21/09/11

スピノザがしばしば指摘するように、子供時代は無力と束縛の状態、無分別の状態である。そこで我々は極度に外的な諸原因に依存しており、また喜びよりも悲しみの方を必然的に多く抱いている。我々がこれほど自らの活動力から分離された時代は他にない。」

 眠れない夜が続く。何もせずに寝返りばかりを打っていると、どうにも余計なことばかり考えてしまう。そして頭に浮かぶのは、いつも決まって嫌な思い出である。

 人間、生きていると思い出したい事より思い出したくない事の方が増えていくものだ。かつて他人にされた嫌な思い出と、かつて自分がした嫌な思い出。どちらにしても沢山あるが、しかし不思議なもので、他人にされた悪事については、時が経つにつれて次第に忘れていってしまう。というよりかはむしろ「思い出しても昔のように苦しまなくなっていく」と書いた方が適切だろう。かつての私は、今の自分の苦しみの全ての原因が過去の不幸にあるのだと思っていた(「そうだ、俺が今こんな風に苦しんでいるのは、全部あれのせいなんだ……」)。しかし、今は違う。最近ではむしろ、かつて自分のした馬鹿な行いばかり思い出している。どれも恥を覚えずには思い出せないことばかりである。私は今日まで、酷いことを沢山してきた。本当に、本当に馬鹿げたことを沢山してしまった。

 夜、眠れない間にそれらの事を思い出しては、ひとり勝手に頭を抱える時間を過ごしている。もう幾度そんな夜を過ごしてきたか知らない。以下に続く文章は、そのような不眠に悩まされた晩に私が書いたものである。今日はここにそれを吐き出すことで、少し気持ちを落ち着けようと思う。

 あれは私が高校生の頃のことだった。ある日私は、別の高校に進学した中学時代の友人に偶然道端で出会った。そしてその場で彼と話を始めた。どうやら友人はある男を待っているらしかった。それは彼と同じ高校にいる人間で、彼を含む私と同じ中学出身の人間の多くと仲良くしているらしかった。

 やがてその男が現れた。友人は私に彼を紹介した。仮にここでは、この男をAと呼ぼうと思う。

 Aは奇妙な男だった。しかしどういう訳か、私と彼はすぐに仲良くなった。今考えると、私と彼は何処となく似ていた。しかし、この話は今はしないでおこう。それよりも、そもそもAの何がそんなに奇妙だったのかを語る必要があるだろう。Aの奇妙さには幾つかの特徴がある。しかし中でも特筆すべき点として、彼には純粋にして天才的な悪意があったと言わなければならない。そう、Aは悪意の天才だった。私がそう語るのにも理由がある。Aは私の中学時代の同級生を、高校でいじめていたのである。私はその同級生とかなり仲が良かった(仮にここではこの同級生のことをBと呼ぼう)。しかし何より奇妙なことに、Aは自分がBをいじめていることを、嬉しそうによく語ったのである。

 初めて会った時から、Aは私にその話をした。今でも覚えているが、Bがいじめられている動画を、かつてAに見せてもらったことがある。動画の中で、Bは突然どこかの部屋に閉じ込められてしまい、「やめろ、やめろよ」と叫びながら扉をガンガン叩いている。しかし撮影者側は扉を開けずに、画面の外で笑い声を上げている。勿論この撮影者側にはAが含まれていた。もとい、Aは嬉々としてBへのいじめを先導していたと言っていい。しかしAだけではない。当時の私の中学の同級生で、その高校に通った者の大半はBへのいじめに加担した。ここがまたこの話の奇妙な点の一つであり、その中にはBと仲が良かった人間も何人かいたのである。しかも、皆「自分がいじめられるのが怖いから加担した」というわけではない。その高校に通う人間で、かつての同級生に会う度に、誰もが楽しそうにBへのいじめについて話した。

 この奇妙な現象の原因が何であるかは知らない。しかし私達に対して圧倒的な影響力を誇っていたのは、やはりAであった。Aは不思議な男だった。勿論私は、ここでこのいじめの責任を全部Aに擦り付けるつもりはない。ただ、私を含むBのかつての同級生達だけでは、到底あんな事をする気にはならなかっただろう。しかし、こんな事ばかり語っていると、まるでAが悪者のように見えてしまう。実際、当時の彼は悪役を演じていたと言えるかもしれないが、しかしかつての友人として、私はここでAの弁護をしなければならない。というのも、私達は本当に仲が良かったからである。高校も違うのに、私達はよく放課後に二人だけで集まっては、レンタルショップに並ぶDVDを何時間も眺めたりしていた。その後ファミリーレストランに二人で向かい、「いつか映画が撮りたいな」なんて話をしたのもよく覚えている。あの頃、私達は本当に奇妙な友情の日々を送っていた。

 Aが何故あのような人間になったのか。他人である以上、その原因は完全に断定できないが、恐らくその一つとして彼の家庭環境が挙げられると思われる。いつだか彼の家に遊びに行った時、私は非常に驚いたのを記憶している。そこには彼の母親によって用意された「来客用の椅子」があった。背もたれのない椅子で、座る部分には新聞紙がガムテームでぐるぐる巻きに貼ってあった。A曰く、「外から来る人は皆汚いから、これに座るようお願いしている」との事だった。私は驚きながら彼を見つめたが、しかし彼自身はそれに何の疑問も持っていないようであった。他にも印象的な話を聞いたことがある。子供の頃、彼は母親からなにかの節に「汚い」とされて、寒い夜に一時間以上外に放り出された事があるらしい。恐らく私に語っていないだけで、似たような経験は他にも沢山あるのだろう。父親に関しては、時折怒って殴られたらしいが、基本的に関係は良好であるらしかった (彼はよく父に対する尊敬が垣間見える言葉を口にしたものである)。

 この母親との複雑な関係が原因なのか、それとも女性関連で別の何かがあったのか、Bは恐ろしく女性のことを嫌っていた。大抵の女性は自分より馬鹿だと思い、見下していた。「女は感情的で頭が悪い」と、彼が語るのを何度か見た事がある。また、それに関係があるかは知らないが、Aは非常に被害妄想が強く、疑り深かった。これもまた彼が以前私に語ってくれたことだが、中学を卒業後、彼とは別の高校に行った同級生が「皆自分のことを馬鹿にしていると思っていたが、実際に会ってみるとそんな事もなくて安心した」との事だった。

(余談になるが、その話を聞いた時、私は彼に対して妙に親近感を覚えたのを記憶している。私もまた、自分の中学時代の同級生が、皆自分のことを見下していると思っていたからだ。だからこそ、久しぶりにかつての旧友達と街中で会うと、結構よく驚いた。皆私に親しげに話しかけてくれるから。Aが「〇〇がお前に会いたがってたよ」なんて話をしてくれた時も、やはり同様の驚きを覚えたものである。私とAは変なところでよく似ていた。)

 話を巻き戻そう。私が先述の動画を観たのは、その高校に通うある友人の家に皆で集まっている時であった。当時、Aや私を含むグループの人間は、皆その家に集まることが習慣になっていた。Aが例の動画を見せた時、誰もが大笑いしていた。それは私にしても同じだった。今考えると実に不思議である。私はこのいじめられている少年とあんなにも仲が良かったのに、今では彼が酷い目に合っているのを見て笑っているのである。中学時代、Bと私は本当に仲が良かった。私達はよく互いにじゃれあったものである。あの頃の私は、目の前で流れている動画を、恐らくその「じゃれあい」の延長線上にあるものだと思っていたのかもしれない。今だからそれが笑い事ではないことを知っている。しかし当時の私にはそれがわからなかったのである。それくらい他人の気持ちを考えることの出来ない子供だったのだ。

 あの頃の私達は、皆どうかしていた。Aの周囲の人間は、皆口を揃えてBと再び関わることを避けていた。私にしても同じだった。この傾向は、次第に別の高校の同級生達にも伝染していった。ある時、私ともAとも違う高校に通うある友人が、Bに久しぶりに連絡を入れた。彼はBの近況を聞いて心配している振りをしているらしかった。勿論Bはそれに喜んだ。そして「頼りにしている」という内容のメッセージを彼に送った。後日、その男はBから来たそのメッセージを皆に見せて回った。そして心から面白がった。Aも私も、そして他の皆も、やはりそれを観て笑っていた。今考えれば実に不気味な光景である。

 しかし、Aと私が知り合ってから丁度一年が経つ頃に、どういう訳か不意に私達は疎遠になった。仲違いしたというわけではなく、気がついたら会わなくなっていたのである。受験について考え始める時期になっていたから、お互い勉強が忙しかったというのもあるだろう。時折メッセージのやり取りをしつつも、それから一年以上もの間、私達は一度も会わなくなってしまった。

 やがてBのいじめが終わった事を人づてに聞いた。その頃には、私も自分が馬鹿なことをしていたことにやっと気がついた。Bは私がA達と仲良くしていることに気づいていた。ある日、何故かは忘れたが、Bと二人で夜道を散歩したことがある。その時、Bが当時の私に「本当にムカついていた」ということを教えてもらった。私は謝った。許されたかどうかはさておき、その程度で済ませて貰えたのだから、それに感謝しなければならなかった。

 しかし、それでも当時のことを思い出しては、本当に馬鹿なことをしたという気持ちになることが多々ある。私自身、それより前にいじめられた事がないわけではなかった。上履きを隠されたこともあれば、バックをゴミ箱に捨てられたこともあった。上級生から一方的に殴られたこともある。にも関わらず、一体何故自分はあんな事をしてしまったのか。眠れない夜に考えることの一つは、やはりそれである。

 恐らくその理由の一つとして、独りになるのが怖かったというのが挙げれらる。別に一人で過ごすのが嫌いだったわけではない。ただ、ひとりぼっちは寂しくて、惨めで、馬鹿にされる。そう思っていたのだ。だから誰かと一緒につるむことを、誰かと一緒に笑うことを求めていた。それで他人から見下されなくて済むと、自分を惨めな奴だと考えなくて済むと思っていた。あの頃の私は、本当に、本当に愚かだった。本当に馬鹿者であった。

「[聖書における]最初の人間、アダムは人類の子供時代である。それ故、スピノザは罪を犯す以前のアダムを理性的、自由、完全な者として示すキリスト教的あるいは合理主義的な伝統に強く反対する。むしろアダムを一人の子供として、すなわち悲しく、弱く、隷属的で、無知で、偶然的な出会いに身を任せる人間として想像しなければならない。(……)弱さを解き明かすのは罪ではない。罪の神話を解き明かすのは我々の最初の弱さである。」

 子供の頃、私は自由になることを願った。そして自由になるために、早く大人になることを願った。しかし大人になった今、自分がそれ以上の者に憧れていることを知っている。ほとんどの大人は、子供時代の影から抜け出せないまま大人になる。皆、どうすれば「いい大人」になれるのかがわからないからである。無論、私もそうだ。だからこそ、大人になるほど、人は大人に失望し始める。大抵の「大人」は、上っ面だけそれっぽく振舞っているだけで、屁理屈を捏ねて現実の馬鹿馬鹿しさを誤魔化すことばかりを覚えていくものだ。それが一般に言う「大人」になるということだ。そして皆それに合わせていく。ならば今、私はそれ以上の者になることに憧れざるを得ない。

 「理性的である」とは何か。理性的な人間とは、孤立することを恐れない者を指す。世の中の大抵の愚劣な行いは、皆孤独を恐れることから始まる。それは私が身をもって体験したことであり、また世の多くの人が体験しつつあることでもあると思われる。人は孤独を恐れて馬鹿げたことをする。広い目で見れば、全体主義にしてもそうであり、また一夜限りの肉体関係にしてもそうだ。皆、孤独を逃れようとして馬鹿な行いに走るのである。ならば理性的な人間とは、孤立することを恐れない者を指すと言っていい。言い換えるならば、非理性的な人間とは、無闇やたらに誰かと繋がることを求める者のことである。孤独を恐れ、孤立を恐れて、いつも誰かと居ることを求めた子供時代は、私にとって冷たく、悲しい時代である。寂しさを恐れ、退屈を怖がり、下らないと思いながらも同じ人間関係をずるずると引きずり続ける。その結果として、実に恥ずべき現実に直面する人が、どれほどいることか。孤立を恐れる時こそ人は恥ずべき妥協を行うのである。「人間は理性によっては生きられない」などと言っても何も始まらない。問題は、いかにして思考不可能な諸力を思考可能なものに変換するかということである。そのために孤立し、孤独に陥ることになろうとも、それは大した問題ではない。


 私の故郷はとても陰湿な街だった。中学の頃、クラスの担任をしていた先生がブログをやっている事が、生徒たちに何処からともなく漏れ始めた。アバターを使い、HNを用いて、現実とは異なった言葉遣いをしているネット上での先生の姿は、当時の学生達からは気味悪がられた。結果として、先生は生徒からいじめられ始めた。男子からは無視され、女子からは「キモい」と陰口をささやかれた。怒ろうとしても皆に笑われて終わった。ある日、先生はついにそれに耐えられなくなった。帰りのHRで、先生はクラスの皆に紙を配り始めた。そして言った。 今の自分はこんなにも生徒から嫌われている。だから教師をする自信がない。君達の担任をする資格があるかわからない。だから今から配るアンケートに対して、これかは私にどうして欲しいか書いて欲しい。もし私がまだ担任をしてもいいと思ってくれる人がいるならば、その人は〇を。やはり私にして欲しくないと思うならば、その人は×を書いて欲しい。

 当時、そのクラスの生徒だった私は、流石に自分達がやりすぎていることを知っていた。そして先生の弱りきった態度を見て「悪い事をした」という気持ちになった。アンケートには〇を書いた。こんなに先生が追い詰められている以上、きっと皆も先生を許すだろうと思った。皆も〇を書くだろうと思った。

 しかし違った。投票の結果、〇は私を含め二、三人くらいしかいなかった。他の生徒は全員×と書いていた。先生は悲しそうに項垂れて、「そうか」と言った。そして次の日から、クラスのHRは学年主任が行うこととなった。先生は毎朝、それをクラスの外の廊下に立ちながら眺めていた。一連の事件が起きたのは、秋か冬の頃であったと記憶している。廊下から私達を眺める先生の悔しそうな顔を、私は今でも忘れられない。


 子供時代。自分の無力さに悩まされた、不可解で嫌な時代。勿論そこには数々の美しい思い出がある。私と仲が良かった少女達との思い出、唯一無二の親友Cとの思い出、私の愛した人達との思い出。しかしそれを覆い隠すほど、恥辱を覚えざるを得ない、いやらしい記憶が数多ある。かつて、私は不潔で不愉快なことに幾度となく手を染めた。また、不潔で不愉快な目に幾度となく遭った。故郷の人達を悪く言うつもりはない。皆、かつての私にとって大切な存在である。しかし、決して故郷で今一度暮らしたいとは思わない。あまりにも沢山の嫌な思い出がある。それに囲まれながら暮らすなんて耐えられない話だ。今日までに何度、自分の子供時代をなかった事にしたいと思ったか知らない。出来れば皆過去の私を忘れて欲しいとさえ思っている。そして出来れば、誰にも過去の自分を深追いして欲しくないとも思っている。

ライプニッツが言うように、呪われた者は永遠に呪われているのではなく、ただ「いつでも呪われうる」のであって、各々の瞬間に自分を地獄に落としている。(……)彼らは復讐の人、怨念の人であって、ニーチェが後に描くように、自らの過去の結果を被っているのではなく、あたかも現在の、現前する過去の痕跡と決別することが出来ないで、毎日、毎時、それを新たに刻みつけているかのようだ。」

21/09/07

 時に人は、喜びのために苦しみを求めようとする。あるいはむしろ、喜びを求めて苦しみを得ようとする、と言い換えてもいいかもしれない。

 かつてはドゥルーズも『ディオニス・マスコロとの往復書簡』の中で、その事について触れたことがある。彼によれば、彼の尊敬する作家達は皆、思考を開始するために思考に苦しみを強いるものを必要としたという。キェルケゴールにおいては、それはレギーネとの婚約であった。クロソウスキーサルトルにおいては、それはカップルの(彼らの恋人との)問題であった。プルーストにおいては、それは嫉妬深い愛であり、ディオニス・マスコロとブランショにおいては、それが友情であった。種類は違えど皆、ただ誰かと語り、思い出し、喜ぶことを求めたのではなく、むしろ誰かと共に、あるいは誰かのために「記憶喪失、失語症のような、思考にとってのあらゆる試練」を体験したのである。

「ドイツのどの詩人であったか忘れましたが、彼は犬と狼の間の時刻、その時は「友でさえも」警戒しなくてはならない、そういう時刻について語っています。人はそこまで、友に対する警戒に行き着くことがある。そしてこうした全ての事は、友情と共に本質的な仕方で、思考の中に「苦しみ」を注ぎ込みます。」

 ここで私が思い出すのは、ラ・ロシュフコーの次の箴言である。「大部分の女が友情にほとんど心を動かされないのは、恋を知ったあとでは友情が味気ないからだ。」

 今どき男/女という価値観で物を語ること自体時代遅れだろうが、しかし上のラ・ロシュフコーの言葉には未だ耳を傾けるだけの価値があるように思われる。というのも、人が恋愛 (あるいは性愛) を求めるのは、何も性的欲求のためだけではないからだ。恋愛が他にはない苦しみを注ぎ込む時、人は恋愛を欲するようになる。家族や友人に囲まれていて、傍から見ると幸せそうなのに、心のどこかで退屈していて、この味気ない日々を終わらせてくれる何かを求めている。そのような人が、この世にどれほどいることか。

 勿論人が恋愛 - 性愛を求める理由は他にもある。これはよくよく考えている事だが、恋愛には非常に資本主義的な側面がある。ビジネスの基本、それは詐欺である。新しい商品を売る上で肝心なことは、それをいかに魅力的に見せるかであって、商品の中身が実際に魅力的であるかどうかは大して問題ではない。何故なら、消費者は初めから中身の善し悪しなど求めてないからである。消費者が求めているもの、それは商品の性質ではなく、ただそれが自分を満足させてくれるかどうかである。じゃがりこの新商品が発売されたとして、誰もそれが他のじゃがりことどう違うのか知りたいとは思わないだろう。ただそれが自分に魅力的に見えるかどうか、自分を満足させてくれるかどうかにだけ注目する。よって販売者は、この商品の中身がいかなるものかを知るよりも、むしろこの商品をいかにして魅力的に演出するかを考えなければならない。

 自由恋愛においては、恋愛が一つの経済となる。男性は女性から評価される商品となり、女性は男性から評価される商品となる。そして「売れ残り」のものは、誰からも魅力を感じられない商品として、恋愛 = 経済における貧困層の烙印を押されることとなる。こうして恋愛によって、目に見える経済とは異なる、目に見えない経済格差が社会に導入されることとなる。今や両性は、学歴、収入、社会的地位と同じくらいに自分の恋愛的な価値 = 需要を重要視し始める。この場合、経験人数が何人であるかは大して問題ではない。むしろどれだけ自分が異性から恋愛的に眼差されているかが問題となる。しかし、そもそもそれは計測したり推し量ったりすることが出来ない内容だ。だからこそ、今の自分がいかに異性から魅力的に見えるかどうかを、また実際に今日までに自分が魅力的に見られてきたかどうかを演出することが問題となる。これが恋愛 = 競争 = ビジネス = 社会における本質であり、今やじゃがりこの新商品に求められていたものが私達自身にも求められるようになる。ある場合において、恋愛の本質とは詐欺である。いかにして自分を魅力的に見せるかが問題である以上、恋愛とは一つの競走であり、ゲームであり、騙し合いである。自分を商品として売り込み、また相手を商品として獲得する以上、自由恋愛には経済的な格差が存在し、そこで生き残るためにはビジネスが必要とされる。

 しかし、どうやら私が話したい内容と少しズレてしまったようだ。とにかく、人が恋愛を求める理由は沢山ある。上に書いたように、恋愛 = 経済において勝ちたい、「誰にも愛されない惨めな奴」だと思われたくない(貧困層として見下されたくない)という人もいれば、単に退屈だから恋愛がしたいという人もいるだろう。もしくはもっと実直に、誰かに愛されたい、満たされたい、必要とされたい、という気持ちを抱いている人もいるかもしれない。そのような場合、人は自分の精神的な拠り所として恋愛的なパートナーを求める傾向にある。「しかし、それなら友人でいいのではないか」という指摘もあるだろう。勿論その通りだ。だからこそ、何故人は友情ではなく恋愛を求めるのかと問わなければならない。恐らくこの問いには、ふつう人が思っているよりも遥かに注目すべき価値がある。

 ドゥルーズプルースト論にはある一つのテーマが存在する。それは恋愛におけるコミュニケーションの放棄である。彼は本の中で次のように書いている。「友情は、誤解に基づく偽りのコミュニケーションを確立するだけで、偽りの窓を通り抜けるだけである。だからこそ愛はもっと聡明に、あらゆるコミュニケーションを原則として放棄する。」

 しかし、そもそも何故人は恋愛においてコミュニケーションを放棄するのか。それは、恋愛の最中にいる人々が、相手の言動を常に暗号化するからだ。相手の一挙一動が、自分の心を揺さぶり、また時には自分の心を不安にさせる、ある種の啓示のように思われる。恋愛において、人は恋人の言葉や行動をどれも解釈し紐解くべき暗号として消費するのである。

 友情とは、相手に対する信頼と尊敬に基づいて成り立つものだ。彼はこういう人物だ、アイツなら安心出来る。そのような敬意があるからこそ、人は誰かとの友情を保つことが出来る。しかしこれは、ある程度相手に距離を保つことによってしか成り立たないものでもある。必要以上に距離を詰めれば、人は次第に相手への執着心を募らせていき、そして執着するからこそ、相手の一挙一動に益々不安になってくる。次第に相手が自分の信じているような人間ではないのではないかという猜疑心が起こり始める。相手への信頼と尊敬を忘れ、酷いことをしたり、暴言を吐いたりするようになる。だからこそ友情を保つためには、必要以上に相手のことを掘り下げない、偽のコミュニケーションが必要となる。それを導入しなければ、あらゆる友情は終わりを迎えてしまうからだ。

 だからこそ、恋愛において、人はコミュニケーションを放棄する。相手に執着し、相手を疑うからこそ、相手の一つ一つの言動を暗号化し、彼/彼女が何故そんなことをするのか、あの人は今一体何を考えていて、これからどうするのだろうか、その答えを導き出そうとする。信頼と尊敬に基づいた単純な会話が終わり、腹の探り合いが、暗号の読解が、駆け引きのゲームが始まる。場合によっては、それは一方通行かもしれないし、もしくは二人が互いに誤解し合っているだけかもしれない。しかし何であれ、このゲームには苦しみが付きまとう。相手を疑うことの苦しみ、いるかわからない浮気相手を想像することの苦しみ、嫉妬と束縛の苦しみ、相手の態度が嘘か本当かで悩むことの苦しみ。普段の私達が、誰かへ信頼と尊敬を失わないために設けた距離が取り払われていき、嘘が暴かれ、更にまた別の嘘が明らかになっていく。もしくは嘘に嘘を重ねることで、このゲームが終わらないようにする。あるいは恋人を拘束し、監禁することで、相手の嘘と真実を確かめようとする。嫉妬深い恋人は、奇妙なまでに真実の探求者に似ているものだ。

 そしてこれらの苦痛と戯れが、恋する二人をドラマ化する。恋愛の不幸に苛まれる人は、あたかも自分が舞台の上の登場人物であるかのように振る舞い始めるものである。普段なら恥ずかしくて口にしないことを平気で口にするようになり、そんなキチガイじみた自分を平気で容認するようになる。

 かつてパスカルは次のように書いたことがある。「大抵の人の不幸は部屋でじっとしていられないことから始まる」と。この場合、「部屋でじっとしている」とは「正真正銘何もしないこと」を意味する。自室で一人本を読んだり、楽器を弾いたりすることは、すなわち「部屋で何かをすること」であり、決して「じっとしていること」ではない (だからこそ、パスカルは社交の喜びと並べて孤独の喜びを語ることとなる)。なるほど、確かに大体の人の不幸は部屋でじっとしていられないことから始まるだろう。しかし、このパスカルの示唆に満ちた言葉の裏には、恐らく次のような意味が隠されているのではないか。つまり、大抵の人が恐れるのは、孤独というよりもむしろ退屈なのである。そしてもし孤独に耐えがたさを感じたならば、その人にとって孤独が退屈だからである。

 これらの記述が、そのまま上に書いた問いの答えとなる。つまり、何故友情ではなく恋愛なのか、何故人は精神的なパートナーとして恋人を求めるのか。それは、恋愛がコミュニケーションを放棄するからであり、それがこちらに嫉妬と執着、束縛の念を呼び起こすからである。恋愛は、こちらが退屈をしないよう、私達の心の中に苦痛を伴う刺激を注ぎ込む。そして皆がその苦しみの中毒になってしまうのである。勿論人が精神的なパートナーに恋人を求める理由として、それが世間一般的に「普通」だからというのもあるだろう(「病める時も健やかなる時も、パートナーの事を支える/パートナーに支えられる」という「誓いの言葉」がそのいい例だ)。ただ、それだけではないのも否定できないはずだ。何故なら、時に人は喜びのために苦しみを求めるからである。

 では、そもそも何故人は恋に落ちるのか。それについては、プルーストがある偉大なモチーフを残してくれている。「私は彼女を愛しているのではなく、彼女が内包する風景をも愛していた。」

 人が誰かに執着するためには、そもそも相手が自分にとって意味深いものでなければならない。では何故相手が意味深く見えるのか。それは、相手が今の自分にないものを与えてくれるように思われるからだ。まさに人は、ただ誰かを愛するのではなく、誰かの顔が、体が、身振りが、別のものをも想起させるからこそ愛するのである。ここから、一目惚れの原理もまた説明することが出来るだろう。一目惚れとは、ただただ相手の容姿が綺麗だから生じるのではない。一目見ただけで、相手の容姿の中に、なにか自分にとって意味深いものがあるような気がする。だからこそ人は誰かに一目惚れをするのである。それはあたかも、相手が彷徨う人混みの中から、相手の存在だけを抽出するようなものだと言える。ドゥルーズ=ガタリが書いているように、誰かを愛するとは「常にその人を一個の群集の中で把握すること、その人が加わっている一つのグループから、たとえ家族などのように限られた狭いグループからでもその人を抽出すること」である。

 一方で、このロマンチックなフォール・イン・ラブの現象の裏には、やはり資本主義的なシステムが潜んでいる場合があることも否めない。そもそも、誰かにとって意味深いものとされるためには、それ相応のものをこちらが備えている必要がある。一目惚れの場合は特にそうである。結果として、容姿や身なりが重要となる、ルッキズムの問題が生じることとなる。それに、大抵の人の美的価値観とは似通ったものである。言い換えるならば、そもそもこちらを支配している美的価値観がそこにあって、一目惚れする人の大半はそこから出発しているのである。ではその美的価値観は何処から生まれるのか。無論、それは資本主義である。最初に書いた通り、自由恋愛においては恋愛が一つの経済となる。この経済化された恋愛において、両性はそれぞれがそれぞれ、異性に向けられた商品となり、獲得されるべき対象となる。そして、より優れて美しく見えるものとは、それだけ恋愛 = 資本主義において商品価値があると見なされたものである。だからこそ、その価値観から抜け出した状態でなければ、資本主義を抜きにロマンスを語ることが出来ないわけだ。


 カフカの小説には、よく官僚制のイメージが登場する。実際に役所務めをしていたカフカは、それを生き生きと描くことによって、官僚制のシステムがいかに機能しているか(または今後の世界でいかに機能していくか)を描いた、とも言えるだろう。一方で、小説内でカフカは官僚制に対して批判らしい言葉を一切投げ掛けなかったのも事実である。それを踏まえてか、ドゥルーズ = ガタリは「官僚制の解体を試みながらも、同時に官僚制に魅了されていた者」としてカフカを描いている。

 それはマルクスの資本主義に対する態度にも言えるだろう。ドゥルーズによれば、マルクスは資本主義に魅了されていたというのだ。資本主義は狂っている。それはキチガイめいた前提がなければ成り立たないものだ。なるほどそれは確かに間違いのない事なのだが、しかし資本主義ほど上手く機能するものは他にないのである。だからこそ、マルクスは資本主義に魅了されていたのではないか。でなければ、たとえエンゲルスとの共著であろうとも、あんな馬鹿長い資本主義分析の本を書こうとは思わないはずだ。敵のシステムが正しいか間違っているかはさておき、それを「面白い」と思ってしまう。だからこそ、マルクス資本論を書いたのではないか。

 このカフカと官僚制における問題、マルクスと資本主義における問題は、そのままドゥルーズとカントにおける問題にも当てはまる。ドゥルーズはカントを自らの「敵」として、哲学的なライバルとして看做したことで有名である。彼はカントを「偽の批判の完璧な権化」だと考え、理性の法廷によって一切を裁くカント哲学のシステムに「恐れながらも同時に魅了された」と語る。そして、だからこそドゥルーズはカントのために一冊の本を書く。敵はいかにして機能しているのか、敵の欺瞞は一体どこにあるのか。彼はそれを解き明かそうとしたのである。そんな彼の『カントの批判哲学』は、彼自身「お気に入り」の本だとも語っている。

甘い生活』という映画がある。フェリーニが撮ったもので、彼の作品の中では『8 1/2』と並んで私のお気に入りだ。主人公はゴシップ記者をしながら文学者として大成することに憧れる青年マルチェロ。彼は夜な夜な街を遊び歩きながら、複数の女性と関係を持ち、有名人にちょっかいを出すことで金を稼いでいる。しかし、マルチェロ自身はそんな自分を心のどこかで軽蔑している。そして出来れば早くちゃんとした作家になりたいと思っている。静かで、落ち着いた、幸福な結婚生活を営む友人の家に顔を出すと、その友人に対する憧れを語ることもある。しかし結局彼自身は自堕落な生活から抜け出すことが出来ない。退屈を恐れ、何もせずに夜が明けていくことを恐れている。久しぶりに家族と顔を合わせても、何を話せばいいかわからない。肉親と会話らしい会話をすることも出来ない。やがて自分が羨んでいた友人が、子供二人を殺した後に自殺する。マルチェロはこの世に対する救いのなさを感じる。そして益々退廃的で、軽薄な世界へと身を落としていく……。

 私はこの映画が本当に好きで、何かの節に度々観返している。勿論、私自身はマルチェロのような「甘い生活」を生きる人間ではない。しかし映画を観ていると、何か他人事とさ思えないというか、少なくとも彼に共感を覚えないと言ったら嘘になる。主演のマルチェロ・マストロヤンニが本当にいい演技をしている。マストロヤンニが同じく主演を務めたアントニオーニの『夜』という映画にも言えることだが、キザで、陰のある、作り物めいた表情をする男を演じるのが本当に上手い。動作の一つ一つが偽物めいていて、一切が嘘で出来ているかのような演技をする。私には到底なれっこないが、ああいうニヒルなイケメンに憧れないと言ったら嘘になる。

 それはさておき、こうして何度か『甘い生活』を見返すにつれて、私はある一つの事実に気づいたのである。なるほど、この映画はまさに資本主義の退廃と軽薄さを体現したような映画だ。しかし私は、そのような退廃と軽薄さをキチガイじみたものだと思いながらも、同時にそれをとても面白いものだとも思っている。カフカが官僚制に魅了され、マルクスが資本主義に魅了され、ドゥルーズがカントに魅了されたように、私もまた敵に魅了されているのである。

 初めに行った長い記述が、まさにその証である。この世界は狂っているし、間違っている。しかし、こんなにも見事に機能しているものは他にない。しかし、だからこそそれを批判しなければならない。そしてそれを乗り越えようとしなければならない。こんな事を語るのは馬鹿げているかもしれない。しかし、もし将来私が何らかの形で有名になれたら、上に書いたような恋愛 = 資本主義の関係性を真っ先に批判するような人間になりたいと思う。別に今の自分にそういったパートナーがいる訳ではないのだが、このような時代だからこそ、誠実なもの、真面目なもの、一途なものが求められてもいいのではないか。


甘い生活』や『夜』のような、退廃的な都市生活者を描いた映画と同じくらい、私には好きな映画のジャンルが一つある。それは子供を主人公にした映画だ。『大人は分かってくれない』、『霧の中の風景』、そして『友だちのうちはどこ?』。子供に焦点を置いて、子供の視線をありのままに表現した映画を眺めていると、何だか自分の失われた子供時代のことを思い出してしまい、とても胸が締め付けられてくる。

 大人になると、人はよく子供を自由の象徴として描こうとする。そしてこう語る。「あの頃はよかった」「子供の頃は楽しかった」と。しかし、本当にそうだろうか。むしろ大半の人にとって、子供の頃ほど抑圧された時代は他にないのではないか。学校の先生に友達付き合い、親の機嫌、宿題、そして家事手伝い。家でも学校でも、様々な「やらなきゃいけないこと」の間で板挟みになって、子供が本当に自由になれる場所など何処にもなかったはずだ。

 しかし、大人になるにつれて、人は次第に自由を獲得し始める。そして自由を獲得するにつれて、自由の重みをも知るようになる。独立した存在であること、責任を負うべき者であること、それが自由であることの重みである。だからこそ、何の責任も負わなくて済んだ子供の頃を、あたかも人が本当に自由であった頃のように尊び始める。しかし、実際はそうではない。大人はただ、自由であることに、孤独であることに、独立した存在であることに耐えられなくなって、子供時代を美化するだけだ。だからだろうか、街中で「子供のふり」をして遊ぶ大人を見ると、本当に不愉快な気持ちになることがある。

 いつの時代も、子供は不当な扱いを受けてきた存在だと言える。子供は動物と同じなのだ。動物は暴力的なもののイメージの具現化であり、また暴力を振るわれる対象でもある。人は獣を「野蛮」なものとして扱うが、しかし「調教すべき対象」として、獣に野蛮な暴力を行使する。そして、それは子供についても言えることだ。子供は暴力的なイメージで語られるが、しかし子供ほど大人の暴力の被害をこうむる者は他にいない。子供は野蛮なものとして扱われるが、しかし子供ほど大人の野蛮な暴力の犠牲者となるものはいないのである。子供はよく、純粋で、正直で、嘘をつかないものだとされる。しかしそれは間違いである。子供ほど嘘をつくものは他にいない。大人に叱られるのが怖いからである。ありのままに話しても、大人に怒られるだけなのを子供は知っているのだ。だからこそ嘘をつかざるを得ない。純粋だからこそ、子供は嘘をつかねばならないのである。

 昨日、『友だちのうちはどこ?』を久しぶりに観返しながら、ぼんやりとそんな事を考えていた。子供が自由だなんて、一体誰が言ったのだろう。私達の誰が「自由な子供時代」を過ごしたのだろう。あの不可解で、嫌な思い出が沢山詰まった時代は、一体いつ、何処へ行ってしまったのだろう。

21/09/01

 時間は常に真実を危機に晒す力を持っていた。そう断言しても言い過ぎではないだろう。例えば今目の前にいる子供がいるとして、子供の両親がある日突然離婚したとしよう。この時、その子供には二つの事実が避けがたいものとして突きつけられることとなる。一つは、不可能から可能が生じるということだ。今日まで「当たり前」だと思っていた両親の関係が、ある日突然「当たり前」ではなくなる。有り得ない、不可能なはずのものが、有り得るものに、可能なものになっている。

 この事実は、よってもう一つの事実をも呼び起こす。つまり、過去は必ずしも真ではないということだ。「自分の両親は離婚しない」という信頼のもとで暮らしていた子供の心は、破局を目の前にすることで、親子三人で仲良く暮らしていた頃の記憶が信じられなくなる。時間の経過によって起きた出来事が、子供から過去の真実を奪い去ったのである。

 時間は常に真実を危機に晒す力を持つ。あらゆる事件 - 出来事は時間の経過とともに生じる。もし時間によって真実が壊されるのを裂けたいならば、時間の静止した空間へと、永遠へと逃れなければならない。しかしこの世とは時間の支配する舞台である。もし時間の力から逃れたいならば、自ずとこの世で生きることを諦めなければならない。

 かつてライプニッツは、この時間における真実の危機の問題を、彼の可能世界論によって片付けようとした。つまり、子供の両親が離婚する世界線もあるが、しかし両親が離婚しなかった世界線も存在するということだ。これについては、『バタフライ・エフェクト』や『シュタインズ・ゲート』辺りの映画・アニメを思い浮かべてみれば理解しやすいと思う。時間の経過によって分岐し、枝分かれし続ける世界線がこの世にはある。あの世界線も可能だが、この世界線もやはり可能である。そう考えることによって、ライプニッツは真実の危機を救済しようとしたわけだ。

 しかし、それでも分岐し続けるそれぞれの世界線を共存させることは出来ない。ひとつの未来を選ぶならば、どちらかの未来を諦めなければならない(これをライプニッツは共不可能性と呼んだ)。人が過去を疑うようになるのは、現在から未来にわたって過去を疑わざるを得ないような出来事に直面するからだ。言い換えるならば、人は未来の出来事によって過去の出来事の意味を考慮するようになるということだ。 未来の出来事によって過去の意味が左右される以上、結局時間における真実の危機は解決されていないということになる。

 こうして私達は次の段階に移ることになる。つまり、あらゆる物事は真実であることをやめ、一切が偽である舞台が登場するのである。そして私達は、ライプニッツからニーチェへと席が譲られる瞬間を目撃することとなる。何故ならば、ニーチェこそが初めてこの世界における偽なるものの力能を解き明かしたからである。

 ニーチェによれば、私達の発言や行動はどれも一つの解釈に基づいて行われているという。たとえ本人が意識していないとしても、そこにはその人が信じる世界線が存在し、その解釈に基づいて何からの言動を行う。しかし、それが解釈でしかない以上、常にこちらの信じる世界線は変動し、変化せざるを得ない。また、こちらの信じる真実も姿かたちを変える可能性がある。子供が無邪気に両親に甘えるのは「両親が仲睦まじく、また自分を愛しているからだ」という解釈に基づく行動である。しかし両親が離婚し、父と母のどちらかが子供の前から消えることで、もはや子供はその「解釈」を信じることが出来なくなるのである。

 こうして見えてくるのは、嘘つきの裏にはまた別の嘘つきがいるという事実である。当たり前だが、仲のいい夫婦がある日突然離婚するわけがない。子供の前では気を使って仲良しこよしを演じていたが、しかし実際は冷え切っていたからこそ、ある日突然離婚するわけである。だからこそ、二人の関係が冷えきれるまでには、そこでまた別の嘘が作動していたと言わねばならない。嘘に嘘が連鎖しているのだ。勿論、この連鎖は子供にも伝染する。子供がやがて大人になり、かつての両親と同じような危機に直面したとしても、この子には自分と同じ悲しい思いをさせたくないと思い、その危機を必死に隠そうとするだろう。だからこそ、偽造者はさらにまた別の偽造者を産出するわけだ。

 こちらのあらゆる言動がある解釈に基づいて行われるのだとすれば、私達が意図的に何かを「解釈」するということは(「あれはどういう意味なのか」と考えたりすることは)、自ずと「解釈の解釈」ということになる。こうして更に次の帰結が導き出される。つまり、解釈の上にまた別の解釈が積み重なることで、更にまた異なった解釈 (あるいは行動)が引き起こされるということだ。『ウルフ・オブ・ウォール・ストリート』にそのいい例がある。主人公は自分の妻の叔母と二人でベンチに座っているが、彼女の親しげな様子から「俺を誘っているのか?」と勘ぐり始める。叔母は彼より遥かに年上だが、しかし今後のビジネスのために利用する価値はある。やがて彼女の態度を観察し続けるにつれて「やはり俺を誘っている」という確信を得た主人公は、叔母に身体を密着させ始める。すると叔母はこう考え始める、「この男、私を誘ってるのかしら?」と。やがて主人公の態度を観察し続けると、彼女もまた「やはり私を誘っている」という確信を得ることになる。こうして二人とも、不本意ながらにキスをすることになるのである。

 解釈が別の解釈を引き起こし、それが更にまた別の解釈 - 言動を引き起こすということ。そう考えてみると、どうやらこの世界を突き動かしているのは真実というよりかは、むしろ真実的に見えるものだということになる。つまり、偽なるものの力能がこの世界を突き動かしているのである。真実とは発見されるものではなく、発明されるもの、創造されるものだ。言い換えるならば、それは量産され、でっち上げられるものなのである。

 だからこそ、私達には次のことが必要となってくる。現働的な真実を覆すということ、別の真実を生み出すということ。それは今の自分にとって支配的な解釈を打ち砕くような、新しい解釈を生み出すということでもある。両親の離婚によって危機に晒された子供の心は、彼が世界を解釈するその仕方において危険に晒されているのである。かつてのものが信じられなくなった今、彼はこの世界の全てへの信頼を失おうとしている。ならば取り戻さなければならないのは、この世界に対する信頼である。世界と「私」との間おいて、引き裂かれた絆を取り戻さなければならないのである。
 

 この世界とは、力の、力に対する関係である。言い換えるならば、力は本質的に別の力にしか関係して来ない。この定義は、次の定義をも導き出すことに繋がるだろう。つまり暴力とは、力から派生するものであって、力の本質ではないということだ。レスリングや柔道は、まさに力と力の関係を表している。しかし静止物に対して一方的に当たることは、力以外のもの対し関係することを意味する。力の本質とは、別の力に作用し、また別の力から作用を受けることにある。こちらに関係してこないものに一方的に関わろうとする暴力は、決して力の本質ではないのである。

 しかしこの事実は、同時に、この世には暴力よりも恐るべき力があるということをも意味している。ナチスは戦時中に多くの人を殺したが、しかしそれを行ったのはナチスの兵士であり、ナチスの親玉ではない。ヒトラーは自らの部下を通して暴力を指示したが、しかしヒトラー自身はその最前線で暴力に加担したわけではない。私達が恐れるべきは、暴力ではなく、暴力を行使するよう強いる別の力の存在なのである。しかも、何より恐ろしいことは、それが今なお裁かれることなく生き続けているということだ。ナチスなき今、ナチスに憧れる若者がどれほどいることか。現働化された暴力は、結果的に戦後の裁判によって裁かれた。しかしその行使を強いた別の力は、今なお裁かれることなく生き続けているのである。


 人は好んで人生を自分の知る物語に似せようとする。若い頃は特にそうだ。かつて自分が憧れた物語、自分が心から感動し、共感した物語と、自分の人生を同一視するのである。

 しかし、歳を重ねるにつれて、自分の程度というものを理解する人が増えてくる(「ああ、俺なんてこんなもんか……」)。そうなると、今度は今日までの自分を模倣し始めるのである。過去の自分を繰り返し、再生産することで、馬鹿な目を見ないようにするわけだ。このように、生きるということは、なんであれ自分が模倣する対象を見つけるということだ。

 しかし、ここまでの話を踏まえるならば、私はどうしても物語の持つ力というものを認めざるを得ない。果たして今日まで、どれほど多くの人が物語に魅せられてきたことか。どれほど多くの人が物語に突き動かされてきたことか。シンデレラや白雪姫に憧れた女の子が、かつてどれほどいたことか。しかもこの場合、「物語」とは必ずしも童話や小説のみに限らないのである。かつて実在した人物の生涯さえ、私達の目にはフィクションとして映ることがある。ジム・モリソンにカート・コバーン。若くして死んだロックスターの物語に憧れた少年が、かつてどれほどいたことか。

 物語は民衆を生み出す。もし物語を模倣することによってある一定のタイプの人間が生まれるのだとすれば、新しい物語を描くとは、それ自体新しいタイプの人間が誕生することに繋がる。「人間なんてこんなものだ」と説いて、人間を悪しきものとして描く作品は、よって悪しき物語である。それを模倣して、自ら醜くなり、好んで堕落しようとする若者がどれほどいることか。

 傑作とは、常に人間のもつ新しい可能性を切り開こうとするものだ。今の自分には未知な「力」を描くことによって、今日までの自分には生きることが出来なかった、新しい世界線を提示するのである。ゴッホの描いた絵によって、どれほど多くの画家が新しい絵画のスタイルを見出したことか。ドビュッシーの生み出したピアノ曲によって、どれほど多くの作曲家が新しい作曲法を見出したことか。優れた作品とは、決して今日までの私達の生き様をただ描くだけではなく、未来に誕生する新しい人間のあり方をも提示するものである。ならば物語もそうあらねばならないはずだ。物語とは常に不在の民衆への呼び掛けでなければならない。今はまだ集まることの出来ていない、バラバラになった人々が結束するためのモチーフを描き出さなければならないのだ。新しい人間の生き方を示し、未来の民衆を生み出すことこそが、物語の、フィクションの、偽なるものの力能の役割である。


 自傷行為とトレーニングは似ている。どちらも身体にある一定の刺激を与えることで、身体を緊張させ、元々考えていたことを忘れさせる作用を持つ。やがて身体の緊張が解けた時、それによって人は安心感を得ることも出来るだろう (このように、快楽の発生は、時に不快あるいは緊張からの解放と密接に関わっている場合がある)。

 私が両手をげんこつの状態にして腕立て伏せをする時、当たり前だが、時間の経過とともに拳は潰れるような痛みを感じ始める。しかしそれに伴う緊張が、こちらの苦悩を緩和し、物事をより乾いた眼差しで見ることを可能にする。リストカットをする女性は世に多くいる。彼女達がそれに走る理由はきっと様々だろうが、その内の一つとして、自分の身体を傷つけることによって自分の悩みを忘却させようとしているのではないかと思われる。痛みが体中を駆け巡り、最初はそれに顔を歪める。しかし痛みのおかげで別の痛みを忘れることが出来る。おまけに緊張が解けた時には安息も得られるわけだ。

 しかしこの事は、私達に別の理由をも想起させてくれる。つまり、人が自傷あるいはトレーニングをする理由は、暴力を振るう対象を求めているのに、それが何処にもいないからである。だから暴力の対象を自分にするしかないのだ。痛みによって別の痛みをかき消そうとするのは、そもそも当人が痛みあるいはストレスを抱えていなければ起こさない行動だ。誰かを切りたいが、誰をも切れない。だから自分に刃先を向ける。誰かを苦しめたいが、誰をも苦しめられない。だから自分を苦しめるしかない。自傷と運動は、どちらも力が発散する瞬間、自分に対して力が行使される場所である。

21/08/26

 現代とは「話しすぎ」の時代である。皆、特に話すこともないのに何かを話すよう強いられている。だからこそ苦しんでいるのではないか。言うべきことが何もない。これは実に気持ちいいことである。

 SNSや連絡手段の発達は、私達の生活に多くの恩恵をもたらしたと言える。しかしSNS文化の発達は、同時に一つの弊害を与えたのではないか。つまり、SNSはその場にいない他者の眼差しを私達の生活に導入したのである。メッセージ、ストーリー、ツイート、ライブ配信、など。インターネットを開けば、遠く離れた誰かとたった一秒で繋がることが出来る。だから部屋に一人でいる時でさえ、その場にいない誰かの視線を気にして生きるようになったわけだ。あたかも幽霊に監視されているかのように、そこにいない誰かの存在を意識しながら生きている人々。スマートホンが震動する度に、気ままに背伸びをする喜びが奪われて、目の前にいない他人のことを考えなければならない。私達は孤独を奪われた世代なのである。しかし通知を切ることは難しい。何故ならSNSは今や第二の現実であり、SNSから逃れることは他者から逃れることに他ならないからだ。

 しかし、このようにしてひとりの世界にこもっていると、よく人に病んでいると勘違いされる。が、それはとんでもない話だ。かつてグレン・グールドは次のように語ったことがある。「人と一緒にいたら、そのx倍は孤独でいる必要がある」と。人はよく孤独について誤解している。人生、人といる時間よりも独りでいる時間の方が遥かに長い。孤独を愛することは、それ自体人生を愛することに繋がってくる。少なくとも私の場合、ある程度ひとりでいる時間を持たないと、人と関わるのが苦しくなってしまう。

 語弊を恐れずにいえば、私は人が嫌いである。特定の個人が嫌いというよりも、人といる時間それ自体が苦手だと言っていい。勿論友人や知人と過ごす時間は好きだ。しかしそれは日々の営みの箸休めのような時間である。長引きすぎると、むしろそれが苦しくなってしまう。恐らく、私はそういう病気なのである。誰かが自分の近くにいすぎると、その人を憎んでしまう病気なのだ。そして誰かが憎いあまり、どっと疲れてしまうことがある。私は人を憎みたくない。それは憎しみが人を傷つけるからではなく、自分の憎しみによってむしろ自分が傷ついていくからだ。だからこそ益々人を避けてしまうわけだ。

 一方で、人は嫌いだが、「人間」を愛しているというのも事実である。これは私の持論だが、人間の文化に感動したことのある者は、皆人間愛に満ち溢れているものだといえる。何故なら彼らは、かつて一度でも人間の生みだした偉大な技術や作品に感動したことがあるからだ。だからであろうか、芸術家であれ科学者であれ、あるいは哲学者であれ、そのような人種には人間性に対する楽観というか、人間の持つ能力に対する異様な信頼を抱く者が多い。「凄い、こんなに素晴らしい作品を、自分と同じ人間が生み出したなんて、神にも等しい偉大な所業を、自分と同じ人間が行えるなんて……」。そのような感動が、彼らに人間の持つ能力への信頼を抱かさざるを得ないのである。

 私にしてもそれと同じである。よく「人は愚かで醜いものだ」なんて語る連中がいるが、実に馬鹿げた話である。人間にはこんなにも偉大な、素晴らしい力が備わっているのに、何故それを悲観する必要があるのか。それに、もし人間が本当に「愚かで醜い」ものならば、そんな人間と好んで関わって生きている現実は一体どうなるのか。それこそ惨めで醜い生き方ではないか。私は人間の可能性を信じている。こんなにも偉大で、素晴らしい力を備えた存在を、どうして愛さずにいられよう。これらの言葉を目にして笑い出す人もいるかもしれない。しかし私は大真面目に語っているつもりである。なるほど人によって「都合のいい部分を見ているだけだ」と私を非難することもあるだろう。ならば次のように言い換える必要がある。つまり、私は人間の持つ能力を信じているのだと。

 ならば何故人が嫌いなのかとなる。その理由は簡単だ。それは、私が人に耐えられないからだ。人々の話す声、表情、仕草。唾を飛ばして語り、馴れ馴れしい態度をして、不潔な笑みを浮かべて近づいてくる。そんないやらしい連中がこの世にはよくいるものだ。集団に属する一人一人は好きでも、その集団全体に漂う噂陰口に耐えられないこともある。その場にいない誰かの悪口でも、そこに友情なり愛情なりが感じられれば全然いい。しかしそうでないと実に厳しい気持ちになる。何よりも嫌なのは、私自身がその噂陰口の一部になり、またその噂陰口に加担してしまうことだ。よく、かつて自分がした馬鹿な行いを思い出して、恥を覚えることがある。俺はなんて馬鹿なことをしたのだろう。そのような後悔が中々消えてくれない。しかし、どれだけ悔いても過去は消えないのである。そして悪気がなかったとしても罪はぬぐえないのだ。人と関わることが苦しい、もう一つの理由がここにある。つまり、誰かとの関わりの中でこちらが負わざるを得ない恥辱が耐え難いのである。

(ドゥルーズ=ガタリカフカ論にはたくさんの印象的な言葉が残されているが、その中の一つが今の私の頭から離れないでいる。「誰も法の内側を知らない。誰も流刑地における法がどんなものかを知らない。そして機械についた針は、受刑囚の身体に判決を刻み込んでいき、同時に針は責苦で彼を苛むのであるが、彼はその判決が何か知らない。男は自分の受けた傷から判決を読み解く。」)

 結果として、あまり人前に出たくないという気持ちが強まっていく。どの分野であれ、人前に出て、優秀な功績を残しつつある友人を見ると、誇らしく思うと同時に羨ましく思うことがある。そして自分ももっと人前に出て活動したいという気持ちを抱く。しかしそれが出来ない。何故か。人前に出るのが嫌だからだ。では何故人前に出たくないのか。それは人が嫌いだから、あるいは人が苦手だから、あるいは人が怖いからだ。私は自分に才能があることを、力があることを、願望があることを知っている。しかしそれが実現できないのである。何故なら人が苦手だからだ。

 この感覚が別の苦しみを引き起こす。それは必死で格闘技の練習を重ねてきたのに、試合に出れない選手の苦しみに近い。しかも、彼は怖くてそれが出来ないのである。しかし何故それが怖いのかとなれば、なるほどそこには負けることへの恐怖もあるだろうが、それ以上に必要以上に人の目に止まることが恐ろしいのである。勿論それよりもむしろ誰にも注目されないことを恐れるべきかもしれない。そして実際、誰にも注目されなければそれなりに自尊心が傷つけられることだろう。しかし結局、それは笑って済ませればいいだけの話だ。私が一番嫌なのは、不愉快な他人の眼差しが必要以上にこちらの生活に介入してきて、こちらの気持ちをかき乱すことだ。感傷的で、惨めったらしい、自己憐憫に満ちた、下らない馬鹿どものお喋りに付き合わなければならないことだ。それが一番苦しいことだ。

 それよりかはいっそ孤独にこもった方が遥かに気分がいい。実を言うと、私には他の人が言うような「ひとりでいることの不安や寂しさ」がわからない。孤独はいい、誰も私の邪魔をしないから。読書、音楽、映画、など。孤独には沢山の喜びがある。やがてより多くの喜びを求めて他者の方へと向かおうとする。しかしその時、人前に出ることの苦しさが私の邪魔をする。その時に初めて寂しさのようなものを感じる。しかしそれは、寂しさというよりかは喪失感に近い。私は喜びを感じたいのに、目の前にある世界と私との間には大きな断崖が広がっているのである。世界と私との間に断絶が生じているのだ。その溝はあまりにも深く、今の私には到底飛び越えられないように思われる。だから絶望するしかない。ああ、なんということだ。私は散々「人が嫌いだ」と述べたくせに、人を通してしか得られない喜びを求めているなんて。

 こうしてまた別の問題が提示されることとなる。つまり、いかにして世界と私との間で失われた絆を回復するか。いかにして世界と私との間に繋がりを獲得するか。「引き裂かれるのは、人間と世界の絆である。そうならば、この絆こそが信頼の対象とならなくてはならない。」

 

 

21/08/21

「真理はあなた方を自由にする」とは、確かキリストが『ヨハネによる福音書』で語っていたことである。しかし恐らくこの言葉は、今日までに教育の必要性が説かれてきた理由をも意味している。つまり、知識が人を自由にするということ。学習を深めることによって、こちらを縛る小さな世界から抜け出すことが出来るということ。人が教育機関の必要性を説く理由は、それによってこちらが陥りがちな偏狭な価値観から抜け出すためである。

 しかし一方で、次のような現実もまた否めない。教育とは上から下へなされるものである。だからこそ、人を自由にするため行われているはずの教育が、むしろ生徒達を抑圧しているのである。結果として発生するのが、教育 = 体制が正しいとしていることのに対する反発であり、教育が疎外してきたものに対する傾倒である。ホラー映画に犯罪心理学。学校に馴染めない子供たちは、学校側(先生そして大多数の生徒たち)が「善」としているものを嫌悪しているため、「悪」への興味と関心を深めていく。根暗な中高生達の間では、それがナチスソ連への共感を促し、ファシズムや差別を肯定する流れへと繋がる (「虐殺は駄目だと思うが、しかし自分の尊敬する人物はヒトラーである……」)。人を自由にするはずの知識が、むしろ人を抑圧している。だから子供達は教育から逃れようとし、知識から逃れようとする。これは教育が抱える一つの問題である。

 子供達が求めているもの、それは学校の外で輝いてくれる別の師匠である。かつてドゥルーズは次のように書いたことがある。「学生達は別の師が[学校の外に]いる時にしか、自分の教授の話にちゃんと耳を傾けない」と 。中高生達がヒトラースターリンに憧れないためには、学校の外にいながら、学校とは別の仕方で正義について教えてくれるアウトローな教育者が必要である。ドゥルーズにとっては、サルトルがそれであった。

 しかしだからと言って、現行の教育を非難するつもりはない。何故なら、一つのシステムに対する批判は、常にそのシステムの内部から発せられるべきだからだ。中高はともかく、私は大学を卒業していない。大卒が当たり前となった現代ににおいては、教育課程を正統に満たしていない人間である。だから今の私には教育体制を批判する資格がないわけだ。

 日本の大学教育に関して言えば、それは非常によく機能しているように思われる。未だに「いい大学に通ったからといって何になるんだ」という人がいるが、それは大いに間違っている。元々日本の教育というものは社会で使える人材を育成するように出来ている。決まった期限で課題をまとめ、決まった時間に学校に通う。大学生になれば、自分の手でスケジュールを管理することが必須となる。複雑な問題を処理して、期限以内にレポートを提出しなければならない。そしてサークル活動は社交の場として機能し、「どうすれば社会一般の場において気まずい思いをしなくて済むか」を学生達に教えることとなる。要するに、どれも会社(デスクワーク、企画、営業など)において「使える」内容である。大学四年間を真っ当に過ごすならば、社会において必要とされる優秀な人材が生まれるのは当然のことである。

 勿論それに対する批判も挙がるだろう。一番考えうるものは「大学は教育の場として正確に機能していないのではないか」というものである。しかしそれについて、私は言及する資格を持たない。何故なら大学を卒業していないからだ。前述の通り、もし現行の教育体制を非難したいならば、それは教育体制 = システムの内側からなされなければならない。そうでなければ体制側に響かないからだ。よって、私にはこれ以上何も語る資格がないのである。

(私自身、よく読書会を開いたり、または他の人が開く読書会に顔を出すこともあるから、所謂「著名」な大学に通う友人を得ることが多い。しかし、その度に驚くものである。皆本の内容を処理する能力が異様に高い。そして、だからこそ不明点を見つけ出し、問題を提議することにも長けている。皆、実に優秀な学生である。そんな彼らに交じって本を読んでいると、私は少し自分が恥ずかしくなる。私には到底出来ないことを彼らが成し遂げているからだ。)


『明日、私は誰かのカノジョ』というネット漫画を、今日まで更新される度に読んできた。はじめは内心馬鹿にしながら読んでいたのだが、気がつけば毎週金曜の更新を楽しみにしている自分がいた。サイコミというアプリを通して読んでいるのだが、『明日カノ』を読む以外にサイコミを起動することはない。だから殆どそれのためにダウンロードしていると言っていい。

 ただ、最近の展開には少し驚くものがある。しかしコメント欄を読んでみると、他の読者の人達はむしろ最近の展開に喜んでいるらしい。思わず「皆顔がよければそれでいいのか?」という疑問が湧いてくる。無論私にしても美人は好きだが、しかしそれが全てではないと思っている。ただ、それが綺麗事かもしれないこともよく理解しているつもりだ。世を見ればわかることだが、ルッキズム [外見至上主義] に苦しめられた人ほど、ルッキズムに救いを求めようとする傾向がある (見た目が醜いことでいじめられた女の子が、男性アイドルや二枚目の声優に熱中する……)。若さとは資本であり、端正な容姿はそれだけで世から身を守る道具となる。それは否定したくてもし切れない事実である。

 恋愛と資本主義の間には密接な関係がある。恋愛依存の女性というものをよく見かけるが、彼女達には共通する性質が一つある。学歴、容姿、能力、など。彼女達は必ずそれら特異なものを持った男性に惹かれる(見た目の清潔感はその最低条件として求められる)。また、スキャンダラスな性格をしていたら尚よいとされる。恋愛に依存する理由を聞いてみると、大抵は「自分に自信がないから」という答えが返ってくる。しかしそれは適切ではない。恋愛がある種の階級闘争として機能する場合がある。より「優れた」恋人を持つことは、それによって自己を他者から差別化して、自分が他より豊かな生活を送っているという実感を与えてくれる。スキャンダラスな性格をした恋人は、それだけ自分を危ない世界へと巻き込んで、ここではない何処かへ連れ去ってくれる。それは大変ドラマチックなことで、だからこそただ優しいだけの人には惹かれない。恋愛依存の人達が恐れているのは、不幸な生活よりもむしろ凡庸な生活である。優しくて落ち着いた生活など、退屈で耐えられないのである。

 しかし彼女達をそうさせるのは何かとなれば、それは社会の根底に潜む女性の物質化の現実であり、支配的な男性的価値観の現前である。この社会は間違いなく男性中心的に成り立っている。冷静に考えて、雑誌に露出度の高い女性の写真が載ることや、ポルノ女優がポルノ男優よりも遥かに多いことなどは、それ自体この世界において男性中心的な価値観が支配的であることの表れである。

 しかし男性中心主義の被害者は女性だけでなく、むしろ男性の側にも多く存在する。そして被害者の男性の多くはミソジニー[女性嫌悪]に走る傾向がある。その理由は二つある。一つは競走 - 差別化としての恋愛の現実である。前述の通り、男性中心主義においては女性の物質化が生じる。よって男性間においては「女性をより多く獲得した方が偉い」という価値観が蔓延する (だからこそ童貞が同性から馬鹿にされるというアホらしい現象が発生する) 。そして、それが結果として「女性によって優劣が決定される男性像」というイメージを男性側に与えることになる。たとえ女性側にそのつもりはないとしてもである。だからこそ一部の男性は、自分を「劣ったもの」として裁く可能性を持った「女性」全般を嫌悪し始めるのである。

 もう一つの理由は、男性の内部における女性的なものの抑圧である。男性中心主義の社会においては、女性がしてはいけないことが男性においては許される。そのような事例が多く存在する。しかしそれは、男性がしてはいけないことが女性の場合は許される(ように見える)、というケースが存在することをも意味している。これが一部の男性が女性を嫌悪する理由に繋がる。何故なら、自分が女性であったら許されたかもしれないものが、男性であるがために許されないからである。ミソジニーの男性の内には女体化への願望が潜んでいるのだ。

 こうして次の現実が見えてくる。つまり、ミソジニーの敵は女性ではなく男性であるということ、よってミソジニーフェミニズムの敵は本来同一であるということだ。何故なら、どちらも中心的な男性的価値観によって苦しめられているからだ。しかし、フェミニズム - ミソジニー側からこのような意見が出ても、中心的な男性的価値観を生きる人間からは鼻で笑われて終わりだろう。「奴らは俺らの事を妬んでいるのさ、こっちが奴らの楽しめないことを楽しんでいるから」と言うに違いない。だからこそ、まさに男性優位的な価値観でいい思いをしてきた人間からこそ、男性中心主義への否定が行われなければならない。教育の場合と同じで、システムの内部から批判者が生まれなければ体制は変わらないのである。

『明日カノ』の話に戻ろう。変な言い方になるが、ああいう漫画はとても参考になる。たとえフィクションであれ、あれに一定数共感する人がいるということは、あの漫画が何かしらの形で真実を語っていることの証である。私自身、最近の展開に驚きを隠せずにいるものの、何だかんだ最新話も既に何度か読み返している。個人的にあの漫画のコメント欄を読むことも、本編と同等に興味深い。偏った意見ではあるだろうが、私にはよくわからない多くのことが語られている。思わず「そういうものなのか……」と言葉を漏らすこともある。果たして今後の展開はどうなるのか。バシモトとルナは付き合うのか。今の私に出来ることは、来週金曜の更新を待つことだけである。


 作者は作品の影であり、作品の主役は作品それ自体である。21/08/15の日記の中でもそう書いたが、私がこう主張するのにはいくつかの理由がある。そして、その内の一つとして「でないと作者が可哀想だ」というのが挙げられる。印刷技術の革新は、より広い人々が文学に触れることを可能にした。録音技術の発達は、コンサート会場の外へと音楽を連れ出すことを可能にした。複製技術の進歩もまた、美術館の外にいる鑑賞者へと作品を連れ出した。このように、時代の発展と共に鑑賞者の権利というものは拡大されていったように思われる。しかし作者の権利 - 尊厳が守られたということは一度もないのではないか。

 クンデラがその事について、ユーモアを交えながら書き記している。先ず彼の小説の中で、ヘミングウェイが性的に不能であったことを示す本が出版される。次に、小説の登場人物達はそれを面白がる。あのマッチョなイメージで知られるヘミングウェイ、大変なプレイボーイで、誇り高き戦傷を多く負ったヘミングウェイが、実は勃起できなかったなんて。やがて小説は度重なる場面転換を経て、死後の世界にいるヘミングウェイ本人にフォーカスを当て始める。彼は嘆く。「皆私の本を読まないのに、私についての本を書く」と。皆が自分の人生を勝手に分析し、解析して、死んだ自分に対して散々な誹謗中傷を何度も重ねるのだ。怒りか、あるいは悲しみに震えるヘミングウェイの手を、同様にして死後の世界にいるゲーテが取り、そして慰める……。

 どんな人にも見て欲しい自分の姿というものが存在するものだ。人が自分について語る時、そこには他者からこう解釈されたいという自分像が提示されている。しかし、世に自分を表し、後世に名を残すことは、それを覆される研究を他から勝手に施されるということだ。不潔な、垢のついた手で、自分の過去について調べられ、こちらが恥じていて、見られたくない部分にまで照明が当てられる。そして知られたくない箇所まで知り尽くされる。要するに、散々いじめ抜かれるということだ。

 私のような何もしていない、無名な人間がこう語っても説得力はあまりないかもしれない。しかし個人的には、それではあまりにも作者が可哀想に思えてならないのである。同じ人生を生きたわけでもないのに、傍から勝手に自分の人生について判断され、解釈される。そして「あらあら、あなたって実はこんな人だったのね」なんて語られる。こちらがよく知りもしない赤の他人から、である。そしてこちらが求めていない同情や、よくわからない罪の責め苦をも受けることになるのだ。不愉快で、不潔な他人から、垢のついた手で、ベタベタと触られる。厚顔無恥な態度で、我が物顔で、自分のことを語られる。想像するだけで耐え難い話だ。

 勿論、創作と実生活というものは常に密接な繋がりを持っている。だから作者について知ることが、そのまま作品の理解に繋がることもあるだろう。しかしその場合は先ず作品の内容を先行させなければならない。世の中には作者ばかりを眺めていて、作品を眺めない人が沢山いる。しかし作者とは、まさに作品を通してしか語る言葉を持たない者のことを指すのではないか。自叙伝であれ自画像であれ、彼らは決してありのままの自分を描かない。自分がかつて見聞したことから、それ以上のものを引き出そうとする。現実に体験したことから、現実を塗り替える何か革新的なものを導き出そうとする。ゴッホが描いた自画像は、彼をうつした写真よりも遥かに大きな価値を持つ。確かゴッホの写真は残っていなかったはずだが、しかしもし残っていたとしても事態は変わらない。作者とは作品の影であり、作品の主役は作品それ自体である。作品 = 主体を理解するために作者に目を向けることは許されど、作者 = 影を語るために作品を蔑ろにするなど、本来ありえないはずの話だ。ヘミングウェイのペニスが勃起しなかったかどうかなんて、本来彼の小説を読む上で何の価値もない話なのである。


 酒は好きではない。一人で酒を飲んでいて、楽しいと思ったことなど一度もない。人と泥酔してもそれは同じで、酔っ払って楽しかったことなど殆どない。しかし、にも関わらず、私は毎日酒を飲んでいる。しかし、それはただ仕方なく飲んでいるに過ぎないのである。自室で一人で過ごすとき、頭がボーッとして、気がつけば床を見つめたまま二時間くらい経っていることがある。本当は一分たりとも無駄にしたくないのに、身体が上手く動かないのである。そういう時にはよく酒を飲む。舌から喉へと流れてくる刺激が、「何かしよう」という気持ちを起こさせてくれる。しかしもう一度断っておくが、私は決して酒が好きではないし、酒を飲んで楽しいと思ったことなど一度もない。

 私は防衛本能の強い人間である。「何かしたい」という気持ちよりも先に危険への恐怖が勝って行動できないことが多い。しかし、だからこそ時には泥酔することによって無理にでも行動を起こそうとすることがある。しかし泥酔した後の大抵は後悔が付きまとう。ダサいし恥ずかしいことをしたという気持ちに苛まれて、いても立っても居られなくなる。あとは二日酔いが酷くて、次の日の全てが台無しになる。嘔吐も何度も繰り返すし、考えうる限り最悪な体調に苛まれることとなる。そして、その度に「ああ、俺はやはり酒が好きではない」という事実を確認する羽目になる。

21/08/15

 作者とは作品の影であり、作品こそその主役である。小説『ジャン・クリストフ』の中で、ロマン・ロランは彼自身とその主人公のどちらが主役であり、またどちらがその影であるのかを曖昧にしながら書いた。作者とは誰か。それは作品を通してしか語るべき言葉を持たない者のことを指すのではないか。ロマン・ロランがクリストフを通して当時の社会を痛烈に批判する時、彼はまさにクリストフを通してしか語りえないものを語っているのである。この時、作者は作品の影であり、作品こそがその主体である。書き手はただ、作品 = 主体が上手く機能するように、今日までに蓄えた栄養を放出する媒体に過ぎない。

 ここで私が綴る文章が創作物であるかどうか。それは私自身定義付けるつもりはない。ただ、自分の場合も同様のことが言えると思われる。私の書く文章の主役は、私ではない。主役は文章それ自体であり、私はその影に過ぎない。


 ドゥルーズはかつて自らを「経験論者である」と称して語ったことがある。しかし一方で、彼は「経験に基づいて創作するなんて馬鹿げている」とも語ったことがある。そして「大切なのは経験を乗り越えて創作することだ」とも。一見すると矛盾しているように見えるこれらの主張を、私達は一体どのように解釈すればいいのか。彼の文学趣味を参考にしてみよう。プルーストフィッツジェラルドD.H.ロレンス。これらの作家は皆ドゥルーズのお気に入りであるが、しかし彼らの小説には彼らが実際に体験した内容が色濃く反映されていることで有名である。これは一体どういう事か。

 なるほど、これらの偉大な作家たちは確かに自分の経験に影響されて書いた。しかし彼らは経験したことをそのまま語っているのではない。偉大な芸術作品には、かつて人が語りえなかった真実を可視化するという作用が備わっている。彼らは経験を通して感覚したことから、新しい真実のモデルを獲得したのである。「作品に触れる」とは、かつて自分が語りえなかった真実を発見するための作業である。私達が芸術作品に感動するのは、それが私たちの心を深く揺り動かしながらも、そこにはかつての自分では理解できなかった新しい感覚あるいは感情が明確に言い表されているからだ。

 だからこそ、私達は再び次のように断言することが可能である。つまり、作者 (= 経験する主体)とは作品( = 経験を抽出することによって生まれる主体)の影に過ぎないのだと。


 プライベートな内容。それは語るのが非常に難しいものだ。こちらが自慢しているつもりのないものでも、傍からすればそれが自慢話に聞こえたりする。またはその反対で、落ち込んでいるつもりはないにしても、傍からすれば勝手にネガティブになっている奴に見えることもある。だから私は自分のプライベートを話すことを好まない。するにしても出来るかぎり抽象的に(あるいは本当らしくなく)話すように心がけている。上のような誤解が生じるのを避けるには、そうするしかない。それでもなおプライベートな話をしようとする場合があれば、それは自分の内にある問題を整理しようと努めている時だということになるだろう。

 例え話を一つしてみよう。今からだいぶ前に、大きなクラブで、ある知り合いの女性と偶然会ったとする。人が沢山いるからか、それともお酒を飲みすぎたからか、女性が私の胸にベッタリもたれかかってくる。記憶が正しければ、この女性には恋人がいる。しかし大抵の世の人付き合いなんてそんなものだろう。何をするわけでもないが、私は「こういう場合」を上手く避ける礼儀作法をよく理解出来ている。つまり、笑ってその場を誤魔化すということだ。

 今、自分は二十半ばに差し掛かる年齢である。恐らく私と同年代の人間ならば、似たような体験を何度かしたことがあると思われる。そして私自身、上と全く同じでないにせよ、似たような体験を他にしたことがないといえば嘘になる。そしてその度に、上のような「誤魔化し」をしているのも言うまでもない。

 無論私にだって性欲はある。しかしその場で欲を実現するにはあまりにも根気のない人間である。いつも快楽より先に面倒への心配が勝ってしまう。だからと言ってそれで万事解決というわけではない。解消されなかった欲望は内側に残り続ける。それは次第に積み重なり、増えていく。そして増えるにつれて捻れていく。不気味な怪物のように声を挙げて、私を苦しめるのである。

 知人友人は皆好きだ。しかし今日までに、私はよく自分がいるべき場所にいないような感覚に襲われることがあった。ペソアの言葉を借りるならば、「今の自分は間違った自分で、なるべき自分にならなかった」ような感覚である。しかし、そもそも「なるべき自分」も糞もないのではないか言われればその通りである。ただ、この自己矛盾にも似た感覚は、酷く私を苦しめる。怪物のように唸る欲望と共に、私の心を抑圧するのだ。しかし私には、自分がどうするべきなのか、またはどこへ向かうべきなのか、それがまるでわからない。

 この苦しみは、罪悪感というよりもむしろ幽霊屋敷に一人取り残された時の不安感に似ている。いるはずのものがそこにいない、またはいないはずのものがそこにいる。暗闇にいて、自分が何処にいるのかわからない。そもそも何処に何があるのかがわからない。もしかしたら幽霊がいるのかもしれない。もう一度、例え話をしてみよう。私に魅力を感じてくれる人が目の前にいたとしよう。しかし私には、その人が求めている対象が「私」のように思えない。彼女は私ではない別の誰かを見ているような気がする。だから、もし相手が私に魅力を感じた理由を説明したとしても、相手が自分のことを語っているとは到底信じられない。頭では自分のことだとわかっているはずなのに、心の何処かでそれが信じられないのである。私は幽霊が怖い。しかしもしかすると、私自身が幽霊かもしれないのだ。「いる」とされているものがそこにいない。または「いない」とされているものがそこにいる。そしてそれに対して、頭ではわかっていても気持ちが追いつかないわけだ。

 過去を悔いることがある。しかし、その時に感じるのは、罪の意識というよりかはむしろ恥の念である。今日までにした数々の行いを思い返す。そして私は、今実際に誰かから責められているというよりも、かつてこちらが思いつきでした行動のせいで、誰かの人生が変化してしまったかもしれないという憶測のために苦しんでいるのである。無論思い込みかもしれないが、もしかするとこちらの感情が追いつかない価値や意味が、こちらの言動に与えられているかもしれない。人は忘れることによって生き長らえるものだ。だからきっと私のこの考えは思い込みに過ぎないのだろう。ただ、そう考えても頭から「なんと愚かなことをしてしまったのか」という意識が消えないのである。

 私は今日まで、いつ誰に責められてもいいように、他者に対して実際的に「疚しいこと」をすることだけは避けてきたつもりだ。しかし、思い込みかもしれないが、かつて私が考え無しにしたことによって、誰かが振り回されているように感じることがある。そして、こちらの言動に想定してなかった価値 = 意味が与えられているように見える場面に直面することがある。その時、思わず私はギクリとする。そして情けない気持ちになり、申し訳ない気持ちになる。勿論、相手がそれを見出したのは一時的なものかもしれないし、そういう意味では深刻に考え込む必要もないのかもしれない。しかし、時には次のような考えが頭を支配するのである。つまり、自分は誰かの人生を台無しにしている、自分は不幸をまき散らしている、自分は誰かを振り回している、と。その感覚が、私には苦しくて仕方ない。

 そんな時に自分を慰める方法はただ一つである。つまり、「全ては思い込みに過ぎないのではないか」と考えるということだ。実際、ここまでの記述は全て憶測の域を出ない(そのはずだ)。皆、私の主観に基づく思い込みに過ぎないかもしれないわけだ。たとえその「思い込み」が正しかったとしても、それを裏づける証拠もないのである。よって私は「知らなかった」の一点張りで無罪になれる。何故なら基本こちらが証拠となる言動(責任を求められるような行為)をしないからだ。だから私のアリバイは完璧なのである。

 ずるいと言われればその通りだ。そして、それがわかっているからこそ益々情けないと感じる。これでも今日まで、私は自分なりに誠実に生きることの意味を考えて生きてきた。「誠実さ」を大切にしながら生きてきた。しかし、その結果がこれである。情けない、実に情けない。明らかになったのは、ただただ今の私が間違っているということだけだ。しかし、私にはどうすればいいかがわからないのである。もしくはわかれないのである。

 ここまでの論点を要約しよう。この人物は今三つの問題に苛まれている。一つは捻れた欲望である。もう一つは「存在している」という感覚の希薄化である。そして最後の一つは、恥と誠実さの観念によって裁かれる自己自身である。これら三つの問題提起の裏には、更にもう一つの問題が潜んでいる(そしてこれら三つの問題は全てこの一つの問題に集結する)。つまり、他者と自己との間に真っ当な関係を確立することが出来なくて苦しい、ということだ。また、これらの問題の明確化は、以下の願望の発生に繋がることとなる。欲望の苦しみを解消したい。実生活において「存在している」という感覚を獲得したい。恥に苛まれることのない他者との関係を獲得したい。そして今日までの汚辱から足を洗い、新しい人間に生まれ変わりたい。


 哲学は幸福の役には立たない。もとい、あらゆる文化的なもの(哲学、科学、芸術)は、実生活では何の役にも立たない。なるほど科学は快適な生活を提供してくれる。しかし快適な生活と幸福はイコールではない。未開社会を生きる野蛮人は、インターネットがなくても楽しそうに生きている。しかし現代社会を生きる我々はインターネットがあっても辛そうである。だからこそ、次のように断言しても間違っていないはずだ。つまり、科学技術とは科学に関心がある人にしか価値を持たないのだと。それは芸術にしても同様である。傑作な音楽作品は、音楽に興味がある人にしか価値が見出されない。あらゆる文化は、それに興味 - 関心を持つ人にしか価値を持たず、実際的には何の役にも立たないのである。

 よって哲学にも同様のことが言える。人はよく「哲学なんて学んで何の役にも立つのか」という問いを発するが、それは正しいのである。哲学とは、哲学に興味がある人以外には何の用もない。だから上の問いには「いやいや、哲学なんて何の役にも立たないですよ」と答えるのが正解である。もっとも、私は哲学者ではないし、知識も浅い。だからこのように語る資格もないだろう。

 なるほど哲学は人を幸せにしない。しかし哲学は不幸と闘うすべを教えてくれる。ここで一度、幸福と快適がイコールであると考えた上で論を進めてみよう。もし「幸福な生活」がある程度不幸を排除した上で成り立つとするならば、私には、それがあまり望ましいものだとは思えない。何故なら、喜びを得るためにはある程度の修練が必要だからだ。難解な本を読み解くためには、それ相応の読解力と集中力が必要である。よって、読書には不快 = 不幸がつきものだと言える。しかし、それを乗り越えた上でしか味わえない喜びがそこにある。だからこそ読書はやめられない。

 よって、もし幸福と快適をイコールで考えるならば、幸福と喜びは同じ意味を持たない。不幸を排除した生活は、同様に喜びをも排除した生活だと言える。だからこそ、私は喜びを求めはしても、幸福 = 快適を求めはしない。勿論不幸には人の意識を歪める危険性がある。それは世の不幸な人々を見ればわかることだ。そこには迷信に駆られ、差別に走り、他者を自分と同じくらい低い地位に引き下げようとする者が沢山いる。だからこそ私達は、不幸の存在をある程度認めると同時に、不幸と闘う決心を抱く必要がある。

 この時、哲学は有用な存在になると言える。それをより明確に述べるために、ここでかつてドゥルーズの述べた言葉を引用しようと思う。つまり、哲学とは「思考不可能な力を思考可能なものに変換する」作業なのである。不幸に直面する時、それはかつてのこちらの思考では理解し得ない出来事に直面する瞬間でもある。そしてそれを利用して力を得ようとする迷信 = 錯覚が、この世にはなんと多く存在することか。それと闘うためにも、哲学は有用な存在だと言える。


 欲望それ自体には何の罪もない。もし哲学が生活の何の役にも立たないのだとすれば、生活に無用なドゥルーズ哲学をこんなにも愛好する私は、ある意味で同世代の誰よりも欲望に忠実な人間だと言える。より高い次元で考えるならば、ゴッホには類稀な絵の才能があったが、しかしだからと言ってゴッホの生活は豊かなわけではなかった。それでも彼は絵を描くことをやめなかった。ゴッホの天才とは、まさに彼が豊かな生活とは無縁なことに執着し続けた、その欲深さにあると言える。それを踏まえるならば、欲深い人間とは決して罪深い人間のことを指すのではない。少なくとも私には、欲望それ自体が間違ったものだとはどうしても思えない。

『資本主義と欲望について』の中で、ドゥルーズは以下のように述べている。つまり、「マルクスには今日まであまり触れられなかった点がある」と。彼によれば、マルクスは資本主義が狂っていることを認めながら、同時にそれが非常に上手く機能していることをも認めていたという。さて、合理的な思考が成立するためには、そこに思考しなくてもいい前提が必要である。「あれはああである」「これはこうである」「よってそれはそうである」。思考回路とは、このように、そもそも「あれはああである」と「これはこうである」という前提が正しいとされた上でしか成り立たない。言い換えるならば、合理的な思考が成り立つには、考える必要のないもの(あるいは考えが及ばないもの)がなければならないということだ。

 これは、理性が機能するにはある程度非合理的なものを前提にせざるを得ないということをも意味している。

 だとすれば、一体何故私達は普段から合理的な思考を「合理的なもの」として受け入れることが出来るのか。それは他でもない、その「合理的」と見なされたものが上手く機能しているからであり、だからこそ疑問を発する必要もないからだ。先程の例の言葉を置き換えてみよう。「あの人種はこの人種と異なる性質を備えている」「あの人種はこの人種よりも劣っている」「よってこの人種はあの人種を差別してもいいし、奴隷にしてもいい」。ここでは、冷静に考えればおかしいはずの論理が合理化 = 合法化されている。しかし、何故それが合理化 = 合法化されるのかとなれば、 そう考えた方が社会が上手く機能するからである。人が物事を判断する時に重要視するのは、それが上手く機能しているのかどうかであって、その論理が実際に正しいのかどうかではない。資本主義社会は狂っている。それは間違いのない事だ。資本主義は、非合理的な、キチガイじみた前提がなければ成立し得ない。しかし、だからといって資本主義よりも上手く機能する社会形態を他に知らない。それは資本主義社会を生きる私達の誰もが認めることだろう。だからだろうか、ドゥルーズは「マルクスは資本主義のメカニズムに魅了されていた」とさえ述べている。

『資本主義と分裂症』は、ドゥルーズガタリと共著した、邦訳文庫版にして五冊にわたる大著である。しかし実を言うと、私はドゥルーズ = ガタリのことをあまりによく知らない。正確に言うなれば、『意味の論理学』から『千のプラトー』(『資本主義と分裂症』の二巻目)に至るまでのドゥルーズをあまり上手く理解出来ないままでいる (『感覚の論理学』から始まる後期ドゥルーズや、『差異と反復』に至るまでの前期ドゥルーズは大好きなのだが)。特に『千のプラトー』が難しい。平易な文体で書かれている分、読もうと思えば読める。しかしだからこそ読んだ気がしない。運命的な本との出会いとは、常に理解よりも先に共感が先立つものである。俺はここに書かれた内容を知っている。この本は俺について語っている。勿論そこには多くの誤解が含まれているだろう。しかしそんな事を忘れてしまう程に本の内容に突き動かされてしまうのである。それは美しい音楽に出会った時の感覚に近い。まるでページの上でオペラが繰り広げられているかのようなのだ。そして、気づけば私もその舞台の上に立っているのである。ニーチェであれ、リルケであれ、ロマン・ロランであれ、ドゥルーズであれ、好きな作家との出会いには必ずそのような感覚が伴った。

『エレーヌ・シクスーあるいはストロボスコープのエクリチュール』という(タイトルは長いが)短い評論の中で、ドゥルーズは次のように述べている。「ある作家の真の新しさとは、作家自身が生み出した観点に身を置くことができた時にこそ、初めて理解されるものだ」と。本の内容に心を騒がすためには、こちらの読書のリズムと対象の本のリズムが重なり合う必要がある。コロナで体調を崩したこと、またその他の諸事情から、最近は上手く読書に取り組めないでいる。だから近頃は『無人島』と『狂人の二つの体制』(どちらも生前のドゥルーズが出版した本には未収録であった短論文・評論集)でまだ読んでいなかった文章を少しずつ読んでいる。いつか『千のプラトー』とこちらのリズムが重なり合う日が来てくれると嬉しい。


 権力とは関係である。社会とは力の、力に対する関係だ。権力関係における勝者とは、その関係内で絶大な影響力を誇る人物ではなく、それを裏で動かすことの可能な人物である。よって、権力関係において真に力を有する者とは、権力とはネットワークそのものであることを、権力 = 関係であることをよく理解した人物だと言える。

 左翼であれ右翼であれ、現代の知識人 - 文化人の殆どが無力である理由がそこにある。権力が関係である以上、この社会を変えたいならば、自ずとその関係性の内部に入り込む必要がある。 そしてその中で影響力のある人物になりたいならば、権力闘争に身を染める必要がある。政治家であれ活動家であれ、はじめはより善い社会の実現を求めていたが、次第にいかにして大きな権力を獲得するか(またはその権力を保持するか)しか考えなくなる人間が大勢いるのはそのためである。

 しかし、更に恐るべき点がある。つまり、一つの権力 = 関係から逃れたとしても、その先にはまた別の権力 = 関係があるということだ。左翼知識人として、あるいは右翼知識人として、影響力のある人間になるために、結局人はそれぞれのグループの関係性に巻き込まれることとなる。そしてどのグループにも、傍から見れば滑稽な点がつきまとう。しかしグループに馴染むためにはその滑稽さを受け入れなければならない。もはや真に自由な意見や思考を求めるならば孤独にこもるしかないわけだ。

 しかし、この関係性の社会を打ち砕く可能性が、もしかするとまだ何処かに残されているのかもしれない。それは関係性の外部から突如としてなだれ込んでくる「民衆」の可能性である。無名の民衆の介入。それはこの世界の均衡が崩れ落ちる瞬間である。

21/08/09

 それにしても、子供時代とは一体何だったのか?

 少年の日を思い描いた後、今の自分を鏡越しに眺めてみる。すると、そこに映る自分が、幼い日の彼と同一人物だとどうしても思えないのである。幼少の日の記憶と、今現在の自分との間には、明らかな、深い断絶が存在する。その溝があまりにも深いので、こちらがいくら暗がりを覗き込んでも、何の答えも出てこないのである。だから益々こう自問せざるをえない。「それにしても、子供時代とは一体何だったのか?」と。あの頃の私と、今の私は、果たして本当に同じ人間なのだろうか。

 あの不気味な、記憶と傷跡の他に何も残さなかった日々。あれは一体何だったのか?生活のさなかで、ふとした時に子供の頃の記憶を思い起こされる。そして、それがあまりにも突然なので、喜びよりも困惑を覚えてしまう。私は再び自問する。「それにしても、子供時代とは一体何だったのか?」私にはわからない。まるで一切が夢か幻であったかのようだ。そして、それが美しい夢だったのか、それとも悪夢だったのか。それすらもわからないのである。

 大人になった今、子供時代の全てが不可解に思えているように、きっと子供の頃の私も、今の私を見て不可解に思っているだろう。時折、幼い子供であった頃の私が、今の私を眺めているように感じることがある。たとえばそう、それは電車の中で起こる。ある日、私は帰りの電車に揺られていた。既に窓の外は暗く、光の反映がガラスの上に私の姿を描き出していた。そしてその姿を眺め、そして驚いた。これが自分なのかと。まるで知らない人と向かい合わせになって、その人を眺めているような気分になった。少なくとも、これがあれと同一人物だとはどうしても思えなかった。私はガラスの世界を生きる、見知らぬ彼を見つめ続けた。

 それにしても、子供時代とは一体何だったのか?それは恐らく、リルケの創作のモチーフの一つでもある。彼には子供時代に纏わる美しい散文、詩が多く残されている。

「おお、幼年時代。おお、滑り去っていくイメージよ。何処へ、何処へ、それはいったのか?」

 かつて、リルケは私の全てだった。彼が私の全てを歌ってくれた。リルケがいなければ、私はニーチェを読み続けることも、ドゥルーズを理解することも出来なかった。リルケが、私の内で矛盾しているように見えた様々なものを融和させてくれた。彼の本に出会ったことは、私の人生において一つの美しい偶然だった。


 コロナにかかった。最初に症状が出たのは八月一日のことである。朝目が覚めると、身体が鉛のように重く、吐き気が酷かった。実際、私はその日の内に幾度か吐いた。ただ、自分としては体調を崩すのはよくあることであった。だから「いつものこと」だと思い、病院にも行かなかった。寝れば治ると思ったのである。

 異変に気づき始めたのは八月四日からである。いくら寝ても体調がよくならず、目が覚める度に顔色が死人のようであった。よって、流石の私もおかしいと思い始めた。その日から、仕事を休み、安静にし始めた。やがて病院でpcr検査を受けると、コロナであることが判明した。八月七日のことであった。

 そして今日、保健所から連絡があった。いくつかの質問に応えた後、このまま悪化することがなければ後二日で自由に外出することが可能になると伝えられた。案外、呆気なく終わるものである。しかし、確かに症状が出始めた八月一日と八月八日は本当に苦しかった。まるで全身が異物を排除しようと努めているかのようであった。汗がどっと溢れ出て、何も食べていないのに嘔吐が止まらなかった。しかし、その二つの峠を越えた今、比較的体調の安定した生活を送っている。

 恥ずかしい話だが、病気になると気が弱くなる。この夜が永遠に続いていて、自分はどこまで歩いてもこの無人街から抜け出せないのだ。病床に伏すと、そのような孤独感に襲われる。それはまるで砂漠のようだ。そう、砂漠が心象風景に広がっているのだ。病気になると、人は心細くなる。

 不幸を蹴散らし、悲しみを炸裂させる。ベートーヴェンのハンマークラヴィーアを聴いていると、思わずそんな言葉が頭に浮かぶ。かつてニーチェは次のように書いた。「悲劇の英雄は快活である」と。ハンマークラヴィーアは、先ず初めに激しく鍵盤を打ち叩く音から始まる。あたかもハンマーがふるい落とされたかのように和音が鳴り響く。豪快な、哄笑にも似た響きである。それは英雄が不幸をあざ笑い、悲しみを笑い飛ばす姿にも似ている。そして私は、そこに理想化された自分の姿を見出すのである。力強く、快活な英雄。陽気な英雄。英雄は全て悲劇を鼻で笑う。彼は自らの不幸を蹴散らして、喜びに至るため、全ての悲しみを炸裂させるのである。

 時には深い内省に沈むことあるだろう。絶望が辺りを支配して、目を開いても暗闇だけが広がっている。砂漠だ。誰も、何もない砂漠が何処までも広がっているのだ。孤独、永遠の孤独だ。彼はその時、目が見えなくなって、ただ癒しを求めさまようパウロのように、祈ることしか出来ない。ハンマークラヴィーアの第三楽章は、まさにこのような祈祷者の長い彷徨である。しかし彼は彷徨の末についに光を見出す。それは一陣の息吹のように、または暗闇を引き裂く雷のように、全てを切り裂き、また全てを奪い去る。そして私達に新しく生まれ変わることを教えるのである。それは丁度、パウロが再び目が見えるようになると同じように。新しい人間となってよみがえるの同じように。

 やがて第四楽章がやってくる。フーガの連続、踊ることの喜び、ハンマークラヴィーアの第四楽章。ああ、しかしこうして音楽を聴いていると(私の大好きな音楽を聴いていると)、やはり音楽がやりたいという気持ちが強くなってくる。全ての芸術は音楽に憧れる。それは文学にしても同様である。


 若くして死ぬことに憧れている人間は、美しい状態で死ぬこと(または美しい死に方をすること)に憧れているのであって、死それ自体に憧れているのではない。

 今目の前に早死したいと願っている若者がいたとしよう。しかし恐らく、彼が願っているのはロマンチックな死に方 (あるいはドラマチックな死に方) である。間違っても交通事故にあって苦しみながら死ぬことや、全身の毛が抜け落ちて、皮膚が醜く爛れていくような死に方は望まないだろう。だから、もし今この瞬間に交通事故に遭いそうになったら、彼は死を恐れるだろうし、死にたくないと願うだろう。腸がとび出て、情けなく口をひらき、魚のように目を大きくして、痛い痛いと泣きわめきながら死んでいく。実に惨めな死に様である。美しさの欠片もない。そして、誰もそんな死に方など望まないわけだ。しかし、大抵の人の死に方が、そのように醜く、惨めなのも事実ではないか。

 だからこそ、若くして死にたい、あるいは好ましい死に方があるというのは、ある意味とても生に執着した人間の在り方である。また、それを踏まえるならば、誰も死ぬことなど望んでいないと言えるだろう。

 少なくとも、私は死にたくない。死とは醜いものだ。全身の筋肉が衰え、声は枯れ、肌はしわくちゃになり、歯茎は黄ばみ、息が臭くなり、苦痛だけが生の真実になる。私は今日まで、ただ死ぬことだけを恐れて生きてきた。


 ニーチェにおいて、神の死は変奏する。「神は死んだ」という彼の有名な言葉は、しかしその語られる箇所によって内容が異なってくる。ある時には、神々は笑い死にする。またある時には、「神を殺したのは我々だ」という気狂いめいた男の叫びが響き渡る。しかし、私の心を最も惹くのは『ツァラトゥストラ』の第四部に出てくる〈最も醜い人間〉の話である。ツァラトゥストラによれば、この男こそが「神の殺害者」なのだという。

 最も醜い人間は語る、「人々は私を迫害する」と。しかし、彼は決して見た目が醜いから迫害されたのではない。むしろ本文を読めば、彼の容姿が醜いとはどこにも書かれていないことがわかる。そもそも、彼は「迫害された」と語るが「人々が彼を憎み攻撃した」ともやはり書いていない。では、何が彼を「迫害」したのか。それは他ならない、人々からの「同情」である。彼は他人に同情されるのが許せなかったのだ。そして、だからこそ最も醜い人間は神を殺害するのである。

「彼[神]の同情は、少しの羞恥も知らなかった。彼は私の最も汚らわしい隅々までもぐりこんだ。この最も好奇心の強い者、あまりにも厚かましい者、あまりにも同情深い者は死ななければならなかったのだ。/彼は絶えず私を見た。そのような目撃者に私は復讐したいと思った、───さもなければ、こちらが生きた心地がしなかった。」

 ツァラトゥストラが最も醜い人間を見かけた時、彼は「見てはならないものを見た」と思い、「醜い人間」から目を背け、一刻も早くその場から立ち去ろうとした。そして、それは最も醜い人間にとって好ましい態度であった。何故なら、その方が自分の自尊心が傷つかないからだ。ツァラトゥストラは、彼の醜さに敬意を払ったが故に、彼の存在を無視しようとしたのである。やがてツァラトゥストラは、最も醜い人間について次のように語り出す。「今の醜い人間も、自己を愛していた。自己を軽蔑しながら愛していた。───彼は大いに愛する者であって、大いに軽蔑する者なのだ。」

 これが、最も醜い人間が「醜い」と形容されるかの理由である。彼が「醜い」とされるのは、自己を軽蔑しながらも、他から低く扱われるのが許せないからである。なるほど彼は自分を嫌っている。しかし、それ以上に他人から同情される、施しを受ける、救われるのが許せないのである。それは自分が下に見られることの象徴であり、そうされるほど益々自分の醜さを感じ、惨めになるからだ。だから自分に同情する者が許せないのである。ならばいっそ、自分を遠ざけてくれた方が好ましいのである。この感情故に、最も醜い人間は「醜い」と称される。彼は大いに自己を軽蔑するが、しかし同時に、そんな自分を心から愛しているのである。

 ツァラトゥストラは、そのような「醜い人間」に対して、「あれもまた高みだ」と一目を置く。ツァラトゥストラは「醜い人間」に呼び止められ、彼から話を聞く。その後、ツァラトゥストラは彼に「自分の道を歩むこと」を勧める。そしてツァラトゥストラの道とは、何よりも先ず「動物と語り合うこと」なのである。動物に満たされた者になること、動物への生成変化を体験すること。それこそが「最も醜い人間」が自らから抜け出すための第一の手段なのだと、ツァラトゥストラは教えるのだ。「見よ、あれを登って行けばツァラトゥストラの洞窟がある。(……)そして洞窟のすぐ側には、這ったり、飛んだり、はねたりする動物どもが潜むおびただしい穴や抜け道がある。」


 断言してもいい。人が「理性を捨てて欲に負ける」などありえない。誰しも自分に利益があると思った選択のみを行うからだ。意識的であれ無意識的であれ、私達の行動の裏には必ずこの「利益への配慮」が働いている。この場合、利益とは何も実際的な利益だけではない。たとえば街中で困っている人を助ける男がいたとしよう。そして彼が人助けをする理由は、他人に感謝されたいからというよりも、目の前に自分を不安にさせる存在がいることが許せないからだとする(他人の困った顔が、彼を酷く不安にさせるのだ)。この場合、彼は自らの不安を解消するために人助けをすることとなる。そしてこれもやはり、自分に利益があると思ったからこそなされた選択なのである。

 だからこそ、「欲に負ける」ような瞬間に出くわす時、実は非常に理性的な判断が行われていることとなる。欲に負けた方が利益があると思うからこそ、その選択をするわけだ。よってそれは、非常によく計算された理性的な判断である。どんな場合であろうとも、人が理性を捨てるなどありえないのである。

 ならば、非理性的な状態とは一体何を指すのか。それは「選択できない」という困惑が襲う瞬間である。選択を迫られる状況において、何をすればいいのかがわからない。何が正しいのかがわからない。思考を迫られる状況下で、自分にはわからない、理解できない、思考できない「何か」に直面する。その時、人は驚き、戸惑い、不安を覚え、困惑に駆られる。そしてただただ呟く。「わからない、何もわからない」と。

 それこそまさに人が非理性に直面する瞬間である。魂のトラブル、あるいは「選択できない」という苦しみ。理性の行使を求められる状況下で、理性が行使できないという絶望。