《表現と結晶》二・2
あの電話以来、Xはもっと沢山のこと話してくれるようになった。私はずっと何故彼女が法学部に行ったのか知りたいと思っていた。しかし、その理由も聞くことができた。彼女は両親が二人とも弁護士であったのだ。そして家の方針として、法学部以外を選択することが出来なかったという。両親は共に厳しい性格をしていたが、特に母親の方をXは嫌っていた。
「私が何処かに出かける度に、何処へ行くのか、誰と会うのかを伝えなきゃならないんだよ」と、そう語る彼女の顔は何処か疲れていた。
Xは変なところで頑固だった。「そんなのは適当に嘘でもつけばいい」と言うと、Xは冗談半分で笑いながら言った。
「私は君じゃないから、親や他人から逃げたりしないわ」
しかし、彼女が高校生だった頃、実際に志望していたのは文学部ではなかった。彼女は大学で音楽を学びたかったのである。
私は驚いて聞いた。
「じゃあ、ピアノが弾けたりするの?」
「まあ、ちょっとね。でも私の場合、ピアノよりも歌を学んでいたかな」
私はクラシックに明るくなかった。ただ十代の頃に傾倒したトーマス・マンとヴィスコンティの影響で、マーラーの音楽を愛していた。しかし、彼女はマーラーを好まなかった。理由は「あまりにも壮大で、ついていけない」との事だった。「マーラーは世界なんだよ、彼の音楽には全世界の苦悩が詰まってるんだ」と熱弁すると、「いやあ、そんなこともないでしょ」と鼻で笑われた。代わりに彼女が好きだと言ったのは、シューマンであった。
「シューマンは好き?」
「いやあ、あんまり聞かないな」
「どうして?」
「なんか、ちょっと重苦しくて」
「マーラーが好きなのに?」と、彼女はまた笑いながら言った。
「うるさいな」と言いつつも、私は悪い気がしなかった。そして続けた。
「マーラーも暗いし、沢山の音が鳴ってるけど、何処か軽やかな所があるというか、別の世界への希求があるというか、とにかく、より善い世界への祈りが込められているんだよ。そう、マーラーの音楽は生命への、大地への賛歌なんだ!でも……」
「でも?」
「シューマンはずっと暗いし、うるさいし、正直あまりよさがわからない」
「当たり前じゃない」と、彼女は言って、また笑った。しかし今度の微笑には、何処か皮肉めいたものが漂っていた。私は思わずギクリとした。そして彼女は、上の言葉に続けて、気取ったように言った。
「人生はすべてのものよりも重く苦しいんだもの」
それは私達が知り合うきっかけを作った詩人の言葉の引用であった。
彼女は自分の学校にいる他の生徒のことを、特に自分と同じ学部の者のことを見下していた。何の趣味もなければ、凡庸なことに悩んでいる馬鹿どもだと思っていた。彼女に言わせれば、飲み会で声のでかい連中や、騒ぐことしか能がない大学生は低俗であった。しかし「友達のいない、寂しい奴」だと思われるのはプライドが許さなかった。だから表面上は愛想良く過ごしていた。実際、彼女は友達が多かった。私より遥かに多かった。しかし友人の話になると、いつも冷たい、見下したような言い方で話していた。それは、普段の私が決して見ることの無い顔だった。やがて自分もこんな風に見られてるのではないかと思うと、多少なりとも不安でならなかった。
ただ、そんな彼女にも彼ら「ふつう」の大学生に似通った部分が多くあった。流行りのポピュラーミュージックだって聴くし、ネットに掲載された漫画を読むこともあった。液晶画面に映るアニメにじっと見入ってることもある。そんな時、Xは実にあどけない表情をしていた。私からすれば、自分も彼女も、ただ「ふつう」に馴染めていないだけで何処となく凡庸であった。
彼女との関係性の変化に伴うかのように、私自身の環境も少しづつ変わっていった。Xの影響で始めたブログを、かつての大学の同期が見つけてくれたのである。そして私の記事に対して好意的なコメントを寄せてくれた。
それ以来、私は同期と連絡を取り合うようになった。やがて、私は彼と二人で会った。色々な話をした。昔は何も話すことなどないと思っていたのに、いざ会ってみると、色々な意見が出て楽しかった。夜になると、私は早速Xにその事を話した。すると彼女は、ただ「ふーん」とだけ返して、それ以上のことは言わなかった。
あまり話題が盛り上がらなかったので、私は他のことを話すことにした。
既にXと知り合ってから半年が経過していた。会う時だろうと、電話越しだろうと、彼女の話す内容は両親にまつわるものが多くなっていった。そして、次に来るのは学校の愚痴であった。お母さんが辛く当たる。お父さんの束縛が苦しい。大学がつまらない。友達は馬鹿ばっか。下らないことしか話さない。家に帰ればお母さんが怒鳴りつけてくる。ヒステリーを起こす。お父さんはそれに知らんぷりする。苦しい。毎日が苦しい。退屈で仕方ない。ああ、つまらない、つまらない、つまらない……。
私はどんな言葉をかけていいのか知らなかった。彼女が嘆くのを聞く時は、いつもおどおどして、何を言えばいいかわからなかった。最近、自分が楽しかったことを話せば、彼女も明るい気持ちになってくれるかもしれない。そう思って話し出すと、決まってむしろ苛立った態度を示されるのであった。
はあ。私が気まずくなって地面を見つめてると、彼女のため息の音が聞こえた。そして言った。
「私、なんで君と仲良くしてるんだろ」
早く彼女に元気になって欲しかった。彼女の苦しそうな顔を見ると、心臓がえぐられるように痛かった。しかし、どうすれば彼女が慰められるのかがわからなかった。頭を抱えて悩む日が増えた。しかし、それがすべてではなかったのも事実である。笑って過ごす時も多かった。そして、仲良くしていられる時は、今日までのギスギスが皆なかったことになったような気がした。
仲良くなった同期については、次第に話に出さなくなった。話すと彼女が不機嫌になるから。ただ、親睦は会う度に深まっていったと思う。隠し事をしているようで嫌だったが、彼女に嫌な顔をして欲しくもなかった。せっかく二人でいるのに、どうして諍い合わなければならないのだろう。そんな事は間違っている。
しかしある日、再び事件が起きた。今から思えば、私達の関係は地震に似ていた。震動が起きる度に何らかの変化があったから。
ある日、私は同期と酒を呑みに行くこととなった。無論、Xには内緒であった。楽しい夜だった。共に文学について語り明かした。同性の友人でここまで仲のいい相手ができたのは初めてだった。私は相当酔っていた。同期も相当酔っていた。だから互いに恥ずかしいことを平気で言った。やがて同期は「僕と一緒に雑誌をやろう」と言った。
「君と僕ならきっと面白いものができるよ、いや絶対そうだ、そうに違いない」
「いわゆる同人誌と言うやつかい」と、私は言った。
「正直今日まで手に取ったこともないが、面白そうだな」
「だろう?」と、同期が嬉しそうに返した。
「批評、詩、小説……僕の知り合いで、とにかく優れた人をみんな集めてやるんだ。面白いものになるよ。僕は自作の小説をそこに載せようと思う」
そこまで語ると、手元のグラスジョッキをじっと眺めながら熱弁していた同期は、身体をこちらに向けて、言った。
「君はどうする?やっぱり批評か?」
「俺は、そうだな……」
そう言うと、私はしばし沈黙した。正直に言うと、私も小説を書きたかった。しかし、今日まで小説を書いたことがなかったから、自信がなかった。ブログに載せていたのは、いつも批評めいたものであったが、それもあまり上出来だとはいえなかった。詩なんて以ての外である。恥ずかしくて書けるわけがない。「あー……」 という声で沈黙をごまかしながら、何とか次に言うべき言葉を探した。そして言った。
「まあ、そうだな。批評でもやろう。誰について書こうかな」
そこからまた話は盛り上がった。しかし、お互いに明日用事があったので、あまり遅くまで飲めないということに気がついた。同期はバイトがあり、私はXと会う予定があった。会計は二十二時には済ませた。私は彼を駅まで見送ることにした。帰り道でも、居酒屋で話した内容の続きを語り合った。そして互いに晴れ晴れとした気持ちでわかれた。
ひとりで帰る道中も楽しかった。私は色んな将来を空想した。同期と立ち上げた同人誌が高い評価を受ける未来を考えた。彼は優秀な学生で、人望も厚かったから、きっと素晴らしい人材が集まるに違いない。自分はまだ何を書くか決めていないが、もしかするとその文才が認められ、出版社から声をかけられるかもしれない。そうすれば、Xと私の未来もより現実的なものになるだろう。確かに彼女の両親は厳しい。自分のような人間との結婚など、きっと許してもらえるはずがない。しかし、もし作家として成功すれば、彼女との関係だって公認されるはずだ。いや待てよ。そもそも僕達は仲がいいが、思えばまだ付き合ってもいないじゃないか……。まずはそこからだろうに……。
ふと、Xとよく寄る公園が目に入った。そうか、もうここまで歩いてきたのか。彼女のことをもっと考えたかったので、公園の中に入ることにした。
すると、驚いた。そこには、いるはずのないXの姿があった。彼女はブランコに腰を下ろして、顔はじっと俯いたまま、膝の上に置かれたスマートフォンの画面を眺めていた。
私は思わず目を疑った。大袈裟に目を擦って、それが酒のために見えた幻影でないことを確認した。そして、大きな声で彼女を呼んだ。
しかし、彼女は顔を挙げなかった。どうしたのだろう。私は続けて話しかけた。こんな所で何をしているんだ。奇遇だね。丁度いま、君のことを考えていたんだ。今夜はすごく楽しい夜だよ。いいニュースがあるんだ。前話した、大学の同期のこと覚えてる?彼と同人誌をやるかもしれないんだ。で、それが凄く面白いものになりそうなんだよ……。よかったら君も寄稿してみないか?
反応がない。代わりに五、六秒ほど沈黙した跡、突然Xは声を出した。それは決して大きな声ではなかったが、よく響く声だった。低く、ずっしりとした、公園全体に聞こえてもおかしくないような、ある種の緊張感が支配していた。
「今日は何をしてたの?」
「何って?ああ、その同期と呑んでいたんだ。実を言うと、君には話してなかったが、あれからまたよく会うようになって、今晩もそいつ呑んでたんだよ」
「ふーん」
再び辺りを静寂が支配した。まるでこの世界の時が静止したかのように思われた。あるいは、全ての生命が活動をやめたとさえ思われた。彼女の用いた語彙には、何処にも非難めいた所がなかった。にも関わらず、彼女の言葉を聞く度に、心臓を後ろから刺されたかのようにギクリとした。私は一瞬、呼吸をやめた。何故かはわからないが、言い訳をしなければならないと思った。しかし、何を弁解すればいいのかわからなかった。
私が何かを言う代わりに、Xが言葉を続けた。
「どうして電話に出なかったの?何度も連絡したのに」
私はハッとした。昨晩、寝る前にスマートフォンを充電するのを忘れていたのである。そういえば、丁度同期と呑み始めて間もない頃に電源が落ちてしまった。Xから一件連絡が来ていたのは知っていたが、同期との話があまりにも楽しくて、返すのを後回しにしていたのもあった。
「いや、実を言うと、昨晩充電するのを忘れてて、それで……」
「うるさい!」
彼女の叫ぶ声が一帯に響いた。先程までの静寂が打ち壊されると同時に、それが築き上げてきた緊張をさらに高めるものでもあった。息が荒れ始めた。ずっと下を向いていた彼女の顔が、私の方へと向いた。その顔を見ると、更に息が苦しくなった。彼女は泣いていたのだ。怒りと憎しみに満ちた涙であることは、ひと目でわかった。彼女は今日までに見た事ないような形相で私を睨んでいた。他の誰にも見ることが出来ない、不気味で、威嚇するような、あまりにも深い憎悪に燃えた眼差しであった。あの目で見つめられると、もしこちらが何をしていなくても、死刑になって仕方ないような罪を犯した気がしてくるのである。
「楽しそうでなによりだねえ。ああ、よかったよかった!これで私は用済みってわけね」
「何を言ってるんだ?X」
私は声を荒らげて言った。しかし、遮るように彼女は話を続けた。
「だってそうじゃない?辞めた大学で私以外にお友達ができて、そっちと仲良くして、私は放ったらかしなんだから。おまけに楽しそうな企画もやろうとしてるし。ああよかったね、いいこと尽くしじゃない。きっと君はこれから沢山友達が出来て、周りには女の子も増えて、私がこんなに苦しい思いをしてるのも忘れていくんだ!」
「そんな……そんなわけないだろう!」
知らぬ間に、私も涙ぐんでいた。言葉を続けたかったが、呼吸がしづらくて、上手く話せないでいた。
「嘘よ!そうに決まってる。どうせ私なんか繋ぎでしかなかったんだ。君はこれからどんどん人生が楽しくなって、私のことなんか忘れていく。丁度今日みたいに!私がこんなに毎日苦しんでるのに、毎日ひとりぼっちなのに、毎日いじめられてるのに、それを知らんぷりして生きていくようになるんだ!」
彼女は顔を覆った。そして嗚咽を上げながら、言った。
「私は許せないの、君が楽しそうにしてるのが。私がいないところで、君が能天気にしていることが許せないの。こんなに苦しんでるのに、君はちっとも苦しまずに、楽天してるのが許せないの。私を置いて、私を抜きにして幸せになるのが許せないの。ああそうよ。どうせ私は邪魔者よ。皆にとって、私は邪魔者なの。今に君だって私の存在に耐えられなくなるに違いないんだ」
何も言えずに、ただ立ち尽くしていた。涙は止まらずに溢れて、頬はびしょびしょに濡れていた。しかし、それを拭うことなど数千年も前に忘れてしまったかのようだった。それほど時間が長く感じられた。たった十分そこらの会話のはずなのに。
私はあんぐり口を開けたまま、首を何度も横に振った。そして彼女をじっと見つめながら、言った。まるで死に物狂いで何かにしがみつくように、静かな声でつぶいた。
「違う、X……君は誤解している……わからないのか、僕には君しかいないのに……毎日、君のこと以外考えていないのに……君は僕のたったひとりの友達なのに……君が望むなら、アイツと縁を切ったっていいのに……君がいないと、僕は幸せになれないんのに……それがわからないのか、X……!」
彼女が顔を上げた。既に憎悪の炎は消えたいた。ただ涙に歪んで、しわくちゃになった顔だけがあった。それは臆病な子供が迷子になって怯えてる姿に似ていた。しかし、彼女の泣き顔は、もしかすると私の写し鏡であるもしれなかった。口の中がしょっぱくて、自分もしわくちゃになって泣いてるのがわかった。
「君は僕のすべてなんだ……君がいないと、僕は空っぽなんだ……君に出会って、やっと生きるのが楽しくなり始めたんだ……なのに、何故それがわからないんだ……?君がいないと生きていけないのに、何故それに気づいてくれないんだ……」
私達は互いに大泣きした。彼女のブランコと立ち尽くす私の地面の距離は、たった十数メートルしかなかった。しかし、今やそこだけが世界の全てであった。
その晩、私達は初めて結ばれた。
自分で書いておいてなんだが、「結ばれた」という表現は結構気持ち悪いと思う。しかし生憎、それ以外に上手い言い方が思いつかない。私はそれまで、異性の家族もいなかったし、女性の身体を知らなかった。だからだろうか、生まれて初めて触れる成人女性の裸体は、なんというか、こう、とてもショッキングだった。本当に、あまりにも柔らかくてビックリした。あれは桃の果実だった。瑞々しく、弾力のある肌は、これまでに見たことないほど白く、美しかった。はっきり言って、その夜は衝撃の連続だった。私は生まれて初めて果物を齧った少年、そして新鮮な果物の甘さに感動する少年であった。
朝起きたときの多幸感を、私は永遠に忘れないだろう。隣には愛する女性が眠っていた。そして、昨晩の感覚はまだ私の肌に残っていた。カーテンの隙間を抜け出して、柔らかな日差しが起き上がった半身を照らした。時計を手に取ると、もう十時を過ぎていた。私はカーテンの向こうに広がる蒼穹に胸を馳せた。ついに想い焦がれていた「一線」を超えたということもあって、何故となく誇り高い戦士の気持ちになっていた。何も成し遂げてないのに、成し遂げた気持ちになった。
寝ている間に充電しておいたスマートフォンを開くと、彼女からの不在着信が大量に入っていた。一瞬、私の勝ち誇った気持ちは戦慄し、恐怖と不安に変わった。しかしまた次の瞬間には、そんな不器用な彼女を愛らしく思った。ふと、寝ている彼女の頭を撫でたくなった。しかし、そんなことをするのは少々気取りすぎかもしれなかった。そう思って、結局黙って彼女の寝顔を見つめることにした。
しかし、スヤスヤとした顔を眺めていると、知らず知らずに口元が緩んでしまった。
死の数ヶ月前から、Xは殆ど家を出なくなっていた。私が仕事から帰ると、彼女はカーテンだけでなく、雨戸さえも閉めっぱなしにしていた。喚起をしない部屋に特有の、こもった、肌にまとわりつくような生暖かさが漂っていた。薄暗い中、ただPCの灯りだけが彼女を照らしていた。
その頃、彼女は酷く痩せ細っていた。頬はこけ、見るからに不健康そうな見た目をしていた。元々痩せている方ではあれど、その痩せ方は異常だった。肌は象牙のように青白く、生気を失っていた。その姿は、この世のあらゆるものに耐えられなくなっているようにも見えた。
私が外で他人と予定があったのを知れば、彼女は頭を掻きむしった。彼女は世を憎んでいた。ヘラヘラした顔で生きている人間のすべてが許せなかった。しかし関わる相手は私しかいなかった。だから、彼女の憎悪はすべて私に向けられた。時にはそのために泣き出すこともあった。その姿は、他人を傷つけてしか生きられない自分を憎んでいるかのように見えた。
「私、ダメなの」と、ある日彼女は泣きながら言った。
「私、他人が許せないの。平気で楽しそうに生きていて、自分がどれだけ他人を傷つけたり、苦しめたりしかは知らんぷりした人間が許せないの。世間の連中なんて皆そうだ。どいつもこいつも綺麗事ばっか並べやがって、罪悪感なんて少しも感じずに、いかにも自分は善良ですと言いたげに生きている。ああ、気持ち悪い。気持ち悪くて仕方ない。皆死んでしまえばいい。でも、苦しい。生きるのが苦しくて仕方ないの。ねえ、なんでなの?なんで私だけこんなに苦しまなきゃならないの?」
また頭を掻きむしった。そして首をこちらに向けて、続けた。
「でも君は、私がこんなに苦しんでるのに、他の人と楽しく遊んで、平気な顔して毎日を生きて、自分だけ楽しく生きようとしてる。許せないわ、本当に許せない。私を不幸の中に置き去りにして、自分だけ幸せになろうとしてる。ねえ、わかる?なんで私がこんなに怒ってるのか、本当にわかってる?ねえ、どうして何もわからないの?」
両手で顔を覆う彼女を前にして、私は何を言えばいいのか分からなかった。自ずと「ごめん」という言葉が口から漏れた。「違う」と言っても、信じてもらえる気がしなかったから。そんな時はふと、ふたりが初めて会った時のことを思い出したりした。思えばあの頃はよかった。一緒に本屋に寄った時、彼女から二人の作家を薦められた。シェイクスピアとドストエフスキーである。私達が共通で好きなあの詩人、そしてフィッツジェラルドに並んで、この二人は私の思い出の作家となった。私はこの思い出達を愛していた。どれも貴重な、私にとって初めての体験だったから。
『オセロー』の話をした後に、彼女はドストエフスキーの話をした。
「私は『白痴』が一番好きなんです」
彼女は『オセロー』を棚に戻し、本棚に『白痴』がないかを探し始めた。
「『白痴』にはナスターシャっていうヒロインが出てきて……ああ、あったあった、これだ!ドストエフスキーの小説は全部長いけど、本当に流れるように読んじゃいますね。文章のリズムが掴めれば、ぐっといけます。あと多分、年齢もあるのかも。これは私の個人的な考えなんですけど、ドストエフスキーは若い内に読まないとハマらない作家だと思うんです。『罪と罰』のラスコーリニコフや、『地下室の手記』の語り手なんか、私達くらいの年齢の人間がいちばん共感しやすいんじゃないかな。ドストエフスキーが私のために書いている、このキャラクターは私と同じだ。若い人間が読むとそう考えざるを得ないようなキャラクターが必ず出てきます。それが、彼の小説のいいところですね。だから読者は皆作品に自己投影したり、感情移入したりしちゃうんです。ドストエフスキーのキャラと自分の区別がつかなくなっちゃうんです」
その頃、私はまだ『罪と罰』と『地下室の手記』くらいしか読んだことがなかった。だから、素直に「まだその二冊しか読んだことがない」と言うと、「じゃあ是非『白痴』を読んでください」という返答が来た。
「この本はナスターシャのためにあるんです。ナスターシャは過去の不幸のために、未来の幸福が信じられないんです。彼女が求めているのは向上ではなく、破滅だから。飛び切り上等な恋人よりも、誠実で純真な王子様よりも、屋根裏で餓死するために、貧乏な学生を選ぶような人間なんですよ。実際にそう書かれてます。本当に、その通りなんです。彼女の望みは、自分を幸せにすることでも、他人と幸せになることでもなく、自分を傷つけ、他人を傷つけ、苦しめることなんです。そうして今日までの自分の苦しみのツケを支払うことなんです……」
その日、私は『オセロー』と『白痴』の二冊を買った。そして、そのどちらも今なお大事に本棚の中に収められている。
あれから二年後、彼女は死んだ。事故死だった。枝のようになった二本の脚でよたよた歩いているところを、トラックに引かれたのである。死体は醜く、無惨なものだった。出会った頃の美しさは見る影もなく、ただぐちゃぐちゃになった肉塊が転がっているだけであった。
病院に着いたのは深夜であった。私は生まれて初めて、人のために泣いた。それは悲しみの涙というよりも、絶望、あるいは虚しさの涙であった。
ざあ……ざあ……。雨の音が聞こえる。この土砂降りはいつ止むのだろうか。思わず窓の外に目を向けた。夜が始まる頃には、想像もつかないような激しい雨であった。これでは執筆から意識が逸れてしまうのも仕方あるまい。思えば、彼女が死んだ日にも雨が降っていた。私が病院についた時、死体はまだぐっしょり濡れていた。
時計を見る。もう夜の三時を迎えようとしていた。あと二時間で夜が明ける。それまでに、雨は上がってくれるだろうか。
《表現と結晶》二・1
雨が降る。コンクリートの大地を鞭打つ音がする。無数の水滴が地上に弾ける。その音が聴こえる。そして気がつく、知らぬ間に音楽が止んでいることに。どうやらスピーカーの充電が切れたようだ。今や一切は雨に染まる。私の部屋は土砂降り模様に変わっていた。
雨音を聴く度に思い出すものがある。ベルイマンが『野いちご』の中で考案した、非常に美しいシーンだ。二人の男女が雨の中を佇んでいる。女は生きることを望んでいる、男と共に生きることを。しかし男はそれを拒む。彼が望むのは死ぬことだけなのだ。カメラが男の顔にクローズアップする。彼は語る。自分は人生にうんざりしている。だから死にたい時に死ねるよう身軽でいたい。
Xが死んでからもう二年が経つ。初めて彼女と会った時の印象は、今でも忘れ難い。彼女はイングリッド・チューリンだった。『野いちご』でチューリンが演じた女にそっくりの見た目だった。美しいが、表情の何処かには暗い緊張が漂っている。それは知的であるが故に神経質な性格をした人に特有の顔つきであった。
同じ大学の同じ学年であったが、在学中、私達は一切の時間を共にすることがなかった。私は文学部であり、彼女は法学部であった。そして何より、私達は何処のサークルにも属さないでいた。
それでも知り合ったきっかけは、大学の授業のためであったと言わざるを得ない。否、もっと正確に書くなれば、それは私が彼女を知ったきっかけであったと言える。
その頃、私は大学の授業のためにある調べ物をしていた。それはある作家についての調べ物であった。課題の内容は、もうあまり覚えていない。ただ、毎日やることがなくて、学校の外で遊ぶ友達もいなかったし、何より調べなければならない作家について、ある深い、特別な共感を覚えていた。だからぼんやりとネットで検索をかけるか、その作家の本を読む以外に何もしない毎日が続いていた。
すると、あるサイトがヒットした。それは無機質で、特になんの装飾もなかった。しかし文章は美しく、ロダンの彫刻のように簡潔であった。ただ、書かれている内容から、筆者はまだ若いことが感じられた。若さゆえの虚栄心、あるいは自尊心の疼きは、一見すると無愛想な文体の至る所から感じられた。筆者は愛されることよりも、むしろ尊敬されることを求めていた。そして自分を愛さず、尊敬もしない世間に対して漠然とした憎悪を抱いていた。無差別な、限りなく深い憎悪である。
記事の内のいくつかは、筆者自身の小説に割かれていた。そして小説の内で、筆者は私の調べていた作家について言及していた。平静の保たれた流麗な文体の裏には、マグマのような情念が煮え立っていることがわかった。憎悪に基づく暗い情熱であった。自分こそがその作家のことを理解しているという、それ故にこそ馬鹿な世間の無理解が許せないという傲りであった。数万字に及ぶ長い小説であったが、思わず読まずにはいられないものだった。
しかし残念なことが一つだけあった。その小説は未完だったのだ。
私はこの筆者に興味を持ち始めた。小説以外の記事も読み漁り始めた。断片ながらに、そこには筆者の生活についても書かれていた。同じ都内に住んでいるらしく、大学生でもあることがわかった。私は通っている大学についても知りたくなった、更には筆者の年齢についても。しかし、それよりも先に、予想を裏切る事実を知ることとなった。この筆者は女性であったのだ。その厳しい、硬質な文体から、勝手に無愛想な男性の顔を思い浮かべていた。少なくとも若い女性が書いているとは、とても思えないものだった。
それから私のネットストーキングが始まった。彼女のブログのURLで検索をかけて、SNSがヒットすることを期待した。私は期待通りの結果を得た。彼女のSNSのアカウントを見つけたのである。生憎、本名で運営されたアカウントではなかった。もしそうだったら、年齢と大学も特定出来たかもしれなかったのに。とにかく、今は彼女のアカウントをフォローすることから始めるべきだ。
しかし、もう我慢ができなかった。自分と同じ年に住んでいる、歳の近い若者で、あんなに優れた文章を書くなんて。どんな人か興味を持たずにはいられなかった。フォローが返ってくるとすぐダイレクトメッセージを送った。自分はあなたのブログのファンである。あなたの書く文章は素晴らしい。自分も今大学生で、あなたの愛する作家について調べていた。そしてあなたの書く小説に出会った。感動した。早く続きが読みたい。更新が途絶えているが(最後の小説の投稿は二ヶ月前だった)、どうなっているのか。何故もっと大きくあれを広告しないのか。あなたは天才だ。そして自分は、このような若い才能に出会えたことに喜びを感じている。などなど。
ふと、冷静になった。自分が相当気持ち悪い奴だということに気がついた。今から考えても、中々の蛮行だったと思う。
だから、何故彼女が返信をくれたのか、今でもよくわからない。筆者は驚いている様子だが、「嬉しい」と返信してくれた。ただ、自分の作品についてはあまり言及せず、私達の共通点であるあの作家についてだけを話した。それはあるドイツの詩人だった。しかし、この詩人はいくつか散文も書いていた。返信の中で、彼女は詩人の残した唯一の長編小説に言及した。そして「これはもう読みましたか」と私に聞き、「もし読んでいなかったら」と断った上で、次のように続けた。
「私の書いた小説はこの本を下敷きにしています。そして、それに比べるとあまりにも見劣りするので、もう更新することもないでしょう」
それがやり取りの始まりであった。彼女の教えてくれたその小説は、名前は知っていたが、まだ一度も読んだことがなかった。早速、その日の内に買いに行った。彼女の返事はいつも遅かった。しかし、私が最初に長文で連絡したからか、向こうはいつも私に長い返事を書いてくれた。それを日に一、二度繰り返した。向こうの書く言葉は、その一つ一つが丁寧だった。私にはそれが嬉しくて仕方なかった。
やがて彼女が私と同じ大学に在校していることを知った。その頃、既に連絡を取り合うようになって二ヶ月近くが経過していた。しかし、それに気づくにはあまりにも遅すぎた。彼女が在学していることを知ったのは、私が大学を辞めて間もない頃のことだった。
突然、胸がかきむしられるような感覚がした。そして、この苦しみを何と呼ぶのか、当時はまだわからなかった。後に私は知ることになる。その正体は焦燥感であった。
私が大学を辞めた理由は、学校が退屈だったからだ。気の合う友人も居なかったし、ひとりの世界に閉じこもってばかりいた。にも関わらず、辞めた今になって、こんなにも気の合う友人と知り合うことになった。しかも同じ大学に通う、同じ学年の、同い年の人間と。あんまりであった。
私は運命の非情さを憎んだ。そしてあったかもしれない、別の世界線を考えた。もっと早く同じ大学だということに気づいていれば、もっと早く出会えていれば、自分は違う人生を歩んでいたかもしれない。彼女の存在を知っていたならば、自分に未知の友達がいることに気づいていたならばわ、大学を辞めなかったかもしれない。そう考えると、胸が痛くて仕方なかった。
知らぬ間に「今度会いませんか」というメッセージを送っていた。いても立ってもいられなかった。失われた時間を償いたかった。別の人生を垣間見たくなった。しかし、送ってから間もなくして、我に返った。引かれたかもしれない、避けられるかもしれないという不安に襲われた。そして、軽率な自分の発言を後悔した。しかし間もなくその後悔は喜びに変わった。私達は週末に会うことになったのだ。
運命の日がやってきた。私はソワソワしながら待ち合わせ場所に向かった。しかし同時に、心の底で失望の準備もしていた。会ったことによって、未知であるが故の友情は壊れるかもしれない。私の態度を気味悪がって、彼女は私を嫌うかもしれない。しかし、その全てを覚悟していた。きっと悲しみに暮れるに違いないが、何が起きてもいい。そう思っていた。
今思い返しても不思議なことがある。私はそれまで、彼女の顔を見たことが一度もなかった。にも関わらず、目の前から彼女が歩いてくるのがわかったのである。相手の表情を見ただけで、こちらに向かって歩いてくる女性がそのひとであるということがわかった。それはあまりにも奇妙な感覚であった。まるでのっぺらぼうの群衆の中から、たったひとり、輪郭を持った存在が現れてくるかのようだった。私は馬鹿のようにぽかんと口を開いて、相手のことをじっと見つめていた。一切がスローモーションに見えた。そのひと以外のすべてが色彩を失ったかのようだった。それは人形のように華奢で、美しい女性だった。にも関わらず、その表情には何処か険しいものが漂っていた。それが彼女の顔に独特のニュアンスを与えているのである。
そのひとが話しかけてきた。メッセージの相手が自分であるかを確認してきた。頷いた。すると彼女は言った。
「初めまして。Xと言います、どうぞよろしく」
あの日のことを、生涯忘れることはないだろう。それは人生の中でも最も輝かしい一日だったが、同時に最悪の一日でもあった。彼女の目をまともに見れたのは、あの最初のときだけだったから。私は直視出来なかった。こんな綺麗な女性とは、今日まで知り合ったことがなかった。目が合えば異様に脇汗が溢れ出た。顔が赤くなっていないか心配だった。しかし何より不安なのは、そんな自分を見て笑われはしないかということであった。しかし、目を逸らすことも出来なかった。まるで蛇に睨まれた蛙のように、頭が真っ白になって、何をすればいいのか全くわからなかった。私は何度も口ごもった。変な態度も取った。傍から見れば、一人で勝手にあたふたしていたし、相当変な奴に違いなかった。自分でもそれがわかっていた。だから尚更最悪だった。何より、筆者がこんなに可愛いとは思っていなかった。だから焦ったし、焦れば焦るほど醜態を晒すのであった。
それは考えうる限り、最悪の事態であった。私はそれまで、女性の経験がなかった。異性の友人ができたことはあったが、恋愛関係になった相手はひとりもいなかった。なら友人のように接すればいいだけの話だが、しかし、こんな美人を相手にしたことは、生まれてこの方なかったのである。悔しかったし、恥ずかしかった。自分がダサいことを知っているからこそ、尚更そう感じた。ちょっとトラウマになるほどだった。彼女といる間、いつも自分がオドオドしているのを感じた。一緒にいる時間が長くなるにつれて、死にたくなってきた。そして相手が私のことを馬鹿にしていると信じて疑わなかった。事実、私は滑稽だった。こんな滑稽な人間、自分なら絶対馬鹿にしている。態度には出ていないが、私を気持ち悪い奴だと思っているに違いない。
帰り道、私は変な独り言を発しながら早足で歩いた。「ああ!」とか「クソ!」と呟きながら、ずっと自分の太ももを殴ったり、頭を抱えたりした。家に着くとベッドに倒れ込んで、枕に顔を埋めた。そして、大きなため息をついた。せっかく会えたのに、何もかもが最悪な結果に終わってしまった。彼女の前で晒した醜態の数々が頭に浮かんだ。どれも赤面せざるを得ないものだった。次第に彼女のことが憎くなってきた。よくこんな恥をかかせたなと思った。そうかと思うと、次の瞬間には一緒にすごした一瞬一瞬を思い出して、うっとりしていた。あんな体験は生まれてこの方したことがなかった。しかし間もなく、自分の情けない姿を思い出して、頭を抱えた。そして再び彼女のことが憎くなった。
傍から見れば、実に滑稽な人間だったた。しかし何より滑稽だったのは、自分の抱くこのモヤモヤが何であるのか、分からなかったことだ。今ならわかる。それは恋愛の感情だった。彼女は私の初恋の相手であったのだ。
「どうしてわからないの?」
晩年、Xはそう言ってよく私を責めた。また、その度にある印象深い眼差しで私を見つめるのだった。その黒目は憎悪に燃え、目の奥はギラつくように光っていた。まさに目が、表情が、言葉以上のものを語っていた。彼女は私を裁いていた、見つめることによって裁いていた。あたかもこちらが相手を傷つけ、また苦しめた悪人かのように。私はそのような眼差しを前にする度に、いつも同じ言葉しか口にできなかった。
「ごめん……」
いつからだろう、顔を合わす度に謝罪ばかりをするようになったのは。しかし、「どうしてわからないのか」は私が言いたいことでもあった。こんなにも君を愛しているのに、君のことしか考えていないのに、何故わかってくれないんだ。何故君しかいないのだとわからないのか。そう何度口にしようと思ったか知らない。
では何故口にしなかったのか?もう言っても信じてくれないことを知っていたから、何を言っても許してくれないことを知っていたからだ。ただ頭を抱えることしか出来なかった。それでも、心の何処かではまだやり直せる気がしていた。私は彼女と一切を、一切をやり直したかった。それも、私達が互いに追い詰められるほど、尚更全て白紙に戻すことが可能なように思われた。
しかし、無理だった。私は途方に暮れていた。何処で間違えたのかわからないでいた。あるいはもしかすると、最初から間違っていたのかもしれなかった。
私達の奇妙な友情は二年に及んだ。手元にある彼女の写真は、様々な表情を収めている。笑った顔、得意げな顔、不服そうな顔、緊張した顔……。しかし、どうしてだろうか。写真の何処にも映っていないあの眼差しばかりが、フラッシュバックするかのように蘇ってくる。それは今日まで、他の誰に対しても見たことのない瞳だった。一生忘れることの出来ない、不気味な、暗い情熱を燃やした、威嚇するような眼差しであった。
初めて会ってから二、三日の内は、再び連絡する気が起きなかった。あんな醜態を晒して、こちらから連絡を入れたら気味悪がられるに違いなかった。既に知らないところで馬鹿にされてるかもしれなかった。自分が情けなかった。いざ美人と知り合うと、相手の容姿にコロッと打ち負かされてしまう自分のチョロさが恥ずかしかった。
しかし、何よりも悔しかったのは、何をしても彼女のことが頭から離れないことだった。本を開いても、音楽を聴いても、彼女のことばかりが頭に浮かんでしまう。おかげで何にも集中できない。ただ神経だけが苛立っていく。にも関わらず、この苦しみを自分一人で解決することも出来ない。私は戸惑っていた。どうすればこの問題から抜け出せるのかがわからなかった。こうなれば手段はひとつであった。私は時間の経過と共に、彼女に纏わる一切を忘れることを期待した。
Xから連絡が入ったのは、そう考えた矢先であった。「この前はありがとうございます、あれからいかがお過ごしですか」と、いつも通り簡潔な文体によるメッセージが受信された。違いと言えば、以前のような長文ではない点だった。「Xさんに教えてもらった本を読んで過ごしています。しかし、諸事情あって中々集中出来ず、困ってます。Xさんはどうお過ごしですか」、確か私の返信はそんな感じだった。
一緒に出かけている際、彼女からある二人の作家についての話を聞いた。ひとりは一、二冊だけ読んだことがあるが、もうひとりはまだ一度も手をつけたことがなかった。何より、私はXの語る声に惹かれた (彼女はやや低い声をしていた。それは少女と少年の中間のような声だった。囁くように語ると、それが大変魅力的に響いたのをよく覚えている)。
私はその日の内に二人の作家の本を一冊ずつ買った 。こうして今、彼女のために三冊の本を読まなければならなかった。私達が共通して好きな詩人の長編小説、そしてXに書店で薦められた二冊。それ以外に、特に読みたい本もなかった。
こうしてまた連絡を取り合うこととなった。Xはあの日のことをあまり気にしていないらしかった。自分があんなに気を揉んでいただけに、そのことが不思議でならなかったが、しかしそれすらもやがて忘れていった。私達は少しずつ会う回数が増えていった。お互い朝が苦手だったから、私達は日暮れ頃集まることが多かった。ファミリーレストランで美しい彼女を前に食事をすると、それだけで夜景が輝いて見えた。彼女に影響を受けて、自分もブログを始めたりした。私は浮かれていた。何もかもが上手く行きすぎている気がした。それでも心の内では、この楽しい時間がずっと続けばいいなと願わずに居られなかった。
そんな中、私達の関係が変わる最初の事件が起きた。その日、私は借りてた本を返すために、辞めた大学の構内で彼女と待ち合わせをしていた。既にあの日から幾度目かの会合だった。私はソワソワしていた。そして、自分がずっと劣っていると感じていた学内で、彼女と待ち合わせできることに密かな誇りを抱いていた。
やがて目の前から彼女が見えた。しかし、普段と様子が違っていた。彼女は私が見た事のない微笑み方をしていた。周囲には数人の男女がいた。恐らく、学部内の友人であった。一体何を話し合っていたのか。何故あんな風に笑っていたのか。それはわからなかった。
不意に、何か胸の奥から焦りのようなものが湧き上がってきた。何に焦っているのかは、自分でもわからなかった。それは怯えるような感情でもあり、苛立ちにも似ているが、悲しみでもあった。自分と同じだと思っていた人間が、自分より遠くにいるかもしれず、自分が相手に期待していたものが、もしかしたら相手の内にないのかもしれないという不安だった。やがて私との待ち合わせ場所を目前にして、彼らは分岐した。ただ彼女だけが私の前に向かった。私は彼女に本を返し、彼女は本の感想をきいた。私達はいつものどおりの時間を過ごした。しかし、心の内には煙のようなものが立ち込めていた。
その晩はあまり上手く眠れなかった。女性は彼女を含めて三人いて、男性は二人いた。皆楽しそうに笑っていた。一体あのグループとはどういう関係なんだろう。会っている時に感じた違和感は、離れて時間が経つにつれて大きくなった。気になって仕方なくなった。特にあの男二人とはどうなんだろう。勿論、ただの友人である自分が、彼女の交友関係に口出しする権利など持つはずがない。何事においても、好きにするべきなのは間違いないはずだ。にも関わらず、心の何処かでは自分に口を出す権利がある気がしてならなかった。そんな自分が馬鹿らしいことは知っていた。しかし、私はそんな自分の身勝手な感情を止めることが出来なかった。
夜半の一時頃、私は彼女にメッセージを送った。返信が来た。まだ起きているらしかった。少し話さないかと伝える。了承を得たので、電話をかけた。彼女はコールに出て、「どうしたの?」ときいてきた。私は口ごもった。色々と聞きたかったのに、いざ本人を電話越しに迎えると、何を言えばいいのかわからなくなった。やっとの思いで「いや、何となく話したくなってね」と伝えたが、それも誤魔化しに過ぎなかった。
毒にも薬にもならない会話が続いた。当たり障りのないことばかりをきいて、要領を得ない返事ばかりをした。
「何かあったの?」と、彼女がきいた。
「今日会った時も、様子が変だったよ」
「それは……」と、私は再び口ごもった。
そして二、三秒の沈黙の後、遂にあることを言ってしまった。それは私自身、口にするまでは気づかないでいた感情だった。
「Xさん、僕にとって、君はたった一人の友達なんだ」
「うん」
「だけど、君からすれば、僕は沢山いるうちの一人に過ぎないかもしれないんだ。そう考えたら、すごく不安になってしまった」
再び沈黙が訪れた。今度の沈黙は長かった。五秒、いや十秒は続いたかもしれない。気がつけば、私の喉はからからだった。既にあんなことを言った自分が恥ずかしくなっていた。
やがて沈黙の内から彼女の笑い声が聞こえてきた。静かに、抑えた、しかし何かが噴き出てくるのが止められないような笑い方だった。
「ふふ。ああ、そういうこと?」
彼女は続けて言った。
「君は想像以上に馬鹿なんだねえ」
そういう彼女の声は、何だか楽しそうだった。
「シェイクスピアの劇は全部場違いと思い違いで進行するんです」
彼女と初めて会った時、本屋で私にそう語ってくれたことがある。その頃、私はまだシェイクスピアを読んだことがなかった。
「有名なロミオとジュリエットだってそう。二人の恋は思い込みから始まって、そして誤解のために死んでいく。ハムレットも同じ。でも唯一真実を知る人だったハムレットは、狂った時間の歯車に耐えられず、最後まで殆ど何もしないんですよ」
私達は本棚の前にいた。話の途中で、彼女は『オセロー』を手に取り、目を落とした。
「でも、私が一番好きなのは『オセロー』です。四大悲劇の中では一番人気がないけど、場違いと思い違いのの最たる例を示してくれてると思います。オセローは誤解の末に妻を殺す、自分が騙されてることに気が付かないまま。そして、自分が誤解していたことを、部下に騙されていたことを知らされた時、彼は部下だけでなく、容易に騙された自分自身すらも責められていることに気がつきます。『オイディプス王』に近い感じですね。オイディプスは自分が知らぬ間に犯した罪のために王位を退き、自らの両目を潰すんです。オセローも気づかない内に犯した自分の罪のために、劇の終わりに自害します。オセローは勘違いのために自らとその妻を殺すんです」
突然、彼女は笑いだした。ふふっ。そして『オセロー』の表紙から目を上げて、私を見つめた。
「私、オセローのきもちが少し分かる気がするんです。思い込みが激しくなると、それが世界のすべてに見えてしまう。自分の妄想が世界の映し鏡に見えてしまう。オセローは思い込みからデズデモーナを殺すけれど、それは彼がそれだけ彼女に入れ込んでいたからだと思います。思い入れがありすぎると、相手と自分が識別不可能になるんです。でも、悲劇が生じるのは、いつだってそんな時かもしれません。区別できなくなった二つのものが分裂する時、初めて真の意味での物語が始まるんです。そんなことを、時々考えてしまいます。馬鹿らしいでしょ?」
先程、シャワーを浴びた時のことである。髭を剃り終わった後の自分の顔立ちに、とても驚いてしまった。それが何処と無くXに似ているのである。彼女に特有の表情が、暗い緊張の漂う顔つきが、威嚇するような眼差しが、私の内に生きているのかもしれなかった。彼女は私の死別した半身かもしれなかった。
《表現と結晶》一・2
夜。一切が闇に沈もうとする今、満月だけが私を引き止めてくれる。月光には不思議な作用があると思われる。夜は白銀のヴェールに包まれて、その裏にある天体の輝きを想起させてくれる。生憎、私の住む部屋からは星が見えない。街灯が星の在り処を隠してしまうのだ。
私は今、天体から遠ざかり、たった一人暗い部屋のなかにいる。私を照らしてくれるのはあの月光と、机の上にある安物の電灯だけだ。
そして電灯はチカチカと点滅していた。その周りを一匹の蛾が飛び回っていた。
思えば仕事を辞めてから一ヶ月が経とうとしている。コンビニで口座を確認してきたが、そろそろ貯金も尽きそうである。そろそろ何かをしなければならないと思いながら、何もすることが出来ない。もとい、何もする気が起きないのだ。
一旦筆を置いて、両手に顔を埋めた。手で顔を覆うことには不思議な安心感がある。まるでそれまで自分が被っていた仮面が剥がれるかのようだ。あるいはむしろ、この両手の中が自分の顔の居場所だったのだと教えられるような気がするのである。
そう、書き忘れていたが、私は一ヶ月前に仕事を辞めたのだ。一年くらいだろうか、働いた期間で言えば。短いように感じるかもしれないが、これまで職を点々としていた身からすれば、長続きした方である。悪い職場ではなかった。仕事の内容も、自分に合っていたと思われる。同僚との付き合いも良好だった。しかし辞めてしまった。何故か。実を言うと、それが私自身よくわからないのである。
疲れた。あるいは、めんどくさかった。強いて言うなら、それが理由かもしれない。恐らく何かが自分の中で限界を迎えていた。しかしそれが一体何なのかは、自分でもよくわからなかった。あるいはわかろうとしていないだけなのかもしれなかった。
こんなこともあろうかと、口座には十数万だけ貯金があった。家賃、光熱費、その他生活費を考慮して、これがあれば一ヶ月は働かずにやっていけるだろうと思う金額であった。これは今日までの自分の行動を考慮しての判断であった。今回のように、突然、何の前触れもなく仕事を辞めることが何度かあった。そしてまた同じことを繰り返してしまったわけだ。一年も同じ所で働くなど、自分としては初めてだったから、もう二度とないだろうと思っていたのに。
こうして、過去の私の判断が正しいことが証明された。唯一間違っていた点と言えば、あまりにも楽観的であったということだった。もう仕事をやめてから一ヶ月が経とうとしている。なのに、何もする気が起きない。いつもは生活をやっていくため、すぐ次の仕事のことを考えていたのに。もう一ヶ月近く、何もする気が起きないでいる。久しぶりに身体を起こしたと思えば、仕事を探すわけでもなく、こうして何にもならない文章を書いている。それを小説と題して……。
一体これから自分はどうするべきなのか。そんな問いも頭に思い浮かばない。今の望みはただ一つ、書くことである。可能な限り、一切を書き尽くすということだ。私は今日まで、作家になることに憧れ生きていた。しかし一度も小説を書いたことがなかった。あるいは書こうとしても途中で執筆を断念した。それは、今の自分には見合うだけの能力がない、知識がないと思っていたからだ。しかし、私は間違っていた。自分の力が及ばないこと、自分の知らないことについて書かなければ、他に何が書けるだろう。自分の無知さ、自分の無力さの中にこそ、必ずや言うべきことがあるのではないか。思考するということは、思考の臨界点に直面するということだ。自分の知っていることと知らないことの境界線上でしか、人は何かをなすことが出来ない。無知と無力さを理由にすれば、それは書くことを延期することに繋がる。自分の手に負えないところにまで手を伸ばした時、自分でも思いもよらぬ言葉が口からこぼれる。それこそが新しい言語の産まれる時である。言葉は、語られる時に初めて自分の知らない姿に出会うのだ。
時計を見ると、時刻は八時を迎えていた。この夜が明けるまでに、この小説を書き終えなければならない。どういう訳かはわからないが、そう思った。
背もたれに寄りかかり、大きく身体を伸ばす。そしてふと、後ろを向いた。洗っていない服や、捨て忘れたゴミ袋が沢山転がっていた。天井ばかりを眺めて過ごしていたから気が付かなかったが、どうやら私の部屋は汚いらしい。しかし部屋が汚いことなんて、別に今に始まった話ではない。
思えば子供の頃からそうだった。自分の部屋を持ったのは、確か中学生の頃だったろうか。少年だった私の部屋には、読めないのに背伸びをして集めた本の山と、同じくらいに大量のゴミ袋が転がっていた。しかしそれでも構わなかった。部屋に電気をつける時は、いつも机の上しか灯さなかった。そして、机の上だけが私の全てだった。それは一つの島であり、あるいは世界であった。本を開き、あかりにかざし、ペンを走らせ、ノートに書き殴ったあの日々を、一生忘れることはないだろう。
少年の日の思い出。不愉快で、嫌な時代であった。私は地味で、辛気臭い顔をした、なんの取り柄もない子供だった。そのくせ人一倍偉そうにしていた。同学年の子供を皆馬鹿だと思って見下していた。無論、友達はいなかった。いじめられはしなかったが、ひそひそ話はよく聞こえてきた。よくよくそれにむかついていた。しかし細い身体をしていたから、何をすることも出来なかった。変に言い返して痛い目を見るのが怖かった。体育の時間は絶望的だった。皆が私を笑いものにしているような気がして、悔しかった。
私の学校では、冬になると毎年必ずマラソン大会が開かれた。その学校で二度目のマラソン大会を控えた時、私はある決心した。これから毎日ランニングをして、来るべき大会に控えよう。そう思った理由は単純である。私を馬鹿にした同級生を見返したかった、自分が力ある人間であることを示したかった。そして何より、弱いものではないことを自分に言い聞かせたかった。
しかし、問題は初日から起こった。普段しない運動を無理にしたから、走っている最中に肉離れを起こしたのである。夜中の十時頃のことであった。秘密の特訓は中止せざるを得なくなった。意気揚々として家を出たのに、足を引きずりながら帰路に着いた。息をぜえぜえさせながら歩いていると、普段は寄らないが、以前から存在は知っていた公園を見かけた。私はその公園の中に入った。辺りを見渡すと、そう遠くないところにベンチがあることを知った。私はその方へと向かった。そしてベンチの前にたどりつき、思い切りよくその上に倒れ込んだ。
最初は目を瞑っていた。次に右腕で汗を拭った。最後に腕をどけると、星が見えた。満天の星空だった。あまりにも綺麗で、思わず独り言を口にした。すごい。こんなに星が綺麗だなんて知らなかった。夜がこんなにも明るいなんて知らなかった。自分の頭上でこれほど多くの輝きが歌っているなんて知らなかったのだ。
辺りは静かだった。人ひとり通らなかった。だからその時、この世界を支配していたのは、私の荒れた息遣いと、空中に広がる無限の万華鏡であった。空気は冷たかった。しかしそれすらも心地よかった。私はひとりぼっちだった。しかしもうそんな事はどうでもよかった。私には星があった。あの美しい天体があった。そして私とあの遠く離れた星の間には、既に星座の繋がりがあったのだ。私達は一つになっていた。
少年の日の私は、それを心の底から信じていた。そしてあの時の感覚は、今も私の胸の内に残り続けている。
光を透かす水晶玉は、一見すると美しい。しかしその内部は濁り、不透明で、何事も真っ直ぐ映し出さない。
これは時間の結晶の構造である。もし結晶の底に沈潜していくならば、その間、私の力は奪われ、失われ、次第に無気力になるだろう。結晶のなかへとのまれてゆき、腐敗していくだろう。私の知る世界が、私を閉じ込める時間の結晶が、生からも、創作からも、私を引き離していく。
鏡をのぞき込む時、人は初めて現在の自分の姿を知ることが出来る。自らについて知ることは、反射する自分の姿をのぞき込むということだから。こうして人は、よく鏡の国に迷い込んでしまう。一切が乱射して、一切が反映し合う世界に。置かれた角度によって反映するものが異なるように、鏡は置き方によってこちらがかつて見えなかったものを可視化する。物事を知ろうとすればするほど、人は鏡を増殖しようとする。やがて一切が反映し合う中で、最早何が真実で、何が見せかけなのかがわからなくなる。現実と妄想、現在と過去、実在と可能性。その一切が濁り、混ざり合い、不透明になる。鏡の国の住人と現実世界の住人が識別不可能になるのだ。
各瞬間ごとに、時間は二重化される。過去は現在によって構成される。現行のものに影響を受けた観点から、人は鏡をのぞき込むようにして過去を回想するから。そこには真実を含んだ過去それ自体と、それをのぞき込む現在によって生まれた過去のイメージが存在する。こうして時間は絶えず分裂される宿命にある。進行する現在、未来に躍動する時間と、沈潜する現在、過去に硬直する時間の二つにである。
この時、時間の結晶が生まれる。どんな形であれ、人はこの結晶を所有しながら生きている。結晶を持たなければ、何かを理解し、把握することも出来ないから。自分が誰であるか、自分が何をするべきかを知るためには、確固とした記憶のイメージが必要だ。しかし、それは多くの人が「時間は私の内部にあるのだ」と思い違いすることに繋がる。実際は違う。むしろ私の方こそが時間の内部で生き、活動し、存在しているのだ。
これは時間の恐るべき力である。時間が私を包み込む以上、真実の登場は時間の形式を持ってしか可能にならない。かつてはわからなかったが、今ならわかるということが沢山ある。時間の経過が、それを私に教えてくれるからである。時間の力は、見えなかった真実を可視化する。それは時間の残酷さをも示している。知りたくなかったこと、見たくなかったことさえも、時間は実在させてしまう。
結晶を割らなければならない。美しい記憶、信じていた過去の思い出が、時間の力によって偽であると証明されてしまう。時間によって異なった真実の出現が可能になってしまう。それから逃れたいならば、時間の結晶のなかに閉じこもらなければならない。しかし、結晶は死しか引き止めない。そこにいては、いつまでも現在を、未来を生きることが出来ない。これこそ結晶を割る必要がある理由だ。結晶を割って、新しい記憶の方へと移動しなければならないから。
引き出しを漁ると、かつての写真ばかりが出てくる。どれも、愛すべき思い出ばかりだ。しかしこのままでは、私は思い出達と共に死んでしまう。これらの写真を引き裂かなければならない。しかし、まだその勇気がない。人間は忘れる生き物だ。それが悪い事だとは思わない。これはニーチェも書いていたことだが、忘却とは癒しを意味するから。ならば、忘れえない記憶とは、癒し得ない傷のことである。
しかし、これは少し誇張した表現かもしれない。そろそろ別の話題に移ろう。
もし誰かがこれを見つけたら、一体何を思うだろう。誰がこれを小説だと思うだろうか。今のところ、物語の一つも書いていないではないか。
そうは思いながらも、これでいいとも思っている。そのが正直なところだ。何故一つ一つの言動を説明し、理由付けしなければならないのだろう。真実とはいつも断片であって、全体ではない。意味と理由は人生によって与えられるが、人生それ自体に意味と理由があるわけではないのだ。
しかし、もうこんな屁理屈もやめにしよう。それにしても一体、私はこれからどんな小説を書くのだろうか。あるいは一体、この小説をどのように終わらせるのだろうか。実を言うと、自分でもそれがわからないでいる。
強いて言うならば、恋愛小説を書くつもりは更々ない。小説らしい小説、所謂「心理主義小説」とでも呼ぶべきものは、既にトルストイとプルーストにおいて完成してしまっている。そして、私は既に両者が亡くなってから長い歳月を経た時代に生きている。ならば決して彼らのように書いてはならないのだ。
それに、今どき恋愛小説を書こうとするのは一つの欺瞞だと言わざるを得ない。もはや誰もおとぎ話の純愛の話など信じていない。恋愛には嘘と駆け引きが付き物だからだ。昔からその事に気づいていた人もいる。スタンダールは既に、美しい恋物語の裏に潜む権力欲、虚栄心、闘争意識、復讐心の存在を事細かに描くことが出来た。その見事な筆致によって、それらの力の運動を浮き彫りにした。そして現代に生きる人間は、彼より遥か先に進もうとしなければならない。遠い昔にロマン主義の時代は終わったのである。
自由恋愛には経済的な問題が存在し、今や恋愛は一つの経済的な機能を所有している。恋愛と資本主義の間には密接な関係がある。異性から恋愛的に眼差されるかどうかは、金銭と同様、社会に階級と格差を導入する。今や両性は、社会的地位、あるいは資産と同じくらい、自分の恋愛的な価値を気にし始める。誰かに愛されるかどうか、性的な価値が見出されているかどうかは、自分が他よりも価値があるどうかの価値判断の基準となる。恋愛経験があるかどうか、恋愛的に眼差されるかどうかは、それ自体その人と他者を差異化する装置として働く。だから現代において、恋愛は個々人の間に階級闘争を導入する。私の知る限り、この問題に言及した作家はウエルベックくらいしかいないが、しかし彼はあまりにも男性主観的なまなざしで物事を見ている (もっとも、それも彼の面白さの一つなのだが)。
この問題の原因の一つとして、現行の社会において、女性が元々物質化され、商品化されているという点が挙げられる。グラビア雑誌の表紙を半裸の女性が飾ったり、男性よりも遥かに女性の方が容姿の美醜を気にしなければならないことは、まさに女性の身体が生まれた時から商品化されており、男性にはない物質的な価値が与えられていることを意味している。そして自由恋愛における経済的な問題は、男性が女性と同じような物質化、あるいは商品化を被ることから始まる。男女平等を求める運動は、決して女性を非商品化し、非物質化することを目的としないだろう。それは資本主義の経済システムに反するから。
現行の社会において、我々男性は過去の自分たちのツケを支払わなければならない。否、恐らくそうする事でしか現代社会において男女平等は成立し得ないのである。
やがて恋愛のゲームが始まる。男性は女性を、女性は男性を、スーパーの棚に並ぶ商品のように眺め、品定めする。この際、選ばれる対象は、自分にとって最も意味深いように見えるもの、最も価値のあるように見えるものである。プルーストは次のように書いたことがある。「私は彼女を愛するのではなく、彼女が内包している風景をも愛していた」。人は誰かを愛する時、相手が想起させる別のものをも愛している。あるいはむしろ、相手が想起させる別のもののために相手を愛している、と言ってもいいかもしれない。恋愛には暗号読解の作業が付き物である。突如、啓示のように現れた相手の言動、こちらに焦燥感を与える言動、そこに含まれた意味と真実を読み解くため、絶え間ない解釈の作業を始めることになる。恋する人は、詩人というよりも探偵に、警察に、あるいはスパイに近い。相手の一挙一動が、まるで自分に対して発せられた謎のように見える。彼らは恋人の嘘をかぎつけ、その裏にある真実を暴き出そうとする。そして相手の嘘が終わる時、恋愛感情もまた終わることになる。そこに最早自分が紐解くべき暗号が見いだせない以上、あの焦燥を煽る魅力も覚えることが出来ないわけだ。
この嘘と暗号読解のゲームが自由恋愛の本質となるならば、ゲーム参加者はその規則を利用する以外に手立てはない。
恋愛という階級闘争、経済競争のゲームにおいて、勝利者となるのは、より巧みな嘘がつける人間、他者を誘惑し、見せかけることが上手い人間であること。それは目に見えた話だ。恋愛関係というものは、お互いの利害の一致においてしか成り立たない。しかし利害の一致は、まさに相手が自分にとって価値があるもののように見えた時にしか決定されない。恋愛のゲームにおいては、いかに見せかけの存在であることが出来るかが問題となっている。そして必要とされるのは個々の人間ではなく、むしろ演じられるべき役割である。寂しがり屋の女性は、ある特定の人物を求めているのではなく、ただ自分の孤独を埋めてくれる役割を求めている。恋愛のゲームにおいて求められるのは、あるシチュエーションにおいて演じられる役割であって、私ではない。求められた演技が出来れば誰でもいいのであって、それが真実であるか嘘であるかはどうでもいいのである。
欲望を埋めるために生まれた空白の升目と、そこを行き来する置き換え可能な他者。やがて役割を果たす人間がこの升目を埋めたかと思えば、別の人間がやってきて、より確かな演技をすることでこの升目を埋めようとする。恋愛においては、気取りと軽薄さが、嘘と駆け引きが付き物である。
しかしそれでも、やはり別の愛し方も存在するのだと、私は心の何処かで信じている。誰かを愛するとは、置き換え不可能な他者に出会うこと、大多数の中からたったひとりの人間を見分けること、たとえ家族などのような狭いグループからであろうとも、かけがえのないものをその集団から抽出することである。
こんな事をいえば、君は笑うだろうか。しかし、私は「恋愛小説を書くつもりはない」と先程述べたばかりではないか。だからこの話はここで終わりにしよう。
しかしそもそも、何故人は小説を書くのだろう。あるいは何故、創作に携わるのだろう。有名になりたいからか。それはあるだろう。あるいは、単に芸術が好きだからか。なるほど、それもあるだろう。しかし、もっと他に大きな理由があるのではないか。人は書かざるを得ないからこそ書くのではないか。創らざるを得ないからこそ創作するのではないか。
私を含め、作家に憧れて何かを書くという人は少なくない。しかし、大抵の夢追い人は、一つだけでなく他の夢も持っている。作家志望の若者もそうだ。その夢の大半は生活への憧れである。今よりも豊かな暮らし、幸福な家庭、愛すべき恋人、素敵な友人たち……。しかし人が書くのは、まさにそれらの夢に敗れた時からではないか。創作には挫折が付き物である。あるいはむしろ、人は挫折した時にしか、何かを書こうと思わないのかもしれない。人が芸術を見出すのは、生活の夢に敗れたからなのだ。
恋愛とは甘い死への誘惑である。これは決して誇張した表現ではない。恋愛小説を書いてはならないのは、それが死への誘惑にさらわれることを意味するからだ。
クンデラも書いていたが、幸福とは繰り返されることへの願望である。しかし、それこそ人が決して幸福になれない理由なのである。時間とは直線的であり、人は今日までの経験を踏まえないとその先にある出来事を経験することが出来ない。だから、同じことの繰り返しを生きないのである。もし幸福を望むのならば、生きることをやめなければならない(丁度トマーシュがテレザとの幸福のために自らの人生を諦めたように)。幸福とは停滞の中にしか存在しないのである。
かつてロマン・ロランも似たようなことを指摘をしていた。少年ジャン・クリストフは、父の悲惨な死を前にして次のことに気がつく。「人生は容赦なき不断の闘いであって、一個の人間たる名に恥ずかしからぬ者となることを望む者は、眼に見えないあまたの敵軍や、自然の害力、濁れる欲望、暗い思考など、すべて人を欺いて卑しくし滅ぼそうとするところのものと、絶えず闘わなければならないことを、彼は知った。自分はまさに罠にかかるところであったことを、彼は知った。幸福や恋愛はちょっとした欺瞞であって、人の心をして武器を捨てさせ地位を失わせるものであるということを、彼は知った」。
しかし恐らく、これらの甘い死への誘惑を通してしか、人は強靭な生を獲得できないのかもしれない。幸福への目眩、愛への憧れ、その二つの喪失。これらを通してしか、人は成長できないかもしれない。
私は空っぽな人間だ。今日までの人生を思い起こすと、その殆どが空白であることに気がつく。昔のことを思い出しても、バラバラになった破片の一つ一つしか思い出せない。記憶が明瞭になってくるのは、都会での生活を始めてからである。私は大学進学のために上京してきたのだ。しかし、その大学生活もざっと二年で終えてしまった。友人が居ないわけでもなかった。あるいは、友人はいたが、誰にも心を開くことが出来なかった。ただ一人、Xだけは違った。しかしXを知ったのは、私が既に大学を辞める寸前であった。
時計を見た。秒針は十の文字を打とうとしている。窓の外では、静穏な月光に翳りが見え始めていた。乱層雲が漂いつつある。やがて月までも私を見放す夜が来るかもしれない。もしかすると、 それは今夜なのだろうか。
不意に「無論、人生とは崩壊の過程である」という言葉の意味ががわかった気がしてきた。フィッツジェラルドを私に教えてくれたのはXであった。そして、Xはこの言葉を愛していた。「まるでハンマーの音が鳴り響くよう」だと言っていた。事実、その通りであった。人はハンマーで打ち砕かれたように、崩壊していくしかないのである。それは、ある種の真実に気づいた時、崩壊せざるを得ないからだ。
ぽつり、ぽつり。次第に雨が降り始めた。月明かりは薄い雨雲の奥で揺れている。まるで幻影に魅せられたように、怪しく不気味な美しさが夜を支配し出している。今なら幽霊が出てきてもおかしくないだろう。もしかすると、それは既に後ろにいるのかもしれない。そう考えると、突然幽霊が私の背後をじっと見つめているような気がしてきた。あんなにも居心地のいい暗闇が、今や怖くて仕方ない。振り返ればそこに何もないのはわかっている。しかし、ただ私が振り返った時にだけ姿を消しているだけなのではないか。
日付が変わるまでは時間がある。今日はここで一度筆を置いて、眠りにつくべきだろうか。否、そんな事は更々するつもりもないのだから、考えるだけ無駄だと言うべきだ。私はこの小説を書き終えるまで、眠ることが出来ないだろう。もうわかっている。ここにこそ、今日までの自分の生活の帰結があるのだと。ならば一切に終止符を打つために、夜明けまでにこの小説を完成させなければならない。
我々は渡り歩くように記憶と記憶の間を移動するものだ。今ある記憶は絶えず別の記憶によって裏切られる。時間の経過は出来事や事件の発生を可能にする。それが新しい真実を出現させるならば、その時かつて真実であったものは偽に変わるのだ。記憶の結晶は時間の力によって生まれる。しかし記憶の結晶を割るのも純粋で空虚な時間の力なのである。
スピーカーからはマーラーの第六交響曲のアンダンテが流れ始めていた。能動的な弦楽の音色が、まるで麻酔に打たれるような痺れを、酩酊を与えてくれる。音楽はいい。美しい音楽は全てを忘れさせる。いいことも悪いことも、全部なかったことにしてくれる。何故人はもっと音楽を大事にしないのだろう。音楽よりも直接身体に訴えかける芸術は他にないというのに。
ベルクはヴァイオリン協奏曲を書いた際に《ある天使の思い出に》という献辞を付した。それは彼と関係のあったアルマ・マーラーの娘マノンが夭折したからであった。彼はマノンを大変可愛がっていたという。そして、この娘の死が余程ショックだったのだろう。ヴァイオリン協奏曲の全体には、悲しくも痛々しい美しさが漂っている。ベルクの天才は、この曲を「一人の娘との思い出」以上のものにしたということ、一人の娘の死を「ある娘の死」に、「ある天使の思い出」に昇華したということにある。彼は個人的な記憶、時間の結晶を乗り越えて、非人称な世界、脱人格化された世界へと向かったのである。
経験によってのみ書くのは馬鹿らしいが、しかし経験を踏まえなれば、人は何も書く気になれないのかもしれない。
今日まで一度も小説を書いたことがなかったのは、あるいは一度も小説を完成させられなかったのは、どうしても自分の書く言葉が好きになれなかったからだ。批評を発表したことはあった。しかし、大したものではなかった。私は文学を愛している。言葉を愛している。しかし同時に、言葉が怖くて仕方ないのである。言葉には、あまりにも多くの策略と意図、追憶、個人的な計算が付きまとっている。言葉にはあまりにも私の面影が残りすぎている。ベルクのように「ひとりの娘の死」から「ある娘の死」へと、個人的なものから非人称なものに移行するのが出来ない。言葉は私を窒息させるのだ。
再びマーラーのアンダンテに耳を傾ける。洪水のように溢れ、絡み合う諸楽器の合奏が、私の心痛を浄化してくれる。マーラーの経験した苦しみと、私の経験した苦しみは同じものではない。決して。しかしマーラーの天才は、自らの苦痛を世界の苦痛にまで変身させたのだ。彼の音楽に耳を傾ける者は、あたかも自分の苦しみがそこで歌われているかのような印象を受ける。それは一つの救いであり、償いでもある。音楽の嘆きは世界の嘆きとなり、嘆く声すら漏らせない者、叫ぶことの出来ない者の代わりに嘆き、叫ぶものとなる。
個人の記憶を乗り越え、世界の記憶に至る小説を書くことは、果たして可能なのか。私以外のことについて語るために、何故最初に私自身について言及しなければならないのか。小説とは、可能世界の探求、別の世界線の究明、先験的領野の探索ではないのか。一つの出来事の内には、決して今は理解し得ないものが含まれている。砂糖水を飲みたければ、砂糖が水に溶けるのを待たなければならない。時が経たなければ理解できないものが、この世には一定数ある。しかしそれを理解するためには、なにか新しい、別の出来事の現前が必要とされる。時間の経過がこちらに与えるのは出来事である。真実の出現はこの出来事の現前によらなければ可能にならないのだ。出来事こそが、こちらに新しい示唆を与えるのだから。
ならば「小説を書く」という行為は、この新しい出来事の勃発のために行われなければならない。書くという行為は、今現在目の前にあるものに逆らい、別の世界線とその可能性を示すためにあるのではないか。もし出来事がかつての真実を覆すならば、今目の前にある悪も転覆可能なのではないか。
Xには書き途中の小説があった。私は彼女の文学のファンであった。かつて、私は上のような文学論を彼女に語ったことがあった。すると、彼女は薄ら笑いを顔に浮かべ、言った。
「考えすぎだよ。そんなんじゃいつまで経っても小説なんて書けないよ」
「そうかな、じゃあ君はなんで書いたんだ?」
「なんで?そんなの決まってるじゃない」
彼女は自嘲するように口元を歪めながら、言った。
「退屈だからよ。暇だから書いたの。それくらいしかすることがないから書いたんだよ」
「そんな、それは誇張だよ」
「いいえ、ちっとも誇張じゃない。誰も高尚なものを求めて本なんか開かないわ。皆人生に飽き飽きしてるから本を読むの。書いてる側も同じ。それ以外に楽しいことがないからしてるだけ。で、私も同じなんだよ」
それから一度を口をつぐんだ後に、こう続けた。
「ねえ、人生って、いきるにはあまりにも長いと思わない?」
もしかすると、個人の経験と切り離せないからこそ、小説は他の芸術よりも一層強い影響を誰かに与えることが出来るのかもしれない。
物質、それは記憶が最も弛緩する地点である。相手の顔、相手の身振り、相手の口調に、なにか紐解くべきものがあるような気がしてくる。出会った当初は、それが何かわからない。こちらはそれを解読していくしかない。だから新しい物質との出会いは、新しい記憶の入口へと私を誘い出す。それは今日までの経験だけでは納得しえない、新しい何かが介入してくることを意味する。
Xとの出会いは、私のすべてを変えた。Xはそれまで私の経験に先立ち、それまでの私の経験を乗り越える存在だった。彼女は私の人生における嵐であった。私はその嵐に巻き込まれた。やがて嵐は去っていった。しかしその傷は今も癒えることがない。私達がすごした日々は、決して美しいものではなかった。しかしそれでも、私はその日々が残した結晶から抜け出すことが出来ないのである。
これから私が書くのは、決して自伝でもなければ、恋愛小説でもない。それは眠らずに見る夢の話である。眠りは夜を裏切る。今や私は、不眠の傍らで夢を見ることとなる。
時計を見ると、秒針は零時を示そうとしていた。雨は既に大降りになり、月光はもう見る影もなかった。
《表現と結晶》 以下に続く小説を、私はそう名付ける。
《表現と結晶》一・1
今でも思い出す記憶がある。それは私が幼稚園児の頃の話だ。
床にしゃがんで画用紙を敷き、私はひとり絵を書いていた。ふと、ある女の先生が「何を描いているの」と聞き、近づいてきた。私はそれに答えようとした。しかし、聞かれて初めて気づいたのだが、自分が何を描いているのかわからなかった。無論、今ならわかる。動物の絵を描きたかったのだ。正確に言うなら、当時持ってた図鑑で見た、アフリカに生息するトカゲの絵を描きたかったのだ。私はその名前も知らぬまま描いていた。
「あの、えと」あるいは「これはね、その」など。そんな風にどもりながら、私はあたふたしてしまった。あまりにも突然のことな気がしたから。先生は、「どうしたの?」とか、「緊張しなくていいよ」とか、色々と気を遣ってくれた。しかし、幼い私には、それが癪に触った。別にどうもしてないし、緊張しているつもりもなかったから。私はじっと先生を見つめた。ただ何を言えばわからず、あたふたしているだけなのを理解して欲しかった。
無論、それも伝わらなかった。ただ時間だけが過ぎていった。私は焦った。何故かはわからないが、次第に心臓の音が大きくなった。たった数分のことのはずなのに、それは数時間のことのように思われた。やがて、泣き出してしまった。何故自分が泣いているのかもわからぬまま、大泣きした。何度も泣くのをやめようと思った。しかし、そう思うほど涙が止まらなかった。先生は困ったように笑いながら、私を慰めた。
家に帰ると、真っ先に図鑑を開き、例のトカゲの名前を調べた。自分でも驚くほど胸が晴れやかな気持ちで満たされるのを感じた。これで先生に説明ができる。そう思うと、なんだか嬉しいような、誇らしいような気持ちでいっぱいになった。まだ何もしていないのに、既に成し遂げた気分に酔っていた。
次の日、私は図鑑を持って幼稚園に向かった。そしてお昼休みが来ると、先生に図鑑を差し出した。「どうしたの?」と先生が聞いた。該当するページを黙って開き、私は問題のトカゲを指で示した。いつもの通り、「ん!」と言いながら。先生はまず私の指を見た。次に私の顔を見た。最後に、大泣きした時と同様、困ったような笑顔でこちらを見つめた。私はすぐその意味を理解した。そして「何故こんな簡単なことも分からないんだ」という気持ちに駆られ、怒った。その場で地団駄を踏んだ。先生がまた「どうしたの?」と聞く。より大きな声で「ん!」とトカゲを指さす。するとまた、先生は困ったような顔で笑うのだった。
結局、その日は私の言いたいことが何も伝わなかった。
夜が来ても、すぐには寝付けなかった。何故先生が私の気持ちを理解してくれぬのか、わからなかった。しかし何度目かも知らぬ寝返りを打った後、不意にその意味を理解した。そうか。言葉にしないといいたいことは伝わないのか。私には次の日の目標ができた。「あの時ぼくが描きたかったのはこのトカゲなんだ」と、先生に伝えねばならなかった。
それから安堵が襲い、ついで睡魔が現れた。私は夢も見ずにぐっすりと眠った。
明くる日もまた図鑑を持っていった。しかし、昨晩の目標は達成されなかった。来る日も来る日も、私は図鑑を持ち込んだが、いつかの夜半の目標が達成されることは決してなかった。頭の中では既に沢山の言葉が浮かび上がっていた。いうべき言葉は用意されていた。にも関わらず、先生を前にすると、何も上手く言えないのだ。ただあの時と同じように、何度も指でトカゲの写真を示すことしか出来なかった。変わったことといえば、「ん!」から「あが、あが」とか、そんな感じの発生音(何かを言おうとして何も言えなかった時に特有のどもり) ばかりが口からこぼれた。幼いながらに、それが悔しかった。
以後、私はまた何度も泣き出す羽目になった。その度に、先生はまたあの困ったような笑顔を見せるのだった。
読書とは、自分の語るべき言葉を見つける作業である。今でも思い出す一連の幼い日々の記憶は、もしかすると後になって恣意的に思い出すようになったものかもしれない。あまりにも印象的な出来事に遭ってしまうと、それを理由づけてくれる過去の因果を探さずにいられないものである。しかし、そんな事はどうでもいい。今話したいことはそれではない。
何にせよ、今日までの人生において、表現の問題が絶えず付きまとっていたこと。それは事実のように思われる。頭で思っていることをそのまま語ろうとすると、何故だか上手く話せない。せっかく用意したセリフがあるのに、いざ口にしようとするともごもごしてしまう。言葉に詰まってしまう。だから結局、何が言いたいのかが伝わらない。そんな経験を、今日まで何度してきたか知らない。
少年の日を振り返ると、自分がいつも自由に憧れていたことに気がつく。幼少期にしてもそうだ。私は、自分をどもらせるものから早く自由になることを願った。私の自由は、常に私の身振りの内に含まれているのだから。そしてかつての私にとって、自由になるとは大人になることと同義であった。早く大人になりたかった。大人になって自由になりたかった。あるいはむしろ、大人である以外になんの取り柄もない人間から認められたかった。皆の仲間入りをしたかった。しかし、私には一つの問題があった。皆の仲間に入ろうとして口を開くと、その都度何も上手く言えないのである。
今ではすっかり読まなくなったが、昔は小説を読むのが好きだった。特に思春期から二十二歳くらいまでの頃はよく読んだ。かつての私は、自分が愛する小説の中に、自分が今突き当たっている難問を読み解くヒントがあるのだと信じ込んでいた。事実、優れた小説は数多のことを教えてくれた。トルストイとプルーストがどれほどのことを私に教えてくれたか、それは言い尽くせない話だ。しかしそれでも、結局いつも突き当たるのは同じ問題であった。そう、表現の問題だ。
私がトルストイを愛したのは、彼が感覚の描写に非常に長けていたからだ。『アンナ・カレーニナ』の終盤部分で、アンナは絶えずヴロンスキーの浮気を疑っている。別にヴロンスキーが何かしたわけではなく、ただ前よりアンナを愛さなくなった気がするから、疑わずにはいられないのである。あまりにも強い妄想は、現実での出来事と同じくらいの作用を持つ。アンナはヴロンスキーの浮気を疑うあまり、次第に相手が本当に浮気しているのだと信じてしまう。これに似た指摘は既にヒュームによってなされていた。人は同じ嘘を何度もついていると、次第にその嘘が本当のことだと信じ込んでしまうのである。アンナが実際にヴロンスキーが浮気しているかのように振る舞い、困らせた理由がここにある。
書くという行為は、語るべき言葉を持たない者へと向けられた未来への投げかけである。トルストイの偉大さは、私の語りえない感覚を言語化可能にした点にある。この世界とは、表現の舞台である。感覚の描写が与える感動は、こちらがそれを知りながらも、上手く言い表せなかったからこそ生じる。文学の目的は、言語化不可能なものを言語化可能にすることにある。不可視なものを可視化すること、感覚を描写すること。それは表現の問題に属する。
ふと、窓の外を見た。夕暮れが黄金に燃え、揺れていた。そうか、もう一日が終わるのか。「無論、人生とは崩壊の過程である」とは、かつてフィッツジェラルドが書いた言葉だ。外の世界が黄昏にのまれていく。夕暮れを眺めていると、自分がフィッツジェラルドの小説の主人公であるような気がしてくる。
無論、私はギャツビーではない。しかし夕暮れの美しさ、分離した昼と夜が混ざり合い、それが再び離れていく一瞬の美しさには、なにか人を狂わせるものがある。そんな気がするのだ。一切を元通りにする。夕暮れを眺めながら、ギャツビーはそう口にした。今の私なら、彼の気持ちがわかるかもしれない。
しかし、私は一体何を書いているのだろうか。まるで小説らしからぬ始まり方をしてしまった。信じてくれないかもしれないが、実は今小説を書こうとしているのである。この一連の文章は、やがて完成する物語の冒頭を飾るはずであった。しかし、それはあまりにも感傷的な文句で埋め尽くされてしまったようだ。
そもそも何故小説を書こうと思ったのか。先程、既に「今はまるで小説を読んでいない」と書いたではないか。そう、実を言うと、何故小説を書こうと思い立ったのか、自分でもそれがよくわからないのである。それに最近読まないのは小説だけではない。本それ自体をしばらく開かない生活が続いている。ただベッドに寝転がって、ボーっとして過ごしてばかりいた。しかし、不意にある小説の一節を思い出した。そしてそれが頭から離れなくなった。私はそれを確かめようと思い、本棚に向かった。該当する本が見つかったから手に取ると、埃が積もっていることに気がついた。久しぶりに開く本はカビ臭かった。そしてその本をしばらく読んだ。
やがて私は窓辺に向かい、もうずっと閉めたままであったカーテンを開けた。それから窓辺に置かれた椅子に座り、もう何か月も前から机に置かれていたノートを開いた。ノートには何も書かれていなかった。そしてここに、一切を書き尽くそうと思ったのである。
机の上にはひび割れた鏡が置かれていた。しかし、それは埃に曇ったままであった。拭うと、思わずゾッとした。既に一週間以上は風呂に入っていないし、飯もろくに食べていなかった。だからだろう。私は初めて、自分が酷くやつれていて、髪も脂ぎっていて、髭もボサボサであることに気がついた。どうやら続きを書く前に、一度身体を洗いに行かなければならないらしい。
私は一度筆を置き、浴室へ向かった。湯船はカビだらけで、大変汚かった。
人は印象的なものと真実的なものを混同して考える。あるいはむしろ、印象的なものを真実だと考えたがる傾向にある。そう言い換えてもいい。シャワーを浴びながら、何故かそんなことばかり頭に浮かんでいた。
それはラスコーリニコフが直観的に他者との断絶を感じるあの瞬間である。確か『罪と罰』の冒頭にそのような場面があったはずだ。他者を前にしながら、ラスコーリニコフは自分が今後決して誰とも理解し合えないということを痛感する。彼がそれに絶望するのは、知性によってではなく、直観的にそれを理解するからだ。もとい、直感的であるからこそ、それを否定する言葉が何処にもないのである。
印象と真実が交差する地点では、ある結晶作用が働いている。経験あるいは過去を振り返った時にしか現存するものについて考えられない以上、存在するものとは存在していたものでしかない。可能性はいつも、この現存しているものを知ってからしか生まれ得ないのである。「何故あれであってこれでないのか」「それがあるならこれもあるのではないか」など。人が別の世界の可能性について考え始めるのは、まさに存在しているものに、存在していたものに触れてからである。
現実世界と可能世界が交差する時、時間の結晶が生まれる。現在は絶えず行動とその反省によって二重化される運命にある。経験、そしてそこから見える可能性。その二つが絶えず混じり合い、交差し、識別不可能な点で自らを凝固させるのだ。自分の過去を振り返っても、何が現実であり、何が思い込みなのか、わからなくなる時がある。かつて信じていた世界がそこにある。しかし時間の経過と共に、それを打ち壊すような経験に直面することになるのである。私の真実は偽に変わる。それはこの世界が崩れ落ちる瞬間である。
その時、時間の結晶は砕ける。実在するもの、そして可能性でしかないものが鏡の中で乱射して、お互いに反映し合う中、それを打ち砕く何かが不意にやってくる。そして私は、この結晶を割ることによってしか、何が真実で何が嘘なのかを見分けることは出来ない。時間の結晶は確かに美しいが、しかし結晶は死しか引き止めない。実在と可能性が混じりあった結晶の内部は、不透明で濁っている。素敵な思い出に浸るのは楽しいが、しかしそれでは現在を腐らせるばかりだ。だからこそ、過去を美しく着飾るためについた嘘を打ち砕かなければならない。目を逸らした部分に目を向け、覆い隠した部分を暴かなければならないのだ。
時には死によって結晶が打ち砕かれることがある。『市民ケーン』の主人公は身をもってそれを証明してくれた。世の成功者となったミスター・ケーンは、富、名声、権力のすべてを手に入れたが、しかし彼の心は満たされないままだった。彼は幼い頃に印象的であったもの、存在すると信じていた世界に囚われていたのである。だから大人になったケーンは必死になってその面影を探した。そして自分の過去の償いを現在の誰かに求めようとした。しかし誰も彼の期待に応えることは出来なかった。だからこそ、ケーンが死ぬ時、結晶は割れるのである。何故なら、時間の結晶はまさにケーンと共にしか存在しないからだ。
これは結晶の問題と呼ぶべきものだ。形は違えど、『夏の嵐』もそれを描いている。映画の前半を占めるのは、美しい恋愛の描写と、それを彩るブルックナーの交響曲、そして一切を陶酔の深みへと向かわせるような舞台演出である。水面の上では月光が揺れ、鏡の内側では愛する人が反射している。しかしこの美しい結晶体は、映画の後半によって打ち砕かれる。恋人の口から真実が語られる時、主人公は自分がずっと騙されていたことに気がつく。やがて彼女は夜の街をひとり彷徨する、自分を裏切った男に報復をした後に。
結晶の外に出なければならない……ただし、それは必ず何かを喪失することに繋がる。結晶の外に出ることは、かつての自分には真実であったものを放棄することだからだ。それを拒むならば、私は結晶の内で死に絶えるしかない。
悲哀か結晶か、喪失か死か。ひび割れた結晶は、時に芸術作品の誕生に繋がる。創造行為は、いつも遅すぎた時を償うために生じるのだから。それを踏まえるならば、『失われた時を求めて』は決して過去の探求、記憶の探求の物語ではない。むしろそれは喪失を、失われた時を償う未来を呼び求める物語なのだ。現在は逃れ、過去は消えさっていくが、記憶は残り続ける。時間の結晶が形成される。それはあまりにも美しいが、しかしこちらが持つあらゆる力を奪い去っていくものだ。あまりにも多くのものが過ぎ去った後、やっと自分が間違っていたことに気がつく。しかし結晶の虚しさに気づいた時には、既に一切が遅い。あまりにも遅すぎるのだ。沢山の時間が失われてしまった。沢山の時間を無駄に過ごしてしまった。失われた時は帰ってこない。
しかし、ならばそれを償い、覆すほどのものを求めなければならない。芸術作品は嘆きから生まれるのだ。事実、人は失望した時にしか何かを学び、何かを求めようとしないのかもしれないから。
しかし、あまりにも感情的になりすぎたようだ。一旦水でも飲んで、落ち着こうと思う。
日が暮れてゆく。金色の夕暮れは地平に沈み、漂う薄紫が夜の始まりを告げていた。暗がりへと向かう天体は星々の輝きを浮かび上がらせた。昼が終わり、夜が訪れようとしている。夕暮れは最早、私の見張りをしてくれないようだ。
もう都会に来て六年以上になる。恐らく、私のような若者はいつの時代にもいるに違いない。都市での生活を通して、見事に打ち負かされたような若者である。では一体何に負けたのか。それは他ならない、生活に負けたのである。あるいは運命に負けたと言っていいかもしれない。孤独な都市生活を続けた末に、やっと見いだした結論がそれであった。私は努力した。そのはずだった。しかし気がつけば、私は負けていたのだった。最初は自分が特別だと思っていた。しかし気がつけば、夢を追いかけて見事に堕落していったそこらの若者と大差なかった。否、もしかすると初めからそうだったのかもしれない。しかし、それに気づいた時には、もう何もかもが手遅れだった。かつては自分のすることに、何か途方もない意味が込められていると思っていた。これからすることにだって、歴史的に見て重要な意味が与えられているような気がしていた。しかし、結局どれも誇大妄想であった。そして私が味わったのは、成功でもなければ失敗でもなく、失望であった。やがて自分が思っているような人間ではないことに気がついた。
スピーカーに電源を入れ、マーラーの全集を流す。クーベリックの指揮する壮麗なオーケストラの音色が流れてくる。背もたれに重心を寄せ、天井を眺め始めた。言葉が語らないことは沈黙が語る。歌においては、詩の余白こそが表現となる。歌詞とそれを唄う声が語り切れない内容を、背景が語る。だからこそ、歌のある音楽は一つの閉じた世界を形成する。そして、たとえ歌がない場合でも、音楽はそれ自体が感情の運動となりうる。マーラーの交響曲は、生活の敗残者となった私の語りえないもののすべてを歌ってくれる。何もない天井を眺めながら、私はひとり勝手に悲しげな人間の演技をし始めていた。そして机の右手側に置かれた一冊の小説を取った。それは私がこれを書こうと決した本であった。
小説……そう、小説。忘れていた。私は小説を書くつもりでいたのだ。しかし、これはもう小説と呼べるのだろうか。一体自分が何を書こうとしてるのかもわかっていないのに。
それでも不思議なことに、私は書くことをやめる気になれないでいる。否、今は何としてでも書かなければならないと思っている。何をか。他でもない、自分の力の及ぶ限りのすべてをである。
文学は表現の問題に属する。しかし、それは決して感情の表現ではない。文学の目的、それは力を描くことだ。感覚を描写すること、言語化不可能なものを言語化可能にすることは、個々人を通して表出する力の運動を描くということに他ならない。そういう意味では、文学は決して美しい夢でもなければ、甘くやさしい閉じた世界の実現でもない。もし私が文学作品を書くならば、「私」という人間を通して体験された力の運動を描かなければならない。文学とは経験に先立ち、経験を乗り越え、経験を覆す領域の探求であるのだから。
事実、経験を語るなんて馬鹿らしい話だ。大切なのは経験を乗り越えて何かを語ろうとすることだ。私の経験の中には、今の私では経験不可能な領域が、理解不可能な領野が存在する。悲しい体験をした時、体験それ自体が持つ意味よりも、体験を通して得られた悲しげな印象のことばかりを考えてしまう。そして悲しみに囚われた時、人はこの世界の真実が全て悲しみにあるような気がしてくるものである。悲しみの人間は、この世界に復讐することを求める。自分を悲しませる原因であるこの世界を否定し、無かったことにしたいと願うのだ。
しかし、人が何かに突き動かされる時、自分が何に突き動かされているかわからない場合が多い。あるいはむしろ、何が自分を突き動かすのかが分からないからこそ、人は何かをすると言える。そして、自分を突き動かすものの正体がわかった時、むしろ人は何もしなくなるのである。悲しみの人間もこれと同じである。悲しみのメカニズム、悲しみのプログラムを理解することで、自分が馬鹿なことをしていたと気づく場合がある。嫉妬に気づかず他人を責めていた人間は、ある日自分がどれだけ嫉妬深いかに気づくと、少なくとも以前よりは他人を攻撃しなくなる。泣いている赤ん坊に同じ「泣いている赤ん坊」の映像を見せると、その赤ん坊は泣き止むという。そんな話をかつて聞いたことがある。自分の醜さに気づいた時、人はその醜さから立ち去ろうとするのだ。
力を描くということは、人が感覚する時のメカニズムを描き、あるいは人を突き動かす感情の流れを生み出すことだ。悲しみに囚われた時、人はいかなる態度を示すか。あるいは、悲しみに置かれた人間を突き動かす新しい感情の流れを、いかにして作品の中で生み出すか。それに触れることによって、人は悲しんでいる時の自らの姿を発見し、背中を押されるようにしてそこから抜け出そうとする自らの姿を発見する。音楽の偉大さは、自分がそれまで感じていなかった感情までもを感じさせる点にある。美しいラブソングを聴くと、自分が経験したことの無い恋愛の思い出まで想起してしまう。ショパンの音楽を聴くと、記憶にない失恋の経験について考え始めてしまう。音楽の偉大さは、こちらに新しい感覚を与え、それまで考えなかったことを考えさせること、新しい運動を生み出すことにある (それを踏まえるならば、音楽は決して「人生のBGM」なんかではない。音楽はむしろ人を常に新しい方向へと導く出来事である)。
書いていたらお腹が空いてきた。食糧を買うために、久しぶりに外へ出た。コンビニに入ると、懐かしい曲が流れていた。私が中学生の頃に流行っていた曲だ。特別好きでもなかったのだが、聴いていると何だか感傷的な気分になってきた。ポピュラー音楽の歌詞は観念論である。いつも愛とか、永遠とか、優しさとか、そんなことばかりを歌っている。しかも、どれも皆が理想とするようなシチュエーションである。変わらない愛、永遠の思い出、本当の優しさ、など。あまりにもベタなのだが、しかしだからこそヒットチューンが量産され続けるのだろう。現実生活にこれらがないことは誰もが理解している。
しかし、だからと言って、これが私の感傷的になった理由ではない。中学の頃は聴いてもなんとも思わなかった曲に対して、ある種の懐かしさを感じたからだ。無知な子供だった私は、ポピュラー音楽が教える観念論を心の底から信じていた。よって私が涙ぐんだ理由は、過去を美化すると同時に、美化された過去を羨んでいたからだということにもなる。特にいい思い出があったわけでもないくせに、素直に何かを信じることの出来た子供時代の自分が羨ましかった。
果たして私は考えすぎなのか?ならば教えてほしい。一体何故なのか。何故私には、皆が共感する歌の中で歌われているものが手に入らなかったのか。そんな特別なものは求めたつもりはないのである。にも関わらず、何故私は失敗し、上手くいかなかったのだろう。
Xは一緒にいる時にシューマンを流すことがあった。私がマーラーが好きだと言うと、よく笑われてしまった。Xは私にとって、たった一人の友達だった。
「自意識過剰な君にぴったりだね」
「うるさいな。君もシューマンが好きなんだし、似たようなもんだろう」
「そうかな?そんなこともないと思うけど」
そう言うと、Xはスピーカーの傍により、シューマンの歌曲を流した。何かが夜の間に失われる。身を守り、気をつけて目を覚ましていなさい……。ピアノの伴奏の傍らで、男性歌手がそのようなドイツ語を歌っていた。
「私がシューマン好きな理由、わかる?」
「いや、わからないな」
「それはね」
もったいぶった口調で、含みを持たせた後に、続けて言った。
「無論、人生は崩壊の過程であるから、かな」
家に着くと、再び続きを書き始めた。これではまるで自伝みたいだが、自伝を書くつもりは更々ない。最初からそうだ。私の人生なんて、誰の興味も引かないだろう。勿論、理由はそれだけでない。自伝や私小説ほど馬鹿らしいものはないからだ。
自らについて語ることには自己愛の問題が付きまとう。文章を書くとは演出することだ。どんな書き手も読み手に与える印象を考慮せずにいることなど出来ない。書くという行為には印象操作の問題が付きまとう。よって、もし自らについて語るなら、作者はある程度自分自身に対して無関心であることが求められる。この世に美しい自叙伝、美しい私小説があるとすれば、それは作者が自分に関心を持たない作品である。
執筆と印象操作の問題が切り離せない以上、文学にはナルシズムの問題が付きまとうこととなる。間接的であろうとも自分の考えを語らなければならない作者は、それをどれだけ説得力のあるものにするか、あるいはどれだけ美しく見せるかを考えることとなる。それは読み手に与える印象を、効果を考慮することの代償である。書くという行為には演じるということ、騙すということと密接な関係にあるのだ。よって優れた文筆家は、それだけ美しい言葉で人を騙すのが上手い者あり、自分以外の人間を演じるのが上手い者である。
これは文章を書く上で、人が何らかの形で直面しなければならない問題だ。
不幸な人間にはある特殊なナルシズムがある。不幸な体験をするほど、人は自分の不幸に誇りを抱く傾向にある。不幸が人を特別にする。過去に負った傷の深さ、そしてそれを耐えてきた自分への憐れみ。誰もそれを抱かずに生きることなどできない。自分が容易に理解されることを拒む一方で、誰かに受け入れられることを切望している。自分より辛い過去を持っているのに、自分より楽しそうに生きている者には劣等感を覚える。自分のものよりも特別な不幸が許せないのだ。
この「不幸のナルシズム」とも呼ぶべき現象は、かつて文学が抱えている問題でもあった。否、それは今なお文学によく見られる問題と言っていかもしれない。良心の呵責、罪悪感、悲しみへの趣味は、人が自分を可能な限り弱く見せることに繋がる。こちらの心を揺れ動かすのは、こちらに共感を促す相手の弱さである。私が誰かを愛するなら、それは自分の弱さと相手の弱さの面影が重なるからだ。鋭利で狡猾な知性を持った作家たちは、そのことをよく理解していた。
事実、愛されることを求めて、あるいは名声を求めて、自分を必要以上に弱く見せる人間がどれほどいたか。ある人の善良さとは、そのままある人の弱さの表れである。自らを弱き者であるとして、善良な者であるとして、悲しくも美しい者であるとして演出した作家が、かつてどれほどいたことか。しかも彼らの中には、類まれな才能の持ち主すらいたのである。
ジッドやダンテは極めて優れた文学者であった。しかしこれら不幸のナルシズムの問題に直面した今、彼らのことを心から肯定できないのは明白である。『田園交響楽』は涙無しでは読めない小説であり、『新生』は西洋文学史において傑出した詩文集である。しかし、どちらもどれだけ多くの欺瞞を含んでいることか。作者が自己言及する手段として文学を用いる時、文学は言い訳の手段として援用される。自分を美化して語るための手段になるのだ。『田園交響楽』を書く上で一番苦しんだのは、作者ジッドではなくその妻である (『田園交響楽』で彼女がモデルとなったキャラクターは、思慮がなく主人公達の恋愛を邪魔する存在として描かれている) 。そして、実際のダンテの創作生活を支えたのは、運命の女性ベアトリーチェではなく彼の実際の妻である (にも関わらず、ダンテは死んだベアトリーチェに「あんな女と結婚して」と『神曲』の中で語らせている)。
勿論そのおかげ傑作が生まれたのは事実だ。しかし、都合の悪いことを覆い隠してまで、美しい物語を求める必要はあるのか。誰かの苦しみに無関心でいてまで、この世界を美しく見せる必要はあるのか。かつてトーマス・マンはこう書いた。「自分を大切にするよりも、自分を傷つけた方がずっと道徳的だ」と。マンの小説を熟読していたのも数年前の話になるが、それでも尚、上の言葉は頭に残り続けている。私には、自分を大切にするよりも、自分を傷つけた方がずっと道徳的だと思われる。倫理とは美徳の中にではなく、その反対のもの、危険で有害なもの、こちらを破滅させるもの、悪徳の中に飛び込んで求めなければならないものだ。倫理的な人間とは決して徳の高い人のことではなく、むしろ悪の中の、罪悪の中の冒険家であった。彼らは皆、悲惨を前にして正義を求めようとした偉大な罪人であったのではないか。
21/12/21
十月末から書いていた小説をやっと書き終えた。合計約六万字であるが、正直、こんなに苦労するとは思わなかった。明日から一日一章ずつ投稿して、年内には全編読めるようにするつもりである。
書いたものについて、公開する前から強いて言いたいことがあるとするなら、それはあまり重く捉えないで欲しいということだ。多分私は、ひとに誤解を与えやすい性格をしている。あるいは、好んでひとに誤解を与えていると言っていいかもしれない。今日まで、このブログを読んだ人のなかで、私のことを暗いやつだとか、神経質な人だとか、もしくはもっと好意的に、繊細な人だと思ってくれた方もいるかもしれない。しかし、実際の私はそんなこともない。ガサツで、あんまり深く物事を考えられない、嫌な奴である。
哲学が好きだと、よく「考えることが好き」だとも勘違いされる。しかし、他の人はどうかわからないが、少なくとも私は考えるのが苦手である。特にひとの気持ちを考えるのが苦手で仕方ない。哲学(と言っても好きな哲学者は限られているが)のいい所は、考えればある程度答えが出るところである。よって他人の感情の嫌な所は、考えても答えが出ない点にある。
あらゆる関心は無関心に至るための過程である。本来、自然は私達に無関心である。そこには善もなければ悪もない。人はまさに関心を通して無関心な自然の本質を垣間見るが、しかしその本質を垣間見た瞬間、持っていた関心は薄れていくものである。人はよく、無関心を悪だと考えたがる。しかし、私はそうは思わない。関心を寄せられているということは、観客がいるということだ。つまり、それは自分を監視する人間がいるということでもある。無関心というのは、誰もこちらのことを気にしないということ、つまり現世における究極の自由を意味する。私は自尊心の塊だから、ある程度他人から尊敬されたいと思っているが、一方で、自分に対しても、他人に対しても、ある程度無関心を大事にしたいとも思っている。他人の目がないところで、人は初めて自由になれる。他者なき世界に至ることで、人は初めて能動的になれる。その世界をこちらが望むか望まないか、それはまた別の問題であるのだが。
ドゥルーズはかつて「哲学とはある程度独我論的なものである」と述べたことがある。確か『差異と反復』の結構後半の方で触れていた。その考えは、恐らく晩年に至るまで変わっていない(『哲学とは何か』の中でも似たような話題が出てくる)。以前、読書会で「ドゥルーズは自と他の境界線をどう考えたのか」と質問されたことがあるが、なるほどドゥルーズは自と他を明確に区別はしなかった。しかし、自と他の境界線がない世界とは、いわば究極の孤独を意味する。そこには自分しかいないのだから。私は哲学者ではないから、そこまで到るつもりはないが、ただ「ある哲学の完成」とは、まさにそういうことなのだと思う。ひとつの哲学が完成する時、それは、自分しかいない世界に到達すること、究極の意味での孤独にたどり着くことである。自分の観点を徹底した先にしか思考の発展がないのならば、哲学の行き着く先は紛うことなき孤独なのである。
話が逸れてしまった。書いた小説については、皆好きに読んで欲しいと思っている。ただ、さっきも書いた通り、私が病んでるとか、悩んでるとかは、あんまり考えないで欲しい。もっとも、そんな心配をかける人がいればの話だが。知人友人で、恐らくこのブログを読んでくれてると思われる方で、私の書く内容を読んで、心配気味というか、結構気を遣った態度をとってくれる人がいる。そういう人を前にすると、何だか申し訳なくなる。私はあなたが思ってるよりもずっと馬鹿だし、脳天気な人間である。そう言ってやりたいが、そうすると今度は向こうに更に変な気を遣わせるのではないかという気持ちになってしまい、接し方が難しい。
今、私の周りには、会う頻度は異なれど、私を信頼し、慕ってくれる存在が多少なりともいてくれる。私は、そういう人達を失いたくないと思っている。人が自分に対してどんなイメージを抱いているかは、正直に言うと、あんまり考えたくない。めんどくさいし、疲れるから。ただ、それでも考えることがひとつある。それは、ざっくり言うと以下の通りだ。
私はよく、過去の自分を否定する。ああ、あの時の俺は馬鹿だったなとか、とんだ恥知らずだったなとか。このブログがいい例だ。もう四年近く書いているが、半分以上の記事を非公開にしている。理由は単純で、読み返すととてもじゃないが目を通せない代物ばかりだからだ。あまりにも考え無しに書いていたというか、内容が気持ち悪くて吐き気がするものが多い。よくこんな生き恥を晒してのうのうと生きていたなと思う。我ながらゾッとするほどだ。
このように、今日まで私は自己否定を繰り返すことで生きてきた。そして、それが間違っているとは微塵も思っていない。
ただ、間違っていないとは思うのだが、ふと別の考えがよぎったのである。私が「読めたもんじゃない」と思ったものを、中には好んで読んでくれている人がいたのである。まあ、ごく少数かもしれないが、どうやらそういう物好きもいるらしい。そういう人達のことを想うと、ちょっと申し訳なくなるというか、悲しくなる。自分が軽蔑しているものを、向こうは愛してくれているわけだから。
もしかすると、過去の自分も、私が軽蔑して捨て去った自分も、そんなに悪いものじゃなかったのかもしれない。
先程「あらゆる関心は無関心に至るための過程である」と書いた。それはドゥルーズについても言えることだ。「読まざるを得ない」と思うものがあるからこそ読んでいるが、正直に言えば、早くほかの作家の本をもっと読みたいし、ドゥルーズに対して無関心になれたらと思っている。今年は、ドゥルーズの著作と『マルテの手記』以外の一切の書物も通読することがなかった。ドゥルーズを読むのに夢中になったせいで、手を伸ばす予定を延期した本が沢山ある。そのせいで、私がどれだけ困っていることか。そう、あらゆる関心は無関心に至るための過程である。私はドゥルーズ哲学を徹底することで、ドゥルーズ哲学の外に出たいのだ。
『マルテの手記』について、今月、二年ぶりに通読した。およそ日本語に訳された外国の書物の中で最も美しいものである (私は新潮文庫から出ている大山訳の『マルテ』を指している)。自分の小説を書く上で参考にしたいから開いたのだが、読み始めると、まるで初めて読んだときのような感動の連続であった。こうして考えると、昔の自分は何も理解出来ていなかったんだなと思う。私はリルケを、『マルテの手記』を誤解していた。これがどれほど優れた書物であるか、それを見誤っていたのである。
ああ、出来ることなら、いつか本格的なリルケ論を書きたい。詩人を論じると言うと、どうも感傷的になるきらいがあるが、そういった一切の弱さ、甘えを排した、硬質で、力強い、科学的なリルケ論を書きたい。そのためには彼の書簡を一通り読み漁る必要があるし(リルケは手紙が好きだったから、彼の書簡は膨大な量に渡る)、ドイツ語を深く理解している必要がある (哲学者はともかく、詩人を論じるにはその言語に精通しているのは最低条件である)。間違いなく、少なく見積っても十年はかかる作業である。今はまだ出来ない。明らかに力量が足りないから。しかし必ず、必ず書いてみせる。もう願望だけを垂れ流すのはやめにする。絶対に書いてみせる。
書いた小説について言えば、結構面白い自信がある。が、書き終わってから数多の課題があることに気がついてしまった。そういう意味では、発表する前から、これが失敗作であることを痛切している。その点については、また後日触れるとして、今はただ、ネットに小説を掲載することの意味について書きたいと思う。
本当は、今日書き終わった小説を何処か有名な文学賞にでも応募するつもりでいた。が、大抵のサイトの注意事項欄に「未発表原稿に限る」と書いてあった。唯一、発表された原稿でも応募可能な新人賞があったが、それも「二万字以内に限る」とのことだった。正直に言うと、できる限り早く、可能な限りたくさんの人に読んで欲しいから、今回の賞の応募は見送ろうと思う。自分の出来る限りのすべてを注いで書いたから、早く誰かに読んで欲しいのである。
が、それで終わらせるつもりはない。来月からは、毎月一遍ずつ、十ページ二十ページ程度の短編小説を書いていくことにした。その中で、出来のいいのを賞に応募する予定である。嬉しいことに、頭の中には書きたい案が沢山ある。それを一つ一つ実現していくことにした。これも予め宣言しておこうと思う。結局一遍も書かないなんてことがあったら、自分が恥ずかしくて仕方なくなる。逃げられないよう、人目につくここで釘をさしておこう。
良くも悪くも、私はネット世代の人間である。ただ、正直に言うと、自分はあまりSNSが好きではない。皆がいつも他人の目を気にして演技をしているし、不愉快な、馬鹿の集う場所だと思っている。一方で、SNSを含むインターネット全般が、私達に新しい出会いを可能にしたのは事実である。それは人間関係だけでなく、本や音楽、映画についても言えることだ。少なくとも、YouTubeやSpotifyがなかったら、私はこんなに広く音楽を聴くことは出来なかっただろう。事実、ネット世界の発達は私を含む大勢の人に多くの恩恵をもたらした。インターネットはかつて不可能であった出会いを可能にしたのである。それは実にロマンチックな話だ。
恐らく、我々ネット世代の直面するべき課題はそこにある。インターネットの与えた恩恵を認めながら、どれだけそれを批判するか。その遺産を受け継ぎながら、いかにそれを否定するか。SNS以降の世界の病理を、いかに乗り越えていくか。
まあ、それはさておき、ネット上に自作の小説を公開することはそれなりの意義があるように思われる。意外な人がそれを読むこともありえるだろうから。そこから、本来繋がりがなかった二つの点が繋がることも可能になるのだ。真に創造的な思考が生まれるのは、まさにその時である。奇跡が起これば、夜空には新しい星座が生まれる。私の書いた小説のおかげで、そんなことが起きたらなと空想している。
民衆的で科学的な哲学。ドゥルーズはかつてヒュームの哲学をそう評したことがある。私の小説も、いつかそんな風に親しまれたらいいなあと期待している。これは私の夢である。ある種の民衆的で科学的な小説が実現するのだ。あとは「可能な限りたくさんの人に読んで欲しい」と書いたが、そんな大々的に広まって欲しいとも、実は思っていない。ただ、気に入ってくれた人たちの間で、こっそり読んでもらえたらないいなあと思っている。感想も特にいらない。ただ、心に響いて、「ああ、いいなあ」なんて思っていただけたら、この上ない幸福である。
矛盾しているように見えるだろうか。
私は変わってしまった。昔に比べて、醜い人間になったかもしれない。それでも、私が変わる前を知っていて、そして私の前から去ってしまった人にも読んでもらえたら、幸いである。確かに私は変わってしまった。しかし本質的には何も変わっていないのだということを知ってほしいから。
無論、それが書いた目的のすべてではないのだが。
21/12/09
最近、小説を書いている。二部構成を予定していて、そこにエピローグも加えようと思っている(場合によっては、このエピローグが短いながらに第三部となるかもしれない)。先日、第一部を書き終わり、今は第二部の途中を書いている。タイトルは『表現と結晶』である。
名前の通り、表現の問題と結晶の問題にまつわる物語を書いている。わかる人にはわかると思うが、この二つのテーマは、ドゥルーズ哲学における力の問題、時間の問題を意図している (ドゥルーズ哲学において、「表現」は力の問題に関わり、「結晶」は時間の問題に関わっている)。『漫画でわかるマルクス資本論』みたいな感じで、小説でわかるドゥルーズ哲学入門、そんな風に読まれたら嬉しいと思っている。
勿論、他にも意図は含まれている。ある意味では、これは大いなるパロディ小説である。私の好きな作品からの影響をモロに採り入れているから。また別の意味では、これは壮大なるギャグか、あるいはコメディである。どれくらいの人が読んでくれるかは知らないが、みんな私の小説を読みながら笑って欲しいと思っている。
他にも色々語りたいことはあるが、この辺でやめておこうと思う。作品を説明する必要などない。作品が語るべきことは、全て作品が語っている。本来、作者から言うべきことなど何一つとしてないはずだ。どうして人は、作品に意味や説明を与えたがるのだろう?どんな解釈を与えようがひとの勝手である。個人とは作品が生まれるための媒体であり、影に過ぎないのだから。
本当は書き終えるまでブログを更新しないつもりでいたが、近状報告も含め書くことにした。
しかし、書く前は言いたいことが沢山あったのだが、いざ書き始めると、一体何を言えばいいのかわからなくなる。思えばいつもそうだった。色々なことを話すつもりだったのに、いざ本人を前にすると何も言えなくなる。そんなことを今日までに何度か経験してきた。
それでもただ一つ、あえて書こうと思ったことがある。それは幻影の問題だ。
今日までの人生を振り返ると、自分がいつも幻影に突き動かされてきたことに気がつく。不意に見えた別の世界線が忘れられないのである。あと少しでそれに手が届きそうで、やっと掴んだと思えばその場からいなくなっている。だからまたそれに手を伸ばそうとする。が、やはりあと少しのところでそれは離れていく。だから再び幻影を追いかける。しかし、いつまで経っても欲しいものは手に入らない。そして気がつけば、あまりにも多くの時間が無駄に費やされている。振り返ってみると、何年間もの空白がそこに広がっている。
人は印象的なものと真実的なものを混同して考えてしまうものである。一瞬のうちに見た、あまりにも印象的なものが忘れられない。それが真実に思えてならない。比べると、他の全てがあまりにも凡庸に、退屈に見えてしまう。だから追いかけざるを得ない、再び、あの時の輝きを。こうして麻薬常用者のように、自分の穴に落ちていく。実際、私はそのように堕落していく人を今日までに何度か見たことがある。そして何より、私自身もまたそのうちの一人かもしれないのだ。
今日まで、幸福の幻影を追い求め生きてきた。ふとした瞬間に見てしまった、別世界線の自分を追い求めてきた。実を言うと、高校生の頃は銀行員になるのが夢だった。本とか音楽とか映画とか、色々好きではあるけれども、最終的にはいい大学に行き、そこを卒業し、銀行みたいな無難なところに就職し、家庭を持ち、幸福に暮らすのだと思っていた。大変ありきたりな表現になるが、私は「ふつうのしあわせ」に憧れていた。
結局、大学には行かなかったのだから、私の夢は断念されたと言っていい。しかしそれでも、心のどこかで自分の憧れていたものが手に入るような気がしてならなかった。まさに幻影を追い求めていたのである。私は幸福の幻影を見てしまったのだ。あと少しで、自分がずっと求めていた「皆と同じ幸せ」が手に入るかもしれない。そう考えると、いてもたってもいられなかった。だからもがいた。そしてもがいた結果として、ただ無駄に時間が過ぎたことだけが明らかになった。
しかし、今でもなお幸福の幻影を見ることがある。もしあのとき別の選択をしていれば、もしあのときあんな事をしなかったら、もしあのとき、自分が間違っていたことに気づけたら、もっと別の生き方ができることに気づいていれば、私の生きる世界はもっと違っていたかもしれない。もしかしたら私は、ずっと追い求めていたものが手に入ったのかもしれない。幸福になることが出来たのかもしれない。そう思うと、やるせない気持ちでいっぱいになった。そうだ、もしそれが手に入るなら、私は今日まで積上げてきたものすべてを投げ捨てるだろう。そしてその方へかけ出すだろう。もし私の求めてきた「たった一言」が手に入るなら、全てを打ち捨ててしまうだろう。
しかし、自分のこのような情熱が馬鹿らしいもので、向こう見ずで、ろくな結果をもたらさない事も知っている。それは今日まで散々経験してきたことだ。
最近になって、やっと自分が幻影を追い求めていたことに気がついた。そして結局、自分には文学や音楽くらいしかやることがないのだということにも気がついた。だからやっとやる気になった、そのはずなのだが、そう思った矢先に、また見てしまったのである。幸福の幻影を、別世界の自分を。そうだ、もっと私が利口に生きて、もっと他人の気持ちを考えることが出来たならば、もっと違った未来を獲得することができたかもしれない。焦燥感に身が焼かれ、胸が張り裂けそうなくらいに苦しくなる。出来ることなら、今すぐにでも走り出したい。そして再び手を伸ばしたい。まだ手遅れではないのかもしれない。しかし、ここで諦めをつけなければ、私はいつまでも同じ過ちを繰り返して終わりな気がしてならないのである。
あと書きたかった内容としては、政治と個人の倫理についての問題と、音楽と身体性についての問題がある。しかし、今はちょっめんどくさくて気分が乗らない。とりあえずその辺は今度書くことにして、ひとまず今日はここでやめようと思う。