友よ。君は元気にしているだろうか。ヒロインは勿論、この友達がモデルである(私にとって、「友達」という言葉は非常に大きな意味を持っている)。あれは繊細で、内気で、気難しいひとだった。いつも私に対してイライラしていた。そのくせ、私がその事を指摘すると怒られた。当時、どれほど理不尽な目にあったかは計り知れないほどだ。しかし、それでもこの友との思い出は、本当に美しいものとして脳裏に焼き付いている。出来ればいつかまた会いたい。そう思いつつも、結局今日まで会えていない。そもそも私を許してくれるのかが、私と会ってくれるのかが不安である。

 ずっと書きたいと思いながら結局今日まで書いていない理由もそこにある。前述の通り、私はユーモアを愛している。感傷的で辛気臭いのはきらいだ。単純に不愉快で耐えられないからだ。ただ、こうしてあの友のことを思い出していると、何だかとても悲しい気持ちになる。私はよく彼女に嘘をついた。していることをしていないと言い、していないことをしていると言った。そうでもしないと彼女が去ってしまうと思ったからだ。友が私の嘘に何処まで気づいていたかはわからない。ただ、彼女のことを考える度に、自分がとても悪いことをしたような気持ちになってくる。彼女はよく私を責めた。そもそも私と彼女では生きている世界も違うのかもしれない(自分がそんな変な世界を生きているわけでもないのだが)。ただ、あの美しい友情の日々は、他では得がたいものとして私の胸の内に残り続けている。あれは本当に稀有なものだった。あんな友情は、これまでにもこれからにも二度とありえないかもしれない。

 彼女との友情について悩んでいた頃、私はクンデラの本を好んで読んでいた。彼の本は他にもいろいろと開いてみたが、何だかんだ言って一番好きなのは『存在の耐えられない軽さ』である (ミーハーと言われるかもしれないが)。

 かねてから、クンデラのような小説を書くことに憧れがある。クンデラにおいては、物語に無関係なものが物語と同等かそれ以上の価値を持っている。前述の通り、作品を面白くするのは物語の筋書きよりかは物語の描き方である。ユゴーにしてもドストエフスキーにしても、あらすじだけでは語りきれない所にこそ彼らの面白さがある。『存在の耐えられない軽さ』の場合、プレイボーイの外科医トマーシュと生真面目な女性テレザの二人を軸とした物語と同時に、ニーチェ永劫回帰の話が語られ続ける。彼の小説においては、非 - 物語が物語と同時進行で描かれ続けるのである。

 私はこの「非 - 物語」の装置に昔から憧れている。物語でないものが物語の内に介入する。それによって物語が一層面白くなるわけだ。はじめに書きたい小説として挙げた例の「画家志望の青年の話」だが、その設定をわざわざ「画家志望」にした理由もそこにある。実をいえば、私は絵画や彫刻といった西洋美術に全く詳しくない。ただ好きな哲学者なり文学者なりが(リルケロマン・ロランドゥルーズ等が)絵画論を残しているから、その影響で「画家志望」という設定を思いついたに過ぎない。願わくばこの設定が、『存在の耐えられない軽さ』における永劫回帰の話と同様に、一つの「装置」として働いて欲しい。つまり、物語と同時進行で進み、時には物語の内容に影響を与え、または物語を覆す非 - 物語の装置として、である。

「文学」というジャンルは二十世紀以降の諸文化において重要なファクターを担っている。映画と哲学がそのいい例だ。ブレッソン黒澤明は、自らの映画の下敷きとしてドストエフスキーの小説を選んでいる。ハイデガーサルトルは、哲学と同じくらい文学から影響をこうむっている。しかし、次のような場合もありうるのだ。つまり、九十年代以降のエレクトロはヒップホップの影響なしに語れないだろうが、二〇一〇年代以降のオルタナティブ・ヒップホップもまたエレクトロの影響なしには語れないのである。

 これと同じようなことが、文学と映画/哲学との間にも生じていいのではないだろうか。もし文学が映画や哲学に影響を与えたのなら、映画や哲学が下敷きとなった文学があってもいいのではないだろうか。『存在の耐えられない軽さ』のクンデラは大学で映画の勉強をしていた。だから彼の小説では、カット割りのように物語の進行が展開される。そしてそれと時を同じくして一見すると無関係な哲学の話が続く。こうしてそれらの要素が一体になることで、彼の小説では他では得られない感動が生じる。私にそれだけの技術や才能があるかはさておき、いつかあのような感動を生み出せたらなと思っている。

 小説の話に戻ろう。遊び呆けて生きる主人公と、潔癖で生真面目なヒロイン。この二人の構図は殆どそのまま『存在の耐えられない軽さ』から取っている。しかし、(数年前から案があるくせに) 小説の終わり方はまだ決まっていない。実を言うと、最初に書いた「画家志望の青年」の話の方は (後から思いつたのに )終わり方も既に考えられている。が、それも多少なりとも『存在の耐えられない軽さ』を意識したものとなっている(しかしそれ以上にポール・トーマス・アンダーソンの『ファントム・スレッド』を意識している)。

 上に書いた物語と非 - 物語の同居以外にも、『存在の耐えられない軽さ』には特筆すべき面白さがある。それはその終わり方である。

 主人公のトマーシュは、プレイボーイだが優秀な外科医でもあり、その名は国際的にも知られている。しかし、彼はそれをヒロインのために少しずつそれを失っていく。 物語のはじめでは国際的な外科医だったが、気がつけば彼は街の窓拭きに成り下がっている。そして窓拭きの次は田舎のトラック運転手だ。傍から見れば、その転落の様は悲劇的である。にも関わらず、彼は小説のラストでこう言うのだ。つまり、「自分は幸せだ」と。

 この小説を新しいと思う点がもう一つあるとすればそれである。同じ二十世紀の小説でも、その初頭に出版された『ジャン・クリストフ』には次のような文章がある。「……人生とは容赦なき不断の闘争であって、一個の人間として名に恥じぬものになることを欲する者は、目に見えない数多の敵軍や、自然の害力、濁れる欲望や暗い思考など、人を欺き卑しくし滅ぼそうとするものの全てと絶えず闘わなければならないことを、彼は知った。自分はまさに罠にかかるところであったことを、彼は知った。幸福や恋愛はちょっとした欺瞞であって、人の心をして武器を捨てさせ地位を失わせるものであることを、彼は知った。」

 私は『ジャン・クリストフ』が『存在の耐えられない軽さ』と同じくらい (もしくはそれ以上) に好きな小説なのだが、この描写は非常に象徴的なものだと言える。つまり、所謂「天職」を持つ人間(芸術家など)は、個人の幸福よりも大きな使命 に生きるべきだということである。近いことは『失われた時を求めて』にも言える。社交界の軽薄さ、恋人の嘘、思い出の虚しさ。それらに苛まれた『失われた時』の語り手は、芸術作品にこそがそれを償う手段があるのだと気づく。そして彼が小説を書こうとすることで『失われた時を求めて』は終わる。

 ここでもまた見受けられるのは、個人の幸福よりもそれを超越する高次なものへの追求であり、その姿勢である。同様の姿勢はドゥルーズ哲学にも見出される。彼はこう書いている。「生きられた身体は、もっと深い、殆ど生きがたい〈力能〉に比べれば、取るに足らない。」言い換えるならば、それは「個人の生よりも個人を上回るほど大きな潜在性(ポテンシャル)を秘めた生の力能を解放する方が重要だ」ということである。

『存在の耐えられない軽さ』の終わり方が斬新である理由はそこにある。芸術家志向の人間というものは(自分の性質に基づいて生きようとするものは)、「自分には幸福を犠牲にしてでも追いかけるべきものがある」と思い込んでいるものだ(実際、私もそうである)。もとい、そのような追求があったからこそ、今日まで沢山の芸術作品が生まれてきたのだろう。しかし、『存在の耐えられない軽さ』はそれを否定する。トマーシュは、芸術家ではないにしても天職に生きる者である。しかし、彼はそれをなんの躊躇もなく犠牲にする。プレイボーイで毎日のように違う女性と遊んでいたのに、それすらも辞めてしまう。何故か。その理由は「妻が悲しむから」である。彼は個人を超越した高次のものの追求よりも、個人にとって身近な幸福を優先したのである。〈「あなたにとって仕事はすべてよ。でも、私は何でもできるわ。私にとってはなんでも同じよ。私は何も失ってないわ。あなたは何もかも失ったの」/「テレザ」と、トマーシュは言った。「僕がここで幸福なことに気づかないのかい?」〉


 再び小説の話に戻ろう。そう、あとは夢の描写や、幻視的 - 幻覚的な描写を多く書ければなと思っている。ベルイマンフェリーニの映画では、シュルレアリスムとは違った形で非現実が現実に介入する様が描かれている (死神が登場し、正体不明の魚が海岸へと打ち上げられ、正気と同じくらいの狂気が描かれる……)。しかし、彼らの作品がシュルレアリスムと異なる最大の理由は、幻視的 - 幻覚的な描写を除けば、その作風が徹底したリアリズムであることにある (リアリズムの本質とは、作品が現実であったことかのように錯覚させるほどの虚構を、作品の中にでっちあげることだ) 。

 フーコーはかつてこう語った、「私は決してフィクション以外のものを書いたことはない」と。恐らく、彼はよく理解していたのである。現実においては、フィクションが現実と同じかそれ以上の力を持っていることを。そして実生活においては、現実よりもフィクション - 嘘に突き動かされて何かをする人の方が遥かに多いということを。そういう意味では、フィクションは現実と競合し、時には現実を覆すのだということも、彼は理解していたに違いない。


 最後に、最近あった面白い出来事を書いてみよう。

 その日、私は仕事を終えて渋谷にいた。渋谷にはよく足を運ぶ。理由はスクランブル交差点近くにある大きなツタヤに寄るためだ。あそこなら観たい映画の大体が DVDで揃っている。もとい、渋谷のツタヤのおかげで沢山の映画を観れている。 トリュフォーの映画も借りれる範囲で全部観た。次はどの監督を制覇しようか。こうして何かを征服することの喜びは、いくつになっても忘れられそうにない。

 そう、その日もまた、私はいつも通り渋谷のツタヤにいた。そしてそこにある膨大な量の商品棚を注意深く眺めていた。すると、片手に持っていたスマートフォンのランプが点滅し始めた。画面を眺めると、ある友人からのメッセージが届いていた。そこにはこう書かれていた。「エヴァのチケットが手に入ったからあげる」と。

エヴァ』は、別にファンではないが、一応テレビアニメの方は全話観ている。旧劇も観た。新劇の方は、『Q』を除いては全部観ていた(しかしもう八年以上前の話だ)。再度ことわっておくが、私は別に『エヴァゲリオン』のファンではない。もしファンであるならば、公開してすぐ映画館に足を運んでいたであろう。まあ、それでもやはり気になってはいた。追って来た連絡によれば、場所は新宿TOHOシネマらしい。近い。「持つべきものはやはり友だな。」この時に限って実に都合のいい言葉を思い浮かべた。私はその友人に感謝のメッセージを送って、十九時半からエヴァンゲリオンを観ることした。その時、時刻はその一時間前であった。

 やがて新宿に着いた。そしてどういうわけか、あんなに余裕があったはずなのに、私は遅刻しそうになっていた。そう、DVDを選ぶのに熱中していたら時間がかかってしまったのである……。新宿に着いたとき、時刻は十九時二十分であった。映画が始まるまであと十分。恐らく映画が始まる前に新作情報などのコマーシャルが流れるだろうから、今から何とか間に合うであろう。が、生憎その「新作情報」というやつがどれくらい流れるものなのかは私は知らない。普段新作映画を観に足を運ばないからだ。行くとすればリバイバル上映の時ばかりだ。そしてリバイバル上映には新作情報が流れないのである。

 私は焦った。だから走った。人混みの中を走り、ネオンの明るい街並みを走った。ふと、お腹がすいた。思えば今日は昼食を抜いていた。その事を思い出した。しかしこんな事もあろうかと、私はコンビニでサンドイッチを買ってあった。水面にもぐり込むように、半開きになったバッグへ手を突っ込んだ。左手は獲物を探る魚のように動き回っている。そしてついに目的の品を見つけた。それを取り出すと、自分の目の前まで掲げた。私はサンドイッチを食べた。食べながら走った。そして思った、「俺は今、まるでアニメの主人公みたいだな」と。

 やがて信号待ちを食らった。横断歩道を前にしながら、私は息を切らしムシャムシャと残りのサンドイッチを頬張っていた。そして行き交う車の向こう側をじっと睨んでいた。もう少しで目的地に着く。時間を確認した。なんとか予定時刻に間に合いそうだ。しかし、それより胸が苦しい。久しぶりに走ったからだろう。それに喉が渇いた。パンはパサパサしている。私は再びバッグの中に手を突っ込んだ。そして安い (四百円くらいで買った) 赤ワインのボトルを取りだした。外出中はいつでも飲めるように、こうしてバッグの中にしのばせてあるのだ。

 その時である、再び信号が青になった。それは再び走り出さなければならぬ合図でもあった。私は駆け出した。片手にサンドイッチを、また片手にワインボトルを持ちながら。しかし走りながら気がついた、「せっかく取り出したのに、俺はまだワインを飲んでいないぞ」。しかし、両手がふさがった状態で (走りながら) ボトルを開けるほど私は器用ではない。仕方ない。私は残りのサンドイッチを思い切りよく口の中に詰め込んだ。そしてそれをモグモグさせながら、自由になった片手でワインのボトルを開けた。それから流し込むようにそれを飲んだ。うまい。安物なのに、何故か普段よりもうまい気がする。走っているからか、それとも喉が渇いているからか?

 いや、違う。これはサンドイッチのおかげなのだ。イタリア/フランスの古典映画を眺めていると、時折パンと赤ワインのみで食事をするシーンがある。それにキリストがワインとパンを最後の晩餐に食べたことは有名だろう。要するに、その意味はこれだったのだ。私は「赤ワインとパンってこんな合うのか」という衝撃に襲われていた。目的地まであと二分。それは人混みの中をかき分けつつ得られた天啓でもあった。

 TOHOシネマのエスカレーターを昇る最中、「なんかおもしろい体験をしたな」という想いが私の胸に湧いてきた。そして次の瞬間には「この事を日記に書こう」と言う気持ちに至った。あれから数日後。私は今、あの時の伏線を回収している。 
 ちなみにエヴァは結構面白かった。映像が特にすごかったと思う。チケットをくれた友人には、この場を借りて再び感謝したい。

21/04/08

 大まかに言えば、役者とは二通りの種類に分けられるものだと思われる。一つはどの演技を通しても同じキャラクターしか演じられない役者で、もう一つはそれぞれの演技によってキャラクターの性格がまるで異なる役者だ。前者には三船敏郎ホアキン・フェニックスが当てはまり、後者には森雅之イザベル・ユペールが当てはまる。技量として後者に勝るものはないが、しかしある一定のタイプを演じさせるならば、前者ほど真に迫るものはないだろう。

 ジャン=ピエール・レオーは、恐らく前者に当てはまる役者だと言える。別に彼の大ファンというわけではないが、何だかんだ彼の出ている映画は十作品以上観ている(もとい、ゴダールトリュフォーの映画をよく観るならば、結局彼の顔も観るようになるわけだが)。レオーの演じる役柄に共通する性格は、その大体が思い込みが激しく、神経質で子供っぽい、要するに気持ち悪い奴だということだ。ゴダールの『男性・女性』で演じたキャラクターも中々気持ち悪いが、やはり一番気持ち悪いのは『大人はわかってくれない』の主人公アントワーヌ・ドワネルの成長を追った一連のシリーズだろう。『アントワーヌとコレット』のレオーなど本当にひどい。映画館で出会ったコレットに一目惚れしたアントワーヌ( = レオー)は、彼女のしりを追いかけるあまり、ある日彼女の家の隣にまで引っ越してくる。突然、なんの脈絡もなく、である。だいぶ痛々しい。共感性羞恥に襲われる。初めてそのシーンを観た時、思わず笑いながら「ああ、キモいな」と独り言をいったのをよく覚えている。

 無論、実際のジャン=ピエール・レオーが彼の演じる役柄のように気持ち悪いとは思わない。作者とその創作物は常に別物であるのと同様に、役者とその演技もまた別物だ。それに、いくらジャン=ピエール・レオーの演じる役柄がキモいからといって、それを演じる彼自身は中々の男前だ。『家庭』に『恋のエチュード』、それにひげを蓄えた『豚小屋』のレオーなどは、思わずハッとするほどの美青年だ。私はレオーの演じる役柄に共感性羞恥を覚えるが、しかし生憎、レオーは私よりも顔がかっこいいのである。おまけに体つきもいい。二十代の頃のレオーはミケランジェロの彫刻のように美しい肉体をしている。皮肉な話だ。

 単刀直入に話そう。先日ある女性に告白したのだが、フラれてしまったみたいだ。上手くいくかと思ったのだが、結局こちらの思い込みだったらしい。ああ、俺はだいぶ痛々しい奴だなと思う。こんな事は書く必要もないのだが、先日書いた内容に応援のコメントを頂いてしまったので、白状するのが義理かと思われて書いてみた。今日までの人生で、自分は小説や映画に触れすぎてしまったと思う。おかげで現実もフィクションと同じように都合良く進むのだと勘違いしてしまった。一体なんのために今日まで頑張ったのか。全く馬鹿らしい話である。

 いくつかの後悔がある。その内の二つだけ語ろうと思う。一つは友人に多大な迷惑と心配をかけてしまったことだ。そしてもう一つは、何故この数年間何もしなかったのかということだ。数年前の今頃、もっと違った形でチャンスを得る機会はあったはずだ。それは当時の自分にもわかっているはずのことであった。しかしそれが出来なかった。ああ、いつもそうだ。私はいつも、生きる時間があまりにも遅い。他の人がすぐ気がつくことにも、いつも遅れを取ってしまう。

 まあ、人生などこんなものだ。そう言い聞かせながらこの二、三日を過ごしている。やがてここ一ヶ月の異常さは過ぎていって、今まで通りの生活に戻るだろう。そう、普段通りのキザで体面ばかりを気にする自分が復活するわけだ。それはある意味では自尊心がよく保たれた生活だとも言える。しかし何故、どれだけ足掻いても自分は舞台の上の主人公になれないのだろう。何故私は、他の人が平気で出来ることが出来ないのか。ああ、悔しい。私の人生は、本当に糞みたいな後悔ばかりだ。


 ここ二、三年の間、ほとんど毎日のようにドゥルーズの本を開いている。去年の夏くらいから「あとちょっとで理解出来る」気がしているのだが、結局いつも「自分はまだ何も理解出来ていない」という結論に落ち着くのである。あと少しで手が届く。そうかと思うと次の瞬間にはまだ道のりが長いことを知る。たとえばそう、彼の書いたフランシス・ベーコン論にしても、理解出来ている点と理解出来ていない点の差が激しい。これは自分が絵画を始めとする西洋美術にまるで明るくないというのも理由の一つだと思われる。力能や器官なき身体の話は楽しんで読めるのだが、色彩等の話は読むのに忍耐を強いられた。きっとこれからも、繰り返し読むことが求められるだろう。

 思うに、人類の歴史とは見えないものを見えるものに変えていく可視化の過程である。かつて私達の目の前に、どれほど多くの説明不可能なものがあったかしれない。そしてどれほど多くの理解不能なものが、どれほどの多くの非合理的なものが立ちはだかったことか。私達の文明は、それら「目に見えないもの」を「見えるもの」に変えていくことで発展したとも言えるのではないか。それはつまり、非合理的かつ説明できないものを、合理的かつ説明可能なものへと変換していく過程である。人間の持てる知性の役割とは、非有機的でありまた混沌としたものを、有機的かつ整然としたものへ置き換えることにあるのだ。

 一方で、この知性 - 合理性の発達には、感覚 - 非合理性の侵入が必要不可欠である。何故なら、私達は説明の難しいものを前にした時にしか、「説明」という手段を試みないからである。非合理的な感覚の侵入は、いつも私達の信じている合理的( = 説明可能)な世界が「間違い」であることを突きつけてくる。だからこそ、新しい発見にはいつもヒステリーが伴う。そこには恐怖が伴い、かつて知っていた世界に対する失望が、それ故の悲しみが伴う。そしてこのような恐怖 - 失望 - 悲しみに襲われた時、人は自ずと叫ばざるを得ない。そう、丁度ベーコンの絵画の中のキャラクターがそうであるように。

 時に、上記のベーコン論の中で、ドゥルーズはこう書いている。「落下においては、まさに緊張そのものが体験される。カントは瞬間において把握される大きさとして強度を定義し、強度の原理を明らかにした。つまりこの大きさに含まれる複数性は、否定 = 0への接近によってしか表象されないと、彼は結論したのである。」

 落下。なにか自分にとってあまりにも大きなもの(大きすぎるくらいのもの)を感じ取ってしまった時、人はよく自分が落下するような感覚に襲われる。それは感覚から知性に訴えかける暴力を感じ取る瞬間でもあり、また思考を強制する暴力を、こちらに「叫ぶこと」を強いる暴力を感じる瞬間でもある。「ベーコンは自身について、頭脳的には悲的であるという。つまり、描くべきものとして、彼には恐怖しか、世界のもろもろの恐怖しか見当たらない。」

 感覚を通して、「見えないもの」の力が、説明できないものの「恐怖」が私達を襲う。しかし、それら暗闇にあるものを通して、私達は自分の内にある別のものの姿を見いだす。そう、かつて自分が信じていたのとは異なる別の真実の姿である。そしてそれを光の方へと暴き出すこと。その時、私達の生は新たなる方へと更新されていくのである。

「闇との闘いだけが、現実的な闘いである。視覚的感覚が、それ自体の前提となる見えない力に直面する時、視覚的感覚は、この力に打ち勝つ、あるいはこの力を味方につけるひとつの力を抽出している。生は、死に対して叫ぶのだが、まさに死はもはや私達を破滅させるあの見えすぎのものではない。死はあの見えない力であり、生は叫びながら、それを検出し、白日にさらし、見えるようにするのである。死は生の視点から審判を受けるのであって、その反対の状況に得々としているのではない。ベケットに劣らずベーコンは、非常に強度な生、より強度な生の名において語ることの出来るあの作者たちに属している。ベーコンは死を「信じる」画家ではない。具象的[ = 説明可能]なレベルの悲惨主義はすべて、益々強まる生の図像に奉仕するのである。」

 ドゥルーズはかつてこう語った。「死の芸術などなく、あるのは生の芸術だけだ」と。感覚を通して、私達は今の自分では到底担えないほど大きな「力」を見出す。その「力」は、こちらが普段生きている世界の常識を破壊し、時にはこちらをうち滅ぼす程の潜在性を秘めているものだ。だからこそ、私達は生の持つ驚異的な「力」に触れた時、自分が落下するような感覚に襲われる。骨から肉がすべり落ち、身体が歪曲化され、笑おうとしても叫ぶことしか出来ない。その瞬間があまりにも印象的なので、悲しみこそが、恐怖こそが、死こそが私達にとって本質的なのだと勘違いしてしまう。しかし違う。人は死と暗闇を思わせるものの中から、こちらを恐怖させるものの正体を暴き出し、それを生と光の方へと掲げることによって、それを克服していくのである。そしてその瞬間にこそ、私達の持てる「力」の潜在性が発揮されるのだ。それはつまり、私達の持てる力能が開花する瞬間であり、また偉大なる芸術作品が誕生する瞬間でもあるわけだ。


 昔から、顔のない人間になることに憧れがある。シェストフはかつてこう書いた、「作家とはある程度自分に対して無関心であるべきだ」と。別に職業作家でもない自分がこう書くのもなんだが、自分もある程度そうありたいと心がけている。つまり、日常生活においても、または文章を書く時においても、ある程度自分自身に対して無関心でありたいのである。

 時に、こちらにとって親しみやすく感じる作品とは、それだけこちらに作者の顔を連想させるものである。中には作者の顔に触れるために作品に触れようとする人もいるだろう。

 何年もの間、何らかの形で自分の作品を残したいと思いながら、それが出来ないでいる理由はそこにある。そう、他人に「ああ、この人はこうなんだな」と勘ぐられるのがたまらなく嫌なのだ。無論、そもそも人目につくのかという問題もあるだろう。しかし作品を発表して、それが人目につくようになったとしよう。それで見知らぬ誰かから「ああ、あの人はきっとこうなんだな」と思い込まれる。場合によっては、「病んでる」とか「可哀想な人だ」とか思われるかもしれない。考えるだけで最悪だ。私の人柄などどうでもいいではないか。私は人が嫌いで本や音楽に没頭したのに、何故そっちの方でも人に付きまとわれなければならないのだ。

「なら作品を残そうとしなければいいではないか」という意見も挙がるだろう。なるほど、それはその通りだ。しかし生憎いまの自分はそれくらいしかやりたい事がないのである。自分が文学なり音楽なりに固執するのにはいくつか理由がある。先ず第一に、上に書いた通り、それくらいしかやりたいことがないからだ。他の多くの人と同じように、自分が読書なり音楽なりに熱中し始めたのは思春期の頃からである。その頃、私に感銘を与えてくれた作家達は皆 神様のように思えた。こんなにも凄い作品を同じ人間がつくっているなんて。信じられないことだ。あの時の感銘または感動が忘れられないから、結局今日まで「それら」にしがみついてきたというのもあるだろう。第二に、自惚れであるかもしれないが、多少なりとも自分にその方の才能があると感じている。今日まで惰性でこんなブログを続けてきたが、その理由もそこにある。そして、それがそのまま第三の理由に繋がる。

 ドゥルーズはかつて「その人固有の力能が行使された時にこそ喜びが手に入る」と考えた。こうして長ったらしい文章を書いている時にのみ得られる喜びというのがある。この喜びの正体がなんであるのか、それもこの考え方によって説明がつくだろう。恐らくこの喜びは、レスラーが重いものを持ち上げた時に感じるそれや、または陸上選手が思い切りよくグラウンドを走る時に感じるそれに近い。

 それに対して、「文章を書くことそれ自体に喜びを感じるならば、わざわざ人目にそれを晒す必要も無いだろう」という意見が予測される。それに対しては、「文章を書くという行為はある程度精液的な性格をしている」とでも言えばいいだろうか。丁度オナニーをして、シゴいた性器から精液が溢れ出るように、文章を書くという行為には、発散して、それと同時に外部 -他者に溢れ出るという作用があると思われる。少なくとも私にとって、文章とはある程度精液的なものだ。

 こうして自分以外のことについて語っている時が、一番饒舌に文章を書くことが出来る。ドゥルーズの話をしている時など、恐らく普段の会話の中よりも遥かにいきいきとしている。しかし、どんな芸術もある程度個人の経験に基づかなければ生まれ得ない。創作には常に創作者自身の実生活が関わってくる。そういう意味では、作品を残すということは、ある程度他者に自分を露出するということだ。しかし、本心をいえば、私は誰にも「本当の自分」なんてものを考察されたくないのである。否、一人か二人の親密な相手にならいいだろう。むしろその方が嬉しいくらいだ。しかし、それ以外の誰にも「本当のあなた」なんてものを想像されたくない。こちらの弱みに触れてくる場合など最悪だ。自分が「病んだ人間」だとか、「可哀想な人」だと思われているのを考えると、とても惨めな気持ちになる。いじめられてる気持ちになる。誰にいじめられた訳でもないのに、泣き出したいような気持ちになる。放っておいてくれと言いたい。

「ではこちらにそれを悟らせないだけの作品を創ればいいのではないか」という反論が次に予測されるだろう。なるほど、それはその通りだ。しかし生憎、私にはそれを実現するだけの技量がないのである。要するに、八方塞がりなわけだ。

 あと一年後には、私も二十五になっている。二十五歳。ベートーヴェンによれば、それは男の全てが決まる年だ。いつまでもこんな風にウジウジしていることは出来ないだろう。何処かで、なんらかの形で折り合いをつけなければならない。それが最近の考え事である。

20/04/01

 数年前、あるショッキングな事件が私を襲った。その日は偶然、一人の可愛い女の人と知り合う機会を得た。そして一時的にその人とカラオケで二人きりになった。実を言うと、私は異性とカラオケで二人だけになるのが初めてだった。無論、向こうはそんな事を知りもしないだろう。だから彼女からすれば、私はただの挙動不審なキモい奴だったに違いない。

 しかしあれは、本当に美しい女性だった。まるで人形のようだった。私は緊張した。緊張のあまりずっとスクリーンの方ばかりを眺めていた。向こうの顔を直視することが出来なかった。うまく口を開くこともできなかった。私はそんな自分を情けないと思い、また恥じた。そして自分が変わることを願った。

 そして今。あの頃に比べれば、私は変わった。性別を問わず友人は少なくないし、あの頃の自分に復讐するように今日までの人生を歩んできた。その結果として、私は次のような人間になった。つまり、社交的で人付き合いのいい、言い換えるならば 上っ面のいい人間である。

 他者との会話でストレスを感じずに、居心地よく過ごすためには、その場しのぎでいいから耳障りのいい言葉を口にする必要がある。どうでもいいものから敵意を向けられたり、またはそのものに気まずさを覚えたりするのは耐えられない。私は多少なりとも悩みやすい性格をしている。そして無闇に悩みを増やしたくない。だから人との関わりが増えるなかで、社交的になる上で、当たり障りのない態度をとる、上っ面のいい人間になるのは必然だと言える。

 自分が別にモテる人間だとは思わない。ただ、複数人のグループに属した時、他者から何らかの好意を寄せられる(ように感じられる)ことがある。無論、確証がないからそれは思い込みかもしれない。ただ、自分はいつもその「確証がない」を逆手にとって生きてきたと言える。一方的であれ両想いであれ、恋愛というものには、その内にある者にしか分からない「かま掛け合い」が機能している。しかし、この暗号読解とも言うべき作業には、物的証拠も伴わなければ明確な事実も存在しない。ただそこには憶測と解釈のみが真実の代わりとして機能している。それを踏まえるならば、だから相手の意味深な言動も全て「思い込み」で済ませることが出来る。グループの内の誰かがこちらに好意を寄せている(そのように思われる)。しかし、それを立証できる「証拠」はない。よって「いやいや、全然気づかなかったよ」と知らんぷりをすることが出来る。要するに、人との関わりが増える中で、私は気づいたことを気づかぬ振りで済ませるのを学んだのである。

 人によっては、それは「最低だ」と断罪される行為かもしれない。しかし待って欲しい。私の立場も考えてみてくれ。相手から好意を寄せられた以上、それ相応の敬意を払うのが礼儀である。しかしそれ以上に応えられるものがない。ならば何も出来ないのもまた現実である。かと言って「正直お前のことなどどうでもいい」と言うことも出来ない。それはグループの空気を乱すことに繋がるし、何より相手に対して失礼だ。だからはじめから見て見ぬふりをするしかないのである。私は今日まで、自分なりの最善を尽くして生きてきたつもりである。そして知った事がひとつある。つまり、日常を保つためには嘘と気付かないふりが必要不可欠なのだと。

 自分にはこうするしかなかった。白状するなれば、自分が悪いことをしたとは微塵も思っていない。肉体的に誰かを弄んだこともないし、何よりある文脈で解釈 - 憶測できる言動を何人かの人間がとっただけなのである。だからそれはこちらの「考えすぎ」なのかもしれないし、事実そうだった場合もあるだろう。よって、明確な事実もなければ物的証拠もないのだから、裁判になっても「いや、自分は何も知らなかった」と言い張ることが出来る。それで無罪も確定するだろう。私は裁きを逃れ、平穏に生きることが許される。

 しかし、こうして書いてみると、確かに私は最低な人間なのかもしれない。私はただ、グループの日常を保ちたかっただけなのだが。

 前述の通り、私にはこうするしかなかった。そのつもりで生きてきた。しかし最近、それを否定するような出来事に直面している。今まさに、私は過去のツケを払わなければならない現実に直面していると言える。

 しかし、話の本筋に至るまでに、あまりにもどうでもいい前置きを書いてしまった気がする。そろそろ本題に戻ろう。

 愛想のいい態度とは、ある程度相手に無関心だからこそ出来る。どうでもいいからこそ思ってもいないことが平気で言える。言い換えるならば、どうでもよくない相手に対しては、上手く口を開くことが出来ない。話したいことは沢山あるが、だからこそ何を言えばいいか分からないのである。

 冒頭の話に戻ろう。数年前、私は緊張して何も言えなくなった自分を恥じた。そしてそれに復讐するように今日までを生きてきた。今の自分には、人並みのコミュニケーション能力もあるし、友人も少なくないと思う。だからいつか過去を償う時が来たとしても、もう口ごもったりしない。堂々と相手の目を見て話せる。そのはずだった。しかし実際は違う。私は糞ほどどうでもいい人間に対しては饒舌に話すくせに、本当に仲良くしたいと思っているひとには、まるで、何も話すことが出来ないのである。

 そう、どうでもいい。今の私の本心を明確に言葉があるとすればそれだ。彼女以外の存在は全部どうだっていい。そのはずなのに、何故いつもこうも上手くいかないのだろう。今日まで、自分なりに努力してきたつもりだ。人並み程度のコミュニケーション能力も身についたし、身だしなみだって見れないほど酷いものではない。時に、日常会話とは暗号のやり取りである。私達が会話で求められるのは、相手に本心を語ることよりも、いかに感情のゲームを読み解き、暗号を満たすかということだ。しかし今、私はどの暗号を満たせば正解にたどり着くのかが分からない。もとい、そう言い切ると嘘をつくことになるかもしれない。もしかすると、自分が何をするべきかを知っているのかもしれない。ただ怖くてそれが出来ないのである。当時から、あの頃から、私は何も変わってない。ずっとあの頃と同じだ。

 こういった内容を書き始めてから、ブログの閲覧回数が目に見えるレベルで減っている。恐らく、この手の話題を書くことで一定数の読者が離れるのだろう。それがどの層に当てはまるのかは知らない。そもそもそんなに沢山の人間が読んでるわけでもないのだろう。しかし、それもどうだっていい話だ。そう、全部どうでもいい。そもそもこんな糞みたいなブログなど、だいぶ前から辞めるつもりだった。なのに惰性で今日までずるずると続けてきた。ただそれだけの話なのだ。いつ終わらせてもいい。やがて誰も読まなくなったって構わない。今の私には、彼女以外の全ての存在がどうだっていいからだ。

 一番悔しいのは、自分の内にこんなにも強い愛の衝動があるのに、それを一言も口にできないということだ。いつも口ごもって、息切れがして、何も言えなくなってしまう。神経がたかぶり、胸が苦しい。文章の上ではこんなにも威張れるのに、実生活では微塵もでかい態度が取れない。俺は一体なんてダサい人間なんだろう。最近観たマグノリアという映画に次のようなセリフがある。「恋をしているから気分が悪い。」ああ、まさにその通りだ。最近、毎日気分が悪い。不愉快でイライラする。こんなにも一人の女性のことを愛しているのに、恋をしているのに、彼女に対して何も出来ないし、何も上手くいっていないからだ。本心をいえば、彼女のこと以外全部どうだっていい。なのに人前に出ると、いつもの上っ面のいい、社交的な自分に元通りになってしまう。ひとりでいる時にはこんなにも(気持ち悪いくらいに)彼女のことを考えているのに、家の外に出た途端にいつもの仮面的な笑顔がつきまとってしまう。俺は一体何をしているんだろう。何故こんなにも馬鹿なんだ。彼女以外の存在は皆どうだっていい。彼女だけが私の気にかける全てなのだ。本当は毎日、当事者の前でそう言うことを願っているのに、一度だって、微塵もそれらしい言葉を口に出来たことがない。ただこうやって文面で(ひとりだけの世界で)威張ることしか出来ない。俺はなんて滑稽な男だろう。本当に馬鹿だと思う。

 ダサい。今の自分を見つめている時に真っ先に思い浮かぶ言葉がそれだ。そう、ダサいしキモイ。昔から、あの頃から何も変わっていない。何もかもあの頃のままだ。そのくせ一丁前にいい格好をしようとする。だから益々滑稽になる。最悪だ。何故だ。何故なにも上手くいかないのか。俺に一体何が足りないのか。

 彼女は私のことをどう思っているのだろう。それは、わからない。否、「こうなのではないか」という憶測はある。しかし結局それは憶測の域を出ないし、もしかしたら私の希望や期待が多く含まれているのかもしれない。だから(何事においてもそうだが)決して断言はできない。もしくは、これも私の臆病さの現れなのだろうか。実生活での出来事は、断言出来ること以外語らない。それが自分の主義信条だ。自分の経験を語るにしても、基本的にいつも過ぎたことばかりを語るようにしている。現在進行形の出来事を語るには、いつもこちらの憶測が付きまとう。そしてその憶測には、必ずこちらの期待や希望が含まれる。言い換えるならば、そこには必ず誤解と偏見が付きまとっている。馬鹿なことを言って痛い目を見ないためには、過ぎたことを語る(完結したものを語る)のが一番なのである。ああ、わかっている。やはり私は臆病だ。

 しかし、それすらもどうでもいい。全部、皆どうでもいい。白状しよう、私は彼女が好きだ。彼女も同じでいてくれたら嬉しいなと思っている。ただ、私にはわからない(俺は一体何を書いているんだ)。もしかしたら、彼女がこのブログを読んでくれているかもしれない。これも結局憶測の域を超えたものではないのだが、しかし、仮に読んでいたとしよう。もしそうだとするならば、ぼくのいとしいひと、これが私の気持ちである。私は君の恋人になりたい。君は私の全てだ。今の私には、君の以外の全てがどうでもいい。近いうちに必ず、この想いを君に伝える。上手く言えるかはわからない。しかしその時は、どうか私の愛を受け止めて欲しい。こんな告白の仕方ですまない。これが今の私に出来る全てだ。いつの日か、君の目を見てこれが言えるようになることを願って、今日の記述は終わりとする。

 

事件、心的外傷、表象 = 再現前化 (ドゥルーズ哲学に対する私的な文章)

 人は心的外傷に基づいてを思考を始める。ある人の考え方を知ることは、そのままある人が受けた傷跡を知ることでもある。ラ・ロシュフコー箴言に次のようなものがある。「哲学は過去の不幸と未来の不幸をたやすく克服する。しかし現在の不幸は哲学を克服する。」

 では心的外傷とはいかなる時に生じるのか。それは他ならない、自分の差異( = 特異性)が他人の差異とぶつかりあった時である。そして自と他の差異がぶつかり所で、事件は始まる。

 事件。それが独りでに始まったことは一度もない。単独犯によるものであれ、一方的な連続殺傷事件であれ、事件はいつも複数の存在が出会う所で始まった。ジル・ドゥルーズはこの事件 = 出来事の持つ特異性に目をつけた哲学者だと言える。私達は本来、それぞれが異なった本性( = 差異)を抱えて生きている。しかし、もし互いが異なった本性を話し合うのならば、日常会話など到底成り立たない。互いに共通して話し合える世界を作るためには、それぞれが持つ差異 = 個性を強調するというよりかは、むしろ互いの持てる差異を押しつぶさなければならない。どんなに似通った人の間でも、一つの話題に対して(微細であれ)異なった意見を持っている。日常会話は、先ずそれぞれの意見の違いを述べることから始まるのではなく、それぞれが互いに同調できる部分を話し始めることによって生じるものだ。

 この事からわかるように、コミュニケーションの基本は互いの間に共通認識をでっち上げることである。あらゆるコミュニケーションは偽物を前提にしている。そして互いの意見を共通させるために、私達は相手の腹の探り合いをして、いかに相手と話を合わせるかを考え出す。これはまた、私達の生きる一般世界の特徴でもある。

 かつてドゥルーズは「自分は哲学者にならなければ法学者になっていた」と語ったことがある。法律とは日常に事件が介入してくることによって更新される。絶対的な正しさを前提としているよりかは、むしろ現在の問題に照らし合わせてその形を変えていく。それが法というものだ。そのさまは、丁度身体に合わせて着る服が整えられるのに似ている。そして、ここにこそドゥルーズが事件 = 出来事を重視した理由がある。一般世界で正しいとされている観念は、それを否定するような現実 = 事件の介入によって改変される。ではその「事件」とは何によって生じるのか。そう、人と人との差異のぶつかり合いによってである。中心とされている価値観は、これまで「中心」から除外されていた(認められないでいた)少数派 = 差異が侵入することによって更新される。ホラー映画のシリアルキラーは皆悲劇の悪人だ。人が悪事を働くのは、かつて自分に働かれた悪事の腹いせに他ならない。どんな事件の裏にも、そこには必ずその事件を突き動かす差異のぶつかり合いが機能しているのである。

 しかし、ここまで読めばわかるように、彼が強調した事件 = 出来事の概念は、必ずしもいい意味を持つわけではない。たとえば、個々人の持つ差異の力が発揮された時、その人の持つ力能が最大限に発揮される。それは事実だろう。どんな芸術家も、学者も、政治家も、自分の差異 = 観点を磨いたからこそ偉大な天才になれたと言える。しかし、全ての人が彼らのように成功出来るわけではない。個性のために勝利を収めた人の裏には、むしろ個性のために敗北した人が数え切れないほどいる。周知の通り、社会とは力と力の関係である。一つの力の大きさは、別の力との比較の中でしか生まれ得ない。よって、社会においては比較と競走が導入せざるを得ないものとして現前している。事件が起きるところでは、差異のぶつかり合うところでは、自ずと心的外傷が発生せざるを得ないのが現実である。


 ジル・ドゥルーズ(1925-1995)は二十世紀フランスの哲学者である。同時代の名だたる同僚達と共に、彼はポスト構造主義を代表する存在だと言える。しかしその一方で、ドゥルーズは他の所謂「ポスト構造主義」の学者達とは一線を画す存在だと言える(し、本人もそれを否定している)。彼の盟友ミシェル・フーコー歴史学的/社会学的な側面が強く、また晩年に「ゴールなき民主主義」を掲げたジャック・デリダは政治的/活動的も言うべき側面が強い。また、ロラン・バルトには文芸批評家としての側面が、ジャック・ラカンには精神分析家としての側面が……と、それぞれがそれぞれ、哲学的ならざる側面を強調されるのがポスト構造主義の特徴である。

 対してドゥルーズの哲学は、はっきり言ってしまえば他より「地味」である。彼のデビューはフーコーよりもデリダよりも、何ならレヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』よりも早い。その処女作は未だ実存主義の熱が冷めきらぬ一九五三年に発表された。内容は哲学史において決して人気とは言えない哲学者デイヴィッド・ヒュームにまつわる論考である。ガタリとの共作(『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』)がヒットした影響で、ポスト構造主義の一員として語られるようになったドゥルーズだが、彼単体の著作はより純粋に形而上学的なテーマを取り扱ったものが多い。そんなドゥルーズの哲学には生涯一貫したテーマがあった。それは内在性の問題、潜在性の問題、もしくは存在論である。

 しかし、そもそも「内在性」とは何か。「潜在性」とは何なのか。彼の哲学において、「存在論」とは何を意味するのか。それについてを先ず考えていきたいと思う。

 ドゥルーズは同国の哲学者アンリ・ベルクソンから多大な影響を被ることで自らの思索をスタートさせた。さて、ベルクソンには純粋記憶と記憶イマージュという考え方がある。人はよく原因があって結果があると考えがちだが、それは誤解である。実際は結果が先にあり、原因はいつも後から見出されるものなのだ。何か不幸な出来事に直面した時、人はよく「なんでこんな事が起きるんだ」と考える。そしてこの不幸の原因を見出そうとする。「そうだ、きっとあれのせいだ、あれに責任があるんだ……」こうして記憶 = 過去は、現在の不幸に合うように整えられる。つまり純粋記憶( = 過去それ自体)は現在に照らし合わして記憶イマージュ( = 現在に見合う記憶のイメージ)へと変化する。それは映画の伏線回収に似ている。冒頭の画面に写っていた何気ないものが、終盤になると何かとてつもなく意味深いもののように思われてくる。この時、純粋記憶はそのシーンに合わせてイメージとしての記憶( = 記憶イマージュ)に変化する。

 ドゥルーズはこの純粋記憶と記憶イマージュの考え方をそのまま受け継いだ哲学者だと言える。彼の主著『差異と反復』には「ドラマ化」という考え方がある。人が意志によってなせるものの範囲などたかが知れている。むしろ私達の本質は無意志的/無意識的なものの内にこそある。人が思慮深くなるきっかけはいつも何らかの不幸に直面した時である。理性の発達は思考に暴力が振るわ れた時(考えざるを得ない状況に追い込まれた時)にのみ生じる。言い換えるならば、私達が意志によって考えうる範囲とは、私達が既に征服した無意志的/無意識的な範囲だとも言える。

 では思考に暴力が振るわれた時、人はいかにして思考を発達させるのか。そう、自分の知っているもの( = 過去の記憶)に照らし合わせてである。先ず感覚が「考えざるを得ないもの」を感じとり、それを理解しようと記憶が参照され、そしてその記憶に基づいて思考は速度を早めていく。それを突きつめて考えるならば、人は知っているものに寄せなければ自分自身を理解することも、表現することも出来ないということである。人が自分の「本当の気持ち」を理解することなど決してない。自分の知っている言葉に寄せなければそれについて考えることも出来ないのだから。そして知っている言葉が常に限られている以上、人は自分の本心を「他人の言葉」という仮面を通さなければ表現出来ないのである。

 潜在的なものが現働化する。恋愛映画を観すぎた女性が、恋する相手と理想的な雰囲気になった瞬間に、まるで自分が映画のヒロインであるかのように振る舞い始める。彼女の自分に酔った言動は、傍から見れば多少滑稽である。しかし、そうでもしなければ彼女は恋愛が出来ないのである。他人の真似事をしなければ、彼女は自分の本心について語ることが出来ないのだ。そしてこの現象を、潜在的なものが現働化する過程を、ドゥルーズは「ドラマ化」と呼んだ。

 ここまで読めばわかる通り、ドゥルーズ哲学にはある種の心理学的とも言える側面が強い。しかし、彼自身は心理学にも精神分析にも否定的であった。後のガタリとの共著でも知られるように、彼はフロイトを(多少参考にすることはあれど)徹底的に批判した。しかしそれでも、ドゥルーズは人間の無意志的/無意識的な側面を照らしだし、そのメカニズムを暴き出そうとした。そしてそれが彼の哲学において一貫したテーマであり続けた。これは間違いのない事だ。潜在的なものが現働化する。彼の哲学は存在の裏側を探る哲学である。ドゥルーズにおいて、「内在性」または「潜在性」の価値観とは、人が何かを考え行動する時、その裏では一体何が機能しているのかを把握するために用いられる。そしてそれに基づいて、彼は人間の在り方を問おうとする。よってドゥルーズ哲学の試みとは、心理学とも精神分析学とも違った形で人間の無意志的/無意識的な側面を暴き出そうとし、それに基づいて存在論を組み立てようとした点に特徴がある。

 苦悩に苛まれている時、人は自分がするべきことを知らない。否、何をすればいいかわからないからこそ悩み苦しんでいるのである。「正しい選択」というものは、いつも悩みを抜け出した後になって見出される。苦悩の内にあった当時を思い起こしては、「ああ、あの時ああすればよかった」と後悔する人が、この世にどれほどいるだろう。しかし、嘆きはいつもこちらが嘆く不幸を読み解くヒントを与えてくれる。人が何かに悩み苦しむのは、まさに自分が何に悩み苦しんでいるのかがわからないからである。そして、だからこそ何をすればいいのかがわからないのである。困惑の苦しみ、不可解なものへの恐怖。しかし、リルケも書いている通り、「もしそこに恐怖があるとするならば、それは私達の恐怖であり、そこに深淵があるとするならば、それは私達の深淵」なのだ。

 人は動くというよりも動かされるように生きているものだ。意識は常に無意識の反動である。ならば自分を無意志的/無意識的に突き動かしているものがなんであるかを知ることで、私達の苦しみは自ずと減るのではないか。ドゥルーズは自分の書物を「道具箱」のように用いることを推奨する。よってこの意味において、ドゥルーズ哲学は現代に類を見ない潜在性(ポテンシャル)を秘めた哲学だと言える。


 ドゥルーズの語る「差異」という言葉には三つの意味が推測される。一つは本性的な差異。人はそれぞれがそれぞれ、異なった意識の流れを持っている。ライプニッツの語るように、私達は皆外の世界に対して窓もドアも持たないモナドである。どんなに似通った観点を持つ人同士でも、そこには必ず何らかの差異がある。よってある人の本性的な差異とは、ある人の抱える傾向であり、またある人の生を貫く性質である。だから人生の中で、私達は何度も自分の本性の差異が何であるかを改めて、繰り返し(反復して)知るような場面に何度も出会うことになる。

 もう一つは、産出され続ける差異である。例えば今こうして私は文章を書いているが、その間にもこちらの筋肉は動き続け、私は一秒前の自分と差異化していると言える。あらゆる真実は時間の真実である。丁度物質がいくつかのものの構成関係で成り立つように、こちらの心理状態も複数のものの構成関係によって成り立つ。その構成関係に新しいものが増える(または新しく何かを喪失する)時、その構成関係は変化を強いられる。そして時間の経過と共に、人は運動することを強いられる。つまりは何かを得て失うことを強いられるのである。ある時には正しかったが、別の時には正しくないという現象はこうして生まれる。これらの事を踏まえるならば、産出され続ける差異、常に異なった瞬間が繰り返される(反復される)ことで私たちの生は更新されていると言える。

 そしてこの差異は別の差異との繋がりを持っている。情熱とは記憶の病である。私達が誰かに固執するのは、その誰かの存在のためというよりかは、その人にまつわる記憶のためだと言える場合が多い。学習とはいつも思い出すことと密接な繋がりを持っている。しかし、プルーストの『失われた時を求めて』を開ければわかるように、私達が過去の思い出を想起する時、そこには当時は感じなかった感情さえをも感じている。過去の時間、現在とは異なった(差異のある)時間を思い起こす時、私達はその時間の持つ新しい側面を生きているのだと言える。それこそ純粋記憶と記憶イマージュの関係である。映画のワンシーンで、観ている当初は特に重要とは思えなかったものが、のちに何か非常に意味のあるようなものに思えてくる。今現在新しく生きている瞬間とは、別の側面から見れば既に生きられた時間なのである。私達の現在には、常に今は生きられない余白がある。新しい気づきとは、常に過去の瞬間( = 差異)が繰り返される( = 反復される)時においてのみ訪れるのである。


 中期以降のドゥルーズ哲学において最も重要と言える概念、それは「器官なき身体」である。しかしその解釈の仕方には、共同制作者のガタリとの間にさえ差異があったらしい(宇野邦一氏に宛てた手紙を参照)。ではドゥルーズ哲学において、「器官なき身体」とは一体何を意味するのか、それについてを次に考えていきたいと思う。

 器官なき身体とは何か。彼の書き残したフランシス・ベーコン論によれば、それはむしろ身体の消滅だという。ドゥルーズスピノザからニーチェに至るある一つのモチーフに基づいて自らの思索を展開する。つまり、「私達は身体が何をなすのかをまだ知らない」のである。ベーコンの絵画においては、描かれるキャラクターが醜く歪み、非人間的な変容を遂げながら絵の中心で絶叫していることが多い。しかしベーコン自身は、それについてこう語っている。「微笑みを描くつもりが叫びになってしまった」と。

 器官というものはそれが周囲に持つ関係によって規定される。鼻は周りの匂いを嗅ぎとるからそこにあると言える。言い換えるならば、一つのものの存在とは、常にそれが周囲のものと抱く関係によって定義付けられるのだ。ベーコンの絵画においては、人物のいる世界 - 物語を決定づけるような風景(草木、花、川の流れなど)が欠如している。代わりに背景を占めるのは、単色である。ベーコンの絵画には赤や黄色などの単色が風景の代わりとして機能している。そしてその中心でキャラクターが絶叫している。笑おうとしたけれど叫ぶことしか出来なかったのである。

 これは一体何を意味するのか。何故微笑みが絶叫にならざるを得なかったのか。器官なき身体の話に戻ろう。先述の通り、器官なき身体とはむしろ身体の消滅である。では何故一体身体は消滅せざるを得なかったのか。それは身体が「器官なき身体」に耐えられなかったからである。

 ドゥルーズスピノザ = ニーチェから身体の可能性という考え方を受け継ぐ。私達は自分の身体が何をなすのかをまだ知らない。人間の生( = 身体)には、まだ汲み取りきれていない潜在性がある。たとえば感情。突き詰めて考えるならば、私達が言葉でいい表せる感情など存在しない。何故なら、人は自分の内にある潜在的な気持ちを完全に知ることが出来ないからだ。前述の潜在性と現働化の、「ドラマ化」の話に戻ろう。人は常に、自分の知っているものに寄せることで何かを考える。言い換えるならば、人は自分の感情を他人の言葉という仮面を通さなければ語ることが出来ない。

 例えば頭の中で考えていることを、そのまま口に出そうとしてみる。そのとき私達は、誰もが自分の思っている通りの言葉を口にしていないことに気がつく。必ずどこかで言葉を濁したり、または何と表現すればいいかわからずに口ごもったりしてしまう。このことからもわかる通り、私達の本心は、常に、決して語りえないものとして内在している。または、自分がいかに不幸かを語ろうとして口を開く時、いつも何処か言いすぎてしまったり、本来考えていなかったことさえをも話の流れから言ってしまったりする。自分の感情を完全に言い表そうとすると、いつも何処かで言い間違えをしてしまう。そして余計なことを口にしたと後悔してしまう。ここで私が思い出すのは、リルケの書いた次の詩だ。「世の恋人たちを見るがよい/やっと告白がはじまると/もう嘘を強いられている」

 悲しい体験の後に物憂げなバラードを聴くと、なにか自分が悲劇の主人公になった気分になる。その感覚があまりにも真実的なので、この感傷的な気分こそが自分の本心なのだと勘違いしてしまう。しかし、実際は違う。私達はよく真実的なものと印象的なものをごっちゃにして考える。だから、次のことを見落としてしまう。つまり、先ず最初に感覚がある。そして感覚が何かを感じ取り、それを言語化するために、私達は感覚を自分の知っているものに寄せていくのである。人が時に大袈裟に自分の感情を語ってしまう理由がそこにある。その人は自分の悲しみを語りたいが、メロドラマの中でしかその感情を見た事がないから、同じように何かを演じることしか出来ないのである。

 それを踏まえて言うならば、器官なき身体とは、言わば新しい感情を発明するために必要な概念である。私達は自分を知っているものに寄せていく。生活を営むなら、仮面をかぶり演技をしなければならない。では肝心なのは新しい仮面を発明することである。前述の通り、器官とは周囲のものとの関係によって規定される。私達の存在、私達の思考は、私達が普段生きて見聞できるものによって制約されている。しかし、スピノザ - ニーチェ - ドゥルーズの語ることは、つまりこうなのだ。私達の生には、まだ汲み尽くすことの出来ていない潜在性がある。この世の中には、同じ人間とは思えない所業をする人間が、なんと沢山いることだろう。人の冒す犯罪は、なんと多様多種だろう。他の動物には出来ない。まさに人間だからこそあのような残酷で、しかも想像も絶するような犯行がなされるのである。私達の肉体は、なんと複雑怪奇なものだろう。そこでは相反し、矛盾しているように見えるものが同居し、無秩序に見えるものが一つの秩序を形成し、一つの生を営んでいる。しかも、私達はそんな肉体の仕組みを未だ完全に理解し切れていないのだ。そうだ、私達はまだ身体がなにをなせるのかを知らない。無限大の潜在性を秘めた生の力能を、私達はまだ組み尽くすことが出来ていないのである。

 器官なき身体とは、ありのままの身体、ありのままの生、その潜在性(ポテンシャル)が制約されていない生のことを指す。では何故「器官なき身体」を目指した先にあるものが「身体の消滅」なのか。それは結局、私達が器官なくしては生きることの出来ない存在だからである。事件の話に戻ろう。日常に事件が介入することで法律は更新されていく。しかし、それで変わるのはごく一部分で、実際の大半は今まで通りに機能し続ける。私達の日常に事件が起きることで、時に私達の生活が一変することも有り得るだろう。しかし実際は、事件なんかが起きても私達の一部分が変わるだけで、生活は変わらずに、今まで通りに流れ続ける。それが現実だ。差異は反復されたところで、いつも中心に回収され、日常の一部となってしまう。否、そうでもしないと私達は日常生活を営むことも出来ないのである。

 この表象 = 再現前化の現実が、私達が生きる上で何処までも付きまとってくる。一般性とは虚構である。それぞれ異なった性質を持った人間同士が集まって生活を営むために生み出されたものである以上、基準となるべき一般性は常に実在しない何かなのだ。しかしその一般性の上でしか、更新され続ける中心としての一般性の上でしか、人は生きていくことは出来ない。そしてそんな虚構 = 一般性に合わせて生きていく以上、人の会話には絶えず嘘が付きまとう。日常会話とは暗号の交わし合いである。暗黙裏に規定された一般性 - 会話のルールに沿って、誰もが相手の顔色を伺いながら、その場で話すべきことがなんであるかを探っている。誰もが存在しないものに自分を寄せて生きている。誰もが自らの差異を表象 = 再現前化させている。

 時に、そんな虚構としての一般性に気づく瞬間とはいつか。言い換えるならば、日常会話には暗黙のルールがあり、それに従わなければ「日常」から疎外されることに気づくのはいつか。そう、それは会話の中でミスをした時である。ドゥルーズプルースト論の中で書いていたことだ。「罰を受ける前には、私達は法が何を欲していたかわからず、したがって有罪であることによってしか法に従うことが出来ず、私達の有罪性によってしか法に答えることが出来ない。(……)厳密に言うなら不可知であり、法は私達の処刑される身体に最も過酷な制裁を科す時にだけ、認知されるのである。」

 見えない法 = ルールに従うためには、一度法の中で過ちを犯すしかない。会話の中で「話してはいけないこと」を話した時、こちらを責めるような沈黙が流れ、またはこちらに敵意を向けるような眼差しが注がれる。もしくはそれが切っ掛けでこちらは憎まれ、攻撃され、疎外される対象となる。制裁が下された時にだけ、はじめて私達は一般性の存在を知ることが出来る。しかし一般性から逃れて生きることも出来ない。生活のため、目標のため、見栄のため、自分または他人のため、とにかく生きるには社会に自らを適合させようとしなければならない。社会から逃れるのが許されているのは、それこそ子供と老人だけだ。子供にはそもそも子供だけの世界がある(そして成長するにつれてそこから切り離されていく)。そして老人は、財産が出来たにせよ目的が果たされたにせよ、なんであれ老いることで社会の内にいる必要がなくなる。または孤独な生活を送ることが許される (言い換えるならば、青年や中年の人間達は孤独に生きることが許されていない。それは一般性から裁かれる対象である) 。老年に至るにつれて、人は幼少の頃に回帰していくというが、それは確かに事実かもしれない。

 さて、話を戻そう。生きていく上で、私達は自らを社会に投じるしかない。そして社会の内にいる以上、私達は一般性を生きるしかない。一般性を生きる以上、常にこちらを裁く暗黙のルール = 見えない法を感じなければならない。私達はその中で一度ミスをすることによって、初めてそこに暗黙裏のルールがあることに気がつく。言い換えるならば、心的外傷を得ることによって、初めて社会で「こうしなければならない」ものに気がつく。こうして自らの差異を押し潰し、一般性に自らを寄せていく現象が、表象 = 再現前化が起こる。しかし「傷つけられた」と感じている人は、同じように他人も傷つくことを願うものである。不幸な人の願いとは、いつも自分を不幸の中から引き上げてもらうことではなく、むしろ自分と一緒に不幸に苦しんでもらうことである。

 ルサンチマン。他者との世界を生きるということは、絶えずルサンチマンが付きまとってくるということだ。反省するということは過去を振り返るということだ。人はその時、過去から正しさを学ぼうとしているのである。よって反省(または内省)を覚えた時にのみ初めて私達は思慮深くなると言える。しかし、そもそも何故その人は過去を内省しようと思ったのか。それは現実で何らかの傷跡を負ったからではないか。そしてその傷跡が何故生まれたのか、何が原因なのかを探るために、内省的になったのではないか。よって、こうとも言える。私達が思慮深くなるのは、いつも心的外傷を得た時からではないのか。そして傷つけられたものは、いつも自分を傷つけてきた存在に復讐することを願う。生に苦しめられた人間は、生を悪と見なし、生を否定しようとする。しかしその時、生はそれが本来持ちうる力能から切り離されている……。

 ベーコンの書くキャラクターが微笑もうとしても叫ぶことしか出来なかった理由がここにある。私達の生には、まだこちらが汲み取ることの出来ずにいる可能性がある。もしそれを求めて生きるならば、私達は自ずと自らの本性の差異に基づいて生きることが必要となる。しかし自らの差異に基づいて生きる時、そこには必ずこちらを裁く一般性が現前することになる。だからこそ、微笑みを求めて生きるならば、自ずと絶叫するしかなくなるのである。人は自分の身体が何をなすのかを知らない。生には未だ汲み取ることの出来ない無限の潜在性(ポテンシャル)がある。しかし生の潜在性を求めて生きた時、器官なき身体の実現を求めて生きた時、そこに現れるのはむしろ身体の消滅なのである。ドゥルーズフィッツジェラルドの次の言葉を好んで引用する。「人生とは、無論、崩壊の過程である。」生の潜在性を追い求めて生きるならば、私達は崩壊の過程を辿るしかなくなるのである。


 ジル・ドゥルーズの生涯は自殺によって幕を閉じた。一九九五年六月、彼は自室の窓から身を投げて死んだ。七十歳であった。では、彼は病んだ末に死を選んだのか。否、そうではない。ドゥルーズニーチェの語る「大いなる健康」を求めて執筆を続けた。しかしそのニーチェにしても、晩年には発狂したのち死に至ったことがよく知られている。青白い肌をして、度々自殺願望に囚われては孤独の世界にこもろうとしたニーチェ。ではニーチェドゥルーズにとって、「健康」という言葉は一体何を意味するのか。そう、それはルサンチマンに苛まれ、一般性に裁かれても、それでもなお大いなる生の潜在性を求め、自らの本性の差異に基づいて生きようとするもののことである。

 プラトンも語る通り、苦痛と快楽というものは相反するように見えて実は一つのものである。ある人の感じる喜びの大きさは、そのままある人が今日までに感じた悲しみの大きさでもある。ならば、生きて苦しいのは当たり前なのだ。孤独に苛まれ、不安に神経をすり減らし、眠れない夜を幾度も過ごすことは、当たり前のことだ。喜びが大きくなれば悲しみも大きくなるのだから、それは避けられないことだ。強靭な生の潜在性を追い求めて生きるならば、私達は病んで絶望するしかない。しかし悲しみに捉えられた時、人は悲しみだけがこの世の全てであるかのような気がしてくる。そう、ルサンチマンの作用である。また悲しむ人は、いつも自分を悲しませるものを否定しようとする。生を悪とみなし、生が持つ潜在性から生を引き離そうとする。

 かつてドゥルーズはこう書いたことがある。「人は知っているものと知らないものの間でしか書くことがない」と。私達はいつも知っているものに基づいて知らないものを憶測する。そしてそこから新しい発見を導き出すのである。生を悪と見なし、生を否定することは、それ自体生を持てる可能性から引き離すだけでなく、同じあやまちを何度も繰り返すようこちらに強いるものだ。人はかつての経験を飛び越えることで新しい経験を得る。同じ経験に依拠していては、いつまでも同じ所に頭をぶつけることしか出来ない。安易に自分自身をドラマ化して語る人を見ると、何か胡散臭いようなものを、大根役者の演技を眺めてるように感じてしまう。ならば私達にとって「本物」を生きているように見える相手とは、それだけ自分だけのドラマを、差異のドラマを生きようとしている人のことなのだ(安易に他人の言葉を反復させるだけでない、差異のドラマ)。それはまた常に自分の生の潜在性を追い求める人のことでもある。

 よってドゥルーズニーチェの語る「健康な人間」とは、悲しみの現実を前にしてもなお新たなる喜びの潜在性(ポテンシャル)を追い求める者の事を指す。確かに、私達を悲しませるものは大きい。芸術家に精神を病んだものが多いのは、彼らが生の中に、自分にも他人にも大きすぎる何かを見出しているからだ。しかし、それでも彼らは生の持てる潜在性の発揮を追い求める。そこに潜む驚愕すべき魔力に魅せられてしまったからだ。そのような潜在的な力が解放された時、私達はこれまでに思いもよらなかったドラマを生きることとなる。確かに、その先には、もしかするとドゥルーズのように自殺する者の姿が、またはニーチェのように発狂する者の姿があるかもしれない。確かに、その場合の人生はフィッツジェラルドの語るような「崩壊の過程」になるかもしれない。しかし、それでもなお私達は生きることを求めてやまない。そこにある無限大の喜び、まだこちらの知ることの出来ない世界の潜在性に、そこに内在された恐るべき力能に、開放された未来へのあこがれに、魅せられてしまったからだ。大いなる健康を求めて、充実した身体を求めて、失われた生を求めて、器官なき身体を求めて……。

最近、あまり具合がよくありません。そんな状態で私は書いています。君のことをずっと考えています。君は苦痛を、まるでそれが思考との計り知れない関係であるかのように生きていますね。こうした思考の出来事を、どうやってよろこびに変えるか。(……)君は私より遥か先まで進んでいます。君の狂気が一〇〇ページ書くという条件を課してくるのは、書く動機としては、賭け事の借金と同じくらい良いですね。書く力が不足しているということは言い訳になりません。何故なら、自分自身の力不足によってはじめて人は書くからです。君のうちにある潜在力すべてを、君自身が感じずにいることなど、どうして出来るでしょう。恐らく君はあまりに傲慢で、あまりに深遠なだけなのではありませんか。君に対して、君が書く時にはその書き方に対して、敬意を抱いています。心からそう思うのですが、君は恐るべき戦場であり、友愛はそこからよろこびを、共犯性を引き出してくることが出来るのです。

20/03/20

 どうでもいい話かもしれないが、私はかつて非常に神経質な性格をしていた。そしてそれがとてもコンプレックスだった。今ではそんなに神経質に見えないかもしれないが、それも自分なりに努力した結果だと言える。学生の頃、私は結構 (いや相当) 気持ち悪いやつだった。思い込みが激しく、気難しげで、おまけにかなり直情的な性格をしていた。当時からすればだいぶ人間が変わったと言えるが、しかし今でもあの頃の名残はある。たとえば考え事をする時に、私には爪先を噛んだり、親指をかじったりする癖がある。で、噛みすぎるあまり、爪が剥がれて血が出ることがある。これがよくない癖なのはわかっている。しかしやめられない。何故かわからないが、噛んでいると気分が落ち着くのである。

 思い込みでなければいいのだが、今の私はそんなにひとに悪い印象を与えにくい人間になっているのではないかと思われる。社交的で人付きのいい、性格の温厚な若者。そのように見られていれば幸いである。否、いつもそのような印象を他者に与えたいと思いながら過ごしている。それは決してひとに好まれたいからではない。むしろ「気持ち悪い奴」だった頃に対する復讐のためだと言っていい。要するに、自分は虚栄心からそのような態度をとっているとも言える。それに、次の理由もあるかもしれない。つまり、他からの余計な敵意を感じ取りたくないから、いつもある程度当たり障りのない態度を(毒にも薬もならない愛想笑いを)とっているのである。これは自分が大人になる過程で身につけた社交術の一つでもある。

 また自惚れでなければの話になるが、自分には少しばかり、何らかの才能があると思っている(それが何であるのか、それはあえて書かないでおく)。だから遅かれ早かれ、私は成功する。否、そう信じていると言っていい。もとい、ある程度才能に自信がなかったら今のようなちゃらんぽらんな生活に身を浸したりなどしない。

 さて、では実際にいつか何らかの成功を勝ち得ることが出来たとしよう。しかしその時、果たしてこの胸にある大きな(そして空虚な)穴は埋まるのだろうか。私の内には、もう長い間なんと形容すればいいかわからないものが、虚しさとも寂しさとも悲しさとも区別のつかないものがある。それは果たして自分が大成すると同時に消えてくれるものなのだろうか?

 もう一つ、別の話をしよう。十代の頃から、自分にはあるひとつの野望がある。それは、いつか沢山の人を集めて、なにか大きなムーブメントを生み出すということだ。法律というものは生じる事件の介入によって更新される。かつて正しいとされていた法は、それを否定する事件の前例が出来た時に正しくないものとして非合法化される。もしいつか自分が一つの大きなムーブメントを打ち立てることが出来たならば、またそれによってこの社会に確固とした問題提起が出来たとすれば、その時、私達の生きる世界はある決定的な、否定しようのない変化を迎えることになる。今現在ある「正しさ」を否定する事件が日常に介入することで、これまで「正しい」とされていたものに誤りがあることが証明される。そしてそれが誰の目も明らかな事実として映ることになる。

 後付けに聞こえるかもしれないが、かつてより社交的になろうと努めた理由はそこにもある。出来る限り知人を増やして、他との繋がりを増やすことで、やがて来るべき日に備えようというわけだ。実際、今の自分は人並みよりかは多くの友人に恵まれた人間だと思う。

 しかしそれでも、時にはこう感じずにはいられない。「果たしてこれが自分の欲しかったものなのか」と。 または、こう言い換えてもいい。「一体いつになったら自分の欲しいものは手に入るのだろうか。」

 他の人は皆、楽しそうに毎日を生きている。思いすごしなのかもしれないが、私には皆が自分よりキラキラした生活をしているように見える。だから皆が羨ましくて仕方ない。皆と同じようになりたい。しかしいくら努力しても、それに手が届かない。では何故それが出来ないのか。何故自分には、他の人と同じように人並みの幸福を手に入れることが出来ないのか。他の人が簡単に手に入るものが、何故自分にはこうも遠いものなのか。何故いくら手を伸ばしても欲しいものに届かないのか。今日までは、私はこんなにも努力してきた。しかし何かが、いつも何かが、決定的に足りない。何故だ。何故なのか。何故私は彼らと同じように笑うことが出来ない。何故いつも自分は他人の輪の中に入れない。

 では、そもそも私が欲しいものとは一体何なのだろうか。そう、それは居場所だ。まるで故郷を追い出され砂漠の地をさ迷うユダヤ人のように、私は今日まで自分の人生を生きてきた。しかしいつかはこの渇きが癒されると信じてきた。そして実際、かつてに比べれば、自分はそれなりに多くのものを手に入れることが出来たと言える。教養、人望、才能。自惚れでなければ、今の私にはそれがある。そして楽観的に考えるならば、これからもっと多くのものが手に入るだろう。もとい、その自信がある。しかしそれでも、自分が本当に欲しいものが手に入らないなら、そんなものは皆無意味ではないか。私が本当に欲しいもの。それに手が届かないのなら、今日までしてきたことには全部、何の価値もない。全て軽蔑に値する。そうだ、私が本当に欲しいのはこんなものじゃない。それはもっと別のものであって、他の人にはそうは見えなくとも、自分にとっては何よりも、他の一切よりも大事なものなのだ。そして、もしそれが手に入るのなら、将来の成功や社会的に大きなムーブメントなど、そんなものは皆どうだっていいのである。皆、何もかも、台無しになっていい。全て軽蔑する。全て捨ててもいい。聖書に書いてある通り、たとえこの世界の全てを手に入れたとしても、自分の心を失ったのなら全て無意味なのである。

 私が本当に欲しいもの、それは家庭であり、故郷であり、唯一無二の、永遠に変わらず自分のそばにいてくれる相手である。もしその友が私を愛してくれるのならば、私を受け入れてくれるのならば、私も生涯変わらぬ愛情をその友に誓うだろう。そう、死が二人を分かつまで、永遠の愛を誓おう。もうずっと前から、何年も前から、私は本気でそう考えている。そう、それだけが、たったそれだけが私の望みである。なのに、何故いつもそれが手に入らないのか。それともこの望みは、今の自分には身分不相応なものなのだろうか。思い込みで構わない。間違いでもいい。私は自分の欲しいものが欲しい。


 日常会話とは暗号のやり取りだ。一般生活において、会話の答えとはある程度その会話の中に隠されている。人はそれを密かに読み取ることで一般生活を成り立たせていると言っていい。誰も「おはよう」に対して「お腹空いた」とは返さない。「おはよう」という言葉にはある程度それに相応しい返事が既に定められている (しかも無言のうちに、誰が決めたというわけでもないのに)。

 そういう意味では、日常生活とはむなしいものだとも言える。普段の会話の中で、私達が互いの本心を通わせることなど稀である。むしろ日常生活においてならば、いかに互いの暗号を上手く読み解くかが肝心となってくる。それが「心地よい会話」の発生に繋がるのだから。もし互いが考えていることを思うがままに打ち明けたならば、コミュニケーションなど到底成り立たないものだろう。

 しかし、だからこそ一般生活にはある種の気楽さがあるのだとも言える。ある一定のルールと手順を満たせば、私達はなんの不快もなく(敵意を寄せられることもなければ、ある種の気まずさを感じることもなく)他人と会話することが出来る。なるほど社会生活は空虚だ。日常会話は嘘と暗号の交わし合いだ。社交的であることにはある種の軽薄さがつきまとう。しかし、だからこそ社交的であるということは、ある意味では自分の心を守る最大の手段にもなるのである。前述の通り、一定のルールと手順を満たせば、人は自分の本心を攻撃されることもないまま社会生活を営むことが出来る。確かに社交的な人間は軽薄だが、しかしそれは何より気が楽な人間の在り方なのである。

 恐らくドゥルーズプルースト論の中で友情に対して否定的であった理由はそこにある。どんなに親密な友情も、社交( = 腹の探り合い) を通さなければ中々生まれ得ないものだからだ。では、もし友情 - 社交 - 偽のコミュニケーションを放棄したとするならば、その先にあるものとは一体何か。そう、それは「どもり」である。

 日常会話はゲームのルールを満たせば身の安全がある程度確保されるよう出来ている。言い換えるならば、ルールを放棄して相手に向き合おうとするならば、私達は互いに対して緊張を覚え、あることない事を沢山考えて、意味もなく相手のことで悩んだりする必要が出てくる。それは愛が芽生える瞬間でもある。つまり愛するということは、饒舌に喋れなくなるということ、非社交的になるということ、どもるということだ。だから誰かを愛する時、私達はコミュニケーションを放棄する。代わりに対象への緊張から上手く話せなくなる自分を、適当なことが言えなくなった自分を、どもり始める自分を見出すのである。


 快楽の本質、それは共振にある。たとえば本を読んでいる時に、なにか自分の本心をそのまま言い表してくれるような言葉に出会うことがある。このように、愛する本との運命的な出会いというものは、自分が「これだ!」と思うような言葉と出会った時に始まる。そう、読書とは語るべき言葉を知らない人間が、自分の語るべき言葉を見出すためにする作業なのである。そしてそのような言葉に、運命的な言葉に出会った時に、こちらと本の間では一つの共振が起きている。私は本に書かれた内容によって揺り動かされ、心のどこかで感じてはいても上手く言い表せずにいたものの存在に気が付き始める。そしてその体験を通して、今度はこちらが本を揺り動かし始める。そしてそこに書かれた言葉以上のものを見出そうとする。

 人は読むことによって読まれていくものだ。私達がいかにこの世界を捉えるかということは、それ自体こちらがいかにこの世界を眺めているかを理解する ( = 読み解かれる) ことに繋がる。そういう意味では、人は他の存在に出会うことによって、むしろ見知らぬ自分に出会うのだとも言える。自分が惹かれる対象に出会うことで、自分の内にある気づかなかった性格に気づくようになる。あらゆる変化はかつての自分と自分以外の対象の間で生じるのだ。

 それが人でないにしても、本や音楽など、何らかの作品に出会うことで、人はこれまでに感じていなかったような感情を感じ、自分の内にある見知らぬ自己の存在を発見することとなる。そして、私達はそれを「学習」または「発明」と呼ぶ。共感を覚え、共振を覚える対象でありながらも、そこには自分にないものがある。だからなお一層心を揺り動かされずにはいられない。共振の喜びとは、そこに未知なる自分の姿が見出されるからこそ生じると言える。こちらが何かに感動し、魅了されるのは、それによってむしろ知らない(または忘れられていた)自分の姿に出会うからだ。

 時に、何かに魅了されるということは、言い換えるならば何かに感覚を奪われに行くということでもある。四六時中、何をしても自分を魅了した対象のことが思い浮かぶ。だから対象を求めざるを得ない。しかし、ここで一つの奇妙な現象が起こっていると言える。対象のことが四六時中頭に浮かぶのなら、生活が上手くいかなくなるのは当たり前である。実際、大抵の人はそういった対象に出会うと、これまで通りの生活が出来なくなってしまう。何をしても、取り憑かれたようにそれの事が思い浮かぶ。だからそれに突き進まざるを得ない。しかし、では何故その対象を排除する運動が生じないのかという疑問が生じる。何故ならそうした方が生きやすいからだ。実際、日常に支障が出ては、これまで取り組めたことも取り組めなくなるし、間違いなく生活はこれまで以上に苦しくなる。しかし、そうとわかっていても、大抵の人は対象を排除したいとは重ない。それは何故か。恐らく、人は四六時中自分を魅惑したもののことを考えていると同時に、その対象のことを忘れたくないと思っているのである。

 ロラン・バルトがかつてこう書いていた。「恋する私は狂っている。そう言い切れる私は狂っていない。」何かに夢中になるということは、その何かのために生活に支障が出ることを意味する しかしそれでも人はそれを求める。自分が失われていくのを感じるのに、むしろそれを良しとしている。そして自分の求める対象に突き進む。換言するならば、対象に夢中になる時、人は対象の中で我を失っていく自分と、それを傍観している自分の二つを併せ持っているということだ。それは必ずしも何かに夢中になることそれ自体に陶酔しているという意味ではない。むしろそれによって、かつての自分にはないものが得られるのではないかという期待が込められているからだ。


 当人が共感できない不幸とは、傍から見れば羨ましいものか、または軽蔑すべきもののどちらかにしか見えない。だから自分の不幸を嘆く人の話を聞いて、時にそれが自慢話のように思われるという現象がよく起こる。大抵の人の不幸とは、その人自身の性質に基づくものである。そしてその性質を必ずしも他の人が備えているわけではないのだ。

 ザ・スミスの「There is a Light……」は、UKロックを通った人なら誰しも聴いたことのある曲だろう。「二階建てのバスが僕たち二人に突っ込んできても、君の傍で死ねるなら僕は幸せだ……」ああ、実にロマンチックな歌詞だ。どれだけ多くの若者がこの歌詞に共感し、また感動したか知らない。しかし重要なのは、この曲を聴いた若者の大半は、この歌詞で書かれたような死に方をしていないということだ。私も高校時代に何度この「There is a Light……」を聴いたかはわからない。がしかし、自分の学生時代にこのような大恋愛が起きたことなど一度もない。そのくせこの曲を聴いてはその歌詞に共感していた。実に不思議な現象ではないか。

20/03/15

 自分の中にあるものが決定的に変わり始めている。それが何なのかはまだ上手く言い表せない。ただ、最近はそれを強く感じている。そして、それに突き動かされるようにして生きている。

 昔から、私の内にはある一つの傾向があった。それは、欲しいものを前にするとそれに対して恐怖を覚えるという傾向だ。胸の中で思い描いている時にはこれまでにない程甘美な瞬間のような気がするのに、いざそれを目の前にすると、恐怖で足元がすくんで、途端に対象から逃げ出したくなる。愛と憎しみが紙一重なものだとは思わないが、少なくとも愛は恐怖や不安と密接な関係にあると思う。無論、恐怖や不安が取り除かれたあとでも対象への愛は続く(かつて恐れていたベートーヴェンの音楽を今やこんなにも愛していることがそのいい例だ)。ただ、この症状の初期段階として、上に書いたような対象に対する不気味な感情と戦わなければならないのは、少なくとも私にとっては事実である。毎日、相手のことが頭から離れない。取り憑かれたように、何をするにもその存在が頭によぎる。だから「ノイローゼになりそうだ」と、思わず何度もそう独り言を呟くことになる(しかもブツブツと、部屋中を行ったり来たり歩き回りながら)。

 よって「では対象から逃れればいいのではないか」という疑問が湧いてくるのは、この流れからすれば当然のことだと言えるだろう。しかし、ここで私とベートーヴェンの関係について少し話したいと思う。かつて、私はベートーヴェンの音楽が不安だった。それは余りにもこちらの心を掻き乱し、私の平静を失わせ、突き動かされるように何かをすることをこちらに強いるような、そんな響きを含んでいるように思われたからだ。だから私はベートーヴェンを避けていた。しかし、避けている間のどの時期にも、ベートーヴェンを忘れたことは一度もなかった。否、忘れたと思った頃にそれは甦ってきた。そしていつも私の心を後ろからナイフで突き刺すかのような衝撃を与えた。思考が強制され、感覚の全てが相手の内へと奪われて、その中で異常な変化を体験するような気がした。それはとても恐ろしいことだった。しかしまたそれは私を惹き付けてやまなかった。だから結局、私はベートーヴェンを愛さずにはいられなかった。どれだけそれから逃げようとしても、私は向き合わずにはいられなかった。あたかもそうなることが宿命づけられているかのように。

 と、こうして書くと、とてもロマンチックな話に聞こえるかもしれない。が、実際はそんなことは無い。私はよく読書をする時に音楽を流すのだが、その際にベートーヴェンを流すと、ベートーヴェンに全ての感覚が奪われてしまう。だから本の内容がまるで頭に入らなくなってしまう。対象に感覚を奪われてしまうと、何をしても対象のことばかりが頭に思い浮かぶ。だから何をしても身が入らない。何一つ上手くいかない。どんなことにも集中して取り組めなくなる。だからとても苦しい。しかし対象に向き合うと、私は緊張して、色々と考えていたはずの計画が全て頓挫してしまう。カフカが日記に書いたあの有名な言葉をパロディするならば「僕はそれなしじゃ生きていけないが、それと共に生きていくことも出来ない」という現象が、このとき発生する。

 傍から見れば、そんな私は滑稽だろう。それに人生を楽しんでいるようにも見えるかもしれない。しかし、必ずしもそういうわけではない。生活の何にも身が入らない。何をするにも対象のことが頭に浮かぶ。映画を観るにしても、十分おきに対象のことを考えてしまう。本を読むにしても、一ページをめくる度に対象との思い出が頭を過ぎる。だから結局何にも集中出来ずに一日が終わる。そんな一日が何度も繰り返される。よって毎日イライラすることとなる。今の自分が落ち着いてベートーヴェンについて語れるのは、不安や緊張を感ぜずしてベートーヴェンを愛することができるようになったからだ(しかもかつてと同じように)。しかし、この状態に至るまで、私はどれだけベートーヴェンのためにイライラしたことかわからない。あたかも自分の愛するこの音楽家が自分の敵であるかのように。まるで馬鹿な話だ。向こうは何もしてないのに、こちらは勝手に相手のために苦しんでいる。気持ち悪いやつだと思う。何の恥や後ろめたさも感じずに、恐怖や不安、緊張も覚えずに何かと向き合いたい。ただそれだけの話なのに、何故それがこんなにも難しいのだろう。


 フーコーの思想と言えば、その社会学的/歴史学的側面が有名である。何かを意志する主体の裏には一体何が潜んでいるのか。それは人が何かを求め動く時の基準となる価値観である。しかし、人は普段その価値観を考慮に入れない。何故ならその価値観は私達の普段の生活では気づかないところ(無意志的、無意識的なところ)に潜んでいるからだ。ではその価値観は一体どこから生じているのか。それは他ならない、社会 - 権力である。

 責任という概念は、自分のためというよりかは他人のためにあると言える。(自分が負うつもりなくても生まれた)他者への責任がある以上、私達は他者の眼差しに基づいて生きざるを得ない(親の期待、友人の同調意識、社会の目……)。ベンサムがかつて考案した監獄形態 - パノプティコンは、囚人同士の生活が筒抜けになるように設計されている。だから囚人達は互いの眼差しを気にしながら、自分で自分を制約し、管理することとなる。フーコーによれば、今やこの監獄 - パノプティコンの現実は私達の社会の中に実在しているという。私達は誰しも他者の眼差しを気にすることによって自分を制約し、管理している。そう、管理社会の誕生である。

 一方で、ドゥルーズフーコー論の面白いところは、このようなフーコー社会学的/歴史学的な側面よりも、その哲学の内に潜む存在論的/形而上学的な側面を強調した点にある。それによって、ドゥルーズは未完に終わったとも言えるフーコー哲学の全貌を補筆しようとしたのである(この点については、フーコー論を邦訳した宇野邦一氏も触れていることである)。

 これはニーチェも指摘していたことだが、私達の思考は普段こちらか用いる言語によってある程度制約されている。考えるためには言語が必要である。しかしその言語は私達が普段触れる語彙によって自ずと制約されたものだと言える。「傍から見ればおかしいが、その人にとっては常識に見える」という現象はこうして生じる。

 フーコーの哲学はニーチェのこの考え方を受け継いだものだとも言える。私達の思考は、普段私達が用いている言語によって制約されている。ならば問題はこの制約からいかに抜け出すか、いかに一般言語の中でどもるかということになる。プルーストはかつてこう書いた、「美しい書物はどれも一種の外国語によって書かれている」と。一般言語のによって支配され、偏見の内に制約されていると気づいた私達は、いわば母国語の中で外国語を話すようならなければならない。

 しかし一般言語の中でどもり、母国語の中で外国語を話すようになって見えてくるのは、私達が普段「一般的」だと思っているものの裏に潜んでいる「神話」、私達の無意志的/無意識的な価値観である。そして気がつく、「人はいつもこの無意志的/無意識的な価値観によって裁かれ、支配されることで生きているのだ」と。たとえば日常生活の中で、なにかこちらの心を惹き付けてやまないものに、こちらが愛し求めずにいられないものに出会ったとする。しかしそれを前にした時、対象に惹かれると同時に後ろめたさを感じるような場合がある。あたかも対象に向き合うことそれ自体が罪であるかのような感覚だ。この時、私達の意識の裏では、こちらが今日までに触れてきた世界 - 言語によって発生した「神話」が作用している。そしてこちらが愛するものを求めるようとする動きを断罪している。「それをするな」と禁止しようとしている。しかし、神話の作用を被る本人にはそれがわからない。何故ならこの「裁き」は無意志的/無意識的なものだから。よってその人は (何故かは分からないが) 対象を前にした時に恐怖を覚える自分の姿を見出すこととなる。

 この「神話」から抜け出そうとするなら、私達は自ずと神話に背くもの、断罪されるべきもの、裁かれるべきもの、つまりは「一線を超えた」ものにならざるを得ない。法律というものは事件の介入によって更新される。だから去年までは正しかったはずのものが、ある事件の前例が生まれることで正しくなくなる、なんてのはよくある話だ。よって目の前の正義に囚われて生きること自体が間違っていると言えるかもしれない。しかし、そもそも間違っているかもしれない正義が目の前にある理由は、それが私達の常識の中に知らぬ間に潜んでいるからである。他者との世界を生きざるを得ない以上、私達は常識の世界で生きざるを得ない。そして常識の世界で生きざるを得ない以上、私達はこちらを裁く「神話」の現実に直面せざるを得ない。いくら「線をまたぎ、線に挑む」ことを求めても、そこには超えたはずの「一線」の上に回収される自分がいる。決別できない神の裁きがあることに気がつく。しかしそれでも、個人の倫理に生きようとするならば、自分が正しいと信じたものに生きようとするならば(目の前の正義が必ずしも正しいわけではないと気づいた以上、私達は個人の倫理に生きざるを得ない)、私達は再び一線を越えようとしなければならない。線に挑み、線をまたがなければならない。この時、人生は(フィッツジェラルドが書いたように)「崩壊の過程」となる。

 フーコーは「人間の死」を唱えたことでも有名な哲学者である。そしてフーコーにおける「人間の死」の概念は、この場合、ニーチェにおける「超人」の概念と関連づけて考えるべきだ。ニーチェは「神の死」を唱えたことでも有名な哲学者である。しかし彼が「神は死んだ」と宣う時、そこには「人間の死」の意味をも含まれている。神( = これまで人間にとって中心的であった価値観)が死ぬ事で、かつて人間が生きた世界の基準点も死ぬ。よって私達は今、かつてと同じように「人間らしく」生きることが不可能になった。だからニーチェは神の裁きから解き放たれた人間存在を、「超人」の到来を予告する。ただ、それは「人間」の世界を生きざるを得ない者にとっては不可能な話である。だから超人を求めて生きる時、人は自ずとみずからの肢体がバラバラになって引き裂かれるような絶望に襲われざるを得ない。ここにニーチェが自らの哲学を「悲劇的」と称する理由がある。

 ドゥルーズの「内在平面」や「器官なき身体」の概念には、恐らくここに繋がるべきものがある(「器官なき身体」について二、三ヶ月くらい前に何度か言及したことがあるが、恐らく私は多少なりともそれを誤解していた)。私達の生には、今のこちらでは知ることが出来ない大きな可能性が秘められている。しかし、そういったものはいつも常識の皮をひん剥いたところにしか存在しない。そしてもし「それ」に触れようとするならば、人は(リルケも書いたように)「よりはげしい存在に焼かれて滅びる」ことになる。「我々がかろうじてそれに堪え、嘆賞の声をあげるのも、それは美が我々を微塵に砕くことを取るに足らぬこととしているからである。」

 芸術家や哲学者に病的な人間が多い理由はここにある。彼らは生を憎んでいるというよりかは、むしろ生の中にあまりにも大きすぎるものを(自分にとっても他人にとっても大きすぎるもの、少なくとも自分には到底担えないように見えるものを)見出してしまったからである。そして、だからこそ生に病まざるを得なくなってしまったのである。

 時に、器官というものはそれが周囲のものに対していかに機能するかによって定義付けられる。例えば嗅覚という器官は、それが近くのものの匂いを嗅ぎとりかぎ分けるからこそ存在していると言える。言い換えるならば、器官とはそれが周囲のものといかに関係しているかによって定義付けられる。

 よって「器官なき身体」とは、器官( = 正しいとされているもの)から解き放たれた「ありのままの生」を生きることが可能になった身体 - 人間存在のことを指す。しかしシェストフも書いている通り、「発見されたばかりの真実は産まれたての赤ん坊のように醜く見える」ものである。「ありのままの生」の現実。その内には普段こちらが生きている世界の常識を壊し、こちらを脅かし、不安にし、恐怖させるもの、こちらを病ませるものが潜んでいる。だから「器官なき身体」に至ろうとした時、人は (丁度フランシス・ベーコンが絵画に描いたように) 醜く歪み、今ある自分の肉体を引き裂かれ、泣き叫ぶしかなくなる。よって「器官なき身体」の実現とは、むしろ身体( = 自分自身)の消滅だとも言える。

 それでも尚私達は「器官なき身体」を求めなければならない。何故ならそこにこそ純粋な生が、普段は神話によって抑圧されている生の内に潜んでいる可能性が存在するからだ。そしてそれが解き放たれた時、私達は今ある病める身体から脱却して、真の意味で健康になることが、力の純粋状態に至ることが出来る。そういう意味では、あらゆる文化(芸術、哲学、科学)とは一般常識を錯乱させ、私達が健康になるための手段だと言える。しかし今はまだそこには至れない。一般世界で生きる以上、私達はこの生の内に潜むあまりにも大きなものを生きることが出来ない。もしそれを生きようとすれば、私達は自ずと崩壊の過程を辿ることになるだろう。しかしその時、生に内在している新しい可能性が、かつて人を襲ったこともなかった可能性がこちらにやって来るのを感じることとなる。その時、開かれた生はまた新しい可能性を開拓し、私達はこれまでより大きな世界を生きることが可能になる。


 ドビュッシーの音楽を聴いていると、時々その美しさのあまりに驚くことがある。もう何回も聴いているはずの曲が、あたかも初めて聴いた時のような感動を伴って襲いかかる。私が今聴いているのは『版画』の一曲目である。揺れる人混みの中でひとりこの曲を聴いていると、目の前にあるもの全てがスローモーションに動いているような気がしてくる。もう何回も見ているはずの、在り来りな日常風景。それが非常に大きな意味を持った、ドラマチックな瞬間のように思えてくる。

 しかし、それはドビュッシーの音楽の魅力であると同時にその恐ろしさでもある。リルケが『マルテの手記』の中で書いていたことだが、幻想的な音楽というものは「僕を何よりも力強い宇宙の中へ高く引きあげていく」というよりかは「僕を再び元の場所へ連れ返さないで、もっと深いどこかわからぬ混沌とした地底へ突き落としてしまう」ものだ。実生活というものは、私達が思っているほど良いわけでもなければ悪いわけでもない。現実のドラマは私達が考えるように都合よく進行してくれはしない。しかし、ドビュッシーの音楽を聴いていると、現実の全てが自分にとって都合よく進んでくれるかのような気がしてしまう。だからドビュッシーの音楽を聴く度に、私は楽曲が終わるのが不安になる。やがて沈黙が訪れて、現実に帰らなければならないことを突きつけるからだ。

「……しかし、アベローネは一つ彼女だけの慰めを持っていた。ときどき彼女はひとり歌を歌った。その心の中には、強い、激しい音楽があった。天使を男か女かといって問うのは滑稽なことかもしれぬが、僕はやはり天使は男でないかと思う。もし天使が男であるとすれば、彼女の声にはそれと同じ男性的なものがこもっていたと言わばねばならぬ。輝かしい、崇高な、男らしい音楽。僕は子供の頃から音楽に対して酷く不安であった(それは音楽が、僕を何よりも力強い宇宙の中へ高く引きあげていくからというのではない。音楽が僕を再び元の場所へ連れ返さないで、もっと深いどこかわからぬ混沌とした地底へ突き落としてしまうことに気づいたからだ)。しかし、僕は彼女の音楽には耐えることが出来た。この音楽は僕を翼に乗せて、真っ直ぐに上へ上へと、ますます高く連れて行った。ここはいつかもう天国の世界なのだ、と僕は思った。アベローネが僕にまた別の天国を僕に教えてくれようとは、無論僕はその時まだ夢にも考えてはいなかった。」

20/03/09

「……だからシャトレにおいて唯一承認に耐える心理学があるとすれば、それは政治学であるだろう。何故ならわたしは絶えず「我」自身との間に人間的関係を創造し直さなければならないからである。(…… )打ち勝てない病におかされた時、重要なのは病を " 経営すること geret " であり、病に人間的関係を投射していくことである。」

 人は本来、自分が思考するべきものを、思考のモデルを所有していない。ただ何かに出会い、何かが思考を強制する時にのみ、思考は開始される。そういう意味では、知性はいつも遅れてやってる。それは初めから私達に与えられているのではなく、思考に暴力が振るわれた後に、後からやってくるものである。私達の意志とは本来無意志的なもの反動として生じるものなのだ。

 人が会話を交える時、その裏には決して口にはされない暗黙のルールが潜んでいる (会話中の二人がそれに気づいているかどうかは問題ではない) 。一般的な会話とは、互いの間に共通するものをでっちあげ、その共通項に基づいて行われるものだ。しかし、人の意識とは本来閉じた部屋のようなものである。それは決して開かない窓から外の景色を伺うことによってしか他人を知ることが出来ない。

 このような意識の断絶を考慮した上で感じるのは、日常生活に対する違和感である。私達の意識は本来他者へと開かれていない。どんなに似通った人の間でも、一つのものに対して微細なりとも捉え方の違いがある。にも関わらず一般会話は、私達が「同じ人間」であり、あたかもそこに意識の断絶がないかのように振る舞うことを前提として成り立つ。もしそのような一般会話の先に友情があるのだとしたら、友情とは偽のコミュニケーションだとも言える。

 それに対して、恋愛はコミュニケーションを放棄する。共通認識をでっち上げることが求められる以上、友情は意志を行使し、他人を気遣わなければ得られることがないものだと言える。そして共通認識の正しさを確固とするためには、先ず互いを信頼する必要がある。よって友情とは意志と理性、そして信頼の産物である。しかし恋愛は、まさに互いに異なるものを互いの内に見出し、それに惹かれるからこそ生じるものだ。

 だから恋愛は偽のコミュニケーションとしての友情を放棄することから始まる。そして自分とは異なる相手の世界を読み取るために、相手の言動の全てを、その一字一句を暗号化する。そうして相手の裏にある真実を読み取ろうとす。だから恋愛の最中にいる人は、相手を愛すると同時に相手が信じられなくなる。愛が反復される時、破局もまた反復される。相手の言動を解釈すべきものとして捉える以上、私達は相手への信頼を放棄しなければならない。また、その上で相手と関わる以上、相手に対して不安を感じずにはいられない。しかしそれでも相手と関わるのは、相手のうちに自分にはない世界を見出しているからである。だから相手に執着せざるを得ない。友情が意志と理性、そして信頼の産物であるならば、恋愛は執着と疑い、そして不安の産物である。

 恋愛は嘘と密接な関係にある。何故ならこの執着 - 疑い - 不安の連合は、片方だけでなく(恋愛の内にある)両方に言えることだからだ。私達は誰かを愛するほど嘘をつく傾向にある。正直な人とは、それだけ他人に気を使わない人、他者に対して不真面目な人を指す。しかしその他者に執着せざるを得ない以上、そして相手の暗号に合うように行動し、相手の愛を失わないように苦労する以上、何より相手の求める世界がこちらにないことを悟らせないようにする以上、私達は恋人に対して嘘をつかざるを得なくなる。

 しかしこうして生まれた嘘は、解釈を強いる新しい暗号として相手に与えられる。だから恋愛には駆け引きがつきまとう。スパイのように素知らぬ顔で情報収集を目論み、または探偵のように張り込むことで相手の裏をかこうとする。そして嘘 - 暗号の体系の全体像を把握してゆき、相手のうちにある否定できない真実を暴露しようとする。よって恋愛は執着 - 疑い - 不安の産物であると同時に、嘘 - 駆け引き - 暴露を産出するものでもある。やがて相手の嘘が暴かれる時が来る。そして相手の嘘が暴かれることで、相手のうちに自分の理想としている世界が存在しないことがわかった。また駆け引きが終わることで、こちらを惹き付ける相手の暗号を見出されなくなった。嘘が終わる時、愛もまた終わるのである。

 知性は疑いと共に生じる。前述の通り、思考は暴力を振るうものに(こちらに疑いを起こさせるものに)出会った時から加速し始める。時に、ソクラテスは友情よりも愛を大切にしたと言う。プラトンの対話篇の中で、彼は出会う相手に強いられるようにして自らの思考を開始する。しかし、思考には常に苦しみが付きまとう。問題はそこである。

 ロマン主義においては、愛と死が同列に語られることが多い。それは愛には死の印象が絶えず付きまとうからである。恋人の解釈者である以上、私達は願わずとも相手を疑い、暗号化することを強いられる。だから愛には不安がつきまとい、苦しみが付きまとう。そして苦しみはこちらに考えることを強いる。悲しみ、苦しみ、絶望。これら死の印象を想起させるものは、こちらに何らかの運動を強制する。そしてこの強制運動が伴う以上、愛と死は同列に勝たられざるを得ない。

 こうして一つの問題が浮き彫りになる。本来存在しないものを存在するものとして取り扱う以上、友情とは偽のコミュニケーションであることしか出来ない。だから恋愛はコミュニケーションを放棄し、代わりにそこへ嘘と駆け引き、そして暴露を導入する。しかし、それには必ず苦しみが、死の印象が付きまとう。なら、何故わざわざ「その方」へ足を踏み入れる必要があるのだろう。友情は確かに偽のコミュニケーションかもしれない。しかし、ならば偽物でもいいではないか。何故わざわざ苦しむ必要がある。少なくとも、私には不思議でならない。人はよく自分の不幸を嘆く。しかし私には、皆が自分から好んで不幸になろうとしているように見える。人生にドラマが起こることを求めて、なんと多くの人が自ら苦しむことを求めるだろう。

 がしかし、だからと言って私達は友情 - 偽のコミュニケーションに留まることも出来ない。何故ならそれが偽物だということに既に気づいてしまったからだ。人が嘘を憎むのは、その嘘が自分を上手く騙してくれないからである。見え透いた嘘をつく相手に苛つく理由、それは明らかに嘘だと分かっているのに、それでもなお相手がこちらを騙そうとしてくるからである。それでこちらの自尊心も傷つくというわけだ (言い換えるならば、もしそこにこちらを上手く騙してくれる嘘があるならば、人は喜んでそれに騙されたいと願うだろう)。

 嘘が既に暴かれてしまった以上、私達はそれを踏まえた上で生きることしか出来ない。友情が偽のコミュニケーションだと理解した以上、最早その偽物の世界に留まることも出来ない。もしそこに留まろうとするならば、それは知性の停滞を意味するからだ。私達はよく変わらないものに対して憧れを抱く。変わらない愛、変わらない喜び、変わらない理想。しかし、もし人生の中で何も新しいことを学ばず、何の変化もないまま老年に至った人を見かけたなら、私達はその人の感受性の貧しさに軽蔑の混じった驚きを覚えるだろう。

 ここでもう一つの問題が姿を表す。行き過ぎた苦しみ - 死の印象が付きまとうものを避けたいが、しかし偽のコミュニケーションとしての友情に留まることも出来ないのである。

 しかし、何故死の印象を避けたいのか。それは、死の印象には何かこちらを強く誘惑する力が秘められているからだ。死はこちらを誘惑して、私達がもっと不幸になり、もっと苦しむように仕向ける。自分の悲しみを嘆く時、人はそこにある病的な快楽を見出している。そしてこの快楽が病みつきになり、もっと悲しみに溺れたいと願うようになる。死の印象、または死の誘惑。それは私達が停滞し、更に不幸になるよう誘い出す力を持っている。だから恋愛は友情とは別の形で私達に一つの欺瞞を強いる。こちらが停滞し、不幸の中に閉じ込められることを求める愛と死の運動は、友情とは違った形でこちらの生を否定する。そこにあるのはルサンチマンの誘惑、否定の運動、反動的な価値観の勝利である。

 別に苦しむことはいい。プラトンも書いている通り、苦痛と快楽は何処までも相対的なものであり、人は些細なことに苦しむほど些細なことに喜ぶようになる (だから苦しみに鈍くなるほど喜びにも鈍くなる) 。ただ、愛と死はまるでこの世界に苦しみしかないような錯覚を与える。そしてその恐ろしい錯覚の中に (苦しみだけが真実であるかのような錯覚の中に) 私達を閉じ込めようとする。その時、生が本来持つ力は奪われて、友情とは違った形で偽のコミュニケーションが行われるようになる。愛はこちらに思考を強いて、相手の暗号を読み取るための知性の発達をこちらに促す。しかし知性の発達は、時にそれだけこちらを思い込みの激しい性格へと変える(「色情狂は、愛されているという妄想的幻覚としてではなく、むしろ愛の対象の妄想的追跡として出現する」)。行き過ぎた知性の発達は、むしろ知性の退廃へと繋がる。外との出会いが私達の内側を変える。よって愛が時にこちらの生の飛躍を可能にするのは事実である。しかし、生の飛躍のために見出された愛が、むしろこちらを死に追いやっていくのだとしたら、それは本末転倒ではないか。

 友情と恋愛。この二つの抱える問題をいかにして解決することが出来るのだろう。そんな事を、先日読んだドゥルーズプルースト論をきっかけに考えるようになった。そして、それが最近の主な関心事の一つである。


 文筆家とは別の自分を演じる者のことである。文章を書く時、人は多少なりとも「他人にこういう印象を与えたい」という思惑を抱いている。それはどんな人にも言えることで、無論私も例外ではない。私は、こうして文章を書く時、自分のことをちょっとかっこいい人間だと思いながら書いている。しかし言い換えるならば、それは「実際の自分は文面上ほどかっこいい人間ではない」ということでもある。

 しかし、かっこつけている割に読み返すとよく誤字脱字をしているのがわかる。だから自分の書いた文章を読むと恥じらいを感じることが多い。モデルやアイドルができる人は本当にすごいと思う。あんな風に舞台上でキラキラすることなど、私には出来ない。文面上と同じように、きっとどこかでボロを出してしまうだろう。今日までの人生の中で、私はいつも自分以外の誰かになることに憧れていた。今だってそうだ。だから純粋にああいう人達が羨ましい。

 音楽の本質はその誘惑的な力にある。優れた音楽は、聴き手に感じていない感情までもを感じさせる。失恋ソングをよく聴く人は、きっとそんなに沢山の失恋を経験しているわけではない。私はよくマーラーの音楽を聴きながら「ここには俺の人生が詰まっている」と感じる。しかし、実際はそんな事はない。ただ悲しげな音の響きが、実際になかったことがあたかもあったかのように勘違いさせているだけだ。そう、優れた音楽は、常に聴き手に存在しない過去を捏造させるのである。

 だから「音楽を愛する者にとって、音楽は常に人生のBGMである」なんて理屈は間違っている。実際には、人は音楽を通してかつて自分になかった感情を発見するのである。音楽はいつもこちらの人生を塗り替えるよう作用する。そして経験してないことまでもを経験したかのように錯覚させる。そして思うに、それこそが音楽の偉大さなのだ。音楽とは本質的に聴き手を魅了し、誘惑することで、誤解させ、錯覚させ、勘違いさせる力を持つ。そして存在しないものがあたかも存在しているかのように思い込ませるのである。

 カート・コバーンの歌声を聴いて、どれほど多くの若者が「自分にはこの人の苦しみがわかる、この人は自分と同じように苦しんでいる」と感じたことだろう。しかし実際には、カート・コバーンと同じ苦しみを経験した人など何処にもいない。ただ聴き手が勝手にそう誤解しているだけである。自分から遥か遠く離れているはずの存在が、あたかも自分のすぐ側にいるかのように錯覚する。自分にないものが実際にはあるのではないかと勘違いしてしまう。この偽なるものの力能、誰かを騙し誰かを誤解させる能力こそが、音楽の持つ最大の魅力である。

 音楽家が他のどの芸術家よりも偶像(アイドル)性を秘めている理由もまたそこにある。ベートーヴェンの死後、誰一人としてベートーヴェンに会ったとこがないのに、なんと多くの人がベートーヴェンの人柄について語っていることか (しかも実際の知人であったかのように)。ショパンの音楽を聴いた時、どれほど多くの人が存在しない恋愛の思い出に対する感傷を抱くことか。しかも実際に恋愛している時にはそのような感傷など一度も抱いたことがなかったのに(おまけにショパンはロマン派の音楽に否定的であった)。

 思い込ませるもの、誤解させるもの、錯覚させるもの。それがこの世界を突き動かしているのだとしたら、どうだろう。人間の知性、その最も偉大な力能は、どれだけ巧みな嘘を発明できるかによって測定される。もし本当にそうなのだとしたら、それは驚くべきことではないか。

 今日までの人生の中で、私はいつも音楽を愛してきた。美しい音楽を聴いていると、自分が自分の人生の主役であるかのような気がしてくる。一瞬に永遠を感じ、永遠を一瞬に感じる。本当に美しい瞬間に出会うと、目に映るもの全てがスローモーションに見えてくる。無論、これが錯覚であることくらいわかっている。しかし、そうはわかっていても、尚こちらを錯覚させるだけの力が音楽の内にはある。ああ、音楽。私を喜ばせ、また私を苦しませる美しい悪魔。


「確かなものなど何処にもない」という、この世で唯一確かな事実。このパラドックスには妙に笑えるところがある。クンデラも書いていたが、「この世界をひっくり返すことも、作り直すことも、この世界の不幸な成り行きをとめることもできない」と気づいた時、私達に可能な抵抗は一つしかない。つまり「この世界を真面目に受けとらない」ということだ。

 ここにユーモアが誕生する。ユーモア、または笑いの笑える不在。笑いにもいくつかの種類があるが、その内の一つとして「不条理に対する笑い」が挙げられる。ドゥルーズニーチェについて語る時、カフカの『審判』を本人が朗読した時のことに触れたことがある。「カフカが『審判』を朗読した時に聴衆がどんなに大笑いしたかということを、マックス・ブロートも語っています。」不条理なもの、意味がわからないもの、理不尽なもの、不気味なもの。これら笑える要素のないものを前にした時、人はむしろ笑えないことに笑えてくることがある。

「スキゾな笑いあるいは革命的歓喜。偉大な書物から出てくるのはこれであって、私達のみみっちいナルシズムからくる不安感やら、私達の罪悪感から来る恐怖心などではないのです。」

 私はサトルという日本のラッパーの大ファンなのだが、何故それが好きかとなれば、とにかく歌詞が下品だからだ。聴いている間はずっと笑いが止まらない。同様の現象は『明日、私は誰かのカノジョ』を読んでいる時にも起こる。愛に飢えた男女が擬似恋愛のビジネスに踊らされている。その様は、冷静に考えれば笑えないかもしれない。しかしだからこそ笑えるのである。Twitter上に『HSPナオミちゃん』という漫画をほぼ毎日載せているユーザーがいる。私はその更新を毎日楽しみにしているのだが、それを読んでいる時にも同様の笑いに襲われる。サトル、明日カノ、HSPナオミちゃん。これら三者に共通して言えるのは、どれも(言葉を選ばずに言えば)程度の低い現実を題材にしているということだ。だからだろうか。他の人にオススメしても、皆が皆私と同じように笑ってはくれない。しかし個人的には、この笑えなさがむしろ笑えてくるのである。

ニーチェはしばしば彼にとってむかつくような、げっとするような、吐き気を催させるようなものを目の当たりにすることがあります。ところがなんと、ニーチェと来たらそういった物を前に笑いだし、可能とあれば楽しんでしまうのです。彼はこう語っています。もうひとふんばり、まだ大していやでもない。あるいは、いやだって物事は素晴らしい、そいつは見事、傑作、有毒の花だ、最後には「人間は面白くなり始めた」。」


 悲しみは喜びよりも一層真実に近い。シェストフも書いている通り、「発見されたばかりの真実は産まれたての赤ん坊のように醜く見える」ものである。希望が苦痛の反動として、実在から目をそらすように見出されるのに対して、嘆きは実在するものを目の前にした時に生じる。だからだろうか。人はよく、否定を肯定よりも先にあるものとして考えたがる。

 実際、現実世界よりも可能性の世界の方が遥かに大きい。秩序は無秩序より規模の小さなものだと言える。そして何より、存在するものは非存在 - 虚無よりも多くのものを含んでいない。だから、ある観点から見れば確かにこの考えは正しいと言える。しかし、別の観点から見れば、それは間違っている。何故なら、私達は先ず実在するものを見てから可能性の世界を考えるからである。

 よって可能性の方が現実よりも大きいなものとして考えることは、それ自体現実の生に対する復讐ではないか。可能性が大きく捉えられるのは、実際のものを否定するためだと言えるからだ。否定を肯定に先行させることが間違っている理由はそこにある。肯定( - 実在)が先にあり、次に否定( - 観念)がやって来ることを考慮しなければならない。そしてここから出発しなければならない。確かに、発見されたばかりの真実は産まれたての赤ん坊のように醜いかもしれない。悲しみが喜びより一層真実に近いのも事実だろう。しかしそのために悲しみを喜びより先行させたならば、むしろ真実を歪めることになるのではないか。


 「人生とは、無論、崩壊の過程である。」フィッツジェラルドはかつてそう書いたという。ならば、いかにして崩壊するかが問題となる。

 ベートーヴェン交響曲第九番は悲劇的な響きと共に始まる。さながら断頭台からギロチンの落ちるかのような轟音が私達を襲う。そして作品は台風のように蠢きながら進行を続ける。時には激しく、また時には穏やかに。しかし最終楽章において、突如テノールがこう歌い始める。「友よ、このような響きではなくて!もっと心地よい、喜びに満ちた歌を歌おうではないか」

 そこにはこれまでの悲壮な響きと決別する意図が込められている。そしてテノールが上の詩を歌い終えた時、次の瞬間にはあの有名な合唱が、歓喜の歌が始まるのである。

 私はずっと、このような軽やかな転身に憧れてきた。飛躍、跳躍、転身。軽やかな喜び、力の純粋状態への憧れ。