暗い感情にはそれ固有の優しさがある。時に人は、自らをいざなう甘い憂鬱に酔うこともあるだろう。絵の具がこぼれ、次第に空を染める紅色のよう、胸の内からは悲しみにも似た喜びが溢れ出る。じんわりと、じんわりと。今、心臓は夕闇に沈む。海に溺れながら…
人は現在の都合によって過去の解釈を変化させる。大抵の場合、何かが好きだと公言することは、それによって自己を保とうとすることの表れである。ついこの間まで恋人への愛を声高らかに語っていた女性も、もっと感じのいい男が目の前に現れればそちらに気を…
"Cause if we knew where we belong There'd be no doubt where we're from But as it stands, we don't have a clue Especially me and probably you" 知的であろうとすれば、人は何かしらの形でスノビズムに陥らざるを得ない。知らないものについて語ろ…
父と最後に会ったのは二年前である。時期はちょうど今と同じ頃だったと記憶している。それ自体、数年ぶりの再会であった。食事中、父は驚くべきことを言った。曰く「最近マッチングアプリを始めたんだが、会った相手にむちゃくちゃ金をせびられた」というの…
生きるとは凡庸さを受け入れるということだ。ならば、何故こうも多くの人は非凡であることに憧れ、また凡人であることを蔑視するのか?なるほど、非凡なものが特別に見えるからというのもあるだろう (だからこそ人は病的に、あるいは不幸になろうとする)。し…
死別して以来、昔飼っていた猫の夢を度々見る。名はララという。ララとは十年以上の時を共にすごした。習慣が事実に靄をかけているのだろうか、今でも彼女が死んだことを不思議におもう。死に際に立ち会ったにも関わらず、玄関を開ければ、今でも迷子になっ…
キリスト教徒であった頃、私は比較的熱心な信仰の持ち主であった。墓場のように暗いメソジストの教会は、私を含め、人生に打ちのめされたような顔をした人が多く集まった。夜の帳が下りる頃、日曜の礼拝堂で神にお祈りを捧げた。無論それは昼にも行われたし…
それは初めてバツを食べた時のことである。先日、友人との会話でそれが話題にのぼり、ついあの官能的な瞬間に思いを馳せた。自制心が強いからか、あるいは単に臆病な性格をしているからか、もしくはそのどちらもなのか。真実は常に不明瞭なものだが、それ以…
再び読書が捗らない日々を送っている。一つの本に集中しようとしても、思い浮かぶのは別のことばかりである。そして巡らせるのはいつも同じ思考だ。どうすれば過去をやり直せるのか、いかにすれば過去のあやまちを償うことが出来るのか?しかし、それは少々…
本や音楽は危険だ。感動は枯渇した精神を潤すが、同時に人を死に近づける。「芸術は人を幸福にすると同時に老けさせる」とは、トーマス・マンの言葉である。刺激は麻薬だ。一つの刺激に慣れると、それ以下のものに退屈を覚え始める。胸を揺さぶる読書体験を…
その日、Aの口調はいつもと異なっていた。突然かかってきた電話からは、てっきりいつものような世間話が待っているのだと思っていた。しかし違った。電話越しに聞こえてくるのはあまりにも切羽詰まった声である。そして聞かされた内容は、それまでの彼からは…
ドゥルーズは本を道具箱として利用することを推奨する。この発想はプルーストに由来する。本とは望遠鏡のレンズのようなもので、読者はそれを通して世界を覗く。もしピントが合わなければ、別の本を開けばいい。それが彼らの考えである。一方で、ドゥルーズ…
現実の難しさは、そこに悪役がいない点にある。苦境に立たされると、人は裁くべき相手を、責任を負うべき何かを求めるようになる。しかし、もしそれが存在しないならば、たとえ絶叫しながらだろうと傷跡が残されるのを眺める他ない。それこそドゥルーズがア…
"アントニオーニが言うように、もし我々がエロスを病んでいるというのなら、それはエロスそれ自身が病んでいるからである。それが病んでいるのは単にその内容において老化し、消耗してしまったからではなく、既に終わった過去と出口のない未来の間で引き裂…
哲学は人生論ではない。哲学を「人生の問題」に片付けてしまっている人の意見は、大抵つまんないというか、興味が持てない。なるほど多くの人は、「人生の答え」とも言うべきものを求めて哲学の門を叩く。しかし、この「答えが知りたい」という態度ほどナル…
I'll be your mirrorあなたの鏡になるReflect what you are, in case you don't know知らないのなら、あなたが何かを映し出すI'll be the wind, the rain, and the sunset風に、雨に、夕焼けになるThe light on your door to show that you're homeあなたの…
不思議なもので、病んだ人は癒えるのを恐れる。病人にとって、健康になることは今の自分が失われることと同じである。消え去ることは死ぬことよりも恐ろしい。だから好んで病的な状態に留まることとなる。 人が何かを愛するのは、対象が想起させてくれるもの…
高校生の頃、漫画の『惡の華』に強く胸を打たれていた。もう長らく読んでいないが、しかし場面の随所は今なお深く記憶に残っている。 漫画は中学生編と高校生編に分けられる。前者において注目すべき点は、性転換したニーチェとも言うべき構図が機能している…
「傷口を見せあう愚かさ/そこから生まれる言葉は」 書くという行為にはある種の愚かさがある。読まれることを意識して書く以上、どんな言葉も対象を意識したものへと変形される。SNSのつぶやきが奇妙に映るのは、それが独り言であるにも関わらず、常に他者…
マーラーの交響曲には自閉的な美しさがある。『千人の交響曲』という別称からもわかるように、規模が大きく、演奏する上で多くの奏者を必要とする。しかし、それは何処までも他者に対して閉ざされている。まさに無人の城だ。マーラーの音楽には説明が介在し…
結局、ここまで徹夜で書いてしまった。元々眠るのが怖かったから、丁度よかったかもしれない。 これを読んだら、君はなんと思うだろうか。正直に言うと、未だに自分の行いを悪いと思えない。あんなおばさん、どうせ生きても死んでも大して変わらないはずだ。…
夜の八時であった。暗がりを歩いていた。青白い街灯の下を通る度に、辺りには俺達以外の誰もいないように思えた。互いに雰囲気が昔と違っていた。制服を着ていないから当たり前かもしれなかった。しかし、何かが決定的に異なっているのであった。それでも変…
何故人を殺さなければならなかったのか?あるいは、何故殺す必要があったのか?自分でもわからない。ならば、次のように問おう。何が自分を殺人に走らせたのか?あの瞬間、横切る女性を目にして「実行しなければならない」という思いを強く感じた。それは何…
その後も何度か老婆の家に顔を出した。その都度、快く迎え入れてくれた。俺は老婆の話し相手になった。話す内容はほとんどいつも一緒だった。親族が相手をしてくれないこと、誰からも忘れられてること、故に孤独の相手をしてくれる者がいて嬉しいこと。 「そ…
大抵の場合、連続あるいは無差別殺人の最初に犠牲者になるのは女性か子供である。それは単に腕力の問題だけではない。殺害者側が男性の場合、同性よりも異性の方が、大人よりも子供の方がずっと誘惑しやすいからだ。よって殺害者が女性である場合、自ずと最…
何故人を殺してはいけないのか?その問いに答えるのは難しい。しかし、次の問いなら容易い。何故人は他者を殺さないのか?そう、捕まるのが怖いからだ。ならば更に以下のように問いを出そう。何故大抵の殺人犯は捕まるのか?ラスコーリニコフが、それについ…
何故人は犯罪に走らないのか?思うに、その理由は二つあるに違いない。一つは単純で、捕まるのが怖いからだ。言い換えるならば、大抵の人は、捕まる心配がないとわかれば容易に犯罪に走る。事実、軽犯罪なら大抵の人は経験済みだろう。しかしより大きな規模…
あらゆる生誕には何処かしら悲劇的な側面がある。誰も今の自分を望んで生まれるわけではない。生を肯定することは偶然を肯定することである。我々の実存は偶然によって形作られるから。 どんな発見にも知ることの喜びが含まれる。ボードレールも指摘していた…
美しい文章は誰でも書ける。これは決して誇張ではない。書こうと思えば、それは誰にでも書くことが出来る。ニーチェは美しい文体の定義を「声に出して読んだ時、それが美しく響くかどうか」として考えた。彼によれば、ドイツ語で書かれた最も美しい書物はル…
今から約四年前のことだ。その日、私はYと小田原で遊ぶ約束をしていた。前日に静岡で用事があって、その帰りに小田原を通るのだが、以前どこかで彼女が小田原付近に住んでいると聞いたことがある気がした。だから小田原で集まらないかと、私が提案したのであ…