20/11/23

 ドゥルーズには三つのベルクソン論がある。一つは一九六六年に発表された『ベルクソニズム』で、あとの二つは彼の死後発表された『無人島』に収録されている短い論文だ。どちらも一九五〇年代に発表されている。で、その二つを読んだ後に上の『ベルクソニズム』を読むと、そうでなかった頃に比べて遥かに違う読み方が出来ることに気がつく。当時は見えてこなかったものが、今は鮮明に、はっきりと浮かび上がってくるのである。

 ドゥルーズの『ニーチェと哲学』を読んだ時、私は痛く感動したのを覚えている。本当に、目からうろこが落ちる程に感動した。それも、私が元々ニーチェが好きで、よく読んでいたというのがあるだろう。このように、この世界には、なにか別のものを踏まえなければ見えてこないものというのがある。丁度ミステリー小説で行われる謎解きのように、今現在には生きられない時間があって、その余白を埋めるためには、他の、別のところにある伏線を回収しなければならないのである。


 悪とは何か。あらゆる悪は社会的なものである。ある人の邪悪さとは、かつて自分が苦しめられたという意識に基づかなければ発生しない。よって、純粋な悪、無私な悪とは存在せず、悪事を働きたいという感情は、常に自分の過去の苦しみの清算であり、償いなのだ。

 悪とは一つの復讐の形である。周知の通り、人は自分が与えられたと感じたことのあるものだけを他人に与える。無差別殺人を行う者は、かつて無実の自分が苦しめられたと感じるからこそ、無差別に、何の罪もない人を殺したいと願うわけだ。

 こうして悪の本性が見えてくる。悪の目的、それは他人の喜びを阻止することにある。人はよく、他人の内にあったかもしれない自分の姿を見出す。「もし俺があんな風に苦しまなければ、俺もアイツのように……」といったふうに。だから悪は、他人の喜びの実現の邪魔をする。もし自分があのような苦しみを負っていなかったら、自分も目の前の人と同じような、平穏な生活が送れていたはずだ。通り魔や無差別殺人の類は、おそらくこのようにして発生するに違いない (言い換えるならば、もし純粋に殺人それ自体に喜びを見出している人がいたならば、その人は悪でないのである)。

 さて、ここから少し大袈裟な話になるが、私には、昔から「よい人間になりたい」という理想がある。子供の頃、自分の周りには尊敬できる大人が一人としていなかった。とりわけ、私が最も助けを必要としていた時、私を助けてくれる人など誰もいなかったのである。

 では、私が「よい人間になりたい」と思うのは何故か。なるほど、確かに私の周りには尊敬できる大人がいなかった。しかし、故人や遠い異郷の地の果てに、私は自分の尊敬出来る対象を見出した。無論、実際の面識はないので、敬愛した人々の実物が私の憧れていた通りだとは思わない。しかし、問題はそこではない。こうして、私は「よい人間」を知ることが出来たのである。

 心の定まらない思春期の日々の中で、人は自由よりかはむしろ服従を求める。自分を導いてくれる存在や、自分が耳を傾けるべきものを得ることで、不安定な自己を安定させたいと願うのである。そして、それが見いだせなくなれば、人は邪悪になり、堕落することを求め始める。だから、他人に尊敬されたいわけではないが、他人にいい影響を与えられる人間になりたいとは常々思っている。綺麗事に聞こえるかもしれないが、一応本心である。

 

 私にはまともな学歴がない。かつてはそれに悩んだこともある。というのも、例えば過去の文豪なり何なりの多くは、それなりにいい学歴の持ち主だからだ。恥ずかしいから直接的には言わないが、私は将来、書くことを生計の一つとしたいと思っている。だから過去の成功者達が自分と違うことに結構な戸惑いを感じていた。

 そんな私のコンプレックスを解決してくれたのがリルケである。彼は手紙に次のような内容を書いたことがある、「自分にはまともな学歴がない。しかし教養というものは、ある程度の経験を積まないと理解できない場合がある。だから自分はこれでよかったと思っている」と。苦節を歩んできたからこそ得られた個性がある、彼はそう書いているのである。

 これには随分慰められた。「ああ、こんな風に生きてもいいんだ」とか、「こういう人間がいてもいいんだ」と、私はよくそう思ったものである。同じように、なにか一般から外れることで悩んでいる人というのは多いように思われる。そのような人に対して、私もまた「ああ、こういう人間がいてもいいんだ」という安心を与えたい。いつかそうあることが出来たらと思っている。無論、今はまだ絵空事なのだが……。

 ただ、こうして今、私なりの「よい人間」の定義が見えてきた。一般性とは一つのモデルである。だから一般社会に生きる人は、常にこのモデルに自分を寄せながら生きることとなる。しかし、辺りを見渡せばわかるが、一般性のモデルを体現したような人間など何処にもいない。『サザエさん』や『クレヨンしんちゃん』のような家庭は何処にもないのである。そして、どんな家庭も、必ず何処かしらの欠点を抱えている。大抵の親は子供の頃から抜け出せないまま親になるし、子供は子供で、成長するにつれて親の期待にそえなくなる。しかし一般性は、モデルは常に社会のうちに存在している。だからそれと自分を比較して、自分がおかしいことに悩んだりする人もいるだろう。

 だから「よい人間」とは、思うに、このような矛盾を克服し、自分が既に一つのモデルとして存在しているような人なのだ。一般性と自己との間で揺れる人達に、「こういう人がいてもいいんだ」という安心感を与える存在、「自分は変じゃない」「自分はひとりじゃない」と思わせる存在、そのような者こそ「よい人間」なのである。そして、そのような人は、既に自分だけに固有な性質を生き、主体化し、他の誰でもない個人の生を生きているのである。


 人は不幸に憧れを抱く。私達の性格は皆、私達自身の手で編み出されたというよりかは、むしろ私達が今日までに直面してきた出来事によって形成されているからだ。そして、人の性格を以前と違うものにするような出来事は、たいていの場合、幸福よりかは不幸なものばかりなのである。変化には喪失が付きまとう。ドストエフスキーの『白痴』などはそのいい例だ。彼は一つの出来事を描くと、次に数カ月後のことを描いていたりする。そして、描かれる出来事は幸福なものよりかは不幸なものの方が多いのである。

 不幸は人を特別にする。不幸は人の生活を特異的なものへと変化させる。映画や小説を開くと、大体のロマンチックな物語が、過去に傷を負った人達が出会うことによって始まることに気がつく。ジッドの有名な『狭き門』を例にとろう。幼い頃から付き合いのあるアリサとジェロームが主役の二人である。ジェロームは既に父親に先立たれて、彼は母子家庭で育てられている。そして、アリサもまた、幼少の日に自分の母が愛人と浮気している現場を見てしまい、やがてその母親は愛人と駆け落ちしてしまう。それに傷つき、ひとり泣いているアリサの姿を見て、ジェロームは幼いながらに彼女のために生きることを決意する。彼女のためならどんな苦難も耐えてみせる。彼は彼女を庇うように抱きしめた。そしてこう考え始めるのである。「私は全心から神に訴え、我が一生の目的は、このアリサを恐怖、不幸、生活から守ることに他ならない思い、自ら進んでそれに当たろうとした……」

 実に美しいストーリー展開である。孤独な、寄る辺のない二人の子供が、お互いのために生きようとする。恐らく、この小説に感動した人の多くは、感動すると同時に彼ら二人の置かれたその特異な環境(不幸な、しかし美しい環境)に憧れを抱いているに違いない。おまけに、『狭き門』を含むジッドの小説のいくつかは、実際に彼と彼の妻がモデルになっている。こうして小説の外にあるものが、小説の内を美しくする。また、彼の小説は主人公の一人称で語られることが多い (「僕は、私はこうで、その時彼女はこうだった……」といったふうに) 。結果として、物語全体に漂う君- 僕-世界な価値観がいっそう強くなる。

 人は何も欲しないよりかは、むしろ不幸を欲する。何もないよりも、何かあった方が遥かにマシに見えるものである。


 一人でいる時、よく自殺する妄想をする。正確には、人といる時にもすることがある。とは言うものの、別に本当に自殺したい訳では無い。実際に拳銃などを渡されたなら、私は怖くて仕方ないだろう。ただ、いつからかは忘れたが、私はよく自殺の妄想をするようになった。首をくくる、今まさに目の前を通り過ぎる電車に身を投げる、拳銃で頭を撃ち抜く……など。

 昔は自分のこういった所を大袈裟にとらえ、悩んでいた気がする。しかし、人はどんな事にも慣れていくものである。気がつけば、私はこの習慣を特に何とも思わなくなっていた。妄想の頻度は日によって違う。ある時期は沢山するが、またある時期は殆どしない。最近はと言えば、少し前よりかは自殺の妄想の頻度が増えた。

 今はただ、嵐が過ぎるのを待つだけである。

 恐らく、私は人より鈍感なのだろう。昔は、見たくないものまで見えてしまうような気がして、見えるものをわざと見えないふりで済ませることが多かった。しかし、気づかないふりを続けるにつれて、私は本当に気づかなくなってしまったのである。かつて見えてたものが見えなくなってしまった。仮面を被り続けるにつれて、仮面自体が本体になってしまった (しかしもしかすると、元々私は何も見えていなかったのかもしれない) 。やはり恐らく、私は人より感が鈍いのだろう。

 ニーチェは確か次のようなことを書いていた、「生に苛まれる者にとって、自殺を考えることは一種の慰めである」と。これと似たような記述はスタンダールの小説にも出てくる(悩める主人公が、自殺について思いを巡らすことで気を和らげる……)。ニーチェスタンダールを愛読していたから、恐らくここから取ったと思われる。そして、これら二つの例からわかるように、私は本当に死にたいというよりかは、むしろ慰めのために(生きるために)自殺を考えているということになる。ならそう変な話ではないはずだ。

 まあ、いつかは治るだろうと楽観している。恐らく、私はまだ精神的な安定を得ていない、病んだ人間なのだろう。または、思春期の影から未だ抜け出せないまま大人になってしまったのかもしれない。しかし、いつまでもこの状態が続くとは思っていない。やがて嵐の夜が明け、再び晴天の昇る朝が訪れる。私はただ、その日が来るのを心待ちにしているのである。きっと老境に到れば、今の自分を懐かしく思うに違いない。そう、きっと多少の恥じらいを感じながら。

 「老年を懐かしむ」とは、これもリルケの表現だが、今の私はまさにその気分である。いつかこの時を懐かしく思う時が来る。そんな未来のことを、私は今から懐かしく思うのである。


 美しい映画を観ていると、一時間二時間の内容が、まるで十分二十分の出来事であるかのような気がしてくる。または十分二十分のことが、まるで一時間二時間のことのように思われてくる。

 美しい時間は、常に普段の時間軸を狂わせる。一瞬が永遠のように思われて、また永遠が一瞬のことのように思われる。一秒過ぎたと思えば一生が過ぎて、また過ぎゆく一生はこの一秒に似ている気がする。

 同様のことは、マーラー交響曲を聴いている時にも感ぜられる。 数十分一時間のことが、まるで一分一秒のことのように思われる。目の前にある全てが止まって見え、私はまるで、静止した世界を歩いているかのような気さえする。まさに一瞬に永遠を感じ、永遠に一瞬を感じる時間だ。何だか胡散臭い、ミステリアスな話に聞こえるかもしれないが、私は至って真面目だ。一瞬に永遠を感じ、永遠に一瞬を感じる。永遠は夢に似ているのである。

 まあ、それだけの話なのだが、この感覚を誰かに理解してほしい気がして、このようなことを書いてみた。どうだろう、君はわかってくれるだろうか。

 

 

 

20/11/20

 夜、薄明かりの部屋の中。私は何故自分がこうなのかを考えていた。

 私の性格には面倒くさがりなところがある。床の上には本とか、脱ぎっぱなしの靴下とかが沢山散らかっている。ベッドの下など本当に酷い。私には、寝る前にベッドの上に読みたい本を山積みにする習慣がある。いつも念頭に置いているから、また目が覚めてすぐにでも手の届く場所にあって欲しいからである。しかし寝ている間にそれらを蹴っ飛ばしてしまう (私は寝相が悪いのである)。結局、翌朝には読みたい本をベッドの下で見つけることも少なくない。そんな時は本を探すのがとても厄介になる。ベッドの下に手を突っ込んで、やたらめったらと暗闇で手を泳がせる。やっと読みたい本が見つかる。するとその頃には気分がやや疲れている。

 何度も片付けなきゃと思いながらも、結局今日まで部屋の片付けをして来なかった。するのが面倒だからだ。無論、今日もしていない。自分のよくないところだと自覚はしているが、何がする気にもなれない。そんな意欲もわかないのである。

 では、何故意欲が湧かないのか。それは「こんな事をしても何になるんだ」という気持ちが心のどこかにあるからかもしれない。部屋を片付けで、生活がしやすくなる。で、それが一体何になるんだろう。突拍子もないように聞こえるかもしれないが、私は本気でそう考えているのである。これは、言い換えれば「一体自分は何のために頑張っているのだろう」または「一体自分は何のために頑張ればいいのだろう」という事でもある。

 こんな私にも、一応真面目に取り組んでいることはある。しかしそれ以外については恐ろしくだらしなく、不真面目である。私は無感動な人間だ。何にも熱くなることが出来ない。何のために熱くなればいいかわからないからだ。

 先程の話に戻ろう。「一体自分は何のために頑張ればいいのか」、これを更に言い換えるならば、「一体自分は何のために生きればいいのか」となる。人は生きる理由を求める。理由でも見出さなければ、生活などやっていけないからだ。そして、理由が見いだせないまま生きる人間には二通りの種類が存在する。つまり、そもそも「理由」なきことに悩んでいない人か、または「理由」がないまま自分の孤独や虚しさに苛まれている人か。また、突き詰めて考えるならば、「理由」の不在に悩まない人もまた、二通りに分けることが出来る。つまり、そもそもそんなことで悩まない程に生を楽しんでいるか、それとも他の感覚で自分の悩みをなんとか誤魔化しているか。

 大抵の人は、自分の心の騒音(孤独や寂しさ)を別の騒音でかき消している。たとえばある人は、とにかく誰かと一緒にいたり、または直接的な快楽を求めたりする。世の中が悲観的になると、薬物とセックスとか、そういった直接的な快楽に溺れることを求める人が増え始める。真面目にやっても報われない、だから真面目の反対にあるものを理想化する、というわけだ。で、最近は悲観的な人が増えた気がする。そして、そのような人の大半は、とにかく他人と一緒にいることを求めたり、酒や何かにすがろうとするのである。

 またはSNS。現代のSNSは、昔のラジオやテレビと同じ役割を果たしていると言える。つまり、ただひたすらに情報を垂れ流すことで、沈黙をかき消すのである。沈黙は孤独な印象を私達に与える。そして孤独は死に近い。だから沈黙は人の心に不安な喧騒を起こすことに繋がる。そしてそれをかけ消すように、とにかく何らかの情報を垂れ流す。で、その垂れ流しに触れることで、または自分が情報を垂れ流す側になることで、何とか気を紛らわせようとしているのである。

 で、私も上の二つの例に当てはまらないわけではない。現代は孤独と疎外の時代である。 私達は暗い時代を生きている。よく、何をするでもないのに、ただただぼんやりスマートフォンの画面を眺めて時間を過ごしてしまう。で、何もしないまま一時間が過ぎている。無駄な時間を過ごしているのはわかっているが、そうでもしないと気が紛れないのである。

 今日まで、なるべく誠実さを大事にして生きてきたつもりだ。しかし時折、私には自分の傲慢さと誠実さの区別がつかなくなることがある。そんな時に、よく思うのである。「一体理想と現実の何処で折り合いをつければいいのだろうか」と。ニーチェベルクソンドゥルーズ。三人とも待つことの大切さを問いた哲学者である。なるほど、待つことは大切だ。やがて今の苦しみが報われる日が来る。私はそう信じている。しかし、この苦しみに耐えるためには、一体どんな忍耐をすればいいのか。一体いつまで私は待てばいいのか。そもそも待つ必要があるのか。何故他の人が容易に手に入るものが、自分には手に入らないのか。それは自分が間違っているからではないか。なら、自分は一体何処で理想と現実に折り合いをつければいいのか……など。そんな答えの出ない問いに考えを巡らせてしまう。

 こうして焦りが募っていく。他の人達だけ光のある世界に生きていて、まるで自分だけが暗闇に取り残されているかのような気分だ。しかし結局何もしない。何故か。何もする気が起きないからだ。したところで一体何になる?どうせ何も変わらない。今の生活がマシになった所で、どうせまた虚しさとか寂しさに苛まれる。何故か。それは他ならない、自分の生きる理由がわからないからだ。何のために頑張ればいいのかがわからないからだ。

 「自分のために生きればいいのでは」という意見も出てくるだろう。否、今日まで自分はそうしてきたつもりなのだ。誠実に生きるということは、自分勝手に生きるということだからだ。他人に誠実であるためには、先ず自分に誠実であることが必要だ 。そして、自分に誠実である限り、人は自分のためにしか生きられないのである。しかし、何処かで自分のためにいきることをやめなければ、そもそも他人に向き合うことも出来ないのではないか。

 私は今日まで自分のために生きてきた。結果として分かったことがある。これではまるで一人芝居だ。私には耐えられん。何処まで行っても、舞台の上には自分以外の誰もいないのである。そうだ、耐えられん。

 「耐えられん」、そうは書いたものの、今日までにもう何度もそう感じてきたかはわからない。そして、何度も「耐えられん」と感じながらも、 結局今日まで生きてしまった。要するに、私は自分の独り舞台に耐えられたのである。笑える話だ。あんなにも「耐えられん」とか嘆いていたくせに。

 結局、自分はがさつな人間なのだろう。他の人なら耐えられなかったかもしれないが、私はがさつで無神経な人間だから、自分の孤独に耐えられてしまったのである。もしくは、ただ自分の感情を誤魔化すのが得意なだけかのかもしれない。「耐えられん」と思っても、なんだかんだ耐えてしまう。そのためにも色々なことをして気を紛らわす。もとい、目を逸らすと言い換えてもいい。がさつで無神経で、その上都合のいい人間だから、自分に不都合なことはすっかり忘れてしまう。そんな自分を哀れだと思うが、同時に滑稽だとも思う。モーパッサンの短編にありそうな話だ。実際、私はこれを笑いながら書いている。我ながら愉快である。

 そのつもりはなくとも、自虐と自嘲をやめることができない。だからだろうか、他人に真正面から向き合えない理由は。もしかしたら、私は自分が嫌いなのかもしれない。自分としては自己愛の強い人間だと思うのだが、どうなのだろう。


 病気とは何か。たとえば体温は、それ自体では病気とは見なされず、(当たり前だが)誰にでも備わっているものである。しかしそれは、平均より高くなったり低くなったりした時に病気として認知される。精神的な病も、恐らくこれと同じである。気分が落ち込むことは、確かに誰にだってあるかもしれない。ただそれが頻繁だったり、または常時だったり、もしくは落ち込み方が異様だったりした時、それはうつ病として見なされる。その反対の場合も同様で、気分の落ち込みが一切欠如した人間は、最早気分が高揚することもないため、それは一種の病気なのである。精神病患者とは、このように、ただ人が元々持っている性質が異常なまでに肥大化した(または縮小化した)人間を指すのだと言っていい。丁度体温が異常に高くなった時、その人が病人として見なされるのと同様に。もとい、そういう意味では、人間は本質的に病への意志を内に秘めた存在なのだと言っていいのではないか。

 関心を持っていることは沢山ある。だから他人に無関心というわけではない。ただ、私は自分の関心事を表出させるのが苦手なのだ。結果として、人によくあらぬ誤解を与えることがある(他人に興味が無いとか、そういう類のものだ)。実際、どういうわけはわからないが、私は他人に自分の本心を知られるのをとても恥ずかしいと思う傾向にある。だから好んで他人に誤解されたいと願う。そういう意味では、このような結果になるのは当然なのかもしれない。

 愛というものは共感から生まれるのではないかと思われる。一目惚れにしてもそれは同じで、相手の見た目が別の印象(「きっとあの人はこうなんだ」という印象)を想起させるからこそ、それは生じる (たとえば、こけた頬を見れば人は内気さを想起するし、褐色の肌は相手の快活さを想起させる) 。

 異性には母性というよりかは姉妹のような友情を求める傾向にある。愛する異性に対して、先ず何よりも自分の一番の親友であり、家族のようであることを求めてきた。私は愛されたいと言うよりかは信頼されたいのである。それから、出来れば次の傾向を持っていると好ましい。つまり、私と同じで、人が嫌いであって欲しいのだ。私には友人が沢山いる。そして、私の友は皆私を愛してくれているし、私もまた友に対しては忠実でありたいを願っている。しかし、そうでありながら、同時に心のどこかで人を嫌悪しているのである。矛盾しているように見えるかもしれないが、実際そうなのだ。私は人が嫌いだし、人と関わるのも好きではない。

 こちらに知性を感じさせる人とは、何らかの形で恥を知っている人である。そして生きていく上で、人は何らかの形で恥をかかざるを得ない。だからだろうか、かつての恥を忘れて何者かであるかのように振舞っている人には、何か鼻につくものがある。自分以外の何かを演じているように見える。まさに「恥知らず」に見える。だから矛盾を感じたり、違和感を覚えたりせざるを得ない。少なくとも私はそうだ。言い換えるならば、何らかの形で恥を知っている人は、こちらに美しい印象を、知的な印象を与える。恥を知るとは何か。それは自分の弱さを知ることだ。

 私の悪い所として、知ったかぶりをよくしてしまうところがある。見栄を張るつもりはないのだが、話の流れの中で、ついつい「ああ、そうだよね」と頷いてしまうことがある。自分でも、何故そんなことをしてしまうのかを考えてみた。で、虚栄心からしてしまう事も勿論あるが、何より場の空気を壊したくないからというのがあるのかもしれないというのが思い浮かんだ。相手が、または周りが楽しそうにしながら、何か一つのことを前提として話している。で、自分がここで「知らない」と言えば、相手の話の腰を折ることとなる。それは、何だか気まずいきがする。だから知ったかぶりをしてしまう。そんな事もあるのではないか。


 散歩の際によく通る公園に向かうと、木々は皆丸裸になり、一面は落ち葉で満たされていた。紅葉の季節が終わりつつある今、私達は冬を迎えようとしている。日によっては本当に寒いが、例年に比べ暖かい日が続いているように思われる。おかげで過ごしやすい。落葉を足で踏むのを楽しみながら、少し暑いコートを羽織りつつ、私はそんな事を考えていた。それから次のことに思いを馳せる。「ああ、去年の冬からもう一年が経つのか」と。長かったような気もするし、短かったような気もする。色々なことを体験したし、変わった部分も多いかもしれないが、結局自分は何も変わっていないのかもしれない。去年の今頃、私は自分がどうすればいいのかで悩んでいた。そして今年の今、私は未だに自分がどうすればいいのかがわからないでいる。

 友よ。毎日、君のことを考えている。君は私のことを覚えているだろうか。覚えていてくれたら嬉しいのだが。

 湿った風が吹いている。既に冬を前にしているのに、今日はどこが夏の終わりを思わせるような一日であった。

 

直観力批判 / 潜在性とドラマ化の問題

 

 批判の定義

 批判とは何か。先ず私達は、批判という行為を非難や否定から明確に区別したものとして定義付けなければならない。何故なら、非難や否定といった態度には、常に相手への頭ごなしな(偏屈めいた)拒絶が伴うからだ。それに対して批判とは、対象の欠点を指摘しながらも、それを受け入れたものだと言える。つまり、批判とは一つの拒絶であると同時に、その継承でもあるわけだ。対象の改善すべき点を指摘し、それをどう乗り越えるかを考えるということ。それが批判という行為の役割である。


 内省の作用とその代償 / 哲学の役割について

 批判についての定義づけをした今、次に私達は直観についての定義づけをするべきだろう。直観とは何か。たとえばベルクソンは、直観を明確な哲学的な方法として取り扱ったが、それは何故なのか。

 人の思考は記憶と感覚との関係から切り離して語ることが出来ない。たとえば何かについて考えを巡らせる時、私達は先ず何か外的なものからの触発を受ける(それを感じ取る)。触発された感覚はそれ相応の記憶を呼び起こし、その記憶に基づいて私達の思考は始まる。よって、ただ過去の記憶によく目を向けるもの(内省的なもの)だけが思慮深さを獲得することが出来るとも言えるだろう。その一方で、記憶への固執は、感覚が絶えず生み出す誤謬に目を向けまいとするのに繋がる。絶えず更新される感覚の触発は、自分が過去に「これだ!」と思ったものからズレた事実を私達に提示するからだ。

 さて、ここでベルクソンの話に戻るが、彼は哲学的な方法の第一として直観を取り上げた。これを変奏するなれば、哲学の役割とは、まさに直観を磨くというその点にある。鋭く、瑞々しいまでに繊細な感性だけが、ただ物事を上手くとらえ、記憶を豊かに保ち、思考を明晰に働かせることが出来る。反省を知らなければ、人はいつまでも同じ所で頭をぶつけ続けることになる。しかし、反省ばかりに捕らわれていては、そもそも人は自分が何処にいるのかも知ることが出来ない。ただ直観だけが、感性だけがこの袋小路から抜け出す手がかりを与えてくれる。しかし、それにしても感覚はあまりにも漠然とした、曖昧模糊なものとして私達に現前している。だからそれを批判的に捉え、直観をより正すことが求められているのである。


 潜在的なものと現働的なもの / 人間の妄想力について

 では、直観を正すために私達がなすべきこととは何か。それは、先ず直観が何処から発生するかを考えるべきだと言えよう。直観とは私達の記憶と思考の傾向である。今現在の私達を捉えている考え、今現在の私達が主に大事としている過去、それらが私達の直観の傾向を形作っている。では、この記憶と思考の関係性について、次に考えを巡らせてみようと思う。

 記憶には二種類があると言える。つまり、潜在的なものと現働的なものの二つである。さて、原因について考える時、人はいつも大きな誤解をしていると言える。つまり、原因は常に後で見出されるものであって、結果が常に先にあるのだ。人はよく、なにかのせいで今があるのだと考えがちだが、それは誤りなのだ。先ず結果としての現在があり、次に解釈としての過去 = 原因が見出される。原因は先行するのではない。それは出来上がったものの後から見出されたものなのだ。その一方で、現在とは、やはり私達が今日までに生きた時間の経過の先にあることは否めない。こうして、記憶の二種類の意味合いが掴めてきた。つまり、そもそも潜在的な(理解の出来ない)記憶が存在し、それが現在の意識に表出する(現働化する)ことで、私達が自分だと思っているものが発生する。そして、この表出された自我は、実際通りであるわけではなく、ただ潜在性がそう解釈されたものに過ぎないのである。

  こうして見えてくるのは、私達の思考のそもそもに備わっている妄想的な本性である。人は常に、一つの印象から別の印象を想起する。たとえば、足元が見えない状態で、目先にモクモクと漂う煙が見えたとすれば、誰しも自分の見えない足元で何か燃えていると思い込み、焦り戸惑うだろうと思われる。この時、私達は見えているものから、実際に見えないものまでをも見たつもりになっている。一年は三百六十五日あるから、私達は誰しも数千数万日生きた存在だと言えるだろう。しかし、数千数万日生きたからと言って明日も同じように生きているとは限らない。ただ実際に起きた今日までの出来事から、実際にそうかはわからないものまでもを語り出す。だから私達は「また明日」と言うことが出来るわけだ。一つの経験から出発し、経験していないことまでをも語ること。私達は語りえない現在を妄想で補うことによって生きているのである。


 何故人は妄想するのか/この世界の虚構性について

 では、何故このような事が生じるのか。それには二つの理由があると言える。一つは、人の生がそれぞれ比較しようのないものだからだ。先程、私は直観を一つの傾向として捉えた。では、この傾向は何故生まれるのか。それは、それぞれが生きている意識の流れが異なるからである。そして、意識の流れは何故それぞれ異なっているのか。それは、私達それぞれの感覚してきたもの、それによって生まれた記憶、そしてそれに支えられた思考が、どれだけ似通った相手であろうとも異なっているからだ (友人や恋人、家族でさえもそうだ) 。時に、一つのものの定義とは、別のものとの比較によって生じる。言い換えるならば、比較出来ないもの、唯一なもの、他とは似ていないものとは、それ自体で定義することの出来ないもの、不確定なものであり、それはつまり一つの虚構なのである。

 ここに私達の存在の耐えられない軽さがある。一度しか起こらないものとは、一度もなかったようなものである。私達の存在とは、そもそもが偶発的であり、不安定なものである。よって人生とは一つの虚構のようなものなのだ。そしてまた、私達の生きる世界も他とは比較のきかないものである。故に、この世界もまた必然的に虚構性を帯びたものだということになる。


 何故人は妄想するのか / 生きることの潜在性について

 人間の本性が妄想的である、もう一つの理由を検討してみよう。それは、意識の流れの持つ潜在性にある。たとえば私達の身体の動きは、常に一秒ごとに変化するものである。今この瞬間も、私達は目を動かし、頭脳を働かせ、身体のそれぞれの器官を運動させている。そして、運動するということは、常にその運動をする前にいた場所からズレるということである。もしあらゆる生命体が絶えず運動をしながら生きているのだとしたら、私達は自ずと、常に自分自身に対して差異化しながら(ズレながら)生きているものだと言える。しかし、普段はそれに気づかない。あらゆる喪失が失った後に気づくのと同様で、あらゆる変化は変化した後にしかわからないのである。何故か。それはこの瞬間瞬間に変化し続ける私達の多重な存在を、常に一つの意識の流れが貫いているからだ。Aだった頃の自分とBだった頃の自分がいるのではなく、AからBに連続している自分だけが存在している。

 今新しく生きている瞬間とは、別の側面から見れば、既に生きられたものでもある。生きるということには、常に「今は理解できないもの」が付きまとう。たとえば砂糖水は、砂糖が水に溶けなければ飲むことが出来ない。そして、砂糖には砂糖に固有の流れがあり、水には水に固有の流れがある。この本来は相容れないはずの二つの流れが溶け合った時にのみ、砂糖水を飲むことは可能になる。これと同様で、目の前に理解不能な出来事に直面した時、私達は自分の経験に基づく知識で、それを理解できるものに変換しようとする。これは、場合によっては自分の経験に基づいて目の前の出来事を妄想で補っていると言うことも出来るはずだ。そして、この理解 = 妄想が正しかったかどうかは、ある日ふとした瞬間に、その伏線を回収するような出来事に出会うことで把握できたりするものだ。この時、私達は既に生きられたものを、また新しく生き直していると言えるのではないか。


 潜在性の問題

 こうして今、私達の目の前には潜在性の問題が明らかとなってくる。たとえば風景。今私達の目先に、川や森、さえずる小鳥や草花のまわりを舞う蝶がいたとしよう。これらのものは、それぞれが異なった流れを生きながらも、同時に唯一の時間の中に収集されている。または、私達の意識の流れ。前述の通り、絶えず無意識的な身体の運動の中にある私達は、常に自分自身に対して差異化していくものだと言える。しかし、もしそうだとしたら、私達が自分だと思っているものは、常に多数化された自己自身の片割れであると言うことも出来るのではないか。

 それは、私達の意識の流れの表層に現れたものであり、今日までに変化を経験することで生まれてきた記憶の中で、私達の思考が「これだ!」と思っている自己自身でもある。しかし実際は、そのような意識の下で、丁度風景の中で異なった様々な生物がざわめいているように、様々な自己が、今は生きられない自己が、非人称な生命がざわめいているのである。

  私達の現在には、今は生きられない余白がある。子供の頃に読んだおとぎ話を今読んでみると、かつてはそう思わなかったものまでもが見えてくる。『星の王子さま』は子供向けに書かれているが、大人になった今あれを読んで、私は号泣したことがある。そして、子供の頃に『星の王子さま』を読んでも、これ程までに感動はしなかったであろう。それと同じで、私達が生きる現在には、常に今の自分には回収され得ないものが付きまとう。そして、それが回収されないでいるうちに、自己に対して差異化し続ける意識の流れは、更に自分自身に対する差異化を、ズレを深め、運動をやめることがない。そして、このような多数化の中で回収されなかった自己は、自ずと私達の潜在的な側面へと沈んでいくこととなる。


 ドラマ化の問題

 この文の冒頭で、私が次のように書いたのを覚えているだろうか?つまり、「結果としての現在が先にあり、そこに私達が解釈としての原因を与えているのであり、原因とは後から生み出されるものなのだ」と、大体そんな感じのことを書いたわけだが、それを言い換えるならば、存在しているものについてを考えるならば、私達は自ずと存在していたものに考えを及ばせなければならないということでもある。もし原因が解釈の問題であり、後から見出されたものならば、その原因は意図も容易く消し去られるものでもある。何故なら、過去に対して別の解釈が与えられたなら、その時、最早それまで原因に思えていたものは違ったものとして目に映ることとなるからだ。

 ここまでの文章を読む人で、中には次のような疑問を思い浮かべる人もいるだろう。つまり、「人は過去の奴隷なのか」と。それに対して、私はこう応えたい。「ただ過去を知るものだけが、過去の呪縛から解き放たれ、自由に生きることが出来る」と。そして、ただ記憶を有するものだけが、同じあやまちを繰り返さず、新しい現在を生み出すことが出来る。過去を乗り越えるということは、先ず過去を振り返ることがなければ不可能なのである。

 ドラマ化の問題。人は常に、自分の知っているものに自分を寄せていくものである。それは子供達の戯れを見ていればわかる事だ。テレビの中で見たヒーロー達の言動に、子供は自らを寄せて、砂場でまるで自分が憧れのヒーローそのものであるかのように振舞ったりする。それは子供がヒーローに憧れているからでもあるが、子供らしい潔癖さから、ヒーローの持つ正義感に、子供が共感しているからでもあるだろう。または、周囲の人間を見て見れば分かることだが、大人になっても、私達は自分が最近見聞きしたものや、自分が影響を受けたものに寄せて自分を語ろうとする。恋愛ドラマを見すぎた女性が、まるで自分がドラマの主人公かのように愛人との恋愛話を語っている。しかも流暢に。これらの事から見えてくるのは、人は既存のものの仮面をつけなければ自己を表すことが出来ないという事である。そして、人は何らかの仮面をつけ、舞台を配置することで、自らの潜在性をドラマ化させるのである。


 結論 / いかにして潜在性をドラマ化させるか

 こうして今、再び私達は直観の話に戻ろうと思う。哲学の役割、それは直観を磨くことである。私がここまでこのような長ったらしい叙述をしてきたのも、やはり「いかにして直観を磨くか」の問いを解くために他ならない。しかし、何故そもそも直観を磨く必要があるのか。それは、直観が鋭くなるほど、この潜在性とドラマ化の問題を解くことが容易になるからだ。街を見渡せば、至る所で二流のメロドラマを演じて、あたかも自分が悲劇の主人公であるかのように振舞っている人間が沢山いる。彼らが何故私達の目に滑稽に見えるのか。それは、本当ではないことを本当らしく扱って、それに悩んでいるからだ。もし直観を正しく持たなければ、私達もまた彼らと同じような三文芝居を打つこととなる。否、もはやそれを演じているのかもしれない。ならばそこから抜け出さなければならない。いかにしてか?それは他ならない、私達の記憶に目を向け、より思考を豊かに保ち、そして最後に、私達の感性を鋭利にすることによって、だ。

 さて、私がこう書いているのを覚えているだろうか?「この世界とは虚構性を帯びたものである」と。一つのものの定義とは、別のものとの比較によって成り立つ。よって、一つしかないこの世界、または一つしかない私達それぞれの意識の流れは、それ自体比較出来ず、定義できないもの、虚構性を帯びたものなのである。そして、この世界の進歩と発展が、何らかの真理の発見 = 発明によって成り立っているのだとしたら、私達は、何かをでっちあげることでこの世界を更新していくのだとは言えないだろうか。人間の本性はその妄想力 = 想像力にある。何の関係もないように見える二つのものの繋がりを証明できたなら、その時、私達は真理を発見し、発明したとは言えないだろうか。言い換えるならば、発明するということは、繋がりをでっち上げることなのではないか。

 こうして見えてくるのは、偽なるものの力能が実現する場としての世界である。この世で天才として持て囃される人間は、それだけ何かをでっち上げる才能を持つ者、偽なるものの力能を持つ者である。音楽の偉大な点は、そのとき感じていなかった感情までもを感じさせる点にある。つまり、優れた音楽家は、それだけ私達を騙すのが上手い人間だということになる。虚構としてのこの世界において、活躍するものとは何か。それはこの世界全体を欺こうとする意志を持った人間である。生の本質は、その妄想力にある。ならば、生の力能は、自ずと騙し、偽り、幻惑し、誘惑するものだとなる。そして、もし知性が人間特有なものであるとするならば、優れた知性を持つ者とは、それだけ優れた嘘を発明するもののことである。

 私達に必要なのは、今ある解釈とは別の解釈をでっち上げることだ。何故なら、記憶は常に更新されていくから、かつてはそうだったものが今もまだそうであるとは限らないからだ。そして、新しい解釈の与えられたその時、かつての記憶は今とは違った見方で見られることとなる。その時、私達はかつての記憶を新しく生き直すこととなる。そしてその時、私達の潜在的な生は表出し、それはドラマ化される。しかも、そのドラマは絶えず更新されるものである。現実は、常に私達の感覚に新しい触発を与えてくる。そして、私達は常にそれに対応することを求められているのだと言える。

20/11/14

 生きる上で、人は何らかの形で妥協を強いられる。そして、妥協は常に二つの感情のどちらかに繋がる。つまり、諦念か恥じらいか、そのどちらかだ。

 困惑。時折、知人や友人から「いいひと」だと形容されることがある。それは有難い話なのだが、私としては、よく困惑を覚えることがある。不可解、とも言い換えていいかもしれない。昔は私も、無理にでも誰かに善行を働こうとしたが、それは誰かに責められるのが恐ろしかったからだ。だからそんな頃は「いいひとだ」と言われると安心したものである。それは私が「変じゃない」ことの証明に思われたから。では、何故「変じゃない」に安心するのか。それは、自分が悪人として疎外されることを恐れていたからである。

 近年は多様性を求める運動が盛んな時代だと言える。そして、私もまた来るべき多様性の実現を希求してやまないのだが、ただ同時に、多様性を求める人の多くは、多様性が何かを誤解しているように思われるのだ。問うべきは先ず、何故今日までの時代は多様性を斥け、マイノリティを拒んできたかということだ。それは、マイノリティが社会の和を乱すからに他ならない。「ありのままの自分」が受け入れられるのは、それが社会に害を出さない場合のみである。そして、マイノリティであるということは、それだけ社会 = マジョリティから外れることを意味する。よって、もしそこに受け入れられるマイノリティがあるとすれば、それはマジョリティに合わせ整えられたマイノリティであって、既に一般性 = マジョリティに回収されたものなのである。

 私は別に、自分が少数派なのだと主張したいわけではない。ただ最近観た映画で、実に印象的なものがあった。それがいい例になると思うので、今ここで取上げたい。

 舞台は二十世紀初頭のイタリア。ムッソリーニによるファシズムの時代である。主人公の父は精神病棟に入院しており、またその母とは別に仲がいいわけでもない。彼主人公は自分の母が若い愛人に貢いでいる様を見て、それを軽蔑している。また、彼は幼い頃に見知らぬ者から性的虐待を受けたことがある。そして、その正当防衛として、彼は人を殺したこともある。映画は、そんな彼がファシスト党の秘密警察になることから始まる。

 彼は言う、「鏡を見ていると、自分だけが違う人間に見える」と。そして彼の友人も言う、「大半の人は他とは違う人間になりたがるのに、君は他と同じになりたがるね」。ファシスト党に入党した後、彼は大して愛してもいない恋人と結婚する。それもまた「正常」になるためである。

 こうして彼が何故ファシズム = 全体主義に傾倒したのかが明らかとなる。それは疎外されることを恐れているからだ。一般社会とは、マジョリティとは、普通とは何か。それは、それぞれの抱える異常を押し潰した上でしか成り立たない。実際、「普通」や「正常」は自分を当てはめたり、比較したりするためのモデルとしては存在するものの、実際にそれを体現している人間など、あたりを見渡せば何処にもいないことに気がつく。今の社会においては、「ちびまる子ちゃん」を体現している家庭の方がマイノリティだと言える。にも関わらず、「普通」は、一般性は、全体を保つために機能し続ける。そして、人は自分が押し付けられたものを、他人にも押し付けたいと思う。こうしてマイノリティを疎外する社会のシステムが誕生する。何故なら、マイノリティであるとは、自分の他との違いを撤退した先にしか存在しないものだからだ。だからそれは自ずと全体を乱す社会の敵として存在することとなる。

 さて、先程の映画の話に戻ろう。映画の序盤には、結婚を前にして、主人公がこう呟くシーンがある。「償いは社会から受ける」と。欲望とは他者を眺めることで生じる。社会を生きるということは、何らかの形で自分と他人を比較することである。だから映画の主人公が、存在しない「普通」と自分を比較して、昔から疎外される側 = マイノリティとしての意識を強く抱いていたのは間違いないことだろう。そして、マイノリティの人間は、「普通」に対して二つの態度をしか取らざるを得ない。つまり、「普通」に執着するか、「普通」に復讐するか。彼主人公が選んだのは前者であった。彼は自ら全体主義者を名乗り、一般性を満たすことで、かつて自分を苦しめた「普通」に受け入れられ、「償い」を得ることを求めたのである。

 この映画には沢山の好きなシーンがあるが、その内の一つとして、反ファシズムを主張する、彼が大学時代に世話になった教授との会話のシーンが挙げられる。彼は教授に対してプラトンの有名な「洞窟のたとえ」を話し出す。それは彼が教授と共に取り組んだ卒業論文のテーマであった。洞窟の中でしか生活をしない人は、炎のあかりに照らし出されて見えた自分の影を、きっと自分の実態だと思い込むだろう。それと同じように、私達は真実の影を真実だと思い込んでいるのではないか。それは、まさに何かにしがみつく事で影を真実だと思い込もうとしている主人公にそっくりであった。「現実の影を現実だと思い込む……」しかし、プラトンのたとえ話と主人公の間には明確な差異がある。それは、主人公は現実が見えていながら影を現実だと思い込もうとしている点だ。

 と、こんな風に長い叙述が続くと、きっと人は私が思い詰めていると勘違いされるだろう。が、実際はそんなことはない。これで毎日能天気に生きている。それに社会にまるで馴染めないわけでもない。傍から見れば、私は人によく愛された、恵まれた人間だと思われる。ただ、時折他者から受ける扱いに戸惑うのである。皆、まるで私が善人であるかのように取り扱う。そんな時、私はまるで、自分が誰かを騙しているかのような気持ちになるのだ。嫌悪も不愉快も感じない。ただ「わからない」と「後ろめたい」だけが残る。無論、実際に誰かを騙している訳では無いのだが……しかし、それもどうでもいい話だと言っていいだろう。書いてもどうにもならないのだから、この辺りで話を打ち切るべきだ。


 夜。見知らぬ街を散々歩き回りながら、自分の家が何処にあるのかを探し、さ迷っている。そして、いくら歩けど家は見つからず、いくらさ迷えど夜は明けない。生活のさなかで、そんなイメージがふと頭に浮かぶことがある。まるでそれが自分の心象風景であるかのように。

 では、このイメージの元ネタはどこにあるのか。そのことについてを考えてみた。すると私は、高校の頃に、授業で安部公房の短編を読んだことを思い出した。自分の家を探して街をほっつき歩いていると男が一人いる。しかし、いくら歩いても家が見つからない。やがて、男は自分の体から一本の糸が出ているのに気がつく。それでその糸を辿っていくと、次第に彼の体はほどけていき、その全身はまゆになってしまうのである。彼は自分は身体を失った。しかし、その心はまゆの中にあった。彼は身体を失った代わりに、温かい、自分の帰るべき場所を見つけたのである。こうしてこの短編小説は終わる。

 この小説は何を意味するのか。その結末は、社会との関係を絶って自己の殻に籠ったとも言えるし、自分が全体 = まゆに溶けることで居場所を見いだしたとも言えるだろう。しかしどちらにせよ、主人公は主体 = 自我を失うことで、自分の帰える場所を見いだしたわけだ。記憶が正しければ、授業の解説でそんなことを聞いた気がする。

 生活の中で、焦りに駆られることがある。何の焦りか。それは「いつになれば自分の欲しいものが手に入るのか」という焦りだ。または、ふとした瞬間に、昔を想起させるような境遇や空間に身を置くことがある。その時、私は悲しくなる。何故か。それは、かつてはあったものがそこにないのを感じるからだ。そして、これらの事から、私はあるひとつの推論を立てることが出来るだろう。つまり、錯覚であろうとも、自分はかつてそこにあった喜びが繰り返されることを求めているのだ、と。

 時折、自分がなにかこの世界に取り残されているような気がすることがある。その感覚は、まるで突然後ろから誰かにナイフで突き刺されるかのよう、不意に私のもとへ訪れる。その時、私は強い孤独や不安感を覚え始め、焦燥に囚われ始める。そして間もなくして睡魔が襲う、まるでオーバーヒートした機械が強制的にシャットダウンされるかのように (ただ単に疲れているだけなのかもしれないが) 。そして一、二時間ごとに目を覚ましては、また眠りに落ちてを繰り返す。何処であろうと、私は眠くなる。そして、意識が薄れていく中で、かつての友のことを思い出す。「ああ、君がいてくれたら」と。友よ、私はひとりぼっちなんだ、君がいないと、私には何もないんだ、とか、そんな恥ずかしいことを考えてしまう。


 暗い気分に陥った私を癒してくれるもの、それは他ならない、何らかの作品との出会いである。たとえば先程の映画の話に戻るが、その映画を観たのも、ちょうど部屋で一人、何時間も頭を抱えた後であった。何かをしないとずっとこのままだと思い、ふとそれを見始めたのである。

 ここで先程のマイノリティの話に戻りたいと思うが、近年では病気とマイノリティが結びついて語られることが多く、言わば疾患や障害を一つの個性 = 強みとして捉える傾向が強い。しかし、それはあまりにも楽観的な意見だと言えるだろう。実際、人が自分の病気を肯定できるようになるのは、ある程度自分が恵まれているという意識を持ってからである。過去の苦しみというのは、まさに現在の喜びによって償われることがなければ、肯定されることがないのである。そして、償われなかった苦しみは、その人の嫉妬深さとなり、敵意に変わって他者に復讐を求めるようになる。

 かと言って、私は自分がそうであるとは思わない。しかし、私には病気めいたものがあるが、それを肯定出来ている。何故か。それは、不安や絶望に襲われた時に、一時的であれ自分の気を紛らわせてくれるものが近くにあったからだ。たとえば音楽。ここ数ヶ月で言えば、私はドイツのエヴァーハルト・ウェーバーというジャズベーシストの作品を全部聴き通した。それも、不安から気を逸らすためである (あとはチャイルディッシュ・ガンビーノのアルバムもよく聴いている。Because the Internetがお気に入りだ)。本を沢山読むのもそのためだ。何とかして自分の孤独からの出口を探るために、とにかく色々な本を開くようにしている。結果として、病気は私を深くしてくれた。だから私は病気に感謝している。しかし、全ての人がそうでないということを、また自分が他よりも恵まれていることをも、私は知っているのである。

 「感覚によって感覚を癒す」とは、オスカー・ワイルドのかの有名な小説(『ドリアン・グレイの肖像』)で繰り返し出てくるモチーフである。私はまさに、それによって今日まで生き長らえてきたと言っていい。しかし、それは今の感覚を別の感覚で誤魔化すということでもある。だからワイルドの小説の主人公は、やがて自分を騙すことに耐えられなくなり、死に至る。私も何処かで、自分が今誤魔化しているものに向き合わなければならない。


 抽象的な言い方になるが、「ここでこうしたら、こうなるのかもしれない」と思うような瞬間に出会うこともある。そして実際、物事が私の予想通りに進むこともあるのだろう。しかしその時、果たして私はその選択の責任が取れるのだろうか。気まぐれで、または寂しさを紛らわすために、「こうなるかもしれない」を選んだとしよう。または、もう既にそのような選択をしたことがあるのかもしれない。しかし、その結果としてろくな未来が待っていないことは目に見えている。ならば初めから手を引くべきなのではないか。何故なら、私はその選択に対して責任が取れないからだ。では、何故責任が取れないのか。それは、たとえ責任を求められたとしても、それに対応する自分の感情が追いついていないからだ。ならば、感情の追いつける相手にだけ、責任を取ってもいいような態度をとるべきだ。そう結論づけることが出来るだろう。

 確かマタイによる福音書に次のような聖句があった。「たとえこの世界の全てを手に入れたとしても、自分の心を失ったのなら無意味である」と。では、人が心を失うとはどういう状態か。それは、自分に対して誠実でなくなる時である。

 他人に誠実であるためには、先ず自分自身に対して誠実であることが求められる。何故なら、もし自分への誠実さを失ったのならば、その腹いせとして他人に対して陰険になり始めるからだ。人は自分が受けた苦しみを、他人にも味合わせることを求める。だからこそ、何か傍から見れば素敵に思えるものを手に入れたとしても、自分の心を失ったのならば、全てが無意味となるわけだ。


  読書家の割に、私は本を読むのが遅い。これは昔からのコンプレックスで、いくら本を読んでも、本を読むスピードが上がらないのである。小難しい本を読んでいる時はなお一層酷い。一ページ読む度にページをめくる手を止めて、これは一体どういうことか、この言葉は一体何を意味するのかを考え始める。そして本の余白にボールペンで書き込みを始める。結果として二十分かけて数ページ読めればいい時だって少なくない。だからいつまで経っても読み終わらない。時には一年かけて一冊の本を読み通すこともある。その隅々までちゃんと読もうとしたら、それだけの時間がかかってしまうのである。

 きっと大人になるにつれて、自分の読書スピードも上がっていくだろう。かつてはそう楽観していた。しかし結局、読む本の数は年々増えれど、本を読む速さそれ自体は一向によくならない。しかし、いやだからこそ、私は他の人に気づけないことに気づけるチャンスがあるのかもしれない。ゆっくり読むことしか出来ない、だからこそ見えるものがあるのではないか。無論、それを見いだせるだけの力が私にあればいいのだが……。

 悲観主義者は皆ナルシストである。人より自己愛の強い私は、それだけ自分を悲観する傾向にある。しかし、あまり物事を悪く捉えてしまうのもよくないのだろう。悪くものを言うばかりに、本当に悪くなって取り返しがつかなくなる、ということだってこの世にはあるはずだ。

20/11/11

 個人的に好きな映画に共通する特徴の一つとして、カメラの動きが少なく、音数もまた少ないという点が挙げられる。しかし、これらの要素は鑑賞者側に冷たい印象を与える場合も少なくない。だが、だからこそ私はそれを愛するのだと言っていい。何故か。動きと音数が少ないほど、人は作中で描かれている感情の動きをよりリアルに感じるからだ。描写が冷たくなるほど、感情表現は豊かになっていく。これは、何も映画だけではなく、小説に関しても同じことが言えるのである。

 たとえば何かを知覚した時、それを感じた通りに口にしても、むしろ自分の知覚したものが上手く言い表せていないような気がしたりはしないだろうか。その時、私達が覚えるのは、自分の感じたものに対する困惑である。この事からもわかるように、情動をそのまま描写するということは、臨場感はもたらせど、むしろ感情表現を乏しくし、それを不正確なものにすると言わざるを得ない。そして、感情を上手く言い表すためには、自分の内にあるうめきをそのまま吐き出すというよりかは、それを他人事のように扱い、観察する必要がある。

 そして、先程の話に戻るが、何故そのような作品が好きなのかとなれば、それは私に感情を教えてくれるからだ。感情とは、私達が決して知ることのない、不気味で身勝手な生き物である。だからこそ私達は感情を恐れ、また感情に惹かれる。よって、他人の作品を知ることは自分を知ることでもあるわけだ。


 最近、ひとりでいるのに飽きてきた。グレン・グールドは語っていた、「人といたら、そのx倍孤独でいる必要がある」と。それはその通りだと思う。私は孤独がそんなに悪いものだとは思わない。ただ最近は、よく次のようなことを考えるのである。つまり、話し相手が欲しいということだ。

 時に、ラヴェルの音楽の美しさはその寂しさにある。私は今彼の弦楽四重奏曲を聴いているが、彼の音楽に触れていると、胸が寂しい気持ちでいっぱいになる。そしてこの寂しさこそ、深い感動を与えてくれる要因なのである。時に、寂しさとは、まさにあって欲しいものの欠如を感じた時にこそ生じるものだ。それを踏まえるならば、私は欠如を感じることで感動を深めている、と言うことも出来るだろう。

 ああ、今でも覚えている。私がこの曲を初めて聴いたのはまだ十代の頃であった。その時、私は見知らぬ土地の、見知らぬ場所で夜を明かそうとしていた。その晩は泊まる宿がなかったから、ネットカフェを見つけて、そこで一晩を過ごしたのである。中々上手く寝付くことの出来ない夜を迎えた。何度も寝返りを打ちながら、絶えず何処でもないどこかを見つめた。液晶画面から漂う冷たい光は、店内にともる僅かなあかりと混ざり合い、私の個室の薄闇を照らしていた。その時である。私は何となしの思いつきで動画サイトを開いた。そして、どういう訳かは知らないが、気がつけばエマーソン弦楽四重奏団が演奏した、ラヴェル弦楽四重奏曲を再生していたのである。恐らく、当時はドビュッシーが大好きだったから、その関連でそれが出てきたのだろう。私は初めて聴くその音楽の憂愁な響きに魅せられていた。意識が暗闇の中に溶けていき、その場でうごめく渦の中に巻き込まれていくかのようだった。私はそのままぼんやり夜を過ごした。外界の灯りの入らない店内は、まるで終わらない夜を演出しているかのようだった。

 昔聴いていた音楽を、今でも好んで聴くとは限らない。むしろ大体の音楽は、一時的に好んでいることはあれど、やがては聴かなくなるものだ。ただ、本当に大切な音楽は、一度忘れられたとしても必ずいつかまた聴くようになるものである。一生ものの音楽というものはなく、ただやがて死んでも復活する音楽だけが存在する。しかし、かと言って、私は初めて知った時と同じようにラヴェルを楽しんでいるわけではない。かつても今もラヴェルは愛しているが、しかしその愛し方が違うのである。もう初めて聴いた時のように彼の弦楽四重奏曲に感動することも出来ない。しかし、かつての私では感じ得なかったものを今の私が感じているのも事実である。

 恐らく、何事においてもそれと同じなのだろう。かつても今も、何らかの形で関係が続いているものが、私達の誰にもでもあるだろうが、しかしかつてと同じようにそれに接するなど不可能なのである。ただ、別の仕方で接することだけが可能である。つまり、私がかつてとは違う愛情をラヴェルに寄せるように、かつて愛していたものをかつてと同じように愛することなど出来ない。ただ別の仕方でのみ愛することは可能なのだ。

 こうして文章を書いている内に、気がつけば弦楽四重奏曲は終わりを迎え、同じラヴェルの書いたピアノ三重奏曲が再生され始めていた。これも私の大好きな楽曲だ。聴いていると、時が止まったような感動を覚える。全楽章に通ずる瞑想的な雰囲気が、たまらなく美しい曲だ……しかし、こうして思いを巡らせていると、ふと気がつくのである。自分が何だかとても老けたような気がしていることに。まだこんなにも若いのに、まるで老人のように毎日を生きている。さながら生きながら死んでいるようだ。そして、まるで隠遁者のように、見えない神への憐れみにすがっている。赦しを求め、よみがえりを求めている。復活して、再び生きることを求めているのである。


 昔仲の良かった友人のことを、何かの節に思い出したりする。そして、当時はあんなにも楽しく過ごせていたのに、どうして今はそう上手くいかないのだろうと悩んだりする。しかしわかっている。恐らくは私の身勝手さが、このような結末を導いてしまったのだと。

 それでも思い出は残り続ける。そして思い出には二つの側面がある。それは、既に失われてしまったことへの悲しみと、戻りたいと思える時間があることへの喜びである。


 この世に「あったかもしれない」なんてものはなく、大抵のものはそうあることしか出来ないから今のようになっている。私達の大体は、数多くの選択肢から今の生き方を選んだというよりかは、他の生き方を知らないから今に至っていると言っていい。そうする以外にどうすればいいかわからなかったのである。

 しかし、よくよく他人のありようを眺めては、そこにあったかもしれない別の人生の可能性を見出す。他人を眺める内に、存在しない青春へのノスタルジーを感じ始める。そして、何か機会を得ることが出来たなら、自分が憧れていたものを演じ始め、かつて夢みたものをその場で再現しようとする。しかし結局、偽物では本物になれない。憧れを演じるにつれて、やがて自分と憧れの間に乗り越え難い壁があることに気がつく。そして自分に限界があるのを知る。または、そんな自分にむなしさをも覚える。だから益々卑屈になっていって、「あったかもしれない」への羨望を、存在しない青春へのノスタルジーをさらに深めていく。

 しかし待って欲しい、初めからこの世に「あったかもしれない」なんてものは存在しないのである。私達はただそこに「あれがこうであったならば、それは可能であった」という仮定を見出しているだけなのだ。しかし結局、それも机上の空論でしかない。何故なら、大抵の事はそうあることしか出来ないからそうなっているのだから。たとえば、私達が何らかの感情を抱く時、何故そのような感情が発生したのかを知らないでいることが大半である。人が感情を抱くのは、常に別のものに触発された場合のみだ。意識とは無意識の反動なのである。

 それと同様で、今あるものとは、そうあらざるを得ないようこちらに強いる原因の連鎖の中に置かれているからこそ成立している。だからそこに「あったかもしれない」なんてものは有り得ない。これからも、そしてこれまでも、私達に残されているのは「そうあらざるを得ないもの」だ。では、これまで一体どうすればよかったのか。または、これからどうすればいいのか。白状するが、そんなことはわからないのである。

 さて、私が今考えているのは、リルケが手紙の中で書いていたことだ。「答えはすぐには与えられない、今の私達は問いを生きなければならない」と、彼はそんな事を書いていた。今日までの日記を読み返していると、あの時は「これだ!」と思っていたのに、後々になってそれが思い違いであったと気がつく、という事が多々あることがわかる。そしてその度に、そんな風に空回りばかりをして、見えないものに振り回されている自分が哀れに思えてくるのである。しかし、それでいいのではないのだろうか。答えはすぐに与えられないのだから、思い違いをして当然なのではないか。むしろ、その日その日を真摯に生きるということは、そのような思い違いに振り回されるということではないか。誤解がひとつ解けたかと思えば、今度は別の誤解が生じている。一つの夢から覚めたと思えば、次の瞬間にはまた別の夢を見ている。言い換えるなら、ひとつの夢を見始めたら、その時既に、私達はそれまで見ていた夢から覚めているのである。


 私の性格には独り善がりな所がある。思い込みが激しく、独断論的で、融通がきかず、多くのことを勝手に決めつけてしまう。普段私に接してくれる人の中にはそう思わないでいてくれる人もいるだろうが、何か深い仲になったことのある人なら、きっと私のそういった点に気づいていると思われる。そしてこの性格のために、私は度々ひとに嫌な思いをさせてきたのを知っている。

 しかし今、再び私は「他者に寄り添おうとすること」についてを考え出している。他者に寄り添うとは何か。それは、歩幅を合わせようとすることではないか。たとえばそう、人によって散歩の際の歩き方は違うように思われる。そして、何か社交の場合ならば、誰でもその場の空気に合わせて歩こうとするだろう。しかし、まさか一人でいる時に自分の歩き方を抑制しようとする人などいないだろう。ただ、一人で歩いている時間が多くなれば、隣に誰かがいる時でも、ついつい相手のことを忘れて独り歩きしてしまうものである。相手より速く歩いてしまったり、または突然立ち止まって物思いにふけったりしてしまうのだ。隣を歩く人からすれば、「一体コイツは何なんだ」と思われても仕方の無いことだろう。

 ある人からすれば、これは当たり前の気づき なのかもしれない。しかし私は、そんな当たり前のことに気がつくまでに二十数年かかったのである。だからどうか、こんな私を責めないで欲しい。そしてこれからの私の目標は、そんな当たり前を少しでも実現できるようになることだ。

20/11/07

 責任の問題、それは責任を負うべきものを見出された時にのみ生じる。人は動くというよりかは動かされるものだ。だから少年時代にしたことで、かつてはそうは思わなかったが、内省するうちに罪としか思えないようなことをしてしまったという意識に苛まれることもあるだろう。しかし、当時の無垢にして無知な状態で、知らず知らずのうちにしたことならば、それを罪と呼ぶのはおかしな話である。知らない間にしてしまったのだから、それはそうあるしかないことなのである。

 このように、罪とは犯すというよりかは見出されるものである。では問題は、罪を見出してからだということになる。つまり、責任と罪の問題は、それを意識せざるを得ない存在を見出してからが重要なのである。

 責任という概念は、時に復讐のために発明されることがある。苦しみを負った時、人は何故自分が苦しむかの原因を見出そうとする。「自分が苦しいのはあれのせいだ」とか「あれには自分の苦しみを償う責任がある」といった具合だ。こうして、責任が見出され、誰かの存在が罪に問われるようになる。そして、この世のあらゆる罪の告発には、二種類のものしか存在しない。つまり、無視していい告発か、引き入れるべき告発か、そのどちらかである。

 他者との関係というものは、どんな場合であれ、必ずルサンチマンが生じざるを得ないように出来ている。ラ・ロシュフコーは次のような言葉を書き残していた、「恋愛は友情というよりかは憎悪に属する」と。そして、これは恋愛だけでなく、あらゆる他者との関係において言えることだ。友人であれ家族であれ、私達は比較や執着を抜きして人付き合いをすることが出来ない。何故なら、他者と関係するということは、常にただひとりでなく、複数人を視野に入れた上でなければ出来ないからだ。

 愛が無関心の反対であるように、友情は憎悪の反対である。そして、その二者が入り交じった上で、他者との関係というものは生じる。言い換えるならば、私達はルサンチマンが生じても尚誰かと関係したいのである。そして、だからこそ人間関係には選択が付きまとうのだ。「縁を切る」という行為が生じるのは、まさに人が(自分や他人が抱く)余計な嫉妬や憎悪に悩まされないためである。そして、選択された人間関係 = 他者は、自ずと嫉妬や憎悪に悩まされても関係したい誰かだということになる。

 つまり、罪を告発され、責任を問われてもいいと思われる誰かに対してのみ、私達は関係することを求めるのだと言っていい。私達が愛するのは、責任を負わなくていい他者なのではなく、責任を負いたいと思える他者なのである。「私が苦しいのはお前のせいだ」という主張に対して、反発するであれ耐え忍ぶであれ、そのような罪の告発を受けたいと思える相手にのみ、私達は関係を求めるのだろう。


 私が読書を愛し始めた理由は、それが言葉を教えてくれるからであった。私は人と話すのがあまり得意ではない。昔からそうだ。口下手で、言いたいこと、話したいこと、または考えていることを、言葉で表現するのが苦手だった。今でもそうだ。自分の本心をそのまま口にしようとすると、喉が詰まって、私は上手く言葉を使えなくなるのを感じるのである。そして、だからこそ、常備な言葉で表現しえないものは、特異な言葉で表現するしかないのである。読書という行為は、まさに私に自分の言いたいことを、話したいことを教えてくれる、一つの救済にも似た作業であった。こうして私は気がついた。人が本を読むのは、自分が語るべき言葉を見つけるためなのだと。

 最近、よく考えていることがあるのだが、それを上手く言葉にすることが出来ないでいる。そして、それを無理に書き表そうとすれば、それだけ多くの言い間違えをするのである。昔、何度もそういう経験をした。本心を口にしようとするほど、それだけ多くのことを言い間違えてしまう。それが恐ろしくて、私はまた口をつぐんでしまうのである。


 あらゆる夜は二種類に分けられる。間もなく明ける夜か、永遠に明けない夜か。そのどちらかだ。

 人が認めたくないものを見出した時、何故それを「認めたくない」として拒絶するのか。不意に私は、そのような問いを立ててみようと思う。一体それは何故か。それは、認めることによって、自分が堕落するような錯覚に陥るからではないか。丁度、赦せないものを赦すことで自分の中にある何かが壊れるのと同様に、認めたくないものを認めることは、それによって今ある自分が失われることを指すのだ。

 では、赦せないものとは何か。それは、言い換えるならば「赦したくないもの」であるが、では何故それを赦したくないのか。それは、赦さない = 認めないことによって、保たれている自己がそこに存在するからである。過去に間違いを犯した人ほど他人に説教をしたがるのと同様に、他者の内に見出された赦せないものの姿とは、「あってはならない」または「あったかもしれない」と考えられる別の自分なのである。

 こうして、赦せないものの別の姿が現れてくる。それは、赦すという事の恐ろしさである。それを赦す = 認めるということは、今の自分が失われることへの恐怖 = 不安に繋がるのである。では、何故今の自分が失われることを恐れるのか。それは多かれ少なかれ、今の自分が「実際にあって欲しい自分」を演じているから成り立っているのではないか。

 生きる上で、私達は何らかの形で観客を必要とする。ある人はたくさんの人から見られることを求め、またある人はごく僅かな、またはただひとりの人に見られることを求める。見られるということは、それ相応の何かを演じるということでもある。赦せないものへの恐れは、私達が最早演じたい自分を演じられなくなることへの恐れにつながっているのだ。

 赦せないものへの赦しとは、私達がその対象から一定の距離を保った時にのみ成り立つ場合がある。言い換えるならば、赦せないものへの恐れを取り除くには、「赦す/赦さない」の構造(問題設定の仕方)から抜け出した状態に至る必要がある。つまり、それは最早対象 = 他者の中に赦せない自分の姿を見出さなくなったということでもある。世の中には、その場から離れなければ赦すことの出来ないものがある。しかし、もしもその対象が死ぬまで自分から離れないものであったならば、言い換えるならば、もし赦せないものが死ぬまで自分の中で変わらぬ性質として残り続けるならば、赦せない自己が永遠に変わらぬものの一つであったとすれば、その時、私達は一体どうすればいいのか。

 こうして、「赦す」という行いのもう一つの側面が見えてくる。それは、赦す対象を受け入れるという事である。もし赦せないものが自己の変わらぬ本性の一つであるとすれば、私達には、死ぬまでそれと解決の見えない争いを続けるか、またはそれを赦し、受け入れるか、そのどちらかしか有り得ないのである。そして、ここで注意すべきことは、人はいつだって「ありのままの自分」を知らないのだということである。これは先程の演じることの話にも繋がる。さて、私達は特定の誰かの前で演じたい自分を演じることを求めるものである。しかし、何故そんな事をするのか。それは結局、私達自身が最も私達自身のことを知らないという、まさにその事に尽きる。私達は自分がどんなものなのかを知らない。だから外見して「これだ!」と思ったものに自分を当てはめて、それが本当の自分であるかのように演じたりしてみる。思春期の頃、液晶画面や本の中で、私達は自分のお気に入りのキャラクターを見つけ、その対象に感情移入し、「これはまさに自分だ」と思ったりした。その時、私達はそのキャラクターを演じてはなかったか。この事からもわかるように、私達は常に、自分を演じようとする生き物なのである。

 ドラマ化の問題。人は自分の知っているものの仮面を通して、自分自身を演じようとするものだ。言い換えるならば、自分自身をドラマ化しなければ、私達は自分にまつわることを知ることが出来ず、また自分を表現することも出来ないのである。ここで先程の「赦す/赦さない」の問題に戻ろうかと思う。赦せないものを受け入れる時、人は自分の中で信じていたものが崩れるのではないかという恐れを抱く。しかし、それが本当に崩れるかどうかはわからないのである。たとえばそう、頭の中で思い浮かべたことを、そのまま口にしてみてほしい。誰もそれが出来ないことに気がつく。書くことについても同じで、頭の中で考えていたことを文字に起こそうとすると、必ずしも考えていたほど上手く筆が運ばないことに気がつく。それと同様に、認めたくないものを認めたくないものを認めた時、必ずしも自分が認めたくないものになるとは限らないのである。

 だからこそ、認めるということ = 赦すという行為には、常に賭け事に似たものが付きまとうこととなる。

 結局、全ては賭けなのである。賭け事の本質はその連続性にある。一つの賭けの内には、常に別の賭けが含まれている。結果はどうであれ、一度サイコロを振って終わりの賭けなど、賭けではない。「よし、ならもう一度」と言って再びサイコロを振るから、それは賭けなのである。勝とうが負けようが、あらゆる賭け事は連続する。そしてまた、賭けるということは実験するということでもある。一回サイコロを振る度に、その賭けについて分析しない賭博師が、一体何処にいるだろう。勝負する度に、私達はその内容と結果とを分析する。結局、全ては賭け事であり、実験なのである。しかもそれは、答えの見えない問いであり、到達点なき試行錯誤でもあるのだ。もしありのままの自分を知りえないのならば、どうしてこの実験にゴールを掲げることが出来るだろう。


 生きるということは、いかに自分を騙すかということである。「人生は素晴らしい」という時、人は自分がどれだけ悲しんだのかを誤魔化している。逆に「自分は不幸だ」と嘆き続けている人は、悲しみにばかり目を向けて、自分にも過去に幸福な思い出があるということを誤魔化している。そして、そのどちらにも言えることがある。つまり私達は、喜びに浸るなり悲しみに暮れるなり、そのどちらかによって自分を騙すことで 、自らの生を延命させているのである。

 思えば私達がいつも求めているものとは、自分を延命させてくれるもの、自分を上手く騙してくれるものなのかもしれない。

20/11/03

 はじまり。それはあらかじめ失われる運命にあるものである。たとえば私は、今日までにそれなりの量の本を読んできたつもりであるが、それでも自分が初めて読んだ本のことなんてまるで覚えていない。しかし、ある日これまでにないような読書体験をして、そこから突如私の「読書病 」(リルケによる表現) が始まることとなる。

 これと同様で、物事のはじまりというものは、常に与えられるというよりかは見出されるものだ (実際、私が体験した「はじめて」は、どれも無感動で、ちんけなものばかりだった)。私達にとって、「初めての瞬間」というものは自ずと奪われた状態にある。だからそれは未来において取り返されなければならない。


 人間関係の本質は、お互いにお互いのことを耐えるという点にある。誤解は避けたいが、「耐える」とは何もネガティブな意味ではない。むしろ、それは必然的なものであって、場合によってはポジティブなものでさえあるのだ。それについての説明を、これから試みていきたいと思う。

 さて、人と人の間には意識の流れに違いがある。より一層個性的な人とは、それだけ他人とは違う意識の流れを持つということである。そして、そのような個体化の流れについて、いい例を与えてくれるものがある。それは親子喧嘩だ。

 親は育てる側として、小さい時から子供の頃を見ている。それに何より、親なりの期待や願望があるからこそ子を産み、また育てるわけだが、その一方で、子は成長するにつれてその子だけの自我を持つ。言い換えるならば、子供は成長するにつれて親の期待に添えなくなるのである。前述の通り、自我を持つということは、それだけ一層他人とは異なる意識を持つことである。だから、子供が自分だけの期待や願望を持つにつれて、親子喧嘩は発生しやすくなる。親には親の自我(エゴ)があり、子には子の自我(エゴ)があるからだ。

 自我を持つほど、人は自分だけの世界を持つようになる。そして、誰かを許せないと思ったり、不快に思ったり、おかしいと思ったりするものは、どれも自分の我に合わないものをそこに見出しているからだ。また私達は、それぞれがそれぞれ、微細ながらにも異なった意識 = 自我を持たざるを得ないように出来ている。だからどんなに親しい誰かに対しても、私達は時に、許せない何かを見出してしまうのである。

 こうして「耐える」という事の意味が明らかとなってくる。私は先程、「人間関係の本質は、お互いにお互いのことを耐えるという点にある」と書いた。では、何に耐えるのか。それは「自分との違いを」である。

 こうして次に、「何故人は耐えるのか」という疑問が生まれてくる。理由は様々であろう。ある人は居場所を求めて、ある人は孤独を埋めるため、またある人は暇を潰すため。しかし結局、それら三つはどれも同じ意味であると言っていい。大抵の場合、人が他人の話を聞くのは、自分の話がしたいからである。誰かに好き勝手話させることで、自分も話したいだけ話す権利を得ようとしているのだ。

 何にせよ、私達が人間関係に耐えるのは、その先にある別の利益を求めてるからである。そしてその利益には、何も実際的なものだけではなく、相手の声を聞くことの喜びや、何かを話し合うことの面白さ、またはただただ相手と関わりたいという欲求も含まれているのである。

 こうして私達は今、新たに一つの仮説に出会うことが出来た。それはつまり、私達は、それぞれがそれぞれ、自分が「耐えたい」と思える相手を探しているのではないか、ということだ。人にはそれぞれ異なった意識の流れがあり、私達の意識の間には、必ず何か乗り越えがたい壁がある。だからこそ人間関係の本質は「耐える」ことにあるわけだが、ならば私達は、それらの意識の違いを踏まえた上でも関係したい誰かを、「耐えたい」誰かを求めていると言えるのではないだろうか。この場合、「耐える」とはただ意識の違いに耐えるというだけではなく、担うや、背負うという意味をも含まれている。苦痛と快楽は相対的なものであり、喜びを欲するならば、私達はある程度の悲しみを負うことを強いられる。そして、それを踏まえた上でなお喜びを欲するのだとしたら、それは苦しみに耐えても、それを担い背負ってでも欲する喜びがそこにあるからだと言える。

 レディオヘッドの歌詞に次のようなものがある。「I only stick with you / Because there are no others (君にしがみついている/他には誰もいないから) 」何ともナイーブな歌詞だが、これはまさに「耐える」ことの本質を歌っていると言っていい。この楽曲の主人公にとって、自分が苦しんでも背負いたいと思える存在がその相手しかいない、という訳だ。しかしそれは、「背負えない = 耐えられない」となった時に、あらゆる人間関係は終わるということをも示唆している。

 では次に、このような「耐えたい」( = 担いたい)人間関係とは、一体どうやって始まるのかについて考えてみよう。私がここで思い出すのは、ドゥルーズガタリとの出会いについて思い出す時によく語る言葉だ。つまり、彼はよくよく次のようなことを語っていたのである。「(出会った当初) ガタリは私が彼よりも先を行っていると感じていたし、私に何かを期待していた。しかし、私からすれば、彼の方が私より先を行っているように感じた」と。美しい出会い。それは、対象がこちらにないものを持っているように思われる時、それでいて、対象に「自分と同じだ」という共感を覚える時である。


 どんな友情や愛情にも、必ず不信の念が起こる瞬間が訪れる。人はそれぞれが違う世界 = 意識を持っているのだから、それは当たり前の話だ。だから、この世に永遠に続く信頼などというものは存在しない。しかし、それでも、失われても再び帰ってくるもの、それなら存在する。さて、リルケが思い出についてこう書いている。「思い出が多くなれば、次にはそれを忘れる必要がある」と。もし本当に大切な思い出ならば、忘れられたとしても、それは必ず再び帰ってくるのである。

 それと同様に、この世に永遠の愛なんてものは存在しない。ただ一つだけ確かなことがある。それは永遠によみがえる愛が存在するということだ。


 社交的な会話には、ある種の暗号読解とも言うべき性格がある。たとえば、ある人が「お綺麗ですね」と言ったとすれば、そのとき言われた側は「ええ私は綺麗です」と答えるのではなく「いえいえそんなことありません」と答えることを求められている。もとい、正確には別にそう答える必要はないのだが、そう答えた方がより「社交的」なのである。

 このように、社交は一つ一つの身振りを読解するべき記号として提示する。そして、それを上手く読み解いて、かけるべき言葉をかけた人が、「いい人」だとか「素敵な人」として持ち上げられるのである。

 こうして社交における次の特徴が見出される。それは、社交的な会話には暗黙のルールがあるということだ。社交する際に、人々が自ずと発する記号 = 暗号が一体どのようなものであるのか、それを不明瞭ながらにも規定している暗黙のルール。社交界において「いい人」 として認められるためには、そのルールを、言葉にならなくとも感じ取っておく必要がある。こうしたらああする、あのような仕草があったらこのような事を言う。そのような記号 = 暗号読解のルールを、意識的であれ無意識的であれ、感じ取った者だけが「社交的」になる権利を持つわけだ。

 さて、今や私達の前に社交の場における 「いい人/悪い人」「素敵/つまらない」「モテる/モテない」の定義が明らかとなって来た。周囲から「やさしい」と評判の人間は、社交の場において、相手の仕草 = 記号を上手く読み解き、必要に応じて語るべき言葉を心得ているからこそ「やさしい」と評される。また「異性にモテる」と評判の人間も同じで、異性を前にした時、相手に対して「適切な振る舞い」が出来る (異性に対する/異性の発する記号とルールの読解に長けている)からこそ「モテる」と評される。つまり、それらの問題は、どれも社交における記号とルールのメカニズムを満たすことが出来るか否かにかかってくる。言い換えるならば、このメカニズムに順応出来ない人 (記号とルールを上手く読み取れない人、または読み取りたくない人)は「嫌な奴」とか「退屈」だとか「魅力がない」とかの理由をこじつけられて、社交の場から排除される(除け者にされる)。そして、このメカニズムに順応出来たものだけが社交の場において「人気者」として取り扱われるのである。

 このように、社交する際、人は動いているというよりかはむしろ動かされているのだと言える。何によってか?それは他ならない、システムによってである。

 このような話をするからと言って、私自身は別に人気者なわけではない (ただ、かといって決して社交の場から除外されている訳でもないのだが) 。白状するが、私は人とのコミュニケーションが苦手だ。調子が悪い時はよくどもるし、頭が上手く働かなくて、相手の言葉に数秒遅れて返すこともある。あとは、一定のタイプの人を前にすると緊張してうまく話せない。声が小さくなったりする。しかし、丁度病気になった時だけ、人が健康について考えるのと同様で、そういった弱点があるからこそ、私はこのような考えを巡らせたりするわけだ。

 ただ、社交は内輪の関係よりかはマシなものがあると言っていいかもしれない。私の好きなベルイマンの映画のセリフで、次のようなものがある。「いわゆる『人付き合い』の主な内容は、その場にいない誰かの噂話や陰口を言うことだ。」然り。しかも、それは関係が内輪になっていくほど益々酷くなっていく。それよりかは、一定の記号 = 暗号とルール読解だけをすればいい社交の方が遥かに気が楽である。少なくとも、そちらの方が誠実で、陰湿さがない。


 時折、初めて知り合った人なり、またはまだ知り合って間もない人となりと話していると、「ああ、自分はそんな風な人間に見られているんだな」と思うような言葉に出会うことがある。その時、決まって私が感じるのは悲しみである。いや、それだと少し適切ではないかもしれない。そう、私は寂しいのである。人から自分の印象を聞く機会がある時、私が必ず感じるのはある種の寂しさだ。何故寂しいのか。自分が何か誤解されていると感じるからだ。では、私はどのような印象を他人から聞いたのか。それについては、恥ずかしいからここでは書かないでおこうと思う。

 ただ、私は普段から好んで他人に誤解されることを求めていた。だからこうなるのは自業自得なのかもしれない。

 今日に至るまで、私は自分なりの最善を尽くしてきたつもりである。少なくとも「こうするしかない」を常に生きてきたつもりだ。しかしその結果として、まるで罪人のように誰かに責められる。そのような経験を、今日までに何度かしたことがある。いや、今も尚、私は誰かに責められているのかもしれない。なるほど、確かに私は罪人なのだろう。しかし、それなら教えて欲しい。一体私はどうやって生きればよかったのか。

 ただ、そうは言っても、やはり時にはこう思わざるを得ないのである。「自分にはもっと別の人生があったのではないか」と。その時、必ずと言っていいほど、後悔が私を襲う。そして私は思いを馳せる、あったかもしれない人生の可能性に。人は後悔に駆られると、明日よりかは昨日を求めるものだ。過去をやり直して、存在しない昨日を生きたいと願うのである。

 そんな事ばかりを考えていたら、気がつけば一日が終わっていた。実に無意義な一日であったと思われる。